おかげさまで富津市大貫佐貫の古写真が2千点を越えました

古写真復元の楽しみ

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 古写真復元の楽しみ    平野正巳

 「捨てるなら、写真なんか撮るな!」
 富津市岩瀬の写真屋さん「写真のワタナベ」で、店主と古い写真の処分のことを話していたら隣にいた老人に上の言葉で怒鳴られてびっくりしました。その時は「おっかない爺さんだな」と思いましたが、以前、たった1枚の写真を求めてあちこち歩きまわったことを思い出しました。
 せっかく撮った写真を軽々に処分するのは残念なことです。人はものがなくなると、後で非常に惜しいことをしたと後悔するものです。特に 写真とはそんなものです。

 第一回まちづくり写真展(平成11年)に大佐和の古写真を展示したら大変好評でした。それを期に知り合いや各区長に協力を求めて大佐和に限るとの条件付きで意識的に古写真を収集していったら一千枚を超えるようになりました。

 そこで、そのうち代表的なものをボツボツと紹介していきます。

 

 撮影場所は相野谷。昭和25年頃。提供者の佐貫の安部さんからいただいたときは5×6版ベタ焼きでカビだらけでした。スキャナでデジタル化し、フォトショップ(パソコンソフト)でカビ汚れ疵模様を除去、色調を整えたら可愛い少女が現れました。軽井沢の雰囲気です。

 撮影場所は佐貫八幡新舞子海岸。明治43年頃。と、推定。

 上の説明は提供者の阿部さださん(旧佐貫城主の子孫家夫人。実家は周南)からの情報と人物の服装、あたりの雰囲気から想定した場所と年代です。

 背後の磯根石(穿孔貝で穴だらけになった凝灰岩礫)を積み上げた石垣、松と椿の巨木、マキらしき巨木は新舞子と云ってさしつかえないのですが、想定撮影場所の現状とは景色があまりにかけ離れていてにわかに信じられません。

 さらに、明治40年代には外出・遠足すら実行が困難だった(良家の女子が外食するなどは、はしたないこととされていた)はずの女学生が泊まり(内房線開通は大正7年)で八幡に来られたか、という問題もあります。

 写真提供者ご自身は、木更津髙女の第一期生ですので、時代が届かず、上の姉二人が東京の女学校出であるとのことなので、おそらく姉のゆかりの写真かも知れません。

 新舞子女学生集合写真でその後分かったこと

 東北大学狩野文庫所蔵の絵はがき。昭和10年代の新舞子海岸です。今に残る中央突堤から左方向を撮ったもので、ここに、上の女学生写真場所らしきものが写っていました。この絵はがき、本来は要塞法認可を得るため山並みカットしさらに鏡像化した形で発行していたものですが、ここでは説明のため、逆鏡像化して提示しています。


 画面中央の民家が波打ち際まで建っている場所の後ろに背の高い松林が見えます。民家のたたずまい、松の状態などから、女学生集合写真はここの松林の中から海に向かって撮ったと言えそうです。

 同じ狩野文庫絵はがきの新舞子松原写真です。中央突堤から右側を撮ったものですが、ここには、女学生写真と同じ磯根石を使った石垣、その上にツツジ?などの灌木領域帯があって、その上に直径5cmくらいの真竹を粗く組んだ垣根が写っています。さらにこの写真では、竹垣の後ろに篠竹を密に立て並べた砂防用垣根が見えます。

 

 奥が深い古写真の世界
グリーンネットが収集した古写真を紹介して行きます。サラッと見れば見逃しますが、チョッと注意するといろいろな事柄が浮かび上がってきます。その奥の深さを感じていただきたいです。

 まず、佐貫の染川河口に架かっていた鳴海橋です。昭和30年代を中心に、長くて15年ぐらいの寿命であった木造橋です。この場所は歴史的に橋がないのが常態で江戸時代中期に書かれた「上総日記」(御鷹匠同心片山賢著天保三年)には、地元の大坪の人を雇っておんぶされて渡ったとあります。昭和になっても橋がなく人々は夏なら着物の裾をぬらして強行突破しました。若い女などがそれをすると川の流れで裾がパッと広がり、岸辺の男達からやんやのひやかしが飛んだとの思いだし話を聞いたことがあります。

