苅込碩哉記録(Ⅱ)大佐和経済の要だった避暑客と釣り

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 以下は、苅込碩哉さんの講演を要約したものです。(平成16年10月2日さざ波館にて。グリーンネットふっつ主催)

  避暑客のこと        苅込碩哉

 大正12年9月1日の関東大震災の時、私は満5才でした。私の親父は若い頃、鉄砲をやっておりました。その鉄砲仲間にジュウベエ(屋号)さんという人がおりました。今の中学校の裏あたりです。そこに用事があって、あの日、私も犬と一緒に親父について行ったのですが、家に帰ってきたらいきなりガタガタと始まったのです。


 神明様の本殿がふわっとつぶれる様子は、いまでも目に浮かぶほどはっきりと憶えています。


 私の家では藁葺きの母屋の方が古かったのですが、傾いただけで倒れませんでした。新しくついこの間建てた方の離れはそっくりひっくりかえってしまいました。


 地震がおさまった後、「朝鮮人が攻めてくる」といううわさが飛びました。子ども心には地震よりもそっちの方が怖かったですね。
 大貫の町でも在郷軍人や消防団、青年団などが夜警に出ました。私の近所でも夕方になると男達が出かけて行ったのを憶えています。


 その夜警団に、太田で、ある人が捕まりました。理由は土地の人でなくちょっと変わった風采をしていると云うことでしたが、調べて見ると、東京から来た避暑客でした。避暑客は8月の末になると引き上げるものなのですが、この人は9月になっても残っていた。それであらぬ疑いを掛けられたわけです。こんなことから分かりますように、大正12年にはすでに避暑客が大貫に多数来ていたのです。


 避暑客の話を始めましょう。


 その頃、4月か5月になると日曜日には決まって東京の人たちがやってきて、「この夏はどこの家を借りようか」と貸間や貸家を探していました。新規に借りる家を決める人も居れば、去年お世話になった家に今年もという人もいました。


 大貫の学校は田植え休み(農繁期休校。今の田植えは4月ですが、当時は6月上旬ですのでその頃1週間ぐらい休み)がある関係で、夏休みは8月1日からでしたが、東京では7月21日から夏休みです。子どもが夏休みになると同時に避暑客が来ます。大学生などは適当に休んでもっと早くから来ていました。


 避暑客達は、持ってくるのは衣類を中心とした身の回りのものだけ、あとは家主への土産くらい、ほとんど空身でした。米や味噌醤油、野菜や魚など食料品はいうに及ばず炭や薪、履き物や麦わら帽など生活雑貨に至るまでほとんどが現地調達でした。中でも新鮮な魚は避暑客の目当てのひとつです。地元漁師や商店はずいぶんと潤ったに違いありません。


 当時、岩瀬や新舞子の海岸では地曳き網漁が盛んでした。東京の避暑客達も一緒になって網を引き、採れたての魚を土産にもらって帰るということで、お互い、随分と楽しい夏を過ごしたものです。


 そんなわけで、家主だけでなく、地元の商店や漁師、農家などは「夏が来れば」と胸の中でそろばんをはじいて(現金収入の)あてにしていました。


 家賃は、廊下や土間も含めて計算していました。その頃、貸間貸家組合というものがありました、紹介や契約の面倒を見ていました。
 「奥の八畳間を一夏貸す」とか、「夏だから家主一家は物置きにザコ寝しても風邪を引くことはないから母屋一軒そっくり貸す」とか、「風呂を毎日沸かす手間賃を加えて契約」とか、場合によっては「三食賄い付き」とか、普通の生活手間を利用して付加価値はいくらでも増やせるので、夏が終わるとどこの家でもかなりまとまった収入になりました。


 現金なもので商売になれば意欲が出て、「来年来る頃には風呂場を直しておきましょう」とか、「畳はきれいにしておきます」とかいうことで、海岸一帯の家並みは年々整って行きました。


 避暑客の中には毎年あちこち借りてまわるのは面倒だと云うことで、別荘を建て、自分の都合で自由に行き来する人も出て来ました。
 冬のあいだの管理はたいてい地元の人たちに頼んでいました。別荘は、大貫では千種新田、佐貫では新舞子に集中していました。


 戦争中にはこの別荘に疎開し、かなりの人たちが常住していました。戦後もそのまま住み続けて、東京方面へそこから通う人もいました。この別荘、大部分が木造建築ですから今(平成元年頃)では建物の寿命が来てそのほとんどが廃屋になっています。
 避暑客の中には結構有名人が来られていました。


 「トッカピン」、栄養剤でしょうか?
あれを発明した戸塚さんと云う方が、今の大貫中学校の上に別荘を建てて住んでいました。尾崎さん(尾崎製作所)や黒田さん(黒田狭範=黒田精工)にしても最初は避暑客として来られて「大貫は海のもの、山のものに恵まれている」ということで、こちらに工場を建てました。


 佐貫の新舞子には岡春夫さんが長く来られていたと聞いています。
 今の民宿とは違って、避暑客と家主や地域の人たちとの間には、親戚づきあいのようなところがありました。


