もとはカナダで放送されたテレビ番組だというので、大した期待もせずに見たのだが、なかなかどうしてたっぷりお金と手間をかけた力作であった。
主演クラスには、ダン“フジテレビです”アイクロイド程度しか有名俳優はいないが、政治家や官僚の役でクリストファー・プラマー、マイケル・アイアンサイド、ジョン・リスゴーといった達者な役者が脇を固めているし、何より真の主役と言える戦闘機アローのレプリカが素晴らしい出来であった。まったくその出来は実機とみまごうばかりで、全機スクラップにされ設計図すら残っていない筈のアローをどうやったらここまでリアルに作れるのか、実に不思議な話である。
演出もテレビ映画だからなのかも知れないが、実に判りやすく、キャラクターの描きわけも巧みで、三時間という長尺も気にならなかった。狂言回しの女性エンジニアが、物語の中心にいながらあまりエピソードに絡んでこないのが少しばかり気になったが、彼女が存在しないとほとんど男ばかりの映画になってしまうので、やむなく作ったキャラクターなのだろう。映画の最後に出てくるアメリカン・グラフィティ風のキャラクターのその後を見ると、かの女性エンジニアもまったく架空の存在というわけでもなかったようだ。まあ、モデルとなった女性もチームの中にはいましたよ、といった程度のものだろうが。
しかしやっぱりこの映画で特筆すべきなのは、なんといっても未だかつて見たこともなかったようなエアリアル特撮であろう。アローが初飛行するあたりは残されている記録フィルムを使っているものの、ラスト、206号機の飛行はラジコン機とコンピューター合成100パーセントのSFXで作られていた。このラジコン機の飛びっぷりが見事で、全機スクラップの事実を知らない人間が見たら、単に博物館に保存されていた実機をレストアして飛ばしているとしか思えないだろう。さすがに成層圏を抜けて、宇宙の入り口に達するあたりは模型を使った合成になっていたが、このあたりの撮影もかつてなかったほどリアルで、往年の「ファイアフォックス」のSFXなどとは隔世の感がする。
誉めてばかりいてもなんなので、ちょっと文句を言わせてもらえば、翻訳が幾分心許ない。風洞実験設備が不十分だと嘆くシーンで、ラングレーのを使えばいいといわれたエンジニアが、「だけどあれは国の施設だ」というのだが、この場合のステイツは国ではなく、ユナイテッド・ステイツをさす言葉である。つまり、カナダの戦闘機を開発している彼らがアメリカの施設を使わせてもらえるのか、というニュアンスの台詞なのだ。他にもはっきりとは思い出せないが、何カ所かそのような不十分な訳があったような気がする。
それから、これはおそらく故意なのだろうがアローがテスト飛行時に国境を越えてアメリカの空軍基地をかすめるシーンで、基地に並んでいるのがすべてF-86なのである。物語の設定は1958年で、とっくの昔に朝鮮戦争も終わり、センチュリーシリーズ全盛期の頃である。ANGあたりにもF-100くらいは行き渡っていたはずで、いくらなんでも86はないだろうと思う。たぶん鋭い楔形のアローと対比するために、見るからに前時代的な86を配置したのだろう。しかし、並んでいた86はすべていかにも当時らしい派手な塗装に身を包んでおり、登場したのがほんの2.3秒程度だったことを思うと、製作者の完全主義にはまったく脱帽してしまう。
久々にレーザーディスクが出ていないことが惜しまれる作品に出会ったような気がする。・・・
映画本編の話をする前に、呆れ返るような話を一つ。ジャケットの裏面に大きくキャッチコピーが印刷されているのだが、なんとそれが、物語の結末をネタばらししてしまっているのだ。推理小説で犯人の名前をあかしてしまうのとまるで同様の行為である。このコピー自体はライナーノーツからの引用なのだが、こんな内容の解説を書く映画評論家もさることながら、その中でも一番隠しておくべき部分を堂々とでかい活字で印刷してしまうコピーライターの常識のなさにはまさしく開いた口がふさがらない。
この映画は推理ものではないから結末をあかしてしまっても大した問題はない、とでも製作サイドは考えていたのだろうか。だとしたら、この連中にドラマがどうのこうのと論じる資格はまったくないと言っていい。どんな文芸大作だろうと芸術性の高い映画だろうと、映画芸術はすべて時間の流れに沿って表現される宿命を持っている。逆をいえば、前もって次のコマが見られないから映画は芸術として成立しているのだ。基本的には、どんな内容の作品だろうと、出来るだけその映画に関する情報を遮断した状態で、言い換えれば予備知識無しの状態で観るのがもっとも正しい映画の見方なのである。こうしたキャッチコピーをなんの疑問も持たずに載せてしまえる感覚を持った人間にこんな事をいっても無駄かも知れないが、もう少し映画を「鑑賞」する、という行為の持つ意味を考えて欲しかった。
