何と言ったらいいのか、日本映画が駄目になったのは完全主義を放棄したからだ、というようなことをどこかのインタビューで言っていた奥山の得意げな様子から、この映画の性格を把握すべきだったのだろう。
確かに、部分的には完全主義という単語から想像されるような映像へのこだわりを見せてはくれるが、完全主義という言葉の持つ危険な陥穽、ひらたく言えば一人よがりの側面のほうが遥かにくっきりと見えてしまっている。結局何が何やら判らぬうちに終わってしまう脚本は問題だらけだし、奥山の自信いっぱいの演出も観客の視線を全くといっていいほど意識していない。
そうかと思うと突然プロデューサー根性が首をもたげたのか、パーティのシーンでは大勢の有名人(それも全員TVで顔の知られた人間ばかり)を起用して、妙に話題作りにはげんだりして、映画造りの姿勢に一貫性がない。この映画に幾ばくかの価値を見い出すとしたら、松竹という大映画会社の大物プロデューサーがこんな一人よがりの映画を撮れた、という事実を残してくれたということくらいだろう。・・・
ディズニーがゼロックスを導入して初めての作品ということだが、たしかに膨大な数のダルメシアンをちゃんと動かすにはその種の技術革新が必要だったのだろう。
画風はやはりゼロックス導入の影響が大きいのか、いわゆるクラシックの作品に比べるとかなりデジタルな雰囲気が漂っている。それ自体は決して悪いという訳ではないのだが、肝心の脚本ははっきりいってイマイチの出来であった。研ナオコみたいな顔をした悪玉のおばさんのキャラクター設定はあまりに無理があるし、手下たちにしてもディズニーの作品に出てくるにしてはやや地味すぎる。
本来ならかなりロマンチックな演出をすべき部分であるはずの、主人公夫妻の出会ってから結婚までのエピソードも、本筋ではないというただそれだけの理由からかあっさりと片付けられ、妻となった女性が何故あんな恐いおばさんを友人に持っているのか、全く理解できない。小犬たちが囚われていた場所から逃げだし、冒険のあげくようやく飼い主の家にたどり着くまでの経緯も、上映時間を気にしてか、たいした山も谷もなくスンナリと終わってしまう。全体として、ディズニーの映画には珍しく、あまり練った感じのしない物語であった。・・・
シリーズのほかの作品と同様脳天気な映画ではあるが、スケールを大きくしようと無理をしたためか、脚本にやや破綻をきたしてしまっている。
例によって体育会系の部活に打ち込む若大将が、対抗試合で勝利を収めるまでをストーリィの縦糸に、星由里子演じるスミ子さんとのすれ違いが横糸となって展開するわけだが、今回はその両者がうまくかみ合っておらず、結果的に競技のシーンが変に浮いてしまった。
肝心のアルプスのシーンにしても、タイトルに「アルプス」と銘打ってしまったがために撮影した感じで、ストーリィ上の必然性はない。若大将が歌うシーンにしても、ただレコードにあわせて口パクしているだけで、今の目で見ると不自然である。前作「エレキの若大将」ではもう少し工夫が見られただけに残念だ。・・・
原作は言うまでもなくかの士郎正宗の超難解SFアクション漫画だが、例によってかなり押井臭い演出がなされ、結果的に原作とは相当違ったムードの作品となった。
まずキャラクターデザインが士郎正宗というより萩尾望都みたいで何だか少し違和感があった。それから、士郎の作品はその描き込みとともにポップなノリのよさも特徴のひとつなのだが、これまた押井演出特有の重さに押し切られてしまった。
物語のテーマそのものは原作も映画も大差はないと思うが、あえて言えば基本的に楽観的である士郎の原作に比べて、押井の演出にはどこか未来に対する悲観的な視線を感じてしまう。両者の違いはそのエンディングにもっともよく現われている。何だかんだあっても結局日常的事件の羅列に過ぎない、つまり次の回までには全てもとに戻っている士郎の原作に比べ、映画のほうは、ヒロイン素子が別の義体に入って終わる(とはいってもやはり押井版のような悲壮感はない)原作第一巻の最終話からシナリオを書いたようだ。
全体的にみてかなりの力作だとは思うが、83分というのはいくら何でもちょっと短すぎたのではないか。短い時間のなかで押井好みの省庁間の確執とか未来都市の描写などにスペースを割いてしまったために、売りであったはずのアクションがややお座なりになってしまったのは惜しまれる。
たとえば「人形使い」を内部に宿した擬体を奪還に現われた外務省筋の人間の正体を見破っておきながら、その見破った理由が結局あいまいのまま終わってしまうところなど、それを生かせばそこそこのアクションシーンとして使えたと思うともったいない気がする。もっとも押井がその手のアクションにさほど重要性を感じていないことは「ケルベロス」などをみれば明らかだが。・・・
意外にストレートに筒井の原作を映画化しており、少々岡本らしい乗りには欠けるものの(特に前半)、まあ楽しめる作品に仕上がっていた。もっとも原作を知らない人間が見たら、ラストのオチを省略したかのようなエンディングにちょっと戸惑うかもしれないが。
しかし逆に原作を知る人間には、盛り上がりまくるラストのジャムセッションにはかなり満足出来るのではないか。間仕切りをすべて取り払った城のなかを幕府方や勤王方の武士たちが走り回ったり切り結んだりするシュールな場面も、いかにも筒井の作品世界らしいイメージが横溢していて楽しい。・・・
TVゲームで最高得点を出した青年が宇宙戦士としてスカウトされ、大活躍するという設定は、いかにもB級SFしていて楽しいが、少々話が単純に過ぎ、これほど簡単に勝利が得られるような敵にどうして今まで苦戦してきたのか理解に苦しむ。
史上初の全編CGによるSFXは当時としてはなかなか質感も出ていて悪くないが、今の目で見るとやはり動きが少しぎこちなく、CG臭さが抜けきれていない。スターウォーズの宇宙戦闘シーンがミニチュアを使ったにしてはそこそこのリアリティを出せたのは、ブレをうまく使ってスピード感を演出していたからだが、まだモーフィングの技術が確立されていなかったのか、CGで描かれた宇宙船にはまったくブレが表現されていなかったのもCG臭さの原因のひとつかもしれない。・・・
基本的にはそれほど好きな映画ではないという点は変わっていないが、スターファイターのような凡庸な作品のあとで見ると、やはりスピルバーグのうまさが際立ってしまう。
優れた映画監督の条件は、まずなによりも感情の起伏の計算がうまいことだと思うが、その点ではスピルバーグは傑出していると言っていいだろう。それにしても冒頭のシーンで懐中電灯の男たちから逃げたE.T.はどうやってあんなに速く走れたのだろう。その後のシーンのよちよち歩きを見ていると、とてもあんな走り方が出来るようには思えないのだが。・・・
昔の日本映画らしい楽しさのあふれた作品である。例によって上映時間の制限から少々舌足らずな表現はあるものの(浜美枝演じる中国人娘が、兄の仇である日本軍パイロットをなぜか助けてしまうところとか)サービス精神山盛りの娯楽作に仕上がっている。
円谷英二による特撮もなかなかリアリティがあり、さすがに空中戦シーンなどはやや不自然さが見られるが、まあ合格点を与えられる出来だろう。地中深くに作られたビスマルク砲の弾薬庫が誘爆するシーンなど、まるで旭日のワンシーンのようで面白かった。・・・
ウィリアム・ギブソンの原作と聞いてもっとこむずかしい映画を想像していたのだが、実際には予想以上にストレートな活劇に仕上がっていた。展開のはやさは多分ローラーコースター・ムービーを狙ったのだろうが、ちょっと偶然に頼る傾向が強いのが気になった。
CGによるサイバースペースの表現は、それなりにらしさはあるものの、どこかで見たことのあるような場面ばかりでちょっとがっかり。ビートたけし演じるヤクザのボスは、出番が少ないせいもあるがキャラクター設定がイマイチはっきりせず、彼を殺すことになる部下との関係などもっと掘り下げるべきだった。製薬会社が自分たちの保身のために黒震病の治療法を隠していたという設定は、昔フジの深夜枠でやっていたSFドラマと同じだが、これは多分フジのドラマの方がギブソンの原作を参考にしたのだと思う。・・・
この種の映画がアカデミー賞をとるということはかなり珍しいことだと思うが、まずはその栄誉に恥じない出来ではあった。もちろん細かいことをいえば穴がまったくなかった訳ではなく、たとえばレクターが逃走する際に使った針金は一体どこから手にいれたのかとか、医師が無くしたシャープペンシルはその後どうなったかとか(当然レクターが手にいれ、あの針金はそのなかに使われていたパーツだったのだろう。それにしても、レクターの私物のなかにクラリス捜査官の鉛筆書きの肖像画があることから、彼が筆記用具をクラリスの訪問後にも持っていたと判るが、常に行動を監視されていたはずのレクターが誰にも気付かれずにあれだけの絵を描けたはずはないから、少なくとも看守は彼が鉛筆かそれに類するものを持っているのを知っていたことになる)やや説明不足の部分があるのが気になった。話が途中からレクターの逃亡とバッファロー・ビルの捜査に別れてしまうのもちょっと混乱した印象を与えてしまった。
レクターの逃亡に関しては、あれほど神経を使って監禁していた凶悪犯を、どうぞ逃げてくださいといわんばかりの環境に置く警察側のマヌケぶりと、レクターの手口の不可能性(あれだけ短い時間で一人の警官の死体を空中につるし、もう一人の顔の皮をはいで被り、そいつになりすますのはどう考えたって不可能だ)のおかげで、非現実的な感じがするし、バッファロー・ビルの方はちょっと御都合主義的な展開で発見されてしまう。
レクターの性格描写に力点が置かれたおかげで、バッファロー・ビルが結局どんな奴だったのかはっきり判らないまま終ってしまっている。メンガタスズメの幼虫をわざわざ外国から取り寄せて、蛹を死体の口のなかにいれるという設定も、ちょっと無理がありすぎていただけない。これではまるで蝶や蛾のコレクターはみな変態みたいではないか。とまあ、悪口ばかり書いてしまったが、サスペンスの盛り上げ方とか、構図のとり方とか(ちょっとアップを多用しすぎる感はあるが)は一級品で、アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターの名演技もあってなかなか見応えのある作品となっている。・・・
ものを作ることに関する話はいつ観ても身につまされてしまう。ヒロインの雫は書きたいものがいっぱいあるのに、それを整理するテクニックがないためにまとまった話が作れないのだが、僕自身はその逆にテクニックはあるものの、最近では描きたいという情熱がほとんど消えてしまって、結果的につまらないものしか描けなくなっている。そんな僕にしても、雫くらいの年ごろには夜が明ける早さに驚くくらい描くのに熱中したこともあったのだ。
話を戻して、物語はいかにもジブリの作品らしく丁寧に作られているが、「海が聞こえる」同様ジブリ風キャラクターの限界が現われている。それぞれのキャラクターが互いに似通ってしまっていて、たとえば雫の母と姉にしても、絵だけだとどちらが母でどちらが姉かはっきりとは判らないのだ。
ヒロイン雫のファッションセンスの悪さも相当なもので、特に夏服など、とても現代の少女とは思えないほど変だ。この辺の設定は本篇に取りかかる前に出来ていたのだから、ジブリの女性スタッフから何か一言なかったのだろうか。
井上直久の描いたイバラードの世界が登場するのもこの映画の売りのひとつだったが、出てくるのはほんの数カットで、少々肩すかしを食わされた感じだ。・・・
映像の美しさはさすがに岩井のフィルムだけのことはある。しかし今回はなぜかいつものようなひねりがなく、呆気なく映画は終ってしまう。わずか47分という長さは映画というよりTVシリーズのなかの一本という感じだが、長さに関してはLove Letter以外の彼の作品はほとんど30分から一時間程度のものなので、呆気なさは本篇の長さのせいではない。
あるいは豊川悦司と山口智子というスター級のタレントを二人も起用した結果、演出以外の部分に力を割かねばならなかったのかもしれない。それとも単純にがんじがらめに縛られた豊川や山口を見せたかっただけなのかな。・・・
最初に見たときには、前作の影響が強すぎたためか、地味な映像とストーリィ展開に少々物足りない感じがしたものだが、今回こうして観直してみると、なかなかどうしてよくできた映画であった。
一見地味な映像も、構図や色彩設計の隅々まで神経が行き届いており、たった一頭でも十分恐いエイリアンの恐怖を良く表現していた。ラストで自分の胸を突き破って出てきたクィーン・エイリアンを掴んだまま死んでいくリプリーの姿は宗教的な崇高さすら感じさせて、同様のエンディングだったターミネーター2とはひと味違った効果を上げていた。
それにしてもこのフィンチャーという男、スコット版では明らかにポカミスだったリプリーの鼻血を今回は一種のテレパシーのように描いてそれなりの説得力を持たせており、なかなか抜け目のない奴だ。気に入ったぞ。・・・
ある意味でこの作品は旧シリーズの本当の意味での完結編といえるかも知れない。なぜならこの作品は、詰まるところカークの死を描くのが目的で作られたようにも窺えるからだ。原語で観たので「ネクサス」という言葉の意味がイマイチ理解できなかったが、いわゆる来世ではなく、一種の別次元のように描いている。「リボン」の通過するところにその入り口があるという設定だが、ピカードが「ネクサス」に行けたのなら同じ場所にいたソラン博士はどうしたのだろう。当然彼も「ネクサス」へ行き、過去に戻って自分の野望を阻止しようとするピカードの妨害をすると思うのだが。
