大貫の古跡散歩 弁天山古墳 道場寺の宝冠阿弥陀 絹横穴群 小久保藩陣屋跡 吉野と和田義盛

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富津内裏塚古墳群からチョット離れている弁天山古墳は石室が見られます。道場寺の宝冠阿弥陀像は鎌倉時代初期の古仏で、運慶との関わりが期待出来る仏像です。絹横穴群は造作が丁寧で、長柄横穴古墳に近い完成度です。しかも漢字が印刻されています。さらに、小久保藩陣屋跡、和田義盛の伝承などを紹介します。

 去年からグリーンネットふっつに入会した小川さんは佐貫八幡の人で、地元の歴史や古跡にくわしいです。その主張がユニークで、例えば弁天山古墳の石室は磯根の浜で自然が造り上げ海岸に転がっていたものを丸ごとそっくり移動してきたものである、とか、万葉集の須恵の珠名の長歌は弟橘媛の鎮魂(たましずめ)の須恵歌を高橋虫麻呂が採録洗練させたものであり、この歌によって上総の女性の評判、県民性などが確立されたとか、中世の武士の誕生は上総が最初でその原因は親王任国制度にある、とかです。 

 まずは弁天山古墳の石室構造解釈から話してもらいましょう。

 弁天山古墳の石室をよくよく見てみましょう 



 富津の古墳群で、上野塚、内裏塚の次に造られたとされる弁天山古墳の石室です。覆屋で保存展示されていていつでも見られます。 天井石のひとつに縄掛け突起がある点が珍しいということで国史跡になっています。縄掛け突起のある同時代の古墳は群馬県の観音山古墳、奈良県の日葉酢媛陵古墳など数例しかないということです。 

 大きな天井石の2枚と、奥に見える用途不明の小さな1枚が磯根岬の軽石質粗粒凝灰岩です。

 富津古墳群の主な古墳は明治から昭和にかけて発掘され、石室を壊したその石を発掘記念碑の土台にしているので、誰でもどんな石が使われているか見ることが出来ます。調べるとすべて磯根の石が使われていました。

 磯根の石は、崖崩れした地層の断片(礫)が海底土石流で乱堆積し、数万年程度の海底エージングで礫を骨材にしたコンクリートのようになった後、陸化して、また崖崩れ、コンクリート状の断面が海岸に露出して礫として地表に現れたものです。このように磯根の石は乱堆積ですから石の生成年代もバラバラで色も形もバラバラです。この中で特にユニークなのが弁天山古墳の2枚の天井石でこの2枚ほど大きな粗粒凝灰岩は内裏塚にもありません。代わりに内裏塚には一回り小さな粗粒凝灰岩の天井石が10枚くらいあります。一方、弁天山はこの2枚だけというところから、大きな粗粒凝灰岩を内裏塚で使い切って残りをかき集めた弁天山がこれだけということになります。弁天山古墳以後造られた内裏塚古墳群の古墳で、この石は見つかっていません。

 それでは、弁天山古墳は磯根石をどのように使っているのでしょうか。  

 それにしても、この古墳、石の積み方がきわめてズサンです。群馬の古墳などと比べるとはずかしい感じがします。なぜこういうことになったのか、富津は遅れていたのか、美意識が違うのか、この辺になると教育委員会・学者さんはだんまりとなります。私(小川)にいわせると、古墳を造る理念、考え方が違うのです。

 弁天山の石室について、富津市教育委員会最終報告書(1979)を見てみましょう。ここで( )は私(小川)の補足注意書きです。  

 「側壁の積み石は旧状を残している部分は少ない。(後世の積み直しがあった?)小口をそろえ(表面を平らにそろえということか?実際はそろっていない)3~4個の石を積み上げ、壁はほぼ垂直、南壁でわずかに上部(内側の間違い?)にせり出している。これは、天井石の圧力で積み石が動いたものであろう。天井石は3枚。南側の2枚は粗悪な花崗岩ではないかと思われるが、断定できない。(花崗岩は房総半島では産出しないから)房総半島の石材かどうかは明らかでない。 中央の石の両小口に縄掛け突起が造られて、整美に加工されている。長年露出していたためか上面が丸みを帯びている。昭和3年の写真では現在より角ばっている。