ところで本編だが、有名なアラン・シリトーの小説をシリトー本人が脚色し、「蜜の味」のトニー・リチャードソンが監督した青春ものの佳作である。よくある不良少年を主人公に据えた作品で、この流れは「さらば青春の光」から「トレインスポッティング」まで、イギリス映画の伝統と言えよう。
原作を未読なので詳しくは判らないが、主人公コリンの心理描写がまったくと言っていいほどないので、彼が何を考えて長距離ランナーとなり、何がいやでゴール直前で走るのをやめたのかよく判らない。まあ、ライナーノーツにあるような紋切り型の解釈をそのままナレーションで流したら、映画として成立しなくなりそうなのでやむを得なかったのかもしれないが、それにしてももうちょっと心の中を露呈するシーンがあってもよかったのではないか。
ラストのコリンの判断が、果たして観客にカタルシスをもたらすか否かは、アホコピーライターのおかげで永遠に判らなくなってしまったが、そこそこ意表を突く展開だったのかも知れない。ま、当時の映画は「大脱走」では脱走に失敗してしまうし、「栄光のル・マン」では優勝できないし、一種の「敗北の美学」みたいなのが流行っていたから、こういうエンディングもありだったのかもしれないが。・・・
ずいぶんかわった名前の監督だが、聞くところによるとインディアン系なのだそうだ。かわった名前のわりにはちゃんとしたアクション・ムービーに上がっていたが、主人公のキャラクターなどにマイノリティ独特の屈折があるようにも感じられた。特にFBIの描き方など、当時を描いた作品の中でも「フーバーの手下」といったイメージを一番よく伝えていた。
映画は、主人公ニック・ノルティ演じる警部補のもと愛人(ジェニファー・コネリー=巨乳!!)の不可解な死から始まり、物語は二転三転して、原爆開発に関わる影の部分にまで言及する、アメリカ映画としてはちょっと珍しい作品である。相棒の刑事との友情の描き方がやや不足していたために、結末が少々ドライに見えてしまう嫌いもあるが、全体としてはなかなかよくできた作品だった。
それから、これは映画の内容とは直接関係ないが、アメリカ映画の時代考証は日本のそれと見比べると、街の風物や走っている車など、はるかに行き届いている。本編でも刑事たちがオープンカーで町中を走るシーンなど、すれ違う車やバスがいちいち当時のモデルを使って撮影しており、画面の説得力が日本映画の同種のものとは格段の相違を見せいてる。この手のことは、プロデューサーが少しやる気を出せば日本でも決して不可能ではない筈なのに、とんと見かけることはない。たまに出てきても、ほんの一台、二台といった態で、かえってやらない方がリアルなくらいだ。・・・
フランス映画の現在の流れを感じさせる作品。物語を力まず、さらりと描く手法は、一昔前の日本映画にもあったような気がするが、ヒロインのまわりにホモやらレズやらがあふれているあたりは、やはりいまの映画である。物語はタイトル通り、ヒロイン=クロエの飼い猫グリグリが行方不明になるのだが、それを探す過程で巡り会う様々な人たちと織りなす、さしてドラマチックでないドラマがユニークで面白い。
大上段に振りかざしたテーマがあるわけではないが、パリの下町の一断面を描いて飽きさせない。特に、ドラマーの青年が思わせぶりに何度も登場して、いかにもヒロインの運命の恋人のように見せながら、一度ベッドをともにしてあっさりと別れてしまうあたり、にくい演出だ。でも、やはり女の子は可愛い方が得だ、という話のようにも見えるが。
猫発見の経緯もまた物語と同じく人をくっていて、いかにもと思わせてくれる。なかなかのハッピーエンドなのだが、終盤、友人の画家が引っ越ししていったのを見送った後、なぜかヒロインが全力疾走するラストが意味不明で、幾分疑問が残った。あれは一体どういう意味だったんだろう。・・・
ジョン・ウーがハリウッドに招かれる前、香港で最後に撮った作品である。さすがジョン・ウー、これでもかといわんばかりに火薬が炸裂し、最初から最後まで派手に撃ち合ってくれる。しかしやはり香港ニューウェーブの監督だけのことはあって、映像感覚は日本の同ジャンルの作品などとは比較にならないセンスを感じさせる。
クレーン移動を巧みに使ったアクションの演出とか、何気ないシーンの凝ったカメラアングルなど、いちいち取り上げたらきりがないほど「絵」づくりにはこだわっていた。もちろん演出のテンポもよく、この種の映画としては長尺であるにも関わらず、時間を感じさせなかった。登場する二人の主人公、チョウ・ユンファとトニー・レオンは、クールとホットの全然異なるキャラクターを過不足無く演じ、ハリウッド製のコップアクションに一歩も引けを取っていない。唯一のマイナス点と言ったら、これは香港映画すべてに言えることだが、なぜかいまだにドルビーサラウンドが導入されていないことくらいだ。・・・