いずれにしろ「ネクサス」から再びこの世界へ戻ったカークは今度こそ、誰の目にも明らかに死んだので、少なくとも旧シリーズのメンバーでスタートレックものが再開されることはないはずだ(と思う)。ミニチュアとCGとを巧みに組み合わせたSFXは実にすばらしく、映画版のシリーズ一作目の頃と比べても、技術の進歩にはまったく目を見張らされる。
しかしそれに比べて脚本はさほど進歩しておらず、相変わらず御都合主義的な展開が目に付いてしまう。一度カタストロフィを観客に見せておいて、その後時間をさかのぼって文字どおり「なかったこと」にしてしまうという発想はスーパーマンの第一作目とまるで同じだ。
宇宙ひも理論から着想したと思われる「リボン」のSFXなどは視覚的にもすばらしかっただけに、脚本の陳腐さが目立ってしまうのだ。データ中佐の頭に感情チップが埋め込まれて、彼が次第に人間性を獲得していくという設定も、かつて鉄腕アトムの一話にそんなエピソードがあった。もっともアトムの方は感情を持つことなどロボットには不必要という結論だったが。
トレッキーにとってはカークの死という一大イベントのおかげで必見の映画なのだろうが、SF作品としてみたとき、映画史に残る傑作とはとても呼べないというのが正直なところだ。・・・
四話からなる原作のマンガをうまく脚色して一本の映画に作り上げている。キャラクターの描き方が上手でいかにもいそうな女子高生像を描くのに成功している。
物語は少々淡々としすぎている感もあるが、これは原作がそうだから仕方がない。むしろ原作の持つオフビートな雰囲気を自分の世界にここまで移植し得た監督の手腕を誉めるべきだろう。特に滑るような映像の流れは見事で、これほど移動撮影にこだわった日本映画を僕はこれまで観たことがなかった。
一つ気になったことといえば、ワンカットだけあった満開の桜並木の下を二人の教師が散歩するシーンで、クレーンを使った見事な撮影なのだが、なぜか後方をゆっくり猫が横切るのだ。白黒斑のけっこう目立つ猫なので、肝心の二人の演技より気になってしまう。まさかわざと猫に演技させたわけはないだろうから、偶然写ってしまったのだろうが。・・・
ピアース・ブロズナン主演の新ボンドシリーズ第一弾だが、少々張り切りすぎたのかちょっとサービス過剰の娯楽大作になってしまった。
最初の唱い文句ではシリーズの原点に戻って肉体を使ったアクション映画として製作したということだったが、できあがった作品はロジャー・ムーアが主演していた頃のものと大差無い出来で、相変わらずの御都合主義的展開と、大金をかけた豪華なセットなどまるっきり同じだ。せっかくブロスナンのような器用な俳優を起用したのだから、もう少し渋目のスパイ・スリラーに仕上げてくれるかも知れないというこちらの淡い期待に応えてほしかったところだ。
SFXはなかなかがんばってはいるが、出来不出来の差がはっきり出てしまっていて、たとえばミニチュアであることが一目で判ってしまう巨大アンテナが水中から現れる場面など、ちょっと興ざめしてしまう。ペテルブルグの町中を本物の戦車で走り回るシーンなど、破天荒でありながらリアリティあふれる場面などもあったりしたからその落差の大きさが気になるのだ。
脚本も少々無理が目立ち、ヒロインの性格設定とか、「ヤヌス」の首領となった元006がゴールデン・アイでロンドンを壊滅させる動機(なんと金だ!)とか、やはり不自然である。しかしこの大味ぶりが本シリーズの醍醐味とも言えるので、あまり角を矯めて牛を殺すような言い方はしない方がいいのかも知れない。・・・
よくあるエイリアンものだが、登場するエイリアンがUFOなどに乗ってきたわけではなく、宇宙から送信されてきたDNA情報を遺伝子操作によって人間の卵子に移植した結果生まれたという点が目新しい。
エイリアン・シルを演ずる新人女優ナターシャ・ヘンストリッチはスーパーモデル並の美形だが、はじめは白痴同然だったシルが次第に知恵を付け、ついには身代わりを使って事故死を偽装するまでになる知能の発達段階を演じ分けるには、少々演技力が足りなかったようだ。
後半はおさだまりのドッキリビックリ・ショーになってしまい、中盤で少しだけ触れていたシル自身の存在に対する疑問など跡形もなくなってしまった。ギーガーによるシルのデザインはあまりにも20世紀フォックス映画のエイリアンにイメージが近すぎて、オリジナリティが不足気味だ。もう少しシルの内面描写を増やしてキャラクターを差別化できたならもっと評価できる作品になったと思うのだが。・・・
以前タモリ司会の番組「If…もしも」で放送された1エピソードだが、他のディレクターが典型的な二択のストーリィ仕立てで作ったのに対して、岩井は一風変わった岩井ワールドとしか言い様のないタッチでエピソードを完成させた。
もちろん物語の途中にストーリィの分岐点があり、「もしも…だったら」という番組のコンセプトにはちゃんと沿っているが、それとは別のところにテーマをもってきているのが岩井の非凡なところだ。もっとも番組スタッフ側からは、番組ルールを逸脱しているとして不満が持ち上がったらしい。
映像の凝り方はいつもの岩井ワールドそのままだが、ビデオ撮影した映像を加工してフィルムっぽい効果を持たせており、ノスタルジックな雰囲気を醸し出すことには成功しているが、そのせいかところどころジッターが目立つシーンがあったのが残念だ。犯罪モノから青春モノまで幅広く手がける岩井の作品としては、それほど目立つ作品ではなかったと思うのだが、なぜか新人映画監督賞を取ってしまった。
まあ、いまの日本映画界においては彼よりすぐれた映画作家をすぐには思いつけないていたらくなので、当然といえば当然かも知れない。僕自身の持論として、優れた映画監督は必ず優れたシナリオライターでなければならないと確信しているのだが、岩井俊二はその意味でも注目に値する人材だと思う。・・・
かのベッソンがハリウッドに招かれて撮ったアメリカ進出第一作目の作品だが、変にアメリカナイズされずにちゃんとベッソンの監督作品として成立していたのには感心させられた。
たとえアメリカが舞台であっても、フィルム・ノワールの香りがそこはかとなく漂うあたり、やはりベッソンという男、ただ者ではない。少し気になったのは、物語が所々つながっておらず、省略と言うにはあまりにチグハグな部分があったことだが(たとえばいつのまにかジャン・レノが胸に負傷していたり、中国人マフィアと商談中だったDEAのエージェントを射殺する場面の前後関係がいまいちよくわからなかったりする)これはいずれ発売される完全版を観ろと言うことなのだろうか。
気になると言えば、ラスト近くで「マチルダからの贈り物」を渡すシーンも一般人には何だか判らないのではなかろうか。銃器にはそこそこ詳しいつもりの僕ですら、ピンを引っ張るためのリングがやや大きかったために一瞬それが何だか判らなかったくらいだ。ひょっとしたらカットされてしまった部分にそのための伏線があったのかもしれないが。ともあれ、完全版がビデオ化されたらきっと観てやろうと思っている僕など、見事にベッソンの手中にはまってしまっているに違いない。・・・
ガメラシリーズの金子修介がその前に撮った作品だが、全然違った傾向の作品にも関わらず、やはりどこか金子らしさが滲み出ているように思えるのは気のせいだろうか。
とにかく、構図の取り方が凡庸ではなく、独特のテンポの取り方とも相まってフンワカした中にもキラリと光るものがある。スギナを演じた佐伯日菜子はややたどたどしさの残る演技だが、登場するキャラクター全員がちょっと誇張された演技をしている中にあってはさほど目立つこともなく、ある意味ではラッキーだったと言えなくもない。彼女がその真価を問われるのは第二作目以降のこととなろう。・・・
企画・秋元康、脚本・野島伸司という組み合わせはモロにトレンディー・ドラマみたいだが、さすがに平成に入ってからの作品らしくトレンディ臭さぷんぷんと言うわけではないものの、テレビ的という意味ではいかにも彼ららしい作品と言える。
まったく、映画館に行ってこんなテレビドラマ並の代物を見せられた観客はたまったものではない。斉藤由貴ファンにとっては彼女がかわいく撮れた傑作なのかもしれないが、そうでない僕にとってはまさにあってもなくてもいい映画というのが正直な感想であった。だいたい眼鏡を取り違えた大江千里がどうやって本当の持ち主斉藤由貴を発見したのか、まさか眼鏡に名前を書いてあったわけでもあるまいし、謎だ。
大江・斉藤コンビと加藤・山田コンビが結局入れ替わってハッピー・エンドになる結末もとってつけたみたいで説得力がない。それにつけてもエンディングに登場するアニメの出来の悪さときたら、まさにヒサンの一語に尽きるひどさで、それまでのドラマで曲がりなりにも感動していた(そんな奴いるかどうかもわからんが)奴もここで見事にうっちゃりを食らうこと請け合いだ。・・・
初めて観るタランティーノ作品だが、噂に違わず曲者ぶりを十分に発揮した映画であった。タイトル前にちょっとしたエピソードがあって、その後三つの話がオムニバス風に続き、三つ目の話がタイトル前のエピソードに繋がるという凝った構成なのだが、その三つの話の時系列がバラバラなために、二話目であっさり死んでしまったトラボルタが第三話ではピンピンしていたりして、なかなかややこしい。
三話とも簡単に人が死んだりするかなり殺伐とした内容なのだが、独特の変なユーモアがあって後味は意外に悪くない。日本映画、特に深作欣二の大ファンだと自認するタランティーノらしく、所々にヤクザ映画に通じる美学を描こうとしているあたりがかえってパロディみたいでおかしかった。とりあえず第一作のレザボア・ドッグスも観ておいた方がいいかもしれない。・・・
内容的には、異常性格者の連続殺人を追う刑事たちの活躍を描くクライム・ミステリーなのだが、同じようなテーマをあつかった「羊たちの沈黙」とはひと味違った作品に仕上がっている。「羊〜」は主人公と言っていいレクター教授のキャラクターに負うところの多かった物語だが、こちらは物語の終盤まで犯人は登場せず、衝撃的なラストの後も結局犯人の死体を前にしながら、彼が何者だったのかすら判らないまま終わってしまう。
しかし、ちょっと首をひねるような部分の多かった「羊〜」に比べてストーリィ展開は自然で無理がなく、やや疑問の残った図書館の一件(犯人はかなりの資産家なのだから、わざわざ図書館を利用しなくても必要な本は買えば良かったはずだ)も、わざと自分の痕跡を残して刑事たちを挑発したと考えれば納得がいく。「エイリアン3」の時もそうだったが、フィンチャーという男、一件地味な絵づくりながらその実なかなか凝ったことをしてくれる、侮れない男だ。・・・
お子さま向けの作品ながらそこはディズニーが一枚噛んでいるだけに、かなりの出来の作品に仕上がっていた。実際に制作にあたったのは数々の名作短編CGで有名なピクサーで、80分以上の本編のすべてがCGによって描かれているという、まさにエポックメイキングな作品である。
脚本もなかなか良くできていて、ただ技術的な面のみで評価してほしくないと言う制作者の心意気が伝わってくる。ただ一つ、ちょっと気になったのは、おもちゃ以外の人間や犬までもがCGで描かれていたために、おもちゃの世界と人間の世界とがあまりきちんと区別できず、結果的に話のリアリティがかえって減少してしまった感じがすることだ。全編CGという点にこだわった結果なのかもしれないが、やはり人間は生身の人間が演じた方がそれらしい。・・・
設定はなかなかおもしろかったのだが、ストーリィ展開は少々強引でただ見せ場を連続させるためだけに物語が存在していたような印象が残った。
一連の香港製アクション映画でそのアクションセンスを見せつけてくれたジョン・ウーだが、どうも深みのある演出は苦手らしく、特にジョン・トラボルタの演じた役柄にはまるで奥行きがなく、薄っぺらにすぎた。主演のクリスチャン・スレーターはなかなか達者な役者なので、数少ない内面的な演技をするシーンにおいて見事にキャラクターを出すことに成功していたのだが。
もし主演にジャン・クロード・ヴァンダムみたいな大根を使っていたら、それこそはしにも棒にもかからない爆発シーンだけの映画になっていただろう。・・・
もう少し寓意の込められた辛口の映画かと思っていたのだが、大人も子どもも楽しめる心優しいファンタジーに仕上がっていた。昔から子どもと動物にはいかなる名優も勝てないなどと言われているが、それにしてもこの映画の動物たちの演技ときたら見事の一言である。
もちろん、現実には不可能な動きなどはマペットやCGを使ってはいるのだが、そうでない部分、たとえば母親役の犬の目の動きやしぐさなど、もう彼女自身が名優と言っていい水準に達していると言っていいだろう(もっとも目はあとでCGにより描き足されていたらしいが)過不足ない脚本のテンポと美しすぎるイギリスの(実際にはオーストラリア)田園風景がとてもなごんだ雰囲気を与えてくれる素敵な映画であった。
唯一気になった点と言えば、羊のメーが野犬の群に殺されたとき、その場にいたベイブが犯人だと牧場主が思いこんでしまう場面で、いくらなんでもあんな小さな子豚に何倍もある羊を殺せるわけがないし、だいたい羊の体に残った噛み痕を観れば犯人が犬だというくらいは判りそうなものだ。
しかしそんな欠点も映画を見ている間は気にならず、話の展開に引き込まれてしまった。いい映画とは、まったく欠点のない映画より、その欠点を覆い隠してあまりある美点を持った映画だと、この作品を観て改めて思い知った。・・・
平成ゴジラ映画の情けなさを凝縮したような作品であった。とにかく脚本がなっておらず、せっかく登場したラドンなど、いったい何のために出てきたのか最後まで判らなかった(なぜ殺し合いを演ずるほど仲の悪かったゴジラに自分の命をくれてやったりできるのだ!?)
