個人的にこの映画一番の収穫はなんといってもピエール瀧である。いつものほほんとした自然体のピエールしか見たことがなかったので、まさかこんなに芯の通った軍人役を演じられるとは思わなかった。いやまったくびっくり\(@o@)/
本編の売りはやはり随所にちりばめられたCGなのだろうが、イ507は最初に登場する乾ドックのシーンにいちばんリアリティがあり、出港してからの動いているイ507はどう見てもミニチュアにしか見えなかった。また、スタジオで撮ったと思われる甲板上のシーンは現実感に乏しく、背景が合成なのがミエミエだった。「男たちの大和」の時にも思ったのだが、どうして船が主役の映画なのにこうも無神経な撮り方をしてしまうのだろう。艦隊決戦(ではないのだが、いつも敵艦がゴッソリ出てくるのでこんな感じになってしまう)シーンに登場するアメリカ海軍艦艇は、バカのひとつ覚えのように密集陣形で戦いを挑んできて、一発の砲弾に文字通り一石二鳥でやられたり、舵を壊されて互いに衝突したりとまさにバカ丸出し^^;いくらなんでも現実の戦いでこれほどの密集陣形を組むことはありえず、これはむしろアニメの戦い方である。それもそのはず、監督の樋口氏はもともとアニメ畑の出身なのだ。
さて、タイトルのローレライとは簡単にいってしまえば千里眼である。技術的に考えれば千里眼の能力それ自体より、脳裏の映像を電気的に抽出してスコープに表示する技術の方が遥かにすごいと思うのだが(たとえば、夢は誰でも見るが、それをビデオのように映像化して記録する技術はいまだにない)その辺はあっさりパスしてローレライ=ヒロイン・パウラ(香椎由宇=ユダヤ人なのになぜか日系で日本語を解するというご都合主義設定。別に金髪碧眼のユダヤ人美少女だって構わないと思うのだが。言葉など判らないほうがかえって直接的なコミュニケーションがとれるわけだし^^;)として扱っている。ちなみにこのローレライという技術、確かに高精度レーダーとしては優秀だが、これがあればスクリュー音が無音化するわけではなく、また、魚雷がホーミングしてくれるわけでもない。もちろん艦そのものがステルス化するわけでもなく、原爆に匹敵するほどすごい技術とはいえないだろう。
さて、その原爆だが、その名称や原理が知れ渡ったのは終戦後の話であり、軍部でも一部技術者以外は「新型爆弾」と称していたはずである。一般の士官や下士官までがその呼び名を知っていたとは思えない(が、戦前に作られた「エノケンの孫悟空」にもテレビが登場するくらいだから、案外知っている人は知っていたのかもしれない)また、作戦を立案した張本人である朝倉大佐の真意、つまりローレライをアメリカに引き渡すのと交換に、東京に原爆を投下させる、という考えも理解できない。僕など、もとから決まっていた東京原爆投下を、ローレライと引き換えに中止させる作戦だと聞き違えたくらいだ。なぜ東京に原爆を落とす必要があるのか力説するシーンが一応はあるのだが、語っている朝倉本人、というより演じている堤真一にその確信がなかったのか、まったく理解不能の屁理屈に終わっていた。百歩譲って朝倉大佐自身は自己完結的に確信していたとしても、あれだけの賛同者を得て艦を乗っ取ってしまうあたりに大きな無理を感じてしまった。現に、賛同者の一人であったはずの田口(ピエール瀧)の裏切りにより作戦は頓挫してしまうわけだから、やはりもっと説得力のある設定を考えるべきだったろう。当時の若手士官には継戦派が多かったのだから、むしろそうした頭の堅い連中を黒幕に据えたほうが説得力はあったと思う。
絶望的な状況下でイ507は敵中突破を計り、見事敵艦隊のど真ん中に浮上して、折しも離陸し東京に向かう途中の原爆搭載機を主砲にて撃墜(って無理だろ普通^^;てゆーか、そもそも撃墜した機体に本当に原爆が積まれていたのか確かめる術はないはず)した後、集中砲火を浴びつつも海中に姿を消す。死を覚悟して突入した彼らのその後を描かないのはこの手の架空戦記ではエチケットであろう。そういう意味ではこの終り方は正解だったと思うが、その後の蛇足のような現代のシーンがなぜ必要だったのか、イマイチ判らなかった。冒頭、この老人の告白から話が始まる、というのならまだしも、まさにとってつけたように老人の思い出話で締めくくる、というのはやはり蛇足としか言いようがない。・・・