とにかく、昔の日本映画は文句無しに面白かったことを証明する一本である。岡本 喜八という人は、黒澤 明とならんで東宝の一番面白い頃を背負って立つ監督だったと思うが、芸術家肌の目立つ黒澤と違って岡本はもっぱら娯楽作品の名監督として評価されているようだ。確かに岡本の撮る映画の面白さは、芸術的才気と言うより、職人的な名人芸と呼ぶ方がふさわしい。
今回の「斬る」にしても、大勢の登場人物を過不足無く的確なキャラクター描写で生かし、見せ場の多い複雑な物語を実にすっきりと見せている。それだけなら他にも出来そうな監督はいるだろうが、岡本の場合、凄いのはそれだけ整理された物語の中に、実にすんなりと数々のギャグを詰め込んでいるところである。それによってキャラクターの説明を一挙両得にこなしてしまうあたり、やはり名人芸だ。・・・
公開時にはなぜか不評で、各紙の評論なども厳しいものが多かったようだが、ベッソンの作品であるという期待と、ハードSFという先入観が過大な期待を抱かせ、結果的に期待はずれと思わせたのではないだろうか。軽いスペースオペラとしては、出色の作品だと思う。
確かに、2001年やブレードランナーのような作品とは(少なくとも内容的には)比べるべくもないが、ビジュアルイメージはやはりベッソンの作品と思わせてくれる。所々に過去の名作へのオマージュと思われるカットがあり、演出全体もコメディタッチでにやりとさせられる。
ラスト近くでヒロインが地球の歴史、それも戦争の歴史を学んで人類に幻滅するシーンはちょっと蛇足という感じがしたが、まあ、おおむねそれほど変なところもなく(ゲーリー・オールドマン演じるキャラクターは、すべてを破壊する悪から一体どんな報酬を得るつもりだったのだろう)すんなり見られるSF映画として完成していた。・・・
以前観た「デリカテッセン」と同じ監督の作品だが、ものの見事に同系の作品として仕上がっている。大道具の感じとか、全体の色彩設計とか、ことごとく「ジュネ」印の作品なのだ。
物語は異形の者たちにさらわれた弟(?)を探し求める少々頭の足りないサーカスの怪力男が、子供強盗団の少女の力を借りて弟を取り戻すまでが描かれているのだが、目が小さなテレビカメラに置き換わっている「一つ目族」とか、みんな同じ顔をしたクローンの兄弟とか、かなり危ないシャム双生児の強盗団頭領とか、登場人物はいかにもジュネらしい。
そんな中で今回目立ったのは、CGの見事な使いこなしだった。特に、サーカスの蚤使いが操る蚤は、ちょっとどうやって撮影したのか判らないほどで、アメリカ映画でよく目にするいかにもCG然としたクリーチャーとは比較にならない程良く出来ていた。他にも、たとえば夢の中で少女が老婆に変身するシーンとか、センスを感じさせるCGの使い方が目立った。物語ははっきり言って少々不自然で、展開も自主映画的な難解さがひっかかるが、これはある程度監督の個性ととることもできる。
次回作はなんと「エイリアン4」と言うことだが、この分ならたぶんかなり個性的なエイリアンが完成するだろう。・・・
二人のレズビアンの女が結託してマフィアの金を横取りするという、一種のクライムストーリィだが、脚本が非常に巧みで先が読めず、スリリングな作品として成立している。特に、かもられるシーザーがそこそこ賢い奴で、女たちが考えたようには行動せず、おかげで物語が二転三転するあたり、人間がまるっきり描けないどこかの仮想戦記作家センセイに見せてやりたいくらいだ。撮影もカメラマンがサム・ライミの一連の作品を撮った人で、なかなかスタイリッシュで鮮やかだ。
唯一気になったのは、あれほど上等なコンドミニアムなのに、どうしてあんなに壁が薄いか、という点だ。まあ、壁の薄さが物語のキーポイントになってくるので仕方ないのかもしれないが、ちょっと不自然だった。・・・
カール・セイガンの原作をフォレスト・ガンプ効果で上り調子のゼメキスが映画化した作品だが、原作の持つ科学性を十二分に生かしていたかと言えば、少々疑問が残る。大まかな語り口は原作同様、宇宙から送られてきた信号をたよりに宇宙機を作り上げ、信号の発信地へ旅するというのが筋だが、原作に比べて謎の資産家とかテロリストとか、本筋以外の部分でドラマを作りすぎ、肝心の宇宙からのメッセージをいかにして解読するかといった、映像化しづらそうな部分はあっさり飛ばしてしまっている。