メカゴジラのメカにしても、全然説得力がなく、ただ透過光イフェクトのオンパレード。おまけに特技監督のセンスもないときているのでゴジラもメカゴジラもまるで巨大感が出ておらず、ゴジラザウルスとの絡みにいたってはもう失笑あるのみであった。
だいたいどうしてゴジラがラドンの巣に託卵をしなければならないのか、もうめちゃくちゃである(しかもゴジラザウルスが登場した時点ではゴジラとゴジラザウルスとは直接の関係はないといっていたのに)まったく、お金を払って映画館でこの作品を見せられた観客こそいい面の皮だ。・・・
奇妙な風合いのSF映画と言っていいだろう。SFといっても別にSFらしい道具立てが出てくるわけではないが、どうやらひどい環境汚染の結果、食物となる動植物がすべて絶滅してしまい、食べられるのは備蓄してあった穀物と、人肉だけになってしまっているらしい。人口自体もかなり減ってしまっているらしいが、主人公の「ピエロ」が以前はチンパンジーと組んで芸人をやっていたなどという設定もあって、どうやら芸人が食べていける程度の人口は残っているようだ。
なぜかTV放送も健在で、白黒ながらちゃんとVHFの電波を送信している。物語の滑り出しは少々おもたいものの、中盤からラストにかけての展開は加速度的にスピードを増し、思わぬ大迫力の結末へと繋がってゆく。地底人の設定など、少々ブラックなユーモア感覚もあって、予想よりかなり娯楽に徹した映画であった。
少し残念だったのは、せっかくのテーマにも関わらず「奇妙な味」にこだわりすぎたためかあまりに現代との接点がなさ過ぎ、結局単なるファンタジーに終わってしまっていることで、この辺をもう少し意識してちゃんとつくれば「未来世紀ブラジル」にも劣らぬ傑作になったかもしれない。・・・
一番の問題はやはり金城武の演じた最初のエピソードと、フェイ・ウォンの主演した次のエピソードとの接点がほとんどないということだろう。
それぞれのエピソードの出来についてはなかなかのもので、スタイリッシュな映像美といい演出のテンポといい、そのセンスにおいてはほとんどの日本映画の作家たちよりはるかに先をいっている。それだけに観終わった後に残る中途半端な感じが気になる。
やはり最初にほどいた結び目は最後でちゃんと結んでくれないと、物語が終わったという感じがしないのだ。ラストで再び金城のエピソードに話を戻してオチを付けてくれたら、もっと完成度の高い作品だという印象を持てただろうと思うと、ちょっと残念だ。
残念といえば、音楽センスの悪さも気にかかるところだ。「夢のカリフォルニア」が二番目のエピソードにおいてはテーマと直接絡む重要なモチーフなのだが、この曲の使い方がまるで素人同然で、下手な自主制作フィルム並なのだ。いかに重要なモチーフだろうが、ああしつこく流されては耳にたこができてしまう。・・・
膨大な予算を費やしてつくった近未来SF映画なのだが、全体的にどうも大味な印象は免れず、結果的にB級作品で終わってしまった。映画全編を通して一番印象に残ったのが巻頭のユニバーサル映画のタイトルの場面で、CGでつくられた地球の陸地がじわじわと海に浸食され、「ウォーター・ワールド」の設定した世界を一番わかりやすい形で表現しているのだが、肝心のとてつもない予算をかけてつくった環礁のセットはどこにそんな金がかかっているのか判らないくらいのチャチさで、この映画がめざしたと思われるマッド・マックスシリーズの持つリアリティにはとうてい及ばない。
とにかく設定に統一感がなく、ただの紙っぺら一枚で女を抱けるほど紙そのものが貴重なはずなのに、敵側の人間は無造作に紙巻きタバコを吸っているし、だいたい数万トンはあろうかと思われる巨大なタンカーをガレー船のように人力で動かすのはどう考えても不可能だ。女の子の背中に書かれた地図の一件にしても、具体的に解読するシーンがないために緯度と経度をどう読みとったのか判らないし、だいたいなぜ彼女がドライランドを離れて捨て子として拾われ、あの環礁にいたのかもよく判らない。
ケビン・コスナー演じる主人公マリナーは、最初の方こそ無理してハード・ボイルド・タッチのキャラクターとして描かれていたのだが、途中からあれよあれよという間にマイホーム・パパ的なキャラに変貌してしまい、コスナーという俳優の限界を見せつけられた気がする。物語は一言でいえば陳腐で、文字どおり予定調和的に展開し、まったく波乱のないままにエンディングを迎えてしまう。収穫といえば敵の親玉を演じたデニス・ホッパーがなかなかお茶目ないい味を出していたことくらいか。・・・
トニー・スコットのような凡庸な監督が撮っても、脚本がいいとなかなかの作品が生まれるという見本のような映画だ。とにかくこの映画の成功は脚本を書いたクエンティン・タランテーノの才能によるところが大きい。
トニーの唯一の取り柄である映像の安定感が、タランティーノの脚本のエスカレートする疾走感とうまくバランスをとって、タランティーノ作品の欠点の一つである妙な居心地の悪さ(たぶん、執拗な手持ちカメラによるショットの影響が大きい)から解放された結果、面白いフツーの映画になったのだと思う。
ここでもクリスチャン・スレーターが好演していて、ほかの俳優たちもそれぞれが自分のキャラクターを過不足なく表現しており、この手のアクション映画にありがちなドンパチを除くとなにも残らないといった印象を免れている。・・・
こっちはそのドンパチを除くとなにも残らないタイプの代表的作品と言っていいだろう。物語そのものが最後の派手なアクション・シーンに持っていくための段取りにすぎず、まさにあの倉庫内での撃ち合いのシーンを見せるためだけにこの映画のお話は存在しているのだ。
「男たちの挽歌」シリーズを観れば、ジョン・ウーという人はもっと情念的世界も描ける監督だということが判るのだが、どうも現在のハリウッドではそういうウエットな部分はあまり評価されないらしい。
主演のジャン・クロード・ヴァンダムは例によってほとんど表情を変えない演技で、大根ぶりをさらけ出さないのが精いっぱいという感じだ。果たして一年後の今日、この映画の内容をまだ覚えていられるかどうか、はなはだ心許ない。・・・
かなり無理のある設定なのだが、なかなか説得力のある絵づくりでスンナリ見せられてしまう。バスが15メートルもあるギャップをピョン!という感じで飛び越してしまうという、冗談みたいなショットもあることはあるが。
主演のキアヌ・リーブスはいつも通りのよく判らないキャラクターなのだが、今回は状況に引っ張られてかなりの行動力を見せてくれる。ここでもデニス・ホッパーが犯人役で出演していて、その切れた演技はいつもながら見事だ。
物語は一応の決着が付いた後に二転三転のヒネリが用意されていて、サービス満点だが、ちょっとやり過ぎの感がなくもない。パート2がつくられるという話だが、いったいどうやって完全に終わっているこの物語の続編をつくろうというのだろう。やめた方がいいと思うのだが。・・・
いかにもレニーらしいたたみかけるアクションで全編を描ききった快作なのだが、なぜかあまり話題にもならず、興行的には失敗したらしい。TVスポットなどから受けた印象では莫大な火薬量を費やしたローラーコースター・ムービーといったシロモノに思えたのだが、確かにそういう要素は強いものの、どちらかといえばかつてエロール・フリンが演じていた海賊映画の復刻のような感じの方が強い。
中でも特筆すべきなのは、実物大の帆船のレプリカを派手にぶちこわしたクライマックス・シーンの迫力で、あの「ベン・ハー」ですら海戦シーンではミニチュアを使っていたことを思うと、いったいどれくらいの予算がかかったのか、気が遠くなりそうだ。
主演はこのところレニーの作品には常連になった、夫人のジーナ・ディビスだが、かなり危険なシーンでもスタントマンをほとんど使わずにこなしており、チャンバラも様になっていてただ夫人だから起用したというわけではないだろう。演出のテンポもよく、それぞれのキャラクターの個性もちゃんと描けていて、なかなか面白い作品だったのだが、今一つ受けなかったのはやはり17世紀の海賊たちの物語という、現代人にとってあまり関心を引かない題材を選んでしまったせいかもしれない。
それにしても不思議なのは、知事たちの軍隊がいったいどうやってカットスロート・アイランドにやってきたのかという点だ。登場する帆船は主人公たちと、彼らを追ってきた敵の海賊船の二隻だけで、軍艦は登場していないし、だいたい島から去るとき知事たち一行は敵の帆船に同乗している。最初から敵の帆船に乗っていたとは思えないし、謎だ。・・・
「羊たちの沈黙」がなければもう少し評価されたかのだろうが、このところ「セブン」のようなこの手のサイコものの映画が多いので、損をしているかもしれない。もっとも企画自体が第二の「羊たちの〜」を狙ったものかもしれないが。
ちょっと驚くのが冒頭のエピソードで犯人を演じたハリー・コニックJr. で、本来歌手で甘い二枚目を演じることが多かっただけに、あれほどキレた汚れ役をよく引き受けたものだ。演出はよくいえば重厚、悪くいえば少々テンポが重く、警察所内のエピソードとシガニー・ウィーバーの絡むシーンとがうまくマッチしておらず、どちらかにポイントを絞った方が良かったと思う。
犯人像に迫る警察の描写も問題で、二度目の殺人で死体から二種類の精液が検出された時、ふつうならそういうものを入手できるような職業を持つ者に捜査対象を絞ると思うのだが。・・・
言わずとしれたデビッド・リンチ最大の失敗作として名高い「デューン 砂の惑星」のスペシャル版である。噂によるとアメリカでTV放映されたバージョンをビデオ化したものらしい。
デビッド・リンチではなく、アラン・スミシー名義になっているところをみると、再編集は別人がしている可能性が高い。オリジナル版より一時間も長いのに、冒頭の背景設定を説明する下手なイラスト入りのナレーションを除けば、オリジナル版になかったシーンはほんの少々みられるだけで、テンポがやや悪くなっていること以外目立った変化はなかった。
それより、TV化のしわよせでCMをいれるための無理な編集がちょっと気になった。何度か同じ場面の繰り返しがみられ、確かにこうすれば収録時間を水増しすることはできる。最大の変化はバージニア・マドセン扮するイルラン姫のナレーションがなくなったことで、代わりに男性のナレーションが所々はいるのだが、おかげで全体の構成はわかりやすくなったものの、イルラン姫の存在意義がまったくなくなってしまった。
フランク・ハーバートによる原作では各章の冒頭にイル(ー)ラン姫のコメントが掲げられていて、それが作品の特徴になっていただけに、この変更には首をひねらざるをえない。全体として、「砂の惑星・完全版」と呼ぶには少々お寒い内容で、一日も早いデビッド・リンチ本人による完全版の完成が待たれる。・・・
齣撮りアニメによるファンタジー映画だが、そのテクニックは実に見事でまるで生きているようなスムーズな動きを見せてくれる。ほとんどの台詞が歌で表現されている、まるでミュージカルのような作品である。
キャラクターは少々あくが強く、好き嫌いがはっきり分かれてしまいそうだが、たとえばサリーの体つきや身のこなしの自然さとか、ブギーマンの悪役のくせに妙に憎めないかわいさなど、僕はなかなか気に入っている。CAVバージョンが欲しいとまでは言わないが、安価なCLVワイド版なら手に入れてもいいかな、と思わせてくれる出来であった。・・・