どうして昭和レトロなキャラクターを平成の現代に移植して活躍させなければならないのか、基本的な部分で?マークのついてしまう作品であった。本格的に昭和レトロにこだわるなら「三丁目の夕日」みたいに大規模にVFXを導入せざるを得ず、とても予算が足りなかったのかもしれない。一方、鉄人を現代的スタイルにリメイクするのはだいぶ前テレビアニメですでにやっており、結果的にあまり成功とは言えなかったために、あえて原作に近いレトロなデザインのまま登場させたのだろうが、おかげで平成の超高層ビル群を背景にして身長10メートル程度の鉄人とブラックオックスがチマチマ闘うという、変に中途半端な絵になっしまった。
冒頭のブラックオックス登場シーンはなかなか細かい演出で、驚いて飛び立ったカラスたちと大きさを対比することで巨大感を出したり、ただ道路近くを飛び回るだけで、ロケット排気により自動車が宙を舞って壊れるような描写は秀逸だと思った(いちばんすごいと思ったシーンが、最初の東京タワーを捻るところだというのも、ちょっともったいないが^^;)しかしながら、CGまるだしの質感表現にはかなりげんなりしてしまった。まあ、正体不明の新素材で作られているブラックオックスがプラスチック・サーフェスなのはまだ仕方ないとしても、鉄人までがのっぺりツルツルなのはかなり不自然に感じた。どう見てもあれは鉄製ではない。てゆーか金属製にすら見えない。倒れてもまったく汚れず、力いっぱい殴られても凹むどころかかすり傷ひとつつかない素材など、この世に存在するはずがないのだ。正太郎が見ている戦闘シミュレーションのポリゴン画面と、実際の戦闘シーンでほとんど差がなかったことを、アニメーターは猛反省すべきだろう。
突然大役を押し付けられてしまった平凡な少年、金田正太郎の成長物語としての視点から作った映画なのは判るのだが、それと上記のようなポイントをきっちり描くこととは別に相反するわけではなく、中途半端な翻案がかえって作品のグレードを下げてしまっていた。演出以前の問題なだけに、残念な作品である。・・・
前作から10年後、忘れたころになって作られた続編である。大プロデューサー、デイーノ・デ・ラウレンティスはこの間に「デッドゾーン」「炎の少女チャーリー」「デューン 砂の惑星」「コナン・ザ・デストロイヤー」「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」といった綺羅星のごとき娯楽大作を生み出しているのだが、どういうわけかその後に作ったのが、前作の監督ジョン・ギラーミンをわざわざ再度起用して撮った本編^^;
とにかく、前作で死んだと思われていたコングが、実は仮死状態のまま10年間もとある大学の研究室で眠り続けていた、という設定自体すでにトンデモである。開発中の人工心臓がようやく完成したが、移植するためには大量のコングの血液が必要になる。しかしもちろんコングの血は入手できず、いまだに移植手術のめどはつかないのだった。そんな時都合よくボルネオでメスのコング(レディコング^^;)が発見され(!!)あっさりアメリカに運ばれてきて、その血を輸血して(血液型が合わなかったらどうするつもりだったのだろう?)移植手術が行われ、コングは無事蘇生する。しかし、お互いの存在に気付いたコングたちはそれぞれに惹かれあい、やがて手に手をとって脱走してしまうのだった・・・って、前作のヒロイン、ドワーンの立場はどうなるんだよ(;o;)
コングの人工心臓はまだ本調子ではなく、つねにモニターでチェックしないと死んでしまう危険がある。そんなわけでコングの主治医エイミー(リンダ・ハミルトン=ターミネーターの次がこれかよ^^;)は、レディコングを連れてきた張本人ミッチェル(ブライアン・カーウィン)とともにコングの後を追うのだが、コングたちの仲むつまじい様子に触発されてか、彼らもひとつの寝袋にくるまって寝たりして、どうも緊張感が足りない(そういえばリンダ・ハミルトンはターミネーターでも逃げながらマイケル・ビーンと寝てたっけ^^;)
前回のコングでは残酷描写が不足していたと思ったのか、今回はコング狩りにやって来た男たちに逆襲する場面がある。逃げる男の一人を捕まえてポッキリ二つ折りにしたり、別の男をぱくっとひと飲みにしてしまったりと、いかにも怖い「怪獣」らしい側面を強調して見せていた。そのおかげか本編はしっかりPG-13のレイティングになっていた(アメリカではG=一般=レートの映画はお子ちゃま向きとして若者にバカにされる。そこで、わざと残酷なシーンや汚い言葉を入れてPG-13=13歳以下は親の同伴が必要=レートを得るのだそうだ)・・・