原作自体読んだのが相当昔なので、ディテールはすっかり忘れてしまっているが、少なくとももう少し論理の部分が多かったような気がする。SFXはさすがに現代のものだけに、なかなか見事なものだが(ILMではなく、ソニーの映像部門がクレジットされていた)たとえばジョディ・フォスターが知床(?)の基地に乗っていったVTOL機が、飛行中と機内から降りるシーンで全然違っていたりして、ややちぐはぐなのが気になった。エンディングもカタルシスのない、ゼメキスには珍しいもので、確か原作ではもっと違ったものだったような気がするのだが。
で、文庫の山を発掘して原作本を探し出し、斜め読みしてみたのだが、思いのほか原作に忠実に映画化されていたのでちょっと驚いた。もちろん、宇宙機に乗り込むのがヒロイン一人ではなく全部で五人もいたり、死んだ父が実は本当の父ではなく、継父だと思っていた人物が実の父だったりといったドラマが用意されていたりして、小説版の方が全体に話が複雑である。
しかし一番違っていたのはエンディングで、この違いが作品全体の印象を大きく変える原因だったようだ。原作では、ヒロインがパイの小数点以下の数字の羅列の中に、創造主のサインが残されているのを発見するという、センス・オブ・ワンダーにあふれたエンディングだったのだが、映画版ではそれがないために何か中途半端な印象だったのだ。どうしてあんな半端な終わり方にしたのか、監督の意図が今一つ分からないが、円周率の中に神の印を発見するという着想が少々判りづらいと思ったのかも知れない。・・・
題材としては、「ダンテズ・ピーク」に続く火山噴火を題材にしたパニックものであるが、噴火する場所がロスアンジェルス市内というまさに足元に火がつく設定が新鮮だ。しかし、火山国であるわが国に暮らす立場からすると、火山や溶岩に対する見方は少々甘いといわざるを得ない。実際にこんな小規模で噴火が起こるとは考えられず、また、この程度の対策で火山噴火がコントロールできるなら、世界の火山災害は大幅に減るだろう。
CGを駆使した溶岩描写や、噴煙の処理など、一昔前のパニック映画と比べれば格段の進歩ではあるが、それでも噴火という一大スペクタクルを描写し切れているとはとても言えず、物語の御都合主義的展開も相まって、トミー・リー・ジョーンズの好演にも関わらず結局のところB級作品にとどまってしまった。・・・
一連の裕次郎のムードアクションものの最高傑作といわれる作品であるが、確かに他の作品と比べれば完成度は高いものの、やはり日本映画特有の御都合主義的展開は健在で、物語に多少の無理を感じてしまう。
たとえば、二谷英明演じる刑事がおでん屋の親父にわざと拳銃を奪わせて、同僚の裕次郎に射殺させるようしむけるという設定は、あまりに不確定要素が多すぎ、とても緻密な作戦とは思えない。いかに麻薬組織が恐ろしくても、それだけで警官の銃を奪って逃げるという行動に出る理由には弱いし、ラストの謎の解明のように、二谷がそそのかしたと考えるには、ちょっと不自然すぎる。もし自分を護送する刑事がそんなことをいえば、裏事情に通じている筈のおでん屋がなにか感づかないはずはない。
そのあたりの無理に目をつぶれば、裕次郎も浅丘ルリ子も好演し、なかなか雰囲気のある作品に仕上がっている。二谷も単純な悪役とは設定されておらず、おでん屋の娘浅丘ルリ子に芯から惚れていて、彼女に撃たれても、その銃で自分を撃ち、あくまで自殺として処理するよう懇願しつつ死んでいくという徹底ぶりだ。浅丘ルリ子が裕次郎に惹かれ、抱かれようとするあたりの展開に幾分無理があるような気もするが、何しろ裕次郎はスーパーヒーローなので、当時の観客には当然のことだったのかも知れない。
それにしても、劇中に「赤いハンカチ」など一度も登場せず、なぜ表題となったのか不思議といえば不思議である。確かに何度となく劇中で裕次郎が口ずさんではいるが、ただ主人公が唄っている曲だからという理由で映画自体の表題にされるというのも、いささか無理があるような気がする。・・・
三千花サンは「才能の浪費」などとのたまわっていたが、僕にはそこそこよくできたジェットコースタームービーに仕上がっていたように見えた。ヤン・デ・ボンやレニー・ハーリンの一連の作品や本編のような仕掛けで見せてしまう類の映画は、とかく評論家受けは悪いものだが、金を払って観る方としては映画に人生の指針を求めているわけでも、文学作品のような深い感動を求めているわけでもなく、単に痛快なストーリィと見応えのある派手な特殊効果を求めているだけで、そのあたりがちゃんとしていれば文句はないのだ。そういう見方で本編を観れば、文句などあるはずもない。