ナイトメア・ビフォア・クリスマスのおまけに入っていたティム・バートンの幻の初期作品だが、30分程度の小品でありながら、バートンらしさが十分に滲み出た珠玉の作品になっていた。
ちょっとペット・セメタリーみたいな傾向のお話だったが、ああ言う悲劇的な結末にならずに良かったと思う。まあ、この作品はたぶんディズニーの長編アニメか何かの付け足しに上映されたものらしいので、あまりブラックな内容には出来なかったのかもしれないが。・・・
千葉君のマンガを映画化したものなので、半ば羨ましさもあってレンタルして観たのだが、観終わった後羨ましさは同情に近い気持ちに変わってしまった。もし自分の作品があんな形で映画化されたとしたら、僕なら逆上してしまってなにをしでかすか判ったものじゃない。
とにかく今の日本映画界の情けなさを全部凝縮したような出来の作品で、こんなもので勝負できると思っているのなら、日本映画が世界の水準に追いつくことなど百万年かかっても出来そうもない。まず脚本が全然なっていない。原作の設定を勝手に改悪してしまい、恐ろしく陳腐な話をでっち上げてしまった。
話をすぐ親子関係に持っていくのは無能な脚本家の常套手段だが、こいつの無能ぶりはそれだけではない。ライバルとして設定していたはずの女殺し屋は実にあっけなく溺死(!)させられてしまうし、サービスカットのつもりらしいベッドシーンは必然性もまったくなしに始まり、しかも実に中途半端に終わってしまう。最後のクライマックスも竜頭蛇尾の見本みたいにあっさり終わり、いったいどんな話だったのか、いったいなにを訴えたかったかまるで判らないのだ。
最後に何の脈絡もなく、一人生き残った少女の枕元にマリーが巨大なルビーをおいて去っていくのだが、本編中にルビーのありかをあかすシーンはなかったのに、どうやってマリーがそれを発見したのか全然説明がないのも変だ。脚本もひどいものだが、それに輪をかけて演出もひどい。とにかくアクションシーンのテンポがなっておらず、これならまだ自主制作映画の方が、情熱があるぶんだけまだましだ。
売りの銃撃シーンにしてもそれは言えており、今時日活コルト風の電気着火ピストルを堂々とアップで撮ってしまう映画がまだ存在していること自体驚異的だ。絵づくりがこれだから音響も推して知るべしで、銃器の音は主人公の撃つ銃と、その他大勢の銃、そして機関銃、その三種類しかない(!)したがって銃撃戦の時の銃声ときたら、実感のないことおびただしい。
アクション以外の場面が多少はましかというと、これがまたただかったるいだけで、単に状況説明だけに終わっている。出てくる俳優がそろいもそろって大根ばかりであるせいかもしれないが、それにしても情けない。
この映画を作ったスタッフは自分のつくっている作品を本当に面白いと思っているのだろうか。一度でもアメリカのアクション映画を見たことがあるのだろうか。信じられないことだが、こんな作品を平気でつくっているようでは本当にキャメロンもタランティーノも知らないのかもしれない。・・・
前作の続きで、再びゴジラザウルスの子どもが登場するのだが、今回はストレートにゴジラの幼体という設定で、名前もリトルと呼ばれている。VSメカゴジラの設定とは明らかに食い違うのだが、そんなことにはお構いなしらしい。
前半の南海の孤島のシーンはのどかな雰囲気で、あまり緊迫感もなく何となくスペースゴジラの登場する後半へと繋がっていく。最初にスペースゴジラと戦うことになるのはGフォースの対ゴジラ兵器であるモゲラなのだが、これが最初の遭遇で撃破されてやられたのかと思いきや、後半でいつのまにかパワーアップして登場する。これに何の必然性もなく、南海の孤島でテレパシーによるゴジラ操縦作戦に従事していた主人公たちが搭乗するのだが、どう考えてもモゲラの操縦訓練をしていた形跡などなく、脚本のあまりのご都合主義にはあきれるばかりだ。
モゲラのメカ設定がまたいかにもアニメ世代の人間が考えそうな代物で、一昔前の合体変形メカそのものであった。スペースゴジラの出現でいつのまにかゴジラは人間の側に回ってしまい、勝利を収めたゴジラが悠々と海に帰っていくのを人間たちが見送るという展開は旧シリーズに通じるところがある。
しかしゴジラが人間の側に回ったら、必然的に恐怖の対象としてのゴジラのパワーは弱まってしまい、シリーズの命脈も尽きてしまうのだ。もっとも、次のVSデストロイアでシリーズは一応終わるらしいのでこれはこれでいいのかもしれない。・・・
ゴジラの体内の放射性物質が暴走し始め、所々赤く輝きながら香港の町を破壊するオープニングはなかなか効果的ではあるのだが、すぐ先でゴジラが高層ビルをぶっこわしているにも関わらず、道路を走っている車も歩いている人もまったく平静なのはどうしたことだろう。いかに上手な合成をしたところで、これではあまりにリアリティがないというものだ。
こういうシーンはゴジラが日本に上陸した後もときどきみられたが(さすがに通行人はおびえながら避難する演技をしているが、その後ろを走る車は平気でゴジラのいる方向にも走っており、この辺に日本映画の限界が図らずも見えてしまう)デストロイアの設定はたぶんそれなりに頭を絞ったものなのだろうが、どうも脚本を書いた大森一樹はすべての生物が酸素呼吸をしていると考えているらしく、25億年前のまだ地球に酸素がなかった時代の生物が想像上の存在でしかないみたいに言っているが、酸素以外の元素で代謝を行う嫌気性の細菌などどこにでもいる。
オキシジェン・デストロイヤーが生み出した怪獣がどういう訳かオキシジェン・デストロイヤー並の破壊力を持っているという設定にも無理があるが、そいつをメルトダウン寸前のゴジラにぶつけて消滅させてしまおうという発想にもかなりの無理がある。ゴジラの体内の酸素がたとえ破壊されても、そのことと放射性物質の質量とは何の関係もないし、上昇した温度を下げることすら出来ないだろう。
ここはむしろスーパーX3がやったように冷凍弾と冷凍光線で温度を下げ、カドミウム弾を制御棒代わりに使って核分裂をコントロールするという作戦の方が現実的だ。結局ゴジラはデストロイアを倒した後メルトダウンを起こして溶けてしまい、飛び散った放射能を吸収したジュニアが三代目ゴジラとして復活することをにおわせて映画は終わるのだが、果たして西暦2000年以後まで続編を作らずにいられるものかどうか、東宝の経営戦略にここしばらく注目したいと思う。・・・
男をそそのかして旦那を殺させるというモチーフの作品は、古くは「白いドレスの女」などを思い浮かべるが(そういえば主演のニコール・キッドマンは若い頃のキャスリーン・ターナーに似ている)この作品はそれより少々スケールが小さく(そそのかされて殺人を犯すのが高校生だったりする)エンディングもおさだまりで中途半端な印象だ。
脚本の構成は、事件に関わった人々の証言でつづるという凝ったものだが、かえって散漫になってしまったという印象は免れない。殺人にはそれなりの動機が必要だが、その部分の描写がかなり少ないために殺人計画が唐突に感じられる。全体的にニコールの熱演が少々から回りしているようで、演出もシリアスに振っていいのかコメディに振っていいのか迷っているみたいだ。
どうせ現実離れしたキャラクターとしてスザーンを設定したのだから、ここはいっそのこと「白いドレス〜」みたいな完全犯罪ものとして終わらせるとか、筒井康隆の一連の作品みたいにどんどん話をエスカレートさせるとか、もっと面白くすることは出来たはずだ。ニコール・キッドマンが今まで出演した映画の中でも特に綺麗に撮れていただけに惜しい。・・・
シャロン・ストーンがガンマンに扮し、決闘トーナメントに出場するというかなり荒唐無稽な西部劇なのだが、サム・ライミの演出力もあってなかなか面白い娯楽作品になっていた。シャロン・ストーンの人気にあやかって作られた映画には違いないが、「トータル・リコール」でもわかるように彼女はアクション女優としても使える人材で、拳銃さばきは結構堂に入ったものだ。
脚本も演出も音楽もかつての西部劇というより、マカロニ・ウェスタンを思わせるが、考えてみれば監督のサム・ライミが映画少年だった頃主流だったのはセルジオ・レオーネが撮ったクリント・イーストウッド主演の一連の作品や、ジュリアーノ・ジェンマ(今どうしているのだろう)やフランコ・ネロ主演のコルブッチ作品だったりしたはずだから、マカロニ臭いのは当然かもしれない。
このところ悪役が多いジーン・ハックマンがここでも敵役で登場しており、複雑なキャラクターをうまく表現している。特に自分の息子と対決し、射殺してしまった後の表情のうまさは彼ならではだ。
複雑なキャラクターといえば、ストーンの演じたレディも、ハックマンによって自分の父親を自らの手で射殺させられてしまっていたという設定で、その回想シーンがあることでようやく、彼女がガンマンにしては異常に殺人に対して抵抗がある理由が判る仕掛けになっている。このあたりもなかなか巧みな脚本だ。
後半の赤インクのトリックやラストのオチはいかにもサム・ライミらしい才気を感じさせる出来で、特に体にあいた風穴を通して日光が漏れ、それを見ることで自分が撃たれたことに気づくというオチは、弾丸が入る角度や日光のさす角度を考えればあり得ないのだが、そういう理屈を超越した説得力がある。たぶん劇場でこのシーンを見た観客は拍手喝采したことだろう。・・・
「アルジャーノンに花束を」と同じテーマのSF作品だが、現代の作品らしくそれにバーチャル・リアリティという要素を持ち込み、CGをふんだん使って表現していた。わかりやすい演出ではあったが少々テンポが重く、展開もちょっとおさだまりという感じがしないでもない。
ラストでほとんど超人と化した精薄の青年がなぜかコンピュータの内部に入り込み、ネットワークを支配しようとするのかちょっと理解に苦しむところだ。そのままでも彼はその超能力で難なく人を支配することが出来、ネツトにアクセスするだけで十分世界を支配することもできそうなのに。「ショップ」の建物が爆発炎上するシーンはミニチュアの出来が悪く興ざめしてしまう。それまで比較的出来の良かったSFXが最後の最後でぶちこわしになってしまった。・・・
かの「史上最低の映画監督」エド・ウッドの伝記映画なのだが、ティム・バートンの作品らしく、全体に画面は暗いものの、内容はけして暗くない、むしろ優しさを感じさせる映画になっていた。
往年の怪奇スター、ベラ・ルゴシを演じたマーチン・ランドーがいい味を出してして、彼の好演を見るだけでもレンタルした甲斐があった。それにしてもよく判らなかったのは、これほどどうしようもない映画を撮ったウッドのどこに、マニアと呼ばれる連中がつくほどの魅力があったのかという点だ。一つ考えられるのは、コケてもコケても映画を撮り続けた情熱が人の心を動かしたのかもしれない。考えてみれば彼は常に超低予算で作品を作っており、そして彼が作っていたようなジャンルの映画にとって予算額は作品の出来を決定してしまう一番大きな要素なのだ。恐ろしい怪物が登場する映画でその怪物に十分な予算をかけられなければ、作品の出来は自ずと決定されてしまう。自分の立場に置き換えてみればよく判ることだが、一冊の単行本を今までの予算の半分で出せといわれたら、作品の質の低下は目をおおいたくなるほどのものだろう。これはもう才能や情熱の問題ではなく、単に物理的問題なのである。彼がどんなに出来の悪いシーンでも「完璧だ」の一言で片づけ、次のシーンの撮影に移ってしまうのも、そうしなければ時間もフィルムも足りなくなるからなのだ。