 東に小さな板石がある。昭和2年の時点ですでにここにあった。 北側の1枚の天井石は不整なかたちの砂岩で、西上総の海岸露頭でよく見かける種類の石である。(磯根でしか見かけません!)(東側の)側壁の石は砂岩の転石を平面方形に積んである。石は風化が激しく砂になってしまった皮の部分がかなり厚くなり、あたかも芯に残った砂岩と同種の大型礫を赤色の砂に混ぜて(セメントで)固めた壁という状態であった。

 (下の写真参照ください。) 

 西側の側壁は(長く)露出していたこともあって風化した皮の部分が見られず端部の石積みは明らかに後世の積み直しと認められる。」(後世とはいつのことか?) 教育委員会は、古墳の側壁は小さな礫を積み上げる(多くは内側にせり出す形で積む)ものという固定観念があるから、礫を混ぜてセメントでかためたような1枚の壁などあり得ない、これは土に埋まっているうち、あるいは地表すれすれに露出していたために風化したものであると結論つけたのでしょうが、これはおかしいです。第一に上の写真に見える飛び出した礫は、これから風化して1個の単体になる状態であって風化して芯が残った状態には見えません。

 それより前に土に埋まっていてなぜ風化するのでしょうか。第二に、これと同じ状態の石が今でも磯根崎にごろごろしています。これから風化して単体の礫に分離する途中の状態がごろごろ観察されます。

 弁天山の石室の側壁は、礫を積み上げたものではなく、礫を混ぜてセメントで固めたような一枚のブロックになっていたものを海岸から運んできて据えたものと言わざるを得ません。だから、礫の並びが不揃いでズサンに見えるのです。

 今現在の磯根崎で見られる粗粒凝灰岩の礫です。風化によって最後の薄皮がはがれ、まさにいま天井石が誕生しています。弁天山古墳の大きな天井石も、この形で海岸に転がっていて、薄皮がはがれて今のような形になったものを運んできたものなのです。

 このように、弁天山古墳の石積みの仕方は、切削加工を一切拒否して、浜に転がっているそのままの形の石を適正なところに配して石室(竪穴式)を構成したように思えます。そうだとすると、わざとらしく一個の石だけに造られた縄掛け突起もあるいは人が造ったものではなく、自然が造ったものを拾ってきて、天井石にしたものではないかとの疑いが出てきます。なぜなら縄掛けとして実用的でなく、この加工のため両端で60センチ近く幅が縮まるのは富津のような石なし地域の人々にとっては忍びないはずです。さらに、この石はきわめて脆いので切削加工が出来ない(切削中に割れる)と思われるからです。

 千種新田の海岸松林には仏様のような形の礫(磯根石)が祀ってあります。仏様があるのだから、縄掛け突起のある巨礫があっても不思議がない磯根岬の石です。自然崇拝ここに極まれる須惠の国造の祀り方です。

 磯根石は古墳時代はブランド品だったらしく、千葉県芝山、東京浅草、埼玉古墳群、群馬県などの古墳でもみられます。

 しかし、古墳時代が終わると、それがあまりに脆いため顧みられなくなりました。近代の海堡工事でも磯根石はまったく無視されています。

 なお、弁天山古墳は内裏塚古墳などの富津古墳群から離れてポツンとひとつ存在していますが、これが古墳時代からそうだったと断定出来ないことに注意が必要です。早い時期に開墾され消滅してしまった古墳もあることを考えなければなりません。実際、おどやスーパー店の駐車場に隣接したマテバシイの林の中には昔、案内板もあった大きな古墳が隠れているようです。

 弁天山古墳に話しを戻すと、弁天山古墳から西に小久保川を越えたところにある若宮神社境内は明らかに前方後円墳の形をしていて古墳である確率は高いのです。境内に点在している大きな磯根石は古墳の石室の部材を思わせます。墳丘が腰高に見えますので弁天山古墳と同時代と考えて良く、弁天山古墳の次の古墳と考えられなくもありません。

 そうだとすると、富津市史にある「上野塚古墳から内裏塚古墳、弁天山と造られ、その後50年くらいの空白期間をおいて九条塚、三条塚などが造られていく。50年の空白は謎である。」という「謎」は解けるかも知れないのです。

