アクセスカウンター

磯根ハマヒルガオの「グリーンネットふっつ」

「グリーンネットふっつ」のホームページへようこそ。

 「グリーンネットふっつ」は磯根岬のハマヒルガオの復元を主な活動としてやってきましたが最近は一歩進んで海岸植物の栽培と活用を手がけています。

 また、郷土の先駆者苅込碩哉の著述・講演などの足跡記録、収集が2千点を越えた地域の古写真復元などもやっています。

 さらに、郷土史の掘り起こしとして、ずさんな石組みにはわけがある弁天山古墳、古代人の住居ではない絹横穴古墳群、運慶作かも知れない道場寺の宝冠阿弥陀像、江戸時代初期には天守閣があった佐貫城、富津市全域に広がっている富士信仰を中心にした富津の石造物や、富津の最古寺の一つであり鎌倉新仏教(西大寺流真言律宗)をいち早く取り入れたように見える岩富寺、幻の上総安国寺、古式の神社建築を昭和時代まで引き継いできた鶴峯八幡宮などを紹介していきます。

 この「グリーンネットふっつだより」と関連する記事が多く見られるホームページ

 

 

 以下には、ローカルニュース及びグリーンネットふっつからのお知らせをのせてあります。日付の新しい順に並んでいます。

 過去の記事を見たい時は上のサイトナビに戻って希望のページをお選び下さい。それぞれのページにはプルダウンメニューがあり、関連のページに入っていけます。  

 今のハマヒルガオ写真、ハマヒルガオベストショットは、「磯根岬と周辺の海岸植物保全」のページに入っています。規約、事業計画、予算などはページ最下段のサイトナビから入っていけます。

        最終更新日 2018.5.16

以下の記事は一定期間の掲載後削除しますが、テーマ分類して各ページに収納します



   浅野家所蔵佐貫城絵図を読み解く

 城の主部である三の丸建物を読み解きます。
 佐貫城跡の坂を登るとまず①の溝をわたります。溝は関山用水。現在も現役の農業用水路。ただし絵図の頃とは水源も性格も違います。流れのルートは今と同じ。

 ②は太鼓櫓跡とされるもの。注目は絵図では土塀があるが櫓の建物がないこと。阿部氏のころは櫓がなかったのでしょう。太鼓櫓は内藤家長、松平勝隆の頃の話が混同されているかもしれません。

 ③は階段になっています。右に注意書きが「坂九段」となっています。④は大手門。

 大手門を入ると土塀で囲まれた広場。左に入ると⑤の建物。これは別情報ですが「御沓所」と呼ばれる大きな玄関。入城者はここで履物を脱いで長廊下を歩いて大きな建物に入ります。⑥は「御広間」。儀式の場所です。入場できるのは藩士、神主、僧侶、特別に許可された者のみ。

 ⑦は廊下と小さな部屋が連続した建物。⑧は奥向きの建物。藩主の執務室、休憩室等。しかしまったく私的な居住区画ではないと思います。参勤交代制度の折、正規の奥方、世継ぎ、使用人などは生涯江戸藩邸常駐です。従って藩主の側室・お国御前は城外の離れ家でということになり藩主はここから城に通う形?

 ⑨は分かりにくく、「日本名城画集成」にも類似の構築物は発見できなかった。しかし、想像をたくましくすると恐らくここは「お白洲」です。ただし裁判などのお白洲ではなく、名主、村役人、豪商などを城に招いた時、控えていてムシロに座らされて藩主の出を待つ場所でしょう。藩主は廊下に出てきて何かお言葉を申し渡すということになります。武士でない人たちが正月行事、藩主の交代などの時招かれたのでしょう。名主たちの出入りは土手の階段を使って⑩の広場からということになります。名主でもない一般庶民が入れるのは⑩までです。

 ⑩はその昔、内藤家長、松平勝隆の時代はおそらく水堀だった場所です。松平重治の改易によって50年くらい廃城になったおり、埋まって池のようになっていたのを、埋め立てて周りを水路として再整備したものでしょう。
周りの水路は②の櫓台のところは暗渠になっています。⑩のこの場所、現在は駐車場になっています。

 内藤家長、松平勝隆時代の佐貫城の水堀と石垣のイメージはどんな状況だったのでしょうか。

 内藤家長、松平勝隆時代の佐貫城が最も充実していた頃の復元図です。隅櫓と土塀は長野高島城からお借りしました。雪国の城ですので板壁、屋根は銅葺きですが佐貫城では漆喰壁、瓦葺きだったことでしょう。

 この写真は6年前の知識に基づいています。今の知識ですと、奥の山の上にもう一つ大きめの櫓をそびえさせるところです。佐貫城事実上の天守閣です。

 房州石の石垣の途中に草が生えていますが、これは関山用水(当時は水堀に水を供給する役割の水道)の溝です。

 時代が下って話を阿部氏時代の大手門のイメージ作りに戻ります。

 大手門前の③の階段とその奥の④の大手門のイメージを「日本名城画集成」から見つけたらお似合いなものが見つかりました。園部城です。階段と土塀の間のたたき(スロープ)は廊下橋塀と言うそうです。今で云えばバリアフリーです。ただしこの城、明治2年の竣工ですので、時代考証から注意が必要です。なお左の櫓は取っ払って石垣で櫓台を高く上げ、周囲に土塀を巡らすと佐貫城に近づきます。

