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磯根ハマヒルガオの「グリーンネットふっつ」

「グリーンネットふっつ」のホームページへようこそ。

 「グリーンネットふっつ」は磯根岬のハマヒルガオの復元を主な活動としてやってきましたが最近は一歩進んで海岸植物の栽培と活用を手がけています。

 また、郷土の先駆者苅込碩哉の著述・講演などの足跡記録、収集が2千点を越えた地域の古写真復元などもやっています。

 さらに、郷土史の掘り起こしとして、ずさんな石組みにはわけがある弁天山古墳、古代人の住居ではない絹横穴古墳群、運慶作かも知れない道場寺の宝冠阿弥陀像、江戸時代初期には天守閣があった佐貫城、富津市全域に広がっている富士信仰を中心にした富津の石造物や、富津の最古寺の一つであり鎌倉新仏教(西大寺流真言律宗)をいち早く取り入れたように見える岩富寺、幻の上総安国寺、古式の神社建築を昭和時代まで引き継いできた鶴峯八幡宮などを紹介していきます。

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 以下には、ローカルニュース及びグリーンネットふっつからのお知らせをのせてあります。日付の新しい順に並んでいます。

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 今のハマヒルガオ写真、ハマヒルガオベストショットは、「磯根岬と周辺の海岸植物保全」のページに入っています。規約、事業計画、予算などはページ最下段のサイトナビから入っていけます。

        最終更新日 2018.1.11

以下の記事は一定期間の掲載後削除しますが、テーマ分類して各ページに収納します



   磯根石と弁天山古墳動画が出来ました

 弁天山古墳の石室の石は磯根石が使われています。磯根石が生まれるには数十万年の歳月が必要で、沈下→堆積→隆起→崖崩れで数メートルから数十センチオーダーの塊化→沈下→まわりに粘土・砂等が堆積→隆起→崖崩れ→まわりに皮をつけて海岸に転がる→数年で(A)皮がはがれて中身だけの大きな、または小さな塊になる、(B)皮がはがれにくく骨材を含んだコンクリート塊のようになって安定、(C)骨材が小さいか少なくて皮だけで溶岩のような形状の塊になる、の3種類となります。

 ここで、(A)は中身の石の違いでさらに(あ)軽石質粗粒凝灰岩と、(い)細粒凝灰岩の二つに分かれます。(あ)、(い)共に表面が滑らかで特に(い)は第1回の転石時期か、第2回の時期かは不明ですが穿孔貝に孔を開けられ虫食いのような形状になっているものもあります。この(い)が古墳使用の主流の石で内裏塚古墳群はもちろん、佐倉、佐原、横芝などの古墳群、東京下町の古墳群、埼玉の古墳群でも見られます。磯根石は関東南部では古墳石のブランド品だったのでしょう。

 弁天山古墳では(A)の(あ)、(B)、(C)が使われています。

 今の磯根海岸でも(A)、(B)、(C)が見られますが、数メートルオーダーの(あ)は見られません。大きな(あ)はもともと希少だったのでしょう、弁天山古墳だけでなく内裏塚古墳群でも使われ枯渇してしまったのかも知れません。

 弁天山古墳の石組みは出来が極めて杜撰です。同時代の群馬県の古墳などと比べると恥ずかしい位です。これは、石組みの技術がなくてこうなったのではなく、海岸に転がっているものを加工することなくそのまま使ったからでしょう。磯根石は非常に脆く下手に加工すると割れることがあるので加工を嫌った点もあるのでしょうが、上総の古代人が死者を葬るに、変に技巧に走った技術で整える石室を使うことを嫌った、と考えることも出来ます。素朴さを継続することを好む上総人だからむしろこちらの解釈の方が正しそう。後世平安末期奈良京都鎌倉ではフィギアのような運慶派の仏像が流行していましたが、千葉の武将達はついにそれを嫌いぬいた(千葉には運慶作品がない)ことを考慮するとそう考えられます。

 弁天山の天井石は(あ)の石ですが、その一つの両端に縄掛け突起があるということで国指定の史跡になっていますが、これが人が造った縄掛け突起かあやしいところがあります。実際筆者の小さな(あ)石塊での試みの加工では途中で割れてしまいました。また、本物を観察するに突起の付け根の切りかきが大きく、もしこれを実際に縄を掛けてひっぱたらおそらく割れるでしょう。