1933年に製作されたオリジナル版「キング・コング」をリメイクした作品。物語の展開はほぼ原作通りだが、細かく見ていくと、コングをアメリカに連れ帰った連中の最初の動機はショービジネスとは関係なく、単なる油田捜しだったりして当時の社会情勢(オイルショック直後で、エネルギー危機が叫ばれていた)が反映されている。ではなぜ女優の卵、ドワーン(ジェシカ・ラング)が同行していたのかというと、偶然彼女の乗っていた船が船火事をおこし、生き残った彼女一人がゴムボートに乗って漂流していたところをコングの島に行く途中の一行に拾われるという、まさに典型的ご都合主義の展開^^;
やがて島に着いたドワーンは原住民にさらわれ、コングの生け贄として柱に縛りつけられるのだが、彼女を気に入ったコングはそのまま持ち去ってしまう(ドワーンをつかむシーンなどで時々登場する実物大のコングの手は、その動きといいディテールといい、この映画の中で唯一評価できるポイント)その後の展開はお約束通りで、主人公ジャック(ジェフ・ブリッジス)によりドワーンは救い出され、それを追ってきたコングは罠にはまってそのままアメリカまで連れていかれる。そして一般公開の日、檻に入れられたコングはドワーンに詰め寄る記者たちを見て襲われていると勘違いし、檻を破って暴れ始める(巨費を投じて作られた実物大キングコングはこのシーンにちょっとだけ登場するが、ひと目見て作り物だとわかるくらいに情けない出来だった)ニューヨークの街中を破壊しつつ彷徨うコングに、とうとう軍は攻撃命令を出し、やがてコングは故郷のツインタワーによく似た国際貿易センタービル(今観ると悲しいものがあるが)によじ登っていくのだった・・・。
公開当時広告に使われたイラストでは、巨大なコングが片手にジェット機を握りしめており(現行DVDのパッケージイラストにもなっている)ラストシーンではいかにもものすごいバトルが展開されたかのような印象があるが、実際にはこんなジェット機は登場しないし(攻撃をかけるのはヒューイ・ヘリコプター)もちろん敵に掴みかかるような場面もなく、コングは一方的に撃たれるだけだった。また、コングの島のシーンも貿易センタービルのシーンもともに夜で、画面が暗くてディテールがよく判らず、迫力も何もない映像だった。いうまでもなく特撮のアラを見せたくなかったのだろうが、それにしても、もう少し見せ方を工夫するなりして、サービス精神を発揮して欲しかったところだ。
このようなしょうもない作品だったのだが、驚いたことにこの年(1976年)の興収第一位だったのだそうだ。映画の出来そのものより、この程度の映画に、この年公開された他の作品が一本も太刀打ちできなかったことの方が驚きである。・・・
この映画のおかげで10年ほど前かかわった作品集が再刊され、少しばかり儲けさせていただいたので、そのお礼もかねて久しぶりに劇場に足を運んだ(^_^)/邦画を映画館で観たのはいったい何年ぶりだろう(と思ったらついこの間「ネガドン」観たっけ^^;)
特別年少兵が大和に乗り組み、やがて仲間たちが艦と運命を共にするのをひとり見送るまでを描いた作品だが、冒頭でくどいくらいに入るナレーションが途中からなくなってしまい、たとえば艦長の交代劇などまったく触れられないので、艦長がいつの間にか勝野洋から奥田瑛二に代わっていたりしてちょっと混乱する。もっともそうしたお偉いさんの描写はほとんど出てこず、基本的に烹炊班長森脇二等兵曹(反町隆史)、対空機銃射手内田二等兵曹(中村獅童)そして大和に配属されたばかりの特別年少兵神尾(松山ケンイチ)を軸に物語は展開する。それだけでは現代との接点がないと思ったのか、仲代達矢演じる年老いた漁師が冒頭に登場し、鈴木京香演じるかつての大和乗組員の娘を大和の命日(4月7日)に大和の沈没地点までつれていくことにより、60年間の時空をつなぐ役割を与えられる(にしても、鈴木京香演じる乗組員の娘はじつは養女で、もとは戦没者の遺児だったのだが、物語の現代が2005年なのだから、一体何歳という設定なのだろう?)