物語は不慮の殺人で刑務所に入れられた主人公が、仮出獄を前にして護送機をハイジャックされ、最終的にハイジャック犯を倒すというものだが、登場する輸送機がまたしてもフェアチャイルドC-123プロバイダーで、飛行する姿をたっぷりと見せてくれる。この手の映画はまさに彼らの独壇場だ。これでもかというサービス満点の展開は「スピード」を思わせ、娯楽に徹するという点ではまさにお手本と言っていい。・・・
絵に描いたようなB級スペースオペラである。一応スペースシャトルが飛ぶ時代の映画であるから、宇宙描写にあまりひどい誤りはないが、意識的に往年の宇宙ものの香りを残す努力は感じられる。SFXこそまあまあの出来ではあるが、登場する俳優は主役のデニス・ホッパー以外全員無名で、低予算ならではの苦しさがうかがえる。
物語は最後にちょっとしたひねりはあるものの、そこそこの出来という感じで、あまり新味はない。強いていい点をあげれば、全編に漂う「なごみ」感覚だろうか。別にコメディと言うわけではないのだが、物語り世界に安心して浸れる感じがいい。これはある意味で、水戸黄門など日本のテレビ時代劇にも通じる感覚だろうか。・・・
かつて自らが書いた舞台劇の映画化なので、脚本を知り尽くしているだけに見せ場の設定や山場の演出など、監督第一作としては出色の出来となった。導入部の長回しから始まって構図の取り方一つ一つがテレビではない、映画のフレームを意識したものにちゃんとなっている。
数年前、古畑任三郎の1エピソードで客演したさんまと対談したとき、いかに彼が脚本を勝手に改竄していたかを綿々となじるくだりが面白かったが(もちろんその場の受けを狙ってしたことではあったと思うが)その中に幾分かの本音も含まれていたようにも思える。本編のテーマはまさしくそれで、むろん原作の舞台劇はそれより遥か前に書かれたものなので直接の関係はないが、ギョーカイの体質をそれとなくえぐってみたのだろう。
全体にそつなく仕上がってはいるが、ラストの盛り上げにやや計算違いがあったようにも思える。押さえ気味に展開してきた物語がここで一気にカタルシスを放出するわけだから、たとえば構図の変化やズームの多用などでもうちょっとけれん味を聞かせた演出でもよかったのではないか。・・・
この手の話の演出にかけては専門家と言っていいペーターゼンの手になるだけに、メリハリの効いたストーリィ展開は手慣れたものだが、今回ばかりは設定にやや無理があり、編集の不備なのか伏線の処理にややおかしいところもあって、完成度はペーターゼン作品の中ではイマイチであった。
しかし本編のいちばん不満な点は、CGによるエアフォースワンやF-15の描写があまりにうそ臭く、リアリティの無い点であった。このCGを作った人はおそらく航空機の動きに関してあまり明るくなく、本物の飛行機もスターウォーズのXウイング並みの動きが出来ると思っているのだろう。燃タンを捨ててアフターバーナーに点火したF-15がXウイングの出発シーンのごとく飛び出していく様は、実機に関する無知を露呈しているし、空中給油中の火災でタンカーが失われるシーンも説得力がない。
最悪なのは燃料を使い果たしたエアフォースワンが墜落するシーンで、数回バウンドしたあげくバラバラに破壊されるのだが、その壊れ方といい飛び散る水しぶきといい、実写と見まごう出来とはとても言いがたい。すべて技術的に不可能だからではなく、製作者のセンスの問題だけに残念だ。・・・
日本では「タイタニック」に次ぐ大ヒットを記録し、いまだに上映中の「ディープ・インパクト」を監督したミミ・レダーの、劇場用映画デビュー作である。さすがにスピルバーグが見込んだことはあって、女だてらにアクションにかけてはなかなかのセンスを見せてくれる。演出はややぶっきらぼうに思えるほど骨太で、きっちり見せ場を心得た見せ方は確かにただ者ではない。
しかし一方で、女性ならではの細やかさが少々不足気味でもある。たとえば、冒頭の部分で強奪作戦に恐怖を覚えた部下を、将軍があっさり射殺してしまうあたりはやや薄っぺらな印象が残っていただけないし、もう一方の敵、ボスニア人のイスラム教徒がなぜ国連本部を核兵器で攻撃するのか、イマイチ納得できない。現実的に考えれば、もし彼らが核兵器を使う自由を得たら、まず間違いなくセルビアに対して使うはずだ。大体ボスニアの内戦でもっぱら使用されたのは旧ソ連製の武器であり、西側の兵器などにはほとんどお目にかかったことはない。この点でもなぜ彼がニューヨークを狙うのか、よく判らない。
しかしこの映画で一番感じたのは、アメリカ人の核兵器、というより核物質への感覚の鈍さだ。ラストでニコル・キッドマン扮するヒロインは、プルトニウムを臨界に達しないようにするために、まわりを取り囲むデトネーターパネルを一枚取り外し、かろうじて核爆発を逃れるのだが、理論的には確かに正しいもののデトネーターの爆発によって相当量のプルトニウムが飛散し、至近距離にいた二人はかなりの線量を被爆したはずである。とてもラストシーンのような事は出来ないはずだ。キャメロンの「トゥルーライズ」でもそうだったが、どうもアメリカ人の頭の中には「核兵器=とてもでっかい爆弾」程度の認識しかないようだ。