 千数百年前の磯根岬で転がっている岩の皮がはがれたら縄掛け突起がついた真っ白い天井石のようなものが出て来た。古代人はこれぞ奇跡・神の啓示と喜んで古墳に使う気になったということかも知れません。



   富津市のヤグラ岩谷堂・岩見堂

 近頃やけに人気が高まった竹岡の燈籠坂大師。素彫りのトンネルを抜けた頂上にあるのは建物の半分が岩の洞窟にはまり込んだお堂です。実はこれは鎌倉時代に造られた「やぐら」という横穴墳墓を祭祀用のお堂に利用しているものです。

 やぐらは鎌倉に非常に多くありますが、1歩外に出るとほとんどありません。ところが富津市地域は知られているものだけで50くらい、実数は百くらいはありそうです。

 燈籠坂大師が知られるようになったのは二輪車のライダーがツィッターなどで紹介したのがきっかけのようですが、岩谷堂、岩見堂もライダーの人気が高いようです。このお堂も元はやぐらです。



   苦闘するグリーンネットふっつ

 昨年秋、特に10月2回の高潮による流木などの片付けに苦闘中です。こんななか、スターバックス富津の人たちが11月24日、12月15日の2回、青堀小教員の人たちが12月16日に磯根海岸の清掃を手伝って頂きました。
 流れ着いた物は木、竹が多いのですが一番始末に悪いのが、古タイヤ、漁具、大型発泡スチロールなどの産業廃棄物的な物、これらの貯蔵の仕方、大雨期待で流れて行ってくれればラッキーなんてことを思っているんじゃないかと疑われる状況です。また、おびただしいペットボトル、瓶、缶がなやましい。リサイクル意識が高まったと思われるのに、これらはいったいどこにあったものだろうか想像がつきません。

 なげいてばかりいても仕方ありません。グリーンネットふっつは細々と時間を掛けて回収しています。とは、云っても、上の2枚の写真、上下で1ヶ月の時間差ですが、下の流木が少なくなっていませんか?
 グリーンネットふっつが片付けたのではなく、実は流木が砂で埋まったのです。磯根の砂の堆積速度の大きさがうかがわれます。そしてこのゴミが、実は砂浜の保水力を高め、今後数年間、草木も生えない荒れ地にハマヒルガオなど荒れ地だけでしか生きられない植物が繁茂する基礎となるのです。
 長年ハマヒルガオを見つめている我々は喜んでいいのか悪いのか複雑な心境です。


   風雪佐貫城符

 佐貫城を理解するのには城郭研究家小高春雄さんの著書「君津の城」に載っている佐貫城図がいいようです。東の宝竜寺、さらに館山道工事で消滅した八幡下遺跡と根木田入口山脇砦遺跡を含み、西の比叡神社まで描かれていますので、佐貫城の縄張りをした人の意図が読み取れそうです。(「君津の城」は大多喜城博物館で販売)

 これを基に実際の佐貫城跡を見て、また三種ある古絵図を見たりした結果、佐貫城の設計の当初は西の北上川、東の来光寺川(仮称:染川の支流)、南の染川を外堀とし、牛蒡谷を城内としてここの田畑住居住民を守ることを目的としていたように見えます。それならば佐貫城の正面は現国道127号線の東側の丘陵端の切岸列であって、館山道側は城内である、と言うことになります。実際に正面側(国道127号側)は高低差10から20mの大切岸が南北に約500mと続きますが、裏面側(館山道側)の切岸は2,3mの所(現佐貫城正面と考えられている場所)もあり、きわめておとなしい感じがします。

 時代が下って牛蒡谷を城内から外し、根木田砦などを放棄した結果、佐貫城を単独の独立の城と考えると、現正面の三の丸南の守りが弱いと言うことになり、そこで何をしたかというと信長・秀吉流の水堀の内堀を造ったのです。鬼泪山の麓の染川の水源のひとつを高さを減じずに佐貫城まで導き、佐貫城の三の丸の南と西を水堀とし、余った水を染川に落とす。牛蒡谷でこの水路と来光寺川が水道橋で立体交差する。これらの工事はおそらく内藤家長がやったことと思われます。関八州の新らしい覇者・二百万石の巨大大名の徳川家康の資金を当てにした工事ですから内藤さんは随分と金をばらまいたことでしょう。バブル絶頂期の市役所と同じでそれ行けどんどんだったはずです。

