↓の「ミュンヘン」を撮るに当たってスピルバーグが多いに参考にしたと思われるドキュメンタリー作品。事件の発端やその結末のビジュアル化は、本編に登場していた犯人の証言に忠実に従って描いていた。基本的に本編は事件唯一の生存者、大会関係者や遺族、そして犯人グループの一人の証言から成り立つ作品だが、ふんだんに挿入されるニュース映像も相まって、当時の記憶(事件当時僕は20歳だったので、わりと鮮明に憶えている。もっとも日本の報道は本国ほど詳細なものではなかったが)がまざまざと呼び起こされる。
それにしても、今では考えられないが、当時のドイツは戦争の傷跡が日本とは比べ物にならないくらいに生々しく(それより8年も前の東京オリンピック当時、日本はすでに「もはや戦後ではな」かったのに)ユダヤ人国家であるイスラエルに対して、まるで腫れ物に触るような対応だったのが驚きである。国家権力が表に出ることに極端に神経質で、警察による会場の警備も極力目立たなくし、事件後も結局軍隊が表に出ることはなかった。事件そのものに対する警察の対応も今からは信じられないほどお粗末で、本編を観る限りでは人質を救出するチャンスは何度もあったのにも関わらず、失策の連続で人質全員死亡という結果に終ってしまった。
この事件を教訓にして、西ドイツはかの有名な対テロ特殊部隊GSG9を設立することになる。また、イスラエルが暗殺グループを組織して、事件の首謀者や実行犯を次々に殺していったのは↓の「ミュンヘン」で描かれた通りである。・・・
こういう「重いテーマ」の娯楽作品をサラッと撮ってしまえるところが巨匠の巨匠たる所以だろうか。例によって3時間近い長尺ではあるものの、適度なサスペンスの緩急によってまったくダレる事無く、最後まで観せ切ってしまう。
物語の発端はタイトルにもなっている、ドイツ第二の国際都市ミュンヘンで行われた、第20回夏季オリンピック大会の際に起きたパレスチナ系過激派集団「黒い九月」によるテロ事件である。まるで見てきたかのようなリアルな描写に驚かされるが、これは2000年に公開されたドキュメンタリー映画「ブラック・セプテンバー」のなかで、唯一の生き残り犯人が語っていた事件のディテール(侵入方法や宿舎内部の様子など)を忠実に再現したものだ。
事件を受けて、イスラエル当局は実行犯と首謀者の暗殺を目的としたカウンター・テログループを立ち上げ、そのリーダーにモサドのエージェント、アヴナー(エリック・バナ)を指名する。映画の設定ではそれまで実際に殺人を伴う作戦に従事したことはなく、出産直前の身重な妻がいるという、まったくふさわしくない人物なのだが、どういう理由で彼がリーダーに指名されたのかは、高名な軍人であった彼の父に何らかの関係があるらしいと匂わされているに過ぎない。作戦において彼はモサドとの関わりを断ち切られ、イスラエル当局からの支援は金銭以外一切ない秘密部隊として活動することになる。招集されたチームメンバーも、一流のプロとはいい難い連中ばかりで、作戦の前途には不安が横たわっていた。
そんな彼が唯一の情報源として頼るのが、ルイ( マチュー・アマルリック)という名のフランス人情報屋。映画全編を通して、アヴナーの組織が行う暗殺作戦のすべては、ルイからもたらされた情報にしたがって遂行されていた。ルイからは情報のみならず、暗殺に使用する爆薬のたぐいまで手配してもらうほど依存しており、これほどの情報通の存在は、イスラエルやその他の国家当局にとって脅威になるのではないかと思えるのだが(何度目かの暗殺の際、ルイが手配した作戦拠点となるセーフハウスで、アヴナーたちはPLO系のテロリストと同室することになってしまう。ルイが互いに敵対する勢力に対して情報を売っていることの証左である)結局のところ、最後までアヴナーはルイとその父(マイケル・ロンズデール)の組織に頼りっぱなしだった。
ルイからの情報にしたがってアヴナーは次々に標的を倒していく。その描写は、たとえば室内で発射される拳銃音と屋外のそれとをまったく違う音(室内では残響のない乾いたパンパンという音、屋外ではお馴染みの残響成分の多い拳銃音)で表現したりして、なかなか芸が細かい。その一方、標的の娘が暗殺の巻き添えになりそうになったとき、メンバーが大慌てで作戦を中止したりする、いかにもスピルバーグらしいヒューマニズム描写などもあり、こんなとき自分はいまスピルバーグ映画を観ているんだな、とあらためて思い知らされたりもする^^;
ある時点まで、自らの任務に疑問を抱かずひたすら専念するアヴナーだったが、謎のオランダ女によりメンバーの一人が暗殺され、その報復に女を殺すことにより、「血で血を洗う報復行為」の意味を問い返すようになる。オランダ女ジャネットがどこの指令でアヴナーたちを狙ったのか、映画の中では明らかにされないが、例のPLOテロリストと同室になったときの作戦の際、巻き添えでエージェントを殺されてしまったKGBによる報復ではなかったかと思われる(もし相手が「黒い九月」であったなら、報復は遥かに徹底的であっただろう)アヴナーの妻以外ほとんど女っ気のない本編中、唯一花を添えるジャネット(マリー・ジョゼ・クローズ)だが、ごく短い登場シーンにも関わらず強烈な印象を残す(たとえば暗殺描写なども、他の標的とは比べ物にならないほど凝っていた。小口径の改造銃で撃たれて致命傷を負い、避けられない死を覚悟した彼女は、傍らにいた猫をいちど抱きしめたあと、窓際のソファに身を沈めたところで止めを刺される)あたりはやはりスピルバーグだ。いつもどこか子供っぽさが抜けないスピルバーグにしては、今回は異例に「アダルト」な表現であったが^^;
興味深いのは、初期の作戦においてまだ素人臭さを多分に残していた彼らが、ジャネットを殺す頃には立派な殺し屋の顔になっていたあたり。「殺し」の意味をあらためて問い返すのが、作戦そのものとはあまり関係のない(動機は仲間を殺されたことに対する私怨に過ぎない)ジャネット殺しであったことも象徴的である。彼女を殺したことはメンバーの中でも重苦しい記憶として残る(メンバーの一人はわざわざジャネットの死体にかけられた部屋着をはいでおきながら、後になってそれを後悔する)その後、ジャネット殺しに対する報復(だろうと思う)により一人、また一人と仲間を殺され、じわじわと恐怖感にさいなまれるアヴナーの心理をスピルバーグはうまく表現していた。考えてみれば、こうした心理描写の巧みさで彼は今の地位を築いたのだった。
任務を終えたあと、アヴナーはイスラエルを捨て、アメリカに移住する。国のために遂行した任務のために家族を危険に曝し、結果的に国を捨てることになるアイロニーを通じてスピルバーグは何を訴えたかったのだろう。もちろん表面的には「血で血を洗う報復合戦からは憎悪以外の何も生まれない」という自明の理なのだろうが、そんな部外者にとっては当然の理屈も、自身ユダヤ人であるスピルバーグが語ることにこそ意味があったのだろう。現に、本編を観たユダヤ人団体関係者は激怒し、「もはやスピルバーグにユダヤ人を語る資格はない」と断言しているくらいだ。つまり、報復の連鎖を否定することは、すなわち自らがユダヤ人であることを否定することと同義である、というわけである。確かにこれではどちらか一方の勢力が地上から消え去らないかぎり、永遠に問題は解決しない。そうした愚かさをあぶり出すためにも、スピルバーグは敢えて本編を撮ったのかもしれない。・・・
オール3DCGで描いた「ファイナル・ファンタジー」の登場人物がそろいも揃って大根に見えたのは何故か、ずっと考えていたのだが、今回、同じような3DCGでアニメキャラを描いた本編を観て、ようやくその理由に思い当たった。それは結局のところ、3DCGの持つ「動きの限界」に起因しているのだと思う。本編を観て、おそらく誰もが抱く感想は「人間ってホントにこんなにフワフワ動くんだろうか」という違和感であろう。生身の人間は確かに常に動いている。それは、ちょっと遅めのシャッタースピードで撮った写真などを見ても明らかだ。しかしその動きは、「ファイナル・ファンタジー」や本編で登場人物たちが見せた動きとは本質的に異なる。コンピューターで作画した人間たちの動きにはほとんど無駄がない。「ゆらゆら動いている」という状態を再現するのに、最も効率的に「ゆらゆら」動いて見せる。しかし、生身の人間の動きはそれより遥かに無駄が多く、また速度にムラも多い。たとえばAからBの姿勢に移るとき、CGだと始めと終わりの部分に若干の加減速はあるものの、ほとんどの部分は等速運動になっている。しかし、現実の運動はそのすべてにわたって加速度がかかっている、かなり複雑なものなのだ。あまりに複雑なため、今のコンピューターでそのすべてを再現することはコスト的に成り立たず、結局のところ平均化された単純な動きでお茶を濁すしかないわけだ。
そんなわけで、今回のキャラも「ファイナル〜」同様に、いや、それに輪をかけて大根になってしまっている。大根というよりは、お人形さんがそれらしく動いているようにしか見えない。それには上記のような「動き」の問題に加え、平面をムリヤリ立体にしたことから生じる別の問題も存在している。それはどういうことかというと、マンガやアニメで描く「顔」は基本的に表情を伝えるための「記号」なのだが、3DCGの場合はあくまでも実体を伴う「立体」として成立しなくてはならない、ということから生じる問題である。つまり、マンガの場合には適当に見えない部分に逃がすことのできる矛盾点を、3DCGはすべて抱えたまま画面上に映さざるを得ない。おかげで、立体物であるキャラクターフィギュアと同じ「微妙に変な感じ」がつきまとって離れないことになる。マンガっぽい輪郭線を残し、陰影も平面的にするなどいろいろ工夫は見られたものの、結局のところ、僕にはすべての登場人物が「動くフィギュア」にしか見えなかった。似たような傾向のアメリカの諸作品、たとえば「トイ・ストーリー」などがさほど違和感を感じずに観られるのは、逆に「動くフィギュア」であることに最初からすり寄ってしまっていたからだろう。
物語は徹底的にドライだった原作とは違ってかなりウエットで、設定や登場人物などはほぼ同じものの、受ける印象はかなり違う。こうした別の次元での「原作離れ」をどう見るかで評価は変わってくると思うが、個人的にはあまりいただけない。ある作品を別のジャンルに移植する(小説をマンガ化するとか、マンガを映画化するとか)場合、さまざまな理由からある程度の改変がなされるのは言わば不可抗力みたいなものだが、それでもせめて全体の印象くらいは保持しようと努力することが、原作への敬意の現れではないかと思うからだ。そうした意味では残念ながら、本編から原作への敬意をあまり感じ取ることはできなかった。・・・
主要登場人物のすべてがアメリカ人で、当然のように英語でしゃべっているので、パッと見にはアメリカ映画みたいだが、それにしては全体をつらぬくセンスが何だか変。まあ、アメリカ映画とは言ってもピンからキリまであり、ビデオ映画専門の弱小プロの中には、チープさを逆手にとってマニア受けを狙うようなところもあるので、あるいはそんなラインなのかな、と思って調べてみたら、なんと韓国で製作されたれっきとした韓流映画なのだった。
しかし、わざとらしくさえ思えるくらいケレン味たっぷりのいわゆる韓流映画にくらべると、どうもこの映画、もうひとつ乗りが良くない。特に前半、謎の宇宙船から発せられた怪光線により、2億年前の化石が原始怪獣ヤンガリー(韓国語のヨン=竜とガリ=獣の合成語)として甦るまでの展開がかなりまだるっこしい。最初に化石と謎の古文書を発見したヒューズ博士(ハリソン・ヤング=なんと、スピルバーグの「プライベート・ライアン」で現在のライアンを演じていた人)が行方不明になり、そのあとを継いだキャンベル教授が欲のかたまりみたいな酷いやつで、無理な発掘作業の結果作業員に犠牲者が相次ぐが、それでも発掘の手を休めようとしない。そこに事件の匂いを嗅ぎつけた記者がやって来て、追及を始めた矢先にくだんの怪光線が化石をヤンガリーに変身させ、あっさり教授は踏み潰されて一巻の終わり。記者もその後二度と登場しない^^;
その後はお定まりの怪獣もので、地球を侵略しに来た宇宙人に操られたヤンガリーは大都市を襲撃し、軍隊がそれを迎え撃つ。しかし、F-16戦闘機から発射されたミサイルはどれもひょいっとかわされてしまい、全弾うしろの高層ビルに命中して被害はかえって大きくなってしまう。ヤンガリーの吐く火球によってF-16は次々に撃墜され、やがて業を煮やした司令部(しかし、いかにもチープなモニターが数個あるだけのせまーい司令部^^;)ではTフォースの出動を命令する。なんとそのTフォース、まるでロケッティアみたいに小型ロケットを背中に付けた兵隊たちで、彼らがブヨみたいにヤンガリーのまわりをピュンピュン飛び回って、マシンガン攻撃をするのだ(どう考えてもミサイルより格段に攻撃力は低そうだが^^;)
やがて、このままでは埒が開かないと思ったのか、隊員の一人が肉弾攻撃を仕掛けてヤンガリーの額につけられた操縦装置を破壊すると、ヤンガリーは突如人類の味方に寝返ってしまう(んなアホな^^;)すると、すかさず宇宙人は第二の怪獣サソリゲス(もちろん日本側が勝手に付けた名前^^;)を送り込み、かくして大都市を舞台に二大怪獣の決戦が展開する !!
1999年に初公開された当時、怪獣などの特撮はオプチカル合成だったようだが(合成のアラを隠すためか、特撮シーンはほとんどすべて夜だった)その後ヤンガリーを含む多くの特撮場面がCGによって描き直され、インターナショナルバージョンとして再公開された。今回観賞したのもこのインターナショナルバージョンらしい。確かに滑らかすぎる動きや陰影の不自然さなどはいかにもCGっぽいが、もともと着ぐるみだったためかどちらの怪獣も「いかにも中に人が入ってます」的プロポーションをしており、わざわざ大金をはたいてCG化した意味はあまり感じられなかった。
この手のジャンルは上を見るとキリがないが、下を見てもやっぱりキリがないんだな、と思わせてくれる一本であった。ともあれ、こんな内容でもあちらの子供たちには大受けだったようで、韓国ではけっこうなヒットを記録したのだそうだ。・・・
故・小松崎茂画伯により昭和23年(1948年)に発表された空想科学絵物語「地球SOS」が、世紀を隔てた2006年、マルチメディア展開するアニメーション「Project BLUE 地球SOS」として蘇った。基本的には有料のアニメ系チャンネルで放映されているが、ネットで動画配信され、セル/レンタルDVDとしても、いまのところ第四巻まで出ている。全六巻としてまとまる予定なのだそうで、物語は後半戦に入ったところ、というべきか。
物語の舞台は西暦2000年の世界。とはいっても現実の2000年ではなく、あくまでもそれより半世紀以上前に描かれた小松崎画伯の絵物語の中の未来世界である。その世界を動かしている動力源は「G反応機関」という新開発のエネルギー機関で、それを使用した航空機や機関車が次々に消息不明になり、それらを開発した大企業のオーナー、キムラ財閥の御曹司であるビリー・キムラ(弱冠14歳ながらイギリス王立大学を卒業している天才少年)は事件の謎を解明すべくのり出すが、行く先々で金髪碧眼の少年ペニー・カーター(ビリーと同年齢で、これまたマサチューセッツ大学を飛び級で卒業している天才少年)とかちあい、時に反目しながらも良きライバルとして、互いに協力して謎の侵略者に立ち向かうことになる。
やがて未知の敵は地球人に対して牙をむき、海中から躍り出た巨大な宇宙船が圧倒的な軍事テクノロジーにより攻撃を開始、首都メトロポリタンは壊滅的な被害を被る。もはや人類の命運もこれまでか、と思われたとき、謎の戦闘機が単独で敵巨大宇宙船に戦いを挑み、見事撃墜してしまう。これこそが、地球人の科学者たちが将来の侵略に備えて密かに立ち上げていた秘密組織、迷宮機関の主力戦闘機、スカイナイトの雄姿であった・・・。
注目すべきなのは、やはり3DCGを使って描かれた小松崎画伯ならではのメカだろう。50年代テイストに溢れたそのデザインは、無味乾燥な近代メカとはまた違ったロマン溢れるもので、たとえば当時考えられていた未来の自動車は、車輪のないエアカーと呼ばれるものが主流だった。本編でもエマリー女史の運転するピンクのリムジンはエアカーである。その動きはまさに3DCGならではのスムーズなものでありながら、セルアニメっぽい雰囲気が適度に出るよう工夫されていた。つい最近まで、3DCGで描いたメカと2Dのキャラとの親和性はあまりよくなく、いかにもチグハグな感じになってしまっていたものだったが、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」あたりから、わりあいしっくり収まるようになってきた。本編の製作にはその辺の経験も生かされているようで、質感や2Dキャラの動きとシンクロするカクカク感(おそらく適度に動画を中抜きしているのだろう)など、かつてのような違和感はほとんど感じられなくなっている。
シナリオもなかなか面白く書かれていて、オリジナルが半世紀も昔に書かれたものであることを意識させない。もちろん、敵の宇宙人にさらわれた主人公たちがすんなり逃げ出してしまったりするご都合主義もみられるが、そのあたりも巧みな構成で観客をしらけさせない。
唯一ちょっと残念だったのは、わりと「今風」な感じに描かれていたキャラクター設定。主要キャラは、いずれも可もなく不可もないニュートラルな雰囲気の絵で、ロボットものではない近未来SFアニメのキャラにはこうした絵柄(「KURAU Phantom Memory」とか「L/R」とか)が多いような気がする。物語に絵が合っていない、というほどのことはないが、せっかくメカが小松崎カラーを出しているのなら、もう少しキャラの方もそっち寄りにして欲しかった、というのは贅沢な望みか^^;
今年の夏から始まった本編だが、来年一月(といっても、もう数週間後だ)からは地上波U局ネットでも放映されるらしい。みごとな3DCGで動く小松崎メカは一見の価値があると思うし、謎だらけのストーリィ展開もなかなか楽しめるので、興味のある方はお住まいのU局の予定表を調べてみたらいいかも(^_^)・・・
2006年度のテレビアニメとしては、↓の「蟲師」とならんで個人的に重要と思われる作品。「引きこもり」「オタク文化」といった「現代用語の基礎知識」的内容を平易に解き明かすアニメ作品は、ありそうで実はこれまでになかったと思う(アニメ以外でいちばん近い例はいうまでもなく「電車男」だが、結果的にオタク文化は風俗として描かれるに留まった)もちろん僕は、毎シーズン150本以上も放映されるテレビアニメのすべてを把握しているわけではないが、少なくともこうしたテーマを前面に押し出した作品には、これまでお目にかかったことはなかった。
物語はひとことでいえば、引きこもり歴4年におよぶ大学中退の青年、佐藤達広クンがある日、岬と名乗る美少女の来訪を受け、彼女から引きこもり脱却のためのカウンセリングを受ける羽目になって起きる悲喜劇、といったものだが、これに偶然となりに引っ越してきた高校時代の後輩オタク青年山崎や、文芸部の美人先輩部員 瞳(佐藤は彼女に密かに想いを寄せていた)煙たがっていた元クラス委員長 小林なども絡んで、物語はとても引きこもりがテーマとは思えないほど波乱万丈に(まあアニメなのだから何か事件が起こらなければ始まらないが^^;)展開する。
第一話の冒頭から、引きこもりを始めて以来一歩も部屋から足を踏みだしていない、などという佐藤クンの独白が入るものの、自宅ではなくアパートで引きこもっている以上は食料調達にどうしてもコンビニくらいには出かけざるを得ず、このあたりちょっと無理のある設定だ(時々出て来る食事シーンでは、いかにもコンビニで仕入れたらしいパック入りの麺類などを食べていた)そうしたディテールにちょっと難があったり、回によって作画のバラツキが目立ったりするのが(特に第四回あたりは絵のセンス自体かなり異なる)マイナスポイントだが、ある意味この世代の持つ悩みとしてはもっとも切実であるはず(なにしろ自殺を扱ったエピソードが二回も出て来る)のテーマを、一種のトラジコメディとしてさらりと笑わせてくれた演出には光るものを感じた。
物語の終盤、佐藤クンが引きこもりから脱却するきっかけは、「なにもしなくても最低限の生活を保証してくれる贅沢」を許されなくなったからだが(郷里の父がリストラに遭い、やがて入院してしまって仕送りが打ち切られる)小林委員長の兄(こちらは妹に食事の世話に至るまですべてを依存する本格的な引きこもり)も数回前のエピソードで、同じような経過をたどって引きこもり脱却に成功しており、正論ではあるもののやや安直な結論であるような気もする。まあ、引きこもりからすればワーキング・プアであれ下流クンであれ、一歩前進には違いないが^^;・・・
2005年の秋からフジテレビ系の深夜帯(午前3時前後という非常に深い時間帯で、むしろ早朝番組に近い)に放送されていた、全26話からなるテレビアニメーション(ただし、第21話以降はBSのみの放映)である。現在ではすでにさまざまな賞を受賞しているので知名度も高いが、その原作は、放送が始まった当時はまさに知る人ぞ知る、といった感じだった。もちろん僕も知らなかったのだが、たまたま新聞のテレビ欄で見かけたその奇妙なタイトルに興味を覚え、第一回から観賞することができたのは、今にして思えば幸運というしかない。
第一話の印象は鮮烈だった。非常に密度の高い作画、淡い、しかし細部まで計算され尽くした色彩設計、そしてなによりも練りに練られたシナリオと、とにかく凡百の同時期アニメ作品と比較して、飛び抜けたグレードを持っていたのである。その質は全26話すべてに渡って保ち続けられ、最終話までまったく変わることがなかった。第一話と構成上のポイントとなる回だけが全力をかけて製作され、繋ぎは下請けに任せて何とか数合わせする、というのが慢性的な労働力不足に陥っている今のアニメ界のやり方だが、蟲師に関してはまったくそんなことはなく、どの回をとってもまさに珠玉の名篇揃いなのである。
この物語に登場する「蟲」とは、たとえば昆虫のような一般的な生物としての「虫」ではない。作中では「生」と「死」の間に存在する、この世のあらゆる存在より「命」の源流に近いもの、と説明されている。基本的には原作者、漆原友紀による創作なのだが、たとえば「光脈」(遥か地下を走る「光酒」〜それ自体蟲とも、蟲になる前の存在とも言われる〜の水脈。これが近づく土地は緑豊かに栄え、遠ざかると枯れる)などといった発想は東洋医学や風水の「気」の概念に近しいものと思われる。「蟲師」とは、この「蟲」と人との間を取り持つ調停者のような存在として描かれる。
「蟲」は一般的に人知れずひっそり存在するもの、とされているが、現実の虫、たとえば、21世紀になってから関東地方に侵入し、大発生を続けているツマグロヒョウモンは、今や人が集まる屋外イベントなどでは必ず見かけるほどポピュラーな蝶になっているのだが、蝶に関心のある人間以外にはまったく知られていない。それに比べると「蟲師」に登場する「蟲」は例外なくまわりの人間に重大な影響を与え、なかにはその命すら奪う例すらある。まあ、それだからこそ「蟲師」という職業が存在する必然性があるわけだが、作者の視点はむしろ、「蟲」そのものよりそれに振り回され、人生を変えられてしまう人間たちの方に向けられているようだ。
物語の時代設定は明らかではないものの、明治時代初期かそのあたりだろうか。主人公ギンコだけは洋装だが、他の登場人物はすべて簡素な和服だ。しかし、帯刀した武士のたぐいは一度も登場したことがないので、少なくとも文明開化以降の話だろうと思われる。個々のエピソードには封建時代独特の人間関係が多く取り上げられ、原作者の意図はむしろ、「蟲」という触媒を通してそうした古い「日本的」因習を、さらには日本人の持つルーツさえをも描こうとしたのではないかと思われる。そのアニメーション化である本編は、読み切り短編連作である原作のスタイルを踏襲しながらも、作品のムードを壊さず見事に30分枠番組のスケールに膨らませており、まさにマスターピースとしか言い様のない高みに至っている。
いずれにしろ、本シリーズは間違いなく、2005〜2006年日本アニメ界最大の収穫といっていいだろう。・・・
「星を継ぐ者」「恋人たち」と続いてきた「新訳」Zガンダム三部作も本編で完結。そのせいかどうかは知らんが、今回は前二作に比べてずいぶん新作部分が多かったような気がする。結局それでも、ところどころに残る旧作カットとの落差は消しようがなかったが。中途半端に新しく動画を描き加えるくらいなら、キャラクター部分はすべて古い絵のままで、台詞だけ全部新録音にすることでもかなりカバーできたような気もする。
今回は上映時間99分と、前2作よりわずかに長くなってはいるが、それでも強烈に舌足らずなのは間違いなく、これだけの時間の中でティターンズ、エウーゴ、アクシズ、そしてジュピトリスのシロッコと四つの勢力が主導権争いを繰り広げるのだから、当然ながら観ている方には休む暇もない。エウーゴVSティターンズ、ティターンズVSアクシズ、エウーゴVSアクシズと、対戦相手を次々に変えながら、とにかく延々と戦闘シーンが続く(例によって新たに描き起こされたモビルスーツ格闘戦は素晴らしいグレードで、これだけでもくらいは点数アップしている)
物語は、共闘してはすぐに裏切りあう「オトナ」たちと(会見しては暗殺、というパターンの繰り返し^^;)それに振り回される女子供の戦士たち、という構図でひたすら消耗戦を繰り広げることに終始する。終盤に至ると主要登場人物の多くがバタバタ死んで行き、テレビ版とは微妙に異なるエンディングへとなだれ込む(当初はZZには繋がらない、などと言われていたが、カミーユとファの登場シーンを削るか、変更するだけでまったく問題なく繋がる^^;)これはもう、ほとんどの観客にとってフォローできる展開ではないだろう。事前にテレビシリーズを観ていた僕でさえこんがらがってくるくらいだから、初見で本編を観た人が筋立てを理解するのはほとんど不可能と思われる。
Zガンダムが放映されていた当時、アメリカ軍でも女性兵士の実戦参加は許されておらず、やたらと女性パイロットが活躍するZ世界は奇異に見えたし、登場人物自身すら「異常だ」と言っていたくらいだ。結局のところ本編ではその現状を「男によって戦わされている」(確かに女たちの多くはシロッコがらみ^^;)と簡単に切って捨ててしまっているが、今は自衛隊にすら正副パイロットとも女性のP-3Cクルーが存在する時代、もちろんアメリカ軍にも女性の戦闘機パイロットは数多くいる。彼女たちが哨戒機や戦闘機に乗る動機は、男となんら変わるところはない。モビルスーツ同士が宇宙空間で斬り結ぶ遠い未来を描いていながらも、その実やはり80年代の「常識」に縛られていたあたりが作品の同時代性なのだろう。そういう点からも、本編の再編集映画化は遅きに失したというしかない。・・・
映画の成功はなにより大崎ナナを演じた中島美嘉にかかっていたように思う。彼女の極端な細身や中性的な雰囲気はいかにもマンガのナナそのままだし、本職は歌手なので、もちろん歌も歌える。キャスティングでおそらく最初に決まった一人なのだろう。実際に歌うシーンは残念ながらレディ・ロッカーとはとても言えず、バンドのパワーに拮抗できていない歌謡曲的唱法が痛々しかったが、どうせこの映画を観に来る観客のほとんどにとってそんなことはどうでもよく、いかにもパンクロッカーらしいビジュアルさえあれば、極端な話、吹き替えでも差し支えなかったのだろう。それをしなかったのは映画を「本物」にしたかった製作陣のこだわりと、中島のプロ歌手としてのプライドか。
残念ながら中島は歌はプロでもプロの女優ではないためか、受けの演技のタイミングがいちいち外れており(特に序盤で顕著。すぐ反応しなければならないシーンで出遅れたり、タメが必要なところでフライングしてみたり^^;)見るからに不自然で、結果として本編のどこか学芸会っぽい雰囲気をひとりで醸し出してしまっているが、製作側がこの点をほとんど問題視していなかったのは、続編であるNANA2て再び主演していることからも明らかである(しかし、続編映画でこれほど配役が代わってしまった作品は珍しい)
映画の中で特に印象的だったのは、演技などのシーンではなく、もうひとりのナナ、小松奈々(宮崎あおい)が後に住むことになるマンションの707号室に初めて入ったとき、窓の外の風景に感動する場面。いくら明るい部屋とは言っても、ふつう窓の外は室内より遥かに明るい。しかし、この映画の中の窓外の風景は室内の壁とまったく同じ明るさなのだ。こんなことは本来あり得ないし、不自然である(まあ、合成なのは言うまでもないが^^;)他のシーンでも、こうした故意に陰影を無くしたと思われる映像がいくつも出て来るので、たぶん演出上の意図だったのだろう。それはおそらく少女漫画的「絵」の世界の映画的表現である。そういえば登場人物が演技するシーンにしても、ライティングは必ずフラットであり、どこにも影のない、妙に平面的な映像で埋め尽くされていた。
物語はなにしろ2時間という上映枠に合せなければならなかったので、長大な原作とは微妙に異なる部分が出てしまうのは仕方あるまい。原作ではこのシーンはXXだったのに、映画では△△になっていた、などと文句を言っても始まらない。物理的に不可能なことはどうやっても不可能なのだ。少なくとも原作を読んでいない身にとっては、さほど不自然な描写もなかったので、映画化としては成功の部類に入ると思う。ただ、やはり音楽ものの映画としてはもうひとつ説得力に欠けるのが惜しいところだ。ナナのいる「ブラスト」BLACK
STONESもさることながら、レン(松田龍平)を引き抜いたメジャーバンドTRAPNESTにしても、どう見てもレイラ(伊藤由奈)のバックバンドでしかなく、リードギターのレンはその他大勢の一人にしか見えなかった。てゆーか松田龍平、とてもスーパーギタリストには見えなかったのが最大のマイナスポイントかも^^;・・・
巻頭の映画会社タイトル「東宝スコープ」は、昭和ゴジラシリーズで使われていたものと同一で、この最初の画面それ自体が作品の世界観をまず最初に観客に提示する意図を持っているのだろう(この手法自体はすでに「マイティ・ジョー」などでも使われている)それに続く昭和33年当時の東京下町の風景は、もちろん山崎監督お得意のVFX(ビデオSFXなのか、バーチャルSFXなのか?)によるイリュージョンなのだが、彼のこれまでの作品(「ジュブナイル」と「リターナー」)とはきわだった違いがある。前二作品において山崎がVFXで描いたのは、いずれも「あり得ない世界」「単なる想像上の世界」でしかなかったのだが、 本編で描いているのは、「過去のある時点、確実に存在した世界」なのだ。そのどちらが難しいかといえば、当然その時代を生きた「生き証人」がまだ大勢存在している後者であることは言を待たない。少々誇張した点が目立ちはするものの(たとえば冒頭のゴム動力模型飛行機のシークエンスのように、「CGでしか描けない」ことを強調するあまり、不自然な絵作りになってしまったりして^^;)まあ容認できる水準に仕上げた監督の手腕は、なかなかたいしたものだと思う。
もちろん子細に見ていくと、演じている俳優の演技はやはり昭和というよりは平成のスタイルだし、走る都電、街並み全体の雰囲気、駄菓子屋のたたずまいなど、いかにも「資料を参考にしました」と言わんばかりの「間違ってはいないけど微妙に違う」感が滲み出てしまっていた。それが露呈してしまったのが、子供たちが淳之介(須賀健太)の書いた未来小説を読み、そのイメージがバックに広がる場面で、登場する未来都市がどう見ても昭和30年代に想定されるものとしては洗練されすぎているのだ。これはもうセンスの問題なので仕方ないのかもしれないが、このシーンの持つ説得力は映画全体にかかってくるだけに、「昭和30年代から見た未来」というところにもっと力点を置いて欲しかったところだ。例をあげるのは適当ではないかもしれないが、ティム・バートンの「マーズ・アタック」などは基本的にCG作画でありなから、1950〜60年代SF映画のテイストをきっちり盛り込んだ絵作りをしていた。
お話自体はもろに「木下恵介アワー」そのものである。ただし、さまざまな登場人物について比較的深く造形されているにも関わらず、淳之介の母だけがワンカットの登場でさらりと描かれているのが逆に気になった。同じワンカットでも、うち捨てられた氷を使う古い冷蔵庫の残骸を寂しそうに眺める氷屋のおやじ(ピエール瀧)がいい味を出していたのとは対照的である(あっ、氷を配達に来たときにも出ているからツーカット出演か^^;)物語のウォームさは原作者西岸良平氏の持ち味でもあるのだろうが、結果として山崎監督の前二作とはまったく違う傾向の映画になっている。ぼくらはやたらとクローズアップされているVFXテクニックという一面で、前作との連続性を意識させられているのだが、本来は観客層からしてまったく違う映画である。それを、トクサツ好きのオタク層に向けて敢えて発信するという戦略を選んだ配給サイドの英断には驚くばかりだ。逆に、本来受けそうな層を狙ってプロモーションしていたら、あるいはこのような大ヒットには繋がらなかったかもしれない。実際、SFXを多用して過去の一時代を再現した、という意味では似たような趣向の作品である篠田正浩の「スパイ・ゾルゲ」は、さほど評価されないまま終っている。
映画のキーワードはいうまでもなくノスタルジーである。ある意味でそれは、「クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」にも共通している。てゆーか本編はその合わせ鏡のような存在とも言える。「クレしん」がノスタルジーを乗り越えて未来を生きよう、と訴えかけて終るのに対し、本編はバーチャルな昭和33年の世界にのめり込んだまま終る。映画の姿勢としてはむしろ、「クレしん」の敵役ケンが建設しようとしていた「オトナ帝国」の世界に近い。現実的には監督の山崎自身、この時代を生きていたわけではないので(彼は昭和39年生まれなので、映画の設定である昭和33年当時まだ生まれていなかった)あの時代にノスタルジーを感じるというよりは、時代劇における時代考証に近いスタンスなのだろうが。
冒頭に出て来る都電の走る大通りの場面は、実は僕の郷里にあった軽飛行機専用の飛行場
(現在は廃止されている)で撮影された。滑走路の上に組まれたセットにCGで都電や遠景の東京タワー(建設中)を描き足したものだが、色調の見事な管理も相まって、まさに東宝スコープ当時の東宝カラーがいい感じで再現されていたように思う。また、これも偶然だが、原作の連載が始まって間もない頃、原作者の西岸氏とは同じ町に住んでいて、行きつけのレストランでよく顔を合せたものだ(もちろんあちらは僕の顔などご存じなかっただろうが)非常に微かではあるが、こうした自分との接点がある映画というのはあまり例がなく、そういう点でも特別な映画といえるかも知れない。・・・
映画史的に見れば、山のようにある日活プログラムピクチャーの一本に過ぎないが、航空史的には創成期のハチロク・ブルーがふんだんに登場する、こたえられない作品ということになる(映画の中では単に「アクロバット・チーム」と呼ばれているが、その塗装は紛れもなく初期のハチロク・ブルーそのもの。同チームが「ブルーインパルス」を名乗り始めるのは1960年末からのことなので、本編撮影中はまだ「天竜」時代だった可能性が高い)映画は昭和36年作品だが、後の1964年(昭和39年)に製作された東宝映画「今日もわれ大空にあり」の撮影時に、ブルーインパルスは現在もお馴染みの白に青いラインの塗装に変更されている。
お話はなにしろプログラム・ピクチャーなのでさほど凝ったところはない。よくある犯罪組織ものと航空自衛隊をどう絡めるのかが見どころといえばいえるのだが、例によってやんちゃ坊主の主人公(小林 旭)が部隊内の喧嘩の罰として10日間の強制休暇を取らされ、兄の経営する零細航空会社に身を寄せていたところ、戦後の混乱期に一度だけ手を貸してしまった悪徳三国人の劉が再び姿を現して・・・という展開^^;
経営危機にある会社を何とか守ろうとして悪に手を染めてしまう兄・榊英雄に葉山良二、兄の航空会社の経理を一手に引き受ける女マネージャーに笹森礼子という、当時の日活を代表する配役だが、笹森礼子をヒロインに迎えた割りには主人公榊拓次(小林)との仲はいっこうに進展せず、結局恋人というポジションには最後まで至らなかった。
正直言ってシナリオにはあちこちに破綻が生じており、ちょっと苦しい。警察による組織壊滅作戦のおかげで日本に身の置き所が無くなった劉は、当時まだ返還前でアメリカに占領されていた沖縄へと逃亡を計り、その足として榊の航空会社を利用しようとするのだが、下見のために兄・英雄とともに沖縄へ飛んだパイロット千石(高原駿雄)は真相を知ったために人質にとられてしまい、ひとり英雄だけが戻って来る。出かけるときにもわざわざ途中で仙石に拾ってもらったくらい、沖縄行きを社員たちに隠していた英雄なので、帰りももちろん別行動だったのだが、不思議なのは沖縄行きに使ったセスナ機がちゃんと戻ってきていたこと。一体誰が操縦して帰って来たのか、謎である。
ほかにも無理を感じる場面はいくつもあり、たとえば表題「嵐を突っ切るジェット機」に合せるかのように、兄・英雄と劉が乗ったパイパー機を追跡するため拓次が基地に戻り、半ば強引にハチロクに飛び乗って嵐の中に突っ込む場面などは、現実にはまずあり得ない(こうした出動には内閣総理大臣の命令が必要。ちなみに災害出動の場合に限り地方自治体の要請があれば出動できる)結局その日には発見できず、嵐の去った翌日、拓次は今度はT-33に乗って再び捜索、ようやく不時着しているパイパー機を発見する。そのあとどうするのかと思っていたら、最寄りの飛行場にT-33をおろし、そこからジープを駆って不時着現場へと向かうのだ。そんなに近い場所に飛行場があるなら、わざわざ不時着なんかしなくてよかったのではないかとも思うのだが、ま、嵐だから仕方なかったのかな^^;・・・
もはやこの手の映画を撮れるのはエメリッヒのみ、と言ってもいいかもしれない。もちろんマイケル・ベイやミミ・レダーでもそれらしきものは撮れただろうとは思うが、彼らならもう少しまともに人間ドラマを描こうとし、その結果どっちつかずの凡作(これとかあれとか^^;)に終っていただろう公算が大きい。それにくらべてエメリッヒ作品の潔さと言ったら・・・^^;
とにかく「絵」がすべて。ドラマは「絵」をそれらしく見せるためのお膳立てに過ぎない。普通の映画のようにドラマに「絵」が奉仕するのではなく、「絵」にドラマが奉仕している。似たような傾向は「日本沈没」にも見られたが、こちらはより徹底してまず第一に「絵」を見せようとする。だから物語はあってないようなもの。世界的規模のデザスターが起こっても、人々はただ右往左往するだけでほとんど何も出来ない。人類が結束してこの難局を乗り切ろう、などという発想はまったくなく、とりあえず嵐が去るまで息を潜めて身を隠せ、の一点張り。もちろんただ身を隠していたのでは映画にならないから、そう簡単にはいかない障壁をいろいろ用意してはいるが、それが動物園から逃げ出したオオカミだったり、敗血症になったヒロインを救いに、たまたま近くに漂着した(!!)ロシアのタンカーにペニシリンを取りに行く、という無理矢理な設定だったり。動物園にいたオオカミなら人を見ればまず餌をねだるだろうし、ペニシリンが置かれているはずの医務室をどうやって探し当てたのか(誰もロシア語が読めない、という設定なのは薬のラベルが読めなかったことから判る)謎は尽きない。しかしエメリッヒはなにしろ「絵」が命なので、人を襲うオオカミの絵が欲しかったし、その舞台としてロシアのタンカーが欲しかった。だから出した、それだけの話である。ご都合主義と言わば言え、と言わんばかりの展開にはただただ脱帽するしかない^^;
なにしろ「絵」がすべての映画だけに、さすがに映像の持つインパクトはすごい。ロス市街を何本もの竜巻が徹底的に破壊していく序盤のシーンでは、非現実的な中にもリアリティあふれる映像を見せてくれる。沢山の避難民を適宜配置することにより、災厄の大きさを視覚的にアピールするテクニックは「日本沈没」とは大違いで、さすがにエメリッヒ、災害の規模すなわち死者の人数であることを目で見て判らせてくれる。直前までカメラの前にいたレポーターが、次の瞬間飛んできた巨大な看板に直撃されて跡形無く吹き飛んでしまう場面など、この手の表現を知り尽くした人のテクニックである。残念ながらCGによる竜巻にはまだわずかに作り物臭さが残っており、現実の竜巻とは微妙に違うイメージではあるが、それでもその圧倒的な迫力は以前のデザスター・ムービーとは比較にならない。また、マンハッタン島を襲う大津波は、おそらくこの映画に費やした予算の多くの部分を占めていたと思われるが、かなりの大迫力で迫り来る水の恐怖を描いている。水の描写は以前のミニチュアではどうしても限界があったが、このあたりのリアルな描写はまさにCGの独壇場である。
シナリオの基本的な発想はやはり「日本沈没」に通じる。「日本沈没」のアイデアの起点はもちろんプレート・テクトニクスだが、同様の演繹的発想を地球温暖化現象に当てはめた結果がこの「デイ・アフター・トゥモロー」といっていい。温暖化がもたらす結末には、ほかにも地球砂漠化など諸説あるが、やはり一番映像インパクトの大きい氷河期襲来を選んだのはエメリッヒなら当然だろう。もちろんそれは年平均0.何度といった変動幅で起こるものであり、映画のように急激なものではないし、起きてしまえばそう簡単に収まるものでもない。まあ、そんなことはこの「絵」を見せるための約束事に過ぎず、いちおうの「科学的」説明がなされていればそれでOKなのだろう。なにしろ今生きている人類の中に実際に氷河期を体験した者はなく、誰一人「ここが嘘」などど指摘できるはずはないのだから。
それにしても、せっかくの映画なのだからもう少し「お話」が観たかった、というのはエメリッヒ映画に対して高望みに過ぎるのだろうか?・・・
ある日、中学一年の珠子(石原さとみ)の家に、刑期を終えて出所した祖父、謙三(菅原文太)が帰ってくる。人を殺して刑務所に入っていたと聞いて、最初は敬遠した珠子だったが、その飄々とした人柄や、自らの正義をきちんと貫く態度に徐々に心を開き、やがては一番の理解者になっていく。彼は親友を殺された仕返しにヤクザの事務所に殴り込みをかけ、組員を二人殺して逮捕されたのだった。そのヤクザの組長疋田(伊武雅刀)はまだ健在で、どさくさ紛れに紛失してしまった武器取引の資金2億円の行方を探していた。その金を謙三が持っているに違いないと踏んだ疋田は、珠子を拉致して金の引き渡しを要求するのだが・・・。
筒井康隆の原作を読んだときには、主人公のグランパは高倉健あたりをイメージしたのではないかと思ったが、こうして菅原文太主演で映画化されてみると、彼以外には考えられくなってしまうから不思議だ。確かにグランパの役どころの一種の「軽さ」は高倉には出せなかったかもしれない。一方の珠子役の石原さとみ(本編がデビュー作)は小説とはややイメージが違うが、こちらも確かな演技力で見ている側をしらけさせたりはしなかった。ただ、珠子の先輩徳永役の俳優の台詞回しが素人っぽすぎて、ときどき現実に引き戻してくれたことだけが残念だ。
メイキングによると本編は栃木県足利市で撮影されたそうだ。足利は関東の小京都といわれる土地柄だけに、原作の持つ都会とも田舎とも違う、歴史ある地方の小都市らしい雰囲気によく合っていると思う。
基本的には、ムショ帰りの祖父と孫娘との交流を描いた一種のファンタジー的な作品だが(なぜか珠子が超能力を発揮するシーンはやり過ぎ^^;)原作の持つホンワカしたムードをなかなかうまく映像化していて、ちょっと従来の東作品とは違う感じ。彼も歳をとって角が取れたのかな?・・・
個人的に最高のムービーである「フランスの思い出」を、公開4年後にリメイクしたタッチストーン印のディズニー映画である。
設定などはほとんど原作を踏襲しており、舞台がフランスの片田舎からアメリカのそれに変わったくらいしか大きな違いはない。母のお産のために、友だちの家に預けられた少年ウィラード(イライジャ・ウッド)のひと夏の物語である。彼に関心を持った隣家の少女ビリー(ソーラ・バーチ)がいろいろちょっかいを出し、結果的にウィラードをひとまわり成長させる、という点も同じ。ビリーの家庭環境を原作よりやや詳しく描いてはいるが、あくまでもウィラードと母の友だちリリー(メラニー・グリフィス)、そしてその夫ベン(ドン・ジョンソン)を中心に物語は展開する。ちなみに現実の彼らは当時二度目の結婚生活をしているさなかで、わずか3年後に二度目の離婚をすることになる。同じ相手と離婚、再婚を繰り返すのは珍しいが、あちらの芸能界にはまれにある(リチャード・バートンとエリザベス・テイラーとか)ことらしい。
映画の中の二人は2年前に3歳だった一人息子を些細な事故(飴玉を咽に詰まらせる)で失っており、それが元で夫婦関係は冷えきっていた、という設定もほぼ原作通り。そこにウィラードという触媒が入り込むことで、二人の仲は微妙に変化していく。原作ではリシャール・ボーランジェが演じていた夫役を、風貌も普段の役柄もまったく違うドン・ジョンソンにやらせたのはやはりミスキャストで、どう考えてもこの役にはソフィスティケイトされすぎていた(いきなりホルスターからシルバーのハンドガンを取り出し「実はオレ潜入捜査官なんだ」なんて告白しかねないイメージ^^;)当時格好のゴシップねただったメラニーとドンの組み合わせで、話題性を演出したかったのかも知れないが、やはりここはもっと粗暴な雰囲気のある俳優を使うべきだっただろう。でないと初対面でウィラードが彼を怖がる理由がわからない。
イライジャ・ウッドはさすがの演技力でウィラード役を無難に演じていたが、ソーラ・バーチのビリーは原作に比べてやや線が細く、何をするにも自信たっぷりだった原作のマルチーヌとはちょっと違うキャラクターになっていた(これは演技力の問題というより、監督の狙いだったのだろう)それを象徴するのが原作にはない画家キャスリーン・レストン・リー(ルーシー・レイサム)の存在で、彼女の口のききかたや身だしなみへのチェックが、後日見事に成果を上げるという演出になっていた。成長したのはウィラードだけではなかった、というリメイク版独自の視点を加えたかったのだろうが、ややテーマを分散させてしまったきらいはある。