ところで、中盤のカーチェイス、相手は一体誰だったんだ??・・・
「ブロークン・アロー」に続いてジョン・ウーのハリウッド三作目となる監督作品だが、彼らしい特色は前作よりさらによく出ている。設定それ自体はちょっとありえない、無理の多すぎるものだが、むりやり映像で見せて説得してしまう手腕はさすがだ。設定が無理なだけに、脚本には相当手をかけたらしく、細かい伏線があちこち張りめぐらされた物語はなかなかよくできていて、二時間を越える上映時間をたるみなく支えている。主人公たるアーチャー(ジョン・トラボルタ→ニコラス・ケイジ)は当然だが、敵役の(ニコラス・ケイジ→ジョン・トラボルタ)のキャラクターもかっちり描いており(たとえば出来の悪い弟に注ぐ愛情とか、アーチャーの娘に対する態度とか)彼らの演技力も相まって無理な設定に説得力を与えている。
もちろんジョン・ウーの作品らしく派手なガンプレイは健在で、ニコラス・ケイジなど黄金のガバメント二挺拳銃をばんばん撃ちまくる。以前映画紹介番組で、監督のジョン・ウーがかっこいい銃の撃ち方を説明していたが、彼の言うとおり、全員が拳銃を片手でホールドしていたのには驚いた。もっとも、自衛隊の教本の中でも拳銃の撃ち方は片手ホールドが基本となっているので、誤りと言うわけではないが。・・・
動物を主人公にしたファンタジーというと、最近で思いつくのはまず「ベイブ」だが、本編はそれより多少現実的ではあるものの、基本的にはやはりお伽話の系列に属する物語である。
亡父の遺産として古びた一軒家を相続したとぼけた兄弟が、その家に住み着いていたネズミと戦う話だが、いくぶん話が単純に過ぎ、キャラクターを十分活用しないうちに話が終わってしまった感が強い。たとえば怪物のごときモーレツ猫「キャジラ」など、ホンのわずかな出番しかないし、クリストファー・ウォーケン演ずるネズミ駆除業者など、もったいないくらいキャラクターを生かさないまま終わっている。
ネズミを退治しようとして最終的に家を失ってしまうという展開も、少々拙速に過ぎ、盛り上げが足りなかったし、何より98分という上映時間は最近の映画としてはいかにも短すぎる。もう一山作って話を盛り上げれば、あるいは「ベイブ」に匹敵する動物ファンタジーとなっていたかも知れないと思うと、残念だ。
最後に、主演のネズミはなかなか可愛く撮れていたが、本物のネズミを使ったライブシーンとCGによるアクロバット的な動きのシーンがいかにもかみ合っていなかったのはいただけない。あれではちょっと擬人化のしすぎだ。・・・
久しぶりに見た石井映画だが、今回はもと劇画家のキャリアを十分生かしたアクション映画となっていた。以前の石井作品と比べてエンターテインメント性が強くなっていて、いかにもハリウッドあたりの活劇を意識した作りになっている。
しかし物語の骨子の部分は結局血の呪縛から逃れられず、日本映画の限界もまたあらわになってしまっている。この辺は脚本も石井本人が書いているので、全面的に彼が責任を負うべきだろう。
主演は「魔性の女」葉月里緒菜。初のアクション映画になかなかがんばってはいるが、トレーニング期間が短かったせいかあまり様にはなっていない。ラスト近くの戦いで、彼女がエスカレーターの上から地面に飛び降りるシーンなど、客席から失笑が起こるのではと心配になるほどぎこちない。ガンプレイも、「マリーの獲物」などから比べれば遥かにましではあるが、たとえば銃声などどの銃も同じであるし、反響の仕方を場面によって変えるなどの工夫もなく、画一的でリアリティに乏しい。
どういう訳かヒロイン一光は(今気づいたのだが、今回のヒロインはいつもの「名美」ではない。こんなことは今までの石井作品にはなかったのではないか)ステンレス仕上げの45口径のガバメントを使用しており、小柄な彼女が持つとまるでデザートイーグルとみまごうほど巨大に見える。
些細なことだが弾を撃ち尽くした一光がマガジンを交換するシーンは、なぜか落ちていたハンマーを起こすくだりがあって不自然だ。シングルアクションのオートマチック拳銃は、全弾をうち尽くしてスライドを戻し、その後空撃ちでもしない限りハンマーが落ちることはない。まあ、凡百の日本製アクション映画の中ではましな方ではあるが、ジョン・ウーあたりの活劇を見たあとではいかにも物足りなく、パワー不足は否めない。この分では、Vol.2が作られることはまずないのではないか。・・・