 さらに時代が下って城の水堀など意味が小さくなって、誰も権威を感ずることもなくなって、これを農業用水にしたのが関山用水ではないかということです。佐貫城下の殿町(侍屋敷がある)に新たに溝を造って、日枝神社のところで佐貫城水堀排水路とつなぎ、城の堀の捨て水を農業用水に回してくれというのが農民の願いであったのです。要するに佐貫城の大手門前を横切っている水路は関山用水と名付けられる以前に戦国時代末期にはすでに出来ていたのです。宝永の絵図面(廃城50年後の状況図)を見るとそう考えざるを得ません。

    まず知られている佐貫城から

 人物を入れて景観の大きさが分かるようにして佐貫城を紹介します。順番は、まずエコノミークラスのおとなしいフォトスポットから始めて、切り岸(崖)、堀切、岩のプール(仮称:佐貫城のヘソ部分。司令所?)、そして最後に二ケ所の展望台です。

    エコノミークラスのフォトスポット

 三の丸の隅櫓(太鼓櫓)跡。金谷石の石垣があります。佐貫城で一番城跡らしいところです。ただしこの場所が不動とすると隅櫓の東に大手門があったとされる佐貫城の大手通り幅は貧しい民家と同程度となってしまいます。

 土橋と横堀(畝堀)がセットになった佐貫城のフォトスポットです。本丸側から二の丸を見ています。箱庭みたいでかわいくておとなしい。この感覚は久留里城、岩富寺、本納城などと共通です。

 二の丸から土橋、本丸虎口方向を見ています。本丸の土塁がおとなしい。

    佐貫城の多彩な切岸(崖)の表情

 本丸西端から下をのぞき込むと谷は随分と深いことに気がつきます。その先は国道127号です。上から10m以上落差があります。杉林になっています。草木が生い茂っていて下の方からはこの崖に近づけないのが残念です。崖は北の展望台部分が凝灰岩で南の展望台は粘土(柔らかい泥岩:佐貫層?)崖、あとのその間は土です。土の部分の崖には樹木が繁茂しています。

 本丸館山道側の切り岸と平場(現在畑)です。高さは5mくらいに見えます。崖は笹藪で土質は土のよう。一般生活平面はここからさらに5mくらい下とは言えおとなしい感じです。
 画面奥の柵(小さくて見にくいですが)のところが本丸・二の丸間の横堀の東末端です。単に溝が降りてきてそこで終わっている。これだと堀を伝って城内に入っていけますよね。宝永の絵図面ではここは侍屋敷跡となっています。

 本丸八幡郭(北の展望台)下の切り岸です。地層の縞々が見える凝灰岩のようです。

 三の丸最奥(北端、国道127号側)の大土塁です。画面で平場になるのは人の立っているさらに3m下です。この下の平場は宝永絵図面では空堀跡と書かれており今でも約20m幅があり、その北端に10mの崖があってその下が一般生活面の田んぼなどになります。通算で三の丸最高所平場から2mの額縁状の高み土塁があってそこから外へ10mの崖、その下が20m幅の空堀で、さらに10m下って生活面田んぼとなります。館山道側に比べて峨峨とした感じで、これに仮に切り石でも貼り付けたら三の丸・本丸と合わせて高さ20m、長さ500mの城壁が出現します。

    堀切りの構造

 佐貫城北側の大堀切です。

 北側堀切そばの苔に覆われた崖。上総の古道の雰囲気です。

 佐貫城西側の大堀切です。三の丸西側の防御施設です。
 尾根筋通行を遮断する堀切は反面から見ると城内進入路になります。それを防止するため佐貫城近くの岩富寺の堀切は鞍部 の最上部に岩をくりぬいたバスタブ状の堀を造っていたことが発掘調査で分かっていますが、ここ佐貫城の堀切鞍部を観察すると(人物の立っている足許が)少し凹んでいます。ここに岩富寺のようなバスタブ状箱堀構造が埋まっている可能性があります。