 なお、内藤家長、松平勝隆の時代の佐貫城の様子は佐貫城別の絵図(阿部氏が幕府に提出宝永絵図)で伺うことが出来ます。⑩の広場=水堀が満々と水をたたえ、その上は房州石の石垣、その上に白亜の土塀がめぐり、さらに白亜の隅櫓が東西に2基。土塀の中の三の丸内部はうかがい知れませんが、想像するに建物は阿倍氏時代とほとんど同じだと思います。大手門も同じです。違うのは大手門の右の山の上にひときわ大きな隅櫓がそびえ立っていること。これは内藤・松平時代の事実上の天守閣で、遠くからよく目だったことでしょう。今なら館山道から見えます。
 従って再建するなら内藤家長、松平勝隆の時代の城です。ちなみにこの時代、佐貫城は隅櫓多数時代で、三の丸に3基、二の丸に2基、本丸に4基、合計9基ありました。(このうち三の丸1基、二の丸1基、本丸2基の土壇は今でも確認出来ます。調査すればあと2基くらいは確認出来るかも知れません。)



   佐貫城本丸で天守台発見!

 佐貫城保全を行なっているボランティア団体、「いしずえ会・亀城連」の人たちが大ヒットです。佐貫城本丸で天守台と思われる土壇を発見しました。
 大きさは本丸中央の西端切り岸(崖)ギリギリに南北幅15m、東西幅7.5m、高さ1.5m
の長方形の土壇です。東西幅が小さいのはこれから紹介する絵図から推定すると崖が崩れた結果と考えられ、建設時は15m角で2m高さの房州石積みの基礎と考えられます。

 発見の発端は、2年前、いしずえ会がインターネットで広島浅野家文庫所蔵の「諸国古城之図」に上総佐貫城の絵図が入っていることを発見、その集成版が新人物往来社から発行されていて千葉県立図書館には所蔵されていることが分かり、千葉まで出かけてコピーを持ち帰ったことから始まりました。

 さて、絵図本丸を拡大(上図)しますと、本丸西端に天守閣(二層の小さなものですが)らしい建物があります。佐貫城にも天守閣があったと絵図に描かれているではないか。これは信じていいのか?
 その時は、いしずえ会のメンバーも勝手知ったる佐貫城の本丸を思い浮かべながら今はたぶん痕跡の片鱗も残っていないだろう、従って絵図が正しいのか証明出来ないだろうと考えていました。

 ところが、昨年、NHKの「ブラタモリ」で真田丸についての新たな絵図が発見されそれを解析すると色々な謎が解けた(解いた人は奈良大学の和田教授。城郭考古学の創設者)との報道がありさらにこの研究に使った真田丸の新たに見つかった絵図とは、諸国古城之図の中の1枚だと知り、諸国古城之図の正確さが分かることとなりました。それなら佐貫城も新たな発見の望みがあるのではないか、素人故に大がかりな発掘調査は出来ないが、ヤブ刈りくらいなら出来る。浅野所蔵の佐貫城絵図の天守閣あたりのヤブを刈ってみようと、それを実行したら、あらっららっら!!!!立派な土壇が絵図通りの位置にあった、ということです。

 発見してしまえば、なんでこんな大きなものが誰にも見つからなかったのか、佐貫の人はよほどぼうっとしてるんだと思われそうですが、ものごととはこんなもので幾多のアマチュア・学者もよほどの確信がなければ、タケヤブのひとつも刈ろうとせず、ざっと見て見えないものは何もないことだとの思い込みで何十年もそのまま今にいたったということです。

 この写真は昨年、12月に撮った本丸広場です。奥のヤブの中に土壇があるなどと誰も思いもしない情景です。

 今年になって「いしずえ会」がやぶを刈り取った後の写真です。杉林の奥の枯れ枝で茶色くなっている部分が土壇で、幅15m、奥行き7.5m、高さ1.5mです。土壇の縁は土ですが、20cm角厚さ5cmくらいの房州石のかけら1個が拾えました。房州石が貼り付けられていた可能性があります。

 接近して撮った写真です。土壇斜面で房州石の破片を見つけました。

 佐貫城の在りし日はどんな風景なのか、今回の発見で色々考えています。そこでイメージの構築に役立つのではと、「日本名城画集成」(萩原一青画 小学館)から一番近いイメージを捜して掲載したのが長野上田城のこれです。上田城は垂直な河岸段丘崖が補強のため一部石垣積みになっていますが、佐貫城は垂直な自然崖で石垣は建物の土台部分だけです。建物は二層で、左右の片方だけは土塁です。また上田城の建物は一部黒板壁ですが、佐貫城はおそらく全面漆喰壁です。