群像劇としての物語は可もなく不可もない出来で、もはや巨匠といっていい域に達している監督、佐藤純彌らしい楷書の演出であった。やや点描的描写が多いので印象が散漫になったのは否めないが、もともとの原作がインタビューをまとめたものである以上、こうした傾向が出てしまうのは仕方ないのだろう。
やはり一番の売りは、6億もの巨費を投じて尾道に組み立てた大和の実物大オープンセットで、実際これはかなりよく出来ていた。大和の図面は存在しないので、基本的には呉の1/10大和を実物大にスケールアップして、ディテールは実在の護衛艦などの艤装を参考にしたそうだ (機関室などは実物の護衛艦内でロケしたそうだ)劇中、水兵たちが集団で勢いよく階段を駆け登るシーンがあるのだが、こうしたセットによくあるぐらつき感がまったくなかったのは特筆すべきだろう。また、セットのまわりを巨大なブルースクリーンで囲み、あとで海面を合成することで、航海中の大和など実際には撮影できないシーンも違和感なく描かれていた。
しかし、せっかくの巨大セットも部分的な撮影がほとんどで、全体の巨大感を表現するようなショットが意外に少なかったのは残念だ。大和の全身が写るシーンは数カットあるのだが、いずれもミニチュアの合成で、水しぶきの表現をCGで行っていたためにかつてのミニチュア撮影ほどチャチではなかったものの、肝心の巨大感はまったくといっていいほど出せていなかった。こうした巨艦を表現するのにナメのショットは不可決で、「スター・ウォーズ」冒頭のスター・デストロイヤーをはじめ、「宇宙戦艦ヤマト」から「タイタニック」に至るまで、およそ巨艦・巨船の登場する映画は必ずやっているのだが、本編ではどういうわけか途中でカットが代わったり、オーバーラップで別のシーンに移ってしまったりして、結局、全身をきっちりナメる映像は見せずじまいだった。なんといっても大和が主役の映画なのだから、やはり大和の全身像を余すところなく見せるショットは必要だったと思う。
このセットを縦横に使った戦闘シーンはさすがの出来だったが、襲い来るアベンジャーやグラマンはCGではなく、あえてミニチュア操演で表現していた。操演としてはなかなか頑張っていたとは思うが、やはり旋回が急すぎたり、バンクをとらずに旋回してしまうという繰演ならではの欠陥も見えてしまった。いかに対空装備を追加して、ハリネズミのように武装しようとも、やはり戦艦は艦載機の敵ではない。対空砲座はひとつまたひとつと潰され、乗組員たちは血しぶきをあげて戦死していくのだが、この辺りの描写はシャッター速度を速くして、ブレのないカクカクした感じの絵作りになっていた。いうまでもなく、「プライベート・ライアン」でスピルバーグが使ったテクニックである。こんなところにも「プライベート・ライアン」の影響を受けた映画があったのだ。やや似過ぎていたのがちょっと気にはなったが^^;
絵作りで非常に気になったことがもうひとつ、神尾が大和に配属された後、初めて上陸を許されて故郷に戻るシーンで、せっかく木炭車などその時代の乗り物を再現しているのに、そのバスが走っている背景の真ん中にぽつんとテレビアンテナが立っていた^^;昔は電柱やアンテナなどの処理は大変だったらしいが、今はそうした「写っていては困るもの」はCGで簡単に消せる時代である。今回のアンテナも、バックにはただ空が写っているだけなのだから、もっとも初歩的なCGテクニック=コピペで消せたはずだ。それをしなかったのは、やはり誰一人それに気付いていなかったからなのだろう。こうした時代そのものを再現する作品においては、そうしたものに気付く細やかさこそなにより必要だと思うのだが。・・・