 三の丸北の大堀切近くにある榊の巨木です。後世(明治後?)に境界目印として植えられたのでしょう。今では御神木と云っていいような貫禄があります。他にも数本の榊があります

    ファーストクラスのフォトスポット

 岩のプールの中に入っての撮影。左の縁の下が三の丸最奥部。ここは佐貫城のへそです。

 岩のプールの縁から二の丸切岸を見ています

 岩のプールの中に入っての撮影。中央のU字断面が本丸・二の丸間横堀の末端。堀は土橋方向に下っているので大雨でも滝にならないです。画面で堀の左が天神郭(南展望台)で、右が二の丸となります。
ここは本丸、二の丸、三の丸の境が集中して接している場所で佐貫城のヘソなのです。

    ビジネスクラスのフォトスポット

 天神郭(南展望台)です。左の竹で囲まれいるその下は横堀。底まで5m。右は本丸下の平場まで15m程度。写真では単なる農道の雰囲気ですが竹木を取り除くと細い岬状の場所なのです。

 八幡郭(北展望台)です。南展望台と同じでここも細い岬状です。階段右に小さな石組みがあります。(木の影で見えにくいですが)
 ところで細い岬状の郭は上総の城の特徴のひとつです。久留里城、本納城、秋元城などにも見られます。

 佐貫城の細い岬状郭の名称は江戸時代までここに天神様、八幡様が祀られていたことに由来します。これらの神社は明治40年代になって麓の日枝神社に合祀されました。

 近世江戸時代では、三の丸西堀切を越えて日枝神社までが城内の扱いになっていたようです。しかし、本丸・二の丸はほとんど使われなかった。それでも江戸時代初期には祭祀には使ったでしょうが後期になるとそれも間遠となり、やがて単なる裏山の扱いになったということでしょう。

 以上ざっくりと佐貫城を概観しましたが、佐貫城を時代の流れの中で見ると佐貫城が大発展する客観的なチャンスがあった時期は徳川家康が江戸に入部した天正18年から約十年の間だけでしょう。この時の城主は内藤氏。この時なら例え城主が一万石クラス(あの本多忠勝すら三万石だった)であっても城主の力量・遊泳術があれば徳川家康(まだ将軍ではなかった)の懐に飛び込んで金を引き出し、あるいは天守閣があり、あるいは石垣があり、あるいは水堀が出来たことでしょう(絵図面ではこれらが確かに存在しています)がそれ以後そんな大工事をするような政治経済的なチャンスはめぐって来ませんでした。

 町などが発展するには地元住民のたゆみない努力と富の蓄積だけではどうにもならない点があり、どうしても政治経済的な客観情勢が順風となって吹く必要があります。それが吹くと数年の短期間で大発展するのです。今の佐貫・富津にその芽があるか、具体策はわたしのような凡人には見えませんが大規模災害時にはどうしようもなくなる首都東京の異様な人口過密を解消する手段として昔の別荘でなく生活・組織のツイン並立化、セカンドハウスやセカンドオフィスの誘致などがいいんでないかいと妄想し思うばかりです。

 佐貫城のガイド動画をYouTubeにアップしました。画質がチョット落ちますが興味ある方はご覧になって下さい。

 

 


   ジェンス・コレクションに見る押送船

 1908年(明治42年)ドイツ生まれのアメリカ人写真家アーノルド・ジェンスが日本と韓国を旅行し撮った写真2万点が数奇のいきさつを経てアメリカ議会図書館に所蔵され、しかもインターネットで公開されています。それらの写真で特に日本の田舎を撮った写真が非常に清潔で、景観、人々共に上品で美しいと世界で評判になっているようです。皆さんも是非見ていただきたいものです。そしてその評価、韓国との差などは見る人それぞれの主観にゆだねますが、それとは別に面白いものを発見しましたので紹介します。

 ふるさとの古写真を集めているグリーンネットふっつの人間が閲覧した結果、このコレクションの中に何枚かの押送船らしきものが写ったものがあり、その撮影場所が新舞子、または上総湊または九十九里浜ではないかと思われるものがありましたので紹介します。