上記のような些細な点を除けば、ほぼ完全に原作をトレースした再映画化で、公開後何十年も経っているならともかく、わずか4年後にリメイクする必要がどこにあったのか、あまりその意義を感じられない映画だった。・・・
巷間よく言われているように、競馬版の「ベイブ」としか言い様がない。映画紹介などでは「ベイブのスタッフが再び集結!!」などと書かれていたが、配給会社が違うし製作も監督も特撮監督も別の人。現場で実際にアニマトロニクスを扱ったり、CGを描いたりしている人の中に「ベイブ」に参加した人がいたのだろうが、もともとSFX業界はそんなに広いところではなく、有能な人材は限られている。集まった人たちの中にたまたま同じ人がいた可能性はあり得るだろう。
「ベイブ」との共通点はむしろ、物語の設定やキャラの作り方、そしてテーマ性である。「ある才能を持った主人公が、努力のあげく成功する物語」という「ベイブ」の基本設定はほぼそのまま継承されている。犬でないベイブが牧羊犬の競技会で優勝するのがベイブの骨子だが、本編は豚がシマウマに、牧羊犬競技会が競馬にかわっただけ。ともに、本来いるべきではない場所にいる者が差別に耐えながらも希望をかなえるお話である。ご丁寧にも、「動物語」をしゃべる仲間たちの助力によって成功を収めるあたりまでいっしょだ。
もちろん製作側はそんなことなど百も承知でこの映画を作ったのだろうし、「シマウマが競馬に出走する」という映像だけでも「行ける」と思ったのだろう。少女ジョッキーがシマウマに乗って走るシーンはCGではなく実写なのだそうだ。競争シーンの迫力はそこそこ出ていたように思えるが、ストライプス役のシマウマをあそこまで調教するのは、さぞかし大変だったことだろう。・・・
この映画を作るために原作の映画化権が買われてしまったおかげで、もとになったNHKの「プロジェクトX」のDVDソフト「窓際族が世界規格を作った」が出せなくなってしまった(映画公開の前年に出たVHS版は入手可能)のは有名な話だ。過剰なまでに演出を盛り込み、冷静に考えれば「はてな?」と思えるところまでも、いかにも美談として描いてしまうあたり、「プロジェクトX」の演出方法と根本は同じだ。てゆーか、本編は「プロジェクトX」の2時間拡大バージョンそのものといえなくもない。
すでに世界標準機となり(なんたって世界的権威のある「IEEEマイルストーン」に認定されたくらいだ)全世界のどこの家庭にもあるVHSビデオデッキが、いかにして開発され、世に出ることになったのかを描いた映画だが、技術的に見ると実はライバルであったソニーのベータマックスに勝るところはほとんどなく、カセット内部のテープそれ自体は同一のものだ。違っているのはローディング方式とテープの走行速度、それからカセット自体の大きさくらいのもの。映画の中では「2時間録画」をかなり強調しているが、確かベータ側も直後に2時間録画のデッキを出しているはずで(のちに当初のベータIを録画に採用する機種はなくなり、2時間録画のベータ II が標準規格となる)実のところそれほど大きな差異はなかった。決定的だったのは性能とかそういったものではなく、やはり業界のトップに君臨している松下の政治力と(もっとも後のフィリップス・松下陣営デジタル・コンパクト・カセット対ソニー陣営ミニディスクのシェア争いではミニディスクが圧勝したが)なにより「ベータはなくなるの?」という広告史上に残る大失敗CMだったのではないか(あの直前まではせいぜい「守勢に回っている」という程度の印象だったものが、以後はっきり「敗走」に変わってしまった)
消費者の利益を考えれば、当時の通産省が主導した規格統一案の方に分があったと僕は今でも思っている。作った側の言い分としては、事業部長加賀谷(西田敏行)が映画の終盤で断言していた通り、「消費者のためなんてきれい事ではなく、われわれが全力を込めて作り上げたこの機械を何としても世に出したい」というのがホンネであろう。もちろん「ものづくり」に携わる者すべてに共通する言い分ではあろうが、結果として互換性のない二種類の規格が市場に併存することになり、消費者の利便性を多いに損ねたのは確かである。映画にはならなかったかも知れないが、やはりここはもう少し通産省に踏ん張って欲しかったところだ^^;
とまあ以上のことは映画本編とはほとんど何の関係もない、いわば周辺情報といったところ。物語は要するに、ひたすら技術畑を歩んできた一サラリーマンが、突如としてビデオ事業部の事業部長という管理職を任され、孤軍奮闘するというもので、彼が上層部の意向を無視してまで家庭用ビデオの開発という賭けに出たのは、ただ従業員を一人も馘首にしたくない、という一心からだった。そのあたりの人間描写は巧みとまではいえないものの、まあ平均点くらいは稼げていたと思う。ただ、細かいところをみていくと、たとえば営業に回された技術者のひとり江口(緒形直人)の扱い方とか(なぜあんなところで殴られるのか、なぜいきなり会社を辞めるのか、なぜ恋人がソニー社員でなければならなかったのか、結局ひとつも判らなかった)冒頭で母を亡くした技術者の描き方(物語後半、洗濯機の渦を覗き込んでいる場面はすごく気になったが、これも何だったのか判らないままに終った)など、結局何を訴えたかったのかよく判らないまま終ってしまったシーンがいくつか目に付いたのが、マイナスポイントといえるだろう。
もうひとつ気にくわないところは、国内最大の販売網を持っている業界の巨人、松下電器の創業者にして相談役の松下幸之助本人に直訴して、VHS方式の採用を迫るところ。「寄らば大樹の陰」といった日本人独特の価値観が明瞭に出ている。もちろん松下幸之助は水戸黄門ではなく、業界全般に対して公平である必要はないし、松下の子会社であった日本ビクターが開発したVHSに目をかけるのは当然といえば当然なのだが、それにしても個人的には「ズルいよな」という感想を免れなかった。
それから、これは余談だが、加賀谷と次長の大久保(渡辺 謙)が松下幸之助に直訴するために大阪に向かう車内のシーンは、とても21世紀の映画とは思えないスクリーンプロセス丸出しの合成で(↓の0011ナポレオン・ソロ ミニコプター作戦もかくやと思われるくらい^^;)思わず笑ってしまった。東名高速(名神高速?)の使用許可が得られなかったとは思えないし(スタントするわけでもなし、もし許可が下りなくても別の道を使えばよかっただけの話)どうして今どきあんなミエミエのオプチカル処理をしてしまったのだろう??・・・
「ルーツ」や「ホロコースト」の演出で認められ、後に劇場用映画にも進出したマービン・J・チョムスキーの初期テレビ作品。タイトルで一目瞭然だが、飛行中に積乱雲に突っ込み、機材の故障を起こして不時着した一家のサバイバル劇だ。登場する軽飛行機はライアン・ナヴィオンというわりと珍しい機種で(パッと見エアロスバルによく似ている)空撮には大御所フランク・トールマンが当たっているだけに、不時着シーンなども模型を使わず実機のスタントで撮影していた。
物語は、自らの責任による事故で恋人の兄を死なせてしまった青年が二年ぶりに帰郷し、父母と、その彼女と一緒に父所有の軽飛行機で旅行中に遭難、広大な砂漠地帯の真ん中に不時着してしまうというお話。主人公のデビッド(クリストファー・タボリ)が厳しい父(ロッド・テイラー)に何かと反発してしまうというのもお約束である。当初はじっとして救助を待つ一行だったが、やがて無線機も壊れていることが判明、自力で砂漠を脱出するしかないと、壊れたプロペラを修理し始める。いまだに兄の事故を引きずるデビッドを慰める元カノ、キャロル(ジャネット・マーゴリン)だが、二人のいいムードがさらに状況を厳しくしてしまうあたりはなかなかうまい演出だ。
今の飛行機はセルモーターでエンジン始動をするのだが、キャロルと夜通し語り明かしたデビッドは、うっかり航空ラジオを音楽番組に合せたまま寝てしまい、目が覚めるとすでにバッテリーが上がっていたのだ。それを知った父は激怒し、思わずデビッドを殴ってしまうのだが、気を取り直して昔の戦闘機のようにプロペラを手回しする方式のエンジン始動を試すことにする。何度目かの挑戦でようやくエンジンは始動するが、いきなり回転を始めたプロペラの先端が腕に当たって父は重傷を負ってしまう。もはや父に操縦はできず、デビッドが見様見まねで離陸操作をするしかない。何とかギリギリのところで離陸に成功したナヴィオン機だが、コンパスの故障でどこに向かっているのかさえ判らない。彼らは知らず知らずのうちに、目的地とは反対の海上に出てしまうのだった。
そんなナヴィオン機を最初に発見したのはアメリカ海軍の空母レンジャーだった。ただちに2機のファントムが発進し、 燃料不足のためもはや陸地に戻れないナヴィオンを空母の近くまで誘導する(時速200キロ程度の軽飛行機と編隊を組む場合、ファントムはフラップフルダウンのうえに脚まで出さなければならない。ふだんこうした場面を見ることはまずないので、貴重な映像といえるだろう)艦長は着水を奨めるが、けが人を乗せているデビッドは拒否し、着艦を強行しようとする。しかし数度の復航のあと燃料が完全に切れ、エンジンの停止したナヴィオン機をデビッドはやむなく着水させる。この着水シーンもまたミニチュアではなく実機を使ったスタントで、トールマンの確かな腕を見せつけてくれた。
全体にテレビ映画らしい低予算なつくりではあるが、当時は珍しかったサバイバル術(砂漠でクリーニング店のビニール袋と小さなカップから飲み水を得る方法とか)を紹介してみたり、修理した機体(ただし、プロペラはきわめてデリケートなパーツであり、石で叩いて直したりしたら、実際には激しい振動が出てシャフトやエンジンを壊してしまいかねない)で離陸するために自分たちの手で滑走路を作ってしまうあたり、なかなか説得力のある話になっていた。・・・
同じ監督の「火垂るの墓」同様に、これまで何度となく放映されてきたのだが、その都度何かと都合が悪くなって、ちゃんと最初から最後まできちんと観賞したのは実は今回が初めてだ。もっとも、断片的には何度も観ているので、どんな流れの話かは判っていたつもりだが。
この種のアニメとしては珍しく、本編は確たる主人公が存在しない一種の群像劇として作られているが、この試みが成功しているとはいい難い。何より問題なのは、結局どういう話だったのか要約するのが難しいところだ。それもそのはず、この映画には語るべきストーリィが存在しないのだ。もちろん「なにがなにしてどうなった」程度の展開があることはあるが(なければ映画として成立できない^^;)プロットに物語性がないために、登場人物のだれに焦点を合せるべきかわからず、漠然とした全体像のみを描いたまま終わってしまう。語り手(古今亭志ん朝)が結局誰だったのかはラストまで観れば明らかではあるが、彼の視点から描かれた話というわけでもなく、それぞれの出来事の冒頭に「ぽんぽこ33年」などと語られるように、現在の時点から過去の歴史を物語るような語り口になっている。そのためだろうか、すでに終ってしまっている出来事を回想するような、どこか冷めた視線が常に感じられ、アニメらしい高揚感とはほとんど無縁だった。
作品のテーマそれ自体はすでに語り尽くされた「自然保護」なのだが、さほど深く考えたものではなく、その証拠に、ラスト近くで狸たちが全力をふり絞って再現した「多摩丘陵の自然」には、自然そのものより棚田やあぜ道、藁ぶき屋根の農家など、じつは過去の人工物に過ぎないものの方が幅をきかせている。「自然保護」とノスタルジーとがごっちゃになっているのだ。実際には自然は人間が考えるよりずっとしたたかで、人工的環境である田んぼにも、その環境を逆手にとって利用する生物が彼らなりの「自然」を形成する。そのために、なかには棚田のような人工物そのものまで「自然」だと誤解してしまう人も多いが、実際にはそれ以前からあった自然環境を大規模に破壊して初めて田んぼは存在できるのである。
物語は結局、現状を追認する形でエンディングを迎える。現実の世界では狸はむしろ都市環境に見事に適応し、ほとんど天敵のいない我が世の春を謳歌している。現在東京都内には少なくとも1.000頭の狸が棲息し、さらに増加する傾向にある。失われつつある自然の代弁者としては、まったくふさわしくない動物だったのだ。・・・
監督が「シャレード」のスタンリー・ドーネン、当時の人気俳優グレゴリー・ペックとソフィア・ローレンが主演し、音楽担当もしっかりヘンリー・マンシーニだったりして、道具立てはまさに60年代ならではのロマンチック・サスペンスといったところ。しかし物語は意外にも複雑で、二転三転して誰が敵で誰が味方かなかなか判別できない。同時代には007シリーズなどスパイ・スリラーが大流行していて、本編もこの流れに乗った作品といえる。
オックスフォード大学で古代言語学を教えているポロック教授(グレゴリー・ペック)は、ある日スローンと名乗る不審な人物から古文書の解読を依頼されるが、時間がないと言って断ってしまう。その日の午後、ジョギング中だったポラックは突然後ろから走ってきた高級車に押し込まれる。その中にいたのは、お忍びで密かに渡英していた中東某国の首相だった。ポロックに解読を依頼してきたスローンは、実は同じ某国の石油王ベシュラビの片腕であり、かれらは何らかの陰謀を企んでいる疑いが強い。それを探るためにベシュラビと接触するよう頼まれたポロックは、スローンの招待を受け入れてベシュラビの館を訪れるのだった。
館でさっそく古文書に書かれた象形文字の解読にとりかかったポロックは、謎の美女ヤスミン(ソフィア・ローレン)の訪問を受ける。彼女はポロックに、このままこの館にいたら解読が終ったところで殺されてしまう、と警告に来たのだった。ヤスミンの手引き(お約束のシャワーシーンあり^^;)で館を脱出する羽目になったポロックだが、逃げる途中の水族館で運悪く手下の一人に見つかり殺されそうになったところに、秘密警察官を自称するウェブスターという男が現れ、手下を殺してしまう。そのまま脱出を図る三人だったが、水族館の守衛に見つかるとウェブスターはあっさり彼を射殺してしまい、その正体が実は警察官ではないことがバレてしまう。そのままポロックはウェブスターとヤスミンに拉致されるのだが、くだんの古文書を所持していないことが判るとあっさり走るワゴン車から放り出され、解放される。
何とか自宅に戻り、一味に打たれた自白剤の影響でまだ朦朧としていたポロックの元に、ふたたびヤスミンがやって来た。敵ではないかと疑うポロックに、ヤスミンは家族を人質にとられて仕方なくやったと弁解するのだが、どうも信用できない。しかし、とっさに隠した古文書を取り戻すために二人はいちおう手を組み、古文書を隠したワゴン車を捜しに出かける・・・。
とまあ、ここまで書いてもけっこう複雑な話だが、実はまだ序盤の15分程度。このあとも誰が敵で誰が味方か判らない展開が延々と続き、死んだはずの人物が生きていたりのどんでん返しなど、少々やりすぎて収拾がつかなくなった感がある。そもそも事件の発端となった古文書は、もともと言語学者のラギーブ教授が隠し持っていたものをスローンが殺して奪ったのだが、なぜこんなものを言語学者が持っていたのか、それをどうするつもりだったのかがよく判らないために、お話に説得力がない。古文書に内包された情報についてはここで書くわけには行かないが、電話を使えば10秒ほどで伝えられる内容であり、これほどややこしい伝達方法を使わなければならない理由がもうひとつわからなかった。もちろん、あまり複雑にしてしまっては、ちょっと乱暴なクライマックスシーン(ベシュラビは「あの人物」を生かしておいてどうするつもりだったのだろう?)につなげることが難しくなるからなのだろうが^^;・・・
映画「容疑者 室井慎次」で主人公室井(柳葉敏郎)を追いつめた弁護士、灰島秀樹(八嶋智人)を主人公にしたスピンオフ・ドラマ。ちょうど「交渉人 真下正義」に対する「逃亡者 木島丈一郎」と同じような、スピンオフのスピンオフというポジションである。ただし、今回はメイン脚本家の君塚良一がシナリオを書いている。これは元になった「容疑者 室井慎次」の脚本・監督を君塚が務めていたためだろう(同様に、「逃亡者 木島丈一郎」のシナリオもスピン元の「交渉人 真下正義」の脚本家が書いていた)
さまざまなテレビドラマを手がけ、持ちキャラの豊富な君塚だけに、2時間枠のテレビドラマとしてはそこそこの水準を保ったドラマとして仕上がってはいたが、「踊る〜」の看板を外してみれば、結局のところごく普通の弁護士ドラマに終っていたようにも思える内容だった。「容疑者 室井慎次」同様、妙に「いい人」になって登場する沖田元管理官(真矢みき)をはじめ、登場人物にあまり意外性がなく、裏切るべく登場する人物は案の定裏切り(あの程度の「意外性」はむしろ「お約束」である)善人は善人のまま、悪人は悪人のまま終るというまさに「お茶の間向け」に特化したドラマで、以前どこかの番組で君塚が主張していた通りの「万人向け」の作品に、一応はなっていた。しかし、ディテールに関してはいろいろ気になるところがあったのも確かだ。
特に、「金がすべて」という哲学を貫き通してきたはずの灰島が、突然「正義」に目覚めて部下たちに愛想を尽かされるあたりの演出はちょっとクサすぎて、個人的に正視に耐えない気がした。エンディングではそのあたりの辻褄合わせに相当気を使ってはいたが、本来の動機をごまかしているようにしか見えず(そのほうが主人公の「正義」を重視する「お茶の間」への受けはいいのだろうが)ちょっと苦しかった。彼を見捨てた部下たちを戻すことにより、灰島の哲学に変わりがないことを表現したかったのだろうが、帰って来た彼らひとりひとりに札束を渡したりする意味不明の演出で、かえってわけがわからなくなってしまった。
意味不明といえば、公聴会が終って灰島が劇団員たちに金を渡すシーンがあるが、漫然と見ているとあの劇団員が何だったのか、ちょっと判別できない。たまたまHDD録画だったから時間を戻して確認できたものの、オンエアで観ていたらたぶん判らずじまいだっただろう。彼らは灰島にやとわれて、マスコミのふりをして公聴会会場に入って来たニセのカメラマンたちで、映像では彼らが持っていたビデオカメラやマイクばかりをアップで撮っていたために、顔や服装がほとんどわからなかった。ところが金を受け取るシーンではカメラもマイクもなく、若者たちがただぞろぞろ突っ立っていただけだったので(しかもロングで逆光)彼らが何物か判別しようがなかったのだ。このあたりは完全に演出ミスというしかない。どんなアホな人間にも判る「万人向け」作品としては、もうすこし気をつけるべきだっただろう。
一番しらけたのはやはり灰島の提出した妥協案で、八方丸く収まるどころか結局誰も満足できない最悪のシナリオであり(海沿いの森林を半分も伐採してしまったら、そこの木々が貯めていたはずの膨大な雨水が泥とともに海中に流れ込み、大規模な海洋汚染はまぬがれないだろう)こんな案で満場一致になるくらいなら、そもそも自然保護運動など起きなかった。また、反対派は通常特定のイデオロギー団体をバックに抱えており、これほど簡単に妥協が成立することなどあり得ない。現実にあった自然保護問題を参考にした案のようだが、現実の妥協案は長い時間と紆余曲折のあげくに政治的に捻り出された折衷案でしかなく、もちろん当事者全員が諸手を上げて賛成するようなシロモノでもなかった。交渉の最初にいきなりポンと出されても、誰一人として納得させられるような案ではなかったのである。・・・
劇場公開からわずか四ヶ月後、まだDVD化もされないうちにテレビ放映してしまうというのは前代未聞の快挙、というか暴挙である。テレビ局製作の映画だからこそできることなのだろうが、アナログ地上波ではコピーに歯止めが効かないし、今後発売される正規版DVDの売り上げに響かないのか、他人事ながらちょっと気になるところだ。まあ、後編公開へのカンフル剤としては確かにきわめて効果的だろうとは思うが(なにしろシリーズ続編は宿命的にパワーダウンを免れないものだし、今回のように前編を観ていないと筋がわからないような場合には、どうしても観客に「これまでのお話」を知っていてもらう必要があったのだろう)
物語はすでにかなり有名になっているので、具体的なストーリィについてはここでは触れない。ちょっと気になったのはおもに設定上のことである。「同姓同名の場合はどうなるのか?」といった素朴な疑問には、さすがに周到な答えが用意されているものの、それでもこれは?と思うポイントはいくつか存在する。相手の本当の名を知ることで、初めて術をかけることができる、というのはル・グィン作品などを始めとした魔法使いの物語にはよく登場する設定で、デスノートも基本的にはそれを踏襲している。問題はキラの犠牲者が「世界に広がっている」という点で、たとえば犯罪者がアメリカ人ならその表記にはアルファベットを使わなければならないようだ(当初「L」だと思われた人物を殺すとき、その名前を英語表記で書いていた)まあ、アルファベットを使うような名前ならまだ何とかなるが、ロシア語のキリル文字になるとやや難しく、アラビア語あたりになるとすでに日本人の手には追えまい。まさかカタカナ表記をした名前でも有効だとは思えないし。結局アラブ人のテロリストはほとんど除外されてしまうことになるのだろうか。原作者がそうした生臭い問題には触れたくなかったのだろうが、もしデスノートが実在したなら、まず大規模なテロを実行しそうな人物から消したくなるのが人情だろう。
もうひとつの問題はさらに切実だ。現行の刑法や刑事訴訟法では逆立ちしたってキラを処罰することができないからだ。具体的な因果関係を証明できないような殺人、たとえば呪術による殺人はそもそも事件性を立証できず、たとえ公衆の面前でデスノートを使って人殺しを実行しようと、検察はどうやってもキラを起訴できない。つまりキラはまったく身を隠す必要もなく堂々と犯罪者の「処分」を法律上は実行できるわけだ (むろん、非合法にキラを「処罰」しようとする人間が、顔も名前も判らない傭兵を送り込んだりする可能性はあるから、キラにとって匿名性は不可欠だが)もし彼を処罰したいなら、呪術による殺人も他の殺人同様に有罪にできるような条項を刑法に書き加えなければならないが、そもそも現代科学に真っ向から対立する思想(死神が実在するとか^^;)がそう簡単に受け入れられるとも思えず、「デスノート特別法」の成立はかなり難しいだろう。つまり、仮にキラを逮捕できたとしても、警察には手も足も出ないばかりか逆に名誉棄損や誣告罪、逮捕時の状況によっては特別公務員暴行陵虐罪すら適用される可能性がある。
もちろん話がそうした方向に行ってしまってはサスペンスも何もなくなるので、突っ込まれそうな周辺部はうまくぼかし、キラ=ライト本人の心的変化を中心に据えて物語は展開する。当初「正義」を口にしていたライトは、時を経ずして「自分自身=正義」と短絡して考えるようになり、「正義」である自分を阻止しようとする存在はすべて「悪」である。と切り捨ててしまう。そうでなければ、本来「正義」の守護者であったはずのFBIエージェントを何の葛藤もなく皆殺しにはできないはずだし、処分完了後に一片の「良心の呵責」も感じないはずがない。権力者であることの最大の要件は「生殺与奪権」だが、まさにデスノートを手にしたことで、すべての人間への決定的な「生殺与奪権」を握ったライトが自らを「神」とみなすことに、何を躊躇することがあろう。要するに、もともと他人に対して一片の愛情も抱けない欠陥人間であったライトが、デスノートを手に入れてその本質を開花させた、ということだ。その姿は死神リュークをして「悪魔」と呼ばせるほどのものである。
主演の藤原竜也に関しては特に言うことはない。いつものようなキャラをいつもの演技でそつなくこなしている感じで、ドラマを壊すような破綻もなく、よく言えば安心してみていられる。ただ、キラのような突出したキャラを演じるには少し「何か」が足りなかったような気もするのだが。彼と対立する「L」を演じた松山ケンイチの方は、前作「男たちの大和」とは正反対のキャラクターで、ひと目見ただけではとても同一人物とは思えない。それだけ役作りにこだわったのだろうが、おかげでマンガのキャラクターの雰囲気は全登場人物中一番出ていたように思う。もっとも、生身の人間がキャラに近づけば近づくほど、マンガの「ホントのL」との相違点が気になってしまうのがファン心理で、熱心なデスノート・ファンの間では意外に松山の評価は低いらしいが。
映画はもう一冊のデスノートが登場するところで「続く」となっているが、人気連載マンガの宿命として極度に肥大化、冗長化の道をたどる原作にどうやって決着を付けるのか、金子監督の腕の冴えに期待したい。・・・
その昔、リアルタイムで観ていたころから「このドラマはほとんどキャラだけで成り立ってるな」と思ってはいたが、今回本編を観直してみて、ますますその感を強くした。てゆーかぶっちゃけた話、とてもプロが書いたシナリオとは思えないほどお粗末なお話だった(;o;)
冒頭、タイトルに使われているミニコプターがアンクルカーに乗ったソロ(ロバート・ヴォーン)とイリヤ(デビッド・マッカラム)を襲うのだが、アンクルカーがトンネルに入ってやり過ごしてしまうとそのまま二度と出てこない。これで「ミニコプター作戦」とは、邦題を考えた人を小一時間くらい問い詰めたいところだ。もっとも原題の“The Karate Killers”にしたところで、空手の使い手っぽい敵は物語後半の日本編(例によって、とても日本とは思えない誤解と偏見に満ちた日本像で、わざとやってるとしか思えないのだが、時代的に見てマジに「日本的」なるものを表現しようとしたのだろう)にちょこっと登場する程度なのだが。ところで、テレビで動いているアンクルカーを見た記憶はほとんどなく(実車はプラモメーカーのAMTがデザインしたピラニアというプロトタイプカーで、見た目とは大違いの問題だらけの車だったらしい)本編はその活躍する姿が見られる貴重な作品なのだが、残念ながらミニコプター同様に冒頭だけで姿を消してしまう。ミニコプターもアンクルカーも一体何のために登場したのか、最後までよく判らなかった。
二人が向かった先は、海水から黄金を抽出する画期的な製法を開発した天才科学者トルー博士の研究所だったのだが、博士は二人に研究の概要を説明した直後に倒れ、「娘・・・」と言い残して死んでしまう。博士には5人の娘がおり、そのうち実の娘は末娘のサンディ(キム・ダービー)だけ、あとの4人は後妻の連れ子なのだが、博士がサンディに言い残した「真実は四方に散らばっている」という遺言と、いまわの際の「娘」という言葉から、ソロはその4人の娘が手がかりに違いないと判断し、イリヤとともにヨーロッパ各国に散らばっている娘たちを捜し始める。一方、宿敵スラッシュもその製法を狙っており、ソロに一歩先んじて娘たちのもとに姿を現し、そのつどソロとイリヤの二人と格闘戦やら銃撃戦やらを繰り広げることになる。実はこの映画、本来テレビシリーズとして製作された“The Five Daughters Affair”(5人の娘たち事件)という前後編のエピソード(日本未公開)を再編集したものなのだ。ロードムービーよろしく次々と娘たちの所在を訪ね歩く展開は、前後編という構成上捻りだされたものだったようだ。どういうわけか5人の娘のうち最後の一人はとうとう姿を現さず、名前すら判明していないのになぜかちゃんと「手がかり」は4人ぶんソロたちの手に渡っていたりして、ちょっと流れが不自然。INDbでテレビシリーズの配役を調べてみたが、やはりそれらしき人物は登場しておらず、なぜわざわざ“The Five Daughters Affair”などと題したのか謎だ。
テレビシリーズ再編集版だからか、とにかくお話の展開がいちいち場当たり的で説得力がないうえに、せっかく起用したテリー・サバラスとクルト・ユルゲンスという二人の名優も気の毒なほどばかばかしい役回りで、何のために登場したのかよく判らなかった。また、この手の話には不可欠な格闘シーンもコントみたいで全然迫力がなかった。とにかく肝心のソロとイリヤがからっきし弱く、何度も叩きのめされては(ソロもイリヤもそれぞれ本編中に都合3回も失神している。いちどなんかゲイシャガールに扇子で叩かれただけで、ふたり揃って気絶^^;)生命の危機に陥ってしまう始末。どういうわけか敵が止めを刺さずに逃走したり、わざわざ生き残るチャンスを残してくれたりしたおかげで、なんとか無事にエンディングを迎えることができたわけだが、もし敵にこうしたホトケ心がなければ、たぶん第一シーズンで番組は終ってしまっていただろう^^;
また、カーチェイスシーンも、時代的にはそろそろオンボードカメラが登場してもおかしくないのだが(同じMGM製作の「グラン・プリ」は前年度の作品ながら、全編オンボードカメラ撮影)どういうわけか本編ではミエミエのスクリーンプロセス(スタジオ内で背景をスクリーンに投影してその前で俳優が演技する)を多用しており、その使い方がわざとやっているとしか思えないほど嘘っぽくて失笑もの。雪山でスラッシュのスキー部隊に襲撃を受けるシーンにしても、襲ってくるスキー部隊はちゃんとロケーションしているのだが、襲われるソロたちは明らかにスタジオ撮影で、画面の落差がすさまじい。あるいはスケジュールの関係でこうなったのかもしれないが、明らかに太陽光のもとで撮影したロケシーンの直後に、足もとに影がいくつもある(スタジオの照明は複数あるので、影もいくつもできるわけだ)セットの場面がつなかっていると、やっつけ仕事の感は免れない。もともとテレビ作品なので映画のようにふんだんな予算は使えなかったのだろうが、足掛け5年も続いた人気シリーズだったのだから、もう少し何とかならなかったのか、惜しまれるところだ。・・・
友人の掲示板で昔のテレビ映画の話をしていて、たまたま似たようなタイトルの本編のビデオを発掘して観てみたら、あれまびっくり、テレビ映画ではなく、1959年製作の東映映画であった。主演はなんと高倉健、ほかにも梅宮辰夫、中原ひとみ、久保菜穂子、殿山泰司、加藤嘉、左朴全、トニー谷などなど、当時のスター総出演のプログラムピクチャーといっていい。
高倉健演ずる主人公山本は、北日本空輸の国内線パイロット。時代的に元戦闘機パイロットという設定だった。当時の高倉はまだ本格的に売れ出す前で、何本かある美空ひばりと共演した喜劇ではちょっと頼りない好青年役が多かったが、今回は現在の高倉を思わせる冷静沈着なキャラクターで、後の「網走番外地」シリーズにもつながるイメージがすでに芽生えていた。
物語は一種のグランドホテル型式で、旅客機(なんとダグラスDC-3!!)という閉鎖空間に集うさまざまな人間模様を過不足なく描いている。航空パニックものには意外にこうした描写をする作品は少なく、おもにパイロットやキャビンアテンダント、それからせいぜい数組の乗客が話に絡む程度だが、本編にはやり手の女カーディーラー、どうやら彼女に惚れているらしいライバル会社のディーラー、東京見物の帰りに飛行機旅行としゃれ込んだ老夫婦、テレビ結婚式を挙げた直後の学生結婚のカップル、勤続20年記念の休暇で夫婦揃って北海道旅行に向かう新聞記者、落選続きの政治家、初老のアメリカ人旅行客夫妻、力士、一人旅の小学生などなど実にバラエティに富んだキャラクターが登場し、それぞれにちゃんとした出番が与えられている。こうした人々が乗りあわせた旅客機に殺人犯が紛れ込み、やがて正体を見破ったカーディーラーの和子(中原ひとみ)が人質にとられて、話は一気にハイジャックものへと変貌していく。
当時はまだハイジャックという言葉すらなかった時代だが(「よど号」事件の11年も前の作品である)拳銃を持った殺人犯がコクピットに乱入し、パイロットを脅して着陸地の変更を迫るという展開はハイジャック以外の何物でもない。この時代には各国で航空映画が作られていたので、世界初のハイジャック映画かどうかは判らないが、おそらく日本初のハイジャック映画であったことは確かだろう。
主人公のパイロットがいかにしてこの難局を乗り切るのかは本編を観てもらうしかないが、残念ながらビデオもDVDも存在しないようなので、気長にテレビ放映のチャンスを待っていただきたい(日本映画専門のCSチャンネルでは何度か放映されているようだ)言えることは、なかなか本格的な航空ものとしてきちんと成立した話になっていた、ということだ。上映時間わずか76分という短さのプログラム・ピクチャーではあるが、下手な2時間枠のテレビドラマなど遥かに上回る完成度を持った作品であったことは保証していい。・・・
前作「あぶない刑事フォーエバー」から7年、あのダンディ鷹山とセクシー大下が再び帰って来た。さすがにふたりとも50台半ばになり、以前のような派手なアクションは減ってしまったが(でも大下の全力疾走とか鷹山のバイク手放し運転とか、要所要所には健在^^;)脚本はそのあたりに留意したのか、若い世代の刑事二人を対比させて、世代間のギャップを強調するような演出になっていた。「四十肩が・・」「五十肩でしょ」などという台詞が決まってしまうあたり、すでに「年寄りネタ」映画になっていたのがちょっと寂しい。
話には超小型核爆弾(キロトン級以下の、いわゆるミニ・ニューク)が登場したり、アメリカの国防長官が登場したりと大きく風呂敷を広げたのはいいが、結局のところいつものパターンで事件が解決してしまうのはこのシリーズの限界だろうか。事件の黒幕が実は、という意外性は多少買えるものの、その辺と突然出て来る内調や検察庁との絡みがもうひとつちゃんと出せていなかったために、製作側が意図したようなスケール感は残念ながら出ていなかった。
それから、ラストの決め方はアメリカ映画「ピースメーカー」とまったく同じであり、あれでは広範囲にプルトニウム汚染が起きることになってしまう。方法自体にも問題ありだが、それ以前に下手をすると盗作騒ぎも起きかねないと思うのだが。もうあれ以外に解決策がない、というならまだしも、デトネーターを起爆させない方法にはほかにも起爆装置自体を凍結させてしまうとか、いろいろ考えられるだろう。ああした安易さは結局みずからの首を締める結果になると、なぜ判らないのだろうか。・・・
本当によくあるタイプのパート2映画。前回のジャングルから今回はロスのアスファルト・ジャングルに舞台を移してはいるが、基本的にはプレデターによる人間狩りのお話であることに変わりない。今回彼に立ち向かうことになるのはロス市警の敏腕警部ハリガン(ダニー・グローバー)なにしろ筋骨隆々のシュワちゃんとは違ってこちらはごく平均的なアメリカ人、腕力ではとても勝負にならないのだが、そこは勇気とありったけの知力でカバーして、遥かに強力なプレデターに立ち向かっていく。
実はプレデターの存在は一部の政府機関に知られていて(前回あれだけ大暴れしていて知られていないはずもないが)人類を遥かに凌駕するテクノロジーを何とか奪おうと暗躍する組織も登場する。まあ、彼らの駆使するさまざまな新兵器が結局役に立たないというのもお約束^^;
プレデターそのものの設定も以前よりかなり深く考察されているが、可視光線を湾曲させて自らを透明化するという「光学迷彩」を装備していながら、自らは赤外線しか見ることができない、という設定はよく考えるとちょっと変だ。モードの切り替えで多少は帯域を広げることができるようだが、地球の生物のような広い帯域を見ることは不可能らしい。そうした生物がなぜ地球生物に特化したような迷彩技術を開発したのか、その理由が本編だけだとよくわからない(ちなみにその辺の謎は「エイリアンVSプレデター」でいちおう説明されている)
プレデターの行動原理は要するに「成人の儀式」であり、だからこそラストシーンのような展開があり得るのだが、これも本編だけだとやや説明不足で、ともすると主人公を殺さないためのご都合主義的設定に見えてしまう。ラストシーンのセットにあったさまざまな頭蓋骨コレクションの中に、エイリアン(同じ20世紀フォックスの作品)のものもあることから、14年後の「エイリアンVSプレデター」が予告されていた、といえないこともない(^_^)
にしても、エイリアンみたいに超強力な生物までも獲物にしているプレデターとしては、人間のような脆弱な生物をいくら殺したところで、小手調べにもならないと思うのだが^^;・・・
先週の「交渉人 真下正義」に続く劇場版「踊る〜」スピンオフシリーズ第二弾。徹底的に「動」の映画であった「交渉人」とは対照的に、室井慎次という物静かな男のキャラクターに全面的におんぶした「静」的な作品である。製作側としては、これだけ毛色の違う映画を内包できる「踊る〜」シリーズの懐の深さを示したかったのかもしれないが、やはり全体的に「躁」のイメージが強いシリーズにあって、本編のダークな雰囲気はちょっと沈んでしまった感がある。
冒頭の殺人事件の捜査がもとで、室井(柳葉敏郎)は特別公務員暴行陵虐容疑で逮捕されてしまう、というのが事件の発端。普通に考えればこうした場合、現場の刑事が訴えられることはあっても、捜査の指揮をとる本部長その人が逮捕されることはあり得ない。その辺の不自然さを脚本家は警視庁と警察庁との確執を前面に押し出して覆い隠そうとするのだが、キャラクターにさほど説得力が無いために上滑り感は免れない。訴えを起こす側の弁護士、灰島秀樹( 八嶋智人)のキャラクター設定もやや極端に過ぎ、あんなではすぐにでも「上手の手から水が漏る」のではないかとハラハラしっぱなし(クライマックスではまさにそうなるのだが)ああ言えばこう言うのらくらぶりは、おそらくオウムの上裕代表や青○弁護士あたりがモデルなのだろうが、それにしてもちょっと戯画化しすぎだ。そう見えてしまうのは、彼ら以外の登場人物がみな沈み気味のキャラばかりということもあるのだろうが。
その後保釈された室井は、警察手帳を取り上げられ謹慎を命じられた筈なのだが、どういうわけか新宿北署の面々に捜査の続行を指示し、さまざまな圧力を加えられながらも事件の真相にたどり着く(本人の知らないところで同期の桜や地検が活躍していた、という設定はあまりにも帳尻合わせが見えすぎ^^;)しかし、あの程度の真相のために警察権力を動かすほどの妨害工作ができるのか、疑問である。ラストシーンまで観て「あれ、これで終りかよ??」と思った人も多かったのではないだろうか。基本的な部分で「事件」とそれ以外の要素との配分がうまくいっていなかったようだ。結局、観客には圧力と事件との間に有機的な繋がりを見いだすことが、最後までできなかった。
もともと、シリーズ主人公の青島を演じた織田裕二が出ないために生まれた企画なので仕方がないが、設定上の一方の核であった室井がこのような状況に陥ってしまったのに、青島の影すら無い(スリー・アミーゴスが面会に来たとき一度名前が出るだけ)というのはやはり不自然さを禁じえない。本来なら新宿北署の工藤刑事(哀川
翔)のポジションには青島がいるべきだっただろうし(所轄が違うなんてことは、脚本家の力量でどうにでもなる)もし青島が登場していれば、ドラマの展開も相当違ったものになっただろう。少なくとも、これほど動きの少ない(過剰な「間」の演出ばかり目立つ)作品にはならなかったに違いない。・・・
昨年12月に放映された下記「交渉人 真下正義」のスピンオフ作品。もともと「交渉人〜」そのものも「踊る大捜査線」からのスピンオフなので、いわばスピンオフのスピンオフという不思議なポジションの作品である。テレビのスペシャル枠という点では、テレビシリーズのスピンオフ企画だった内田有紀主演の「湾岸署婦警物語」に近いポジションと言ってもいいだろう。噂ではシリーズの主役、青島刑事を演じた織田裕二が以後のシリーズへの出演を渋ったために生まれた企画なのだそうだが、観客としてはそんな裏話はどうでもいいことで、問題は生まれ出た作品が「踊る〜」の名を冠するに足る作品であったか否か、ということに尽きる。
本編の主人公、木島丈一郎(寺島 進)はあらゆる意味で真下(ユースケ・サンタマリア)たちキャリア組とは対照的な存在だが、といって青島のようなお調子者タイプでもなく、マル暴出身という出自からも判るように、徹底した強面、現場第一主義の実務派として描かれている。ひょんなことから事件の重要参考人になってしまった少年を連れて逃亡するはめになる、典型的な巻き込まれキャラだが、テレビ放映ということを意識したのかあまり複雑な筋立てではなく、どちらかといえば木島と少年との心の触れ合いにポイントを置いたお話になっていた。なぜか本編や映画版に比べてやや展開が甘いような気がした(たとえば木島が逃亡するきっかけや、ベタな犯人の設定など)特に黒幕の設定にはもう一捻り欲しかったような気がする。
とはいえ、木島になり切った寺島 進と、その部下で、彼に出会うたびに毎回ひどい目に遭う浅尾警部(東根作寿英)のキャラはなかなか魅力的に描かれており、基本的に群像劇であった「踊る〜」世界の脇を固めるには十分であった。また、なにしろスピンオフ企画であるから「交渉人
真下正義」とのリンクにはかなり気を使っており、真下本人もちゃんと重要な役柄で登場しているし、クリスマス・イブに起きた事件である地下鉄乗っ取り事件との時間的関わり(本編のラストシーンがそのまま「交渉人
真下正義」の冒頭のシーンになっている)にもぬかりはない。ちょっと異色な「踊る〜」作品として、十分合格点を与えられる出来だったといっていいだろう。・・・
地下鉄を乗っ取るクライムムービーとして、まず思い当たるのは「サブウェイ・パニック」である。なかなか凝った構成の佳作だったが、製作陣は撮影が進むに連れ「地下鉄を乗っ取る」という行為自体の不可能性を痛いほど認識し、そこから観客の目をそらすために最大限の努力を払ったのだそうだ。
本編も基本的に地下鉄を乗っ取る話なので、矛盾はあちこちに露出してしまう。まず第一に、鉄道車両にできることは「動く、止まる」のふたつしかない、ということだ。車両の進む方向はポイントの切り替えにより決定されてしまい、そこに運転士の介入は不可能だ(ポイントの切り替えは通常コンピューター制御のARCシステムにより行われており、作中では犯人の仕掛けた時限ウイルスによってシステムがダウンしている、という設定だった)しかし、本編に登場する試作車両「クモE4-600」(意図的につけたのだろうが、「ク」は運転台付き、「モ」は電動機付きを示す、実際にJRなどの鉄道会社で使われている記号)はその辺の問題をあっさり無視して、本線から脇線に入り込んだり、軌条幅の異なる路線(渋谷線と八重洲線はもちろん銀座線と丸ノ内線のこと)を走ったりとやりたい放題。おそらくフリーゲージという独自の機能を駆使して違う軌条の線路を走ったり、ポイントを乗り越えたりしていたのだろうが、そのあたりの描写をもう少しきちっと描いてくれないと、あまり説得力を感じられない。
また、「クモ」は謎の犯人により携帯電話で遠隔操作されていた、という設定なのだが、駅構内などアンテナが設置されている場所はともかく、地下深くに掘られた地下鉄のトンネル内に携帯の電波がちゃんと届くものなのだろうか。犯人が運転していると思われるカエル急便のバンが通ると、街頭テレビの画面が乱れることから、相当強力な電波を発生しているという設定だったのかもしれないが、携帯の電波をそんな高出力で発すれば局に気づかれないはずはなく、これもやや矛盾を感じるところ。
しかし、舞台となった地下鉄の構内や司令室、ホームを掠めて走り抜ける架空の試作車両などの描写にはリアリティがあり、この種の物語には不可欠な「もっともらしさ」をうまく醸し出していた。残念ながら実際の東京メトロ(撮影当時は営団地下鉄)の協力を得ることは出来ず、神戸や横浜、埼玉などの地下鉄駅や車両を使って撮影したのだそうだが、走っていた車両が東京メトロのものとは違うこともあって、逆に「架空の話である」という効果がよく出ていたように思う。
主人公の交渉人、真下正義を演じるユースケ・サンタマリアは、いつも通りちょっと頼りない真下をそれなりに演じてはいるのだが、「交渉人」と呼ばれるほど高度な交渉技術を発揮する部分は乏しく(なにしろ犯人との会話それ自体が少なすぎ、短かすぎる)実務はCICのパソコンオタク軍団とTTR司令室のプロたちに頼りっぱなし。実際にやったことと言ったら、犯人がヒントとして出した映画や小説のタイトルを検索して、共通するキーワードを捜すという「交渉」とは無縁の作業ばかり。もうちょっとタイトルロールらしい活躍をさせることは出来なかったのだろうか。少なくともある程度事件解決への見通しが立った物語終盤には、もっと大活躍させられる余地はあったはずだ。危険を承知で雪乃(水野美紀)救出に駆けつけるくらいの行動力は、主人公なら絶対必要だっただろう。犯人の意図が判明してからの妙な失速感は、話の中心にもはや主人公がいないという異色の筋立てが影響していると僕は思う。
犯人を追いつめ、ようやくその正体がわかったと思ったら実は、という展開はすでに「ジャッカルの日」で使用済みだが、本編がそれと大きく違うのは、テロは未然に食い止めたものの、結局のところ犯人は取り逃がしてそれっきり、というところだ。すべての手がかりは犯人により事前に準備され、すでに死亡している別人に行き当たるように設定されており、事件はまったく解決していないのだ。
どういう手を使ったのかは作中でも説明されないが、犯人は別人の声をもとに合成音声を作り上げ、それを使ってしゃべっていたと理解するよりない。それもあらかじめアリモノをコラージュしたのではなく、合成音声を使ってリアルタイムで真下と会話しているのである。また、犯人は真下とその恋人雪乃の関係もよく知っており、真下自身まだ知らない雪乃のチケットの座席番号さえつかんでいた。それほど事前の準備がなされていた作戦にしては、肝心の爆破の仕掛けがいくぶん稚拙で(まあ、そうやって真下にアドバンテージを与えていた、ということなのかも知れないが)あっけなく阻止されてしまうあたりが難点だ(ぜったい最後にもうひとヤマあると踏んでたんだけど^^;)いずれ彼が正体を現すであろう続編に期待しよう(^_^)/・・・
もはや改編期恒例となった24-TWENTY FOUR のイッキ放映もすでに第四シーズン、連夜2話〜3話ずつ放映して10日間で全24話を放映し切るというパターンも完全に定着していると思われる。レンタルビデオを借りて観たとしても、毎日そう何本も連続しては観られないから、ほぼこのパターンと似たようなものになろう。そういう意味では、まさにレンタルビデオ世代に特化したような番組編成ともいえそうだ。