 恐れながらこの絵図を佐貫城に改造するとすると、絵図手前の川原は今の国道127号になります。崖は勿論垂直崖で内側に湾曲、崖の南北が半島のように突き出ていて先端は天神と八幡の小さな神社、中央に二層の比較的大きな櫓(漆喰壁)、右側に四脚門とその左右20m程が土塀、四脚門を抜けると土橋。本丸の東側と北側には土塁がめぐっていて八幡社も土塁で囲まれ、西側中央の天守閣代用のような櫓まで土塁となります。しかし土塁はここまで。天神社とか、横堀側には土塁がありません。本丸中央は江戸城など特例を除いてどこの城も同じですが何もない広場です。

 現在の佐貫城本丸を子細に見ますと、絵図通り(勿論四脚門、土塀、櫓本体はありませんが)土塁が南東部だけは確かに残っています。(東側部分はヤブで近づけないため未確認。北、西側にはなかった)ここでも浅野絵図の正しさが確認されました。

 さて、上田城絵図を見ますと左奥から中央奥は池や堰が広がっています。佐貫城に当てはめますとこちらは牛蒡谷方向ですが、偶然にもこれはこのまま佐貫城にあてはめていいようです。なぜなら浅野家絵図によりますと牛蒡谷にはたくさんの池、堰が見られます。だからこれも本丸が正しかったのだから今の実態はどうであれ浅野絵図を信じてこのまま上田城図を佐貫城図としていいようです。
 話しは飛びますが浅野絵図では牛蒡谷が水郷地帯であってそこから佐貫城南側に水を導き佐貫城の水堀としたことになっていますので、そうだとすると佐貫城の別名が「亀城」である意味が分かります。なぜなら土浦城も亀城の別名がありますがこれは霞ヶ浦のそばにあることからきた命名なのですから。

 また何時の頃か牛蒡谷が干拓されて今の姿になったとするとこの干拓問題が後で紹介する関山用水問題とからんできます。実はその変遷も絵図で読み取れます。(お楽しみに)

 今後、絵図面が実態と違うから絵図面が間違っていると考えるのではなく、絵図面と今が違うならその間に改修されたのだと考えその理由を推定していくという形で歴史の実態にせまろうと思います。
 幸い、佐貫城は絵図がたくさん残っていますので城郭考古学を実行するたのしいフィールドになりそうです。



  2018ハマヒルガオ通信

 自然海岸が残る西上総湊海岸から富津海岸まで、今年のハマヒルガオ開花状況を調べました。

 上総湊海岸の湊川河口部です。階段の石畳の継ぎ目にハマヒルガオ。ここは年々ハマヒルガオが勢力を盛り返しているところで、数年の内に幅200m長さ1kmの花の回廊となるでしょう。

 新舞子海岸の染川河口部です。白いハマヒルガオは亜種でしょうか、これと普通のハマヒルガオのコラボがかわいいです。今年始めてお目見えした群生部です。広さは幅5m長さ20mです。ここから、南、約500mは去年大潮をかぶり今まで繁茂していたオニシバが一掃されたところです。今年はハマヒルガオがここかしこに見られるようになりました。
来年以後が楽しみです。

 大坪海岸から磯根岬まではハマヒルガオがありません。わずかに大坪海岸の駐車場跡地に若干の分布が見られます。

 磯根海岸の漁業センターフエンス沿い南北2箇所のハマヒルガオ群生地でまずは南側。この数年不調な磯根ハマヒルガオの中で唯一気勢を吐いていた場所ですが今年は厳しい状況になりました。

 もうひとつ北側の群生地もご覧の通り、山の頂点はみごとにハゲました。4年前までの磯根はあんなにハマヒルガオがあったのに自然の変化の早さにただ呆然とするのみです。

 岩瀬海岸には一部3m四方だけ密集ハマヒルガオが見られましたが、あとは土手に散在しているだけでここから篠部海岸まで、ハマヒルガオはほとんどありません。

 富津下洲海岸のハマヒルガオです。じゅうたんのようとは云えませんがみごとな復活です。ここは2011の津波をかぶりその後1ヶ月くらい引き残った塩水をかぶり続けた場所で長らく不毛の土地でした。そこに緑の第1号としてハマヒルガオがやってきたと云うわけです。

 以上、概観するに、ハマヒルガオは土地の地味復興の兆し先駆けの植物で自己の繁茂により土地を豊かにし、コウボウムギやハマボウフウ、そしてオニシバなどが増え出すと静かに退場する流れ者みたいな性質を持っているようです。従って何かのトラブルでオニシバなどがやられるとまた帰って来るということになります。


   ジェンスコレクションの研究 第2弾

 アーノルド・ジェンスは20世紀初頭のアメリカ人写真家で、明治42年(1908)に日本と日本統治下の朝鮮半島を旅し、約2万枚の写真を残した。そのすべてが現在アメリカ議会図書館に所蔵され、その一部はインターネットに公開されている。