 

 富津市上の道場寺、運慶(作風)宝冠阿弥陀像  

 富津市上の道場寺遠景(2008年撮影)です。雌雄一対の大銀杏が美しかったのですが現在は左の1本が枯れてしまいました。

 寺の門らしからぬ道場寺の門です。無住の寺ですが境内は風情があります。

 サザンカのバックに黄色くなった銀杏がかぶさります。

 こんな小さな寺にふさわしくない道場寺の本尊です。宝冠阿弥陀です。鎌倉初期の作風が色濃い古仏で千葉県指定文化財です。まず、その説明を紹介します。


 「ヒノキの寄せ木造り。漆箔(漆で金箔を貼る)高さ67cm、結跏趺坐。白亳は水晶、玉眼に作り、印相は弥陀定印、宝冠をつけている。運慶風宋風。「安貞2年(1228)施主仏子竜円」の在銘(胎内墨書)。鎌倉初期の作として矛盾がない。白亳、宝冠は後補作。後頭部、髻欠損。秘仏。」


上の説明は秘仏ですが毎年5月頃ご開帳があり、その時は拝観できます。さらに、墨書の内容は富津市史に出て来ます。


「施主 仏子龍円■(■は不鮮明)安貞元年 <その下に縦書き2行で小さく右に大才、左に丁亥>始十一月廿七日終二月造立了」

墨書の内容は「施主は龍円何某。安貞元年11月27日に造り始めて2月に完成した」ということなのですが、不自然なところがいくつかあります。


① 安貞元年は12月10日からである。


② 大才。「大きな才能」では意味不明。「太歳」の誤りか略字と思われます。これだと暦に関係した言葉です。「木星太歳神の略。暦の八神将の一。木曜星の精でその年の干支の方向に遊行し年中のことを率領する」暦の解説によると干支の方向の作事開始は吉とのことです。


③ 開始の日付はあるのに、終了は二月とのみ記している。


④ 造仏に正味2ヶ月ちょっと短すぎる。


 以上ですが、これらをつじつま合わせで解釈すれば、書いたのは年が改まって安貞二年の早い時期。当時官報などがあるわけでないので元年開始の日時の知識はあいまいだったはず。胎内墨書だから仏像完成前に記帳封印するから完成日が書けなかった。完成予定が二月、実際は延びたのであろう。全体として亥の方向すなわち北北西方面の作事は吉だということにこだわった墨書ということになります。


 次に、この墨書が安貞元年と同時代のものかどうかです。安貞元年の干支は丁亥で間違いありません。(このあたり偽作者は良く間違えますが)


 しかし、「丁亥(ひのといのしし)」の書き方に疑問があります。一般に鎌倉時代は横書きで小さく右から丁亥と書き、室町以後になって縦書き、または対角に丁亥と書きますので、それから行きますとこの文書は鎌倉時代でなく室町時代以後ということになります。


 道場寺の本尊は本当に安貞元年に造られたものなのか、また、昔から大貫のこの地にあったものなのか、または後世にどこからか運び込まれて来たものなのか。この謎を解く鍵に、道場寺の大正三年再建碑があります。

 碑文の内容は次のようなものです。


 「道場寺の開基、由来は明らかでない。元来微々たる小寺であったが、阿波藩主蜂須賀宗員の御母堂(架子=たなこ)が当地の出身ということで、享保元年(1716)に本尊を再営、厨子を新造し寄進した。享保16年には田畑の寄進もあった。しかし明治維新後ほとんど廃寺になりかけた。そこで当代の住職および檀家が努力して明治35年本堂を再建した。」


 さて、中身をさらに調べて見ます。


 ウイキペテイア・フリー百科事典では次のようになる。
 蜂須賀宗員(むねかず)宝永6年(1709)1月1日生。阿波藩第6代藩主。5代綱矩の四男。母は安西氏。従四位下侍従。28才で死去。


 ウイキペテイア・フリー百科事典では次のようになる。
 安西氏。安房の豪族で戦国大名になった一族である。出自については古代豪族の忌部氏だという説がある。他にも三浦氏、桓武平氏、平群氏、宇多源氏など諸説。里見氏に破れ滅亡する。