さてドラマ本編だが、さすがに第四シーズンだけに演じる方もかなりキャラクターがこなれてきて、よく考えるとちょっと無理のある展開をうまくごまかしている。物語はいつもの通りクリフハンガーの連続で、主人公バウアー(キーファー・サザーランド)を始めとするキャラクターたちには一睡する暇もない。第一シーズンではバウアーのうたた寝シーンなども挿入して、生身の人間の生理的欲求なども考慮に入れていたが、第四シーズンになるともうそのあたりは完全に無視して、登場人物のすべては24時間一睡もせず精力的に働いている。今回は食事のシーンさえもが皆無であった。
例によってストーリィ上の「結」の部分が次の回の「起」になっていたりすることも多いので、具体的な物語には触れられないが、今回は前回までに姿を消していた主要キャラクターたち(死亡してしまった何人かは除く)の再登場のさせ方が非常にうまい。また、前回ちょっと強調されたメロドラマ的要素も今回はさらにクローズアップされ、殺伐とした物語展開の中でホッと息のつける部分になっている。
ううむ、このドラマは下手に語るとどうしてもネタバレにつなかってしまうので、「ひとこと」書くのが難しい。それでも無理に書くとすれば、半年間にわたって全24話をこまぎれに観なければならないアメリカの視聴者に比べ、たった一週間少々で全話イッキ観できる日本の視聴者は幸せかも知れない。もちろんそれには、本国で放映後、一年半ものタイムラグがあるというデメリットもあるが^^;・・・
2001年にツインタワーを爆破する話なんて時期的にまずいだろう、と思ったのだが、この作品が公開されたのは例の事件が起こった年の4月、つまりほぼ半年前だったのだ。もし秋に公開されることになっていたら、公開時期延期、へたをするとお蔵入りの可能性もあったと思うと、制作陣の運の良さには驚かされる。
お話は基本的に「組織」のジンとウォッカをめぐる陰謀と、それとはまったく無関係に起こった連続殺人事件をいつものコナン映画の手法で絡めたものだが、やや無理のある設定を力技でシナリオ化してしまうあたりはもはや「芸」といってもいいだろう。とはいっても、事件の発端になる灰原の電話の件はやや無理を感じる。単に声を聞きたいだけなら姉の返事の音声そのものを録音してしまえばいいし、あとで消去するくらいなら用件など吹き込まなければいいのだ。亡き姉の住まいを訪れられないほど「組織」の力を恐れているのなら、わざわざその日の行動を、聞く相手もいない留守電に吹き込むのはどう考えても変だ。仮にジンとウォッカがその場にいなくても、電話の留守電転送機能を利用して録音内容を聞かれる可能性はある。賢明な灰原がそんなことに気が回らない筈はないと思うのだが。
物語に直接言及するのはこの手の推理ドラマの場合、ネタバレの危険が常にあるので避けたいが、それにしても今回の犯人の動機、最初の映画化作品「時計じかけの摩天楼」に似過ぎていた。「古畑任三郎」の1エピソードにも、確か木村拓哉主演の回だったか、同じような動機の犯罪が登場したが、正直言ってそれほど説得力は感じられなかった。一般人にとってくだらなく思える動機に説得力を持たせるには、犯人の「入れ込み」ぶりをくどいくらい描かなければならないと思うのだが、そうした描写が決定的に不足していたのではないだろうか。
メインの殺人事件とはまったく無関係に展開するツインタワー爆破のくだりは、「 タワーリング・インフェルノ」「ダイハード」といった洋画のパクりが見えすぎてしまって少々興ざめ。また、火災を起こしてターゲットである灰原をVIP専用のエレベーターで避難させようという「組織」の狙いも、ちょっと変数が多すぎて説得力に欠ける(実際それで避難はしていなかったわけだし^^;)ターゲットを確実に仕留める、というより明らかに見せ場を作るためだけの設定になっていた。レーザーポインターのドットの使い方など、まるで「ターミネーター」と同じでちょっと笑ってしまったが^^;
ラストのクライマックスシーンでは、展示車のマスタングでとなりのビルに飛び移れる可能性について、灰原にわざわざ物理方程式まで書かせて説明していたが、実際には車がビルから飛びだす角度(仰角)も大きく飛距離に影響するはずなのに、その言及がまったく無かったのは片手落ちだろう(せめて、「ジャンプ台を作るには時間が足りない」の一言でもあったらよかったのだが)また、となりのビルに飛び移るには計算の結果時速100キロ必要だ、ということになっているのだが、そのわずか前、当のコナン本人がスケボーでとなりのビルからこちらに飛び移って来ているのだ。いくらターボエンジン付きとはいえ(公道走ったら明らかに道交法違反ですよ^^;)どう考えてもスケボーに時速100キロも出せるはずはなく、お話に矛盾が生じてしまっている。
とはいえ、数々の細かい伏線をきっちりと使い切っているあたりは、なかなかうまくミステリーの基本を守っており、少なくとも年少の観客にとってはそれなりの説得力を感じさせるお話になっていたと思う(たとえば、歩美ちゃんが空で正確に30秒を計れる理由とか)何といってもこの映画の主な観客は子供なのであり、常にその点に留意した映画作りこそが長寿シリーズたりえた理由なのだろう。・・・
「未来世紀ブラジル」をめぐってテリー・ギリアムと喧嘩し、リドリー・スコットの「レジェンド〜光と闇の伝説」をズタズタにカットさせた張本人、ユニバーサルのCEOシドニー・シャインバーグが、絶対の自信をもって世に送り出したSFX超大作・・・だったはずなのだが、蓋を開けてみるとブーイングの嵐で、1986年度のラジー賞を総なめにしてしまった、ちょっと違った意味での話題作である。
その昔、テレピ放映されたとき一応観てはいたのだが、全然かわいくないアヒルの着ぐるみ=ハワード(声はチップ・ジーンが、着ぐるみの中にはエド・ゲイルをはじめ8人ものアクターが入って演じていた)が、皮肉めかしたギャグをとばすだけのつまらないSFコメディ、といった程度の印象しかなかった。その印象は今回も変わらなかったが、気になったのはシャインバーグがはたしてどんな層を狙ってこの映画を仕掛けたのか、という点だ。ヒロインの売れないレディ・ロッカー、ビバリー(リー・トンプソン)がハワードの財布の中を探るとコンドームが出てきたりする、子供にはちょっと判らないくすぐりもあったりするのだが、話は少しも大人レベル(RレートとかXレートとかいう話ではなく、大人の鑑賞に耐えるということ^^;)に達することなく、ほとんど幼児番組レベルのまま超低空飛行を続ける。ハワードがなぜ選ばれて地球に来ることになったのか、どうして真空中を平服のまま通過しても死ななかったのか、大気圏を突き破り、そのまま地上に落下したのにかすり傷ひとつないのはどうしてか、そのあたりはまったく無視してひたすら行き当たりばったりに話は突き進み、ベタというしか言いようのない(お定まりの「地球を救う」^^;)ラストシーンへと突入してしまう。何の伏線もなくナントカいう対魔王最終兵器がちゃんと準備されているあたり、余りのご都合主義ぶりに「お見事」とうなってしまった^^;もしこの映画の狙った層が若者だったとしたら(それ以外考えにくいが)シャインバーグ氏、徹底して「若者」を舐めていたとしか思えない。でなければこの程度の脚本でGOサインを出せるはずがないからだ。
もともとこの作品は人気コミックの映画化なのだそうだが(そんなに海外のコミックに詳しいわけではないが、この作品についてはまったく知らなかった)原作は皮肉の利いたカウンターカルチャー・コミックとしてそれなりに人気があったらしい。それが映画化してみたらこのていたらくでは、確かにラジー賞に推されても不思議はない。
信じられないことにこの作品、製作総指揮にあのジョージ・ルーカスが当たっており、SFXもルーカスのILMが担当している(ルーカスはハワードの着ぐるみに200万ドルをポンと出したそうだ。当時のレートだと3億円以上もするアヒルだったわけだ^^;)しかし、お寒い脚本同様に、1986年作品とは思えないほどオプチカル処理もお粗末であり、ラストのクライマックスでようやく登場する暗黒魔王の造形や動かし方など、とてもスターウォーズ以後の作品とは思えない出来であった。おそらくこの映画に関わった人のすべてが「忘れてしまいたい作品」なのだろう。・・・
冒頭でユカ(永作博美)の弟のドッペルゲンガーが登場し、自殺してしまった本物の弟になり代わって生活し始める、というあたりからすでに不条理な話である。そこにはいかにもホラー映画らしい強烈な「死の匂い」があるのだが、本編の主人公、某医療器具メーカーの天才研究員早崎(役所広司)の前にいきなり現れる彼のドッペルゲンガーには、なぜかそうした匂いがない。横柄で自然体、早崎自身(便宜上「早崎本体」と呼ぼう)の欲望に忠実に行動する単純明快なキャラクターだ。研究に行き詰まって悩みまくっている早崎本体とは対照的で、むしろ生き生きとしているくらい。ふつう心理学をネタにした物語では、ドッペルゲンガーはその本人にしか見えなかったりするのだが、この話に登場するドッペルゲンガーは、本体とはまったく別の人格として第三者にも普通に見えたり話せたりする、性格の違う双子みたいなものとして描かれている。
早崎が研究していたのは人工人体、つまり身体障害者の手や足の代わりを頭に思い浮かべただけでやってくれる、マニピュレーター付きの電動車イスみたいなもの。現実の世界でも脳から筋肉への指令を読み取って作動する筋力増強服(パワードスーツ)がすでに存在するが、映画の作られた2003年時点では「ちょっと未来の」技術だったのだろう。それにしても「人工人体」のネーミングはあまりに捻り不足でかえってストレートに理解できなかった(人工「靭帯」に聞こえてしまった。「人体」という言葉のもつ概念とはあまりにかけ離れた形状だったし^^;)もうちょっとスマートな言い回しはなかったのだろうか。ダサダサのデザインは君島(ユースケ・サンタマリア)の「だっせー!!」という台詞のために必要だったのかも知れないが。もちろん早崎が作ろうとしている人工人体そのものが、ドッペルゲンガーのメタファーなのだろうな、とは思うが、結局のところラストシーンまでそれほどの効果も出せずに終ってしまったように思う。
早崎の悩みを感じ取り、代わりに研究室をメチャクチャに壊してしまったドッペルゲンガーのおかげで彼は職を失い、研究成果である人工人体を持ち逃げしてしまう。やがてドッペルゲンガーがどこかから見つけてきた君島という怪しげな男をアシスタントに研究を再開するのだが、過去を捨てたいと転げ込んできたユカや、サラリーマン時代の同期で横領がバレ馘首になった村上(柄本 明)もからんで、話はしだいに複雑に展開していく。
相手がドッペルゲンガーだからか、殺人シーンもまるでゲーム画面のように即物的に描写される(劇中、はっきり「殺された」と判るのはドッペルゲンガーのみ)すべての殺人シーンが絞殺でも刺殺でも射殺でもなく撲殺なのが、この話の本質を物語っているようだ。なぜならあらゆる殺し方の中で撲殺はもっとも本能的で、暴力的だからだ。ドッペルゲンガーの死体処理シーンは一回だけ出て来るが、はたしてそれで本当に処理できたのかは最後までよく判らなかった。もちろん演出なのだろうが、早崎本体である筈のキャラクターがいつのまにかドッペルゲンガーの得意な口笛を吹いていたりして、観客を混乱させるシーンも多かった。だいたい終盤で君島にひき逃げされたはずの早崎本体が、どうしてピンピンして自分の車に乗ってきたのかもよく判らない。たしか車は家に置きっぱなしだったはずで、ひき逃げされた早崎がわざわざ取りに戻ったと考えるのはいかにも不自然だ。コートについていた血らしき染みからして、実は死ななかったドッペルゲンガーの方がやって来た、と見たほうが自然かもしれない (しかしあとになって思い返すと、車に乗ってやってきた早崎は眉毛と鼻の部分に十文字にテープを貼っていた。あれは君島に轢かれたとき、仰向けにぶっ倒れて車体と地面との隙間にすっぽり体が入ったおかげで、顔のなかの突出した部分、つまり眉と鼻だけが傷ついた、という意味だったのかもしれない。しかし、依然としてなぜわざわざ自分の車を取りに戻ったのか、という謎は残るが^^;)
ドッペルゲンガーと早崎本体が同一画面に映るシーンはもちろんSFXなのだが、さすがにハリウッド映画みたいな精緻なCGは作れなかったのか、アップのシーンでは懐かしのマルチスクリーン処理でお茶を濁していた^^;監督本人はしてやったりと思ったかもしれないが、観ている側としては、資金不足ばかりが気になるビンボー臭いやっつけ仕事としか思えなかった。
題材としては一応ホラー映画に分類されるのだろうが、「回路」よりさらに恐怖度は低く(てゆーか今回は皆無^^;)むしろオフビートなコメディ風味を狙った演出だったようだ(そのわりに暴力描写はリアルで全然笑えないが)しかし、例によって根本的な部分で不条理な話なので(たとえばドッペルゲンガー出現のからくりなどはまったく説明されない)観客は置き去りにされたままエンディングを観ることになる。やはりこれは黒沢監督の資質に関わる部分なのだろう。・・・
発掘したビデオテープを2本連続してHDDにダビングしたので、「ひとこと」も2回連続して桃尻娘シリーズ作品となる。普通、こうしたシリーズの2作目は1作目のヒットの余力で作られることが多く、その分パワーダウンは免れないものだが、本編の場合は原作がしっかりしており、またスタッフ、俳優とも前作のメンバーをそのまま引き継いでいるために息もピッタリで、80年代後半のバブル時代を背景とした青春ドラマとしては出色の出来の作品となった。
今回は前作で早稲田に合格した玲奈(相築彰子)のキャンパスライフを描く話だが、前作に登場した高校時代の仲間のその後と、大学生になって行動半径が広がった分新たに登場するキャラクターたちとの関わりが描かれる一種の群像劇となっていた。基本的に恋愛小説であった原作のスタイルを踏襲し、登場人物のさまざまな「愛の形」が登場する。なかでも前作の冒頭で玲奈にふられた大西(豊原巧補)は、今度はその後つきあっていた久美(黒沢ひろみ)にまでふられ、どん底にまで落ち込むことになる。この「打ちのめされ」ぶりが非常に見事で、たぶんこの演技が認められて豊原は以後20年にわたる「ふられ役者ナンバー・ワン」の座を確保したのだろう。
しかしあいかわらず醒井涼子(金子美香)の原作離れはキョーレツで、こちらの醒井は原作の持つお嬢様独特の浮世離れしたカワイさは微塵もなく、ひたすら理解不能の「不思議ちゃん」的キャラクターとして描かれている。なにしろ玲奈からは「悪魔」とまで評されるのだ。もちろん原作での言動も、結果的には悪魔のごとく酷い結果を招くのだが、少なくともドラマ版のような不条理さはなかった。
今回、中大生となった薫(松田洋治)はストーリィにはまったく関係せず、ひたすら大学への長い坂道をぶつぶつつぶやきながら通う姿が冒頭、中盤、そしてエンドロール後にカットバック風に挿入されている。多磨モノレールが開通していなかった当時、たしかにあの大学に通うことは「毎日が遠足」だったらしい。駿河台時代に通っていた身には想像もつかない話だが^^;・・・
にっかつロマンポルノで頭角を現した中原がテレビ界に招かれて撮った、ごく初期の一般向け作品である。同年には劇場公開作品「ボクの女に手を出すな」も公開されているが、こちらは年明けすぐに放映されたので、おそらく撮影時期はやや先んじていたものと思われる。「ボクの〜」が結果的には箸にも棒にもかからないアイドル映画に終ったのに比べ、本編はいまだにDVD化希望の声が絶えない「幻の名作」の地位を得ているようだ。ちなみにDVD化がかなわない理由は、劇中に「アメリカン・グラフィティ」風に使われている、数々の洋楽ヒット曲の権利関係がクリアできないためらしい。確かに、ビートルズからカーペンターズ、エルトン・ジョン、ビーチボーイズ、スリー・ドッグ・ナイト等々綺羅星のごときアーティストたちは、今では著作権管理が数社にまたがり、非常に高騰してしまっているので、当時のような(この時ですら、エンドロールに洋楽著作権関係の専従スタッフがクレジットされている)わけには行かないのだろう。
橋本 治による原作小説は、登場人物それぞれを主人公にした短編連作の形をとっていたのだが、本編はごく普通のスタイルの長編テレビ映画である。細かいところでは、いくつか原作と異なる点もあるが、劇中のエピソードは原作のみならず、何本かある続編小説からも適宜取入れており、全体として原作のもつ雰囲気をうまくドラマ化していた。これは、ロマンポルノ時代からタッグを組んでいた脚本家、斎藤 博の力も大きいのだろう。
原作を以前に読んでいたため、当初各キャラクターの微妙なイメージの違いが気になったが、極端な天然お嬢様キャラだったはずの醒井涼子(金子美香)が原作からかけ離れていたこと以外は、ストーリィの進展とともにどうでもよくなってしまった。ヒロイン榊原玲奈を演じた相築彰子は、どちらかといえば小柄な印象のあった(もちろんそんな描写はなかったと思うが、キャラ的に^^;)小説版玲奈と違って大柄でグラマラスな体形をしており、後にモデルとして活躍したそうだ(今でもときどきCM等に出演しているが、同一人物とは思えないほど「いい女」風になっている)個人的にはむしろ、友人の牧村久美を演じた黒沢ひろみの方が玲奈っぽいイメージだったのだが、このドラマに限っていえばやはり玲奈は相築彰子、久美は黒沢ひろみで正解だと思う。
瓜売り小僧=木川田源一を演じた米山善吉と、無花果少年=磯村 薫を演じた松田洋治はいずれも好演で、特に、当時としては画期的だった、ホモ相手に売りをやってる高校生役を、説得力あふれるキャラ造形で演じきった米山善吉には感心した。現在もゴジラ映画やVシネマにときどき出演しているようだが、もっと活躍の舞台を与えるべき役者だと思う。また、なにかというと屁理屈をこねては自己満足に浸るキャラ、大西唯史を演じた豊原巧補が、現在まで続くふられ役者ナンバー・ワンへの記念すべき第一歩を記していたのも忘れられない。・・・
始まり方はいかにも都市伝説を扱った風の雰囲気で、ちょっと「リング」を思わせるところがあるが、ひとつ決定的な違いがある。終始、自然光だけで撮影したうす暗い画面と、わざとらしいSEで怖さを演出しようとしていたようだが、とにかく怖くないのだ。ホラー映画のジャンルでこれほど怖さを感じさせてくれない作品は初めてだ。
監督の黒沢氏は劇中の論理的整合性などどうでもいいようで、とにかく脈絡のないお話というしかない。物語の主人公は二人いて、観葉植物のデリバリーを行っている小さな会社に勤めるミチ(麻生久美子)と、大学生の川島(加藤晴彦)の二人を軸に、ストーリィは交互に展開する。どちらの周囲にも次々に異常な事態が巻き起こり、友人たちが自殺したりあるいは消滅したりして(セメント工場らしき建物からの飛び降り自殺シーンなど、ワンカットのインパクトはかなりのものだが)次第に世界それ自体が崩壊を始める。話の発端はインターネットだが、ストーリイの展開とともにほとんど忘れ去られてしまう。このあたりも、約束事に最後までこだわった「リング」とは違うところだ。異変の原因については大学院生吉崎(武田真治)が語る、あの世とこの世をつなぐ「回路」についての話が唯一のそれらしき説明だが(あの世にも一種のキャパがあって、限界に達した死者の魂が「回路」を通じて現世にあふれ出る、という発想はそれなりに面白い)これとてあまりに曖昧模糊としてしまいそうな物語にかろうじてわずかながらの整合性を与えているに過ぎず、異変の規模が大きくなるにつれそれもどうでもよくなってしまう。事態の収拾をはかるために最後まで努力する「リング」のキャラクターたちと違い、本編の登場人物は積極的に事態に関わろうという態度を最後まで見せない。たとえば世界を侵食する「回路」を破壊しようという努力は「一度形作られたらもう破壊できない」という吉崎のひとことで簡単に否定され、試すそぶりさえない。吉崎の後輩で、事件の発端から川島にパソコン関係の助言を与えていた春江(小雪)にしても、ある程度話が進むとひたすら逃げるだけの受動的キャラに成り下がってしまう。
世界の崩壊がかなり進んだところでようやくミチと川島は出会い、その後行動を共にする(といってもやっぱり逃げるだけ^^;)ことになるのだが、しばらく姿を消していた春江が突然姿を現したとき手にしていた拳銃ははたしてどこから手に入れたのか、封印された部屋はどういう理由で封印されていたのか、なぜ封印するのが赤いガムテープでなければならないのか、壁一面に書かれた「助けて」の意味するところはなんなのか、ときどき現れる黒いシルエットのような人物は何者か(肝心のこいつが全然怖くなかったのは黒沢の計算違いか?)そしてさらに、崩壊した町を捨てて海に逃げる二人はなぜボートのことを知っていたのか、特にミチが鍵のありかを知っていたのはどうしてか、さまざまな謎は累積されていくばかりでまったく種明かしはされない。ボートの鍵を捜すシーンで、まったく脈絡無く火を吹いたC-130輸送機が海の向こうから飛んできて、そのまま街中に墜落するのだが、絵としては大迫力なものの、その意味するところはほとんど判らなかった。判ることはただひとつ、CGに金かけたんだな、ということくらい^^;
何気なく始まったホラー話がやがて世界の滅亡にまで繋がる、という全体の構図はやはり「リング」に似ているが、終末感漂う雰囲気はむしろジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」シリーズに近い。そういえばゾンビも「怖い」というのとは微妙に違う映画だった。・・・
15世紀、フランスに実在した伝説的女傑ジャンヌ・ダルクを描いたカナダ製のテレビ映画。フランスを舞台にした話なのに登場人物全員が英語でしゃべっているのがなんとも気にかかる。特にこの物語の場合、フランスの国土が二分され、片方のブルゴーニュ派がイギリスと同盟しているためにパリがイギリスに占領されている、という歴史的背景があるわけだから、反ブルゴーニュ派であるジャンヌたちが英語でしゃべっているのにはかなり強烈な違和感がある(史実では、当時のイギリス王室はフランス系の血を強く受け継いでおり、王室内の公用語はフランス語であったとされている。つまり、むしろ登場人物全員がフランス語でしゃべっていたほうがまだ自然というわけだ^^;)アメリカ映画ならともかく、フランス語も公用語な筈のカナダでも、英語で撮らなければならなかったのはやはりアメリカ市場を意識した結果なのだろうか。
物語は少女時代のジャンヌが初めて天使の声を聞くところから始まる。やがて17歳になったジャンヌ(リーリー・ソビエスキー)は、天使の言葉にしたがってシャルル7世のいるシノンへと向かう。シノンの地でのシャルル7世との(身代わりを見破る)エピソードや「ロレーヌの乙女」伝説など、映画はジャンヌ・ダルクの伝承をかなり忠実に描いている。考えてみれば彼女はフランス人にとって、イギリスのアーサー王伝説や日本の義経みたいな存在といっていいのだろう。したがってエピソードの大筋は踏み外すわけには行かないというわけだ。オルレアンの戦いで旗手を務めていた彼女が左肩を射ぬかれる場面など、有名なエピソードはもれなく盛り込まれている。絵作りはリアリティ重視というよりは絵画的雰囲気を重視したもので、戦闘シーンなど絵のような美しさではあるが、現実の中世の戦闘はあれより遥かに猥雑かつ残酷だったはずだ。まあ、テレビ映画という性格上、現実の戦闘のようなスプラッタ描写は不可能だったのだろうが。
ドラマ独自の新解釈は、なぜ彼女が自ら進んでブルゴーニュ軍の捕虜になるような行動を起こしたか、という謎について、少し前に戴冠して新国王となったシャルル7世の正当性を主張するためには自らを犠牲にし、民衆を国王の側につける必要性があったと解釈したあたりだろう。ここに登場するシャルル7世(ニール・パトリック・ハリス)は、ちゃめっ気とそれに裏腹ないかにも政治家らしい、食えないところのある複雑な人物として描かれているが、単純な善悪では判断できないキャラクターとしているあたりが、いかにも今のドラマである。
ジャンヌを当初から異端と決めつけて、最終的に彼女の命を奪う決定をするコーション司教にピーター・オトゥール、ブルゴーニュ派の頭目フィリップ公の母にシャーリー・マクレーン、ジャンの両親にジャクリーン・ビセットとパワーズ・ブース、その他にもマクシミリアン・シェルなど、往年の名優が多数顔を揃えているのも最近のテレビ映画としては珍しい。・・・
「ボウリング・フォー・コロンバイン」とはまた違った意味で「対象との距離」を考えさせてくれるドキュメンタリー映画である。マイケル・ムーアは「ボウリング〜」でドキュメンタリーという手法を「武器」として使ったが、本編でダナ・ブラウンはそれとはまったく逆のアプローチを採った。ひとことでいってしまえば、それはラブレターである。冒頭の言葉、「サーフィンはライフスタイルではない。ライフそのものである(字幕では「ライフ」が「人生」と訳されていたが、語っている当人はもっと広い意味で使っていると思い、あえて訳さないでおいた)」に象徴されるような人生を送るさまざまなサーファーたちの生き様を、映画は90分というさほど長くない上映時間のすべてを費やして映し出す。
もちろん、目を見張るような素晴らしいサーフシーンはふんだんに登場するが、陸地から100マイル沖にできる66フィートもの大波に挑戦する冒険者から、ベトナムのさざ波に戯れる子供たち、ミシガン湖の湖面に風によって立つ小さな波に乗って遊ぶ地元の人々など、およそサーフィンを愛する人たちすべてを平等に扱っているところに監督ダナ・ブラウンの姿勢をかいま見ることができる。それがもっとも顕著なのがアイルランドの子供たちにサーフィンを教える若者たちのエピソードだ。そこに住む人々は、わずか25キロしか離れていない北アイルランドの人々とは、宗教の違いからまったく触れあう機会が無いのだが、そんな北の子供たちも招待されて、ここでは地元っ子たちと一緒にサーフィンを楽しむことができるのだ。波は肌の色も宗教の違いも関係なく平等だからという、ごくまっとうな理屈なのだが、いまやオリンピックに至るまで政治と密着してしまっているスポーツの世界において、こうした例を見つけるのは難しくなってしまった。あらゆるスポーツの中でもっとも自然と向き合うことの多いサーフィンだけに、人間対人間という構図より人間対自然という構図の方がより重視されるのは当然だったのだろう。
欲を言えば、せっかくの素晴らしいサーフシーンも、結局のところどこかで見たような映像の羅列(ただし、クオリティそのものはこれまで観たどんなサーフィン映画より勝っていたと認めざるを得ないが)に堕してしまっていた印象が無きにしもあらずだったので、もう一捻りした絵(たとえばサーファーの視点から見た一人称映像とか)を見せて欲しかったのと、インタビューシーンにあまり芸が無く、冒頭から終りまでバストショットに終始してしまったのが残念だった。いつも面と向かってではなくても面白い話を聞くことはできたと思うのだが。・・・
失業中の夫と小さな二人の娘を抱え、夜間清掃員として働く23歳のアンは、ある日倒れて病院に担ぎ込まれる。当初、家族を呼ぶかと尋ねられたアンは、たまたま職にありついた夫が初仕事に出かけていたこともあり、自ら告知を受けることになった。そこで下された診断は、末期ガンであと2〜3カ月の命というあまりに残酷なものだった。しばらくしてショックから立ち直ったアンは、とりあえずやっておくべきことを箇条書きにしてみるのだが・・・。
箇条書きの中には、「夫と娘に毎日愛してると言うこと」などという当たり前のことから、「髪形を変え、付け爪を付ける」などという些細なこと、「娘たちが18歳になるまで、毎年誕生日のメッセージを届ける」という協力者がいなくては不可能なこと、「服役中の父に面会に行く」という特殊な事情があるもの、さらに「一人の男性を誘惑し、自分のとりこにすること」などといういかにも女性監督らしいものまでが盛り込まれており、本編はこれらをひとつひとつ実現していくアンの姿を淡々と綴っていく。
主人公が自らの死期を知り、それまでのあいだに何かを成し遂げるという話は昔からいろいろ作られており、不治の病で余命の限られた大富豪が世界を股にかけた大冒険をする、といった設定のテレビシリーズまであった。そうした荒唐無稽なものに比べればリアリティのある話ではあるが、10カ条の「したいこと」は呆れるほど次々と実現してしまい(「男性を誘惑すること」なんて、メモを書いていたまさにその時に見初められていたりする^^;)リアルというよりは一人称描写のファンタジー作品という雰囲気が漂う。ただし、アンの幻視する世界はちゃんとそれと判るよう表現されており(スーパーの店内で踊る客たちとか)描写それ自体は徹底してリアルであるが。
邦題はなかなか凝ったものだとは思うが、オリジナル・タイトル“My Life without Me”(私のいない私の人生)のニュアンスを十分伝えているとは言えない。この映画はつまるところ、死を宣告された女性が「私のいない私の人生」のために何ができるのかをせいいっぱい試す話、とでもいえばいいのだろうか。描写は淡々としているが、たとえば「娘たちが18歳になるまで、毎年誕生日のメッセージを届ける」ために、各年齢の娘たちに向かってメッセージを録音するシーンなどでは、やはり観客は涙するのだろう。テーマがテーマだけに、観客もヒロインを自分や家族に置き換えて観てしまうだろうし、そうした狙いがないとまでは言えまい。むしろ、ただ単に「お涙頂戴」だけの作品にしなかったところに監督のホンネはあったのかもしれない。
ところで、アンの母親役で登場していた金髪の女性、ひょっとしたらと思って観ていたのだが、エンド・クレジットでやはりデボラ・ハリーだと判った。80年代、ブロンディのリードボーカルで活躍していたころはセックス・シンボルとまで言われたものだが、すでに孫のいるおばあちゃん役の年齢になっていたのだなあ(;o;)・・・
前回の放映を見逃しているので、「 お宝返却大作戦!!」以来、実に3年ぶりの観賞となる。冒頭のエピソードで珍しくルパン一味は大金をせしめるのだが、ずっと観て行くと実はそれがルパンの話している犯罪プランの映像化に過ぎないことが判ってくる。お話の途中でオンザロックの氷が溶けてしまっていることに気づき、深夜スーパーまで買いに出かけたルパンが、偶然出会った一人の娘を暴漢一味から救うのが物語の発端。やがて話は世界最大のダイヤモンドをめぐる争奪戦に移っていくのだが、次元のもと戦友が登場したりして、キャラクターに膨らみを持たせようという工夫はみられた。
しかし、お話の展開は例によってご都合主義が見えすぎるし、「ネオコン」「民間警備会社」などという最近の時事用語を使ってみても、消化しきれていないので浮きまくったまま終ってしまった。次元を縛る「傭兵の契約」も結果的にはあっけなく破られてチャラだし、この程度のシナリオに「シナリオ監修」などという役職まであったのは驚きだ。もし僕が監修したなら、書き直しを命じるのは数ヶ所では収まりそうもない。少なくとも、ルパンVS次元のくだりはもっとねちっこく、たぶん次元をラスボス扱いにして最後のクライマックスに持って来るだろう。そうしなければわざわざルパンと次元を敵対させる意味はない。
スペシャルということで、さすがにキャラデザインや作画にはそこそこ気を使っていたようだが、やはりルパン一家とゲストキャラとの違和感は大きく、同じ作品世界の住人に見えないのは前回同様だ。また、登場するメカ類の描写がデザインから動画に至るまで、とても現代の作品とは思えないほどプアーだったのも気にかかった。登場するヘリコプターなど、あまりにいい加減なデザインに60年代のアニメのテイストを感じてしまったほどだ(当時はとにかく短時間に描けなければならなかったので、えらく線を省略した、のっぺりしたデザインのヘリコプターがよく登場したものだ)自動車、飛行機、コンピューターなど登場するメカの描写は、この手の話ではリアリティの一翼を担う大切なガジェットだと思うのだが、とてもメカニック作監がいたとは信じられない出来だった。まさに給料泥棒の典型みたいな仕事ぶり、というしかない^^;・・・
映画の設定はその昔、ジーン・シモンズ(もちろんKISSのジーン・シモンズとは別人^^;)主演で撮影された「青い珊瑚礁」(1980年にブルック・シールズ主演でリメイク)とまったく同じアイデアだし、筋立てそのものもあまりにご都合主義の目立つシロモノで、いくら映画の作り方が大きく転換した時期に作られた作品とは言っても、ちょっと酷すぎる。
それでも観てしまうのは、やはりこれがフィービー・ケイツのデビュー作だからにほかならない。基本的には取るに足らないアイドル映画だが、肝心なところは見せなかったブルック・シールズに対抗したのか、とにかくあまり必然性の無いところでさえよく脱いでくれる。おおいに目の保養にはなる映画だ(^_^)ゞ
残念ながらフィービーの勢いがよかったのもこの後の数本(「初体験/リッジモント・ハイ」や「プライベート・スクール」)くらいで、わずか5年後の「天使とデート」ではヒロインの座を滑り落ち、いぢめ役に回されている。やはりアイドルの寿命は短いのだ。・・・
80年代末のフランス製テレビシリーズ、「スカイナイツ」の続編に当たる作品。1時間枠の一話完結ドラマであった前シリーズと異なり、おそらく2時間枠(正味90分程度)のテレビスペシャルとして製作されたドラマのようだ。前作と一番大きな違いは主役のひとりタンギー大尉がクリスチャン・バディムから別の新人俳優( マルク・マウリー)に代わったことで、そのせいか今回は相棒のラベルデュール大尉(ティエリー・レドレール)がほとんど主役の物語となり、タンギーは事実上脇役の一人といっていい扱いだった。
冒頭、珍しく女の子から詰め寄られるラベルデュールの様子から物語は始まる。二人の仲はもう終った、と主張するラベルデュールだが、相手の女性アレキサンドラは納得しない。やがていい加減疲れたラベルデュールは外地への転勤を申し出、タンギーとラベルデュールのコンビは遠いアフリカのジブチ共和国へと赴任する。内地と違い、そこで待っていたのは熱帯仕様のミラージュF1であった。二人はさっそく新しい乗機に飛び乗って慣熟飛行訓練を始める(ミラージュF1の空撮シーンは前シリーズにもほとんど登場しなかったので、映像的には貴重)
ある日、訓練飛行中に国籍不明機を強制着陸させたラベルデュールたちは、その乗員にびっくりする。もと外人部隊の老パイロットが運んでいた乗客は、なんとラベルデュールがフランスに残してきたはずのアレキサンドラその人だったのだ。彼に呼ばれたからはるばる飛んできたのだ、と言い張るアレキサンドラだったが、ラベルデュールにはもちろんそんな憶えなど無く、手を尽くしてなんとか彼女を送り返そうとする。その数日後、対空ミサイル発射テストと時を同じくして、付近を飛行していた民間機が行方不明になる。実はその飛行機にはフランスに帰る途中のアレキサンドラが乗っており、どうやらラベルデュールが発射したミサイルが誤って命中し、撃墜してしまったらしいことが次第に判ってくる・・・。
アレキサンドラがフランスの大手兵器メーカーの社長令嬢だったり、彼女の乗っていた飛行機が実は不時着後に爆発したらしいことが判ったり、いろいろ小出しに話を盛り上げるテクニックは以前と同じだが、2時間枠だからなのかテンポがちょっとゆったりめで、タンギーとラベルデュールのコンビの持ち味もさほど出ていないため、もうひとつ面白みが足りない。また、誤射撃墜事件が実は謀略だと判明してからの展開はほとんど地上での話になり、せっかくのミラージュもせいぜい敵自動車の行く手を阻む程度の役割しか果たせなかった。まあ、このあたりは航空モノの限界みたいなもので、僕もどうやって地上の話と飛行機を絡めようかずいぶん苦労したものだが^^;・・・
過去の遺産を食いつぶす、典型的な続編映画のパターンを作ってしまったシリーズ代表作といっていいだろう。いちおう前作、前々作で主役を演じたプロディ元署長の息子マイク(デニス・クエイド)が主役である、ということと、なによりサメが主役のパニック映画である、程度の繋がりはあるものの、舞台も主人公の立場もほぼ無関係と言ってよく、イタリア辺りで二匹目のどぜうを狙って作られた亜流作品とほとんど変わらない程度のシロモノに成り果ててしまった。ラジー賞5部門ノミネートというだけでも、作品の出来がわかろうというものだ。
映画の売りはそうした内容よりも、3Dメガネをかけて観賞すると画面が飛びだして見えるという、アトラクション映画としての受けを狙った作品だったようだ。昔、筑波万博でもその種の実験映画がいくつか上映されていたが、確かに立体感はあるものの、基本的に映画のフレームに全部収まっているので、近くに見えるものほど小さく感じるというパラドックスを結局越えることが出来ず、大迫力というにはほど遠かった。
もちろんビデオやテレビ放映ではそうした特殊な技術を使えるわけもなく、ごく平凡なパニック映画として評価せざるを得ない。大ざっぱに言えば、透明アクリル樹脂製の海底トンネルが売り物の新しいシーワールドに、ある日巨大なホオジロザメが迷い込み、職員たちを食い殺したあげく、隔壁を破壊して客数十人が海底に閉じこめられてしまう、さあ、彼らをどうやって救出するか、といった話だが、時代的にまだサメをCGで描くこともできず、本物のサメを撮影したカットを除けば襲ってくるサメは見るからに作り物で興ざめもいいところだった^^;
ヒロインである海洋生物学者キャスリンをベス・アームストロング(どこかで聞いた名だな、と思ったら、トム・セレック主演の航空冒険映画「ハイ・ロード」のヒロイン、イヴ・トゥザーを演じていた人だった)が、マイクの弟ショーンの恋人で、サメに襲われる女性水上スキーヤーを若き日のリー・トンプソンが演じていたのがちょっと新鮮だったが、物語にまったく意外性がなく、シーワールドの社長ボシャール(ルイス・ゴセットJr.)のワンマンぶりなどあまりに紋切り型で、退屈としかいいようのない作品であった。
ラスト近く、サメがコントロールルームのアクリル隔壁を破って突入するシーンは、あまりにトクサツ見え見えでしらけることこの上ない。あるいは3D撮影で立体感の無さをごまかしていたのかもしれないが、少なくとも本物のサメが水槽のガラスを突き破って突っ込んできたようにはとても見えなかった。製作年度を見ると、同じ年にスターウォーズ旧三部作は完結していたわけだから、SFX技術の差は目を覆うばかりだ。また、この場面でウエットスーツを着ていなかった職員たちは全員ラストシーンには登場せず(社長はサメに食われるシーンがあるが、他の人たちは溺れ死んだのだろうか)生き残ったのは結局マイクとキャスリンの二人だけだったようなのだが、サメにやられたと思っていた二匹のイルカが水面から躍り上がると、なんとふたりとも大喜びするのだ。いましがたの仲間の死よりもイルカの無事がそんなに嬉しかったのだろうか??もしこのことに何の不自然さも感じないとしたら、アメリカ人のイルカ・クジラ族への偏愛は、もはや犬公方レベルだとしか言い様がない^^;・・・
僕は仕事がら航空映画をなるべく見逃さないようにしているのだが、本編に関してはまったくノーマークだった。いろいろ調べてみても、日本公開されたのか否かすら判らない。著名な映画批評サイトにもタイトルが登録されていないところを見ると、日本未公開に終った作品なのかもしれない(にしてはちゃんとした邦題がついているのが不思議だが^^;ちなみにオリジナルタイトルは“The Great Santini”)国内ではビデオすら発売されていないようだ。今回観賞したのは今からほぼ10年ほど前、テレビ朝日系列で深夜帯に放映されたバージョン。日本語字幕付きノーカット放映だったので、迷うことなく録画したまま忘れていた^^;今回昔のテープを発掘していて偶然発見し、HDDにダビングしつつ観賞した。なお、主演のロバート・デュバルは本編の演技で「地獄の黙示録」に続いてアカデミー賞にノミネートされている。
アメリカ海兵隊航空部隊に所属するブル・ミッチャム中佐(ロバート・デュバル)は昔気質の凄腕パイロットだが、長年家族と離れて海外赴任していたためか、子供たちともうひとつしっくり行かない。久しぶりに帰国した彼は子供たちを鍛えようと厳しく当たるのだが、それが理解されず長男のベン(マイケル・オキーフ)との溝は深まるばかり。所属するバスケットボールチームの試合でもベンのやる気は空回りして、相手チームの選手に怪我をさせてしまったりする。そんな彼の親友は、新しくミッチャム邸のメイドに雇われた黒人女性の一人息子、トゥーマー(スタン・ショウ)だった。ある日、レッドという若者の人種差別的ないたずらに業を煮やしたトゥーマーは、彼に人前で恥をかかせてしまい、それを根に持ったレッドは仲間を連れてトゥーマーの家に仕返しにやって来る。しかし、それを見越していたトゥーマーは、あらかじめちょっとした罠を張っていたのだった。そのことを知ったベンは、父の制止も聞かずにトゥーマーの元へ急ぐのだが・・・。
基本的には邦題が示す通り、親子関係がテーマの映画なのだが、ミッチャム中佐の人となりを表すためか空撮シーンも数ヶ所あり、空撮の神様クレイ・レイシーが撮影に当たっている。撮影にはアメリカ海兵隊のVMFA-333が協力しており、F-4Jファントムによる本格的な空戦訓練シーンが展開されている。もっとも映画の時代設定は1962年であり、その当時にはまだ海兵隊はファントムを装備していなかったはずなのだが^^;(もともとパット・コンロイによる原作ではミッチャムの乗機は単座機だったようで、複座のファントムにしては不自然な描写が目に付く)
とにかく頑固一徹な海兵隊中佐を演じたロバート・デュバルの好演に尽きる映画だ。凄腕でありながらもライバルである海軍パイロットに悪質ないたずらを仕掛けるちゃめっ気もあり、特にトイレで悪友と間違え若い下士官を襲って、危うく便器で溺れさせそうになったあとの言い訳が傑作(^_^)こうした人間的な部分と、子供たちの前で見せる厳しさの中に垣間見せる愛情が、ミッチャム中佐という人物を立体的に形作っていた。・・・
TBS系テレビで深夜にやっているショートショート風ホラー番組の劇場版。5分間番組というもっともテレビ的なスタイルを持つ原作を、なぜ畑違いの劇場用映画に仕立てたのか、その意図がまずわからない。単にフジの「世にも奇妙な物語」の線を狙ったのかもしれないが、もともとアンソロジー的形態を持っていたテレビ版「世にも〜」と違って、テレビ版「新耳袋」は5分間番組をただ数本まとめたような構成で、タモリのようなパーソナリティを置いているわけでもなく、一本の番組としてのまとまり感は希薄だ。ながら族的な視聴を前提とするテレビの場合はそれでもいいのだろうが、同様のスタイルで映画を作ってもお金を払って観に来る観客にアピールするとは思えない。
ひとつひとつのエピソードはさすがにテレビ版よりは少々長く、演出も多少は凝っていたが、正直言ってさほど怖くはなかった。怪談はおおまかに分けて日本風のじらし型と西洋風のショッカー型とに分けられるが、じらし型で盛り上げるにはちょっと時間が足りなかったのか、おおむねショッカー型でびっくりさせて(白塗りお化けメイクで「わっ!!」と^^;)ごまかそう、というスタイルの作品が多かった。ただ、そのやり方があまりに定石通りでこちらに心の準備ができてしまうのが最大の欠点だ。
「世にも〜」でも、たいてい物語を締めくくる作品はしっとり型の人情噺系が多いのだが、本編のトリを飾る「ヒサオ」もそれまでのショッカー一辺倒とは違う傾向の作品で、ヒサオの母親役烏丸せつこがほぼ独り芝居で頑張っていた。しかしこれもかなり無理矢理な展開の目立つ話で、途中に入るテレビニュースなどわざとらしすぎてしらける。このあたりをもう少し捻れば、全体を締めくくる佳作として評価されたかもしれないが。・・・
ノルウェーの高校教師、ヨースタイン・ゴルデルが書いた「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」(邦訳はNHK出版・刊)の映画化作品。分厚い原作本をわずか2時間足らずの映画に仕上げたためか、哲学史に登場する人物をちりばめたファンタジー映画という仕上がりになってしまった。原作自体が若い読者への哲学入門書という形態をとっているのだが、本編はさらにその原作への入門編という狙いなのだろうか。原作で主人公ソフィーに送られて来る本が、映画ではビデオになっていたりして、映像化への工夫は見てとれるのだが、これも判りやすさが増したというよりは、作品のファンタジー的な雰囲気を強める結果にしかならなかったようだ。
ヒロインのソフィー・アムンセン(シルエ・ストルスティン)はノルウェーのとある町に暮らす平凡な少女。まもなく15歳の誕生日を迎えるという日に、彼女宛に不思議な手紙が届く。封筒の中には一言、「あなたは誰?」と書かれた紙片が入っていた。その翌日、今度は「世界はどこから来たの?」という問いかけの手紙が続き、さらに大きなむく犬が彼女の元を訪れ、小包みを置いていく。中に入っていたビデオテープを見ると、映っていたのは紀元前のギリシャで、不思議な中年男アルベルト (トーマス・ボン・ブロムセン)が直接ソフィーに語りかけるかたちで当時の大哲学者、プラトンやソクラテスについて説明していく。ビデオの中の人物と会話できるなど、当初は夢だと思っていたソフィーも、現実世界で再びアルベルトに出会い(なんと、むく犬はアルベルト本人の変身した姿だった!!)やがて世界の秘密を解き明かす時空の旅に出かける・・・。
ソフィーとアルベルトが訪れる時代それぞれのセットはなかなか凝っていて説得力があるし、登場人物がその時代、その国の言語でしゃべっている(たとえばソクラテスはラテン語で、シェイクスピアは英語で)あたりはこの種の映画としては珍しい(なにしろ↓の映画ですら、ポーランド人が英語でしゃべっているありさまだ)が、それでもリアルというにはほど遠く、やはり人物は書割りの一部にしか見えない。作品世界に没入する時間を自分で決められる小説と違い、映画ではきっちり何分何秒と決められてしまうだけに、並列していくつもの時代が描かれると、どうしてもそれぞれの配分は少なめになってしまう。したがって、観終ったあとの感想は総花的なものにしかならず、本編でもそうした印象からは逃れられなかった。