…なんてことを考えながら見ていたのだが、それでもやはり彼はちゃんとしたものを作る才能には恵まれてはいなかったようだ。いくらチャンスに恵まれなくても、一本くらいは傑作とはいわないまでもそこそこのものはありそうなものだが、結局のところ今回のブームが訪れるまで一本のビデオも出ていなかったという事実がそれを物語っている。・・・
いかにもジョンストンらしいSFX満載の映画である。物語の展開はこの手の話にはありがちのご都合主義が目立つが、娯楽作品として特に問題があるというほどではない。
それより気になったのは売りだったはずのCGによるSFXの出来で、暴走する象や犀が車を踏みつぶす場面のように、前もってTVスポットで流されていたシーンはまだいいのだが、それ以外はどうも出来がイマイチで、かなりいい加減な合成も散見される。登場するライオンにしろ猿にしろ、どう見てもぬいぐるみが動いているようにしか見えない。羽毛や毛でおおわれた体を実物とみまごうばかりに動かすことは、現代のCG技術ではまだ難しいのかもしれない。・・・
とにかく大変な力業である。骨太の演出、驚くほどの人数のエキストラを使った合戦シーン、どこをとっても言葉の本来の意味での超大作である。特に二度出てくるイングランド軍とスコットランド軍の合戦シーンは、映画史上最大と思われるスケールで展開され、黒澤もこれくらいの規模で「乱」を撮ってくれたらと思わせるくらいの出来であった。
三時間近くもある長尺だが、ダレる事などまったくなく、メリハリの利いた演出で最後まで観客を引きつけて放さない。唯一の難点をあげるとすれば、ウィリアム・ウォレスを演じたメル・ギブソンが少しばかり老け過ぎではないかと思われることくらい。せめてあと五歳若ければ、もっとリアリティのあるウィリアム像を描けたと思うのだが。・・・
先日見た「誘う女」の原題は“To Die For”訳せば「死んでもいい」だが、それをそのまま使えなかったのはこの映画があったからかもしれない。
数年前の映画各賞を総なめにした傑作ということだったが、確かに構図の取り方やテンポなど、独特のカラーは感じられるものの、そうたいした傑作だという印象は残念ながらなかった。異常とも思える長回しの多用や、場面場面でいちいち完璧な構図を作ろうとする努力は買うが、元々の原作がつまらなかったらしく、そのすべてが徒労に終わっていたような気がした。
「ブレイブ・ハート」みたいな映画を見たあとだったからかもしれないが、日本映画独特のセコさが例によって気になってしまった。とにかくそのビンボー臭さときたら、見ているこっちにまで貧しさが感染してしまいそうで不愉快になる。石井隆が才能のある監督だということは判っているのだが、こんな作品で認められてしまうと結局こじんまりとまとまった盆栽のような映画監督で終わってしまいそうで心配だ。・・・
たった80万円で撮った映画とは、とても信じられないほどまともな娯楽映画に仕上がっていた。演出のテンポもいいし、脚本も典型的な巻き込まれ型ヒーロー物を、まさにプロ級の腕前でまとめていた。製作費を考えると、出演した俳優たちは皆ボランティア出演と思われるが、それぞれに与えられたキャラクターをうまく表現しており、やはりプロの仕事をしていた。
親分に常に馬鹿にされていた子分が最後になって彼を見限る場面も、その襟首でマッチを擦るという行為で、見事に感情の変化を表現しており、全体に小技の効かせ方がうまい監督といえる。こういう作品を見ると、日本映画を擁護する連中がよく口にする「アメリカ映画とはかけている予算が違うのだから、単純に出来を比較することはできない」などという寝言がまったく無意味であることがよく判る。たとえ予算などなくとも、監督に才能さえあればいい作品は出来るのだということを、この映画は実証しているのだ。・・・
主演はアントニオ・バンデラスに代わったが、話は間違いなく「エル・マリアッチ」の続編である。ちゃんと前作のラストシーンが出てくるのでそれが判る仕掛けになっているのだ。(もちろん主人公はバンデラスに代わっているが)
予算はたぶん前作の100倍くらいに跳ね上がっただろうが、残念ながら面白さもそれに比例しているとは言えない出来であった。もちろん銃器を使ったアクションシーンはふんだんに用意されていて、スタームルガー製のオートマチックを両手に持ったバンデラスが派手に跳んだり跳ねたりしながら撃ちまくる場面はサービス満点ではあったが、前作で殺し屋から逃げ回るばかりだったマリアッチと同一人物とはとても思えない。酒場を襲撃して全弾を撃ち尽くしたバンデラスが生き残りと対峙したとき、二人とも死体が握っていたイングラムを奪って引き金を引くが、双方ともうち尽くしたあとで弾丸が出ず、また別の死体からイングラムを…というようなことを三回繰り返すあたりにロドリゲスのギャグセンスを見せつけられたが、どうも今回はその手の小技があまり生きておらず、ひたすら火薬量で勝負しようとする姿勢が目立つ。
特によく判らなかったのがバンデラスが仲間二人を呼び寄せて子分たちを片づけるシーンで、仲間は二人ともギターケースの中に自動小銃やらロケット弾やらを忍ばせて、大アクションを見せてくれるのだが、敵を相当倒しはするものの結局当人たちも敵弾にあたったり自分の発射したロケット弾にあたったりして死んでしまう。どうもただ派手なアクションをつけ加えるためだけに作られたキャラクターのようだ。
ラストでバンデラスが敵のボスと会い、それが実の兄だと判る場面はこの映画の中でもっとも盛り下がってしまうところだ。前にも書いたように血縁を物語に持ち込むのは才能のない脚本家がほかにどうしても観客を納得させられる設定を思いつけないときについ使ってしまう禁じ手のようなもので、これをやられると僕みたいなすれっからしの観客は一気に興ざめしてしまう。この場面であっさり兄は射殺され、まさに竜頭蛇尾という感じで物語は終わってしまう。
物語の前半で用心棒に雇われた少年も結局大した出番のないまま殺されてしまい、なぜわざわざワンシーン使って彼が採用されたときのエピソードをいれたのかよく判らない。撮影している最中に何か事故でもあったのだろうか。・・・
記憶は定かではないが、確か筒井康隆の原作はオムニバス長編もので、松男と杉男のエピソードはその中の一編だった筈だ。脚本はこのエピソード一本を二時間かけて上映する映画のために拡大していて、当然ながら全体に水増し感が強い。
主演の豊川悦司はなかなか達者な俳優で、目つき一つで松男と杉男を演じ分けており、彼なくしてはこの映画の完成はおぼつかなかっただろう。しかしながら演出のテンポは散漫で、この脚本ならもう30分は短縮できたはずだ。どういうつもりかうんざりするほどの長回しがここでも見られ、日本映画の悪しき伝統なのかもしれない。特に松男/杉男が射殺されるまでを淡々と描いた数分間の演出が、それ以前の数カットと併せていかにも時間のかけすぎで話のテンポを鈍らせ、結果的にこの映画を退屈な一本にしてしまった。
筒井康隆の原作を得て、豊川悦司という名優に恵まれてもこの程度の作品しか作り得ないというところに今の日本映画界のおかれた深刻な状況が見えてくる。・・・
いかにもティム・バートンらしい暗くじめっとした印象の映画である。バットマンの活躍する舞台となるゴッサマ・シティは常に夜のシーンばかりで、昼の風景は一度も出てこない。
アール・デコ風の美術はなかなかのもので、巨大なレリーフで装飾された建築物は見事な出来だ。新キャラクターのペンギンとキャットウーマンはダニー・デ・ビートとミシェル・ファイファーがそれぞれ演じており、どちらも難しい役柄を陰影ある演技でうまくこなしている。細かく見ていけば、ふつうのOLだったミシェル・ファイファーがクリストファー・ウォーケン演じる社長に殺されかかっただけでキャットウーマンに変身し、一夜のうちに格闘技のエキスパートになってしまうというのはどう考えても不自然なのだが、コミックブックの世界を映画化するからにはこれくらいのことには目をつぶらなければ先へ進めないのかもしれない。
脚本は至る所に不自然な部分が見て取れるが、ここで引っかかってしまってはティム・バートンの世界には浸れないのだろう。多少無理のある展開でも気にせずバートンの描いた筋書きを追っていれば、結構楽しめる映画であることは確かだ。・・・
監督も主演俳優も代わって、がらりと印象の変わったバットマン・シリーズの三作目だが、ティム・バートンが製作陣の一人として名を連ねているためか、どこかに前二作の雰囲気をとどめた作品になっている。
ゴッサマ・シティのセットは以前に比べてずいぶん現実のニューヨークに近くなり、今回は昼のシーンもあったりする。もっともバットマンが活躍するのはいつも通り夜だけだが。ヒロインは前作のミシェル・ファイファーからニコル・キッドマンに代わっているが、彼女はいわずとしれたトム・クルーズの現在('96年当時)のかみさんであり、一方ニュー・バットマンのバル・キルマーもクルーズの出世作「トップガン」で、彼のライバル役アイスマンを演じて一躍有名になったという因縁がある。
今回の敵役はトミー・リー・ジョーンズ演じるトゥ・フェイスとジム・キャリー演じるリドラーだが、比較的丁寧に成り立ちから描かれているリドラーに比べ、トゥ・フェイスは単にありふれた凶悪な犯罪者としてのみ描かれ、せっかくのキャラクターを描ききっていない。脚本は前作に比べれば話の流れは自然だが、その分だけふつうの映画になってしまったという印象も強い。・・・
バットマン・シリーズのような派手なアクション映画を見たあとにはことさら静の部分が目立ってしまうが、そうでなくてもずいぶん静的な映画だと思う。
登場人物はほとんど座っているか立っているかで歩いているシーンすらごく少なく、日本映画伝統の(?)長回しの連続で、唯一動きのある場面といったらラスト近くで寺田ヒロオが藤子不二雄の二人と相撲を取るシーンくらいのものだ。
まあ、市川の撮った映画はそのほとんどが動きのない作品ばかりなので、今回もその例に漏れなかったという事か。絵づくりもまたいつもの市川作品らしくフィクスしたロングの画面を多用し、ビデオの解像度では役者たちの顔すらよく判らない。
従って誰が誰なのかよく判らず、赤塚不二夫がきたろう演ずる編集者から帰郷を進められるシーンなど、ずっとあとになってそれが赤塚だと判るていたらくであった。やはり前半の部分でもう少し誰が誰なのか判るような説明的な描写も必要だったのではあるまいか。せっかく本人たちに似た俳優を起用しているのだし。
いわゆるギョーカイもので、同業者である僕としては身につまされる描写も多いのだが、淡々とした演出のためかあまり深刻なムードは伝わってこなかった。力みかえった演出はかえって逆効果だとは思うが、あまりポーカーフェイスなのもちょっとどうかと思う。もっとも演出を市川に任せた時点でこういう仕上がりの映画になることは分かり切っていたのだと思うが。・・・
前半はいかにもタランティーノ一家らしいどこかキレてるクライム・アクションになっているが、一行がティティー・ツイスターにたどり着いたあたりから話は変な方向にネジ曲がり、突然ホラー・アクションへと路線変更してしまう。この辺の切り替わりはいかにも唐突でちょっと無理を感じるが、この作品独特の乗りになれてしまえばなんということもなく乗り越えられる程度のギャップではある。