 さて、写真のこの橋は、杭や橋桁など下部構造が皮もはがしていない丸太であることが特徴で、似た作風の建造物として、鶴峯八幡宮にあった東屋、それにこれも昭和40年代に約10年八幡仲ノ作にあった、警察庁の海の寮(片懸崖造りでガラス張り)があります。これらは大坪の大工、仁左右衛門(ニゼーム)の代々の当主の作であると思われます。

 仁左右衛門は昭和6年の鶴峯八幡宮の再建に携わっています。おそらく旧佐貫小学校の講堂他、近在の大きな建築にはすべて関係しているはずで、従って、明治20年代の建築、鹿野山呦々(ゆうゆう)館にも携わったことでしょう。(呦々館は東京鹿鳴館のリゾート版として鹿野山に建てられた迎賓館(木更津、君津郡の有力者が共同出資した私営?)。名前は漢詩の「鹿鳴呦々」から取られた。木造二階建て洋館。経営不振のため短期間で閉鎖になった。閉鎖後、建物は名古屋市内の郵便局になったという説があるが定かでない。立派な建物だったのだから撤去屑化にならずどこかに移設されたはずなのだが、それにしても名古屋まで持って行かれるとは解せません。)
 

 大貫岩瀬海岸です。

 背景に船飾りがあり、波打ち際の海苔のヒビの状況、女性の服装(シームレスストッキング)から判断して、昭和40年代前半の1月7日浦祭に撮られたものと推定されます。女性は正月に実家に帰ってきたどこかの娘さんなのでしょう。毛皮のコートにスーツ、ストッキングにハイヒールと荒涼とした海岸風景とのアンバランスが面白いです。

 浦祭りは、舟魂様などを祀るお祭りで、浜辺での神事の他、丘の上の神社広場などでは、ドサ回りの旅芸人による芝居なども催されました。夏祭りなど華やかな祭りに比べると、正月の終わりのもの悲しさがつきまとう祭で、「裏」祭りと理解している子ども達がほとんどでした。 

 小久保真福寺で催された華道展のようです。年代は不詳です。写真左の「めくり」に池坊の文字が読めます。ここのお寺の華やかな御影供に合わせて開かれた華道展は、背後の作品と寺の調度が立派です。

 中央の女性が生け花のお師匠さんで、その他は地元の娘さんでしょう。白黒写真ですが、着ている着物は地元女性の銘仙とお師匠さんの正絹の差がよく表われています。

 こういう展覧会が継続して何十年もの歴史を刻めばそれが伝統となり、例えば孟宗竹を使った花器などの生産などそれらしい地場産業が発展したかも知れません。残念ながら御影供の生け花展は後に続かなかったようです。

 ただ御影供の植木、盆栽取引は、ずっと後世まで続きました。それなのに昨年、交通事情から廃止となりました。

 残念ですが、地域振興を考えれば、御影供の場所を変えて、さらに老人力を生かして、竹の花器に加えて、根上がり松の盆栽、中国産でない安い梅干しを合わせて御影供松竹梅として主力商品としたら案外ヒットするかも知れませんね。

 富津市が農林水産業に、切った貼ったの鉄工産業だけであるとしたらあまりに殺風景です。

 

  これぞジャパン

 佐貫鶴峯八幡宮境内にあった東屋です。昭和27年。柱に杉の丸太を皮も剥かずにそのまま使用した野趣あふれて洗練さを失わない建物です。作風から、大坪の大工仁左右衛門(ニゼーム)の作品と考えられます。大坪と八幡の境の染め川河口に架かっていた橋が仁左右衛門作であったと云うことは以前に触れました。
 この写真はカラーである点で歴史的です。おそらく大貫佐貫で一番古いカラー写真だと思われます。この当時カラーフィルムや現像システムはすべてアメリカ製です。


 小久保郵便局です。木造西洋風建物です。外壁が杉板白色系ペイント塗りのよろい張りです。桜の木があり、きれいに刈り込んだ生け垣があり、さらに縦型鋳物製のポストがあります。
「少年探偵団」で怪人二十面相がつけられて角を曲がったところでこの形のポストに変装して小林少年等をやり過ごした、という話を思い出します。ポストは提灯状に紙と竹で作られており、伸縮自在だったのです。