 公開された写真の日本はどこまでも清潔でゴミ一つ無く、写っている人々は屈託がなく堂々としている。
 残念ながら何処を撮ったのかのデータがないが、明らかに分かる映像はあるので、そこからジェンスの日本での足跡を辿ってみると、横浜に上陸し、鎌倉に遊び、東海道筋を西に進み、富士登山をし、京都、奈良に行き、瀬戸内を宮島まで行った模様である。
 おそらくその後、神戸から朝鮮に渡った模様である。


 しかし、これはあくまで明らかに分かる映像からの推定で、幾多の写真の場所が特定できれば実際はもっと広がることが考えられる。九州に行ったのかも知れず、それなら博多から朝鮮に渡ったのかも知れない。


 そんな中、グリーンネットのある人がジェンスの写真の中に押し送り船という種類の和船が写っているのを発見した。問題はその背景の海岸がただ波打ち際しか写っていないのでどこだか分からないのであるが、実は押し送り船の存在分布が非常に狭く絞られるので、その中から波打ち際の特徴と合わせればジェンスの写したところがどこか決定できるのではないかということである。

 ここで、押し送り船について。
 押し送り船は7丁の櫓を持つ大型の和船で、元禄時代から大正時代まで主として東京湾を走行し江戸へ新鮮な高級魚介類を運んだ船である。その船型の特徴は北斎の浪裏の富士で分かる通りヘサキが実用の必要を越えて長く突き出ていることにある。多数櫓の和船は色々な意味で幕府統制の対象であり、実際押し送り船の新造船は浦賀奉行書の認可を必要とした。押し送り船の独特の船形もあるいはこの規制の産物かも知れない。江戸から明治に移ってもこの規制は権益に変わって続いたはずである。(市場が日本橋から築地に移ってそこでようやく権益が無くなった?)
 江戸時代、千葉県内の押し送り船の存在が分かる村は、木更津、人見、大堀、富津、篠部、八幡(新舞子)、金谷、館山である。この中で大正時代の絵葉書または一般の古写真で押し送り船の確認できた(グリーンネット調べ)浜は篠部、新舞子、金谷、館山。


 対岸の神奈川の海岸で絵葉書に押し送り船が写っていたのは、鎌倉、大磯のみ。
 茨城、九十九里浜、伊豆・静岡では発見できなかった。

 さて、ジェンスコレクションの写真で押し送り船の遊弋する浜辺はどこかである。今回の試みは古絵葉書で押し送り船が確認出来た浜辺、篠部、新舞子、金谷、館山、鎌倉、大磯の中から一つの場所を特定することである。

 条件は、遠浅でない。(これにより絵葉書がなかった木更津、富津などがはじかれる)
     波打ち際に砂利(チャート質の黒くて堅い砂利)がある。
     対岸が見えない。(条件が良くないと見えない)
     波が小さい。(内海である)

 遠浅で篠部、鎌倉が落とされ、対岸が見えやすいで館山、金谷が落とされた。あと大磯は波打ち際の傾斜が急で落とされた。残ったのは新舞子である。

 新舞子は波打ち際にチャート(日本列島骨格の岩石:中世代)の砂利があり、西南方向での伊豆大島、真名鶴岬と西北方向での横浜は、ほとんどの季節でモヤのため対岸を確認することが出来ない。内海でありながら西南西北方向は水平線が見える海岸である。そして遠浅でなく海岸はすぐ深くなる。さらに押し送り船が多数遊弋していた写真が残っている。何より浜辺の雰囲気が新舞子に似ている。

 ジェンスコレクションの中で世界で一番話題に上った男女別ビーチ案内の看板は文字や絵が読めるのでその復元を試みてみた。

 結果は遊泳場ではなく「涛(トウ)浴場」であった。漢字にはサンズイの「游(ユウ)」があるのでこちらかもとも考えたが「方」部分が入るスペースがなく看板文字は「涛浴場」である。
 明治期の海水浴はあくまで波と戯れ、そのマイナスイオンや海水の渦や砂によるマッサージ効果を期待して温泉につかるように波打ち際につかったものなのだろう。
 また、男女別の方向を示す手差しの絵が、女子には手のひらを前にし、男子には手の甲を前にして描かれている。これなど我々が忘却したボディ・ランゲージなのかも知れない。

 話しは変わって、ジェンスコレクションの撮影場所ではないかと主張する新舞子。ただひたすら明るく輝く浜辺で、昨今各所にある金を掛けた人寄せ成績の良い観光施設とは対局にある場所である。地元民が好んだわけではないがここまで徹底してしまったら居直って「空海風」だけで進むのがよいのかも知れない。

しかし、それでも最小の設備投資でこんなことをしてみたら話題になるかもと提案するのが下の写真。

 どうでしょうか。

 

 以下に、ジェンスコレクションをさらに2枚と、新舞子の夕方の船の引き上げの古写真と最後に押し送り船が目白押しの新舞子海岸の絵葉書を載せる。
このさらなるジェンスの2枚も新舞子の雰囲気が満載である。