ちょっと期待が大きすぎたためか、かなり肩透かしを食らってしまった。最後まで観ても特に何か主張があるような話でもなく、結局のところチャン・ツィイー演じるわがまま娘イェンの冒険を描くだけの物語で終わってしまった。剣戟シーンなど、確かに部分的には評価できるところもあるが(でもバックショットなど、明らかに代役であることが判るシーンもたくさんある)みどころは結局それだけ^^;
とにかく、空を飛ぶ人間たちの動きそのものに自由さを感じられないのが最大の欠点だ。どう見ても自分の意志で飛んでいるのではなく、ワイヤーで吊ってもらってそれらしく演技しているだけなのが判ってしまうところに、この種のアクションの限界があるのだろう。たとえば同じ能力を持つ人間をアニメで表現したら、けしてああいうふうには飛ばない。アニメの世界には重力が存在しないから、アニメーターの想像力が許すかぎり自由な飛行が可能だからだ。しかし、現実の人間は重力に縛られた存在であり、そこから開放するのにたった数本のワイヤーだけでは明らかに役不足なのだ。同じワイヤーを使いながらも、CGの力を借りて生身の人間の跳躍力を誇張表現してみせた「マトリックス」の方が、少なくともワイヤーの存在を意識させなかった分だけ勝っていたと思う。
もっとダメダメだったのが脚本。主役のチョウ・ユンファにしても、中間に挟み込まれるイェンの回想(これがまた長い^^;)のおかげで出番が前半・後半とはっきり別れてしまう。師の仇でもあるばあさん・碧眼狐(そもそもこのばあさんとイェンの関係もよく判らない。チョウ・ユンファ演じるムーバイとこのばあさん、それにイェンの強さのバランスがよく考えると変だ)との対決の結末もアンチ・クライマックスで、いつの間にか話のポイントがずれまくってるし^^;
それにしても、冒頭でいかにも曰くあり気に登場し、グリーン・デスティニーなどというすごいタイトル・ロールまでもらっているにしては、この碧銘剣という名剣、ほとんど何の活躍もしないまま終わってしまった。これでアカデミー外国語映画賞とは、アカデミー会員はアメリカ映画以外ほとんど観ていないということの証明かも知れないな。・・・
主演のオドレイ・トトゥをはじめ、ほとんどのスタッフが「アメリ」と同じ、いわばジュネ印の映画なのだが、「アメリ」みたいなちょっと甘めのコメディを期待して観に行くと、その残酷描写に引いてしまうことは確実だろう。基本的にこの作品はジュネの戦争映画である。
物語は第一次世界大戦当時、戦闘忌避のため、みずから手に負傷した兵士5人に対して死刑が宣告され(この負傷するシーンが痛そう^^;)刑の執行を面倒に思った連隊長が彼らをドイツ軍との最前線に放り出してしまうところから始まる。5人のうちいちばん若いマネクの恋人マチルダ(オドレイ・トトゥ)は、戦後、行方不明になっている彼の消息を求めて探索を始める。探索の過程でさまざまな事実に遭遇し、また、戦争当時の回想も加わって話は複雑に展開するのだが、何といっても見物はきわめて精密に再現された第一次大戦当時の戦闘シーンそのものであろう。オーディオ・コメンタリーによると、監督ジュネはスピルバーグの「プライベート・ライアン」、特にその戦闘シーンを極めて高く評価していて(あの映画の前と後では戦争映画の質そのものが違ってしまったとさえ言い切っている)効果がうまく出せなかったときには、そのつどスタッフにお手本として見せていたそうだ。