 小久保の大店米屋三木屋です。明治40年。漆喰塗りの倉庫や店舗、ナマコ塀、庭に出ている関係者の装い、植木の手入れ状況などまさにこれぞジャパンです。漆喰壁はカビや苔を寄せ付けず、あの独特の白さを保ちます。


 傷病兵を慰問する少年、少女、若き女性達です。どういう慰問団体か想定出来ません。まさか町内会ということでしょうか。
 いわゆる素人さんが、若き傷病兵にどう対したのか。小国民(子ども達の別称)の特に女性にとってはかなり苦痛なことだったでしょう。芸能人だって簡単ではなかったでしょうに・・・・・・

 真夏なのに丘に上げて冬ごもりのままの船。舳先が長く突き出ている船形から帆走櫓走併用の鮮魚輸送船である押送り舟と考えられます。写真の時代は、風俗から昭和30年代前半と考えられますので、エンジンの付いていない輸送船は働き場所がなくなっていたのかもしれません。松島とも子っぽい女の子が時代を感じさせます。大貫海岸です。


 大貫小学校相撲大会です。双葉山全盛時代の写真です。写真構成技術もうまいですが、行司の動作といい、表情といい実に本格派。

 佐貫のハロウイン

 昭和10年(1935)10月23日、佐貫日月神社の祭礼行事であった仮装大会の集合写真です。全体にコスプレのレベルが高いですね。昭和10年の佐貫の富裕さが見える写真です。画面左上、二宮金次郎の前の人に着目下さい。

 仮装大会出場者の一人です。何の仮装か不明ですが、挙措が武士になりきっています。(刀などよく見ると竹光ですが、本物に見えます)実は職業軍人さんです。

 時代が下って、戦後、昭和26年、三宝寺のお稚児さん行列の集合写真です。装束から見ると、あれ~戦後で食うか食わずだったはずなのに、このゆとりは何だ?

 同じ日に佐貫町駅で撮った写真です。バブル華やかなりし頃の写真かと見まがうばかりです。

 昭和30年頃、三宝寺での保育所学芸会。浦島太郎のようです。女の子の服装はきれいですが、男の子は普段着で、しかもかなりくたびれたものになっています。日本全体は復興しているのに佐貫は取り残されているのか?

 昭和34年、佐貫小学校の学芸会。主役の衣装、せいぜいがんばっていますがやはりちょっと安っぽいかも知れません。教育的規制のためかも知れませんが。

 昭和34年頃、同じ佐貫小学校の学芸会です。因幡の白ウサギと思われます。衣装はお母さんたちの仕立て。限られた予算で良く工夫しています。それでも戦前の佐貫のレベルからすると落ちるか?

 佐貫の戦前は、かなり裕福だった。そして、戦後もしばらくはよかった。昭和30年ころになると、地域経済がだんだんと厳しくなってきた、という事情がほの見える古写真です。

 大貫と佐貫が大佐和町時代のVIP来町

 鷹司和子様(昭和天皇の三女。今上天皇の姉)が釣果の魚を見ておられる写真です。場所は「さざ波館」。右上からのぞき込まれている方が鷹司平通氏。この写真は撮影年代が不明ですが、平通氏が昭和41年(1966)に亡くなられておられること、左に下駄履きの女性がいることから昭和35年としておきます。計算すると、写真の和子様は31才。

 昭和41年(1966)秩父宮妃勢津子様来町準備で緊張の大佐和町職員。場所は大貫中学校の校庭のようです。この際、妃殿下は佐貫新舞子の郵政省海の家(元宇佐見政衡氏別荘)にお泊まりではなかったかと推察します。
 昭和35年から40年頃まで、大佐和町は夏の観光でうるおい、町が華やかだったため、VIPが来られるは、「三つの歌」、「ラジオ体操」、「素人のど自慢」(?)の公開録音もあったのでした。

 

 祭り風景

 毎年9月17日、吾妻神社の祭礼で、地区巡行する神輿。海岸での馬出しが有名ですが、神輿も出て、こちらは約3km離れた海岸まで地区引き継ぎの形でお浜出に向かいます。


 ビルの谷間の神輿は盛大かも知れませんがビジュアル的にはまったくお話になりません。やはり神輿は田園と木々の中でこそ引き立ちます。それにこの写真の神輿は姿勢が良いです。昭和30年代の撮影です。