 倅が東京の会社に就職したとか、娘が東京の学校へ入ったなどということで身元保証人になってもらったり、東京で住むアパートを世話してもらったりといったことがごく普通にありました。


 職探しや縁談などでお世話になったり、お世話したりといったことも耳にしています。時には先方からお手伝いさんのお世話を頼まれるようなこともありました。東京に出向いた娘さんは1年も経つと人が違ったように色白になり、ダッペ言葉も消え、自然に鼻濁音が発音出来るようになりました。若い娘さんの親御さんには花嫁修業に出すような感覚があったと思います。


 こんなわけで、都会と田舎の実に気持ちよい交流があったのです。今の民宿は、便利ではありましょうが、経済的な関係しかありませんね。人情を大切のする暖かい関係は、特別の場合を除けば殆ど期待出来ないと思います。
 避暑客と地元民との関係が崩れたのは昭和10年代後半頃からだと思います。きな臭い時勢とともに、避暑客の足は遠のき、大貫や佐貫でも若い人たちの応召が増え始めました。


 戦後、避暑客のそれなりの復活はありましたが、水道やガスなど生活革命が進み、交通も便利になると、避暑客が地元民の労力提供に期待する部分が少なくなり、その分地元に落ちる金が少なくなりました。


 金の切れ目が縁の切れ目とは思いたくありませんが、これからの時代、あの頃の人間関係を回復するにはどうすればよいのでしょう。経済関係、交通事情、それに世相など随分と変わりましたからね。なかなか難しいと思いますよ。

 大貫の漁業と産業としての釣り

 さっき回していただいた写真の中に、釣れた魚を写したのがありましたね。魚がいっぱい並んだ写真、全部真鯛ですよ。今時考えられますか、こんなことが。

 もう1枚は鱸(スズキ)です。毎年11月から12月にかけてハラブト鱸がよく釣れました。腹にいっぱい卵を持った鱸です。


 当時、商売として釣りをやっていたのはこのあたりでは、大貫、湊、竹岡ですが、竹岡の船頭は、「今更何を考えてもしょうがない。俺たちはこれを守る」といって今でもやっていますね。若い後継者も結構いるそうです。
 こちら(大貫)は駄目ですね。比較的交通の便がよいし、勤め口もあります。事情が違うのでしょう。「漁師は俺一代だ」という声が盛んに聞かれます。なんとも寂しいことですね。


 平貝(タイラギ、タイラガイ)は富津の名産でしたが戦争で若い人たちがどんどん兵隊にとられ、肝心の貝を採る「もぐり」(潜水夫)がいなくなりました。平貝を採らないものだから海は平貝であふれ、漁場が大貫沖まで下ってきました。


 終戦後、働き手の若い人たちが続々と復員してきました。食料不足もあって、富津は平貝景気にわきました。うちの前の川などは、平貝の貝殻の捨て場になっていまして、潮が引いても危なくて歩けないような状態でした。


 私が外地勤務(碩哉先生は昭和16年から19年まで朝鮮の学校に勤務)から帰って2、3年経つと、生の平貝を俵やカマス(袋状の簡易俵)に入れられたものが1俵とか2俵といった単位で取引されていました。暮れや正月にはどこの家の台所にも平貝の俵が積まれていました。皆さんの中にも憶えている方がおられるでしょう。冬とは云え取り切れなくて貝殻にわずかにくっついた身が腐ると、捨てられている量が量ですから、あの強烈な臭気となりますが、なつかしい昔の思い出です。


 戦前、大貫にはいろいろな漁法がありました。魚を一匹一匹釣るこづり(小釣り?一本釣り)、1本の糸に枝針を沢山つけて、海底に仕掛ける「ごみな」(延べ縄)、底引き漁法の「てぐり」(打た瀬網)、それと、かなりの資本が必要なあぐり網などがおこなわれました。


 岩瀬川河口の船溜まりには、「こづり船」がひしめくように係留されていました。一本釣り漁は魚に傷がつかないので見た目が良く鮮度も保たれ高値で売れます。活魚として出荷すればさらに値があがります。


 「ごみな」では鱚(きす)やめごちなど比較的小型の魚を採っていましたが穴子などを対象とする船(あなごな)もありました。
 「てぐり」は船の両端から棹(規制で棹の長さが決められていた)を出し、大きな袋状の網を棹の長さの幅だけ張って、海底を引き続ける漁法です。船を引く動力には風が良ければ帆で、風向きが悪ければ焼き玉エンジンを使うわけです。夕方出て一晩中網を引き続ける漁法ですのでかなりきつい労働を強いられます。春から秋の初めころまでがシーズンで主に車海老ねらいです。


 車海老は東京の市場ねらいの高級品です。「てぐり」は比較的資本のかかる漁法ですが、利益率が良いので従事するものが多かったです。寒くなると車海老が捕れなくなりますので、日中に創業して魚を採っていました。


 当時の労賃分配の考え方は、三分法です。船と船頭と雇われで3等分です。例えば雇われ2人で一晩で300円の売り上げだと、船主が100円、船頭が100円、雇われは一人50円と言うことになります。