   写真展終わる

4月1日(日)からはじまった「まちづくり写真展」が7日(土)に終わりました。
 今年の出展者は29名、出展数は59点でした。古写真出展は約80点でいずれも去年並の数字でした。入場者数は180名でこれもほぼ横ばいでした。
 今年の新しい展示、試みは、動画展示と期間中イベントの開催で以下の通りです。

 動画展示: 佐貫城
       岩谷堂、岩見堂
       弁天山古墳
       大貫海岸の川造り

 イベント: 弁天山古墳
       富津市にある富士塚
       カメラ教室

 

   大杉漣さんと富津新舞子

 つい先日死去した大杉漣さんですが、最後の出演ドラマ「バイプレイヤーズ~もしも名わき役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~」は、ロケ地が富津市の新舞子です。報道によれば放映はあと2回予定でしたが急きょ話のスジを変えてとにかく続行するとのこと。大杉さんでどこまで取りだめしているのかわかりません。今後の話で新舞子が出てくるかどうかも不明です。
 しかし今回の急逝で特集や再放送がされると思いますので、見逃した方は今度はしっかりと録画しましょう。

   磯根石と弁天山古墳動画が出来ました

 弁天山古墳の石室の石は磯根石が使われています。磯根石が生まれるには数十万年の歳月が必要で、沈下→堆積→隆起→崖崩れで数メートルから数十センチオーダーの塊化→沈下→まわりに粘土・砂等が堆積→隆起→崖崩れ→まわりに皮をつけて海岸に転がる→数年で(A)皮がはがれて中身だけの大きな、または小さな塊になる、(B)皮がはがれにくく骨材を含んだコンクリート塊のようになって安定、(C)骨材が小さいか少なくて皮だけで溶岩のような形状の塊になる、の3種類となります。

 ここで、(A)は中身の石の違いでさらに(あ)軽石質粗粒凝灰岩と、(い)細粒凝灰岩の二つに分かれます。(あ)、(い)共に表面が滑らかで特に(い)は第1回の転石時期か、第2回の時期かは不明ですが穿孔貝に孔を開けられ虫食いのような形状になっているものもあります。この(い)が古墳使用の主流の石で内裏塚古墳群はもちろん、佐倉、佐原、横芝などの古墳群、東京下町の古墳群、埼玉の古墳群でも見られます。磯根石は関東南部では古墳石のブランド品だったのでしょう。

 弁天山古墳では(A)の(あ)、(B)、(C)が使われています。

 今の磯根海岸でも(A)、(B)、(C)が見られますが、数メートルオーダーの(あ)は見られません。大きな(あ)はもともと希少だったのでしょう、弁天山古墳だけでなく内裏塚古墳群でも使われ枯渇してしまったのかも知れません。

 弁天山古墳の石組みは出来が極めて杜撰です。同時代の群馬県の古墳などと比べると恥ずかしい位です。これは、石組みの技術がなくてこうなったのではなく、海岸に転がっているものを加工することなくそのまま使ったからでしょう。磯根石は非常に脆く下手に加工すると割れることがあるので加工を嫌った点もあるのでしょうが、上総の古代人が死者を葬るに、変に技巧に走った技術で整える石室を使うことを嫌った、と考えることも出来ます。素朴さを継続することを好む上総人だからむしろこちらの解釈の方が正しそう。後世平安末期奈良京都鎌倉ではフィギアのような運慶派の仏像が流行していましたが、千葉の武将達はついにそれを嫌いぬいた(千葉には運慶作品がない)ことを考慮するとそう考えられます。

 弁天山の天井石は(あ)の石ですが、その一つの両端に縄掛け突起があるということで国指定の史跡になっていますが、これが人が造った縄掛け突起かあやしいところがあります。実際筆者の小さな(あ)石塊での試みの加工では途中で割れてしまいました。また、本物を観察するに突起の付け根の切りかきが大きく、もしこれを実際に縄を掛けてひっぱたらおそらく割れるでしょう。

 千数百年前の磯根岬で転がっている岩の皮がはがれたら縄掛け突起がついた真っ白い天井石のようなものが出て来た。古代人はこれぞ奇跡・神の啓示と喜んで古墳に使う気になったということかも知れません。



   富津市のヤグラ岩谷堂・岩見堂

 近頃やけに人気が高まった竹岡の燈籠坂大師。素彫りのトンネルを抜けた頂上にあるのは建物の半分が岩の洞窟にはまり込んだお堂です。実はこれは鎌倉時代に造られた「やぐら」という横穴墳墓を祭祀用のお堂に利用しているものです。

 やぐらは鎌倉に非常に多くありますが、1歩外に出るとほとんどありません。ところが富津市地域は知られているものだけで50くらい、実数は百くらいはありそうです。

 燈籠坂大師が知られるようになったのは二輪車のライダーがツィッターなどで紹介したのがきっかけのようですが、岩谷堂、岩見堂もライダーの人気が高いようです。このお堂も元はやぐらです。