 毎年7月1日、小久保神明神社の御神魚(おぼり、またはおぶり)が大暴れしながら神社に向かって行くところです。


 長さ5mくらいの孟宗竹を二本束にして、中央にイナダやスズキ佐貫では黒鯛を藁飾りでくくりつけたものをオブリ、オボリ、またはカネヨともいいますが、これを祭りの朝それぞれの町内から若衆がかついで時に揉みながら時に村の有力者の庭になだれ込みながら神社に向かいます。郷土史家の研究では、弟橘媛へのささげものと言うことですが、実質はこの魚で祭り後のなおらい料理が作られたことでしょう。馬出し神事や神輿のお浜出などはおぶりのあとで始まります。大貫地区、佐貫地区の海岸神社祭礼で見られます。昭和30年代の写真です。

 大正10年代の神明神社祭礼写真です。各地区の花車(山車)が勢揃いしました。山車の上には普通の人間より大きな人形が飾ってあります。源義家や義経などの武者が主体ですが、この写真ですと忠臣蔵が二人と、もう一人は女性です。巴御前とか神功皇后とかでしょうか。
 地区有力者の富裕ぶりがうかがえる豪華な造りです。

 毎年9月15日、鶴峯八幡宮祭礼の若衆です。襦袢に猿股、地下足袋それに前掛けが盛装です。神輿の宮入り後の写真ですので前掛けは半分ちぎれ、しかも下半身は水にぬれています。前掛けは相撲の化粧まわしのように房をつけ、昔話や干支にちなんだ小さな人形を縫い付け鈴もつけます。半纏やふんどし姿は後世に他地区から入り込んだ風俗です。昭和30年代の写真です。

 昭和28年、小久保神明神社秋の大祭での、おぼり(おぶり)の巡行です。要所要所で揉みながら進みますが観客が少ないと威勢も途切れがち。右の学生服の少年の無関心さがアクセントになっています。場所は弁天山古墳前と思えますが確証がありません。

 昭和28年、小久保神明神社の大祭。こちらは山車の笛、太鼓の乱打合戦、画面には見えないが、各部落からの山車が集合しての、たたき合いだと思われます。左側のほおかぶりの男性は歌舞伎役者のようにいなせです。

昭和28年、大貫町の文化祭。仮装行列のスナップです。人の変身願望は実に強く、近年のハロウインの隆盛ぶりやコスプレ大会の世界的流行を見ても分かります。一時期確かにあった仮装大会の復活を望みたいです。

 地場産業最盛期

 岩瀬海岸の海水浴場売店です。昭和30年前半の情景です。
 屋根はヨシズ張り、壁は茅(ススキ)を密に立て並べたもので、いかにも涼しげです。壁をススキで作るのは同時期の新盆のタナ作りに似て、考えようによっては縁起が悪いのですが、海水浴客は涼しさだけしか感じていなかったでしょう。


 注:新盆のたなについて。座敷中央に、篠竹の新竹の柱を立て、周囲をススキを並べてマコモで挟み込んで生け垣状の壁を作って、中に位牌とお供え物を上げる。

 その売店から海方面を見たもの。少年のふんどし姿が決まっています。子供達は夏休み中、毎日、日がな一日海辺で遊んで飽きなかったものです。

 一転、冬場の岩瀬海岸なぎさの情景です。海苔の養殖のヒビが並んで、海苔菌がついた網を海面スレスレに張り込んでいます。


 「海面スレスレ」が海苔養殖の要諦なのですから、ある日頭のいい人が、沖合にそっくり持って行ったらどうか、と考えました。そうすると船が網の下に潜り込めるから、海苔の収穫を省力化出来る・・・・・そうして今も行われている海苔の収穫船が出来上がりました。


 写真の頃は、電気掃除機のようなもので吸い込んで収穫していました。

 その網の再生のための藁で作られた網小屋です。
 海苔の収穫が終わり、次の冬までの間に、海苔網はきれいに掃除する必要があります。そのため、海苔網の上に藁を載せ、藁小屋として海岸に放置し、こびりついて残っている海苔残片を腐敗させ取り除きます。