 さて、安西氏の研究は少ない。文書資料に出てくるのは頼朝が安房に逃げてきた時の出迎え役、三浦氏と婿、嫁のやりとりが頻繁、里見氏に安房を乗っ取られた、程度でしかない。ただ安房における武門草創家系なので、史実は別にして安房、西上総の在地の有力者の多くが安西氏またはその一族を名乗ったのは疑いがない。(里見にしても安西への入り婿ということで支配者としての正当性を主張した時期があったはず)そして安西氏であれば三浦氏とほとんど同一家族的な代々の親戚付き合いだったのだから、安西氏=三浦氏である。


 さらに、道場寺当地の伝承。道場寺の裏山ひとつへだてて隣の谷(ヤツ)は和田が谷。和田義盛の伝承が色濃く残っている。館跡、和田氏の開基の光厳寺跡が認められる。


 和田氏は三浦氏の庶流(有名な三浦義明の子供だが母の出自が悪くて三浦姓になれなかった)であるのでここに、当地=架子女=安西氏=和田氏=三浦氏とつながることになる。鎌倉初期の幕府中枢につながるのである。
光厳寺建立元久2年(1205)、和田合戦で義盛死(1213)、運慶死(1223)道場寺宝冠阿弥陀(1228)、と並べると一応次のような歴史を語ることが出来る。


 宝冠阿弥陀は和田義盛一族供養のため、三浦氏または安西氏によって、当地光厳寺に寄進された。その後、光厳寺は衰微。替わって、安西氏の流れをくむ在地貴族の寺として道場寺が本尊を継承、存続するもこれも徐々に衰微。しかし享保年間になって、安西架子が蜂須賀家藩主の側室になって世継ぎの母親となったため、実家の菩提寺の本尊を修復し故郷に錦を飾る。阿弥陀如来はこの時点でほぼ完成時並に修復された。しかしそれから百年、世代わりのドサクサで本尊は後頭部、髻をうしなう。(寺が維持できなくなった場合、本尊の魂を抜く儀式をして、仰向けに寝かせて保存するので、多くの古仏は後頭部を腐食させる)


 以上のように安西氏を縦糸に、三浦、安西、蜂須賀と錚々たるパトロンがつながった可能性がある。こうなると微々たる小寺の本尊とあなどれない。
 また、蜂須賀家は阿波の国主なので、神話で阿波につながっている安房の名族安西氏とのつながりを持つ側室はありがたかった可能性がある。藩主生母のおねだりに応える以上の熱の入れ方があったかも知れない。


 以上、道場寺の宝冠阿弥陀像は、かなりの濃度で和田義盛につながっています。和田義盛と言えば、横須賀市浄楽寺の阿弥陀三尊像(運慶作)の奉納旦那であるので、道場寺の宝冠阿弥陀は(運慶その人ではないかも知れないが)運慶にきわめて近い人の作であろうことが想像されます。


 学問的には、墨書の「仏子竜円」が鍵。三浦、和田、安西の中に竜円を捜せれば、この宝冠阿弥陀の研究はかなり前進するはずです。

 絹横穴群

 画像に二つの横穴があります。絹の横穴群の一部です。群全体としては20基ぐらいの横穴が残っています。上総湊の大満横穴群ですと100基以上ですので、数としては負けますが、横穴の丁寧な造り方としては絹の方が優れています。(さらに丁寧なものが長柄の方にありますが、ここでは触れません)


 大貫佐貫上総湊地区には多くの横穴があり、その多くがついこの間まで農耕用の倉庫などに使われていました。正岡子規の房総紀行を読むと、横穴で雨宿りしたとか出てきます。街道沿いにいたるところ横穴が開いている房総地方の景色が表現されて面白いです。実は、これらのほとんどは、奈良時代から平安時代後期までの村の有力者の家族墓跡です。

 内部を覗いてみると、奥に棺を置いたと見られる棚状の玄室があり、手前に広い前室があります。前室には供物を置き、入り口は、葬儀後塞ぎます。木組み、竹組みで、土壁のように仕上げて閉鎖したようです。