ハリウッド映画やプレイステーションに影響を受けて育った世代の映画だと監督のクーネンがどこかのインタビュー番組で言っていたが、確かにその通りのノンストップアクションムービーで、既成のいわゆる「フランス映画」のイメージからはほど遠い作品である。
映像はきわめてスタイリッシュで、多用される移動ズームや画面分割による特殊効果など、これでもかと言うくらいに凝っている。しかしその分脚本がややお留守になってしまったようで、物語にあまりに捻りが足らなすぎ、あっけない感じで終わってしまうのはいただけない。ハリウッド製の映画なら、あのクライマックスのあとに悪玉刑事がサイボーグとなって甦り、もう一波乱起こすところだろう。・・・
お笑いコンビ「テンション」を経て、今や貴重なお笑い系脇役としてあちこちに顔を出すようになった俳優田口浩正の、第一回監督作品である。普段の田口からは想像もつかない凝ったサイコサスペンスで、一応それなりに作品として成立はしているが、残念ながら及第点にはちょっと及ばない出来であった。
この種のサスペンスでは開始早々から観客をぐいぐい引っ張っていくことが重要なのであるが、その点本編はあえて狙ったのか変化のない構図で長回しという手法が多用されており、結果としてテンポの悪い、俳優の演技力だけに頼る退屈な映画になってしまった。
脚本もあまりいい出来とは言えず、最後のクライマックスへの盛り上げがあまりに不足していて唐突に思えてしまう。なぜ田島(=田中)が生家に戻っているだろうと主人公が思ったのか判らないし、彼が田中に刺されるシーンもわかりにくく、もう少しカットを割ってちゃんと表現してほしかった。大体においてサイコネタはベテランの演出家にとっても難しいものの筈で、監督第一作にこうしたテーマを選んだ田口の意欲は買うが、正直言って意欲ばかりが空回りしてしまった感は否めない。・・・
原作は、言わずと知れた小澤さとるの海洋冒険SFマンガだが、原作から引き継いだのは「青6」という潜水艦の名前と、敵がゾーンダイクという謎の人物である、という点くらいで、ほとんどオリジナル作品と言っていい。
OVAとしては破格の予算と製作時間をかけた力作で、確かにお金と手間がかかっていることはよく判る。しかし全体を束ねるセンスがやや破綻している印象が残る。はっきり言って人物が演技している場面の2DCGと、メカ描写の3DCGとが旨くマッチしていないのだ。ちょうどTVアニメの「頭文字D」と同じように、どうしてもつぎはぎっぽく見えてしまう。
人物も3DCGにしたのでは違和感が激しすぎるだろうから、やるとしたらメカ部分をもう少し2DCGに近づけるしかないだろう。肝心のドラマ部分はテーマをあまりに小出しにしたために、3DCGのアクションのみが印象に残る結果になってしまった。もっとも、それでも小澤さとるの原作よりずっと今の観客にはアピールするだろうが。・・・
ID4に続いてウィル・スミスが主演する二本目のSF大作。こちらはアクションコメディと言っていい乗りの作品で、もちろんSFであるからには前作同様地球の命運は主人公の活躍にかかっているのだが、ID4のような悲壮感はどこにもない。リック・ベイカーの手になる宇宙人たちは、どれもどこかユーモラスでありながらリアリティもそこそこあり、物語が全くの絵空事なるのを防いでいる。
ラストの見せ場でのCGによる宇宙人(宇宙昆虫?)との戦いはよくできているが、体内から光線銃を発砲して破裂させ、たっぷり体液を浴びた筈なのに、ヒロインを送っていったときの彼らの服にはなぜか少しも染みがない。ヒロインが現場にいたときのままのよれよれの格好だからよけいに目立った。メン・イン・ブラックの黒いスーツには、何か特殊な仕掛けでもしてあるのだろうか。・・・
もっと短い話かと思っていたが、実際には二時間20分にも及ぶ長尺であった。しかし小気味よい脚本と演出、そしてなによりも主演のジャック・ニコルソンとヘレン・ハントの好演により、少しも長さを感じさせない作品となっていた。
いつも観ているような、撃ち合いバンバン火薬ドッカーンの映画とは違って、いわばちゃんとした恋愛映画なので評価が難しいが、少なくとも退屈するような映画ではなかったことは確かだ。例によってニコルソンのキャラクターづくりが面白かった。小説の中では女心をとろけさせるような台詞を連発できるのに、実生活ではいつもよけいなことを言ってはまわりの人間にけむたがれる、嫌われ者の中年男をいつも通りちょっとやりすぎなくらいクドく演じていた。
それにしても、作家なら多少は自分のキャラクターの台詞を引用したりして、気の利いたことを言おうと努力しそうなものなのに、全然そういうシチュエーションがなかったのが少し気にかかった。・・・