 なお写真には場所のデータがなく、掲載順序撮影順序も整理されていません。しかし、あきらかに分かる景色がありますのでそれらを追っていくと、ジェンスさんの日本での観光ルートは、横浜、鎌倉、江ノ島、日光、草津or伊香保、東海道、美保の松原、富士登山、京都、奈良、瀬戸内海、宮島です。東京・大阪らしきものはありません。京都は金閣、銀閣、清水寺、平安神宮で、奈良は法隆寺界隈だけのように見えます。
 このルートを見ますとジェンスさんが房総半島に足を運んだ可能性は非常に少ないと思えますが、それでもいくつかの押送船の写真は新舞子、上総湊、九十九里浜に見えますので皆さんの判断を仰ぎたいと思います。

 男女で遊浴場を分けた海水浴場。「何だ!この清潔感は」と世界が驚愕。新舞子だったらどんなにすばらしいことか。沖に押送船、男性遊浴場に飛び込み台、すぐ深くなる波打ち際、砂浜に散乱するチャート、頁岩などの硬い小砂利(奥秩父の四万十帯起源。長浜層からの離脱小礫)など新舞子らしきものが満載です。以下、2枚も同様。

 船は押送船ですがこれは明らかに鎌倉でしょう。左対岸は小坪方面に見えます。砂浜に砂利がないです。鎌倉・江ノ島海岸には砂利がなかったと記憶。また比較的遠浅と記憶。違っていたらごめんなさい。鎌倉にも押送船があったのは(残念ながら)確からしいです。押送船は上総の独占ではなさそうです。「目に青葉山ほととぎす初ガツオ」は鎌倉から運ばれたようです。芭蕉句に 「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」

 右対岸がかすかに見えますが大坪山・磯根ではなさそう。鋸山でもなさそう。一の宮付近の九十九里浜か、と考えます。(あるいは上総湊?)九十九里浜らしき写真は、この他に4点ありました。

 複数櫓装備の大型船です。しかし、明らかにスマートな上総の押送船とは船型が違います。頑丈そうなので静岡方面の外洋船のように見えます。

 最後に押送船のない写真紹介です。モネの「日傘をさす女」の構図に似た写真です。雰囲気はモネに匹敵します。ほぼ同時代に房総の景色を描いた浅井忠のどこかどてどてした重い色調に対して軽やかで涼しそうで夏の松風を感じさせます。

 以上の作品は「アメリカ議会図書館」、「ジェンスコレクション」のandキーワードで検索すれば出て来ますので是非閲覧して見て下さい。思いがけないあなた自身のふるさとの美しい古写真に出会えるかも知れません。


   続報・新舞子のリセット状況

 10月の秋の大潮で上がった大量のゴミ処理によって、新舞子海岸の草地のリセットが促進されました。その現況を紹介します。

 流木片付けのためオニシバに占拠されていた草地に重機が広く入ったため、オニシバが駆除され広い面積にわたって砂地が露出しました。来年以後草も生えない荒れ地進出のトップバッターであるハマヒルガオの動向が期待されます。

 今回の高潮とは関係ありませんが、最近草地の高台にカタハキミガヨラン繁殖中。ここはオニユリも多いです。

 別荘の人が植えたかクロマツ、ウチワサボテン、カタハキミガヨランが元気です。
以上のような植物が新舞子の次代を担いそうな気がします。今回の30年、50年に一度の高潮によって安定繁栄を極めたオニシバ・コウボウムギの時代は去った感があります。来年以後を期待しましょう。


   海岸植物の「根」比較

 今回の高潮で砂丘が削られ各所で「根」が露出しました。その根を観察しましょう。

 ハマヒルガオの根。直径5mm位です。あまり枝を出さず横に長く伸びる傾向があるようです。

 コウボウムギの根。直径1~2mm。細かい根を下に張るようです。とにかく分枝がすごい状況です。菊などの多年草の根に似ています。

 コマツヨイグサの根。ハマヒルガオに似ている。長く伸びるタイプ。

 オニシバの根。コウボウムギに似て分枝がすごい。下に広がる。

 その他、写真にないもので、ハマボウフウはごぼう・ダイコンのような根を下に伸ばします。分枝しません。ハマゴウはハマヒルガオタイプです。ただし完全に空中を伸びて行きます。
 以上いずれも深さは最大で60cm程度、伸び方は2m程度です。これらがお互いにせめぎ合うと考えるとその根の張り方で生存競争での優劣が理解出来ます。