映画の後半、世界をめぐる、というよりソフィー自身の重大な秘密が明らかになるのだが、どうもこのあたりの描写は曖昧模糊としすぎていて、もうひとつ「自分自身の身に起こっている」という切実さが感じられない。その傾向は終盤に行くにしたがって強くなり、ファンタジーというしかないエンディングにつなかっていく。全体に、映像の美しさには非常に気を使っているものの、肝心の作品のテーマがもうひとつ掘り下げきれていない印象が残ってしまった。端から原作本の内容すべてを描くのではなく、単に入門するためのとっかかりであればいい、という姿勢が見えてしまうところがこの作品の限界かもしれない。・・・
自身ユダヤ系ポーランド人で、ナチス強制収容所から生還した経験のあるポランスキーが、初めて撮影した母国ポーランドの戦時中の物語である。主人公は実在のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)で、本編はその著書をもとにして作られた伝記映画といってもいい。
物語はワルシャワの放送局のスタジオで、主人公シュピルマンがピアノを演奏しているシーンから始まる。演奏は突然始まった砲撃によって妨げられ、ワルシャワ市民はいやおうなく戦争の渦中に巻き込まれる。ポーランドはナチスの支配下に入り、ユダヤ人は強制的にゲットーに押し込まれる。何気ない通りの真ん中に白線が引かれ、その線の上に瞬く間に壁が築かれてしまうシーンはなかなか象徴的だ。やがて人々はゲットーから列車に乗せられて二度と戻れない旅へと送りだされる。シュピルマンの家族もまた列車に乗る列に並ばせられるが、ユダヤ人警察にいた友人のおかげで彼ひとりだけ列からはじき出され、とりあえずゲットーに残ることを許される。厳しい強制労働で何度となく死の危険に見舞われるシュピルマンだったが、その都度辛くも命拾いし、やがて自由だった時代の仕事仲間の妹ドロータをたよってゲットーから脱出、その後、終戦にまで及ぶ逃亡生活が始まるのだった・・・。
戦争という極限状況に於て、芸術家のありようは二通りしかない。戦意高揚の手段としてその才能を利用されるか、あるいはまったく無用の存在として無視されるかだ。ピアニストという職業は、ほとんどの場合後者の立場をとるしかない。まさかピアノを背負って慰問に歩くわけにも行かないし、ピアノ曲それ自体、勇ましいものよりは繊細な曲想のものが圧倒的だからだ。本編におけるシュピルマンも、その演奏シーンは平和だった時代と、戦後になってピアニストとして復活してからのふたつに大別される。唯一、戦時中にドイツ軍将校の前で弾くシーンがあるが、このシーンこそが淡々としたこの映画にあって最大のクライマックスシーンであろう。
映画の終盤、廃虚を渡り歩いて倉庫の隅などに残っていた食料を漁り、かろうじて命をつないでいたシュピルマンだが、ある日無理矢理缶詰めを開けようとして立ててしまった音を聞きつけられ、ドイツ軍将校に発見されてしまう。そのドイツ軍将校は彼を誰何し、職業がピアニストと知ってたまたまそこにあったピアノを弾かせる。演奏が終ったあと将校は何事もなかったように立ち去り、翌日からその将校本人が食料を届けに来るようになる。あまりにドラマチックな展開なので、当初はライターがフィクションを織り交ぜているのではないかと思ったのだが、生前シュピルマン本人に行われたインタビューによると、これは紛れもない事実であり、将校は常に敬語で話すとても紳士的な人物だったらしい。映画の終盤、捕虜になった将校がシュピルマンを名指しして「自分を助けてくれ」と懇願するシーンがあることから、シュピルマンを助けた行為自体を、敗戦を見越して「恩を売っておく」保身行動に過ぎなかったと見なす向きもあるようだが、それなら最初にシュピルマンを助けたとき、まず自分の名を名乗っていたはずだ。自分が誰かわからなければ、そもそも恩を売る意味がないからだ。しかし、数回シュピルマンを訪ねたその将校は、結局一度も名乗ることなく撤退していった。届けられた食料の中に缶切りが入っていたり、別れの際には自らが来ていた軍用コートを譲るなど(そのおかげでシュピルマンが危ない目に遭うシーンもお約束のように入っているが^^;)細かいところに気のつく優しい人物だったと思われる。救助を懇願するシーンはむしろ、彼の人間的弱さを表現していたのかもしれない。同じポーランド人でも、シュペルマンを救うと称してカンパした金を持ち逃げしてしまう人間もいるし、どんな組織に身を置いていても、結局は人それぞれなのだ、ということなのだろう。
ナチスドイツという絶対悪に立ち向かわず、とにかく自分を助けてくれる人を頼ってただ逃げ回るだけの主人公にカタルシスを感じられず、退屈なだけの映画だと思う人もあるいはいるかもしれない。しかし、主人公はランボーでもシュワちゃんでもないただのピアノ弾きである。彼にできることはきわめて限られている。人を騙さず裏切らず、なんとか終戦まで生き延びただけでも彼は立派な英雄なのだ。それが理解できない人にとっては、やはり長すぎる退屈な映画なのかもしれない。少なくとも、最初に登場する殺人シーン(向かい側の建物に乱入したドイツ兵が、車イスの老人を高い階から投げ落とす)でショックを受けた観客も、その後これでもかと登場する死体の山に麻痺してほとんど何も感じなくなるはずだ。この「何も感じない」という感覚こそ、ポランスキーがもっとも訴えたかったものかもしれないということだけは判って欲しい。・・・
残念ながら前作「アンブレイカブル」を未見なので、監督シャマランの作風の変遷を追うことはできないのだが、少なくとも本編が、相当におかしなポジションにある映画なのは確かなようだ。もと神父で今はペンシルバニアの片田舎でひっそり農夫をしているグラハム(メル・ギブソン)のトウモロコシ畑に、ある日突然ミステリーサークルが出現するところから物語は始まる。テレビニュースによるとミステリーサークルは世界各地に次々に出現し、またUFO目撃情報も激増、やがて人々は宇宙人の来襲が近いと確信し始める。グラハムもまた宇宙人の来襲に備え、窓に板を張ったり自宅の補強に努めるのだが・・・。
当初、「サイン」という意味あり気なタイトルは、宇宙人が記したと思われるミステリーサークルそのものを指していると思わせる演出なのだが、ドラマが進むうちに、実はそれとは別の「サイン」がグラハムとその家族のために用意されていたことが判るという展開。
観始めたときには、「シックス・センス」なみの大どんでん返しがどこかに隠されているのかな、と思っていたのだが、話が進んでいくとだんだんそんなことはどうでもよくなり、もはやバカ映画としか呼べないヘンテコな大団円へと突き進んでしまう(あの程度のことで取り戻せる「信仰」って一体^^;)未見の方のために詳しくは書けないが、要するにこの話、シャマラン版「宇宙戦争」と呼んでも差し支えあるまい。全世界的な災厄をいち家族が知りうる最小限の情報(テレビやラジオのニュースなど)のみに絞って観客に伝えるテクニックなど、まるで後にスピルバーグが参考にしたとしか思えない。なぜか水に弱いという大弱点を抱え、一夜明けてみるとあっさり敗退していた宇宙人の設定それ自身も、「宇宙戦争」の宇宙人のマヌケぶりとタメを張れる。タイツ丸見え宇宙人コスチュームのビンボー臭さは完全に負けてるけど^^;
それにしても、「ミステリーサークル」「信仰」という素材としては最高のネタを用意しながら、この程度のホラーSFしか撮れなかったシャラマン監督、「シックス・センス」はどうやらフロックでしかなかったようだ。・・・
HDD/DVDレコーダーは便利ではあるが、うっかりしているとすぐにHDDが大量の番組に埋め尽くされ、慌てて番組の消去やダビングを迫られることになる。仕事の資料に使う番組ならDVD-Rに焼いておいて、あとでじっくり観ればいいのだが、映画のように「保存するつもりはないけど、とりあえず録っておいてあとで観よう」など思っている番組はどんどんたまり、その一部は結局一度も観賞しないまま消去される運命を辿ることになってしまう。本編も危うくそうなるところだったが、たまたまあるビデオテープをHDDにダビングする必要があり、その時間デッキの前を離れられないので、ちょうど同じような尺の「レマゲン鉄橋」を観ることにしたというわけだ。録画しながらHDD内の別番組を観られるという、HDD/DVDレコーダーならではの技である。
さて、物語は第二次大戦末期の1945年3月、ドイツ国内に進軍を続ける連合軍と、それを阻止すべく絶望的な戦いを強いられたドイツ軍との攻防戦を描いている。ライン川に残された最後の橋、レマゲンのルーデンドルフ橋は撤退するドイツ軍兵士にとって最後の頼みの綱であったが、ヒトラーはそこを通って進軍してくるであろう連合軍を恐れ、即時爆破を命ずる。それに抵抗するブロック将軍は、密かに腹心の部下であるポール・クルーガー少佐(ロバート・ヴォーン)に出来るかぎりの橋の死守を命ずるのだった。もちろん連合軍が迫ってきたらただちに橋を落とせ、という条件付きではあったが。難しい任務を帯びて赴任したクルーガーだったが、現地に着いてみると約束されていた戦力はまったく当てにできず、結局わずかな数の将兵と、烏合の衆に近い民兵を率いて連合軍を迎え撃つことになる。
対する連合軍も、伸び切った戦線に兵士たちは疲弊し、一部の名誉欲に駆られた士官たちを除けば士気はどん底まで下がっていた。そんななか、敗走するドイツ軍を一網打尽にするために、レマゲン鉄橋の破壊を命じられたハートマン中尉(ジョージ・シーガル)の小隊は、途中に待ち受ける残存兵を退けながらようやくレマゲン鉄橋を見下ろす位置まで進撃する。わざわざ自分たちが手を下さなくても、ドイツ軍自ら橋を落としてくれるだろうと楽観していたハートマンだが、現地を視察した第9装甲師団長シナー准将(E・G・マーシャル)は急遽作戦を変更、ドイツ国内への侵攻を容易にするために橋の死守を小隊に命ずる。一方、これ以上橋を守ることは不可能だと悟ったクルーガーは、ようやく届いた大量の爆薬を橋に仕掛け、ついに爆破準備は完了するのだった・・・。
本編が撮られたのは1968年(日本公開は1970年)、当時としては新鮮だったのがアメリカ軍側の描き方である。ここには一昔前の「正義の軍隊」としてのアメリカ軍はいない。そこに登場するのは度重なる戦闘に疲弊し、厭戦気分が蔓延しつつあった兵士たちと、功名心に囚われて無理な作戦を命じる将官たちの醜い姿だ。一方のドイツ軍にしても、通り一遍の「悪役集団」ではなく、特にクルーガーはムチャな命令を下す軍上層部とほとんど壊滅状態の現地戦闘部隊との間で、中間管理職の悲哀を嫌というほど味わう役柄となっている。撮影時期はベトナム戦争が次第に激化していった頃と重なっているが、そうした世相がそれまでの戦争映画と一味違う雰囲気を醸し出す遠因になったのかもしれない。
そうはいっても本物の戦車を大量に動員し、本物の町並みを爆破して撮影された映像はかなりの迫力で、ミニチュア合成やCGにばかり頼ろうとする現代の戦争映画には出せないリアリティを映し出していた。・・・
今回のネタは義経=ジンギスカンの財宝を記した地図の争奪戦なのだが、そもそも義経=ジンギスカン説自体かなり眉唾であるうえに、彼が残した秘宝という二重にあやふやな存在をめぐる話である。前作で多少ステップアップしたかと思われた「シベ超」だが、今回はほとんど第1作と同じ水準に戻ってしまっている。あいかわらず佐伯大尉は閉まっているコンパートメントに入るために(車掌がそこにいるにも関わらず)走る列車の外に出て、壁伝いにとなりの窓へ飛び込むし、ラストの犯人捜しも山下大将(水野晴郎)の棒読み台詞ですべての謎を解き明かす、あいもかわらずのアームチェア・ディテクティブぶりである。前回では多少工夫の見られた殺人トリックも、今回はほとんど注意を払っていなかった。犯人は例によって例のごとくで(本編開始前にわざわざ「犯人について決して人に話さないで下さい」というテロップが入るが、まったく意外性のない展開なので、ほとんどテロップを入れる意味もなかった)最後には「決して戦争をしてはいけない」という強引な結論が待っている。この人(水野センセイ^^;)の頭には、「戦争はなぜ起こるのか」という発想はカケラもないらしい。
しょーもないトリックに代わって今回、監督がもっとも強調したかったのは、おそらくアクションシーンだったのだろう。あまり本筋に関係ない大陸浪人一味(佐藤充、ガッツ石松などけっこう豪華キャスト)との格闘シーンが延々続き、合気道四段の使い手でもある佐伯大尉の妹まで乱入しての乱痴気騒ぎ^^;佐伯大尉も、そしてラストでは山下大将までもが居合抜きの腕前を披露したりする。また、オートバイに乗った馬賊にロープをかけられ、列車の乗車口から吹き飛ばされた小次郎(片岡愛之助)がスーパーマンのごとく宙を飛び、なぜか万里の長城に落下して史上最大規模の「階段落ち」を行うという、ふざけているのかマジなのか判らない(マジとはとても考えられないが)場面もある。だいたい、オートバイ馬賊に襲われていたときには夜だったはずなのに、宙を飛んでいる間に真っ昼間になっていたりして支離滅裂もいいところ^^;
相変わらず冒頭でデ・パルマ張りの長回しを披露し(本編の前に入っている自らの解説によると、やはり水野監督、相当デ・パルマを意識していたようだ)車両の天井近くにカメラをセットして全体を俯瞰で撮るなど、それなりに絵作りには注意を払っていたようだが、今回はちょっと脚本がやわすぎた(;o;)
それにしても30年後の「大どんでん返し」全然わけわかめでした(;o;)誰か意味わかった人、教えて下さいm(_
_)m ・・・
かつて大映で作られた「妖怪大戦争(1968)」のリメイク作品。製作は角川だが、角川が大映を吸収合併した結果誕生した企画らしい。原作の舞台は江戸時代(?)だったのだが、本編は現代に翻案して、敵役に角川作品「帝都物語」の悪玉、加藤保憲(豊川悦司=悪くはなかったが、ここはやはり嶋田久作でなくては^^;)を迎えるという、いかにもなコラボレーション企画^^;
両親の離婚で東京から親の郷里のド田舎に引き取られたタダシ(神木隆之介)は、都会っ子という理由だけでいつもいじめられている、ちょっとひ弱な少年。そんなある日、彼は夏祭りで麒麟送子という「正義の使者」に選ばれてしまう。麒麟送子に選ばれた少年は町外れの大天狗山まで聖剣を取りに行かなければならない。臆病なタダシは途中で遭遇する妖怪たちに肝を潰し、一度は逃げ帰ってしまうのだが、救いを求めるじいちゃん(菅原文太)の声に勇気を振り絞って戻ってくる。それはタダシの勇気をためす、猩猩(近藤正臣)のテストだったのだ。合格したタダシはめでたく大天狗から聖剣を渡されるのだが、その直後に出現した加藤の手下、アギ(栗山千明)により大天狗はさらわれ、聖剣も折られてしまう。折れた聖剣を鍛え直すには妖怪一本だたらの力が必要だった。しかし、一本だたらは加藤によって囚われの身になっており、その救出のためにタダシ一行は敵地に乗り込む決意を固めるのだった・・・。
水木しげる先生はじめ、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきの4人からなるプロデュースチーム「怪」が68年の「妖怪大戦争」をリライトしただけのことはあり、基本的な妖怪像は「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するキャラクターそのままである(名前だけだが鬼太郎もちゃんと登場している)そして、言うまでもなく加藤保憲は荒俣宏の持ちキャラである。もっとも、現代に平将門を復活させようと画策した「帝都物語」版加藤保憲と違って、こちらは妖怪と機械を合体させた新兵器を導入したり、あげくに自分自身も彼らと合体しようとしたりして、どうやら強烈な征服願望の持ち主らしい(自らをその昔滅ぼされた先住民族の怨霊と定義しているのだが、その「先住民族」が何を意味していたのかは最後まで明らかにされなかった)
物語後半は、日本を手中に収めんとする加藤保憲の陰謀に対して、妖怪が力を合わせて戦いを挑む話になるかと思うのだが、本来争いごとの苦手な妖怪たちには結局タダシの説得も及ばず(参加しないための適当な言い訳がおもしろい)やむなくタダシ、猩猩、河童の川太郎(阿部サダヲ)そして川姫( 高橋真唯=あちこちのブログなどで「濡れた太もも!!」などと書かれていた意味がようやく判った^^;)だけで加藤の機械化軍団に挑むことになる。いっぽう、タダシたちの行動は口コミで全国の妖怪の知るところとなり、それを「祭り」と勘違いした妖怪たちは、大挙して戦場と化した東京へと押し寄せる。
しかし、あくまで妖怪たちは戦争の当事者ではなく、いわば傍観者といったスタンスであり、これで「妖怪大戦争」もないと思うし、ネタバレになるので詳しくは書けないが、まったくタダシが関与することなく加藤を倒すことになる「究極の存在」など、確かに意表はついているものの、いくら子供でもこうしたストーリィ上の破綻は気になるのではないか、と思った。タイアップなのか、雑誌記者佐田(宮迫博之)がキリンビールを一口飲むたびに妖怪が見えるあたりもちょっと興ざめ。いくら話の中に「麒麟」が登場するからって^^;・・・
フジテレビ製作、アルタミラピクチャーズ作品で矢口史靖のメガホンと来れば「ウォーターボーイズ」とまったくおんなじパターン、映画の内容も、主人公が男子高校生から女子高校生に、ネタが水泳から音楽に変わっただけである。いずれもイベントに使用できるアトラクションになりうるあたりにも、商売っ気がぷんぷん匂ってくる。
普通なら、ここまで企画先行だと肝心の作品は箸にも棒にもかからないものに成り下がってしまうものなのだが、それをなんとか観られる作品に仕上げてしまった監督、矢口史靖のプログラムピクチャー・ディレクターぶりは特筆すべきかもしれない。
ある東北地方の田舎町の高校で、野球の試合の応援に駆りだされたブラスバンド部の仕出し弁当が手違いで間に合わなかったため、たまたま補習中だった女生徒たちが届けることになるのだが、汽車を乗り過ごしたりして炎天下だらだら歩いて届けたためか、弁当を食べた部員たちは食中毒を起こしてしまう。ただひとり、女生徒の一人鈴木友子(上野樹里)が自分の分の弁当を食べてしまったおかげで無事だった中村拓雄(平岡祐太)は、部員たちが復帰するまでの間、女生徒たちが部員の代わりとしてブラスバンドをやることを思いつく。しかし、本格的なブラスバンドには人数が足りないため、同じ楽器を使うジャズのビッグバンドをやることに決まるのだが、気分が乗ってきたところで意外に早く部員たちは復帰し、鈴木たち補習組は中途半端な気持ちのまま練習を中断することになってしまう。音楽への情熱を諦めきれない彼女たちは、自前の楽器を手に入れるために努力を惜しまなかった・・・。
この後の展開はまさに王道のサクセスストーリィなのだが、監督の矢口氏はあまり「努力」という言葉が好きではないのか、あるいは単に作品が重くなることを避けたかったのか、当初とても聴けたものではなかった彼女たちの演奏は、「スウィング」という魔法の言葉ひとつでノリノリのジャズへと変貌してしまう。上達への過程がほとんど描かれなかったのは前作「ウォーターボーイズ」も同様だが、少なくともシンクロ演技の「見せ方」にはある程度試行錯誤の見られた前作に比べ、本編はほんとにまったく突如として「聴ける」音楽に変身してしまうのだ。
終盤、鈴木が大会参加申し込みを度忘れしていたり(それまでの間何度も応募の話題が出ているのだから、単なる「度忘れ」はあり得ないと思うのだが)参加資格が得られなかったのを仲間に言えないまま汽車に乗って会場に向かっていたら大雪で運行停止になってしまったりと、ちょっと不自然すぎる展開が目に付いたのは残念だったが、それを補って余りあるのがラストの演奏シーン。古くは「グレン・ミラー物語」「ベニィ・グッドマン物語」から新しくは「ブラス!」まで、この手の映画でもっとも肝心なのはやはり演奏シーンなのだと矢口監督は知り尽くしていたのだろう。「ウォーターボーイズ」のシンクロもそうだったが、今回のビッグバンド・ジャズも吹き替えなしの演奏で、クランクインのほぼ三ヶ月前から始まり二度の合宿を含む猛特訓の成果なのだそうだ。・・・
この種のテレビ映画としては、「フロム・ジ・アース」が何と言っても白眉だと思うが、BBCがメインとなってアメリカ・ロシア・ドイツの各局が協力・製作した本編も、それに負けず劣らず力の入った作品であった。
物語はドイツが敗色濃厚になった1945年春から始まる。その頃ドイツ北部のペーネミュンデでロケット兵器の開発をしていたヴェルナー・フォン・ブラウン(リチャード・ディレイン)は、迫り来るソビエト軍から逃れるために命令書を偽造し、研究資料を携えてアメリカ軍のいる南に向かって脱出を図る。途中、何度か危ない目に遭いながらも、どうにか彼はアメリカ軍に投降するのだが、アメリカで彼を待っていたのは元ナチス党員でSS隊員でもあったという自らの経歴に対する告発であった。
一方、すんでのところでブラウンをアメリカに奪われてしまったソビエトは、彼に代わるロケット技術者が急遽必要になった。その時白羽の矢が立ったのが、当時吹き荒れていた粛正の嵐によって収容所送りになっていたセルゲイ・コロリョフ(スティーブ・ニコルソン)だった。一見したところ対照的に見えるブラウンとコロリョフだが、二人には共通した大きな野望があった。それは宇宙への扉を開くこと、つまり、いつしか人間を宇宙へと送りだすことだった・・・。
われわれはごく単純に、有人ロケット開発はつまるところ大陸間弾道弾開発の副産物だったのだろう、程度に考えがちだが、本編を見るとそれはとんでもない間違いだということが判る。実のところ、ICBMを製造するのに必要な技術と有人宇宙ロケットを飛ばすのに必要な技術とは、底辺となる部分が共用できる程度でしかないのだ。最初、コロリョフが人工衛星の打ち上げを提案した際、軍がほとんど興味を示さなかったことでもそれがよく判る。しかしコロリョフは「偵察衛星」というアイデアを武器に食い下がり、結果的にフルシチョフ直々の許可を得ることに成功する。要するに、自らの夢のために軍すらも踏み台にしてしまったわけだ。一方のブラウンもまた、アメリカでの冷遇にもめげずちゃくちゃくと自らの衛星開発を続け、スプートニクに後れを取ること一カ月でエクスプローラー1の発射に成功する。
物語はその後、初の有人宇宙飛行をおこなったガガーリンや、アメリカ初の宇宙飛行(弾道飛行)をおこなったアラン・シェパード(映画「ライト・スタッフ」でバラされた「お漏らし事件」が今回も取り上げられたのはご愛嬌^^;)の飛行を経てアポロ計画へと繋がっていく。それぞれのエピソードは、当時の記録フィルムや高画質のCGを使ってきわめてリアルに描かれており、特に、バイコヌールの爆発事故などのシーンはソビエト当局によって撮影された実写フィルムが初公開されていた。ソビエト連邦が崩壊してようやく眼にすることができた映像だ。しかし、何より本編が製作された意義は、KGBによりその存在をひた隠しにされ(アメリカによる暗殺を恐れたと言われている)死後ようやく公表されたコロリョフの偉業を、ドラマという形で初めて本格的に紹介したことだろう。判官びいきかも知れないが、わりと自分本位な性格のように描かれていたブラウンに比べ、コロリョフはきわめて人間的な、魅力的な人物として描かれていたように思う。
少しだけ文句を言わせてもらうなら、これだけの内容を描くのにわずか4回のミニシリーズではいかにも時間が少なく(総計200分弱であり、「ロード・オブ・ザ・リング」一話分と大差ない)そのために、状況説明の多くをナレーションに頼るという愚を犯しているのは残念だ。もちろんドキュメンタリードラマという型式をとる以上、すべてをドラマで表現するのは無理だっただろうが、それにしてもちょっとアンバランスな気がした。ナレーションはドラマではどうしても盛り込めない背景説明など、最小限にすべきだっただろう。・・・
製作年度を見ると驚く。なんと、50年代の作品なのだ。そのわりにはストップモーションのモンスターとライブアクションとの合成も違和感なく完成されていて、ハリーハウゼンの魔術にはまさに目を見張るばかりだ。
さすがにお話は50年代のものらしく、あちこち矛盾に満ちていてちょっと苦しい。たとえば、最終的に主人公の敵として対立することになる悪の魔術師ソクラの扱いなど、あまりにご都合主義的というしかない。なぜ最初に出会ったとき、あっさりシンドバットの船に救われ、そのままバグダッドまで行ってしまったのだろう(まあ、島に戻してくれ、と訴えるシーンはあるのだが、自分の家もあそこにあるのだ、とあの時言えばあるいは帰してもらえたかも^^;)だいたいソクラの実力がもうひとつよく判らない。反乱を起こした船乗りたちにあっさりつかまってしまったり、偉そうなことを言うわりには自分では何もできず、魔術を使える以外はただの老人といってもさしつかえない。
一方のシンドバットも、パリサ姫がフィギュアなみの大きさに縮む呪いをかけられてしまったとき(オタ諸兄が小躍りしそうな設定である^^;)普通なら最初から信用していなかったソクラの仕業だと思うところなのだが(呪いを解くのにコロッサ島=最初にシンドバットたちと出会った島=にいるロック鳥の卵の殻が必要だ、というあたり、疑って当然だろう)物語が終るまで、姫の呪いが誰のせいなのか突き止めることはしなかった。あるいは薄々感づいていたのかもしれないが、そうならそれと判る描写は必要だったろう。
しかし、そうしたシナリオの欠陥を補ってあまりあるのが素晴らしい特撮シーンの数々である。何度も書くが、これが50年代に撮られたとはとても思えない完成度で、人間とサイクロップス、また人間と骸骨戦士との戦いを描ききっている。サイクロップスめがけて投げられた槍はちゃんと刺さるし、骸骨戦士とシンドバットは実際に剣を交えているとしか見えない。特に終盤、シンドバットによって解き放たれたドラゴンとサイクロップスが格闘するシーンは、モンスター好きなら誰もが夢見たシーンを実現した名場面と言っていい。子供時代にこうした作品に触れられた人は幸福だとつくづく思う。・・・
去年は1と2二本の連続放映で終ってしまったため、いつ3以降を観られるのかな、と内心こころ待ちにしていたのだが、日本テレビはやってくれました。今週と来週連続で3と5(4は舞台劇)を放映ケテーイ(^_^)/
さて、その内容だが、今回は60年前のシベリア超特急内で起きた殺人事件と、現代の豪華客船内で起きた殺人事件の謎を同時進行で解いていく、という趣向。1、2に比べると水野監督の演出技術もかなりスキルアップし、そこそこ楽しめる映画になっていた。もちろん、水野監督ならではの強引な演出、たとえば鍵の開かなくなったコンパートメントを調べるために、走る列車の外にロープを張って窓際までつたって行き、そこから室内を覗くなどムチャクチャな部分は相変わらず目立つし(どう考えたってあの場面は単に扉を破れば済むことだ)ミステリーとしてのトリックの作り方があまりに幼稚(豪華客船編の殺人事件の場面で、事件が起きてから慌てて鍵を取りに行き、ようやく帰ってきたボーイが室内に入るとデジタル時計が3時14分を指していた・・って、鍵を捜している間にどう考えても数分は経ってるはずだ。3時ちょっと過ぎ、というアバウトな表現ではなく、きっかり14分であることが必要な設定にしたので、かえって無理が出てしまった^^;またシベ超編で、平行するウクライナ行きの列車から殺人現場が目撃される、という設定=このシチュエーション自体はクリスティに敬意を表したのだろう=だが、午前3時過ぎに「たまたま」窓外を見ていて殺人を目撃する人がいることを、あらかじめ想定するなどあり得ない話だ)なのも相変わらずだが、少なくとも事件の起こる設定そのものや、犯人の動機など話の奥行きに以前より成長が見られる。また、実在した有名な女スパイ川島芳子を登場させ、キャラクターに幅を持たせる工夫も見られた。
前回、冒頭のデ・パルマ風長回しが好評を博したのか、今回の豪華客船に乗り込むシーンはそれをもしのぐ超長回しで、いったいどれくらいのNGが出たのかとても気になる。まあ、三田佳子や宇津井健といったベテランは大丈夫だろうが、ドクター中松あたりいろいろやらかしてくれたのではなかろうか^^;一方のシベ超編では前回のホテルという設定が不評だったのか、今回はまた本来の車内劇にもどっている。あいもかわらずグラスの中の水が微動だにしないなど、とても走る列車の中とは思えないのも前回と同じだが、セットにかける予算が潤沢になったのか、全体的にちょっとデラックスになった感じはした。肝心の水野御大、あいかわらず台詞は棒読みなのだが、これまた前二作と比べて遥かに説得力を感じさせるキャラクターに成長していて驚いた。褒めすぎかもしれないが、徐々に笠智衆的な風格を感じさせる芝居になってきているのだ。逆に言えば、前二作の学芸会っぽい雰囲気がやや薄れて「普通の」映画に近づいたともいえるのだが^^;
シベ超車内でのトリックに全精力を使い果たしたのか、豪華客船編は呆れるほどおざなりであり(解決編など皆無^^;)60年前のキャラクターが今誰になっているのかも最初から丸判りなので、ラストの三田と宇津井の熱演もやや上滑りしている感は免れないが、まあこんなあたりが日本映画の実力かもしれない。例によってエンドタイトルのあと、しつこく水野監督お得意の「大どんでん返し大会」となるのだが、マティニのくだりはいくらなんでもちょっとやり過ぎだろう。てゆーか、あの男があそこで殺されなければならない理由って^^;・・・
宮崎アニメ中一、二を争うお気に入り作品なのだが、考えてみるとこれまで一度もここに取り上げたことがなかった。このメモを書き始めてからのほぼ15年間に、少なくとも3〜4回は観ていたはずなのだが^^;テレビ観賞だったり、別の映画を観たあとの口直しだったりしたために、なかなか「ひとこと」書くチャンスがなかったようだ。
とにかく素晴らしい点を挙げたらきりがない。ほとんど全編お気に入りのシーンだらけだ。名台詞もいちいち挙げたらきりがなく、たとえば「夢だけど、夢じゃなかった」とか、口にしただけで涙腺が緩みそうだ。物語そのものはかなり単純な、子供が観ても十分理解できるものなのだが、描写にまったく無駄がなく、そのくせ一種のゆとりを感じさせる演出で、宮崎演出はこの時点で間違いなくその頂点を迎えていたと言っても過言ではあるまい。
この作品を語るうえでよく持ち出されるのが「ノスタルジー」という記号である。たしかに、登場するオート三輪や耕耘機を見ると、舞台になった時代が昭和30年代なのは間違いなさそうだが、実のところこの話のキーポイントは全然そこにはない。昭和30年代が舞台なのは、おそらく監督宮崎氏の心象風景がそのあたりを起点にしているからに過ぎず、現代を舞台にしても十分成立する話である。今はもうあんな田園風景などどこにも残っていない、とよく言われるが、そんなのは首都圏のごく限られた範囲でのみ言える話であって、東京都に隣接するここ埼玉にも似た風景はゴマンとあるし、デリケートな自然のバロメーターともいえる蝶の種類も30種類を楽々越える。過疎地などではむしろ、人間の作った環境が自然に飲み込まれようとしている例も多いくらいだ。
要は人々の自然を見る目なのである。自然などもう残っていないと思い込んでいる人の目には、そこに広がる大自然は映らない。しかし実際には、小さな庭の片隅にも大自然はしっかり根を下ろしているのだ。もちろん、まだ文明が存在しなかった大昔に比べれば、自然環境は大きく作り替えられたと思う。しかし、そうした大昔と昭和30年代との差に比べれば、昭和30年代と現代との差など「へ」みたいなものと言わざるを得ない。
さて、ではトトロとはいったい何なのだろう。作品中では単に「子供の頃にしか見えない」おばけと呼ばれている。それは自然の象徴ともとれるし、逆に子供の想像力そのものの具体化と考えられなくもない。重要なのはメイとさつきそれぞれの、トトロと初めて会った時に見せる態度の差である。メイは出会った瞬間から「大きな生きたぬいぐるみ」のようにトトロと接するのだが、さつきは夜のバス停で出会ったとき、明らかに一瞬おびえている。すでに学校という社会に足を踏み入れ、大人への階段を登り始めているさつきにくらべ、まだ就学年齢に達しておらず、家で過ごしているメイはそのぶん純粋に「子供」である。その差がトトロに対する微妙な差を生み出したのではなかろうか。
もし大人になってもトトロを見ることができたなら、おそらくその巨大な体と大きな口を見て「食われる」と判断し、一目散に逃げ出すことだろう。それが大人の判断というものである。しかしそうした「大人の判断」、つまり常識はえてして誤っていることが多い。狼少年の話(イソップのうそつき少年の話ではないほう^^;)は有名だから知っている人も多いと思うが、大人の常識では子供を食べてしまう狼は、実際には食べるどころか人間の子供を育てることが知られている。やはりトトロはそういう「優しい自然」を象徴した存在なのかもしれない。
初めて観たときには、おかあさんの退院やその後のエピソードをタイトルバックで簡単に処理していることについて、ちょっと不満を感じたものだが、今になってみるとやはり物語はエンドタイトル直前のシーンで完結しており、その後の余話はああした形で描くのがいちばんしっくり来るようだ。・・・
若きトム・クルーズが「卒業白書」に続いて高校生を演じた主演第二作。前作がわりと軽いタッチの青春コメディだったのに比べ、こちらはスポーツ奨学生制度を扱ったちょっと重めの話だが、いずれにしろ主演がトム・クルーズなのでさほど深刻ではなく、呆れるようなハッピー・エンドが待っていたりする。しかし、もともと小柄なトム・クルーズがよりによってアメリカン・フットボールの花形選手というのはいささか無理のある話で、作中でも身長172センチといっているが、それほど小さく見えないのは意識的に小柄な俳優ばかり選んでチームを組んだからか。
アメリカの小さな田舎町で、フットボールで身を立て、大学進学を夢見る高校生ステフ(トム・クルーズ)は、となり町の名門校との試合に敗れたことからコーチと衝突し、チームをクビになってしまう。卒業を控えてにわかに進路が見えなくなってしまったステフは焦るが、酔って同乗した車の連中がコーチ宅に落書きをし、その一味と間違えられて関係はこじれるばかり。みかねた恋人のリサ(リー・トンプソン)はコーチの妻に頼み込んで、なんとか二人の仲の修復を願うのだが、頑固者同士の二人はなかなかうまくいかず、結局ステフは進学をあきらめ、兄の働く鉄工所でアルバイトを始める・・・。
アメリカの青春ものでは避けて通れないセックス描写も、もちろんちゃんとある。最初のカーセックスではすんでのところでリサに拒まれてしまったステフだが、物語の終盤、すべてを失って進学をあきらめたステフを慰めるかのように、リサはわざわざステフの部屋を訪れて(ステディとしてけっこう親しげに見えた二人だが、実はリサがステフの部屋を訪れたのは初めてだったことが判る)彼と寝る。ストーリィの進行上ここまで必要だったのかとも思うが、わざわざ服を脱いでヌードを披露するシーンがあったのには驚いた。まあ、総じてここまで可も不可もない展開の映画だったので、ここらで眠くなってきた観客の目を覚ましてやろうと思ったのかも知れないが^^;
それにしてもアメリカ映画には、田舎町からなんとか脱出したいというテーマのものが多いような気がする(たとえば「遠い空の向こうに」なんかもそうだった)ビリー・ジョエルの作品にも「アレン・タウン」という同じようなテーマの曲があり、実在のアレン・タウンから抗議を受けたりしていたが、裏を返せばそれだけ切実な問題なのかもしれない。・・・
サメが主役のパニックムービーといえば、誰でも思い出すのはスピルバーグの「ジョーズ」だろう。しかも本編はそこに、遺伝子操作という同じスピルバーグの「ジュラシック・パーク」を髣髴させる設定を追加した。ここまでくれば、監督のレニーがどういう意図でこの映画を撮ったのかおのずと判ってくる。スピルバーグでおなじみの舞台装置を使って、俺ならこう料理するぞ、というレニー流のレシピを披露することこそが狙いに違いあるまい。
太平洋上に作られた人工の海洋研究施設「アクアティカ」では、アルツハイマー病の特効薬を作るためにサメの脳を研究していた。女性科学者スーザン(サフロン・バロウズ)は、早く多量の新薬を合成させるためにサメの脳を遺伝子操作して巨大化させることに成功するが、その結果としてサメたちは知性を獲得し、おりからの嵐とヘリコプターの墜落事故により、崩壊の危機に瀕した研究所内部に侵入して研究員たちを襲い始める・・・。
つるべ打ちの危機を演出する手腕はさすがにレニー・ハーリン。あまりヒット作に恵まれず、おかげで本編もかなり低予算で作らざるを得なかったのがキャスティングを見てもまる判りだが(製薬会社スポンサーのサミュエル・L・ジャクソン以外知ってる顔が皆無^^;)それを逆手にとったのか(大スターをキャスティングすると、往々にして作品内の扱いについて口を出される)「ここでそう来るか」と思うような大胆な展開を見せてくれる。この手のB級アクションでは、最後に誰が生き延びるのかだいたい予想がつくものなのだが、それを見越したかのような、意表をつくシナリオなのだ。
残念ながらCGによるサメの動きがややウソっぽいのと、水から離れていればまず安全(その常識を逆に利用しているシーンもあるが)という相手が魚ならではの弱点はあるが、それを差し引いてもなかなか頑張った映画だと思う。ただ、ラストで一匹生き残ったサメを断じて逃がしてはならない、と命を張ってまで阻止するヒロインの心理がもうひとつ伝わらなかった。もちろん、知性を持ったサメが外洋で繁殖し、万一その能力が子孫に遺伝してしまったら人類の危機なのだが、普通の観客にそこまで推測しろ、というのは無理だろう。やはりここは、「逃げたいやつは逃がしてしまえばいい」と鷹揚に構えるキャラクターを用意し、彼を説得する状況を作って、いかにそれが危険か観客にわからせる努力をしなくてはならなかったと思う。
それにしても、この内容なら十分「ジョーズ」シリーズの一本として通用したと思えるのだが、なぜユニバーサルで製作しなかったのだろう。別の映画でパート2の監督も経験しているレニーなのだから、シリーズものへの抵抗はあまりなかっただろうと思われるのだが。ま、シリーズ後期の質の低下を見れば、仕切り直しを選択した製作者の気持ちも判らないではないけどね^^;・・・
こんなの「スパイ大作戦」じゃない、とかスパイ映画ですらない、などなど散々な評判の映画だが、そんなことはあのジョン・ウーに演出を任せた時点で判っていたことで、むしろこうしたネタにおいても、自らの美学を堂々と貫くジョン・ウーの潔さにちょっと感動したくらいだ。なにしろスローモーションに二挺拳銃、そして飛び立つハトの群れと、今回もジョン・ウー印の映像満載である。
お話はわりとよくある細菌兵器もので、シナリオにはややご都合主義も目立ち(冒頭に登場する博士が、ワクチンは持ち出せたのに細菌本体を持ち出せなかったのはなぜか、など)要するにストーリィはアクションシーンという「おいしいお肉」をつなぐ「小麦粉」みたいなもの、と考えればいいのかもしれない。したがって、大筋はいい加減でもこまかい伏線にはけっこう凝っていたりする(たとえば敵のボス、アンブローズの腹心の部下スタンプの小指の怪我とか)
前回、チームリーダーのジム・フェルプス(ジョン・ボイド)を失ってしまったためか、今回はこのシリーズ初の「指令を発する存在」スワンベック(アンソニー・ホプキンス)が登場する。しかしこれではわざわざ接触を避けるためにややこしい連絡方法をとる意味がなく、単にメガネを爆発させる絵が欲しかったに過ぎないと思われても仕方がない。総じてジョン・ウーの演出は必然性にこだわるというより、その場その場でカッコいい「決め絵」をいかにして得るかに特化しているように思える。確かにそれも映画の大きな要素ではあるが、単にそれだけで終ってしまうと観終ったあと何も残らない、空虚な印象の映画になりかねない。そんなことは十分承知のジョン・ウー、それではこれでどうだ、と言わんばかりのしつこい物量作戦で来た。あれだけアクションのつるべ打ちで来られれば、それなりの満腹感は確かにあるものの、本来の「スパイ大作戦」はそうした方向性とは違うところに面白さがあったはずだ。とはいえ、こうした行き方もアクション映画としては立派に正解であると言えるとは思うが。
ただ、全編のうちでもっともはらはらするのが冒頭のフリークライミング・シーンというのはちょっと計算違いだったかも。もともとトム・クルーズの趣味であることから決まったようだが、いくらなんでも迫力がありすぎた。あれにくらべたら、ヘリコプターからのダイブもラストの肉弾戦も全然怖くない^^;・・・
ほぼ20年近く前、同じタイトル(Les Chevaliers Du Ciel)のテレビシリーズが存在し、日本でも「スカイナイツ」という邦題で何本かビデオリリースされていた。実は両作品ともジャン・ミシェル・シャルリエ原作のコミックの映像化作品なのである。テレビ版の「スカイナイツ」は、魅力的なキャラクター設定とハリウッド製作のドラマとは一味違う演出でけっこうお気に入りだったのだが、本編は正直言って期待したほどの作品にはならなかった。
冒頭、パリ航空ショーにおいて展示されていたミラージュ2000が一機、謎のパイロットにより強奪される。事件に気づいた空軍は、たまたま付近の空域で訓練中だったマルシェリ大尉と僚機のブロワ大尉にその捜索を命令する。やがて、彼らはエアバスのすぐ真下に貼りつくように隠れてレーダー探知を逃れていたミラージュ2000を発見、同行を求めるが反撃され、壮絶な空中戦のあげく撃墜してしまう。後日、事故調査委員会に呼ばれた二人は、ミラージュ強奪作戦が実は空軍特殊部隊による訓練であることを明かされるのだが、そのミラージュはブロワ大尉機を撃墜するために空対空ミサイルに火を入れており、事件の裏にはフランス空軍全体を巻き込む巨大な陰謀が隠されていた・・・。
フランスの現代航空映画は、「頭上の脅威」以来かなり凝った絵作りと、その都度開発してきた新技術でかなり見応えのあるものに育ってきたが、今回の作品もこと絵作りに関するかぎり、かつての航空映画がすべて霞んでしまうほど素晴らしい映像の連続となった。なかでも、増加燃料タンクを改造して、内部に5台もの35mmムービーカメラを仕込んだカメラポッドによる映像は特筆すべきもので、よく見るオンボードカメラとは違ったアングルからミラージュ2000の空中戦機動を見事に捉えていた。
ほとんどのシーンはCGによらず、実機を飛行させて撮影していたが、俳優が操縦しているシーンだけは地上で撮影した演技シーンと背景を合成していた。しかしそのテクニックがおそらく映画史上最高にリアルなもので、メイキングを見るまではてっきり俳優が複座型の機体に同乗し、実際に空中で演技していたと信じていたほどだ。種明かしをすると、俳優が乗って演技するコクピットのセットはクレーンの先端にモーターを介して固定されており、シチュエーションに応じて振り回されたりロール回転したりする。そのコクピットの後方はおわん状のグリーンスクリーンで包み込むように被われており、あとで実際に空撮した背景をそこに合成するわけだ。撮影は屋外で行われたためヘルメットやバイザーへの太陽の映り込みも自然で、実際にぐるぐる回転しているためバックルやベルトの先端などが重力に引かれて動きまわり、あたかも本当に空中戦機動しているように見える。まさにアイデア賞ものの特撮テクニックだ。
せっかくのこうした撮影テクニックが、シナリオに十分には生かせなかったのが残念なところだ。物語の設定が一見複雑そうに見えながら、結局のところ陰謀それ自体はかなり大ざっぱというか、なんだよそれ、といいたくなるような展開になってしまう。物語の中盤、マルシェリたちは某国の戦闘機調達計画が有利に展開するように、ライバルのアメリカ製F-16と「空のキャノンボール」をやることになるのだが、そのレース自体が陰謀の一部であり、主人公たちのミラージュは燃料不足のためアフリカ某国の人里離れた滑走路に着陸させられる。本来ならそこで不要になったパイロットたちはあっさり殺されるのが定石だと思うのだが、意味不明の用件のためマルシェリは複座型を操縦させられ、案の定ものの見事に相棒ブロワを乗せて脱出に成功してしまうのだ。設定の複雑さとそれに似会わないご都合主義とがないまぜになった、不思議な脚本である^^;
ラストの史上初めて許可されたというパリ市街上空での空中戦も、なんだか迫力不足のまま終ってしまったし(本当はこここそたっぷり時間をかけて描いて欲しかったところだ)全体に欲求不満のたまる映画だったというしかない。・・・
大ヒットした映画のリメイクは難しいものだが、本編はその事実を莫大な予算をかけてまたも証明してしまった。料理の仕方によっては、なかなかの作品になったかもしれない煌めきをところどころに残しているだけに、残念というしかない。
特技監督出身でアニメにもルーツを持つ樋口監督は、いかにも彼らしいアプローチでリメイクを挑んできた。プロの特技監督として、CG合成を駆使して前作より遥かに迫力あふれる絵作りを見せてくれた。部分部分を切り取れば、彼の描く天変地異の映像には現実もかくやと思わせるリアリティがあった。また、いかにもアニメキャラのような単純化したキャラ設定も、監督としては「アニメのように判りやすい」ラインを狙って演出したと思われる。しかし、彼には重大な計算違いがあった。「迫力がある」「リアルである」「判りやすい」ことと「説得力がある」こととは違うのだ。そう、この映画に欠けていたものは徹頭徹尾、説得力である。天変地異に逃げ惑う人たちにも、潜水艇パイロット小野寺(草なぎ剛)とハイパーレスキュー隊員玲子(柴崎コウ)の恋愛模様にも、彼らが置かれたギリギリの切迫感が微塵も感じられない。結局のところ全部が絵空事に見えてしまうのだ。