   苦闘するグリーンネットふっつ

 昨年秋、特に10月2回の高潮による流木などの片付けに苦闘中です。こんななか、スターバックス富津の人たちが11月24日、12月15日の2回、青堀小教員の人たちが12月16日に磯根海岸の清掃を手伝って頂きました。
 流れ着いた物は木、竹が多いのですが一番始末に悪いのが、古タイヤ、漁具、大型発泡スチロールなどの産業廃棄物的な物、これらの貯蔵の仕方、大雨期待で流れて行ってくれればラッキーなんてことを思っているんじゃないかと疑われる状況です。また、おびただしいペットボトル、瓶、缶がなやましい。リサイクル意識が高まったと思われるのに、これらはいったいどこにあったものだろうか想像がつきません。

 なげいてばかりいても仕方ありません。グリーンネットふっつは細々と時間を掛けて回収しています。とは、云っても、上の2枚の写真、上下で1ヶ月の時間差ですが、下の流木が少なくなっていませんか?
 グリーンネットふっつが片付けたのではなく、実は流木が砂で埋まったのです。磯根の砂の堆積速度の大きさがうかがわれます。そしてこのゴミが、実は砂浜の保水力を高め、今後数年間、草木も生えない荒れ地にハマヒルガオなど荒れ地だけでしか生きられない植物が繁茂する基礎となるのです。
 長年ハマヒルガオを見つめている我々は喜んでいいのか悪いのか複雑な心境です。


   風雪佐貫城符

 佐貫城を理解するのには城郭研究家小高春雄さんの著書「君津の城」に載っている佐貫城図がいいようです。東の宝竜寺、さらに館山道工事で消滅した八幡下遺跡と根木田入口山脇砦遺跡を含み、西の比叡神社まで描かれていますので、佐貫城の縄張りをした人の意図が読み取れそうです。(「君津の城」は大多喜城博物館で販売)

 これを基に実際の佐貫城跡を見て、また三種ある古絵図を見たりした結果、佐貫城の設計の当初は西の北上川、東の来光寺川(仮称:染川の支流)、南の染川を外堀とし、牛蒡谷を城内としてここの田畑住居住民を守ることを目的としていたように見えます。それならば佐貫城の正面は現国道127号線の東側の丘陵端の切岸列であって、館山道側は城内である、と言うことになります。実際に正面側(国道127号側)は高低差10から20mの大切岸が南北に約500mと続きますが、裏面側(館山道側)の切岸は2,3mの所(現佐貫城正面と考えられている場所)もあり、きわめておとなしい感じがします。

 時代が下って牛蒡谷を城内から外し、根木田砦などを放棄した結果、佐貫城を単独の独立の城と考えると、現正面の三の丸南の守りが弱いと言うことになり、そこで何をしたかというと信長・秀吉流の水堀の内堀を造ったのです。鬼泪山の麓の染川の水源のひとつを高さを減じずに佐貫城まで導き、佐貫城の三の丸の南と西を水堀とし、余った水を染川に落とす。牛蒡谷でこの水路と来光寺川が水道橋で立体交差する。これらの工事はおそらく内藤家長がやったことと思われます。関八州の新らしい覇者・二百万石の巨大大名の徳川家康の資金を当てにした工事ですから内藤さんは随分と金をばらまいたことでしょう。バブル絶頂期の市役所と同じでそれ行けどんどんだったはずです。

 さらに時代が下って城の水堀など意味が小さくなって、誰も権威を感ずることもなくなって、これを農業用水にしたのが関山用水ではないかということです。佐貫城下の殿町(侍屋敷がある)に新たに溝を造って、日枝神社のところで佐貫城水堀排水路とつなぎ、城の堀の捨て水を農業用水に回してくれというのが農民の願いであったのです。要するに佐貫城の大手門前を横切っている水路は関山用水と名付けられる以前に戦国時代末期にはすでに出来ていたのです。宝永の絵図面(廃城50年後の状況図)を見るとそう考えざるを得ません。

    まず知られている佐貫城から

 人物を入れて景観の大きさが分かるようにして佐貫城を紹介します。順番は、まずエコノミークラスのおとなしいフォトスポットから始めて、切り岸(崖)、堀切、岩のプール(仮称:佐貫城のヘソ部分。司令所?)、そして最後に二ケ所の展望台です。

    エコノミークラスのフォトスポット

 三の丸の隅櫓(太鼓櫓)跡。金谷石の石垣があります。佐貫城で一番城跡らしいところです。ただしこの場所が不動とすると隅櫓の東に大手門があったとされる佐貫城の大手通り幅は貧しい民家と同程度となってしまいます。

 土橋と横堀(畝堀)がセットになった佐貫城のフォトスポットです。本丸側から二の丸を見ています。箱庭みたいでかわいくておとなしい。この感覚は久留里城、岩富寺、本納城などと共通です。

 二の丸から土橋、本丸虎口方向を見ています。本丸の土塁がおとなしい。

    佐貫城の多彩な切岸(崖)の表情

 本丸西端から下をのぞき込むと谷は随分と深いことに気がつきます。その先は国道127号です。上から10m以上落差があります。杉林になっています。草木が生い茂っていて下の方からはこの崖に近づけないのが残念です。崖は北の展望台部分が凝灰岩で南の展望台は粘土(柔らかい泥岩:佐貫層?)崖、あとのその間は土です。土の部分の崖には樹木が繁茂しています。