コウボウムギ・オニシバに対して茎伸びがさえぎられるためハマヒルガオが弱い。コマツヨイグサは茎がより浅いところを伸びるので多少はオニシバと共存出来る。ハマゴウの茎は空中を伸びるのでオニシバを苦にしないでオニシバが負ける。またハマボウフウがオニシバを苦にしないのは下に伸びる性質が同じだからけんかにならない。等々。


  富津市民文化祭に展示

 恒例の古写真展示に加えて、葛飾北斎の版画で有名な押し送り船が西上総地方オリジナルの船でおそらく里見の早船(軍船)から発達したもので、主として江戸への鮮魚輸送に使われその分布は富津市領域が中心で大正時代まで現役で使われていた(新舞子の絵葉書に雄姿が残っていた)ことを紹介しました。また海浜植物ハマボウフウ・ハマゴウの姿・形の紹介と食べ物としてのハマボウフウ、香りを楽しむハマゴウ(希望者に種子を配布)をPRし、さらに村の小さな無住のお寺にそぐわない慶派の鎌倉初期仏像「道場寺の宝冠阿弥陀」に潜む大貫の娘安西架子(阿波徳島蜂須賀家七代の側室に上がり八代藩主を生んだ)のお寺再興物語を紹介しました。


 また、佐貫のピンポイント史集成「ドラマで綴る上総佐貫誌」を配布しました。おかげさまで11月2日から5日の4日間で300人の来場者を記録しました。


  秋の嵐 新舞子はリセットされる

 10月16日台風21号、10月22日台風22号と1週間周期で西上総海岸が襲われました。被害は少なかったですがゴミの量が半端ではありません。状況を写真で報告します。

 10月17日朝、新舞子。収まりつつある高潮です。水平線上に伊豆半島の天城山、三浦半島の石堂山が重なって見えます。新舞子から見ると冬至の夕日はこの山の真ん中に沈みます。司馬遼太郎さんに言わせると「武士の世」を育てた三半島ですが、これが冬至の太陽軌道で一直線に並んでいるのは意味深な感じがします。

 新舞子駐車場まで波が遡上しました。海抜3m位でしょうか。

 同じく波の遡上状態。草の色が茶色になっていたり、ゴミのある場所まで波が上がってきたわけです。ハマヒルガオ、コマツヨイグサ、ハマゴウ、コウボウムギが波をかぶりました。

 排水マスの蓋(推定重量100kg)がどこかに流されました。この周囲にはハマヒルガオが密生していましたが完璧に流されました。

 大量に上がった砂利。これが本来の新舞子の海岸の姿です。

 遠くに見える1本目の電信柱まで波が上がりました。この場所はオニシバ、コマツヨイグサ、コウボウムギが主体でした。さて来年は多分、ハマヒルガオがはびこるのではないかと期待しています。
 新舞子は30年に一度規模の高潮で海岸がリセットされたかも知れません。

 一方磯根浜。ゴミの量が天文学的に多いですが、波の遡上は新舞子の半分くらいです。オニシバ帯には達しませんでした。来年のハマヒルガオ事情には無関係です。


  福祉バザーで恒例の小菊を販売

 福祉バザーが10月21日社会体育館で開かれました。グリーンネットふっつの定番「小菊鉢植え」今年は14鉢と出品数が低調でしたが完売しました。形が悪いものが多く価格が上げられませんでした。来年は赤い色を加えて数量を30鉢まで増やす予定です。売り場の意匠ももう少し垢抜けないと発展がありません。
 とにかく年々お客は増えていますから挑戦しがいがあります。



 広島城主浅野家文書 諸国古城絵図のうちの上総佐貫城

 この絵図は最近佐貫の人たちに知られるようになった絵図です。従来の佐貫城絵図は、天守閣が空に大きく描かれている図、宝永7年に阿部氏が幕府に提出した修理願いの添付図の写し図、門だけが立派で門前が急な階段になっている絵図の3種類でしたが、今回、それらと全然違う絵図が登場したことになります。