前回の映画化ではほぼ原作通りの順番に、まず日本列島の回りで起こる異変を徐々に描いてから田所博士(小林桂樹)の日本沈没理論が登場し、第二次関東大震災が起こって・・・という展開なのだが、今回映画はいきなり東海大地震の直後からはじまり、すでに日本は40年後には沈没することが判明している。田所博士(豊川悦司)は前作のマッドサイエンティストじみた設定から、40年かかるはずの異変が実は1年弱しかかからず完了してしまうことを発見するひとりの科学者に過ぎなくなっている。要するに、前作のじわじわ始まる沈没の予兆を思い切り端折って、すぐにスペクタクルシーンをご覧に入れよう、という演出なのだろうが、シーンそのものは確かによく出来てはいるものの、あまりにぶつ切りで感情移入する前にカットが切り替わってしまう。大噴火で火山弾が雨あられと降り注ぐ描写もあるにはあるのだが、そこにほとんど人の営みがみられないために、怖さが伝わってこない。特に、東京を大津波が襲い、渋谷や六本木のビルをなぎ倒すあたりは、映像そのものはリアリティ満点なものの、人っ子一人いない無人の町を壊滅させたところで誰もなんとも思わない。いくら避難指示が出されていたとしても逃げ遅れた人はいるだろうし、警備している人だっていただろう(六本木ヒルズあたり、まちがいなくいそうだ^^;)そういう人間の視点が皆無の、無人定点カメラ的映像だから切実感もないわけだ。
唯一怖さが伝わってきたのは、終盤において山道を避難していくもんじゃ焼き屋「ひょっとこ」の面々が、危うく大規模ながけ崩れに巻き込まれそうになる場面で(後ろにいた大勢の避難民が一瞬で土砂に飲み込まれる)その直後のアーチ橋が落ちる場面では、通りかかった人たちがこぼれ落ちるシーンが見事に合成されており、これまでそうしたシーンが皆無だっただけに迫力があった。しかし、偶然にも奇跡的に「ひょっとこ」のメンバーだけが助かり、これまた偶然にも(東京消防庁のレスキュー隊員であるはずの)玲子が自衛隊のレスキューヘリから彼らのところへ降下してくるあたりは、あまりのご都合主義ぶりにそれまでのリアリティもぶちこわしになってしまった。どうも樋口監督、ご都合主義とお約束とを取り違えているようだ。
その樋口監督が肝心のSFXシーンを端折ってまでも描きたかったのが小野寺と玲子の関係なのだろうが、時間をかけた割りには淡々としすぎており、ラスト近くの玲子の台詞「誰も好きにならないって決めたの」がまったく生きていない。そう言うにしては最初から制服を繕ってあげたりして「好き好きオーラ」全開モードだった。もし本当にそう決めていたのなら、小野寺に好意を抱いている自分の気持ちに素直に従うことはあり得ない。好意を抱けば抱くほど冷淡にふるまうほうが自然だ。それとも樋口監督、あまりにツンデレキャラにすると、いかにも流行りに乗ったかのように思われそうで嫌だったのかな^^;一方の小野寺も、ラスト寸前まで煮え切らないキャラとして描かれており、とにかく主役としての牽引力が足りない。みずから救助ヘリコプターに乗って「最後の一人まで」救出しようとした前回の小野寺(藤岡 弘)はちょっと熱すぎたが、それにしても今回の小野寺はクールすぎ、おかげでラストの決意がかなり唐突に見えてしまった。この二人がもう少しきちんと描かれていたなら、二人の絡みもスペクタクルと相乗効果を上げたのだろうが、結果的には小野寺の神出鬼没ぶり(短時間のうちに仙台の実家や被災地で救助活動している玲子のもとを訪れたりするのだが、すさまじい地殻変動のおかげで交通網が無事であるはずはなく、小野寺がどうやって移動したのかまったく謎だ)など、不自然さばかり目立つ展開になってしまった。草なぎも柴崎もいい演出家に当たればそれなりの演技を見せる実力派だけに、彼らの力を生かしきれなかった樋口監督の演出力は、まだまだというしかない。
もちろん、映画の基本的な骨格はシナリオであり、今回のキャラ設定の不備も監督よりシナリオライターに多くの責任があるのかもしれない。映画プログラムのメイキング・ノートによると、ディテールにこだわる監督は名もない脇キャラ設定にも気を配り、たとえば映画の序盤、40年後に日本が沈む、というレクチャーを受けたあと総理たち一行が目にする結婚式直後の新郎新婦は、その後避難民として空港のシーンに登場し、さらに映画の終盤、小野寺が道に並べられた遺体の列の間を歩いているとき出会った女性こそがひとり生き残った新婦なのだそうだ。しかし、どれもロングショットで顔まではわかりづらいし、最後のシーンでは顔が灰で黒く汚れ、人相の判別さえつかない状態だったので、上映された時点で気づいた人はまずいないと思われる(ところで小野寺と出会った女性は死んだ赤ん坊を抱いていたように見えたのだが、一年以内に日本が沈んでしまったら、とてもじゃないが子供を産む時間はなかったはず・・・あ、できちゃった結婚か^^;)いずれにしろ、観客に判別できないこだわりは無意味で、こんな端役に手間暇かけるなら、もうちょっと主人公カップルをきちんと描いて欲しかった。
原作とは大幅に違うラストは監督が映画化の途中で考えついたものらしい。そのせいか、どうしても取ってつけたような感じになってしまったのは否めない。思いっきりのネタバレなので具体的にどうなるかは書けないが、これは原作の思想性も何もかも否定してしまう暴挙で、よくこんな改変を原作者が許したものだ。なにしろ、タイトルに偽りあり、ということになってしまうわけだからね。起爆装置の設定にしても、むりやり潜航艇の出番(=小野寺の出番)を作ったようなもので、必然性がまったくない。てゆーか最後までどういう仕掛けで連鎖的な爆発が起こるのか理解できなかった。それにしてもN2爆薬とは、あまりにエヴァンゲリオン^^;やっぱり監督、アニメ世代なんだね。「戦国自衛隊1549」のナントカ電池にしろ「亡国のイージス」のテルミットプラスにしろ、今回のN2爆薬にしろ「核兵器なみの爆発力を持つ核兵器ではない爆発物」という設定が日本人は好きらしい。これがアメリカ映画だったら、まったく躊躇せずに核爆弾を使ってしまう(「アルマゲドン」とか)ところなのだが、やはり日本人の核アレルギー、まだまだ健在のようだ。・・・
体制を守る側にいた戦士が心変わりして正義の味方になる、というコンセプト自体はよくあるものだが、この映画最大の発明は「ガン・カタ」と称するガン・プレイとカンフー風の振り付けを融合したようなアクションだろう。このガン・カタという名称、どこか日本風な感じなので配給会社が勝手につけたものかと思ったのだが、あちらのファンサイトにもGun-kataとして載っており、どうやら公式な呼び名のようだ。
第三次世界大戦後の近未来、諸悪の根源は人間の感情にあるとして感情を抱くことが犯罪とされ、書物や絵画、音楽など娯楽の一切は禁止されていた。もしその禁を破ると、クラリックと呼ばれる特務警察官により厳しく取り締まられ、焼却刑に処される。クラリックのナンバーワンにしてガン・カタの使い手でもあるプレストン(クリスチャン・ベール)は、いつものように反逆者集団を全員射殺した後、相棒であるパートリッジ(ショーン・ビーン)のポケットに禁書であるイェーツの詩集を発見する。その時は気にも留めなかったが、偶然その本が証拠物件として提出されず、依然としてパートリッジの手の中にあることが露見する。パートリッジを訪ねたプレストンはもはや反逆者となってしまった彼の本心を告げられ、やむを得ずその場で処刑してしまう。その事件からしばらく経ったある日、プレストンは定期的な注射を義務づけられている精神安定剤プロジウムのビンを割ってしまい、やむをえず投与しないまま任務につくのだが、そのおかげでこれまで当然として見逃していたさまざまなことに気づき、次第に彼は人間性に目覚めていくのだった・・・。
お話はよくあるディストピアもので、これまでも散々使い古されたアイデアではあるのだが、ほとんどモノクロに近い色彩設計や、クリスチャン・ベールやショーン・ビーンなどヨーロッパの香りのする俳優を起用しているせいか、どことなくアメリカ映画ではないかのような雰囲気を漂わせている。特にベールは、冒頭のまったく感情を廃したガン・カタ・アクションから始まって徐々に人間らしさを取り戻していき、最後になって完全に悟りの境地に至り(ウソ発見器を使う、というアイデアは秀逸)再びまったく平静にガン・カタをこなす、というなかなか難しい役どころを的確に演じていた。ところどころ非常に印象的な演出(たとえば、窓に貼られたシートを破ると、外には雨上がりの素晴らしい夕景が広がっていたり、ほんの少ししか出番のなかった子供の使い方などなど)が生きていて、この監督、只者ではないかもしれないと思わせてくれる(ただ、手入れ直後のシーンでプレストンが両手袋を脱ぐシーンをアップで撮っているにも関わらず、その直後にまた手袋を脱ぐシーンがあったり、いろいろ凡ミスが目立つのが残念)
オチはネタバレになるので書かないが、まあだいたい予想通りだった。感情を廃するといいながら、支配階級が感情丸出しなのがB級たる所以かもしれない^^;
ところで、序盤の「ガン・カタとはいかなるものか」を説明するシーンに登場した、大勢の使い手たちはどうしてしまったのだろう。ラストでは彼らが登場してプレストンと対決するのかと思ったのだが、結局登場しないまま終ってしまった。・・・
この映画が作られたのは湾岸戦争の翌年で、実戦配備についたばかりのロッキードF-117Aがネタとして登場している。しかし、まだ実機の性格までが一般によく知られていたわけではなく、この映画でも超高性能戦闘機のように扱われていた。実際には、戦闘機とは名ばかりの攻撃機的性格の強い機体で、当時実戦配備されていた機体で一番近かったのは、アメリカ海軍のグラマンA-6イントルーダー攻撃機である。空軍版イントルーダーと言い切ってしまってもいいくらいだ。
ステルス戦闘機F-117Aのテストパイロット、クリス・ウィンフィールド大尉(アンドリュー・ディヴォフ)は、ヘルメットマウンテッド・ディスプレイを使ったテスト飛行中のトラブルで機体を失い、実験空域のあるトルコ(いささかムチャな設定だが、湾岸戦争当時、F-117Aの実戦部隊は本当にトルコのインサーリク空軍基地に派遣されていたのだ)からアメリカ本国に呼び戻される。たまたまアメリカに向かう空軍の大型輸送機C-5Aに同乗することになるが、その貨物室には巨大な物体が極秘裏に搭載されていた・・・って、話の流れから当然これもF-117Aであるわけだ^^;(普通ならフェリー、つまり実際に飛ばして運ぶところだが、機密性の高い機体の場合、こうした形で輸送することは実際あるらしい)
一方、謎の男フィリップス(ユルゲン・プロホノフ)が組織したテロリスト集団も時を同じくしてその輸送機を狙っていた。彼らは拷問によって給油機の極秘コードを聞きだし、それを使ってまんまと自分たちのニセ給油機と本物とをすり替えることに成功する。やがて、C-5Aとのランデブーに成功したニセ給油機からテロリストたちが潜入するわけだが、問題は飛行中の輸送機に人間を送り込む手段である。これが空中給油装置(フライング・ブームという)を改造したパイプを輸送機の機体天井部分に接続し、パイプを通ってそこに到達したテロリストが穴を開けて潜入する、という奇想天外なもの\(@o@)/テロリストが使用したのと同型機KC-10の空中給油装置を間近で見たことがあるが、人間どころか猫の子一匹送り込むのも難しそうな細さであり、相当大改造しないととても人は送り込めまい。同様の作戦は「エグゼクティブ・デシジョン」でもやっていたが(映画としてはこちらが先)あの映画ではさすがに人が通れそうなずぶといパイプを直接つないでいた。
まんまと潜入に成功したテロリスト一味は、瞬く間に輸送機をハイジャックしてしまうが、ひとり乗客として乗っていたウィンフィールド大尉の存在は彼らにとって計算違いだった。やがて異常に気づいたウィンフィールドは巨大輸送機C-5A機内を縦横に移動して、まさにダイハードな戦いを開始するのだった^^;そう、この映画の表向きのネタはF-117Aだが、実際にはC-5Aギャラクシーを舞台とした活劇であり、物語の90%ほどはこの輸送機の内部で展開する。最初に主人公が乗り込む場面などは実機を使用しており、格納庫内部もセットにしては異様にリアルだったので、あるいは退役した実機を借りて撮影したのかもしれない。
さて、すったもんだの末テロリストの親玉フィリップスはまんまとF-117Aを強奪し、お約束でそれを追ってウィンフィールドもF-117Aで飛び立つわけだが、実機にはない主翼折畳み機構なども設定して(そもそもそうでなければ飛行中のC-5Aから飛び立てない^^;)映像的にはなかなか面白かった。冒頭のテスト飛行シーンはロッキード社提供のプロモーションフィルムだったが、2機のF-117A同士がドッグファイトを繰り広げるクライマックスはさすがに実機を使えず、模型を使ったSFXであった。撮影時期からしてまだそれほどCGを使った映像は一般的ではなく、ほとんどは繰演かラジコンだと思われるが、それにしてはなかなかリアルに撮れていた。
お話はところどころ変なところもあるものの、この手のジャンルの作品としてはまあまあといったところか。しかし、プロホノフ以外の俳優にほとんど見覚えがなく、ヒロインにもさほど華がないために、全体的にきわめて地味な印象の映画に仕上がってしまった。リアル指向の映画ならそれもいいのだろうが、こうしたアクションものでは致命的である。また、プロホノフ率いるテロリスト集団にもうひとつ説得力がないところがこの脚本のもっとも弱いところで、どうやら金のために動いているらしいのだが、そのわりには部下たちの忠誠心がありすぎで不自然だ。やはりここは宗教的狂信者とか、政治的意図を持った組織でなければおかしかった。
ところで、このタイトル「インターセプター」(迎撃機)は原題そのままなのだが、F-117Aの性格とは正反対であり、まったく意味をなさない。給油機の極秘コードが「インターセプター」で始まる暗号なのだが、たったそれだけのことでタイトルにしてしまうのも安易すぎるし、製作者は一体何を考えてこんなタイトルに決めたのか、ちょっとした謎である。・・・
少し前、日本でもBSで放映されていたテレビアニメ「ガジェット警部」を、マシュー・ブロデリックを主演に迎えてディズニーが実写映画化した作品。瀕死の重傷を負った青年が肉体改造され、サイボーグ警官になる、という設定はそのまんま「ロボコップ」だが、あちらがダークな近未来を舞台にしたシリアスドラマだったのに比べ、本編は実にあっけらかんとしたコメディである。体中に仕込まれたさまざまなガジェットが飛び出す様は、「マスク」によく似たセンスでCG処理されている。いわば「マスク」的センスで描いた「ロボコップ」とも言えよう。
とある研究所の警備員をしているジャック(マシュー・ブロデリック)は、正義感は人一倍なものの、警察官採用試験に落ち続けているちょっとドジな好青年。ある日研究所を襲った悪の一味を追いかけるが、ダイナマイトを投げつけられ、瀕死の重傷を負ってしまう。実はその研究所で研究していたのはサイボーグ技術であり、ジャックの命を救うため、研究所の女性科学者ブレンダは彼の体にサイボーグ化手術を施す。数々の特殊技能を詰め込まれたジャックはサイボーグ警官として生まれ変わり、晴れて市警察に採用される。さっそく研究所を襲った犯人の捜査に乗り出そうとするのだが、署長は彼の能力を認めようとはせず、ジャックはもっぱら木に登って降りられなくなった子猫を、蛇腹のように伸びる腕を使って助けるような雑務を与えられるばかり。そんなとき、犯人が現場に残した遺留品から重大な手がかりをつかんだジャックは、ブレンダが彼のために作ってくれた人工頭脳搭載の愛車ガジェットモービル(ナイト2000をラッパーにしたような感じでしゃべる^^;)を駆って、敵の本拠地に乗り込むのだった・・・。
とにかく、体に詰め込まれたさまざまな特殊技能をなかなか使いこなせず、ドジばかり踏んでしまう前半部分が面白い。後半には悪のサイボーグ研究者クロウが繰り出す偽ジャック(ロボ・ガジェット)やロボ・ブレンダも登場したりして楽しませてくれる。
アニメでは、あまり頭の良くないガジェット警部を補佐して手柄をあげさせるために姪のペニーが大活躍するのだが、本編にも、アニメほど大活躍こそしないもののちゃんと登場している。彼女を演じたのが「ハリエットのスパイ大作戦」で主役のハリエットを演じたミシェル・トラクテンバーグ。あれから3年経っているので「ハリエット〜」当時よりやや大人びているが、まだまだ十分おしゃまな少女を演じられる歳だっただけに、それほど大活躍させられなかった脚本にはやや失望した。・・・
もと有名テレビキャスターで、発電所の火災を現場取材したときクルーを失ったショックで職を辞し、一年もの間引きこもっていたメリックは、三流新聞社に再就職する。初めて出社したその日、彼は資料室のコンピューター画面を眺めていて妙なことに気づく。タイタニック沈没事故、ヒンデンブルグ爆発事故など、過去の大事件を記録した写真の中に、明らかに同じ顔をした男が写り込んでいるのだ・・・。という発端からしてなかなか面白そうなタイムトラベルもののSF作品である。
事実関係を確かめるために、翌日彼はさっそくシカゴへ飛ぶが、なんとその飛行機には写真に写っていた例の男が同乗していた。その男は、タイタニックやヒンデンブルグの事故が載っているパンフレットを持っていた。そのパンフレットには、今まさに彼が乗っている便も載っていた。パンフレットの記述によると、その旅客機はわずか数分後に空中衝突して墜落し、乗客乗員は全員死ぬ運命だったのだ。男ともみ合いになったメリックは、彼のバッグから拳銃を奪い、操縦室に乱入してどうにか空中衝突を回避させる。とりあえずハイジャックの罪で逮捕されたメリックだが、FBI捜査官はどうも腑に落ちない。いちおう警察署に拘留して周辺捜査を始めるのだが、そうする間に全身黒づくめの男女二人組が現れ、メリックを拉致して連れ去ってしまう。パンフレットを持っていた男はいったい何者なのか、そして、メリックを連れ去った二人組の正体は・・・?
なにしろタイムスリップものなので、ストーリィそのものについて語ること自体ネタバレの危険性が大きく、今回はあまり書けないのだが、要するに歴史へ干渉することの危険性と、にもかかわらず干渉せざるを得ない人間性の相克について考察するシナリオと言えるだろう。まさに、タイムパラドックス自体がこの作品のテーマなのだ。あっと驚く大どんでん返しなども用意されており、この種のテーマの作品としてはなかなか頑張っていたように思う。
主人公メリック役はキャスパー・ヴァン・ディーン、ちょっと小振りなドルフ・ラングレンといった感じのアクションスターで、バンホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」でデビューをかざっている。その後、ティム・バートンの「スリーピー・ホロウ」に出演したくらいであとはもっぱらTVムービーを活躍の場にしているようだ。また、ビデオ出演のみではあるが、敵の総元締め的な立場であのマーティン・シーンも登場している。・・・
残念ながらポール・ギャリコによる原作を未読なので、どの程度忠実な映画化なのかは判らないが、牧師と神とのかかわり合いに関する物語というと、どうしても思い出すのは同じアーウィン・アレン製作の「地球の危機」である。災厄の規模こそ違うが、生命の危険が及んだとき人はそれを「神の意志」として受け入れるのか、それとも最後の瞬間まで生存への努力をすべきなのか、という命題を両作品とも突っ込んだ形で考察している。バン・アレン帯が炎上し、全世界的規模の終末が迫ったとき、人類はそれを神の意志として受け入れるべきなのか、それとも持てる科学力のすべてを駆使して事態の収束を計るべきなのか、というのが「地球の危機」のメインテーマであり、一方の「ポセイドン・アドベンチャー」は、あまりに型破りな説教ですべての権限を剥奪されてしまったスコット牧師(ジーン・ハックマン)が、次々に立ちはだかる難関をすべて神の試練と捉え、神に向かって時に罵声を吐きながらも勇敢に立ち向かい、自らの命も省みずにその強固な信念で仲間を導いていく物語である。そのあまりの頑固さに、しぶしぶ付いてきたロゴ刑事(アーネスト・ボーグナイン)とはしょっちゅう衝突し、取っ組み合いの喧嘩までするのだが、結局、彼に従わなかった者たちのなかに生存者はいなかった(はずなのだが、後に作られた「ポセイドン・アドベンチャー2」には彼ら以外の生存者もゴロゴロ出てくる^^;)
物語そのものは危機また危機のまさにアドベンチャー・ストーリィだが、むしろ危機そのものよりも、いくつもある分岐点でどういう判断をするかに物語のポイントはある。危機に向かい合ったとき、スコット牧師は持ち前のリーダーシップで人々を率いるのだが、そのつど彼とは違った判断を下す人々が登場する。最初は転覆した船のパーティー会場で、その場で救助隊を待つか、自力で少しでも救出の可能性の高い船尾のプロペラシャフト基部まで行くか、という判断だが、大多数はここに残って救助を待とう、という船の事務長の言葉に従い、その結果大規模な浸水に襲われ命を落とす。また、船内を船尾に向かって進んでいるとき、一群の集団が船首を目指しているのとすれ違うのだが、ここでも船尾に向かうか船首に向かうかの判断を下さなければならない。船首は水中だと主張するスコットに、ロゴはそんなの行って確かめてみなくては判らない、と反論する。あくまでも船尾にこだわるスコットは、 ひとり機関室を通って船尾に抜けるルートを探しに行くのだが・・・。
この種の群像劇を書く場合のセオリーとして、必ず不協和音を奏でるメンバーを一人入れるものなのだが、本編では珍しくそうした人物は登場しない。一見したところロゴ刑事がそれに相当するキャラクターのようだが、彼はむしろスコットの強引さをたしなめる、他のメンバーを代表するような存在でしかなく、実は妻を深く愛する善良な男である。それ以外のキャラクターたちにも誰一人いわゆる悪人はおらず、この種の映画のキャスティングには珍しいタイプかもしれない。おそらくここには原作者ギャリコの持ち味が大きく反映しているのだろう(ほかのギャリコ作品はけっこう沢山読んでいるのだが、悪役らしい悪役の登場する話は皆無であった)
あまり目立たないところで有名な俳優を使っているのもこの映画の特徴だ。転覆直後、足を怪我していながらもクリスマスツリーを固定し、スコット牧師一行をのぼらせて冒険の旅へといざなう青年エイカーズにロディ・マクドウォール(猿の惑星)、津波の襲来であっけなく命を落としてしまうポセイドン号の船長にレスリー・ニールセン(裸の銃を持つ男)などなど、なかなかのオールスターキャストなのだ。
この映画で特に見るべきものといえば、やはりすべてが天地逆になったセットの美術だろう。ロビン少年が迷い込むトイレなど、なかなかシュールな映像だった(が、テレビのトリミング画像だともうひとつ魅力が伝わらなかった)しかし、本来天井となる部分を歩いているにしては、配管や配線などがもうすこしゴチャゴチャしていてもよかったような気がする。また、照明は非常灯も含めてすべて天井かそこに近い位置に付いていたはずなので、ライティングは足元からでないとおかしい(これを忠実にやるだけでも、もっと逆さま感は出せたと思う)それから、はしごのように上下の差があまりないものはいいが、階段だと裏側をのぼるわけだから出入り口はすべて反対側になるはずで、そんなに簡単には移動できないはずだ。このあたりにあまりこだわらなかったのは、もちろん上映時間の関係もあるのだろうが、おかげで「すべて天地逆である」という事実がそれほど強烈に伝わらなかったのは残念だ。・・・
昔、「ニュースステーション」でスポーツキャスターみたいなことをやっていたくらいしか知らなかった真中 瞳が、なんと女優として初主演した映画なのだが、なにしろずぶの素人がいきなりの主演抜擢だし、どうせ昔のアイドル映画みたいな乗りの映画なんだろうな、と観る前までは思っていた。
とある広告代理店でコピーライターをやっていた相葉志乃(真中)は、上司との不倫がバレ、大阪支社に飛ばされる。本来クリエイティブ部門だったはずの部署も、まったく未経験の営業に回されてしまい、心身ともにボロボロになってしまう。そんな彼女をそれとなく慰めるのが、同じときに途中入社した前野悦朗(堺 雅人)というちょっとお調子者の青年だった・・・。こう書くと、いかにもこの二人をめぐるラブストーリィとして展開していきそうなのだが、すんなりとそんな展開にはならないのがこの映画のユニークなところ。実際、ある程度仕事を任される年齢(設定では26歳)になると、自らの仕事への評価はおそらく恋愛より大きな要素になりうるだろう。前野は口癖の「ま、ええんとちゃいますか」を絶妙のタイミングで発しつつ、自らを見失いそうになっている相葉を癒していく。しかしその一方、実は前野自身もある重大な問題を抱えていたのだった。
こう書いてしまうと身も蓋もない感じだが、映画は大阪独特の雰囲気をうまく醸し出しつつ(おもちゃ会社の社長=島木譲二=と前野との阪急ブレーブス身売り話など、関東人にはほとんど判らない世界^^;)会社と相葉とのかかわり、相葉と前野とのかかわりを丁寧に描いていく。プラネタリウム、蛙の置物、当たり舟券、そして辺り一面の雪の原などなど、イメージの使い方は岩井俊二作品ほど技巧的ではないが、雰囲気は結構似た感じだ(岩井作品のプロデューサーを勤めたこともある監督なので、当然かもしれないが)ただ、全体的にややゆったりしたテンポの話なので、映画のペースに体質があわないと眠くなったりする可能性はある。
主演の真中は思ったより自然な感じでヒロイン相葉を演じていた。喜怒哀楽の少ないキャラクターなので一見簡単そうだが、そんなキャラだからこそ、たまに見せる屈託のない笑顔を魅力的に見せなければならず、前野に「笑った顔初めて見た」と言われたシーンでは、まさにそんな感じを観客に与えることに成功していたと思う。真中はもともと生粋の大阪人で、「ニュースステーション」でも元気娘の地を見せていたし、この映画から3年後、主演したNHKドラマ「恋セヨ乙女」では見事なコメディエンヌぶりを発揮していた。
相手役の前野を演じた堺 雅人もやはりこの作品から3年後、同じNHKの大河ドラマ「新撰組!」で大ブレイクするわけだが、当時からキラリと光る演技をする人だったのだな。・・・
こうしたタイムスリップものに必ずついて回るのがタイムパラドックスの問題だ。ロバート・ゼメキスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作ではそこを逆手にとって物語の核にしていたが、本編のオリジナル原作(変な表現だが、本編には福井晴敏氏によって映画用に書き下ろされた別の原作があるのでこう表現させていただく)を書いた半村良氏はそんなことにはあまり興味が無かったらしく、「歴史の復元力」というアイデアを武器に、ほとんどやりたい放題に自衛官を動かしていた。まあ、そんなお約束でも作らないかぎり、現代人が過去に遡って殺戮を行う話など作れっこないのだが。
しかるに本編ではその「歴史の復元力」を万能とは設定していないらしく、2年前タイムスリップして戦国時代に飛ばされた自衛官たちの歴史への干渉により(って、あれだけの人数で戦国時代に行って、たった2年の間にあそこまでの覇権を得るのは、いかに近代兵器を装備した軍隊でも難しいだろう^^;)現代日本のあちこちに「ボール」と呼ばれるブラックホールのような領域が出現してしまう。それを是正するために、もと自衛官でタイムスリップした部隊の指揮官、的場一佐(鹿賀丈史)のかつての部下だった鹿島(江口洋介)をオブザーバーに加えた部隊が「オペレーション・ロメオ」の作戦名のもと、ふたたび戦国時代に送られる・・・というのが今回の話。一見すると新しいようだが、実は25年も前に作られた最初の「戦国自衛隊」も、自衛隊員たちが戦国武将になり代わって天下を取ろうとする一派(伊庭三尉=千葉真一)と、彼らから離反した一派(矢野一士=渡瀬恒彦)に別れて戦う羽目になるという設定が中盤にあり、本質的にはそれほど大きく変わっていない。
自衛隊が協力しなかった前作ではその代わりに好き勝手なシナリオを作れたが、今回は陸上自衛隊全面協力のもとに作られた作品であるだけに、軽装甲機動車や96式装輪装甲車、AH-1S攻撃ヘリ、OH-1観測ヘリなど本物が数多く登場し(ほとんどはただ「出ていた」だけだったが^^;)そうした意味では前作よりリアルになってはいた。しかし、自衛隊協力の代償として「自衛官のあり方」みたいなお堅い話が前面に出てしまったおかげで、やや歯切れの悪い展開になったのは残念だ。もっとも台詞をよく聞いていると、自衛隊が戦国時代人に対して出来るだけ殺傷しないように気を配っているのは、そうした専守防衛のタテマエ論よりも、みずからがタイムパラドックスの拡大を防ぐために訪れたにも関わらず、もしここで人殺しをすればますます「親殺しのパラドックス」を生んでしまう可能性が高まるかららしいのだが(当時から現代までの450年ほどの間に、大ざっぱに計算して20〜30世代ほどの世代交代があり、当時には現代人一人当たり100万人〜10億人のご先祖さまがいた計算になる。もちろん重複や世代のずれもあるので、100万はともかく10億もの大人数が戦国時代の日本にいたわけではないが。いずれにしろ、これくらい昔になると一人の足軽でもその係累が現代では数万にも及ぶ可能性はある。もしそうした人物を殺してしまえば、現代では一挙に数万の人たちが消滅することもあり得るわけだ)あまりそうした方向に深く突っ込まない脚本だったので、ほとんどの人は気づかなかったようだ。
全体的に見ると、部分的に頑張っているところは散見されるものの、結果的には↓のような評価しか下せなかった。その原因は、結局のところ脚本のまずさと演出力の弱さに尽きる。特に脚本のまずさは、映画用原作を書いた福井晴敏氏にその多くが起因しているように思う。福井氏、よほど首都圏壊滅というイメージがお好きなのか、昨年映画化された他の二本(「ローレライ」「亡国のイージス」)同様に、今回もまた信長になり代わった的場一佐が、核爆弾なみの破壊力を持つナントカ電池(?)を富士山麓地中深くのマグマ溜りに放り込み、大噴火を誘発して関東地方の壊滅を狙うのだが、なぜそうしなければならないのかまったく判らない。福井氏には福井氏なりの必然性のある設定なのかもしれないが、少なくとも映画を観る限りでは、単なる子供だましのクライマックス設定としか見えなかった。タイムスリップすることで起爆装置を止めてしまう、という展開も、そもそもそれほど強大な電磁波のもとで、脆弱な電子機器を多数装備している筈のヒューイ・ヘリコプターが何事も無く飛んでいられる等々、あまりのご都合主義に失笑を禁じえなかった。一方の演出に関して言えば、もともとゴジラ映画出身の手塚監督が初めて撮ったゴジラの登場しない映画なのだが、どうもゴジラ映画の大味な演出がそのまま出てしまったようだ。特に爆発や破壊のシーンなど、必然性の感じられないただ派手なだけの破壊の連続で、リアリティのかけらもなかったのは残念だ。ゴジラ映画の中での爆発なら、これでも十分OKだったのだろうが^^;・・・
この映画で唯一残念な点は、劇中で話される言語である。フランス政府の閣僚たちも警察官も、右翼のテロリストOASのメンバーたちも、全員フランス人なのに英語でしゃべっている。すべてフランス国内で完結する話ならそれもいいが、主人公ジャッカルは世界を股にかけて行動し、イギリスやイタリアなどフランス語圏でないところにも出没しているわけだから、やはりリアリティのためにはその国ではその言語で話して欲しかった。製作国アメリカでは字幕という手法があまり一般的でなく、外国語映画のほとんどが吹き替えで公開されるお国柄なので仕方なかったのだろうが。
そうしたささいな点を除けば、このジャンルの映画としてはまさにマスターピース級の仕上がりといっていいだろう。冒頭からラストシーンまで一貫して押さえたドキュメンタリー・タッチの演出で統一しており、プロの殺し屋対プロの警官といういわば職人と職人との対立関係を、まったく枝葉を廃したドラマとして成立させている監督の手腕は称賛されてしかるべきだろう。
配役もまた素晴らしい。ジャッカルを演じたエドワード・フォックスはこれ以前にも「空軍大戦略」などさまざまな映画に出演してはいたが、正直言ってそれほど印象に残る役ではなかった。しかし今回のジャッカル役は、まったく彼以外考えられないほどの適役で、フォーサイスの原作のイメージにもピッタリである。そして、彼を追いつめることになるルベル刑事を演じたミシェル・ロンダールもまた、いかにもたたき上げの刑事らしい実直さをうまく表現していた。
実はこの映画も20数年前の公開直後に一度観ているのだが、さすがに名作は印象に強く残るものだなあというのが実感である。なにしろほとんどのシーンをきちんと憶えていて、次にどんなシーンが来るのかちゃんと予想できるのだ。数年前に観たのならいざ知らず、四半世紀も前に観てこれほど鮮明に記憶しているというのは、それだけで傑作の資格が十分あると思う。
分厚いフォーサイスの原作をわずか2時間20分の映画に仕上げなければならないのだから、ある部分を省略したり(たとえばジャッカルが傷痍軍人になりすます際、どうやって顔色を悪くしたのか等)全体的にやや端折った印象になったのは仕方ないが、それでもこの完成度に仕上げた手腕は何度称賛してもしすぎということはないだろう。・・・
↓の「少林サッカー」ときわめて近いセンスの映画で、どちらも同じ2001年に公開されているので、どちらがどちらに影響された、ということもないのだろうが(双方とも「マトリックス」に大きく影響されているのは確かだろう)こうしたいかにも「少年ジャンプ」的な乗りの映画が、本家本元の日本でほとんど作られないのが不思議といえば不思議だ。まあ、昭和の頃にいくつか試みられた作品はみな失敗しているし、なにより日本には世界に誇るアニメ産業があるので、わざわざ実写映画にする必要がなかったのだろう。
お話の設定は、問題児の少年がたらい回しにされたあげく、吹きだまりのような高校にやってきてまた一悶着、といういわば定番もの。主人公キム・ギョンス(チャン・ヒョク)が髪形、髪の色から風貌までロンブー亮にそっくりで、いつ淳が出てくるんだろう、なん思わず期待してしまった^^;ギョンスは本来喧嘩嫌いで、できれば静かに暮らしたいと思っているのだが、その雰囲気が自然と暴力を呼んでしまうのか、事件に巻き込まれては退学になり、転校せざるを得なくなる、というのもまたお約束だ。タイトルの「火山高」はそのギョンスが9回目に転校してきた高校で、例によってここでもナンバーワンの座をめぐって生徒同士の闘争が行われており、当然のことのように彼も巻き込まれてしまう。
冒頭から「マトリックス」ばりのワイヤーアクションやCGワークてんこ盛り。全体的にアクションは香港映画のそれを模しているのだが、ワイヤーのおかげでいちいち派手にはなっているものの、格闘そのものの技術は本場に遠く及ばない。特に剣道部の女の子たちの切れの悪さは致命的で、いくらワイヤーのおかげで超人的な跳躍力を得ても、振り下ろす剣の動きの鈍さはいかんともしがたかった。シナリオもちょっと意味不明だったり無駄な描写が目に付く。たとえば、最初ギョンスの相手をした現ナンバーワンの部長が、途中からよくわからない理由で囚われの身になっており、結局最後まで出てこないし、物語の縦軸になっているはずのナンバーワン争いが、校長や教頭をも巻き込んだ秘伝の書「師備忘録」争奪戦に絡んでいつの間にか曖昧になり、さらに「学園正常化」のために送り込まれた(?)超能力気功教師集団(なのか?)の登場によって話はさらにわけが判らなくなってしまう。最終的にこの集団の首領マー先生(三白眼が白竜そっくり)とギョンスとが一対一の超能力対決をするのがクライマックスなのだが、この集団の目的がよくわからないので戦いの意味も伝わってこず、単に見せ場を作るためのみの対決シーンとしか思えない。それまでナンバーワンの座をめぐって対立していた乱暴者チャン・リャンがギョンスに加勢して男気を見せるところなど、お約束はきちんと守っているのだが、そもそも肝心の筋立てがよく判らないのでそれほど効果的ではなかった。
かなりの危険を伴うワイヤーアクションを惜しげも無く取入れ、CGにもそれなりのお金と手間がかかっていると思われるだけに、肝心な脚本の不出来は残念だ。・・・
サッカーと少林寺拳法を結びつけた娯楽映画を着想したことで、ほぼ成功は決まったといえる映画である。もちろん両者は本質的に違うものなのだが、話をなんでもありのコメディ仕立てにしたことで、どんなにバカバカしい技もそれなりの説得力があるように見えてしまう。また、人間離れした少林寺拳法の技そのものも、巧みなワイヤーアクション+CGという「マトリックス」譲りの手法で表現し、香港風カンフーアクションには慣れっこの映画マニアたちをも驚愕させた。
われわれ日本人が観ると、この映画が一番影響を受けた作品は島本和彦の一連のお笑い系熱血マンガに思えるのだが、ひょっとしたら、むしろずっと昔の超人野球マンガ「アストロ球団」にそのルーツがあるのかもしれない。野球という球技に格闘技系のさまざまな技を取入れ、常人にはとても不可能なプレイを見せてくれるあたり、非常によく似ていた(原作発表から実に33年後の2005年、くだんの「アストロ球団」そのものもテレビドラマ化されたが、おそらく「少林サッカー」の成功に影響されたものと思われる)
「アストロ球団」が基本的に滝沢馬琴の「里見八犬伝」を下敷きにしており、まず八犬士ならぬ9人のアストロ超人を探すところから始まるのに比べ、少林寺チームは兄弟弟子をメンバーにすることでやすやすと人集めしてしまう。まあ、上映時間の限られた映画でぐずぐず人捜ししている余裕はないし、ふんだんに特殊効果が盛り込まれた対戦シーンをより多く見せるためにも、ドラマに時間を割くわけには行かなかったのだろう。
とはいえ、お話がおざなりかというとけしてそんなこともなく、たとえば本編のヒロインとなる饅頭屋の娘ムイ(ヴィッキー・チャオ)の扱いなどなかなか見事だ。冒頭、饅頭作りに超人的なカンフー技を見せるのだが、それがすぐ本筋に関わってくるわけではなく、主人公シン(チャウ・シンチー)に次第に心を開いていく過程を意外にじっくり見せる。そしてそれらすべてがあっと驚くラストへの伏線になっている、という仕掛けだ。どんなに見せ場の演出が派手でも、話がつまらなければ観客を感動させることはできない。観客が本編に興奮し感動した理由は、コメディという衣をかぶってあり得ないシーンに説得力を持たせてしまうという着想にももちろんあるが、そうしたシーンをガッチリ支えることができた脚本と、その魅力を十二分に引き出した演出によるところも大きいだろう。・・・
オーソン・ウェルズの処女作にして代表作でもある「市民ケーン」が、いかにして作られたかを物語る、実録物というか内幕物というか、本編はそんな性格の映画である。主人公チャールズ・フォスター・ケーンが当時のマスコミ界の大立者、ウィリアム・ハースト(ジェームズ・クロムウェル)をモデルに造形された人物であるということはいまや周知の事実であるが、本編は映画製作の現実を描くというよりは(本編のオリジナル・タイトルのRKO281とは「市民ケーン」に製作会社RKOがつけた製作ナンバーである)むしろその周辺の人々との葛藤を描いた映画というべきだろう。
ラジオ番組「宇宙戦争」で全米に大パニックを引き起こし、その才能を認められたオーソン・ウェルズ(リーブ・シュレイバー)はハリウッドに呼ばれ、「宇宙戦争」の映画化を打診される。しかし、ラジオのヒットにあやかろうとするスタジオ側の魂胆を見通していたウェルズはそれを認めず、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」(後にコッポラが「地獄の黙示録」のプロットに使った。また、↓の「キング・コング」のなかで密航者から船員になった少年が愛読していたのも「闇の奥」だった。あちらではかなり有名な作品なのだろう)の映画化を主張するが、さまざまな困難のために挫折し、たまたま招かれていた新聞王ウィリアム・ハースト邸でハースト本人と論争になったのをきっかけに(実際にはこうした史実はなく、ウェルズはハーストと一面識もなかったらしい)彼をモデルとした現代の帝王についての映画を思いつく・・・。
ウェルズを演じたシュレイバーは強烈な個性を放つウェルズを演じるにはやや役不足*で、もう少し映画に対してファナティックでないとそれらしく見えない。彼を陰日向から補佐する脚本家のマンキーウィッツを演じたジョン・マルコビッチがいい芝居をしているだけに、「輝かない」ウェルズにはちょっとがっかりした。また、映画製作の実体についても、いい構図を得るためにスタジオの床をぶち抜いて穴を掘り、そのなかにカメラを入れてしまうという有名なエピソードを取り上げてはいるものの、総じて駆け足でスケール感に乏しかった。似たようなキャラクターの持ち主であるハワード・ヒューズを描いた「アビエイター」にくらべ、まるでテレビ映画のように「薄っぺらい」印象なのである(実際アメリカではテレビ映画として公開されたのだが^^;)脚本を書いたジョン・ローガンはこの次回作に、本編の製作者にも名を連ねていたリドリー・スコットの「グラディエーター」を選び、翌年アカデミー作品賞を得ることになる。両者の間のすごい落差はとても同一人物が書いたホンとは思えないのだが・・・。
「市民ケーン」の項でも書いた通り、僕はこのウェルズの処女作をたいした名作だとは認めるものの、才気が画面からほとばしり出過ぎてややうっとうしく、あまり好きな作品ではない。ひとことで言えば気負い過ぎなのだが、撮影当時弱冠25歳であったウェルズにしてみれば、全精力を注ぎ込む以外に映画の作り方を知らなかったのだろう。この一本で彼は燃え尽きてしまったのか、後に撮られた作品にはたいした名作もなく、むしろ性格俳優として頭角を現していくことになる。一方、肴にされてしまったハーストにとってみればとばっちりには違いないが、そのおかげでハーストのひととなりがある程度後世に伝えられたのも確かであり、功罪相半ばする、といったところだろうか。少なくとも、孫娘パトリシアの起こした「シンバイオニーズ解放軍事件」でのみ記憶されるよりはマシだろう。
ところで「市民ケーン」に何度となく登場するローズバット(バラのつぼみ)という言葉、なんらかの性的な暗喩ではないかと思ったのだが、本編ではまさしくその通りに描かれていた。しかし現実にはなんとハーストの愛犬の名前だったそうな^^;・・・
*付記====この「役不足」という熟語の使い方が誤りであるとの指摘を掲示板の方で受けた。たしかに本来「役目に対して、能力が足りない」という意味ではなく、「能力に対して、役目が軽すぎる」という意味で辞書に載っている言葉だが、もともとは「芝居や演劇で割り当てられた役が自分の実力・力量に対して軽すぎると役者・俳優が不満を示す」ことから来ているらしい(今やどんな名優もこんな不遜な発言はしないだろうが^^;)そこから転じて現在は「与えられたポストや仕事が、その人の能力・力量に対して軽すぎること、つまり、軽い役目なので力を十分に発揮できないこと」という意味になっているが、これも本人が口にすれば恐ろしく高慢な発言になってしまうし、第三者が言ってもその人のポストを不当に貶める発言になってしまうのは間違いないので、結局のところ死語になる運命だろう。
10年ほど前に行われたNHKの調査では、ほぼ7割の人が「役不足」を「力不足」と同義語として使っており、意味を知っている人でも本来の意味で使用することはまずない。言葉は生き物であり、現在使われている言葉が本来の意味とは逆になっているものなど枚挙にいとまがない。「役不足」という言葉も、意味が逆転する過程にある、生きている言葉の実例なのだろう。
映画のリメイクには純然たる営業上の理由で作られるものと、あくまでも監督や製作者の作家的情熱から作られるものとがあるが、本編は間違いなく後者の代表的存在になるだろう。映画の序盤、予定していた主演女優に逃げられて代役を誰にしようか相談する場面で、「フェイ・レイは?」「いまRKO映画に出演中ですよ」という台詞が出てくる。言うまでもなくフェイ・レイはオリジナル版「キング・コング」(1933年)の主演女優であり、RKOはその製作会社である。監督にして製作者にも名を連ねるジャクソンの情熱が、そんなところにもほとばしり出ているわけだ。
物語は、ほぼ忠実にオリジナル版をなぞっており(たとえば原作にない帰りの船旅は、今回もちゃんと省略されている)そこにジャクソン独自の解釈やキャラクター設定を盛り込んだ形になっている。映画の時代設定は原作同様第二次大戦前(たぶん大恐慌前後の時代)で、現代に翻案して失敗したギラーミン版の轍を踏んではいない。しかし、登場人物の描写そのものはやはり今の映画で、オリジナル版は言うまでもなく、70年代のギラーミン版をも遥かにしのぐものになっている。それが一番よく出ていたのが、主要な登場人物の脇を固めるサブキャラの扱いだ。群像劇の演出は「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズでさんざんやっていたためか、かなり手慣れたものになっている。前半部分の輸送船のシークェンスで船乗りたちや撮影スタッフたちそれぞれの描写があるが、出番はそれほどでもないものの、それぞれ非常に印象的に作ってあるので、彼らが次々に死んで行く場面にもちゃんと重みが出ている。この手の冒険ものでは、主要人物以外のほとんどの人間がいずれ整理されてしまうのが定石だが、そのやり方が非常にうまいのだ。ただ、描写が丁寧だった分、時間もそれだけかかってしまった感は免れないが。
ヒロインのアンを演じたナオミ・ワッツは「ザ・リング」シリーズで日本にもお馴染みだが、特にグラマラスでもなければとりたてて美人でもなく、はっきりいってミスキャストではないか、と思っていた。しかし、映画が始まってみると、女ボードビリアンという設定にピッタリな身のこなしと(そうとう身体能力が高くないと、とてもじゃないがコングの動きに追随できない)独特のかわいらしさで「なるほど」と納得させられてしまった。考えてみれば必要なのは万人向けの「美貌」ではなく、コング(と脚本家のドリスコル=エイドリアン・ブロディ)だけを魅了して、観客にとってそれが不自然に見えない程度に奇麗であれば、むしろやや個性的であったほうがよかったのだ。そういう意味ではまさに的を射たキャスティングであったといっていいだろう。