 注目は、穴の壁仕上げが非常に滑らかなことです。上総湊などでは、凝灰岩に穴を明けますので壁の仕上がりが粗くなります。大貫や長柄は地質が粘土みたいなものなので、仕上がりが滑らかになります。

 滑らかだと字や絵を描きたくなるのが人情で、この穴には右から「大同元年」と「許世」と印刻されています。「大同元年」は806年、桓武天皇が崩御された年、「許世」は、古代豪族巨勢氏をあらわすとか、佐貫の地名「古船」との関係をあらわすとかの説があります。

 次の穴には、「木」。これは、古代豪族紀氏をあらわすとの説が有力です。先祖の血統の高貴さを主張、宣言する書という説ですが、ほとんどの穴には文字がなく、この二つの穴だけに文字がある、しかし最少数の文字で、しかも当て字であるのは何を意味するかなどはまったく理由がわかりません。

 絹の横穴群の近くの横穴です。埋葬後、入り口が塞がれている状態を説明するために挙げました。上に隙間ができていますが、これは穴ふさぎの仕方が悪くて、長年月で隙間が出てきてしまったようです。こういうわずかに穴が開いている横穴は結構目につきます。何か残っていないかと期待して中を見てみますと何もありません。(注:横穴はほとんど私有地内にありますので、近寄る場合は地主さんに断ってからにした方がいいですよ。)

 関東地方の横穴は、埼玉県と千葉県に集中します。埼玉県では「吉見の百穴」が有名です。

 なお、千葉県には、横穴から進歩した墳墓としてのヤグラがあります。入り口に木製の扉などを備えたもので、これは神奈川県と千葉県にだけあります。神奈川県は鎌倉市が分布中心で、千葉県は富津市が分布中心です。ヤグラは鎌倉時代の武士の墳墓跡です。

 このヤグラの分布と、大字、小字名で「○○ヤツ」と、「谷」を「ヤツ」と読ませる地帯とが一致しているのは不思議です。(関東平野には「○○谷」という地名がたくさんありますが、鎌倉市・富津市以外は、渋谷、鎌ヶ谷などのように「○○ヤ」かあるいは「○○ヤト」と読む地域が多いのです。)

 小久保藩陣屋跡と田沼意尊(おきたか)

 小久保藩主邸跡地の説明看板です。(富津市中央公民館前)
 江戸時代、大貫村、小久保村などは幕府直轄領としてあって、実質的政治は地元の世襲的有力者である名主、庄屋が一俵五斗五升五合五勺などという小さな禄をもらい苗字帯刀を許され、その上に幕府から派遣されてくる代官をいただく形で行われていました。
 そして、幕末、徳川氏の大政奉還によって、徳川氏が遠州を中心に80万石の大名になった時、遠州相良で1万石の大名だった田沼意尊が、追い出される形で小久保に移され小久保藩が成立しました。明治3年のことです。この後明治6年に廃藩置県となって小久保藩は消滅しました。


 藩主跡地に残る庭園遺構です。後世の改変が大きいと思われる状況です。
 小久保藩は3年の歴史ですので、小久保陣屋を整える程度のことも完成まではいかなかったでしょうから、今に残る陣屋の跡地土地割りなどは、小久保藩が成立するはるか前から地元有力者がこつこつと整備していったところに、小久保藩が乗っかったと見るべきでしょう。


 現在の中央公民館から、小久保川の流れる窪地があって、対岸に若宮神社の森が見える景観は、大名、武家の庭園の趣があり、この地に随分昔から地域の支配機構が存在していたであろうことを想像させます。


 またさらに、若宮神社は、小古墳という位置づけで、調査すらされた形跡がありませんが、墳丘が高い腰高である点、境内に石碑の土台石として使われている石室の石が大きく良質な点などから考えて、弁天山古墳の次に作られた前方後円墳ではないかと思えます。飯野古墳群の石室石は磯根石の枯渇によって、時代が下がるにつれて粗悪になります。で、あるとすると、飯野古墳群の築造順、青堀駅前の上野塚→内裏塚→弁天山→九条塚→三条塚・・・・で、弁天山の後に50年の空白があるという従来の問題が解けて、弁天山の後に若宮神社古墳を置くことが出来ます。