 この絵図で注目されるところは次の部分です。
 道路:外部から城へ通じる道は、岩入から北上(亀沢)に入る道1本だけ。他は染川、北上川が外堀の役割になっていて遮断されている。八幡や古船、鹿野山へ抜ける道も描かれていない。
 本丸:郭の縁に土塀が巡っているが中は広場のみ。天守閣はない。二の丸から土橋をわたって本丸に入るところに簡単な冠木門がある。
 二の丸:少し大きな建物がある。
 三の丸:土塀が二箇所に複雑に巡っている。一つは三の丸上部でここは東側に江戸の諸藩藩邸にあるような長屋門があり内部に大きな建物がいくつか建っている。もう一つは一段低い所にかなり大きな広場があって、周りを土塀で囲んでいる。ここには南面して簡単な冠木門がある。馬出し施設のように見える。
 内堀:現在の関山用水ルートに水が流れ、一部は分岐させて三の丸の南半分をめぐる内堀の役割を持たせている。中村や下原への農業用水の供給ルートはない。
 現在の地形に収まりにくいのが三の丸東側の長屋門と南の下の馬出し広場、さらにその南の大手門前広場。現在の隅櫓位置と染川が昔から同じ位置であるとすると収められない。
 絵図全体の問題点:現実の本丸はもう少し東にずれる。三の丸から現在の日枝神社、現在の日月神社へ続く尾根表現は現在と大きく異なっている。この二点は絵図が間違っていると云わざるを得ない。

 しかし全体として阿部氏時代の佐貫城として現実味がある。従来から知られていた特に天守閣のある絵図や急な階段と立派な門だけしかない絵図よりは現実味があります。


  富津の「やわたんまち」の浜

 9月10日は佐貫八幡の鶴峯八幡宮の祭礼(通称やわたんまち)でした。好天に恵まれこの数年では最も盛大でした。この写真は神輿のお浜出を待つ新舞子海岸。


 「やわたんまち」のお浜出は、行列を作ります。まず獅子が出発し、木遣りを歌いながら、道を清め、次に猿田彦(テング様)が道案内、続いて祭礼役員が裃姿で進み、続いて神主、そして神輿が三基(大坪、笹毛、八幡の順)で進みます。正規に配置すれば行列はおよそ二百メートルの長さ。近年では笹毛の神輿が破損のためなくなり、替わりに佐貫町連合で一基出ていたのですがこれが今年は中止でした。進行途中で獅子は鳥居崎で神事があり、この場所で謡う木遣りは次の謡に決まっています。「ヨーエー、ヨーエー、ヨーエー、ヨーエー、ここはどこよとかこしに聞けばここは一の谷敦盛さまよ、もとづなヨエー」

 お浜出の途中の鳥居崎での神輿のショット。ここは急な坂道ですので、望遠縦長の構図で、獅子、猿田彦、裃行列、神輿が三基入ればベストショットですがその実現は総合プロデューサーが居ない現状ではまず困難です。それにドローンでないと撮れません。

 海中の神輿。新舞子は波打ち際から10mくらいで胸までの深さになります。水中で肩を抜かずに揉めればOK.。今年は担ぎ手が多かったため、みごとでした。午後の海が金色の海になりつつある時刻でした。

   

   大貫海岸の川造りをスライドショーで

 約1年の定点撮影をスライドショーにした動画です。ある日突然、絵になる景色が出現し、そしてすぐに消えてなくなります。

 

  雑感

 グリーンネットふっつの秋の活動が一段落しました。

 しかし、本業の磯根海岸清掃は10月16日、22日の台風の置き土産が山のようになっていてボランテイアグループの人力ではどうにもならない状態です。

 市に伺うと磯根海岸は大貫漁港の管理範囲に入っているそうですが、おそらく大貫漁港のメンバーにはその自覚がないと思われます。市は磯根がえらいことになっている何とかしなさいよと大貫漁港にアドバイスして貰いたいものです。

 ごみ問題でなくつい最近市の窓口に行った時の実態は・・・・・

 あっちだこっちだとタライ回し。ただしこのごろは陳情者が座っていて相手が入れ替わり立ち替わりになるが同じ説明を何度もするのは昔も今も変わらず。結果は予算がありません。どうすればいいかわかりません。少なくとも私の部署の範疇ではありません。お役に立たずすいませんでおわり。急遽そろえた写真資料印刷代が900円。腹立て代で自己負担。アホクサでした。