この映画のヒーローはなんといってもキング・コングその人(?)である。現代の映画らしく、その動きはほとんどが3DCGによるイリュージョンだが、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズでゴラムを演じていたアンディー・サーキスが、今回もモーションキャプチャーを通して演じている。そのおかけでコング本人の動きは非常にリアルで、なおかつ細かい演じわけも可能になっていた。たとえば、アンをさらったばかりの頃のコングは、移動するとき両手を激しく動かして、握られたアンはあっちこっち激しく振り回される(現実にあんな速度で振られたら、急激なG変化で即失神、下手をすると脳内の血管が切れて死ぬかもしれない)のだが、物語の後半では、同様に激しく体を動かしていても、アンを握った手だけはなるべく動かないように気を使っていた、というように。ひたすら怪物の悲哀を表現していたオリジナル版に比べ(フェイ・レイ演じるヒロインは最後まで悲鳴を上げるだけで、コングに対する同情や愛情など一切示さなかった)ジャクソン版の方は途中でアンと心を通じ合い、ニューヨークのスケート場で一緒に滑ったりする^^;このあたりの変化には、たぶんギラーミン版や「マイティ・ジョー」の影響もあったのかもしれない。しかし一番の理由は、オリジナル版の大ファンであったというジャクソンが、原作について抱いていたたぶん唯一の不満、つまり「あれではコングがあまりにかわいそうすぎる」という感想ではなかろうか。
さて、映画の結末はほとんど誰でも知っている有名なものだから、今回はあえてあぶり出し文字にはしないが、もし知らないという方はこれ以下を読まないように^^;
コングがなぜ最後に高い塔に登るのか、その理由は今まで触れられなかった。オリジナル版ではなんとなく登ってしまったし、ギラーミン版でも単に故郷の山に似ている、という程度にしか説明されていなかったように思う(「マイティ・ジョー」にはちゃんと理由があるが、あれは別の映画^^;)しかし今回は、「美」を理解するコングがスカル・アイランドでしたように昇る太陽(島でのシーンは夕陽だったが^^;)を見るためだった、と判る仕掛けになっている。エンパイア・ステート・ビルから見下ろす20世紀初頭のニューヨークのパノラマは確かに素晴らしく、ここの場面だけで数十億円かけたという効果は十分に伝わってきた。夜間、WTCビル屋上で別撮りの攻撃ヘリ(といってもイロコイでしたが^^;)に一方的に攻撃され、あっけなく死んでしまうギラーミン版に比べて、致命傷を受けながらも果敢に戦闘機に立ち向かい、その数機を返り討ちにしてしまうあたりは見事と言っていいだろう。攻撃する戦闘機側からの視点で撮影した絵も迫力満点であった。
最後にささいな減点ポイントにも触れなければならない。まず最初に書かなければならないのは、やはり構成のアンバランスさだろう。スカル・アイランドのパートだけでゆうに2時間以上も使ってしまっており、この部分だけでスターウォーズ・エピソード3が終わってしまうくらいだ。おかけで物語後半のニューヨークの部分が全体から見ると端折った印象になってしまった。囚われのコングが劇場で公開されたのが前日の夜、たぶん午後6時から8時頃だと思われるが、そこから脱出してエンパイア・ステート・ビルの屋上で戦闘機に攻撃される時刻まで、冬なので夜明けは午前7時頃だろうから、都合12時間ほどの間コングはニューヨークを逃げ回っていたことになる。それにしてはちょっとエピソードが少なすぎる気がするのだ。やはり前半部分をもっと大胆にカットして、後半をきっちり描いたほうが、すっきりした構成の作品になったような気がする。もっともそれでは肝心のジャクソンらしい「こだわり」の部分も薄れてしまうかもしれないが。
もうひとつの欠点は、本編だけではなく3DCGを多用する最近の作品ではよくあることなのだが、とにかく視点がはっきりしないことである。たとえば、ティラノサウルスもどきの恐竜数頭とコングが格闘するシーンがあるのだが、カメラはぐりぐりとヘリコプターの空撮のごとく空中を移動しながら、格闘シーンの全貌を捉えようとする。確かに組んず解れつの戦いは常に画面の中心に映ってはいるのだが、日常こうした「神の視点」でものを見ることはまずないために、どうしても映像にはある種の非現実感がつきまとい、いかにも「CGでつくりました」というシロモノに成り果ててしまった。また、CGならなんでもできる、という幻想は、たとえば谷底で無数の虫たちに襲われる場面で、体につきまとう虫たちを短機関銃で撃たせるシーンによく現れている。あんなことはCGの虫をCGの弾丸で撃つから可能なのであって、もし生身の人間に生身の虫がたかっていたら、虫より遥かに大きな的である人間の方に弾丸が当たって当然だろう。短機関銃から発射されているのはオモチャのBB弾ではない。一発でも当たれば命に関わる実弾なのだ。そしていうまでもなく、連射される弾丸を一発一発コントロールすることなど不可能である。そうした当たり前のことに気づかないくらい、今のCG信仰は深刻なのかもしれない。
最後に、有名なラストの台詞へのツッコミ。「野獣を殺したのは飛行機じゃない。野獣は美女によって殺されたのだ」とつぶやいて興行主カール・デナム(ジャック・ブラック)は去っていくのだが、どう考えたってコングを殺したのはおまえの野心だろう^^;・・・
タニア・ロバーツが女ターザンを演じる、本当にただそれだけの映画である。水浴シーンでは全裸になったりして頑張ってはいるが(以前テレビ放映されたときには見事にトリミングされていたので、本当に裸になっていたとは思わなかった)それでお話のどうしようもなさを救えるわけもなく、物語が大詰めになればなるほどサービスカットは挿入できなくなり、その分退屈度も増してしまうという典型的失敗作。せめてもう少し脚本にひねりがあるとか、登場するキャラクターに魅力でもあればよかったのだが、シナリオはどんな知能程度の人間でも理解できるようにしたためか、これ以上平易にしようがないくらい単純だし、キャラクターも与えられた台詞をそれらしくしゃべるだけで魅力も糞もなかった。まあ、監督があの「キングコング」のジョン・ギラーミンではむべなるかな、ではあるが^^;(本編のあと、かの悪名高い「キングコング2」が製作された)
唯一買える点は動物を使ったスタントで、特に冒頭、主人公たちの車がライオンに襲われるシーンでは、開いた車の窓から頭を突っ込んできたりして、演じていた役者の度胸にはびっくりするばかりだ。いまならこうした危険の伴うシーンはCGかアニマトロニクスでごまかすところだが、この映画が撮られた当時にはそんな技術があるわけもなく、すべて本物のライオンを調教して演じさせていたのだ。とはいえ、こうした動物との絡みもなぜか序盤にしかなく、後半になるとよくある典型的B級活劇に成り果ててしまう。もともとたいして高い志しがあった映画ではなかったのだろうが、それにしても、せっかく、自然と調和した原住民と西欧文明の毒に汚された権力者との相克、というテーマを掲げたのだから、もうちょっと観客にものを考えさせる場面があってもよかったのではないだろうか。・・・
一応「美談」「感動話」として語り伝えられる物語らしいのだが、犬の側からみれば、これほどひどい話はない。第二次越冬隊が基地に到着できない可能性があるのに、犬たちを置き去りにするという計画そのものに、誰ひとり異論を唱えなかったのだろうか。この時代、犬はまだ「便利な道具」でしかなく、彼らもまた命を持った生物である、とか、その存在が南極における生態系を撹乱する可能性がある、などという発想はなかったのかも知れない。
タロとジロが生き延びたこと自体に「感動」するのは勝手だが、もし取り残された犬たちの中にメスが混じっていて(越冬の準備をしていた19頭の犬の中にはメス犬も一頭いたが、子犬を生んだため隊員たちと一緒に帰ることができた)オスと一緒に生き延び、繁殖でもしてしまったら大変なことになる。南極にはホッキョクグマやホッキョクギツネのような大型捕食動物はいないのだ。たちまち食物連鎖の頂点に立ち、ひよわなペンギンたちは絶滅させられてしまうかもしれない(映画の後半、犬たちがトウゾクカモメと戦ってこれを捕食するシーンが出てくるが、どう考えても、より捕獲しやすいペンギンの子供を狙う方が自然だ)オーバーな話だと思われるかも知れないが、実際となりのオーストラリア大陸には、もともとイヌ科の動物はいなかった。現在、フクロオオカミを絶滅させた元凶と考えられているディンゴ犬は、ほかならぬ人間が持ち込んだものだったのだ。
映画としての「作り」にもいろいろ不自然なところが目に付いてしらけた。どの犬が最初に首輪抜けをしたのか、などという順番が判るはずはないし、死んでいった犬たちそれぞれの最期も、死体が発見されたというなら話は別だが、ラストで「消えていった」という表現があることでも判る通り、まったくのフィクションなのだ。要するに、タロとジロ二頭が生き残った、という事実以外は全部「映画を面白く見せるための脚色」でしかない。これはもう、死んでいった犬たちへの冒涜である、と批判されても仕方ないだろう。また、犬たちがいろいろな苦難に遭遇して切り抜けたり、あるいは死んでいったりする場面は、実際に氷の浮かぶ海面に放り込まれたり、崖の上から突き落とされたりしているわけだから、今やれば確実に動物虐待と非難されたことだろう。それから、映画の中盤「えんえんと夜が続く冬が来た」という表現があるにも関わらず、真っ青に晴れ渡った空のもと、氷原を疾走する犬たちの映像が出てきたりして(もちろん終盤の「南極に春が来た」というナレーションが入る前の話だ)観ている側を混乱させてくれる。夜の場面ばかり続いては観客が飽きるだろう、と製作側が気を回してくれたのかもしれないが、一瞬これは回想シーンなのか、とわが目を疑ってしまった^^;
犬たちのサバイバル劇と交互に、日本に帰った犬係の隊員たちのエピソードが挟まれるのだが、これまた説明的で(外国人記者が潮田隊員=高倉健=にあれこれ質問するシーンなど、作為が目に付いて不快感すら覚えた)話を締めるどころか逆に散漫とした印象を与えてしまっている。肝心のラスト、タロとジロが犬係の隊員ふたりと再会するシーンも、演出する側は引っ張ったつもりだったのだろうが、変にカット割が多くてストレートに感動できなかった。
結局のところ、題材もシナリオも演出も、ついでにいえばテーマ性も、ひとつとして評価できる点のないひどい映画だった、というしかない。それでもにしなかったのは、実際に南極や北極に出かけて撮影した美しい映像の数々と、このような映画にはもったいないヴァンゲリスの流麗なテーマ曲(余談だが、彼はこの映画ではムーグではなくヤマハのシンセサイザー使ってたんですね)に免じてである。・・・
表題の“Reindeer Games”とは、「騙しあい」とか「ふざけたマネ」という意味の慣用句である。ちなみにReindeerとはトナカイのことであり、ストーリィ上のキーポイントであったクリスマス(冒頭、たくさんのサンタクロースの死体が^^;)にもかけてあるようだ。
刑期が終り、まもなく出所するはずのケチな自動車泥棒ルーディ(ベン・アフレック)は、刑務所内での暴動に巻き込まれ、同じ日に出所する予定だった仲間のニックが刺殺されてしまう。ニックには以前から文通していた女、アシュレイ(シャーリーズ・セロン)がいて、出所したニックを迎えに来ることになっていた。死ぬ間際に彼女を頼む、とニックに言われていたルーディは、罪の意識を感じながらも、自らをニックであると偽ってアシュレイを自分のものにしてしまう。つかの間の幸福感に浸っていたニックだが、突然モーテルに押し入ってきた見知らぬ男たちに襲われる。男たちのリーダー、ガブリエル(ゲイリー・シニーズ)は実はアシュレイの兄で、かつてカジノで働いていたというニックの経歴をアシュレイから聞いて知っており、彼を仲間に引き入れてカジノ襲撃を計画していたのだ。慌てたルーディは自分はニックではない、と告白するが、それでは計画には不要だ、と殺されそうになって撤回し、結局ニックとして計画に参加することになる。
ここまでがお話の発端部分。ここから先、物語は二転三転するのだが、それは観てのお楽しみとしておこう。細部に注意すると、いろいろ不自然なところも目に付くのだが、適材適所の配役でそれほど無理なく観ることができた。巻き込まれ型のヒーローが得意なベン・アフレックは今回もまた典型的巻き込まれキャラだし、ゲイリー・シニーズもやはり普通の人よりはこうしたひとクセあるキャラの方が生き生きしている。そして、なんといってもシャーリーズ・セロン。アカデミー主演賞狙いの渋い役からSFヒロインまで、およそどんな役でもこなす幅広さで、デビューしてまだ10年なのに、すでに20本以上の映画で主演するというすさまじい売れっぷりである。今回もほとんどカメレオン的な演技を要求される役なのだが、さすがの演技力で演じきっていた。
襲撃がなんとか成功し、大金をつかんだアシュレイ、ガブリエル、そして襲撃現場から辛くも生き延びたルーディだが、すべての罪を彼一人にかぶせられ、いよいよ殺されそうになったとき、またも物語はどんでん返しを迎え、思いもかけない真犯人が登場する。このあたりまではさすがに考えつかなかったが、よく考えてみるといろいろ無理があってちょっと苦しい。
やがてすべてが終わったあと、主人公ルーディはひとり郷里に帰っていくのだが(考えてみると彼以外の主要な登場人物は一人残らず死んでいる^^;)前科者の彼の記録は警察にたっぷり保存されているはずであり、あれだけあちこち物証(少なくとも指紋はベタベタ付けてきたはずだ)を残してくれば、足がつかないはずがない。たぶん郷里で彼を迎えるのは優しい母ではなく、地元警察とFBIのエージェントではないだろうか。・・・
確か以前観ていたような気がするのだが、ブリーフ姿で一人踊るトム・クルーズの姿しか覚えていない。あるいは、映画本編は観ておらず、この部分だけ映画紹介コーナーか何かで見ただけだったのかも知れない。
話はアメリカの中産階級(って、オヤジの車はポルシェ928!! 向こうの「中産」階級ってあんなにリッチだったのか)の子息であるジョエル(トム・クルーズ)が、両親が留守している間にくりひろげるちょっとした冒険譚である。本来なら大学受験を控えて猛勉強しなければならない時期なのだが、ハイティーンの男の子が考えることはひとつ。友人がいたずらで呼んでしまったオカマの紹介で、なんと本物の娼婦、ラナ(レベッカ・デ・モーネイ)がやって来てしまう。彼女と素晴らしい一夜を過ごしたジョエルだが、翌朝、料金を払う段になって所持金が全然足りないことに気づき、やむを得ず国債を現金化するために銀行へ行く。金を手に家に帰ってくると、すでに女はもぬけのから、しかも、母が大切にしていたクリスタルの置物が消えていた・・・。
置物を取り戻そうとラナを捜していたジョエルは、たまたまヒモのグイドともめていたラナを救い出し、追跡してきたグイドを捲いて自宅に連れ帰ってしまう。やがて彼女の娼婦仲間までがジョエルの家に入り浸るようになり、もともと自由企業研究会というサークルに所属して起業精神おう盛なジョエルは、彼女らを使ってビジネスすることを考えつく(原題のRisky Business「ヤバイ仕事」はここから来ているのだろう)
もちろん話の結末は「悪銭身に付かず」というオチになっているのだが(ヒモのグイドが実はけっこういいやつだったりする)考えてみるとジョエルはほとんど何も失っておらず、むしろいろいろなオマケを手に入れているわけだから、ちょっと間尺に合わない気もしてしまう。まあ、誰も傷つけていないわけだし、これはこれでいいのか^^;
製作年度をみれば判る通り、この映画はちょうどMTVの台頭する時期につくられたものであり、本編中にもポリスやフィル・コリンズの大ヒット曲が登場している。なんと二ヶ月間にわたって興行収益トップを突っ走る成績を上げたそうだが、正直言ってそれほどいい作品とも思えない。ただ、トム・クルーズとレベッカ・デ・モーネイという二大俳優を生んだ、という点では映画史に残る作品といえるかも知れない。・・・
「愛と青春の旅立ち」「トップガン」「ポリスアカデミー」(はちょっと違うか^^;)などなど数多いアカデミーもの、つまりは訓練学校ものの一本である。こうしたテレビ局主導型の映画は安易な感じがしてあまり好きではないのだが、あまり期待しないで見たためか、意外に正統派の作品に仕上がっていたように思えた。
物語は海上保安庁の特殊救難潜水士になるため、訓練学校に入った14人の候補生の群像劇だが、基本的には主人公の仙崎(伊藤英明)と、彼とペアを組むバディの工藤(伊藤淳史)、一番のライバルとなる三島( 海東健)、そして、ひょんなことから仙崎と知りあい、やがて愛しあうようになるファッション雑誌の編集者伊沢(加藤あい)を軸とした物語である。ストーリィテリングははっきり言って古風に見えるくらいに定石的で、ややもするとくどく感じるくらいだが、これくらい説明的であったほうが、より単純なものを好む現代の若者には受け入れられやすいだろうし、なにより全面的に協力した海上保安庁にとっても、ストレートな宣伝効果が期待できるだろう。オリジナリティという視点から見ると、ほとんど作られた意味のない映画、と酷評されそうだが、映画とはまず娯楽であり、いかに定石を外さないだけの作品とはいえ、要は観客に満足を与えられればそれでよし、なのである。
仲間の死、ライバルの台頭、きわめて厳格だがその実は、というこの手の映画には必要不可欠な鬼教官の存在など、とにかく徹頭徹尾楷書的で、足を踏み外さないよう一歩一歩足元を見ながら作った印象の強い映画だ。けしてうまさは感じられないものの、その堅実さのおかげでそれなりの水準には至っていたようだ。ちょっと残念だったのはラストのクライマックスで、仙崎たちが遭難して教官が折に触れて問い掛けていた通りの極限状況に陥ってしまう、というのはいかにも作為的で手際が悪い。もちろん、もともと劇映画なのだからこうした展開が「お約束」なのは判っているが、ものには限度というものがある。ここまでベタだと、ちょっと予定調和が見えすぎて白けるのは僕だけではあるまい。・・・
どの程度、丸山健二の原作に忠実なのか判らないが、いずれにしろ完璧な森田映画になっているのは間違いない。振り返ってみると、このあたりから次第に森田作品に失望して、観なくなってしまったようだ。
一口に言えば大変にファッショナブルな映画で、登場人物すべてに生身の実感がない。舞台はどこか北の方(北海道?)の片田舎で、無人の駅に一人の若者(沢田研二)がふらっと訪れるところから映画は始まる。彼の身の回りの世話をするために雇われた男(杉浦直樹)が迎えに来ていて、やがてふたりはその後アジトに使う別荘へと向かう。別荘での二人の生活(おもに食生活)が淡々と描かれるのは、いつもの森田映画らしいところだ。ときどき謎の子供が眺めるコンピューター画面(登場人物たちのバイオリズム=今ではすっかり死語になってしまった^^;=や簡単な図が表示される)や、謎の組織の跡目争いの談合っぽいカットバックがあるものの、基本的には二人の日常(海でナンパしたり、川に釣りに出かけたり)を描くことにほとんどのフィルムが費やされる。そこにある日、三人目の人物として橘ひろみ(樋口可南子)という女が送り込まれて、三人の奇妙な共同生活が始まる。
やがて、工藤と名乗る若者の目的があらわになっていくのだが、世話役の男すらその内容を知らないあたりはちょっとありそうな話だ。秘密を守るのに一番いいのは、その秘密を知る者をできるだけ絞り込むことなのだから。工藤は実は殺し屋であり、そのターゲットは某宗教団体の会長(「新宗教」という呼び名はあまりにそっけなく、実在しそうもないが、リアルっぽい名前を使うとたくさんある宗教団体の中には同名のものもありそうなので、仕方なくこうしたのかも。もっとも「しんしゅうきょう」という名前は台詞の中にしか出てこないので、ひょっとしたら「神州教」とでも書くのかも知れないが)だったのだ。観客にそのことを知らせた後、映画はもうあまり描くことがなくなったのか、変に凝った絵(たとえば、暗殺現場に向かう一行の乗った車の車内を、走行中にも関わらず回りをぐるっと一周して撮影して見せたり=そういえばスピルバーグも「宇宙戦争」で似たテクニックを使っていた。まさか本編を参考にした、なんてことはないだろうが=まだCG合成などなかった時代、どうやって撮影したのだろうか)を見せたりはするものの、結局のところずるずるエンディングまで同じようなペースで引っ張っていってしまう。
ラストにはちょっと意外などんでん返しがあるのだが(まあ、定石といえば定石なのだが)あまり後味のいい終り方ではなく、この後の森田映画、というより日本映画全般の行く末を暗示しているかのようだ。それにしても、この映画のどこを切っても「ときめき」と呼べそうな描写は出てこない。そうした興奮状態とは対極にある映画といってもいいだろう。原作がそういうタイトルだから仕方なかったのだろうか。・・・
けっこう本数は観ている森田作品だが、考えてみると本編ほど気に入った作品は皆無だったような・・・。少なくとも一度観ていてまた観てやろう、と思えた作品は、森田のメジャーデビュー作であるこれが唯一である(デビュー当時、「ある謎の組織によってこの映画を作らされた」などとあちこちでいっていた森田の姿が懐かしい)
特に話らしい話のない、売れない若手落語家志ん魚(しんとと)=伊藤克信とその周辺を描く群像劇なのだが、ところどころで見せる当時としては新鮮な感覚(もう25年も前の映画なのだが、今観てもそれほどの古さは感じさせない)が命の作品。なにしろ落語家の一門が登場する作品なのだから喜劇でないはずはないのだが、落語そのものもつまらないし下手糞(素人だから仕方ないが、中には数人のプロも混じっている^^;)しかし、無理に笑わせよう、という姿勢がなかったのがかえってよかったのかも。
伊藤はいつも通り栃木弁丸出しのキャラだが、映画を観る限りではそれが演技なのか、それとも地なのかよくわからない。少なくともそう思わせる技術を監督の森田は持っていた、ということなのだろう。もちろん、後にバラエティで活躍する伊藤の姿を見ているわれわれには、まるっきりの地だったことがバレているのだが^^;脇を固める尾藤イサオや秋吉久美子(この当時と最近の「電車男」テレビ版のエルメスの母と、ほとんど変わらないのが凄い)チョイ役ながら印象的だった関根勤と小堺一機(まんまおすぎとピーコ^^;)室井滋などなど、キャスティングの妙がこの映画をさらに生き生きしたものにしていたのかもしれない。
おおかたの評論家がもっとも印象的だったと語り、僕もこの映画で唯一はっきり覚えていた、志ん魚がガールフレンドの家から帰る道すがら、早朝の隅田川沿いをモノローグを語りながら歩く場面は、今観ても新鮮な感性が光るものの、思ったよりかなり短いシーンだったことに驚いた。それまでの彼のアホぶりと、このシーンでの詩人ぶりのギャップにも驚くが^^;・・・
アクションコメディ兼パニックムービーとしては、ほとんど教科書的といっていいほどよく出来た映画。基本的にはコメディなのだが、アクションシーンはかなり本格的で、特に、走るシルバーストリーク号(邦題になった大陸横断超特急の名前。実は「超特急」を名乗るほど高速を出しているわけではないのだが^^;)の屋根の上で格闘したり、走行中に連結器を外そうと床下に身を乗り出す場面は、主役のジョージを演じるジーン・ワイルダー本人が、危険度いっぱいのぶっつけ本番で臨んでいる。今と違ってCG合成などなく、ブルーバック合成もバレバレのものしかできなかった時代なので、リアリティを出そうとすれば実際にその場で演じるよりなかったのだろう。
シナリオもよく練られた上出来なもので、一部不自然なところもあるものの(たとえばFBIに保護された一般人であるジョージが、銃と実弾を渡されてふたたびシルバーストリーク号に向かうあたり、今のリアリティを重視する脚本なら絶対あり得ない)普通、密室とみなされがちな走る列車から、合計三回も主人公が放り出されるなど、巧みな展開で観客を飽きさせない。おかげで割を食ったのがジョージと恋に落ちる秘書ヒリーを演じたジル・クレイバーグ。ヒロインにしてはとにかく出番が少ないのだ。まあ、これだけ主人公が動き回っては、走る列車から出られない(ふつーは無理だ^^;)ヒロインの影が薄くなるのは仕方ないかも。そのぶん、主人公が行く先々で遭遇するキャラはどれもしっかりと立っていて、急降下して羊を驚かすのが趣味の飛行機オバサンや、おとぼけ保安官親子(しかし、いきなり現れた男からあんな支離滅裂な説明をされて=レンブラントに関するやりとりは抱腹絶倒=一度に理解しろ、という方が無理だと思うが^^;)そして、ひょんなことからジョージと行動を共にするコソ泥のグローバー(リチャード・プライヤー)などなど、みんな魅力いっぱいだ。また、悪の親玉、美術商デブローを演じたパトリック・マクグーハンは、ともすればおふざけに走りそうになるストーリィを、重厚な悪役ぶりで引き締めてくれた。
ジョージやFBIの活躍によってあらかた事件が解決したあと、ブレーキを失ったシルバーストリーク号がシカゴの駅に突っ込むのだが、このあたりの演出は典型的なパニック映画のそれで、後にさまざまな映画でパロディネタにされた名場面である。よく考えてみれば、運転台まで行ってアクセルペダルに乗せられた工具箱を取り除くのも可能だったような気がするのだが(どうしても外から運転台に入れない、というような構造ではない)それでは映画史上に残るあの名シーンは生まれなかったわけだし^^;
列車が駅に突入したあとの混乱に乗じて、相棒グローバーが乗り逃げするのが構内に展示してあったレモンイエローのフィアットX1/9。小粋で映画の雰囲気によく合っていたのだが、アメリカ映画なのにどうしてアメ車ではなくイタ車なのだろう。途中にジョージたちが盗んでシルバーストリーク号を追いかけるのもジャガーだったし、ヨーロッパ車のディーラーとタイアップでもしていたのだろうか。・・・
香港のスピルバーグことツイ・ハークが監督した「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズの番外編とも言える映画で、監督こそ違うが主演も同じリー・リンチェイだし、その役柄も「ワンチャイ」同様にウォン・フェイフォン。リーは製作総指揮もおこなっていて、本編を製作したために本家のツイ・ハークと不仲になってしまったといわれるいわく付きの作品でもある。
お話はコメディタッチのパロディ風味あふれるもので、狙ったのかそうでないのかよく判らないものの、本家と差別化を図ったようにも感じられた。とは言ってもそのテイストはやはり香港のカンフーアクションに違いなく、ジェット・リーことリー・リンチェイが拳法の達人に扮し、大活躍する映画としてちゃんと成立している。
今回の悪玉は義和拳というちょっとオカルトがかった拳法を操る一味で、娘をさらって人身売買し、それを資金源にしているというとんでもないやつらなのだが、その親玉が実は・・・というありがちな設定で、彼らの悪行にヒーローであるウォン(リー)が立ち上がる、というお話。もともとリーは道場主であると同時に漢方医でもあり、街角で道場兼医院を開いていたのだが、あまりの狭さに稽古中の弟子たちの手足が患者に当たり、よけいな怪我をさせてしまうという事件が続発し、もっと広い場所に移転することになる。移転した先は広さなど十分だったのだが、気がつくと隣が売春宿だったりして若い弟子たちは気もそぞろ。しかし堅物のウォンは女たちには目もくれず、本業に精出すのだが・・・。
まあ、こういう映画のストーリィはただ見せ場を作るためのみに存在しているようなもので、特に今回はコメディということもあり、かなりいい加減。イギリス人が作った突然耳が聞こえなくなる薬の設定など、ご都合主義ともいえないほど使いどころがまずく(さらわれた娘の父と姉が鍼灸でウォンを治療する、というのもあまりいただけない。彼らが初対面だったわけでもないし、ほとんど無意味なシーンだった)結局のところ話をまだるっこしくしてしまう役割しか果たしていなかった。
敵役を演じたラウ・カーファイはもともと少林寺拳法の達人だそうで、けっこうな年齢の割りには動きが鋭く、リーとまったく互角に戦っていたのには驚いた。また、ラウを先頭に、10人ほどの男たちが入った巨大なムカデの張りぼて(てゆーか後半にはそれで戦う場面が出てくるので、一種の装甲車みたいなものかも^^;)で獅子舞のような踊りをする場面があるのだが、その一糸乱れぬ動きは一見の価値がある。それから、巻末には最近の香港映画お約束のNG集が収められており、現場の和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるようだ。・・・
いろんな意味でいかにもブルックスらしい映画だ。ギャグの切れ味はもうひとつでちょっともったりしているし、ちょっぴりエッチな要素もあるものの、あくまで品は失わない演出、そしてハッピーエンドと思わせて実は、というおふざけのどんでん返しなどなど、どこを切ってもブルックス印があふれていた。
チャンバラのシーンなど、よく見るとなかなかの腕前なのだが、全然そうは見えないところがやはりブルックス映画^^;ときどき挿入されるくだらないギャグがこれまたいかにもブルックス風で、ともすればちゃんとしたアクション映画になりそうな展開から引き戻してくれる。
まあ、何も残らないといえば残らない映画なのだが、それこそがブルックスの持ち味ということもできるわけだし、これはこれでありなのだろう。巻頭と巻末でことの次第をラップ風に説明しているのだが、いかにも現代風を狙った演出なのにもったり気味のカット割りで全然スピード感がなく、かえってえらく古くさく見えてしまうあたりもやっぱり持ち味なのだろう^^;・・・
あんまり期待はしていなかったのだが(だからノーカット放映なのに録画して10日間もほってあった^^;)意外にもきっちり作られた、好感のもてる作品だった。まあ、声を当てていた声優たち(山寺宏一、竹中直人、そして太田光!!)がとても上手かったのが第一原因だとは思うが(CGのキャラそのものはそれほど魅力的ではない)脚本の巧みさは評価していいだろう。
昔のハンナ・バーベラやワーナーのトム&ジェリーなどを観ると、アメリカのアニメは基本的にクールなメディアだと思うのだが、20世紀フォックス作品である本編は、とてもアメリカ製の作品とは思えないくらいに「浪花節」そのものであった。動物が主役なのでそうとは気付かないが、それこそ典型的な人情噺である。きわめてホットな、感情に訴える要素の強い物語なのだ。
単に怠け者のお調子者であるナマケモノ^^;のシドを除けば、マンモスのマニーもサーベルタイガーのディエゴもそれぞれ事情を抱えており、うまくストーリィに絡ませている。もちろんアニメならではの極端な動きにはこと欠かないが、単にそれだけの映画ではないことを、特にマニーの回想シーンが示していた(マンモスの絶滅に人類が大きく寄与していたことは、もはや定説である)子供向きの映画には、いや、子供向きの映画だからこそこうした描写に大きな意味があるのだろう。案外子供はこういうところをちゃんと観ているものなのだ。
ところで、動物たちはみな言葉で意志疎通していたのに、時々出てくる人間は最後までひとことも言葉を発しなかった。この話そのものが動物の立場から描いたものだ、ということなのだろう(「彼らにはおれたちの言葉がわからない」という台詞が出てくる)それにしても、この映画どうしてわざわざ3DCGなど使ったのだろう。そこそこ感情表現に見るべきものはあったが、それでもやはり手描きのアニメの表現力には到底及ばない。もしこの作品がふつうの二次元アニメとして作られていたら、あるいはもっと高い評価を得られたかもしれない。もはや3DCGというだけでありがたがられる時代ではないのだ。・・・
冒頭、いきなりミコの別れを告げる手紙から始まる演出は、公開当時としてはけっこう斬新だったのではないだろうか。もちろんここであっさり別れてしまっては話が続かないので、マコは彼女に翻意を促し、やがて気を取り直したミコを相手に、エキストラのアルバイトで鍛えた演技力で、初めて出会った当時を再現するのだが、ここで観客は二人のなれ初めを見ることになる(ちなみに、眼帯のない吉永小百合の素顔が見られるのは、冒頭の手紙のバックに登場する女子大生時代の回想と、この初対面のシーンだけであった)という、なかなか凝った演出だった。
これがまったくのフィクションであったなら、お涙ちょうだいのクサいメロドラマとして一刀両断してしまうことも可能だろうが、基本的には実話の映画化だけに、避けられない死を前にした若人の選択、という命題が重く迫ってくる。特殊な難病なので仕方がないのかもしれないが、物語のはじめから病名は患者であるミコに告知されている。自分は死ぬかもしれない運命なのだ、ということを最初から知っているわけだ。そのための身辺整理として、マコとの別れを考えたのが冒頭の手紙なわけだが、あくまで前向きなマコはそうしたネガティブな指向性を許せず、自分のペースで彼女を引っ張ろうとする。もちろんミコその人も本来はかなりポジティブな人間で、自分も入院患者であるにも関わらず、ほかの患者の世話を焼いたりするのだから、そうした彼女を知っていたマコは、あくまで本来の自分を取り戻してもらいたいと思っていただけなのかもしれない。
映画は徹底してミコの側から描いているために、マコに関する描写は断片的だ。ミコと会っているとき以外では、学生寮でギターを弾いていたり、寮生たちと食事をしているシーンくらいしか出てこない。いうまでもなく、死んでいくミコに何もしてやれない悩みを抱えたキャラクターとして描かれてはいるのだが、それ以外の部分がほとんど出てこないのは、当時の映画としては仕方なかったのかも知れないが、人間描写としてはやはり片手落ちの感がないでもなかった。それが特に目立つのは、ラストシーンである。家族や主治医に囲まれてミコは死んでいくわけだが、ミコの死で映画は唐突に終わってしまう。今のドラマなら、残された人々のその後とか、いろいろ余韻を残す工夫をしそうなものだが。現実にはこの後、一方の主人公であった河野実(マコ)は別の女性と結婚し、マスコミに叩かれたりもするわけだが、それには映画のこうした描き方にも遠因があったかもしれない。
脇を固める俳優たちがなかなかすごい。ミコの父親には笠智衆、ミコが世話をする車イスの入院患者に宇野重吉、個室から大部屋に移ったミコと同室になる患者たちにミヤコ蝶々、笠置シズ子などなど、60年代の名優が勢揃いである。特に、相変わらず押さえた演技で、若くして娘を失う父親を演じた笠智衆がよかった。
ところで、僕ら世代の人間なら誰でも知っている、あの「♪マコ、甘えてばかりでごめんね〜」という曲、実は本編では使われていなかった(冒頭流れる主題歌はまったく別の曲だった)ことを知って、ちょっとショック^^;・・・
前作「銀翼の奇術師」は空が舞台の話だったが、今回は海が舞台。乗客がほとんど座席に座りっぱなしの旅客機と違って、ある程度自由に動き回れる客船は、いわば移動できるホテルみたいなもの。その分だけさまざまなトリックも仕掛けやすく、今回はかなり正統派の「コナン」ものに戻っていた。子供にもわかりやすい伏線の張り方、一見、倒叙もののように見せながらその実犯人は、という意外性、そしてラストシーンの鍵となる子供たち同士の友情などなど、テレビシリーズのいいところを凝縮したような出来だった。
推理ものなのであまり細かいことは書けないが、今回、一番カッコよかったのはおっちゃんこと毛利小五郎。なんたってラストのおいしいところを全部持っていってしまうのだから。いつもこんなに推理が冴えていたら、コナンの出番もないところなのだが・・・^^;
ちょっとネタバレになってしまうが、唯一気になるところを挙げると、最初の犯罪の動機にやや無理があった。生命保険ならともかく、ああした種類の保険の場合、たとえ保険金がおりても保険をかけた側の利益になることはあまりない。むしろ、その後の掛け金が上がってしまったりするから、結果的には損失の方が多くなってしまう。そのあたりにあまり説得力がなかったのがこの映画唯一の弱点といっていいかもしれない。・・・
「アメリカの良心」シドニー・ポワチエがイギリスに渡って熱血教師を演じた60年代の名作。ギニア生まれでカリフォルニア育ちの黒人青年サッカレー(ポワチエ)が、ロンドン下町の落ちこぼればかり集めたような中学の臨時教師として雇われる。もう卒業まで数週間しか時間がないので、サッカレーは教科書を使った授業を諦め、かわりに生徒たちを「大人」として世の中に出すための教育を始めるのだった。
なにしろビートルズがまだ現役だった時代の映画なので、映画にもそれほど過激な表現はないのだが、当時としては黒人青年を教師として迎えるという設定自体、かなり型破りだったのかもしれない。もちろん人種差別についての表現は、皆無というわけではないにしろ、ごくわずかしか登場しない。映画のテーマはむしろ、だらけてしまっていた生徒対教師の関係をあるべき状態に戻すには、どういう処方箋が有効なのかを示すことだったのだろう。ひとことで言えば威厳と愛情である。そのどちらが欠けても教師としては失格であると、脚本も手がけた監督クラヴェルは言いたかったに違いない。
もちろん、生徒たちに威厳を示すためにはある程度のタフネスも必要であり、ちゃんとそういうシーンも用意されてはいる。しかしその表現方法には娯楽作品としての限界を感じてしまった。これだと、もしサッカレーがまったく腕っぷしの弱い人間だったら、生徒たちの信頼は勝ち取れないことになってしまう。娯楽作品のセオリーとしては「ほんとうは強い」先生が正解なのだろうが、腕っぷしの強さだけが「強い」ということではない。60年代の作品に多くを求めるべきではないのかも知れないが、やはり安易さは感じてしまった。サッカレーのキャラクターが常に冷静であろうと心がけるクールな男であるということは、赴任した当初、生徒たちの挑発に乗って怒りを爆発させたあと、同僚の女教師にしきりに反省して見せたことでも明らかだ。それならそっちの方向で「強さ」を見せてくれたほうが、作品としての統一性は保たれたのだが。
こうしたテーマとは別に、若くてカッコいい男性教師ならではの問題、つまり女生徒が教師に抱く恋愛感情についても映画では語られている。しかし、ほとんど何の解決も図られないまま映画は終わってしまう。やはり60年代当時では、こうした娯楽作品では深く突っ込むだけの余裕はなかったのだろう。・・・
本編を観て感じる一種「迷い」のような雰囲気は一体なんだろう。本質とは別の部分であまりに高く評価されると、あとの作品が作りづらくなる、という好例なのかもしれない。かの名作「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 」のあと、イマイチの作品が続いて評価ももうひとつだが、考えてみれば本編のようなお話こそが「クレしん」の基本かもしれない、とも思う。おバカで下品でちょっとエッチで(^_^)/
ただ、今回はそれにしても設定が安易だ。わざわざ「3分ポッキリ」なんてタイトルにしたわりには(3分という設定は、もちろんウルトラマンを意識したものだとは思うが)残念ながらほとんど生かされていない。確か、3分でやっつけないと時空間の補修ができなくなる(水道管のようにスペアを付け替える、という発想自体は面白いのだが、具体性がまったくなかったために説得力も皆無^^;)という設定だったはずだが、終盤登場する怪獣ゴロドロとの戦いなんて、あきらかに3分はオーバーしていた^^;3分というのが補修可能な時間の長さから、いつのまにか単に変身していられる時間の長さすり替えられていた(途中、次第に強くなってきた怪獣を3分でやっつけられなかったので、ひろしとみさえが交互に変身してやっとやっつけた、という台詞がある)ようだ。ともあれ、もっと面白くなりそうな分岐点があちこちにあっただけに残念だ。
特に、映画前半で次々に登場するザコキャラ怪獣たちの扱いがあれでは粗雑すぎる。公募したよい子たちのデザインらしいが、それにしてももう少し使い方があっただろう。「ラスボス」の意外性など、見るべき部分も少しはあったとは思うが、突然アクション仮面やカンタム・ロボに変身して加勢する、当初倒された怪獣軍団などどう考えてもご都合主義だし(なぜ加勢するのか、全然説明もない^^;)せっかく登場したブリブリざえもんなんか、結局使いどころのないまま終わってしまった。物語にはスーパーヒーローの裏側を描く、という側面もあったようだが、それならもう少し野原一家の(ヒーローとしての)成長を見せてくれないと^^;ヒーローであることの報酬(?)が、たまりにたまったゴミだけだというのでは、あまりにせつないだろう(;o;)
もはや定番の「家族愛」も、こう安売りしてしまうとそろそろメッキが剥げてきそうだ。・・・
これまた「恋人はスナイパー 劇場版」同様、テレビ朝日で放映されていた連続ドラマ(原作はヤングジャンプの連載コミック)の映画化作品。テレビの設定とはちょっと異なり、釈 由美子は当初「怨みの門」の門番イズコではない、普通の女性として登場する。しかし、映画の冒頭、結婚式の寸前に何者かに心臓を抉られ死んでしまう。彼女の婚約者であった刑事・神崎は事件の真相を探るうちに、意外な人物に行き当たるのだが・・・。
全体的に映像にはなかなか凝っているのだが、シナリオの練りがもうひとつで、こうしたオカルト作品にはお約束の「決めごと」の説明がややまだるっこしいために、作品のテンポが失われてしまった。監督の北村はアクションシーンが上手いという定評らしいが、確かに自信たっぷりな演出ぶりではあるものの、全体にあまりスピードを感じられず、演武か何かを見せられている気分だった。いくら格闘技には素人の女優さんがやっているとはいっても、カット割やスピードコントロールでもうちょっとどうにかなったと思うのだが。ボロクソに貶されるほどひどい作品とは思わないが、さりとて自腹を切ってまで観に行きたい、と思うほどの映画でもなかった。
ところで、終盤に登場する霊能力者の女性、けっこう重要な役どころなのにメインキャストにクレジットされていない。最初、白石美帆サンかと思ったのだが声が違うし、よく調べてみたら菊地由美サンという方で、北村監督の次回作、「ゴジラ FINAL WARS」にも出ていたということだ。・・・
実は10年ちょっと前、一度観ているのだが、見事なくらい完全に忘れていた。覚えていたことといったら、当時ようやく本格導入され始めたCGが、回転するスペースコロニーを描くのに使われていたことくらいのものだ。それから10数年後の今日、ようやく再び観たのだが、なぜほとんど中身を忘れていたのか、今になってみるとなんとなく判る気もする。要するに、この作品で監督の富野氏は何一つ新しいことを語っていなかったのだ。
話はZガンダムの終了後、行方不明になっていたシャアがみたびネオ・ジオンの総帥として復活し、地球に巨大隕石を落下させて人類を一掃しようと企む、というものだが、はっきり言ってZのクワトロ・バジーナ大尉と同一人物とは思えぬほどその言説は独善的であり、ほとんど意味不明である。作中シャアがアムロに向かって「なぜ判らぬか!!」と叫ぶシーンが数回あるのだが、むしろ確信が揺らぐ自分自身への叱咤激励にしか聞こえないくらい、その主張には説得力がなかった。地球に魂を引かれ、その資源を搾取する以外能のない地球人を追い払うために、彼ら自身より桁違いに大きな災厄(なにしろ恐竜が滅ぶくらい大きな環境の変化だ)を地球にもたらすという理屈にはどうしても納得できない。
ちなみに「汚染」という観点からみれば、スペースノイドこそが地球人とは比較にならないほど宇宙を汚染する存在になることは確実である。現在ですら大量のデブリが地球周回軌道を回っており、その数は人が宇宙に住むようになれば飛躍的に増加するだろうし、巨大なスペースコロニーを建設するために宇宙に放出されるチリやゴミは、それこそ天文学的な量に達するだろう。環境的視点に立てば、シャアのように「地球に魂を引かれた人々を粛正する」よりも、プラネテスに登場した環境テロ組織「宇宙防衛戦線」のように、地球人の宇宙進出そのものを阻止しようとする発想の方が正しいのだ。
登場するキャラクターたちのわがままぶりもまたいかにも富野作品らしい。主人公シャアは言うに及ばず、またもララアの代役(これで何人目だ?)を演ずることになるクエスや、例によって登場する主要キャラの身内(今回はブライトの長男ハサウェイ)などなど、あまりの身勝手ぶりで観客をイライラさせるのが義務とでも思っているようだ。彼らがあっさり死んだり、逆に主要キャラをあっさり殺してしまったりするのもお約束で、もはや何の感慨も抱けない。だいたい戦争なのに、登場人物たちはそろいも揃って私怨のかたまりである。シャアとアムロの戦いにしたって、結局のところララアを間に挟んだ私闘にほかならないし(重大な軍事機密のはずのサイコフレームを「アムロと同じ条件で戦いたい」という理由で連邦側に伝えてしまうあたり、もはやシャアには軍人である資格すらないだろう)巻き込まれた回りこそいい迷惑である。無理矢理なラストシーンを、これまたお約束通りの透過光演出でなんとなく終わらせてしまうのも、いつもの富野演出でまったく新味なし。
キャラ設定はZZと同じ北爪宏幸で、ZZ放映とほぼ同時期の公開だから当たり前だが、テレビ版とほとんど違和感はなかった。個人的には、こんな蛇足のような作品を製作するくらいならむしろ、この時にこそZの総集編を作ってくれていたら、と思う。少なくとも絵的には、現在の「新訳」ほど酷い作品にはならなかっただろう。・・・
日本のコミックがなぜか香港で映画化され、しかも舞台設定があくまでもコミックに忠実に、群馬の秋名(いうまでもなく榛名のもじり)というのが非常に不思議な作品。だいたい、原作ものが外国で映画化されるなら、その国の話として翻案されるのが普通だろう。しかし本編はどういうわけか、唯一の例外である鈴木 杏を除き、すべてのメインキャストを香港勢で固めてはいるものの、その全員が日本人を演じている。ロケーションもすべて日本国内で行われたようだ。それだけ原作コミックの人気があちらでも高い、ということなのだろうか。
ドラマは原作の粗筋をほぼ追ってはいるものの、さほどどうということもない。鈴木 杏の役柄などちょっと蛇足気味で、物語の後味を悪くする役にしか立っていないように見えた(ただし、拓海の父文太役、アンソニー・ウォンのちょい悪オヤジぶりはなかなかよかった)特筆すべきなのはやはりカースタントだ。僕も群馬育ちなのであのあたりを走ったことがあるのだが、見覚えのある狭い山道を、ラリーカーのように横を向きながらハチロクやアンフィニが駆け抜けていく姿は、それだけでも感動ものである。もちろん、極端なドリフト走行が設定通りの慣性ドリフトではなく、ディスクが真っ赤に焼けるほどブレーキングに頼った挙動ではあったのだが、それでも実車であの動きを再現してくれたことだけでもう大満足だ。なにしろたった二車線しかない曲がりくねった山道なのである。数々のテレビドラマでお馴染みの高橋レーシングの仕事なのだそうだが、どうしていままでこのアクションを日本映画で見せてくれなかったのだろう。ところどころCGを使った映像も目に付いたが、アメリカ映画のようにこれ見よがしな使い方でないところがまたよかった。