 この課程の現在のやり方は、タネ付け作業と共に企業機密です。かなりの電力を使ってやっているようです。

 漁船の海出し作業です。船はコールタールを塗った井桁のシュラの上に乗っており、船を押して海に入れます。写真の作業は、船の動きをストップさせているものです。ロープを少しずつゆるめて船を出していきます。


 船を引き上げるのは、写真手前にある「かぐらさん」と呼ばれる木造人力ウインチで行います。

 言い忘れましたが、船の動力は焼き玉エンジン(始動の時、シリンダーの上に真っ赤に焼いた鉄の玉を置くジーゼルエンジン)、スクリューとシャフトはひもでつるしてあり、海岸に上がる時は、船の尻のコーナーに収納されます。

 懐かしい古手拭いの世界

 東京湾観音落成記念と思われます。富士山、煙を吐く船、手前には富津岬に帆掛け船です。昭和36年の落成ですから蒸気船や帆掛け船はなかったはずです。 右と左上に書かれたご詠歌に、「観音の力にすがり念ずれば如月ふることも叶えたまわん」とありますが、「如月ふる」の意味が難しいです。広辞苑で慣用句にはありませんでした。「芽吹く季節に雨を降らす」意味でしょうか。それだと観音様にすがらなくても何とかなりそうです。それなら重く受け止めて如月はお釈迦様の命日月ということだそうですので亡き人の復活をにおわせた慣用句かも知れません。

 穀物商のPR手拭いです。米、パン、芋はいいとしてウサギも扱っていたのでしょうか。わずか50年前なのですが、もう当時の常識が分からなくなっています。

 消えた沿岸定期航路。富津市では、富津岬から横須賀、横浜航路、小久保からも横浜、横須賀航路、金谷から久里浜航路これは後にフェリーなりますが、出ていました。定期船は貨客船で、客室は畳敷きでした。上総湊、竹岡などは不定期の渡海船(トケイセン)で、石材、砂、薪、炭その他の運搬でした。

 真福寺の参道改修竣工記念の手拭いです。

 大貫小学校体育館の新築竣工記念。今ならタオルでしょう。

 乗り物事始め

 明治37年。大貫小学校での自転車試乗会です。この種の流行は東京などとほとんど同時に進行します。右端の少年の鉄棒にぶら下がっている姿が印象的です。

 鶴峯八幡宮の宮下の乗り合いバスです。大正時代後期の写真です。

 ちなみに階段両側の石垣が二段ありますが、上の段は、御影石で通称トウフ石。道路の高さまでおよそ150cmの1枚石で、厚さ80cm、長さ400cm、重さ13トン。江戸時代中期天明元年(1781)に大坪浦から引き上げられました。5代佐貫藩主(正実(まさざね)様、(幼名房五郎)、当時18才くらい)の初入部(お国入り)記念事業で藩の肝いりです。(補助金が出た)

 昭和34年。祭りの触れに借り出されたオート三輪車です。これはこれで発達の歴史があり、運転者は当初はドアのない中央で燃料タンクにまたがってハンドルを握る形でしたが、後期になると右側ベンチシートに丸ハンドル、レバーチェンジャーになりました。

 昭和36年頃。新品のホンダベンリー号です。排気量125ccです。上位機種にドリーム号2気筒250ccがあり、どちらも空冷4サイクル。ホンダは4サイクルエンジンにこだわっていました。

 なお、ホンダの最初の四輪車はチェーン駆動だったそうです。古老が言ってました。

 時代が不明です。大貫の定期船昭和丸の広告看板です。色合いに高級感があります。さぞや豪華客船と思いきや・・・・・・・・

 時代は終戦直後(昭和20年頃)に下りますが、昭和丸の降船風景です。にわかに庶民的になります。とても、紳士淑女にシャンパンと言うわけには行きません。これが現実です。

 大貫駅。夏の出札口風景です。床に水打ち、柱の上にはフグのハリボテ細工と網のオブジェ、少女の糊のきいた白いワンピースと、か細い足にサンダル。避暑地の出来事です。

 大貫、岩瀬橋から海岸に向かう乗馬姿の人々。昭和27年元旦初乗りです。写っているのは富豪と言うことではなく、牧場を営んでいた地元の人です。