いつもアブナイ役が多いハーベイ・カイテルに元牧師の役を割り当てるところなど、なかなか凝った配役だ。ホラー・アクションに方針転換してからは割とふつうのホラー映画になってしまっていて、あまりロドリゲス作品らしさが感じられない。バンパイアたちを倒す倒し方などにもう少し工夫があっても良かったと思う。ラストもだらっと流れてしまい、あまりしまりがあるとはいえない。それにしてもタランティーノという男、役者としても十分食っていけるぞ。・・・
TVスポットなどを見るとやたら派手な撃ち合いばかりの映画みたいだが、実際の銃撃シーンは中盤に一回あるだけだ。もっともその一回のすごさは半端ではないが。
映画としては「ヒート」というタイトルとは裏腹に、かなりクールな部類に入る作品だと思う。三時間近くもある長尺で、描写も丁寧なため、テンポはやや遅めでちょっとかったるい感じもするが、デニーロとパチーノそれぞれのキャラクターの掘り下げにかなり時間を割いていて、どちらもそれなりに成功してはいる。
もっともタランティーノ一家の作品群を見たあとではこういうスターシステムの象徴のような作品はもう古いような気もするが。それにしても話題になったデニーロ、パチーノ二人同時に画面に出るシーンが皆無であるという点はまさにその通りで、これはとにかくアップの連続で絵づくりしたがるマイケル・マンの演出法にも原因があるのかもしれないが、やはりちょっと不自然であった。
ラストシーンの撮影など、たぶん二人とも同時に現場にいたと思うのだが、最後の最後までワンカットで二人の顔が同時に見られるシーンはなかった。・・・
力作である。この緊張感の持続の仕方はさすが「Uボート」のペーターゼンだけのことはある。エボラウィルスを上回る感染力と進行の早さを持つ新型のウィルスを相手に苦闘する軍の研究期間のスタッフを、ダスティン・ホフマンが久々に熱演している。
敵はウィルスだけではなく、かつて自ら細菌兵器研究のために犯した犯罪を糊塗しようと画策する将軍(ドナルド・サザーランドが好演)もからんで面白いドラマになった。途中でホフマンが部下とヘリコプターを奪ってからは、航空アクションものの要素も加わって盛りだくさんの展開となるが、このあたりを無理なく見せるのが監督の手腕といえる。空戦シーンは巧みなCGの使用もあってかなりリアルに仕上がっており、まったく期待していなかっただけに何だか得した気分だ。
宿主であるサルを手に入れてからの展開は、時間の関係もあってかちょっとご都合主義にも思えるが(確かウィルスは内蔵を冒し、数時間でぐちゃぐちゃに溶かしてしまうという設定だったはずで、病状がそこまで進んだらいかにワクチンを与えたところで回復は望めないはずだ)まあ良しとしよう。
それから、軍事ものを専門に書いている立場から一言いわせてもらえば、気化爆弾の爆発の仕方はああではない。まず一次爆発で気化した燃料を回りの空気と混合し、ちょうど爆発する混合比になったところで二次爆発を起こすのが気化爆弾だ。つまり爆発は二回あり、二回目の爆発が小型核兵器にも匹敵するものすごい爆発なのだ。映画ではこのあたりを単なる強力な爆弾としか描いておらず、ちょっと不満だ。まあ、些細な点ではあるが。・・・
森田芳光の作品という事で、ちょっと構えて観てしまったのだが、題材がパソコン通信という今まであまり扱われなかったものなので、ちょっと変則的なドラマづくりにはなっているものの、基本的にはボーイ・ミーツ・ガールの割とふつうの恋愛映画になっていた。
画面にたびたびメールの文章が出てくるが、字体がいかにも字幕風の当たり前なもので、あまりパソコン通信という感じが出ていない。確かに通信のたびにパソコンの画面がスクリーンいっぱいに出てくるのもどうかとは思うが、せめてもう少し字体に工夫して、パソコン独特のフォントを使うとかしたら良かったと思う。
それより気になったのは、映画全体に流れる森田のセンスが古くなってしまっていることで、たとえば冒頭のチャットに登場する架空の映画のタイトルなどあまりに陳腐でリアリティに欠ける。それから、主人公のハルが企画会議の最中、上司に「トム・ヤム・クンよりトム・ヤム・チャンとしたらどうかね?」と提案され、クサる場面があるが、これをダサいと感じてしまう森田のセンスこそ問題だろう。映画全体の中でこの台詞こそ一番センスを感じさせるところで、現実に日清あたりならそんな名前のカップ麺を出しそうだ。・・・
一種の立身出世物語で、バーホーベンの演出力のおかげか退屈はせずに観ていられるが(エッチな場面も多かったし)、物語そのものはよくある陳腐なオハナシである。
売りは莫大な予算をかけて再現したラスベガスの一流のショーの場面だが、はっきり言ってダンスシーンそのものは前半のストリップ劇場の全裸ダンスの方が良くできていたように思う。主演のエリザベス・バークレーはちょっと下品な顔立ちで、愛嬌はあるのだが一流の劇場で主役を張るほどのご面相ではない。さすがにボディはすべての登場人物の中でもピカ一だったが、彼女にはやっぱりストリップティーズの方が似合っていたように思う。
それにしても冒頭でスーツケースを持ち逃げした男のピックアップをラストでまたヒッチハイクしてしまうというオチは、ローズが実は(ほし)の妹だったというのと同じくらいずっこけてしまった。・・・
上映時間三時間にも及ぶ長大な作品だが、さすがにスコセッシの手になるだけにだれるなどということもなく、登場する俳優陣の手慣れたうまさもあってキッチリ見せてくれる。
主な登場人物を演じるロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、そしてシャロン・ストーンはそれぞれが彼ら以外の配役を思いつかないほどの適役ぶりで、特にサム(=デ・ニーロ)の幼なじみニッキーは平気で殺人を犯すような破壊的な部分と友達を思いやる人間味を感じさせる部分が複雑に入り交じった難しいキャラクターなのだが、ジョー・ペシはなかなか見事にその役をこなしていたように思う。
サムの妻役のシャロン・ストーンもまた、ほかの女優では不可能に思える役柄をよくこなしていた。いきなり主人公のデ・ニーロが爆死してしまう(実は生きているのだが)オープニングから、親分たちの保身のためにほかの仲間たちが次々と殺されてしまうラストまで、いかにもこの手の話らしく人がたくさん死ぬのだが、意外とあまり殺伐とした印象がないのはやはり主演の三人の心の動きを丹念に追ったスコセッシの演出によるところが大きいだろう。・・・
「マスク」を監督したラッセルの作品なので、あんな感じのコメディを予想していたのだが、予想は見事に裏切られ、ごく普通のアクション映画に仕上がっていた。もっとも細かいギャグをさりげなくあちこちにちりばめるあたりはさすがに「マスク」を撮っただけのことはあるが。
シュワちゃんの役はもはや伝説的になっているFBIの証人保護官で、証人を死んだことにして裁判で証言するまでの間殺し屋の手から守るのが仕事なのだが、どういう訳か証人はその後の人生を別の人間として生きている設定になっており、これではちょっと矛盾が生じると思う。なぜなら当たり前の話だが証言をするとき証人はその素性を明らかにする必要があり、素性を明らかにした時点で架空の人物からもとの自分に戻るはずだ。
シュワちゃんも確か別の人間になっているのは証言が終わるまでだと言っていた筈なのに、物語の後半で協力するキャラクターたちは皆別の人生を生きており、どうやら元の自分には戻っていないらしい。
物語はシュワちゃんのキャラクターを生かした体を使ったアクション物なのだが、かなり荒唐無稽な筋立てもシュワちゃんが演じるとそう見えなくなるから不思議だ。SFXはジェット機から飛び降りるシーンやEM銃の発射シーンなどはなかなか良くできていたが、いただけなかったのが動物園のワニにおそわれる場面で、ワニの動きがいかにもCGという仕上がりで見るからに不自然だった。これがあの「ジュラシック・パーク」のCGを担当したILMの作品とはとても思えない。・・・
シェイクスピアの戯曲を映画化したことで知られるケネス・ブラナーの作品らしく、これまであったようなボリス・カーロフ主演のホラー物などとは一線を画する格調の高い映画に仕上がっている。読んだことがないので判らないが、原作にかなり忠実な映画化らしい。
主演は監督も兼任しているケネス・ブラナーだが、本当の主役はやはりフランケンシュタインの怪物(クリーチャー)を演じたロバート・デ・ニーロであろう。何人もの人間の死体を合成して作られたという設定から、怪物自身の性格も多重人格的に設定されており、時に優しく時に残酷なキャラクターを的確な演技で表現していた。
もっとも、貧しい小作人一家の豚小屋に潜んでいた心の優しい怪物が、小作人たちが引っ越してしまったら突然小屋に火を放ち、「復讐してやる!」と叫ぶあたりの演出はやや唐突な感じがする。この辺の心理描写にはもう少し時間をかけて、丁寧にやって欲しかった。そうでないとその後の彼の知能犯的な行動があまりしっくりこず、観客は混乱してしまう。もちろん怪物がモザイク的なキャラクターであるという設定を観客の頭にたたき込むためにやったのだろうが、ちょっと観客の理解力を過大評価していると思う。
フランケンシュタインの妹(後に妻)を演じたヘレナ・ボナム・カーターは相変わらずうまいが、彼女は誰を演じてもヘレナ・ボナム・カーターというキャラクターに役を引き寄せてしまう感じがする。まあ、顔立ちが個性的な女優には宿命的なことかもしれないが。それにしても、フランケンシュタイン邸の階段は手すりもなくとても危険だ。あれでは一番上から落ちたらとても骨折くらいではすみそうもない。当時の大邸宅の階段は本当にあんなだったのだろうか。・・・
トム・クランシーの原作「愛国者のゲーム」の映画化だが、設定は少し時間を移してソ連邦崩壊以後の世界となっている。全体的に描写が少々駆け足になってしまっているほかは、ラストを除けばほぼ原作に忠実な映画化と言っていいだろう。
何しろ邦訳で800ページを超える大部なので、ある程度忠実に描こうと思ったら多少端折らなくては収まりきれない。それより気になったのは、ジャック・ライアン役のハリソン・フォードがちょっと老けすぎていることだ。この点は原作者のクランシーも同感だったらしく、どこかでそんな発言をしてハリソン・フォードの不興を買ったらしい。まあ、その辺はキャスティングの問題なので映画の出来とはそれほど関係ないのだが。
ノイスの演出は平均的な出来で、わかりやすくはあるが取り立てて特徴らしい部分のない、職人的な仕事であるが、アクション場面の演出はそこそこ見せてくれる。・・・
邦訳で1000ページを越えてしまう大作なので忠実な映画化は無理だったのだろうが、それにしても前作に比べてずいぶん大胆な脚色である。原作では主人公のジャック・ライアンが登場するまでに物語の半分近くがすぎてしまうが、さすがに映画ではそれは無理だったのか、映画の冒頭からライアン・ファミリーが登場して前作の続編であることを強調している。
大筋は当然原作のそれを踏襲しているが、原作に比べてキャラクターの行動がいちいち映画的に派手である。たとえば、ライアンの友人でFBI捜査官であるダン・マリーなど麻薬組織の待ち伏せにあってあっさり死んでしまうし(原作にもFBI長官を待ち伏せて、ロケット弾で襲撃するシーンがあるが、マリーは同行していなかった)長官のスケジュールを漏らしたモイラをコルテスが素手で殺してしまう場面も原作にはなかった。