主人公拓海を演じたのは香港の若手ジェイ・チョウで、さほどコミックのイメージから外れることはなかったものの、やはり日本人役は日本人に演じてもらったほうが不自然さはなかっただろう(吹き替えの声優しゃべりはどうしても違和感バリバリ^^;)個人的にはジャニーズ系、たとえば嵐の二宮クンあたりが適役だったと思うのだが。・・・
「狂気」でもなければ「侠気」でもない、「凶気」という不思議な単語がこの映画の性格を表しているのかもしれない。もちろん文字ひとつひとつを見ていけば、「凶」にも「気」にもそれぞれに意味があり、一見したところ熟語としてなにがしかの意味がありそうにも見えるが、少なくとも手元の辞書には載っていない言葉だ。
映画の舞台は渋谷で、そこでネオナチ張りのナショナリストを気取り、チーマー狩りに明け暮れる三人組「ネオ=トージョー」、主人公はその中の一人、山口(窪塚洋介)なのだが、とにかく思想性が皆無なあたりですでに破綻している。現実に、ナショナリストを気取っている連中の頭の中は結局この程度なのかも知れないが、それにしても、ものを考えるシーンの欠如はすさまじい。せいぜい、潰れかけた古書店で本の話をするシーンが申し訳程度にあるだけだ。だから、ヒロインの景子(高橋マリ子)がバスの中で「今の日本人は腐ってますね」とつぶやいたり、「日本は好きだけど、最近の日本人は嫌い」と言ってみても、また山口が暴力の口実に歴史がどうのこうのと誰かの受け売りっぽい台詞を吐いてみても、空虚な沈黙が後に続くだけだ。
映画の後半、彼らに目をつけた組織に巻き込まれ、やがて「ネオ=トージョー」は分裂していく。組織の標語「理論より行動」はこの映画を象徴する台詞としてもきわめて印象的だ。そう、結局のところ山口たちの暴力は基本的に生理的なもので、ナショナリストがどうのこうのというのは単なる言い訳に過ぎないからだ。渋谷を仕切る組織のリーダー、青田(原田芳雄)が実は鬱病に悩んでいたり、部屋の掛け軸にハングルが書かれていたことで、その出自が暗示されていたりするのがちょっと面白かったが、それらが特に有機的にストーリィに作用していたわけでもなく、結局のところ「出る杭は打たれる」教訓噺みたいに終わってしまったのは、連綿と続いてきた東映ヤクザ路線の限界なのだろうか。
映画で印象的だったのは「殺し屋」ならぬ「消し屋」を営む三郎(江口洋介)の存在である。当初、青田の家でフリーの「消し屋」として紹介されるのだが(ここでの青田の「俺はフリーって言葉が大ッ嫌いだ」という台詞は、後の展開をみるとなかなか意味深である)職業人として「標的の命だけではなく、存在した、という事実すら消してしまう」ことを生業とするその姿は、かつてロバート・レッドフォードが主演した「コンドル」に登場したプロの殺し屋(マックス・フォン・シドー)を思わせる。カメレオン的にさまざまな人物を演じ分ける窪塚クン(たとえば、似たようなキャラだった「池袋ウエストゲートパーク」の「キング」とも、はっきり違う個性を出していたあたりは立派)だが、ワンパながら妙に説得力のあるキャラを創造できる江口洋介にはちょっと及ばなかった。・・・
前作の翌年に作られた続編だが、前作で復讐を果たした雪(梶 芽衣子)は、その後も凶状持ちとして放浪し続け、なんと37人も殺したあげくようやく逮捕される。そして絞首刑に処せられるその日、特務警察の手によって拉致され、スパイとして無政府主義者・徳永乱水(伊丹十三)の家に入り込み、あるモノを入手し、彼を抹殺することを命じられる。明らかに反体制的な傾向のあるヒロインをたいした矯正教育もせず、わざわざ無政府主義者のもとに放り込めば、結果はわかっていると思うのだが、特警長官・菊井(岸田 森)はよほど自信家だったのか、躊躇せずに雪を送り込み、案の定すぐ裏切られてしまう。
単純な復讐劇であった前作とは異なり、今回はいかにも70年安保の直後に撮られた作品らしく、全体に反体制ムードに溢れた作品になっていた。前作が明治20年代の話だったのに比べ、本編では30年代といくらか時代が下り、敵側の武器も銃器が主体になっている。いくら剣の腕があっても、飛び道具相手ではさすがに分が悪く、雪は戦いのたびに撃たれて負傷してしまう。それでも徹頭徹尾、自らのオリジナル武器である仕込み杖ならぬ仕込み番傘にこだわるのは、やはり製作者の美学なのだろうか。
それにしても、若いころの梶 芽衣子は柴崎コウにそっくり(^_^)/・・・
数年前、釈 由美子主演でリメイクされたもののオリジナル作品である(とはいってもほとんどタイトルだけしか共通点はないが^^;)一見するとかつての藤 純子主演の東映仁侠映画みたいなテイストだが、実は本編は70年代もなかばの作品であり、かつての仁侠映画へのオマージュとして作られたようだ(時代的には数年しか離れていないのだが、この当時はサブカルチャーの変遷の目まぐるしい時期で、5年も経ってしまえば大昔だったのだ)原作は小池一雄/上村一夫による劇画で、いわれてみれば駄洒落っぽいタイトルなど、いかにも小池好みである^^;
話は劇画がもとになっているためか、かなり荒唐無稽なものではあるが、主演の梶 芽衣子の好演のおかげでそれなりに説得力のある作品になっていた。もっとも、最初からあまりに雪が強すぎて、敵役を倒すのにさほど手間取らないのがやや拍子抜けではあった(その雪の強さに説得力を持たせようと思ったのか、幼少時、育ての親でもある道海和尚=西村 晃=との特訓シーンがいかにもでちょっと笑える)敵を斬るといちいちド派手に血しぶきが吹きだすのも、やはり劇画タッチを意識したものだろう。ただ、血の色があまりに朱色でちょっと嘘っぽかったのが残念だった。当時の血糊は(洋画も含めて)みんなこんな色だったようだが、80年代に入るとだいぶ透明感が増し、色もどす黒くリアルになってくる。
シナリオはいっぱいいっぱいの感じでちょっと苦しかったが、それを補って余りあったのが撮影であった。レール移動や手持ちカメラなど、さまざまな撮影方法での絵作りは、当時の日本映画としてはかなり新鮮だったと思う。場違いなムード演歌的主題歌も、今聞くと笑っちゃうが、当時はそれなりに感動しながら観ていたのだろう。・・・
テレビでお馴染み「名探偵コナン」の、初の劇場版である。1997年度作品なので、公開してすでに9年目、テレビシリーズが始まってからもう10周年になるわけだ。10年以上も小学生を続けさせられて、高校生探偵工藤新一クンもご苦労さんである^^;もっとも、それをいってしまえば少年探偵団も全員小学生のままだし、毛利蘭ちゃんも10年間女子高生を続けているわけだが(^_^)ゝ
冒頭、本編とは直接関係のない殺人事件から始まるのだが(もちろんあとになると微妙に絡んではくるのだが、別になくても困ることはない)実のところテレビ版のコナンらしい展開はこの部分のみであり、今回の事件そのものは、いかにも劇場版らしく大がかりな仕掛けで見せるスペクタクル巨篇^^;になっていた。もっとも、そのネタの大部分は「スピード」や「新幹線大爆破」など、既存の作品からのパクりで占められていたあたりは問題だが。パクリとは言っても、もちろんネタ自体はちゃんとオリジナルになってはいるのだが、こんなことに頭を絞るなら、危機そのものをもっとオリジナリティのあるものにすべきだっただろう。今回のようなやり方だと、せっかくのクレバーなトリックも「ああ、スピードのパクりね」で終わってしまう。
犯人はかなり早い段階で割れてしまう。というより、ほとんど倒叙に近い形で最初から観客に示されていると言ってもいい。問題は事件に至る動機で、テレビシリーズの犯人たちの多くが、捕まえてみるとそれぞれにのっぴきならない事情を抱えており、単に極悪非道な犯罪者とはしていないのに比べ、本編の犯人はイマイチよく判らない行動原理で動いている。要するに完全主義者の建築家が、これまで造ってきた不完全な作品を自らの手で抹殺したいという欲求に勝てず、次々と破壊していく、といった話なのだが、非実用的な美術品ならいざ知らず、建築物は第一に実用品である。実際に住んだり、使ったりしたときに不便ではいかに美しい建物であっても建築物としては失格であろう。こうした人物が世界的に有名な建築家になれるか、はなはだ疑問である。
ラストのオチには賛否もあろうが、基本的に子供向けの作品でもあるし、これはこれでいいのではないかと僕は思う(起爆装置の中の、どっちの色のコードを切るか、という命題は、時限爆弾ものの定番ではあるのだが、どの作品でも最終的な決断がごくつまらない理由でなされる、というセオリーは守っており、本編もまた例外ではなかった)ただ、スペクタクルに力を注ぎすぎたおかげで、コナンの推理力を見せる部分が冒頭部分を除いて皆無だったのは、ちょっと残念だった。・・・
続編はそれでなくてもパワーダウンしてしまうものなのに、どうしてことさら演出力のなさでは定評のあるヤン・デ・ボンなんぞに監督を任せてしまったのか、プロデューサーの常識を疑いたくなる。ある意味、本編は続編映画が陥るすべての陥穽に、ものの見事に引っかかってしまった好例といえるのかもしれない。
とにかく、登場人物に魅力がない。ララ・クロフト(アンジェリーナ・ジョリー)の人となりがある程度描かれていた前作「トゥームレイダー」に比べ、本編では元カレ(ジェラード・バトラー)が登場して思わせぶりな台詞を吐くものの、人物造形がまったくといっていいほどできていないため、説得力の全然ないキャラクターになっている。肝心な人間関係がうまく描かれていないため、本来予想外なはずのエンディングもまったく予定調和にしか見えず、ぶざまな結末になってしまった。
人物造形のまずさは、もう一人の重要人物である敵の大ボス、ライス博士(シアラン・ハインズ)にも言えている。この映画でもっとも説得力のないキャラといってもいいだろう。なにより、彼が「パンドラの箱」を求める理由が見えてこない。「金のためならなんでもやる」人間が、地球上の貨幣制度を根幹から破壊してしまうものを求めるのはおかしいし(当初は箱がいかに金になるかを力説していたものの、後半になると人類のほとんどを滅ぼすなどと言い始める)当初の設定では政治や権力などには一切関心のない人物と説明されていたはずだ。それに、ノーベル賞すらもらうほどの科学者が、同時にララとタメを張るほど格闘技に長けているという設定は、いくらなんでもあり得ないだろう。なにしろララは、チャイニーズマフィアのボスと闘っても簡単にのしてしまうほど百戦錬磨の女なのだ。ライス博士こそがゲームでいえば「ラスボス」にあたる強敵である、ということを観客に判らせるための設定なのだろうが、これでは単にご都合主義にしか見えない。強いキャラにはそれなりの人物設定が必要であり、それなしにいくら「強いんだよ」といったって説得力はないのだ。
とにかくこのシナリオは、始めから説得力のあるストーリィを描こうとする努力を放棄し、上映時間内に派手な見せ場をどれだけ展開できるか、世界の名勝地をどれだけ回ることができるか、という点だけを主眼に書かれたことがミエミエだ。本編が元ネタとしたのはいうまでもなく「レイダース・失われたアーク」だが、「面白さ」という点では比較にならないほど落ちる作品になっていたことは、万人の認めるところだろう。この種のアクション映画に見せ場の連続は確かに必要だが、それだけでは物語は成立しない、ということに、そろそろみんな気付いてもいい頃ではなかろうか。・・・
少し前、キットカットのホームページで公開されていたショートフィルムの劇場版である。公開されていた部分はあまりに断片的で雰囲気くらいしか伝わらなかったが、こうやって劇場版で観ると、ほとんど別の作品と言っていい。まさに岩井ワールド全開の青春映画になっていた。
ウェブ版のショートフィルムは、仲良しの少女たちが通学途中に出会った高校生にほのかな恋をし、やがて進学した高校で先輩・後輩の関係になって・・・という、それほど大きな飛躍のない話だったのだが、完全版の本編では、その先輩の記憶喪失事件^^;や、花(鈴木 杏)とアリス(蒼井 優)それぞれの家庭の事情(特にアリスについて丁寧^^;)が語られる。その語り口はもう岩井節としか言いようのないもので、かつての Love Letter(別人が同一人物を演じる一方、一人の女優が二役で別人を演じる)とは別の意味で、技巧の粋を尽くした脚本である。
ウェブ版ではその発端のみちらっと描かれていたアリスの芸能界入りも、本編ではかなり丁寧に描かれ、いくぶん物語のテーマを二分する結果にもなってしまった。特にラストのクライマックス、紙コップバレエのシーンはあまりに印象的すぎて、ウェブ版のクライマックス、花の告白シーンを完全に霞ませてしまった。このあたり、あるいは岩井の計算違いだったのかも知れないが、逆にウェブ版との差別化を図る仕掛けだった可能性もありうる。蛇足だが未見の方のために補足しておくと、紙コップバレエというのは、とあるオーディション会場で特技を聞かれたアリスがバレエ、と答え、審査員(大沢たかお)に見せて欲しいと言われて、紙コップとガムテープで即席のトウシューズを作って踊るシーンのことで、もとからバレエの心得のあった蒼井がさらに特訓を受けて挑んだだけのことはある仕上がりになっていた。
アリスのバレエは審査員たちや皮肉屋の金髪モデル(オーディションを受けに来たタレントの卵たちを一人ずつこき下ろす^^;)までをも「すげえ(@_@)」と感動させるのだが、いかにもイケイケ風の女マネージャー(なんと広末涼子!)だけは、たまたまかかってきた電話の応対のために会場を出ていて(会場内は電波状態がよくない)踊り終わるところしか見ておらず、アリスが帰ったあと「パンチラみてたんでしょ」といかにも俗っぽい。ところが、驚いたことにその台詞が出るまで観客は(少なくとも僕は^^;)まったくそういうことを意識しておらず、「ああそういえばアリスはミニスカートをはいたまま踊ったんだっけ」と思い返す始末^^;
考えてみれば、クラシックバレエやフィギュアスケートだって、パンチラどころか大開脚オンパレードなのだが、あまりそういうことを意識しない。そうした「性」を超越したところにある純粋な「美」の追求こそが芸術の使命なのだろう。ほとんど岩井監督の脳内幻想のごとき少女像を描き続ける本編のような映画では、こうしたシーンについて下世話な批判もあり得る。そうした批判をあらかじめ作中に封じ込めてしまったキャラが、広末演じる女マネージャーだったのではなかろうか。そう考えれば、メインストーリィであるはずの花の告白シーンを霞ませ、映画のバランスを崩してまでもこのシーンを入れたかった岩井の意図も判ろうというものだ。
映画のなかではアリスたちは神奈川県の海沿いの町に住んでいる、という設定なのだが、地名などは完全に架空のもの。序盤の通学シーン(撮影は栃木県内のJR両毛線で行われた)に登場する駅の看板は全部貼り替えられており、駅名は「水木」「白土」「石ノ森」「藤子」そして「手塚」と、すべて漫画家の名前になっていた。そして、看板をよく見ると「藤子」の前後の駅が「野比田(のび太)」と「 須根尾(スネオ)」に、「石ノ森」では「木会田(キカイダー)」、「来田(ライダー)」になっていたりして、なかなか芸が細かい(^_^)もちろん映像そのものもこれまでの岩井作品同様、隅々にまで神経の配られた丁寧なもので、真冬に始まり初夏に終わる物語を、季節の変化に忠実に描いていた。
独特のミニマルな旋律で本編を盛り上げるサウンドトラックも、今回は岩井本人が手がけており、その結果、製作・監督・脚本・編集に加えて今回は音楽担当にまでその名がクレジットされている。こうした例は海外でもあまり多くはなく、僕の知るかぎり、ジョン・カーペンターとチャップリンくらいのものではないかと思う。・・・
「恋人たち」というサブタイトルは自嘲なのか自虐なのか、あるいは本当に「恋人たち」について語った映画であると勘違いしてしまった結果であったのか、本当のところは判らない。本来、恋愛について語るには、どうしてもある程度の時間経過(熟成期間)が必要なのだが、本編においてはそうした部分がすべて端折られ、くっつく→別れる、あるいはくっつく→死別のサイクルが極端に短い。入り口のすぐ向こうに出口の見えるトンネルみたいなものである。なにしろ100分足らずの時間で一年間にわたるテレビシリーズの1/3を語らなければならないのだから、どうしても駆け足になってしまうのは仕方のないところなのだが、いずれにしろ、サブタイトルで謳うほどには「恋人たち」について語っていない映画であることは確かだ。
それにしても、前回にも増した破綻ぶりである。あらかじめテレビシリーズを観て予習しておかないと、ストーリィ展開も登場人物の動機もまったく理解できない。特にフォウがカミーユを宇宙に帰すためにスードリのブースターを強奪するあたり、なぜ彼女がそうしなければならないのかも判らなければ、そもそも直前までカミーユが宇宙に帰ること自体ほとんど触れられてはいないのだ。この展開では、たまたまスードリがアウドムラに特攻をかけてこなければ、そしてフォウが突然の心変わりをしなければ、カミーユはずっと宇宙に帰れないことになってしまう。こうした説明不足は他にもあちこちにみられ、作品を難解なものにしてしまっている。
前回同様、テレビシリーズの流用部分と新作部分の落差もかなり気になった。主役のカミーユは言うに及ばず、フォウもロザミィもエマもサラも、新作部分は輪郭からして違うほとんど別人である(女性陣の中でなぜかレコアだけはそれほどイメージが変わらないのは、ひとりだけ違った傾向の顔だからだろうか)その一方、モビルスーツの新作部分は遥かに質感が高くなり、特にハンブラビの発進シーンなど、見事な巨大感の表現にくらくらするほどだった(もっとも、ときおり挿入されるアーガマなど戦艦の3DCGはひどく場違いで、その部分だけまるでSEEDを観ている気分になってしまった)
巷では声優の交代劇が話題になっていたようだが、交代したキャラ(フォウとサラ)については思ったほど違和感はなかった。逆に、テレビシリーズと同じ人が声を当てていても、シロッコやブライト艦長はとてもそうとは思えないほど老けた声になっており、特にブライト艦長は完全に声の張りの失われた中年ボイスで、思わずエンド・クレジットで声優の名を確認したほどだった。まあ、テレビ放送から20年も経っての映画化なので、若者が中年になるのも当然かも知れないが。そう考えると、カミーユの声を当てた飛田展男や、アムロの古谷徹、シャアの池田秀一の変わらなさはすごいことなのかもしれない。・・・
かつての東宝トンデモ映画「ノストラダムスの大予言」みたいなキワモノかと思ったら、わりと正統派の伝記映画であった。彼が生きていた中世、魔女裁判やペストの蔓延する死と隣り合わせの時代が意外に丁寧に描かれており、ちょっと暗めのライティング(ロウソク光源にこだわったのか)や建造物の外観など、なかなか雰囲気を出していた。この時代を描いた映画は、ありそうで意外に少ないのだ。
正統派とはいってもなにしろネタがノストラダムスなので、もちろん予言に関する映像はふんだんに登場する。郊外を馬車で走っていると、いきなり第二次大戦中の戦闘場面を幻視したり、水鏡に演説するヒトラーが映ったりと、テクニックとしてはありがちなものだが、さすがに終盤でサダム・フセインまでが登場したのにはちょっと笑ってしまった。この映画が作られたのは、湾岸戦争直後の1994年なのだから仕方あるまい。
やや気になったのは、ノストラダムスが当時としてはきわめて合理精神にあふれた人物として描かれていたことで、当時の医学的常識をことごとく否定し、妙に現代的な治療を施したりするのだが、その一方できわめて非合理的な「予言」を、みずからの幻視にしたがって記述してもいるわけで、それじゃあまりにも製作者に都合のいいキャラではないか、と思わずツッコミを入れてやりたくなってしまった。
映画の終盤、ノストラダムスの幻視の中で、さまざまなカタストロフィーから生き延びた人類は、やがて他の星系にあらたな安住の地を見いだすのだが、そのわずか1分足らずのシーンのために、超巨大宇宙船が登場していたのには驚いた。時期的にCGではなく、かなり大型のモデルを組んだものと思われる。
このように絵作りは全体としてかなり凝っていたのだが、肝心のお話が少しも面白くなかったのが致命的だった^^;・・・
ご本人のキャリアより「宇多田ヒカルの夫」としてのみ有名だった紀里谷和明の第一回監督作品であるが、圧倒的なビジュアルを評価する声は多いものの、作品としては失敗作の烙印を押されたまま、記憶の彼方に埋もれてしまいそうである。今回テレビ初放映に当たって「特別版」として再編集されたそうだが、果たしてその効果がどうだったのかは劇場公開版を未見のためになんともいえない。
CGでほとんどの大道具を描いてしまう作品は、古くは「トロン」から始まって最近の「スカイ・キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」まで、さほど多くはないものの、いくつか例を挙げることはできる。本編の評価できる点は、そうした作品群とは明らかに違ったセンスで絵作りを統一しているあたりで、はっきりいって破綻だらけのシナリオにイメージ的なバックボーンを与え、そこそこ世界観らしきものを付け加えることに成功している。
それにしても、残念なのはシナリオである。本編が70年代に製作されたテレビアニメ「新造人間キャシャーン」のリメイクであることはいうまでもないが、ごく大ざっぱな設定は確かに踏襲しているものの、ほとんどの部分はオリジナルの要素が強く、主人公東 鉄也(伊勢谷友介)がキャシャーンに変身する理由からして全然違うし、キャシャーンという名前の意味そのものすら大きく違っている(アニメ版では開発に膨大な金=キャッシュ=がかかったサイボーグだから「キャシャーン」なのだが、本編では単なる伝説の救世主の名として登場している)敵のボス、ブライ(唐沢寿明)のキャラ設定に至ってはあまりに原作と異なるため、作品のテーマそのものがまったく違うベクトルにシフトしてしまった。とにかく至るところ破綻だらけのシナリオだ。新造人間を研究している東教授の研究所に巨大な鋼鉄(?)の稲妻が突き刺さる導入部から、ブライ一味が命からがらたどり着いたアジトに最初からロボット軍団が用意されていたりするあたり、何らかの説明がないと観客は戸惑うばかりだが、そんなことはお構いなしにストーリィは監督紀里谷の恣意通りに進行し、結局のところ辻褄合わせはすべて観客に丸投げされることになる。どうも見せ場の配分の都合からああした展開にしたとしか思えないのだが、それにしてもあのロボット軍団、一体誰が準備したのだろう???
物語は中盤までの新造人間軍団対政府軍という構図から、政府軍内部におけるクーデターやらその失敗やらでだんだん対立の構図がわかりづらくなっていき、さらに、敵将ブライの出生の秘密^^;が明らかになることにより、ますます混迷の度合いを増してしまう。正義と悪の構図がはっきりしていたかつてのアニメそのままの設定にしろとはいわないが、このあたりの混乱したキャラ設定は結局のところ、監督の頭にあったテーマを明瞭に伝えることにはまったく貢献していなかったように思う。最終的に監督/シナリオライターの紀里谷がいいたかったのは、闘うことの虚しさであり、ロールエンドで歌われる宇多田の「誰かの願いが叶うころ」に登場する歌詞、「皆の願いは同時には叶わない」ことを描きたかったのだと思う。しかし、それを伝えるにはあまりにつたない脚本であったといわざるを得ない。その責任の第一はいうまでもなく紀里谷本人にあるのだが、(奥方の)ネームバリューに押されたのか、結局のところこのシナリオにゴーサインを出してしまった製作者にも多大な責任があろう。テーマも絵作りもまったく同一であっても、もしシナリオがこれほど素人っぽくなければ、遥かに評価される作品になっただろうと思うと、むしろ責任の多くは製作者側にあるのかもしれない。・・・
一昨年観賞した「夢のチョコレート工場」のティム・バートンによるリメイク作品である。前作「PLANET OF THE APES 猿の惑星 」ではあまりに有名だったシャフナー版を意識したのか、かなり大胆に話をいじってあったのだが、今回のリメイクでは意外なほどスチュアート版「夢のチョコレート工場」に忠実に再映画化していた。もっとも、肝心のチョコレート工場内部の描写は、さすがにイメージの奔流にかけては他の追随を許さないバートンだけのことはあり、前回の映画化を遥かに越えたすごさであった。前回ちょっと妖怪風で不気味だったウンバ・ルンバも、今回はミニサイズの中年オヤジといった感じでわるくなく、最後でちょっとしたタネ明かしなどもあって面白いキャラになっていた。このあたり、キモかわいいキャラには精通しているバートンらしいキャスティングだったと思う。
設定でいくらか違うところは、スチュアート版ではチャーリーには父親がおらず、新聞配達して家族全員を養っている、ということだったが、バートン版にはちゃんと父も母も揃っており、単に失業してしまった、というだけの設定になっていたことだ。原作を読んでいないのでどちらが忠実なのかよく判らないが、いずれにしろ父の出番は少なくたいした差ではない。チャーリーが黄金のチケットを手に入れる経緯もほとんど変わらないが、スチュアート版をすでに観ていたためか、バートン版の方がやや端折った印象になっていた。このあたりの演出は特に内容に大きく関わるわけではないので、必要最小限の描写を残し、あっさりパスしてしまってもよかったのだろう。ちなみに、黄金のチケットを発見したときスチュアート版ではチョコレートは投げ捨てられてしまった(!)が、今回のバートン版ではチョコはお店に残されており、たぶん親切な店主が食べたのだろうと思わせる演出になっていた。
前述の通り、この映画の白眉はいうまでもなくチョコレート工場内の描写に尽きる。ビジュアル的な印象はスチュアート版を継承しているものの、その質感は遥かにリッチでおそらく10倍くらいの予算を組んでセットを組み立てたものと思われる。一流のテーマパークもかくやと思われるその内部は非常に凝った造りで、それを観るだけでもこのDVDをレンタルする価値はありそうだ。特に秀逸だったのは、すでに各方面で紹介されている、おびただしい数のリスを使った「ナッツ皮むき工程」で、動物トレーナーを雇って特訓しただけのことはある出来だった。物語後半、透明なエレベーターに乗って工場内部を移動するシーンは、工場の外観からするとどう考えても広すぎるのだが、このいい加減さが逆にいかにもファンタジーといった雰囲気を醸し出しており、このあたりもたぶんバートンの周到な計算なのだろう。
本編のもう一人の主人公、ウォンカ社の社長であるウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)は、スチュアート版のジーン・ワイルダーをも上回る奇妙なキャラクターとして登場するのだが、ワイルダーの奇妙さが実は演技であったのにくらべ、デップは工場内のシーンが終わった後も以前と同じ変なキャラクターであり、実はそのキャラの成立過程がこのストーリィの重要な要素になっている。未見の方のために詳しいことは書けないが、このあたりは原作にないバートン独自の設定だそうで、ここがバートンの一筋縄では行かないところなのだろう。配役にクリストファー・リーの名前を見つけたとき、てっきりスチュアート版に登場するライバル会社、ワルダ社の手先かと思ったのだが、全然違っていた^^;・・・
「エア・レース」というと、今では第二次大戦機をチューンナップした機体で周回コースをぐるぐる回る、リノのエアレースが有名だが、航空史の黎明期から発展期にかけては、大陸、大洋を横断するエアレースがさかんに行われていた。ジェット機によるレースはあまり例がないが、第二次大戦後、アメリカ海軍のFJ-1フューリーやイギリス空軍のハリアーが参加した大西洋横断エアレースが行われたことがある。最近でもアメリカでL-39アルバトロス練習機を使ったワンメイクのジェット・エアレースが行われたようだが、本編はそれとはまったく違った架空の設定で、超音速を出せるレース専用機を使って世界を股にかけた耐久レースを行おうという話である。
この映画の設定では、プロモーターがテレビ局と結託して各国の代表を戦わせる、というものだが、地球を一周するほど長距離のレースなのに、どういうわけか全機がひとかたまりになり、編隊を組むようにデッドヒートを繰り広げながら飛ぶ、という趣向になっている。自動車による耐久レース、たとえばル・マン24時間などを見ればわかるが、ほとんど性能差のない車同士が闘っても、レースが中盤を迎えるころには各車とも大きな差がつき、何周もの周回差ができるのが当たり前だ。遥かに高速の飛行機に置き換えれば各機数10キロもの差がつき、とても編隊など組めたものではないはずなのだが。
映画に登場したレース機は実在するものではなく(ラファールやユーロファイターに似たデザイン)3DCGにより描かれたものだが、なにしろ低予算のビデオ用映画なので、使っているソフトもライトウェーブやアドビ・アフターエフェクトなどの市販品であり、キャノピー回りの表現などとても現実の機体には見えないお粗末なものだった。また、いくつもの機種をレンダリングする金銭的余裕がなかったのか、どこのチームが使っている機体もすべて同型で、テクスチャーだけ変えて国別の塗装になっている。ワンメイクレースとはうたわれていなかったのだが・・・。動かし方もあまり本物っぽさを感じられず、離陸シーンなどまるでラジコン機^^;レース中、サービスカットのつもりなのか都会の上空を地表すれすれに飛び回るシーンがあるのだが、合成バレバレの情けない映像であった。
ストーリィは、過去に起こした大事故の責任を問われてレース界から姿を消した主人公グラントが、プロモーターのさそいで復帰し・・・というものだが、レース界に復帰するまでの演出がややまだるっこしく、また、プロモーター本人もレース賞金をロシア人ヤミ金業者から借りたりする(その金額が2500万ドルって、この程度の額じゃレース機一機買えそうもないのに、どうやってプロモートすることができたのだろう)描写などもあってなかなかレースシーンが始まらない。また、いざ始まると今度はレースそれ自体あまりに単調過ぎて、これでは24時間中継もかなり退屈なものになってしまいそうだ。地上のレースならストレートやヘアピンなど、コース条件がいろいろ変わるので飽きることなく見られるが、地球を一周する規模ではほとんどのコースは直線となり、レース機は果てしなく続く直線コースをひたすら飛び続けることになる。これでは観客に「飽きるな」という方に無理があるだろう。プロモーターもさすがにそう思ったらしく、台風の直前でわざと空中給油させたりして危機を演出する。その結果、イギリスチームの給油機に落雷して空中爆発が起こり(実際には飛行機に落雷してもこうした爆発を引き起こす可能性はまずない)給油中だったレース機ともども失われてしまう。だかそのおかげで視聴率はぐんと跳ね上がり、プロモーターは一人ほくそ笑むのだった・・・っておい、あとで事故原因を追求されれば、誰に責任があったのか一発でバレると思うのだが^^;
グラントのアメリカチームは当初彼の弟ケビンがパイロットを務めていたのだが、酸素吸入装置の異常で仮死状態に陥ってしまい、給油機に収容される。この映画で一番驚くのはこのあたりで、エアバス型の給油機の胴体下面が大きく切り欠かれてそこがドッキングポートになっており、その部分にレース機の胴体上面をはめ込むことで簡単な修理やパイロット交換ができるという、いわば移動ピットの役割を果たすのだ(!)現実にこの手の運用を考えて、マクダネルXP-85というビア樽に羽根の生えたような機体が開発されたこともあったが、いうまでもなくものにはならなかった。高速で飛行する機体同士が接近したり、接触したりするのはそれほど難しいことなのだが、この映画ではその辺はあっさりパスして当たり前のように描いていた。
弟が飛べなくなったことで棄権を申し出ようとするグラントに、給油機のクルーたちはパイロット復帰を促し(こうしたことが可能なように、わざわざレギュレーションに「レース中一度だけパイロットを交換できる」という規定が設けてあったりする^^;)やがて意を決した彼はレース機に乗り込むのだった、という展開がそのあと続くことになるのだが、まあこの種のB級航空アクションではそれがお約束なのだろう。・・・
若き日のエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフト、さらにキャサリン・ヘップバーン共演の作品となれば、かなり豪華な作品を予想してしまうが、実際にはほとんど精神病院を舞台にしたモノクロ作品で、かなり渋めの映画といってもいいだろう。
物語は、財政難に悩む州立病院の脳外科医、クックロビッツ(モンゴメリー・クリフト)が、裕福な老婦人(キャサリン・ヘップバーン)から巨額な寄付と引き換えにある手術を依頼されるのだが、その手術の対象というのが彼女の姪のキャサリン(エリザベス・テイラー)であり、老婦人の息子セバスチャンの死に接した彼女が精神に変調をきたしたので、ロボトミー手術を施してほしい、ということなのであった。驚いたクックロビッツはとりあえず入院中のキャサリンに会い、事件の真相を探るのだが・・・というものだが、時代が時代なので精神障害に対する考え方が大甘であるのは仕方ないにしても、画面半分にオーバーラップで現れる回想シーン以外、ほとんどが病院内と老婦人の邸宅で話が展開されるので、どうしても閉塞感を覚えてしまう。
えんえんと続く会話シーンでようやく話は核心に達し、キャサリンの病気の正体やセバスチャンの死の真相が判明するのだが、これが正直なところ「それがどうしたの」と思うような、さして意外性のないもので、絵作りの地味さにマッチしているといえば聞こえはいいが、面白かったか否かと問われればとても素直に「面白かった」とは答えづらい作品であった。・・・
その昔、何人かの友人に「最近もっとも感動した映画」と奨められて劇場に足を運んだのだが、結局その良さが判らず途方に暮れながら劇場をあとにしたことを思いだした。
あれから20年以上が過ぎ、おおまかな設定以外ほとんど思い出せなくなった今、ふたたび観ることができたのだが、やはり当時感じた「当惑」のような気分はあいかわらず残っていた。主人公が罪を犯し、収監された後の運命を描くという点では、「レ・ミゼラブル」を思い起こすが、本編の主人公ビリー(ブラッド・デイビス)は大麻(正確にはハシシュ)を密輸しようとして捕まるのである。けしてジャン・バルジャンのような微罪ではない。逮捕後、本人は「出来心」「友だちに譲るため」と主張するが、冒頭の隠すシーンを見ていると、それにしては量が多すぎる。検察側がプロの密輸屋と断定しても、何の不思議もない量だ。しかるに彼は自分の罪状の重さをあくまでアメリカの尺度で計ろうとする。いや、彼だけではない、この映画の製作者自身もまた、徹底してアメリカの視線で他国の法制度を見ているのだ。考えてみたら、この映画が僕にとってのオリバー・ストーン(今回は脚本だが)初体験だったわけで、肌合いが合わないのも当然かもしれない。
映画は徹底してトルコの刑務所/司法制度の酷さ、非人間性を描くだけで、ほとんど主人公自身の罪については言及しない。確かに国際関係が緊張した結果、3年半だった刑期が10倍近い30年に引き伸ばされるという不条理に見舞われるものの、同様の罪がむち打ちの刑だったり、極端な場合には死刑を適用する国だってあり得る。それを、彼がアメリカ市民であるというだけでチャラにしようとする発想は、かの悪名高い地位協定とまったく同じではないか。
映画としての出来は、さすがにこうしたスリラーの得意なアラン・パーカー作品だけのことはあり、刑務所内部の描写や囚人仲間のキャラクター作りなど、秀逸であるといってもいいだろう。それだけに、そうしたテクニック以前の部分、有り体にいってしまえば「未開の国を見下す態度」がはっきり浮き彫りにされてしまった。
タイトルの「ミッドナイト・エクスプレス」とはつまり脱獄のことであり、30年の刑を言い渡されたのち、ビリーは真剣にそのことを考えるようになるのだが、やることなすこと裏目に出て、やがて絶体絶命の窮地に陥ってしまう。そこからの脱出劇はあまりといえばあんまりのご都合主義なのだが、この物語は実話である、というお墨付きにより観客にそれを言うことは許されない。もっとも、事実がほんとうに映画の通りだったのかどうかは神のみぞ知る、だが^^;
それにしても、刑務所内のタレコミ屋とサディストでホモの看守長(どっかで見た顔だと思ったら、リンチ版「デューン 砂の惑星」で野獣ラバンを演じたポール・L・スミスであった)の二人を殺していながら、ラストであっさり脱獄してそれっきりというのは、どうしても間尺に合わない気がしてしまう・・・
「怪傑ゾロ」といえば、僕が子供の頃にはテレビシリーズが放映されており、毎週楽しみに観ていたものだ。40年以上前の話なので、さすがにディテールなどはほとんど覚えていないが、日本の時代劇に通じる勧善懲悪の剣戟アクション、といったところだった。ゾロの仕業であることを示す「Z」のマークを入れるシーンがカッコよく、よく真似していたものだ。あのドラマのおかげでフェンシングを始めた人も多かったのではなかろうか。
さて、今回の放映では、上映時間137分のところを洋画劇場枠の90分ほどまで縮めたわけだから、本編の実に1/3くらいはカットされている計算になる。そのせいかもしれないが、先代ゾロ・デラベガ(アンソニー・ホプキンス)による二代目アレハンドロ(アントニオ・バンデラス)の特訓シーンが妙に短く、ただのお尋ね者だった男が突然無敵の剣士になってしまったりする不自然さはあるものの、おおむねそれほどおかしなところのない仕上がりになっていた。
本編で製作のスピルバーグに大抜擢され、これ一作でテレビ女優から一気に大女優の仲間入りしてしまったキャサリン・ゼタ・ジョーンズは、堂々たる演技で難しいフラメンコ・ダンスやフェンシングのシーンも見事にこなしていた。この種の単純明快な娯楽作では、ヒロインの魅力は作品の成否を決めるほど重要なポイントだが、そんなことは百も承知のスピルバーグ、人を見る目は確かなようだ。
ストーリィは善悪のはっきりした、いかにも時代劇然とした作品で、とにかく頭をカラッポにしてゾロの大活躍を楽しめばいい。カリフォルニアの独立という政治的背景もないわけではないが、このあたりはむしろ悪玉の領主(日本の時代劇でいえば悪代官みたいなもの^^;)のワルぶりを際立たせるための設定に過ぎない。ボンド映画も手がけたことのある職人監督マーティン・キャンベルは、手堅いアクション演出で判りやすくドラマを組立て、肩の凝らない痛快時代劇として本編を作り上げている。これが現代劇ならさすがに幼稚すぎると非難されそうだが、時代劇特有のファンタジー性をうまく使ってそうした設定の単純さを逆手にとり、華麗なヒーロー像を形作ることに成功している。・・・
ウ〜〜〜ム、航空アクションというとどうしてもこんな作品しか作れないのが、アメリカの現状なのだろうか。他国への領空侵犯はあたりまえ、迎撃に出てきた戦闘機は片っ端から叩き落とせばいい^^;いやはや、お見事な「世界の警察」ぶりである。「チーム・アメリカ」のような映画が作られるご時世に、こんな「暴走する正義」を何のてらいもなく描ききる映画を作ってしまったこと自体、驚くべき話だ。
肝心のステルス戦闘機は有人型「タロン」と無人型(ストーリィ上の都合から人が乗れるようにもなっているが)の「エディ」の2種類があり、特に無人型はかつてイタレリというプラモメーカーが発売したF-19ステルス戦闘機に、また有人型は拙著「瑠璃の翼」に登場する次世代ステルス戦闘機XF-3にそっくり。もっとも、有人型の前進翼がさらに前進して低アスペクト比の三角翼になる、という構造はなかなか考えられており、また、実在の空母「エイブラハム・リンカーン」への着艦/発艦シーンはかなりよく出来ていた。知らない人が見れば、本当にあんな飛行機があると誤解してもおかしくないほどの映像だった。しかし、空戦シーンはあまりにアニメ的というか、人体の反射速度を無視したような機敏すぎる機動の連続で、実際にあれほど急激なターンをしたら、中のパイロットは確実にGロックで気を失っているはずだ。
一番ありそうになかったのが飛行船のような無人空中給油機。空軍の協力が得られなかったので、実在する給油機を撮れなかったのかも知れないが、それ以前にあの特徴的な(やたらTVCMでも使われていた)サークル状爆発のシーンを撮りたかったのかも。使われている燃料が何なのかわからないのではっきりしたことはいえないが、灯油成分の多いジェット燃料は普通あんなに簡単に引火しないし、なによりジェット機が飛ぶくらいの高度では零下何十度という低温なので、そもそも着火させること自体難しいだろう。それから、空中給油のためにはある程度の対気速度がないと飛行が安定しないので難しく、とてもではないが飛行船が飛ぶような速度では不可能だ、てゆーか失速するよね、普通。
話はよくある人工知能が意識を持ってしまう、というテーマで、昔から落雷やらシャンパンをこぼすやら、いろいろな手でコンピューターに知能がもたらされたものだ。今回は王道の落雷もので、意識を持ってしまったコンピューターが勝手な判断を下して司令官の命令を無視する、というこれまたよくあるパターン。そういえば、拙著「瑠璃の翼」も結局はそんなオチだった(意識を持たせたりはしなかったけど)少し新しいのは、単純に機械対人間の対立構図にはせず、後半になるとむしろ戦友のように共同戦線を張るあたりで、主人公の問いかけに合成音声で答えるところはまるでナイト2000^^;
にしても、タジキスタン(だったかトルクメニスタンだったか?)に攻撃に行って、帰投途中にその時受けたダメージが酷くなって墜落したら、そこは北朝鮮だったって^^;アメリカ人は世界地図を見たことがあるのだろうか。おまけに、作戦後に向かった給油地点がアラスカとは、このステルス機、一体どれほどの航続能力があるのだろう。・・・
木村拓哉という人は、本当に何をやっても器用にこなす男だとつくづく思った。以前にも書いたが、吹き替えという作業は声を当てている当人のイメージが浮かんでしまうようでは失敗だ。ハウルの声を木村が当てると聞いたとき、一番危惧したのはこの点だった。多くの物真似芸人が十八番にできるくらい、彼の声やしゃべり方は特徴的であり、個性にあふれている。しかし、ハウルを演じているときの彼は木村拓哉ではなく、あくまでハウル本人になりきっていた。キャスティングを知っていてさえそうなのだから、もし知らずに観て後に声の配役をきいたなら、かなり驚いたに違いない。
技術的な部分でちょっと驚いたのは、以前のジブリ作品と比べて動画枚数が目立って多く、部分的にはフルアニメといってもいいほど滑らかな動きを見せていたこと。おそらくこれは、背景などで大量に使われている3DCGと整合性を取るためなのだろうが、おかげでとても品位の高い、美しい画像になっていた。特に少年時代のハウルがカルシファーと出会うシーンは、数あるジブリ作品の中でも屈指の美しさであろう。
そういうテクノロジーに関する部分では長足の進化を遂げていたものの、どうもシナリオは未完成というか、話のバランスが悪くて素直に楽しめなかった。最大の問題は、荒地の魔女にかけられてしまった魔法(18歳の少女が90歳の老婆に^^;)の設定である。主人公ソフィーはどうもその事実にさほどショックを受けていないというか、それならそれでもいいか、くらいに受け止めているように感じられた。まあ、登場したときのソフィーのキャラクター自体、まだ若いのに将来に対する希望もなにもない老婆のようだったので、そうした反応もありかとは思うが、少なくとも魔法に関する話なら、その魔法が最後はどうなったのかの説明くらいはオチとして必要だろう。しかし物語は、時々若返ったりまた老婆に戻ったりするソフィーの姿を見せながら(話の流れを追っていくと、徐々に若返っているようには見えるが)結局のところその魔法についての説明はないまま終わってしまった。
また、当の魔法をかけた本人である荒地の魔女を、王国専属の魔法使いサリマンが倒し、すっかり魔力を奪ってしまうと、数々の魔よけを吊すほどひどく彼女を恐れていたはずのハウルは、特になんということなく同居させてしまったりする。そもそも、物語の当初では荒地の魔女の使いだったゴム人間たちは、いつの間にかサリマンの手下になって働いていたり、前半と後半であまりに物語の筋立てがずれているのだ。
戦争に関する設定もまた同様である。ハウルは夜な夜な燕のような姿で戦場に赴き、同じような姿の「敵」と闘っているのだが、それが敵国の放った本当の敵なのか、あるいはサリマンが放った下級魔法使いなのかもよく判らない。そもそもこの話には「状態」としての戦争は出てくるが、ほとんど具体的な敵は姿を見せないのだ。巨大な蟲のような形の爆撃機が飛んできても、「敵?味方?」と訊かれたハウルは「どちらも同じことさ」と答える。それではハウルは結局何と闘っていたのか。
ここでは書くわけには行かないが、ラストのあまりにベタな(まあ、童話らしいといえばらしいのだが^^;)オチとか、サリマンの気分次第でどうにでもなるともとれる戦争の帰趨など、それではこれまでの展開は何だったの?とブータレたくなるような終り方もかなり気になった。破綻してしまった物語を強引に纏めてしまったようにしか見えなかったのが、なにより残念なところだ。前作「千と千尋の神隠し」にも似たように無理矢理な感じはあったが、あちらがある程度読み解きの余地を残してくれていたのに比べ、本編はあまりにも観客を突き放し過ぎだったのではないか。・・・
本来の上映時間が112分なのに洋画劇場の2時間枠、つまり90分程度に押し込まれているわけだから、かなりの内容がカットされていたのだろうとは思うのだが、それにしてもこの脚本の完成度の低さには思わず絶句してしまう。君塚くん、きみ一体どうしちまったんだ??