 本丸館山道側の切り岸と平場(現在畑)です。高さは5mくらいに見えます。崖は笹藪で土質は土のよう。一般生活平面はここからさらに5mくらい下とは言えおとなしい感じです。
 画面奥の柵(小さくて見にくいですが)のところが本丸・二の丸間の横堀の東末端です。単に溝が降りてきてそこで終わっている。これだと堀を伝って城内に入っていけますよね。宝永の絵図面ではここは侍屋敷跡となっています。

 本丸八幡郭(北の展望台)下の切り岸です。地層の縞々が見える凝灰岩のようです。

 三の丸最奥(北端、国道127号側)の大土塁です。画面で平場になるのは人の立っているさらに3m下です。この下の平場は宝永絵図面では空堀跡と書かれており今でも約20m幅があり、その北端に10mの崖があってその下が一般生活面の田んぼなどになります。通算で三の丸最高所平場から2mの額縁状の高み土塁があってそこから外へ10mの崖、その下が20m幅の空堀で、さらに10m下って生活面田んぼとなります。館山道側に比べて峨峨とした感じで、これに仮に切り石でも貼り付けたら三の丸・本丸と合わせて高さ20m、長さ500mの城壁が出現します。

    堀切りの構造

 佐貫城北側の大堀切です。

 北側堀切そばの苔に覆われた崖。上総の古道の雰囲気です。

 佐貫城西側の大堀切です。三の丸西側の防御施設です。
 尾根筋通行を遮断する堀切は反面から見ると城内進入路になります。それを防止するため佐貫城近くの岩富寺の堀切は鞍部 の最上部に岩をくりぬいたバスタブ状の堀を造っていたことが発掘調査で分かっていますが、ここ佐貫城の堀切鞍部を観察すると(人物の立っている足許が)少し凹んでいます。ここに岩富寺のようなバスタブ状箱堀構造が埋まっている可能性があります。

 三の丸北の大堀切近くにある榊の巨木です。後世(明治後?)に境界目印として植えられたのでしょう。今では御神木と云っていいような貫禄があります。他にも数本の榊があります

    ファーストクラスのフォトスポット

 岩のプールの中に入っての撮影。左の縁の下が三の丸最奥部。ここは佐貫城のへそです。

 岩のプールの縁から二の丸切岸を見ています

 岩のプールの中に入っての撮影。中央のU字断面が本丸・二の丸間横堀の末端。堀は土橋方向に下っているので大雨でも滝にならないです。画面で堀の左が天神郭(南展望台)で、右が二の丸となります。
ここは本丸、二の丸、三の丸の境が集中して接している場所で佐貫城のヘソなのです。

    ビジネスクラスのフォトスポット

 天神郭(南展望台)です。左の竹で囲まれいるその下は横堀。底まで5m。右は本丸下の平場まで15m程度。写真では単なる農道の雰囲気ですが竹木を取り除くと細い岬状の場所なのです。

 八幡郭(北展望台)です。南展望台と同じでここも細い岬状です。階段右に小さな石組みがあります。(木の影で見えにくいですが)
 ところで細い岬状の郭は上総の城の特徴のひとつです。久留里城、本納城、秋元城などにも見られます。

 佐貫城の細い岬状郭の名称は江戸時代までここに天神様、八幡様が祀られていたことに由来します。これらの神社は明治40年代になって麓の日枝神社に合祀されました。

 近世江戸時代では、三の丸西堀切を越えて日枝神社までが城内の扱いになっていたようです。しかし、本丸・二の丸はほとんど使われなかった。それでも江戸時代初期には祭祀には使ったでしょうが後期になるとそれも間遠となり、やがて単なる裏山の扱いになったということでしょう。

 以上ざっくりと佐貫城を概観しましたが、佐貫城を時代の流れの中で見ると佐貫城が大発展する客観的なチャンスがあった時期は徳川家康が江戸に入部した天正18年から約十年の間だけでしょう。この時の城主は内藤氏。この時なら例え城主が一万石クラス(あの本多忠勝すら三万石だった)であっても城主の力量・遊泳術があれば徳川家康(まだ将軍ではなかった)の懐に飛び込んで金を引き出し、あるいは天守閣があり、あるいは石垣があり、あるいは水堀が出来たことでしょう(絵図面ではこれらが確かに存在しています)がそれ以後そんな大工事をするような政治経済的なチャンスはめぐって来ませんでした。

 町などが発展するには地元住民のたゆみない努力と富の蓄積だけではどうにもならない点があり、どうしても政治経済的な客観情勢が順風となって吹く必要があります。それが吹くと数年の短期間で大発展するのです。今の佐貫・富津にその芽があるか、具体策はわたしのような凡人には見えませんが大規模災害時にはどうしようもなくなる首都東京の異様な人口過密を解消する手段として昔の別荘でなく生活・組織のツイン並立化、セカンドハウスやセカンドオフィスの誘致などがいいんでないかいと妄想し思うばかりです。