原作離れは後半に進むほど大胆になり、コロンビアに取り残された兵士たちを、ライアンが単身救助に乗り込むあたりは、もう完全に原作とは違う世界の話である。一種のヒーローものとしてみればこういう展開もありなのかもしれないが、リアリティという視点から見ればどうしても無理な展開と言わざるを得ないし、物語のスケールも原作に比べてかなりこじんまりしてしまったという印象は免れない。
ノイスの演出はここでもよく言えば手堅く、正直に言えば凡庸で、あまり個性を感じられない。あまりに有名すぎる原作を料理する難しさは僕にも多少判るような気がするが、それにしても紋切り型の演出である。・・・
映画には大きく分けて三つの種類があると思う。まず、(1)なくてはならない映画、そして、(2)あってもいい映画、それから、(3)なくてもいい映画の三つである。なくてはならない映画というのは、言うまでもなく誰が見ても面白く、大きな興業収益をあげる映画のお手本のような映画である。あってもいい映画というのは、大きな興業収益をあげることは期待できないが、見る人が見れば面白く、また、作り手側も楽しんで作っている、いわゆる「いい映画」のことである。なくてもいい映画とは、全然面白くなく、作り手もただ何となく作っているとしか思えない(だから当然興業収益もあがらない)映画だ。まあ、中には平成ゴジラシリーズのように全然面白くなく、ただ何となく作っているようにしか思えないのに結構興業収益をあげてしまうような例外もあるが。残念ながら邦画のほとんどは(2)か(3)に分類されるような作品ばかりだ。有名監督が撮る映画はほとんどが(2)の「いい映画」であり、超大作と無名の監督が撮るのは例外なく(3)ばかりときている。(1)の条件を満たす映画はもうほとんど邦画には期待できない現状なのだ。
さて、そこでShall We ダンス?である。周防監督はこの映画でとにかく誰が見ても面白い映画を作ろうとがんばったのだと思う。とにかく最近の邦画には珍しく、基本に忠実な楷書体の映画である。
主演の役所広司はごく普通のマジメ人間を自然に演じていてうまい。ヒロインを演じた草刈民世は本職がバレリーナで演技経験がないためちょっと堅い感じがするが、周防はこの堅さをうまく逆手にとって、キャラクターの重要な要素の一つにしてしまっている。
見所は言うまでもなくコンテストの場面だが、ここまでの盛り上げ方はロッキーにも通じるようなスポ根路線のように見せながら、あっさりうっちゃりを食らわせてくれるあたり、この監督、なかなか食えない男だ。もちろんダンスシーンは吹き替えではなく、ちゃんと俳優たちが実際に踊っている。役所広司も渡辺えり子も竹中直人も、相当特訓したのだろうが、見事に踊っている。こういう嘘のなさが楷書体の映画という所以である。
細かい不満な点、たとえば役所がダンス教室に通っていた期間がほぼ一年という設定だったのに、季節感の描写がまったくなかったためにあまり説得力がなかったこととかが、なくはないのだが、こういう些細な点は映画の出来が良ければ気にならないものなのだ。(1)を狙ってかなりいい線までいった映画と言っていいだろう。・・・
というわけでようやく見たタランティーノの処女作だが、さすがにタランティーノらしく才気のほとばしった作品であった。
とにかく構成が凝っている。「パルプ・フィクション」でもそうだったが、時間軸を縦横に行き来して物語を紡いでいく手法は当初から使っていたのだ。登場するギャングたちのキャラクターはそれぞれ短いエピソードで紹介され、それらをつなぎ合わせて物語を構成している。
ほとんど場面転換のない、舞台劇のような脚本だったが、それぞれのキャラクターの描き分けが鮮烈なため、静的な印象はなかった。ラストで傷ついた仲間(実はおとり捜査で潜入している刑事)を体を張って守り抜くホワイトの行動がアメリカの観客にはイマイチ理解できなかったようだが(大半はホモ関係だと思ったらしい)これはタランティーノ流の日本ヤクザ映画美学の表現なのだそうだ。・・・
なかなか良くできたノンストップ・アクション・ムービーだが、導入部の展開は少々無理があったように思える。スカイダイバーをすり替える手際そのものはトリックとして無理はないが、それ以前に計画として無理がある。
だいたい何のためにあんな手の込んだトリックを仕掛けなければならなかったのか、どうもよく判らない。まず、あのトリックが成立するためには死体となったルーム・メイトが必要だから、もとKGB (KG used Bという言い方はケッサクだった) の殺し屋に彼女が殺されてから思いついた作戦でなければならないが、自分が死んだことにして自由に動き回れるようにするためだとはどうも思えない。その後の展開を見ると、チャーリー・シーン演じるディッチを仲間に引き込むためのようだが、それだけの作戦をたてるには、死体の鮮度を考えるとほんのわずかな時間しかなかったはずで、ちょっと不自然すぎるし、だいたいぶっつけ本番でディッチを敵地へ潜入させるというのも無理がありすぎる。
しかしその後の展開はスピーディで、女スパイ=クリスタを演じたナスターシャ・キンスキーも十分美しく(彼女は一体いくつなのだ?)クライマックスのスポーツカーの落下シーンもかなりの迫力で見せてくれた。チャーリー・シーンのキャラクターもあって、サスペンスフルな中にも笑いの要素を盛り込んだ娯楽作になっていた(たとえば「モスクワの金」というキーワードを二度も使ってくれたり)・・・
テリー・ギリアムらしいヘンテコな映画を期待してみると肩すかしを食わされる。割と正統派のしっかりとした人間ドラマになっていた。セットの雰囲気やロビン・ウィリアムスの恋人となる女性のキャラクターなどに多少ギリアムらしさの片鱗が見られるが、基本的には罪を犯した人間が救済されるまでの物語である。
展開がややまだるっこしく、実際以上に長い映画のように思えるのはマイナス要因だが、その分丁寧な描写でしっとりと描かれていて、飽きるようなことはなかった。・・・
これはまたゼメキスらしいヘンテコな映画であった。見せ場は当然不死の体になった主演の二人(メリル・ストリープとゴールディ・ホーンが好演)の肉体の壊れかたを見せるSFXであるが、これはもうほとんど魔術と言っていい水準までいっていて、見事の一言。あえて重箱の隅をつつくような言い方をさせてもらえば、ゴールディ・ホーンの腹にあいた穴の影の部分が画面のほかの部分よりわずかに暗すぎるかな、と思える程度だった。
それから、あまり目立たなかったが、映画の冒頭に出てきた若作りのブルース・ウィリスのメイクもまた見事であった。物語の展開はゼメキスらしくスピーディで観客を飽きさせない。多少がっかりだったのはお話の終盤でバラバラになってしまった二人が台詞のやりとりをする場面で、二人の首がどう見ても作りものにしか見えないところで、それまでのSFXが実に見事だっただけに惜しまれる。・・・
福山庸治の原作をビデオ映画化した作品だが、原作の持つコメディ味をいささか誇張しすぎた出来で、その分ホラー風味の皆無な映画になってしまった(特殊メイクもあまりにオソマツな出来であった)
物語は殺人事件のシークエンスを除けば(ここはいくらなんでもふざけすぎだ)だいたい原作通りの展開だが、たとえば主人公たちの乗ったミニが大ジャンプをしてトラックの荷台に飛び込むといった、むしろ映画的な場面が省略されてしまったりして、一体何のための映画化なのかよく判らない。
主演の越智静香は演技がどうのこうのという以前に、あまり原作のイメージに似ていなかったのが残念だ。ピンクの電話の二人と石井社長以外に全然知っている役者が登場しないのも何だかビンボー臭い(本当に予算がなかったのだろうが)ビンボーならビンボーなりに作り方がありそうなものだが、ただのオフザケ映画で終わってしまった。
本当はコメディのような万人向けの作品にこそプロの手腕が必要なのだが、日本の映画界はどういう訳か「芸術的」な作品にしか才能ある監督を使いたがらないようだ。・・・
バンパイアが本質的に持つ悲哀の部分を強調した作品で、テーマとしては「ポーの一族」を強く連想させる部分が目立つ。バンパイアをトム・クルーズやブラッド・ピットといった美形たちに演じさせているあたりにも共通点がありそうだ。
原作はアメリカの女流作家が書いた小説で、彼女が萩尾望都のマンガを読んでいるとは思えないから、おそらく偶然の一致だろうが、あるいはこういう感覚は女性がバンパイアに対して持つ共通のイメージなのだろうか。
キャラクターの描き分けはドライなトム・クルーズに対してウェットなブラッド・ピットとはっきりしていて、それに少女バンパイアが絡んで物語は展開していく。この少女がいつまでも少女のままであることに悩むという点もまた「ポーの一族」を思わせる。後半にアントニオ・バンデラスが別のバンパイア集団の頭目として登場するが、このあたりは単に少女バンパイアを消滅させる手段としてしか機能しておらず、やや物足りなかった。
ラストのオチでトム・クルーズが再登場する部分は面白かったが、謎なのは現代でピットに再会するクルーズがなぜあれほど衰弱していたのかだ。彼のドライなキャラクターはピットの演じていたバンパイアよりもはるかに現代的で、今の世の中を十分渡っていけそうなのだが。・・・
コロンバスらしいファミリー・ドラマだが、ロビン・ウィリアムスの彼ならではの怪演と、見事な特殊メイクのおかげでなかなか印象的な作品になった。
男性が女装して主演する映画といえば、まずダスティン・ホフマンの「トッツィー」が思い浮かぶが、あれがどう見ても女装した男性にしか見えなかったのに比べて、ロビン・ウィリアムスの女装は技術の進歩もあるのだろうが、実際にちょっとゴツいオバサンに見える。
ドラマはいかにもコロンバス好みの展開で進んでいくが、特筆すべきなのは離婚した妻を演じたサリー・フィールドの若々しさである。どう考えても40代後半の筈の彼女だが、映画の設定ではそれより少なくとも10歳は若く、それでいて全然不自然ではない。ゴールディ・ホーン同様、彼女もバケモンなのかもしれない。
ミセス・ダウトが実はロビン・ウィリアムスの変装であることがバレて物語はエンディングを迎えるわけだが、単純に二人がよりを戻すと言った展開にならないあたりがイマの映画なのだろう。・・・
シルベスター・スタローンとシャロン・ストーンの組み合わせというと、大迫力のローラーコースター・ムービーを予想してしまうが、スピードで押すと言うよりじっくり丁寧な描写で物語を積み重ねてゆく作劇法をとる正統派のアクション・ムービーであった。
細かいことを言えば、どうしてシャロン・ストーン演じるメイが何故あの年になって突然両親の仇を討つつもりになったのかがよく判らないが、あまりそういうところに突っ込むとこの手の話は成立しなくなってしまうのでここはよしとしよう。もちろん火薬をたっぷり使った派手な爆発シーンには事欠かないが、展開はあくまで緩やかで、スタローンがあわてて走るようなシーンもほとんどない(実際には二カ所ある)
例によってスタローンは無表情なキャラクターに設定されていて、演技力の不足を露呈しないような工夫がなされているが、結局自分を裏切ったシャロン・ストーンを殺すこともせず手に手を取って逃亡してしまうあたりに脚本の限界を見せられた気がした。・・・