さて、田沼意尊に話を移します。明治元年9月、小久保藩に移された田沼意尊は、翌2年6月に版籍奉還で、小久保藩知事になりましたが、同年12月に病死。この事績だけを見ると、時代に翻弄された弱々しい普通の殿様に思えますが、その前歴、そして小久保での盈進館(藩校)の創設内容を見ると並みの殿様ではないことがわかります。

 田沼家は徳川家治が将軍職にあった明和4年(1767)から天明6年(1786)にかけて、俗に田沼時代といわれる一時期を担った老中田沼意次を出しました。意次は功により相良藩を5万7千石まで大きくしましたが、松平定信との政争にやぶれ、2万石に減封、老中免職、さらに次の意明は、陸奥下村藩に1万石で左遷されてしまいます。その後、4代、文政6年に旧領相良に戻されましたが、禄高は1万石のまま、無役はそのままでした。


 意尊はこのような状態で家を継いだのですが、嘉永5年、大番頭の地位を得て、田沼家を復活させ、やがて大阪定番、文久元年には若年寄に昇進しました。若年寄として勤めた慶応2年免職までの主な活躍は、外国御用取扱い、洋書調所、軍政取調、京都警護、大阪台場築立、軍艦操練等々です。幕府方の能吏として明治維新期の激動を乗り切ったことがうかがえます。勝海舟などから見たら、世襲の無能な上役に見えたかもしれませんが、1回、悪評の中で最低まで落とされた家を一代で若年寄まで復活させた手腕は、「おべんちゃら政治家、世渡り上手」ということだけで片づけられません。幕閣からあらゆる仕事を与えられたように見える事歴から見ても、この人を新政府側、あるいは、明治後、新政府が使っていたら、海舟以上の人材であったかもしれません。


 田沼意尊は死の直前、明治2年7月に小久保藩校盈進館を創設して藩士の学問を奨励しました。意尊の子、意斎も父の意志を継ぎ、明治3年10月に藩庁内に370坪を区画し建坪58坪余の校舎を新築しました。漢学の他に洋学をも取り入れ、職員は教官1人、教授3人、事務1人、校僕2人で構成され、通学する藩士の師弟は80人余であったとのことです。盈進館の校則内容も残っています。藩知事意斎は不時に臨席して、講義を聴聞するなど藩校の運営に積極的であったそうです。これらの遺産は大貫小学校に引きつがれました。

 和田義盛と吉野郷

 富津市吉野の上(うえ)には、昔、富津市内では最大級の大堰がありました。今は埋め立てられ跡地の一部が高齢者養護施設になっています。


 このあたりから東北へのびる枝谷が神妻谷(かづまやつ)で、上総湊にある数馬とともに古代律令で定められた街道の駅制に出て来る「かずま」の候補地です。


 神妻谷に入って行くと中程に北寄りに切れ込んだ谷があり、これを和田が谷といい、鎌倉時代に和田義盛が館を築いたという伝承があります
 ここの奥の東側に「皿やぐら」という岩屋があり、かってこの中から仏像や、刀、什器などが出たといわれ、さらに西側山ろくには古井戸があり、今でも湧水が絶えていないということです。

 さらに和田が谷の左(西側)高台が光厳寺跡。


 
 画像で、中央、電信柱のすぐ右に小さな祠の見える場所がありますが、ここから右側が和田が谷、祠の上に上がったところが光厳寺跡地です。

 光厳寺は和田一族が元久2年(1205)に建立したとされる菩提寺跡であるとされ、実際に昭和56年に鎌倉時代の形式で作られた宝篋印塔が3基発掘されました。(文字は刻まれていません。)


 西上総、東上総地域には、西大和田、和田などの地名があるほか、鎌倉時代の武将、和田義盛との関係を伝える言い伝えが多いのですが、残念ながら文献的に確定できる資料が見つかっていません。

 また、一方「吉野」には、和田義盛より時代が下った宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍)が、当地に巡検のおり、「吉野」という地名を聞いて畿内の吉野をなつかしんだという伝承があります。室町時代中期(1486)僧道輿によって書かれた「廽国雑記」にその記事があるのですが、これより時代がさかのぼる「吾妻鏡」(頼朝の時代から、宗尊親王の鎌倉下向そして京都追放までが書かれている。遅くとも鎌倉末期には成立)に宗尊親王の地方巡検(吉野を含めて他地区も)の記事はありません。