原作は未読であるが、西村京太郎の「華麗なる誘拐」という長編なのだそうだ。ウェブ上にアップされている粗筋を読むと、どうやら本編に使われたのは基本設定である「日本人全員を人質にとる」という発端くらいのもののようだ。少なくとも、収監されていた凄腕の中国人スナイパーを超法規的措置で入国させたり、彼に想いを寄せていた女刑事が登場するようなことはないらしい。
とにかく話に説得力がない。犯人の設定、それをしていれば狙撃犯から守られるというバッジの設定(現実に起こったら、まず確実に偽物が氾濫することになろう)いまだにわけの判らない地下鉄の時限爆弾の設定、政府や警察当局内部の登場人物の設定、どれをとっても現実離れしており、こんな子供騙しで今どきのスレた観客を納得させられると本気で思っているのだろうか。ストーリィも、たぶん肝心なところがカットされていたのだろうと思いたいが、エピソードが飛び飛びでキャラの心情を推し量ることなどできないまま展開してしまう。それでもお話が無理なく進むならいいのだが、キャラが「なぜこうしない?」「普通ならそこではこうするだろう」と思うような不自然きわまりない行動ばかりしてくれるので、こちらは混乱するばかりだ。
この映画が作られた大きな要因の一つが、フジの「踊る大捜査線 The Movie」の成功であるところは言を待たないだろう。ただ、「踊る〜」がたとえテレビドラマを未観賞でも一応は判るように作られていたのに比べ(もちろん観ていたほうが理解が深まるのは当然だが)こちらはそれまでの経緯(なぜウォン=内村光良が250年の懲役刑を食らっているのか)キャラの関係性(特に、ウォンと元カノっぽい刑事、円城寺きな子=水野美紀との関係、それから中華系犯罪組織1211を離脱したハン=中村獅童との関係)などがほとんど語られないために、テレビ版スペシャル2本を観ていないと設定がよく理解できない。要するに独立した作品として不完全なのだ。そして、せっかくそうしたこまごまとした設定をすっ飛ばして描いたにしては、映画としての中身が非常に薄味^^;ミステリーとしてもあまりに中途半端だし(犯人が誰か、画面に登場した途端に判ってしまう)肝心のアクションもテレビ版よりなぜかスケールダウンしてしまった。一番の見せ場が、CGで作った飛んでいく弾丸の後ろ姿って・・・(;o;)
失笑してしまったのがジーパン刑事殉職シーンのパロディ。まさかやるまいと思っていたのにここでやっちまうとは、演出した六車という監督、このジャンルの映画を完全になめきっているらしい。演じてくれた竹中直人にしても、小一時間問い質してやりたいところだ。ま、彼自身もムービーメーカーなので、脚本のあまりの陳腐さに何かプラスアルファしなければ、と思ったのかも知れないが。
それにしても水野美紀、せっかくいい演技をしているのに、映画には本当に恵まれない人だとつくづく思う。・・・
少し前、NHKで放映されていた「Mr.ビーン」の劇場映画版なのだが、どうしたわけか、本来はイギリスが舞台の寸劇風なテレビショウだったものが、アメリカを舞台にして、普通のハリウッド製コメディ映画の文法にのっとった作られ方をしてしまったために、終始場違いな感じを免れないキャラクターになってしまった。もともと場違いな人間が巻き起こすドタバタコメディを描きたかったのだろうとは思うが、そうした「狙った」場違いな感じではなく、映画の文法それ自体とずれてしまっているのだ。
オリジナルのテレビ版「Mr.ビーン」には、ともすれば知的障害者を笑いのタネにするような、ちょっとあぶない部分があった。それをギリギリのところで救っていたのがイギリス特有の諧謔趣味なのだが、アメリカ映画にそんなものを求めたところで所詮あるはずもなく、結局のところ場違いのところに来てしまった人間が巻き起こすトラブルの数々を面白おかしく見せ、最終的には「でもやっぱりいいやつだったんだよ」という落とし所を用意しているという、きわめて常識的なコメディ映画に成り果ててしまった。主演のローワン・アトキンソンはもちろんプロだから、求められればそうした演技は可能であるが、そこにいるのはやはりオリジナルのビーン氏ではなく、微妙にアメリカナイズされた劇場用のビーン氏だった。特に「Mr.ビーン」のファンではなかった僕でさえそう思うのだから、熱心なファンの方々がこの映画を観たときの落胆ぶりが目に見えるようだ。・・・
リュック・ベッソンがこの脚本を書いたのだそうだが、確かに「フィフス・エレメント」当時の彼なら書きそうな話である。「フィフス〜」も公開当時「少年ジャンプのマンガみたいな話」と言われたものだが、この「TAXi」などモロにジャンプ的な話そのものである。要するに基本となるのはシーンそのものであり、見せ場の連続をつなぐためにのみ設定があり、物語が存在する。これはそんな話なのだ。主人公ダニエル(サミー・ナセリ)はピザの配達人をやめた翌日にはタクシー運転手の資格を取り、大改造を施したプジョーで営業を始めるのだが、そうしなければならない必然性も何もなく、ただ単に、偶然乗せた婦人の息子が警官で、彼にスピード違反の弱みを握られたために協力して自動車窃盗団を追うことになる、という設定上の要求を満たすためのみのストーリィなのだ。
さて、問題は売りのカーチェイスシーンなのだが、正直言ってあまり感心したものではなかった。明らかに「フレンチ・コネクション」を参考にしたと思われるシーン以外はさほど迫力もなく、結末など力学的に不可能である。ベッソンの頭の中にああいうシーンが最初からあって、そこにむりやりつなげるためにああした展開になったのだろうが、もうちょっと「ありそう」な設定は作れなかったのだろうか。あまりにも視覚的に理解できることにこだわりすぎた結果だろうが、観客だってバカばっかりではないのだ。・・・
徹底的にセット撮影にこだわり、やたら人工的でカラフルな町並みや、登場人物キャラの極端なまでの単純化、だしぬけに群舞シーンに突入したりする不条理な展開は60年代にハリウッドでたくさん作られたミュージカル映画の風味だが、どことなく影を感じるのはやはりヨーロッパ映画だからだろうか。使われている言語もドイツ語っぽくもありフランス語的な部分もあって、何語だか判断がつかなかったのだが、実はオランダ語だった。この映画、オランダ製作のれっきとしたオランダ映画なのであった。オランダの映画って覚えているかぎりこれまで一度も観たことがなかったような気がする。
話はミュージカルらしく他愛のない内容だが、どういうわけか美男美女が全然登場しないのがこの手の映画としては非常に珍しい(冒頭で下宿人の娘を見初める先祖代々泥棒稼業の青年がちょっと美青年かな、と思うくらい)基本的に店子たちを追い出したい大家ボーデフォル氏(パウル・コーイ)と、シスター・クリビア(ルス・ルカ)を筆頭とする下宿人たちの攻防を描く作品なのだが、店子のひとり、発明家の「博士」が開発した「悪人を善人にしてしまう薬」が登場したりして(でも、猫がネズミをとらなくなるのが善猫化なのだろうか?)あくまでファンタジーの乗りで展開する。
細かいストーリィは割愛するが、結局のところ「友情は何にもまして大切」という結論であっさり物語は終わってしまう。もともとミュージカルはあまり好きなジャンルではなかったのだが、どういうところが好きではなかったのか、こういう作品を観るとよく判る。・・・
まさにヴィン・ディーゼルのために作られた映画といっていいだろう。とにかく頭を空っぽにして、細かいことを考えないようにしながら観ればそれなりに楽しめる娯楽作品にはなっていた。主人公ザンダー(ヴィン・ディーゼル)は過去の犯罪を帳消しにするかわりに臨時雇いのスパイとしてスカウトされるのだが、過去の犯罪といってもたいしたものではなく(車の窃盗、無許可のパラシュート降下など)そもそもディーゼル本人がそれほど悪人面ではないため、「ニューヨーク1997」シリーズのスネーク・プリスキンほどの説得力はなかった。まあ、制作側としてもその辺は承知のキャスティングだろうとは思うが。
つるべ打ちのアクションはちょっと前のボンド映画の乗りで、絶体絶命の危機も難なく乗りきってしまうあたりもボンド的。もうちょっとキャラクター独特の弱みとか、クセみたいなものを強調してもよかったのではないかと思われるのだが、中盤以降、ストーリィが流れ始めてからはごく一般的なヒーロー像そのものになってしまう。ラストはおさだまりの化学兵器で都市を壊滅させるという陰謀(しかし、水に溶けた途端にまったく無害な物質に変化してしまう化学兵器って、あまりにもご都合主義的ではないか?)を阻止するわけだが、話の舞台がチェコのプラハで、化学兵器を積んだ無人ホバークラフトを迎撃するために出撃する攻撃機がスホーイSu-22だったりするあたりがちょっと目新しかった。・・・
佐藤浩市と原田芳雄がからむシーンになると、どうしても同じ阪本監督の「KT」を思い出してしまう。それ以外の俳優たちも、この手の映画には常連の方たちばかりで、日本映画界の俳優層の薄さを計らずも見せつけられた感じだ。もう少し意外性のあるキャスティングは出来なかったのだろうか。
物語はわりとよくあるハイジャックものの変形だが、首謀者の某国人(ってどこかは一目瞭然だが^^;)ヨンファ少佐(中井貴一)のチームはまだしも、尉官クラスの自衛官までが大挙して反乱軍に加わっている、という設定にはあまり説得力を感じられなかった。冒頭に登場する、死んだ防大生がみずからのホームページに載せていた論文が事件の発端なのだが、おそらくは三島由紀夫事件の檄文を土台にしていると思われるその主張にはあまり説得力を感じられず、上滑りしている印象を否めない。本編に限らずどうも福井晴敏の書く話には、基本的な動機の部分に説得力が乏しいものが多いように思える(「ローレライ」の朝倉大佐の主張もまた然り)作者ご本人の世界観それ自体にやや偏りがあるのかもしれない。
話の中盤、敵の正体が明らかになって、ひとりイージス艦に潜入を試みた先任伍長、仙石(真田広之=けっこうオッサンっぽい味を出していた)が、ダイハードよろしく艦内を縦横無尽に動き回って敵を翻弄する、という展開になるのだが、正直言ってアクションがもうひとつサスペンスに直結せず(東京が廃虚になってしまう、という切迫感が感じられない)最終兵器(?)グソーの説得力のなさも手伝って、腰砕けになってしまうのが残念。だいたいいかにイージス艦と言えども、装備しているミサイルは有限であり、飽和攻撃をかけられたら単艦では対応しきれない。テロリストの側もそうした危険性を承知していなければならないのだが、どうやらそのあたりは単に「無敵のイージス艦」ということで無視してしまったようだ^^;
話が進むにつれてこの腰砕け感は拡大し、ヨンファの作戦など到底実現不能に見えてしまってサスペンスの盛り上がらないことおびただしい。観客の関心は、当初の「東京はどうなるのか」という心配から「イージス艦いそかぜはテルミットプラス(気化爆弾を思わせる強化焼夷弾)の餌食になってしまうのか」にシフトして、ほとんど切迫感が消失してしまう。原作を未読なのではっきりしたことは言えないが、少なくともこの腰砕けな展開は脚本家の責任によるところが大きいだろう。
せっかく本物のイージス艦が登場し、ハープーンやシースパローの発射シーンもあり、映画初登場の三菱F-2までが出演しているというのに、いかにも消化不良の作品になってしまったのは残念としか言い様がない。・・・
どうせただのアイドル映画だろう、となかばバカにして観始めたのだが、なかなかどうして脚本もしっかりしているし、セットもSFXも凝っていて、ちょっとした拾い物という感じの小品(上映時間わずか84分ながら、それほど短い感じはしなかった)だった。考えてみれば、主演の岡田准一も森田剛も三宅健も、それぞれテレビの連ドラで主演をこなしている経験豊かな俳優でもあるわけで、往年のタレント人気だけで作られたアイドル映画とは出発点が違っていたのだ。蜷川サンじゃないけど、僕もジャニーズ事務所なめてました^^;ごめんくさいm(_ _)m
宇宙船内部の使い古された感じとか、月面基地内のいかにも清潔な感じ、また、宇宙空間の冷たい感じもよく出ていて、間に合わせではない作り込まれた作品であることがよく判った。もちろん、まだ月面基地が建設途上である近未来なのに宇宙船内にちゃんと重力があったりして(居住区が回転して人工重力を発生している、というような描写はなかった)やや考証不足なところがないわけではないが、全体に国産SF映画としてはかなりマシなほうではなかろうか。
特に感心したのは脚本で、いろいろなところにさりげなく細かい伏線がちりばめられており(特にカルシウム剤の使い方は秀逸^^;)ラストまで観るとちゃんとすべてがはめ絵のようにピッタリはまってくれる。欲を言えば、レスキュー隊員たちが乗っている宇宙船のデザインにあまり機能美が感じられず(ガンダムに登場するモビルアーマーのカトキリファイン版みたい^^;)もう少し「ありそう」なデザインに出来なかったかというところと、空気の有り/無しの描写の描き分け(宇宙ものではけっこう大きなポイント)がやや曖昧だったあたりかな。製作協力しているからだろうか、やたらとインテルの商標が目立っていたのはご愛嬌^^;
にしてもこの配役、やっぱり岡田と森田はキャラが逆だと思うのだが(^_^)/・・・
「いかレスラー」のとき本編を引き合いに出して一緒にバカにした経緯もあるので、機会があれば一度は観ておかなくては(やっぱり観ていない映画を批判するのは良くないし^^;)と思っていたのだが、意外に早く観賞の機会はやって来た。
さて、映画についてひとこという前に、基本的な誤りについて正しておこう。映画のタイトルは「えびボクサー」となっているが、本編に登場するエビに似た生物は実はシャコである。もともと貝などの殻を割るために発達したシャコの前脚は、一撃で水族館のガラスを割ってしまうほどのパンチ力があり、たぶん映画製作者はそこからの連想でボクサーを思いついたのだろう。で、観終わっての感想だが、タイトルから予想した内容とはかなり違った映画だった。映画紹介や予告で断片的に観た印象では、ポール・ギャリコの「マチルダ」(ボクシングをするカンガルーの話=エリオット・グールド主演で1978年に映画化されたが、散々の悪評でもちろん日本未公開^^;)の海洋生物版かと思ったのだが、ある意味ではいかにもイギリス映画らしいまったりしたロード・ムービーになっていた。しかしそれがよかったのかというと、馬鹿馬鹿しい設定と妙にリアルな売り込み作戦がひどくミスマッチで全然面白くなく、肝心の「ボクサー」として活躍する場面など皆無、観終わったあと、この監督はこの題材で一体何を撮りたかったのか、というすごく基本的な問題に行きあたってしまった。まあ、「えびボクサー」のタイトル自体は日本の配給会社がつけたものなので、製作会社の責任ではないが(エビでもない生物が登場してボクシングすらやらない映画に「えびボクサー」というタイトルを付けてしまう蛮勇だけはちょっと買える)ちなみに原題はcrust、つまり甲殻類を示すcrustaceanの「殻」という意味だったのだが、これまた漠然としすぎていてそのままでは使えそうもない。
この程度の映画でも海を渡って外国(つまり日本)で上映され、そこそこ外貨を稼いだという前例を作ってマイナー製作会社や新人監督を勇気づけることができた、という点ではそれなりの評価をできる作品だったのかも知れないが、やはり映画そのものの出来は最低と言わざるを得ない。にも値しない作品ということで、今回の評価は^^;・・・
冒頭の遠未来らしいSFチックな描写が途中まで意味不明なのだが、話が進むに従って現在とつながっていき、ラストではきちんと収まるべきところに収まるのが心地いい。もっとも、設定自体の荒唐無稽さは、SFとしては笑っちゃうレベルではあるが^^;
ブリスターとはフィギュアを包んでいるブリスター・パック(透明な薄いペット樹脂などのプラスチック製パックで、ボール紙のバックシートと圧着されており、中のフィギュアを取り出すにはパックそのものを切るか、圧着部分を剥さなければならない)のことであり、価値が下がるのが嫌で、せっかく買ったフィギュアをブリスターに入れたままコレクションしているヲタク青年ユウジ(伊藤英明)が主人公。「電車男」がヲタクの生態を外側から描いた作品だとすれば、本編はみずからもヲタクな監督、須賀大観がヲタクを内側から描いた作品といえる(「マクファーレン・トイズ」「カトキハジメ」「二つで十分ですよ」等々、ヲタクターム続出^^;)「電車男」が通り一遍なヲタク観(ダサイ・ウザイ・要領悪イ・彼女イナイ)で作られたキャラだとすれば、本編の主人公ユウジは彼女持ちだしけっこういい男だし、意外に要領もいいし世間一般のヲタク観とはやや異なる。考えてみればそれは当たり前の話で、当人の嗜好とその外見とはもともと何の関係もないし、ヲタクが彼女を持ってはいけないと誰かが決めたわけでもない^^;ヲタクとは要するに、何の変哲もない普通の男が単にヲタク嗜好を持っている、というだけの話なのだ。もっとも、発祥当時の「お宅」にはもっとネガティブな意味も含まれていたのだが、現在使われている言葉の意味にはそういう要素はほとんどないようだ。
さて、この映画の世界では、フィギュアコレクターの誰もがあこがれる幻の激レアフィギュアが存在する。それは、以前ごく少量が出版されて、今ではそのコピーだけが出回っているアメリカン・コミック「ヘルバンカー」の主人公をかたどったフィギュアで、パチもんは存在するものの、実物はまだ誰も見たことがない、というまさに究極のレアもの。主人公のユウジも血眼になってそのフィギュアを捜しており、世界各国のショップを検索して在庫を捜すのだが、もちろんそんなものは存在しない。しかし、簡単に見つからなければ見つからないほど渇望してしまうのが人間の常、やがては友人に託された車も、家具までも売り払い、ようやく作った金を手に「ヘルバンカー」フィギュアを買い取りに向かうのだが・・・。
前述の時々挿入される未来シーンとともに、本編にはくだんの「ヘルバンカー」そのもののアニメーションも挿入されている。これがなかなかのセンスで、監督須賀大観のなみなみならぬこだわりを感じさせられるところだ。ちょっと「ヘルボーイ」や「スポーン」を思わせるダークな話で、現在のアメコミ界の流行りをうまく反映しているのだが、肝心の「ヘルバンカー」のキャラそのものにもうひとつ魅力が足りないのが残念だった。おかげでヲタクではない一般観客に、一体どこがよくてあんなものを欲しがるのか、という逆ベクトルが生じる結果になってしまった。
映画の進行につれて、車イスに乗った謎の韓国人(?)老人が登場し、何か曰くあり気なのだが、これもやっぱりラストにちゃんとつながるようになっている。映画を最後まで観ると、あまりに無理のある設定ではないかとは思うものの、一応の筋は通っていた。いずれにしろ、現在、遠未来、そしてアニメ界までをもつらねた意欲作だということはいえるだろう。ラストシーン近く、自分のせいで怪我をさせてしまった彼女に、「君は世界にひとつの限定品だ」と告白するあたり、なかなか憎い演出なのだが、ちょっと使いどころを誤った感じがしてしまうのは計算違いなのだろうか?・・・
冒頭、いつにもまして派手な登場の仕方をするオースティン、バイクを停めてヘルメットを取ると、演じているのはなんと本物のトム・クルーズ、そして相棒の女エージェントはグウィネス・パルトロウ、さらに敵役ドクター・イーブルには名優ケビン・スペイシー、ミニミーはダニー・デビート。実はこれはオースティンをモデルにした活劇映画「オースティン・プッシー」の撮影風景で、監督はなんとあのスピルバーグ(俳優として他人の映画に登場するのは「ブルース・ブラザース」以来だとか)という設定なのだが、オープニングのこのシーンだけで一体いくらくらい出演料がかかったのか、マジで気になってしまいそうだ(本編製作費は160億円!!といわれているが、どこにそんな金がかかったのか判らないほど今回もチープな出来である)
冒頭の掴みがかなりなものだった割に、その後は意外に地味に展開し、新キャラ、ゴールドメンバー(いうまでもなくゴールドフィンガーのパロディだが、正直あまり魅力的なキャラではなかった=またもやマイク・マイヤーズ、ただしラストシーンだけはどういうわけかジョン・トラボルタ)も絡んで物語は例のごとく展開する。今回の舞台は日本で、フジヤマもスモウ・レスラーも登場するのだが、(たぶん意図的に)ロケではなくすべてスタジオで撮影しており、かつての筒井康隆の傑作SF「色眼鏡のラプソディ」もかくやと思われるほど誤解と偏見に満ちた日本のイメージが展開される(でも「版権の問題があるのでこれはゴジラじゃないんだよー」と言い訳しながら逃げる男など、「わかってやってるんだよ」とでもいいたげな演出も目に付いた)映画に登場するロボット製作会社、ロボト社の社長がロボト(ROBOTO)氏なのは、おそらくスティックスの80年代の名曲Mr.ROBOTO(テレビドラマ「電車男」第一話冒頭で流れていた「ドモアリガト、ミスター・ロボット」と歌う例の曲ね)から来ているのだろうが、この曲自体「パーツはメイド・イン・ジャパン」などという歌詞があることでも判る通り、バブル当時のジャパン・パワーを強く意識したものであり、それだけの繋がりで使ったのだろう。ロボット製作会社なのに一体のロボットも登場しないあたり(第一作、第二作ともにフェムボットというロボットが登場しているのに)最初から会社の業務そのものには何の興味もなかったのがミエミエだ。
今回登場する相棒の女エージェント、フォクシー・クレオパトラはデスチャのビヨンセが演じているのだが、どういうわけかもうひとつ奇麗に撮れていないのが残念だ。先日来日したときいくつかの番組にゲスト出演していたが、この映画に出ていたころより遥かに奇麗になっていた。もともと本職の女優ではないためか、正直言ってオースティン役のマイク・マイヤーズとの息はもうひとつ合っておらず、結果的に映画の乗りをやや削いでしまっていた。
いちばん驚いたのは、今回オースティンの父親ナイジェル役で登場していたマイケル・ケイン。モンティ・パイソンを生んだ国の俳優なので、お笑いに理解があるのは判るのだが、それにしてもよく出演を承諾したものだ。前回もちょっと描かれた父と子の関係が、今回はオースティンと父ナイジェル、ドクター・イーブルと息子スコット、そしてさらに・・・^^;とにかく、前回より詳しく描かれている。・・・がしかし、結局それが何の解決にもつながっていないのはお約束通り^^;
それにしても気になるのが作品中に何度も登場するオランダ差別^^;当のオランダ人が見たらかんかんに怒るのではないか、と思うくらい偏見に満ちたものだが、その意図するところはもうひとつ判らなかった。かつてのタモリの名古屋批判同様に、その実態はほとんど意味のないものなのかも知れないが、「ベルギーも嫌いだ。なんたってオランダの隣だからな」なんて台詞が出てくると、さすがにちょっと心配になる。・・・
久しぶりに観たのだが、ギャグのオチが読めていてもやっぱり笑ってしまった。こうしたプリミティブな笑いは、「笑い」そのものの本質なのかもしれない。前回のヒロイン、バネッサ(エリザベス・ハーレイ)の正体が実はフェムボットだったと露見する導入部から、例によってギャグ全開のおバカ演出で物語はテンポよく展開していく。前回登場したバート・バカラックも再登場、今回は歌オヤジ、エルビス・コステロを伴って、60年代末期の雰囲気を盛り上げてくれる。残念なのは、なにしろ吹き替えなので原語の言葉遊びやスラング表現などがわからなかったことだが、これはたとえ字幕でもほとんど同じことなので、ちゃんと理解したかったら英語をネイティブなみにしゃべれるようになるまで勉強するしかないのだろう。
前回の「オースティン・パワーズ」ではオースティン(マイク・マイヤーズ)が冷凍睡眠から蘇る、という形で時代のギャップを表現していたのだが、今回はなんとタイムマシンを登場させ、60年代と現代とを行き来するという、さらに話を混乱させる設定になっていた(タイムマシンでもあるサイケ調のニュー・ビートルが印象的)笑えるのは前回チョイ役でカメオ出演していたロブ・ロウが、今回は60年代のナンバー2役でキャスティングされていたこと。確かに、雰囲気は若き日のロバート・ワグナーにちょっと似ていなくもない。
悪玉ドクター・イーブル(またもマイク・マイヤーズ)が家庭の問題を抱えているのも前回同様だが、今回はさらにイーブルのクローン、ミニミーまでが絡んできて話はさらにややこしくなる。ミニサイズのクローンの出現で、イーブルの息子スコット(セス・グリーン)は前回以上にひねくれてしまい、イーブルの頭痛の種になる。全体に荒唐無稽な話の中にあって、この親子の話だけは部分的に妙なリアリティがあり、脚本も書いたマイク・マイヤーズのこだわりが発揮されている部分なのかもしれない。それとは関係ないだろうが、月面基地でイーブルがオースティンに「実は私はおまえの父だ」と告白する場面でも爆笑。もちろん「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のパロディであり、おまけに「嘘。ただいってみただけ」とすぐ否定してしまうので、話の流れとは全然関係ないのだが、考えてみるとこのやり取りはストレートに第三作、「オースティン・パワーズ・ゴールドメンバー」に直結しているわけで、あるいはシリーズを意識した台詞だった・・・わけないか^^;
ドクター・イーブルがタイムマシンを使って60年代に行き、そこで冷凍睡眠中だったオースティンから「モジョ」を奪ってしまったために、現在のオースティンからも活力が失われてしまう。中盤以降は「モジョ」争奪戦が話のキーポイントになる。さて、この「モジョ」だが一体何なのか、結局最後まで映画を観てももうひとつ判らなかった。精力、活力のもと、くらいの意味だろうとは判るのだが、具体的な何かを意味しているわけではないようで、それを具体的にガラス瓶に入った状態で見せられても、こちらとしては「だからなんなの?」といった感想しか抱けない。最終的に瓶入りの「モジョ」がどういう運命を辿るのか、映画を観終わって知ってしまったあとではなおさらだ。結局のところ、単にお祭り騒ぎをするためだけのネタで終わってしまった感が強い。
マイク・マイヤーズ演じる第三のキャラとして、今回からもう一人の悪玉、ファット・バスタードが登場する。この男、語尾に必ず「バカヤローめ」「コノヤローめ」と付けるのが特徴で、とにかくメチャクチャに太っているうえに下ネタ連発、それもセックス系ではなく排泄系の方の下ネタで、画面にこいつが写っているだけで何か臭って来そうだ(たまたま猫がトイレに入っていたりして^^;)マイヤーズは体重が200キロくらいもありそうな着ぐるみを着ているのだが、この特殊メイクがなかなか秀逸で、実際アメリカあたりにはこんな感じのスーパーデブがけっこう目に付く。最近の過剰な健康ブームのおかげか、映画からこうしたデブキャラが消えて久しいが、いるものはいるのだからやっぱり無視はよくないだろう。・・・
一度でも原作を読んだことがある人なら、いつもお面を付けたような顔のハットリくんと主演の香取慎吾クンとの差は一目瞭然、どう見たってこれはハットリくんではない。あのキャラを原作に忠実に描きたいなら、結局アニメしかないのだろう。それを敢えて実写でやるからには、確かに本編のような大胆な翻案が必要になる、ということは判るのだが・・・。
この映画は設定の段階で大きなミスを犯している。それは、ハットリくんが主人以外にその姿を見せてはならない、という掟だ。そのためにハットリくんは主人となったケン一くん以外の人間のいるところでほとんど活躍できず、その結果脚本がひどく不自由なものになってしまった。とにかく話に広がりがなく、展開がいちいち重い。子供向けの映画でこのもどかしさは致命的ですらある。姿を見せないのではなく、正体を明かさない、という程度の縛りにしておけば、活躍の舞台もぐっと広がるし、脚本のとれる選択肢も増えたと思うのだが、そうした設定はあまりに類型的だと思ったのだろうか。さすがにケン一ひとりだけでは登場人物にあまりに幅がないと思ったのか、田中麗奈演じる目の不自由な女性が登場し(存在は知られても、「見られ」なければいいという安易な発想^^;)ハットリくんと三人での会話が成立するのだが、ストーリィ上どうしても必要だったキャラではないため、あからさまに脚本家の都合で作られたのだな、と判ってしまうのも興ざめだ。
マンガのライバルであるケムマキ(ガレッジセール・ゴリ)は本編でも登場するが、やはり大人なので、小学校に出没してもおかしくない代用教諭として登場する。まあハットリくんが香取である以上仕方ないのだろうが、本来子供のはずのキャラがこうしてみんな大人になって出てくると、「フック」のような「大人になったその後」を描く映画みたいに思えてしまう。ハットリくんもケムマキも、修業中というにはちょっと歳をとりすぎていて(香取クンなんか撮影中NHKでは近藤勇を演じていたわけだし^^;)かなり無理を感じてしまうのだ。
ハットリくんがケン一の部屋に身を寄せたころ、巷では忍者の世界から足を洗って今は世間に溶け込んでいるもと甲賀忍者たちが次々と襲われ、正体不明の薬品を飲まされて意識不明に陥ってしまう、という事件が続発する。事件が甲賀忍者の仕業と睨んだハットリくんはケムマキを問い詰めるが、事件は彼の仕業ではなく、現代忍者の堕落を嘆いた別の甲賀忍者が起こしたことだったと判る。そこからあとの展開にはまったく新味も何もなく、まさにルーティーン・ワークという感じでエンディングまでなだれ込んでしまう。クライマックス直前でとうとうハットリくんは人前に姿をさらし、掟を破ることになってしまうのだが、ここでなぜ姿を見せる必要があるのかも判らない。とにかく、理由の判らない縛りがたくさんある映画だな、というのが第一の印象だった。
忍者が忍者らしさを発揮するのはやはり戦闘するときと移動するときだと思うのだが、移動シーンはCGまるだしでリアリティも糞もなかったし、戦闘シーンはほとんど学芸会乗りで、とても真剣勝負には見えなかった。一応はチャンバラ映画なのだから、もう少しそれらしい殺陣は必要だっただろう(中国の武侠映画で観客はみごとな殺陣に馴れているのだ。この程度の殺陣ではいまどき子供もだませない)
作り方次第では、日本版「スパイダーマン」とでもいうべき上質の娯楽作品になった可能性もあった映画なのだが、残念な結果に終わってしまった。・・・
X星人が登場して、怪獣を手先に地球侵略するあたりは「怪獣大戦争」から、大量の怪獣とともにミニラが登場して、親ゴジラと親子の情愛を交すあたりは「ゴジラの息子」や「オール怪獣大進撃」からそれぞれパクっているのがまるわかりの脚本である(てゆーか東宝としては「怪獣総進撃」ラインのリメイクを狙ったのだろう)怪獣同士の絡みのシーンは(一部CGはあるものの)昔ながらの着ぐるみプロレス、ミュータント同士の素手の格闘はまんま「マトリックス」と、とにかく見たことのあるようなシーンのオンパレード。おそらく製作サイドの要求と、技術的な限界からこうした映像の氾濫になってしまったのだろうが、手垢のついたおなじみのアクションシーンを必要最小限の説明的演技でつなぐという、ゴジラ映画というよりは一昔前の戦隊ものみたいな演出で、一体どのあたりの層を狙って作った映画なのか、観終わるまで判らなかった。
とにかく評価するのが難しい作品だ。総花的にいろんな怪獣が登場するために、一頭あたりに費やす時間が非常に短く、ハリウッド版ゴジラの「ジラ」などほんの一瞬で片づけられてしまう(マグロばっかり食ってるやつはダメだな、とX星人の首領=北村一輝=にまで言われる始末^^;)あとの怪獣たちもやはり印象が薄く、数だけたくさん出せばいいというものではないことを、過去の駄作群(「怪獣総進撃」「オール怪獣大進撃」等々)に続いてまたも証明してしまったようなものだ。怪獣だけでは飽き足らないのか、轟天号の艦長役であのドン・フライ、南極基地の守備要員役でレイ・セフォーとゲイリー・グットリッチ、ミュータント部隊の教官役で船木誠勝、それからテレビのコメンテーター役で角田信朗と有名格闘家が顔を揃えているのだが、これまた監督の趣味は判るものの、それなりの味を出していたドン・フライ以外はほとんど出ている意味がわからなかった。せっかくアクションシーン満載の異色ゴジラ映画なのに、プロ格闘家を出していながら下手糞な演技しかさせないのはいかにももったいないということには、北村作品ならなんでもOKという熱狂的なファンすらも同意するところだろう。
さて、これで今度こそゴジラシリーズは終止符を打ったということだが、なあにこんなドル箱キャラ、いつまでもほっておいたら株主が許さない。さほど遠くない将来、三度目の復活を果たすことはまず確実だろう。これまでのシリーズをリセットした新ゴジラが、今度こそ大人の鑑賞(マニアの観賞、という意味ではけっしてない)に耐える作品になることを、第一作目からリアルタイムで観ている一ファンとして心から希望する。・・・
「日本沈没」に始まる東宝の大人向け(といっても別にエロがあるわけではなく、単に「大人の鑑賞に耐える」といった程度の意味)特撮映画も、次の「ノストラダムスの大予言」でミソをつけ、本編「エスパイ」ではほとんどお子様路線に戻ってしまった(続く「東京湾炎上」では反省したのか、かなり大人向け路線に修正されていたが、それも不評だったのか、ここで東宝大人向け特撮映画路線は立ち消えになってしまう)
実はまだ若いころ、この作品を劇場で見ているのだが、あまりの出来の悪さに暗澹たる気分になったのをよく覚えている。このどうしようもない感じは、ちょうど実写版「ゴルゴ13」を観た直後の感じに似ている。それは、同じような傾向の作品がこの先公開されてももう劇場に足を運ぶことはないだろうな、という諦念にも似た気持ちであった。
とにかく、マトモに評価するのもばかばかしく思えるほどリアリティのない脚本に、役者たちのいかにも子供だましといったオーバーな演技、そして、肝心なところで嘘っぽく見えてしまう中野特撮と、うんざりするところは山盛りである。逆にそうした部分を「味」として愛好するマニアたちも存在するようだが、狙ってやっていたのならまだしも、いい加減な仕事の結果まで評価することは甘やかすことにほかならず、こうしたジャンルの先行きをかえって危うくするものでしかないだろう。・・・
映画化より少し前にテレビドラマ化されており、どうしてもそっちの印象が強かったために映画はもうひとつ中途半端な作品と映ってしまった。やはりこの手の、時間の経過を綿密に描かなくては成立しない物語の場合、2時間程度の枠に収めなくてはならない映画というジャンルは不利なのかもしれない。まあ、最終的には監督の演出力の問題、といえばそれまでなのだが。
テレビでは田中美佐子が演じた主人公、香取雅子役を、映画では原田美枝子が演じており、崩壊しかけた家庭を弁当作りのパートで支えているという設定は同じ。職場の同僚が起こしてしまった殺人事件に心ならずも巻き込まれ、やがてパートの主婦たちが死体解体の専門職人集団になっていくあたりはなかなか手慣れた演出だが、そのあたりの描写も、じっくり時間をかけて描いたテレビドラマと比べるとあまりに簡単に事が運びすぎ、全体にあり得ないファンタジー作品という雰囲気が濃くなってしまった。ちょっと笑ってしまうようなコメディ的演出は、バラバラ殺人事件という凄惨この上ない状況からなんとか観客の目をそらそうという計算なのだろうが、おかげでほとんど「その場所に切り刻まれた死体がある」という実感が伴わない結果になってしまった。同様に死体をまったく見せない演出ながら、うまく視聴者の想像力を刺激して「あまりに凄惨」という抗議が殺到したテレビドラマ版とはえらい違いである。
雅子たちがバラバラ事件の犯人であることに気付き、闇社会で出た死体を解体してこっそり処分する仕事を斡旋するようになる闇金業者、十文字(香川照之)のキャラの違いもまた、映画とドラマとの差を端的に示していた。映画の十文字は雅子を単に「イケてる」女としてしか見ておらず、足を洗って郷里に引き込むときにも、自分の女にならないか、と誘う程度だが、哀川 翔が演じたテレビドラマでの十文字は雅子を女としてよりもむしろ、闇社会に生きる一個の人間とみなしており「あんたすげえや」と、ことあるごとに尊敬のまなざしで見るのだった。桐野夏生による原作もまた、従来のフェミニズムとは違った視点から逞しいヒロインを描いており、そうした意味でもやはり映画版の十文字よりテレビ版の方が、より原作の意図に忠実ではなかったかと思われる。
脚本の杜撰さもちょっと気にかかる。冒頭、事件のきっかけを作ることになる佐竹を、吉本を代表するコメディアン、間寛平が不気味に演じているのだが(ふだんコメディアンの真剣な顔を見ることはほとんどないので、こうしたキャスティングは意外に効果的)何の説明もなく警察より早く事件の全貌を突き止め、先回りして師匠の親を殺してしまったりして、あまりに脈絡がない。せっかく間が好演しているのに、キャラクターに説得力がないぶん損をしている感じだ。
ラストシーン、北海道では見えるはずもないオーロラを映し出して映画は終わるのだが、これも確か原作とは違ったはず。事件が発覚して逃亡を始めてからの展開に、あまり緊張感がなかったのが気にかかった。考えてみたら追う側のやくざや警察の描写が皆無なのが致命的だったのかも。・・・
2005年12月30日、テレビ東京で深夜から早朝にかけ、邦画がなんと三本立てで放映された。で、これがその一本目。もちろんリアルタイムでは観られなかったので、年が明けてからの観賞である。
犬童一心の監督作品としては「金髪の草原」に次ぐ劇場用映画で、前作に続き池脇千鶴が主演している。物語は、どこにでもいそうなちょっと顔のいい大学生ツネオ(妻夫木聡)がひょんなことから障害者のジョゼ(池脇)に出会い、やがて恋に落ちて、という典型的 Boy Meets Girl ストーリィなのだが、さすがに田辺聖子の原作はそんな一筋縄のお話にはなっていない。文庫本にしてわずか数十ページの短編だが、本編はうまくそのエッセンスをすくい取り、見事な脚色で二時間弱の映画に仕上げている。
なんと言っても特筆すべきなのはジョゼのキャラクター設定だろう。映画では施設から祖母に引き取られ、障害者を恥とする偏見のおかげで外出もままならず、ろくに学校も出ていないのだが、祖母がごみ捨て場から拾ってきたたくさんの本を隅々まで読み、とんでもない雑学博士になっている、という設定。そうした博学ぶりとコテコテの大阪弁、そして時々見せる純粋さとがないまぜになった難しいキャラクターを、池脇は胸まで見せる体当たりの演技で見事に演じていた。一方、ツネオ役の妻夫木はいつもながらの自然体で、ちょっと軟派系演技なのだが(「ローレライ」みたいに特攻隊員役でこれをやられると辛いが^^;)今回の役はまさにそんなキャラなので、他に配役を思いつかないほどの適役だった。
難しいと思うのは、今のような時代にあえて身障者をメインキャラクターとした映画を作ることである。さすがにあからさまな差別用語は使えないので、祖母はジョゼを「壊れもの」と呼んでいたが、普通ならこういう場合は「片輪者」であろう。もちろん差別用語をどしどし使うべきとは微塵も思わないが、不自然な造語を使えばそれで済むわけでもない。マスコミで重宝される「〜の不自由な人」みたいな表現を一般社会でしているわけでもなく、差別をなくそうとする運動との相克は今後も続くだろう。ただ、単純な「言葉狩り」だけで差別がなくなる、といった短絡的な発想だけはやめて欲しいものだ。
それはともかく、こうした難題を扱った作品としては例外的にさわやかな印象を残す作品となったのは、やはり監督犬童一心の資質によるのだろうか。もちろん身障者のジョゼが外に出れば有形無形の差別を受け、たとえばツネオに振られる形となった香苗(上野樹里)に不自由な足を「武器にして」と罵られ、びんたを張りあったりもするが、このあたりのやり取りも観客にどちらかに肩入れさせるような撮り方をしておらず、等身大の人間像としているあたりが新鮮だった。
原作では描かれなかった二人の別れについても、映画ではごくあっさりと、ほとんど事後報告のような形で描いている(香苗とふたたび付きあいだしてから、ツネオが不意に路上で泣き伏すシーンで、それまでどんな葛藤があったのかを暗示しているが)実際には、出会った途端に始まる両思いの恋などありえないように、両方の気持ちがピッタリ一致した別れなどあるはずもなく、別れとはどちらかがみずからの気持ちを押さえつけることで初めて成立するのだろうが、そんな自明のことをだらだら描くより、その後のふたりの現在を前向きに描くことで(電動車イスに乗って軽やかに街を走るジョゼが印象的)いい形で物語を締めくくっている。終わりよければすべてよし、多くの人がこの年一番の作品として押しているのも頷ける。・・・
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