スピルバーグがロストワールドに続いて撮った、歴史大作である。このところスピルバーグはジュラシックパークを撮ったあとにはシンドラーのリスト、ロストワールドのあとには本編と、エンターテインメント系とシリアス系を交互に撮っている。もっとも本編に続く作品もプライベート・ライアンと言うシリアス系であるが。
ほぼ二時間半にも及ぶ長尺だが、スピルバーグらしいメリハリの効いた演出とマシュー・マコノヒーやアンソニー・ホプキンスらの好演によって長さを感じさせない作品になっていた。特にアンソニー・ホプキンスは出番こそ少ないもののラストの最終弁論の説得力で、美味しいところを全部持っていってしまった。おかげでわりを食ったのが黒人解放運動家を演じたモーガン・フリーマンで、ほとんど何のために登場しているのか判らないキャラクターになってしまった。スピルバーグとしては、事件の顛末をアメリカに在住する黒人を目を通しても描きたかったのだろうが、その目論見は残念ながらとても成功しているとは言えない。・・・
原作を読んだのがもうかなり前だったので、ディテールに関してはほとんど覚えていないが、雰囲気は大体こんなものだったような気がする。原作が発表された当時、そのあまりの右より姿勢に賛否両論が渦巻いたものだが、バーホーベンはあたかもそうした論議に油を注ごうかとでもしているかのように、原作の持つプロパガンタ的側面を強調してみせる。これは明らかに確信犯的行動で、ロボコップの頃から一貫して描いてきたディストピア物の延長と見ることが出来る。その証拠に主人公たちの属する地球連邦軍の制服は、どう見てもナチスドイツのそれであり、訓練内容もアメリカ海兵隊的と言うより、ナチスの親衛隊的である。
自分たちの作戦内容に疑問を持つシーンも、注意していないと気づかない程度だが、ちゃんと挟み込まれている。端的に言えば、「さきに手を出したのはオレ達の方だ」というような台詞があるのだ。こうした視点はアメリカ人の監督には取り得ないもので、オランダ出身という監督の出自を思い知らされる感じだ。
以上のような深読みをせず、単純なアクションものの映画として観れば、SFXはかなりの迫力で、テンポもよく、戦争映画の変形としてはまとまっていると思う。バグたちの大群が押し寄せるCGによる特撮は、息を呑むリアリティで、もうCGさえあればクリエーターの頭に浮かんだものは何でも映像化できる時代に来ていることを実感させられる。スターウォーズの頃が、本当に昔話になってしまったのだ。
さて、あのあと泥縄式に原作をもう一度読み返してみたのだが、ストーリィの流れは想像以上に原作に忠実で、かえって驚いてしまった。もちろん1950年代に書かれた小説なので、軍隊内に於ける男女の区別は映画より遥かに厳然としており、新兵訓練でも原作では完全に男だけの世界として描かれている。
発表当時問題とされた「強烈な」タカ派色も、考えてみれば軍隊を題材としている以上当然描かれるべき限度を越えているとは思えない。愛国心を持たない軍人などはなから存在しないし、主人公の軍人がそれを声高に訴えたところで、別にどうという事もない。主人公リコの恩師が青少年への体罰の必要性を説くあたりが、一番の問題点なのだろうが、個人的に子供はある意味で動物だと思っているので、使いどころさえ誤らなければある程度の体罰は必要だと考える。体罰というものは、犯罪者への死刑みたいなもので、人間が人間である以上決して不必要にはなりえない必要悪なのだろう。
それより一番気になったのは、小説「宇宙の戦士」を象徴する存在として登場する強化防護服が映画には登場しない点だ。これなしには主人公は機動歩兵ではなくただの歩兵である。「ガンダム」始め、様々な映像作品に強烈な影響を与えた強化防護服が登場しない「宇宙の戦士」など、クリープのないコーヒーと言うより、コーヒー豆を使わないコーヒーみたいなものだ。この点が何よりこの映画の価値を低めている一大欠点だと僕は思う。・・・
今年度、タイタニックに次ぐ興業成績を上げたヒット作品である。売りのSFXはさすがにILMの手になるだけに、いささかCG臭さは残るもののなかなか大迫力の映像に仕上がっている。
肝心の物語だが、地球をめざす彗星をめぐって三つのドラマが展開し、それぞれちゃんとした結末を用意しなければならないという難作業を、どうにか無難にこなしてはいる。しかしそれぞれのドラマ部分がいずれも分量的に少なく、また、いかにもTV界出身者らしい、わかりやすさを旨としすぎる演出のおかげで深みのないドラマとなってしまった。
問題の彗星だが、別に天文学者でもない少年に容易に発見できたものが、それから一年もの間誰にも気づかれずにいたという設定にそもそも無理がある。彗星落下のCGも、落ちる寸前までのCGと、衝突する瞬間のCGで彗星の落下角度が明らかに違っている。・・・