 さて、和田義盛について、吾妻鏡の記述から紹介します。和田義盛は最後に倒幕の挙兵をして敗れますが、挙兵時の出発地は、上総の伊北(いほう。夷隅川の北?)であって、残念ながら吉野郷ではありません。

 和田義盛は、源頼朝の旗揚げ、そして石橋山合戦の敗北の時に敵を引きつけて自身を犠牲にして、頼朝の安房への脱出を助けた、三浦義明の子供です。母親の身分が低かったため三浦姓を名乗れず和田姓になっています。頼朝の真鶴岬から安房への逃避の時、和田義盛はお供になっていたわけですが、浦賀水道を渡る船中で、義盛は頼朝に「主人におねだりするに、主人が難儀している時こそ高く売れるという。もし、頼朝様が天下を取ったあかつきには、是非とも自分を侍所の頭目にして下さい」、と、ねだった、頼朝はその無邪気さが気に入って、「約束しよう」といったといいます。後に頼朝は実際約束を果たしています。


 和田義盛は、源平合戦から幕府創設、その発展期に多くの功を挙げ、将軍から主として上総地域に領を賜ります。上総に散在する「和田」、「大和田」などの地名はその時の名残りと考えられます。


 なお後から考えて和田義盛の望みは、最終的に自家を「三浦」一族から独立させ、「和田」の家を三浦をしのぐ御家人であると幕府に認めさせることだったと考えられます。そしてねらったのが「上総介」の地位です。鎌倉幕府が出来て、各国の国守は形骸化し、頼朝任命の守護、地頭が実力を増していきますが、それでも家の装飾に従五位○○守の肩書きは重要でした。この肩書きが付けば、後は手柄と運次第でそれこそ征夷大将軍も夢ではないのです。


 和田義盛は執拗に幕府に上総国守(=上総介)の任命を迫ります。硬軟取り混ぜてのあらゆる運動で、実現一歩手前まで来たとき、尼将軍政子からクレームがつきます。「昔から受領は守になれない決めがある」と言う理由です。「三浦など一般御家人身分の者は国守にはなれない。御家人なら足利、北条(将軍正室の実家)など頼朝の眷属でなければダメだ」ということです。和田義盛はおそらくこれに対しての反論を用意していたことでしょう。それは、親王任国上総国の例外規定です。古来、上総国守には親王が在京でなる決まりで、実際の国守の役割は次官である上総介が担った。そして一般に介は地元の侍身分の者でもなれた、そして上総介だけはその肩書きが従五位上総介である、私は「守」になりたいと言ってはいない。上総介を希望しているのだということです。かって平高望が発見獲得した理屈でしょう。


 これで反北条の世論を味方にして、また和田義盛の野望が前進したように見えましたが、今度は三浦本家の嫉妬が壁となり、結局、和田義盛は政争に敗れ、領地の伊北(北夷隅)に引きこもります。


 建保元年(1213)和田義盛は倒幕で挙兵しますが、数日で討ち取られてしまいます。


 平安時代初期に、桓武天皇のお子が多すぎてその手当に困って作られた親王任国制度を利用して、侍が政治に口を出し、関東を独立させるというアイデアは、関東の扡侍の多くの共通認識になっていたと思われます。


 和田義盛が敗死して5年後に将軍源実朝が暗殺され、頼朝の血統が途絶えた時、北条を筆頭とする御家人の面々がすぐに「親王将軍を」という案が出て、迷いがないようにみえるのがこのことを如実に示しています。しかし、親王将軍が実現したのは、これから33年後宗尊親王の関東下向まで待たねばなりませんでした。有能な北条の歴代の人々をもってしても京の朝廷の壁は厚かったのです。(反北条の侍の京への荷担ももちろんあったことでしょうが)


 しかし、それはともかくとして、政治の実権が貴族から武士への移行期に、全く違う立場で、武士政権確立に働いた(働かされた)和田義盛と宗尊親王の二人が奇しくもそろって上総国吉野の地に伝承を残したということは興味あることです。