キャシー・ベイツの演技力で見せる映画である。娘役のジェニファー・ジェイソン・リーとのぶつかりあいには見応えがある。
物語はいかにもスティーブン・キングの原作らしく、隠された秘密がいくつも明らかにされる心理劇で、クライマックス・シーンの日食のCGの見事さとも相まってなかなかの作品に仕上がっていた。結局ドロレスの最初の犯罪は明らかにされずに終わってしまうのだが、この辺は何でも白黒をつけたがるアメリカの作品にしては珍しく、どこかヨーロッパ映画の匂いがするのはそのためかもしれない。
それから、作品の出来とは関係ないが、「黙秘」という邦題はいただけない。ドロレス・クレイボーンという原題では売りづらいのは判るが、だいたいこの映画の中のキャシー・ベイツはしゃべりっぱなしでどこにも黙秘する場面などないのだ。「黙秘」という台詞が出てくるのはジェニファー・ジェイソン・リーがキャシー・ベイツに弁護士が来るまで警察署内でとるべき態度について指示する場面くらいのもので、タイトルとするにはいかにも無理がある。・・・
前作「フィッシャー・キング」では幾分らしさが控えめだったが、今回は前回の分もがんばったのか、至る所でギリアム節爆発といった感がある。トリッキーな演出、広角レンズを多用した独特な構図、悲劇的な結末と、まさにギリアム・ワールドだ。
主演のブルース・ウィリス(何故か額の傷がタイム・トラベルをするたびに出来たり消えたりしている。意図的というよりは、メイクのミスだろう)もブラッド・ピットも、精神科医を演じたマデリーン・ストウも好演していたが(ただし美人ではあるがあまり個性的な顔立ちではないため、ちょっと髪型や髪の色を変えただけで誰だか判らなくなってしまうという問題はある。もっともこの点はコールの夢の中の女の正体を観客にすぐには判らせない効果もあるので、おそらく計算づくのキャスティングであろう)特にブラッド・ピットは繰病的なキャラクターを説得力ある演技で表現し、単なる美男スターではないことを証明した。
しかしSF映画としては多少不満もある。まず、タイム・トラベルものには不可欠の時間理論がまったく出てこないために、一体いかなる原理で時間旅行が可能になっているのか全然判らない。タイム・パラドックスについての考察もなく、過去を改変(たとえ何もしなくても、本来存在し得ない人間が存在してしまうだけで十分過去の改変といえる)することによりコールたちが存在していた現在がどういう影響を受けることになるのかはっきりしない。致死性のウィルスにより絶滅しかけた人類を救うのに必要なウィルスの原種を手に入れるために過去へ戻るというのがこの映画のプロットではあるのだが、考えてみれば過去に干渉することにより現在の支配階級自体が存在しなくなる可能性はけしてなくはないのだ。
実際コールの行動目的は途中からウィルスをばらまく12モンキーズの行動自体を阻止することに変わるから、その可能性は当初よりはるかに高まったと言える。そういう意味での危険性に支配者たちが気づいていないはずはなく、そう考えればラスト近くで未来人たちがコールの行動をむしろ邪魔しようとさえする理由も判る。結局彼らが本命視していた12モンキーズは単なる若者のお茶目ないたずらに過ぎず、実際に細菌をまき散らすのは本編中にはちらりとしか出てこなかった研究員だったのだが、ラストではちゃんとその研究員にも未来からきたエージェントが張り付いて、彼らの本来の目的が果たされるであろう事をと予想させて映画は終わる。
この辺の描写は意図的にかやや混乱していて少々難解だ。常識的な見方をすればコールの動きは逐一モニターされていて、真犯人の正体に気づいた未来人がコールを(観客を欺くための)囮に使って、自分たちはしっかり真の目標を押さえたのだということなのだろう。とにかく、こちらの頭が悪いせいか、それとも構成がいささか凝りすぎだったせいかよく判らないが、難解な映画であった。ところで、マデリーン・ストウ演じる女医は何度もウィリス演じるコールに「昔会った事がある」と言っているのだが、結局その伏線は解消されずじまいだった。・・・
シナリオがダメでおまけに監督もダメだと映画はこうなってしまうという見本のような作品である。とにかくセーガルが強すぎてしまって話に緊張感もなにもなく、敵のキャラクターもただ単に極悪人というだけで、一片の説得力もない。
せっかく雇った傭兵もジョッカーのみなさん並の弱さであっという間に片づけられ、大した盛り上がりもないままクライマックスもすぎてしまい(爆発だけは派手だが)終わりはセーガルの自然保護の大演説が延々と続くという、たとえセーガルの熱烈なファンでも首を傾げたくなるような映画なのだ。せっかくマイケル・ケインのような名優を使ったのにこの仕上がりはない。駄作である。・・・
前評判が高かったせいか、実際に観た結果はいささか期待はずれに終わってしまった。もちろん出来が悪いとか言うつもりはないが、映画としての出来は前作の方が完成度は高かったように思う。
設定それ自体は悪くはないのだが、肝心の巨大レギオンの造形がイマイチで、ギャオスほどの説得力はなかった。羽根レギオンの出来が結構良かっただけに惜しまれる。SFXはさすがに前作を上回る出来で、特に人間の絡んだ特殊効果は旧ゴジラなどとは隔世の感がある。ミニチュアワークは全体にゴジラシリーズなどよりはるかにうまく巨大感を表現しており、たとえば草体が出現するビルの大きさなどかなり説得力がある。さすがに避難民たちが仙台から脱出するシーンに登場するCH-47の離陸シーンでは実機とミニチュアの差がはっきりついてしまったが。
この映画の一番の問題はやはり脚本で、前半の、「ラドン」に登場したメガヌロンのごとく出現する小レギオンなどなかなかうまい使い方をしてくれるのだが、肝心のクライマックスがどうも壮快感のない、陳腐な展開に終わっている。特に、突然光の波がガメラにそそぎ込み、甲羅の下からものすごい光線が発射されてレギオンを一撃で倒してしまうところなど、唐突と言う感を免れなかった。せめてあと10分長くしてもいいから、もう少し練った脚本で撮って欲しかった。
一つだけ嬉しかったのは、ついに水野美紀が主演女優を張ったことだ。・・・
どうして地下鉄の運行責任者が警官にいばり散らしたり首を切ったり出来るのか謎だったが、どうやら主演のウェズリー・スナイプスたちはいわゆる警官ではなく日本で言えば鉄道公安官みたいなものらしい。
物語はよくあるコンビもので、ちょっと異色なのは二人が兄弟で、しかも片方は黒人、もう片方は白人という、普通ではちょっとあり得ないような組み合わせであることだ。最初は単に仲がいいコンビがお互いを兄弟に見立てているのかと思ったが、実は白人の捨て子を拾ったスナイプスの母が二人を実の兄弟のように育てたのだと言うことがあとで判る仕掛けになっている。ギャンブル狂でちょっとだらしないところのある弟(ウディ・ハレルソン)と、腕利きの公安官である兄(ウェズリー)とが見事に任務を果たしたにも関わらず、地下鉄を停めたという事だけで首にされ、金にも困っていた弟はマネートレインを襲撃することを決意する。ここまでの展開は丁寧だがちょっと時間のかけすぎで、おかげで肝心のマネートレイン襲撃のシークエンスがやや短くなってしまった。
あくまで堅物の兄は弟の計画を未然に防ごうとしてマネートレインに乗り込み、結局行動をともにしてしまう。この二人に絡んでくる、ジェニファー・ロペス演じる女性公安官グレースがまたいい味を出していて、ラストの締めをきれいに決めてくれる。
だいたい地下鉄を乗っ取る話というのは、自分で自分の行き先を決められない列車という乗り物の宿命故に、非常に描きづらいものだが、このあたりは実にあっさりとかわし、キャラクター描写の巧みさでうまく逃げてしまった。オチもうまく決まっており、観終わったあとの壮快感はいかにもアメリカ映画を見た!という感じでいい。・・・
大林の一連の尾道シリーズの一本だが、その中でもとりわけロマンチックな一本である。さびしんぼうが実は主人公の母の若き日の姿だったというオチは、見え見えではあるが、まあお約束という奴だろう。富田靖子が二役を演じているが、この配役は主人公の母の若き日の恋と対比されていて、なかなか芸が細かい。
特に大林という映画作家のファンではないが、やはり彼の作品の中では良くできている方だと思う。このあとあたりから大林の作品は締まりなく長大化し、タイトさが失われてしまうのだが、この作品に限ってはいいテンポで話も進み、笑いの中にも少年期から大人へと成長してしまう事への感傷がうまく語られている。・・・
大変惜しい映画であった。佐藤は日本の映画監督には珍しくなかなか映像センスのいい人で、サスペンスの盛り上げ方もうまく、クライマックスにかけての展開はかなりのものだったのだが、残念ながら脚本家の力量がついてこれず、結果として竜頭蛇尾の典型みたいな作品になってしまった。
せっかくあそこまで盛り上げておきながらあの終わり方では、監督の手腕も発揮しきれないというものだ。吉野公佳演じる黒井ミサは自らの黒魔術を封印され、ほとんど何の活躍もしないまま物語が終わってしまう。菅野美穂演ずる女生徒が実は事件の黒幕で、すべてが片づいたと思われたとき正体を現すという展開は意外性もあって悪くはないのだが、その後すぐに自滅してしまうというのはアンチクライマックスもいいところだ。上映時間はわずか80分程度と短すぎる位なのだから、あと10分なり15分なり使ってもっとちゃんとしたクライマックスを見せて欲しかった。・・・
いわゆる企業サスペンスものだが、テンポはよくいえばゆったり、もっとはっきり言えばやや重く、最初のテーマだった筈のセクハラもいつのまにか企業内の覇権争いに形を変えてしまい、ちょっと肩すかしを食らった感じだ。
セクハラの真相が明らかにされる決定的な証拠はちょっとずるい裏技的なやり方で登場する。この辺はいかにも「お話」という感じでいただけない。だいたい携帯がかけっぱなしになっていたら相手の側の電話はずっと使えないはずだから、相手は何とかして携帯の持ち主に連絡を取ろうとするだろうし、少なくとも会話の全部を録音しておいてくれる可能性は本来なら皆無に近いと思うのだが。
実は最初のセクハラ事件がマイケル・ダグラス演じるトムを追い落とすための罠だったのだが、どうもこの辺の展開はトムに向けたものというより、観客に向けてのもののように見えてしまうところがこの映画の大きな欠点と言えるだろう。本編中に登場するコンピュータがマックでもウィンドウズでもない独特のものなのが芸の細かいところだ。・・・
サム・ライミの映像センスは今回も健在である。基本的にはかなり深刻な復讐劇なのだが、ライミ特有のコメディセンスが加味されてなかなか面白い映画に仕上がっている。仇のギャングたちを次々に殺していく手段も映像的に凝っていて、いかにもライミの作品を観ているという感じがする。
例のヘリコプターにぶら下がるスタントはやはり見事で、実写映像とSFXで合成したものとがうまくマッチして独特のスピード感を生み出している。残念なのは主人公の科学者が研究していた人工皮膚の出来がイマイチおもちゃっぽい点で、かぶっているときと顔からはがれたときの落差がありすぎた。・・・
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