 佐貫城のガイド動画をYouTubeにアップしました。画質がチョット落ちますが興味ある方はご覧になって下さい。

 

 


   ジェンス・コレクションに見る押送船

 1908年(明治42年)ドイツ生まれのアメリカ人写真家アーノルド・ジェンスが日本と韓国を旅行し撮った写真2万点が数奇のいきさつを経てアメリカ議会図書館に所蔵され、しかもインターネットで公開されています。それらの写真で特に日本の田舎を撮った写真が非常に清潔で、景観、人々共に上品で美しいと世界で評判になっているようです。皆さんも是非見ていただきたいものです。そしてその評価、韓国との差などは見る人それぞれの主観にゆだねますが、それとは別に面白いものを発見しましたので紹介します。

 ふるさとの古写真を集めているグリーンネットふっつの人間が閲覧した結果、このコレクションの中に何枚かの押送船らしきものが写ったものがあり、その撮影場所が新舞子、または上総湊または九十九里浜ではないかと思われるものがありましたので紹介します。

 なお写真には場所のデータがなく、掲載順序撮影順序も整理されていません。しかし、あきらかに分かる景色がありますのでそれらを追っていくと、ジェンスさんの日本での観光ルートは、横浜、鎌倉、江ノ島、日光、草津or伊香保、東海道、美保の松原、富士登山、京都、奈良、瀬戸内海、宮島です。東京・大阪らしきものはありません。京都は金閣、銀閣、清水寺、平安神宮で、奈良は法隆寺界隈だけのように見えます。
 このルートを見ますとジェンスさんが房総半島に足を運んだ可能性は非常に少ないと思えますが、それでもいくつかの押送船の写真は新舞子、上総湊、九十九里浜に見えますので皆さんの判断を仰ぎたいと思います。

 男女で遊浴場を分けた海水浴場。「何だ!この清潔感は」と世界が驚愕。新舞子だったらどんなにすばらしいことか。沖に押送船、男性遊浴場に飛び込み台、すぐ深くなる波打ち際、砂浜に散乱するチャート、頁岩などの硬い小砂利(奥秩父の四万十帯起源。長浜層からの離脱小礫)など新舞子らしきものが満載です。以下、2枚も同様。

 船は押送船ですがこれは明らかに鎌倉でしょう。左対岸は小坪方面に見えます。砂浜に砂利がないです。鎌倉・江ノ島海岸には砂利がなかったと記憶。また比較的遠浅と記憶。違っていたらごめんなさい。鎌倉にも押送船があったのは(残念ながら)確からしいです。押送船は上総の独占ではなさそうです。「目に青葉山ほととぎす初ガツオ」は鎌倉から運ばれたようです。芭蕉句に 「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」

 右対岸がかすかに見えますが大坪山・磯根ではなさそう。鋸山でもなさそう。一の宮付近の九十九里浜か、と考えます。(あるいは上総湊?)九十九里浜らしき写真は、この他に4点ありました。

 複数櫓装備の大型船です。しかし、明らかにスマートな上総の押送船とは船型が違います。頑丈そうなので静岡方面の外洋船のように見えます。

 最後に押送船のない写真紹介です。モネの「日傘をさす女」の構図に似た写真です。雰囲気はモネに匹敵します。ほぼ同時代に房総の景色を描いた浅井忠のどこかどてどてした重い色調に対して軽やかで涼しそうで夏の松風を感じさせます。

 以上の作品は「アメリカ議会図書館」、「ジェンスコレクション」のandキーワードで検索すれば出て来ますので是非閲覧して見て下さい。思いがけないあなた自身のふるさとの美しい古写真に出会えるかも知れません。

   

   大貫海岸の川造りをスライドショーで

 約1年の定点撮影をスライドショーにした動画です。ある日突然、絵になる景色が出現し、そしてすぐに消えてなくなります。

 

  雑感

 平成30年の活動が始まって2ヶ月ですが、磯根の海岸清掃は遅々としています。

 しかし、近頃地元の人がまったくの一人作業で清掃しているのを多く見かけます。またグリンネットふっつのお手伝いということでスターバックスさんとか青堀小教員有志さんとか複数回来られてもいます。頼もしい限りです。

 懸案の昨年10月16日、22日の台風の置き土産処理は人力での清掃努力が1割、後の9割は砂の堆積でごみが埋まってしまい、見た目はかなりきれいになりました。外房は屏風浦と一宮の岬の護岸工事が進みこれにより流砂が少なくなり九十九里浜の砂浜が痩せている現象があるのにくらべ、内房の大貫・佐貫は大坪山の自然海岸崖の浸食が進んでいるせいか海岸への砂の供給が盛んで今期この一冬での海岸の凹凸風景がかなり変わりました。グリンネットふっつの道具小屋など、まるで阿部公房の「砂の女」の住まいの如くなってしまいました。錠前の孔に砂が入り込んで錠を切断したなど砂との共存は厳しいものがあります。