映画の中の現在は戦後の1920年なので、もちろん当時の建物が残っている場所(オペラ座や博物館など)はそこでロケーションするが、現存しない市場などはセットとCGを巧みに組みあわせて再現していた。この映画では至る所にCGが使われており(たとえばベッドにかかった毛布だけ色味を変えるとか、撮影に借りた建物の壁にペンキの字を貼り付けたりとか)監督自身がタネ明かしなければ全然気付かないところもたくさんあった。逆に、最近ではCGでごまかすことが多くなった現存しない戦闘機(ドイツ空軍のアルバトロス戦闘機)は、現実感を重視してアメリカ製のステアマン機にドイツ軍の塗装をして見立てていた。アルバトロスはちょっと特徴的な機体であり、もっと平凡な別の機種ということにすればあれほど違和感はなかったと思われるのだが、この映画の中では「アルバトロス」つまりアホウドリそのものに意味が込められているので、代えるわけには行かなかったのだ。
映画の中盤、一緒に前線に放り出された兵士たちの消息を探る過程で、そのうちの二人に関わる女性が登場するのだが、それがどう見てもジョディ・フォスター\(@_@)/、でも、とても流暢にフランス語をしゃべっているし、よく見ると違うような気もするし・・・やがて映画が終わってクレジットが始まると、やっぱりジョディ・フォスターでした(^_^)この前の作品「パニック・ルーム」の撮影でフランスに来ているとき、短い時間を縫って撮影したらしい。おかげで十分なカットが撮れず、いくつかは共演者とCG合成したシーンだというが、もちろん観ている間にはそんなこと全然判らなかった。しゃべっていたフランス語は吹き替えではなくジョディ本人で、彼女は完璧なフランス語を話せる女優として有名なのだそうだ。僕はまったく知らなかったが^^;
マチルダは懸命にマネクにつながりそうな手がかりを捜すのだが、そのたびに糸はぷつんと切れてしまい、やがて5人の墓標がある墓地が見つかったことで、絶望的な壁につきあたってしまう。しかしそれでもマチルダは希望を捨てずにマネクを捜し続けるのだった・・・という話だが、どういう結末になるのかはさすがに書くわけに行かないものの、観終わってみればやはりジュネの映画だったな、と納得できる作品になっていた。それにしても、ここまで来てまだハズレなしというのは、やっぱり大監督かもしれないぞ、ジャン・ピエール・ジュネという男(^_^)・・・
ヲタク(発祥当時は「お宅」)という差別用語が出来た当時からギョーカイにいた身としては(コミケ発足当時、かの柴門ふみ氏もお茶女漫研に在籍して同人誌売っていたんですよ^^;)こうしたメジャー映画でいかにヲタク側に立ったキャラクターを描くのか気になっていたのだが、出来た作品を観てみたら何のことはない、朴訥な美青年と男性経験のまったくないキャリアウーマンとの単純明快な純愛ドラマであった。
まず、山田孝之演じる、最初から最後まで名前の出てこない青年(映画ではほぼ最初からハンドルで電車男を名乗っている)が具体的に何ヲタクなのか、結局最後まで一切描写しなかったのが気になった。ヲタクの最大公約数的なアニメ・ゲームといった切り口なのだろうが、それに関する描写も皆無に近い。せめて握手会とかファンの集いとか、あるいは毎週見逃せないアニメを録画ではなくオン・エアで観ることにこだわるとか、いかにもヲタクっぽいキャラクター付けは出来なかったのだろうか。そうした部分がないために、主人公は妙に無色透明な感じで現実感がない。それどころか、家族と暮らしているのか一人暮らしなのかすら判然としない(主人公の家族は誰一人登場しないが、部屋の感じはアパートの一室というより一軒家の自室みたいだった)彼がヲタクらしき片鱗を見せるのは冒頭の秋葉原でレンタルボックスを眺めたり、電車内で転んでフィギュアをぶちまけたりするところと、エルメスとのデートの際、「マトリックス」について蘊蓄を傾けるところくらいのもので、部屋の中にもさほど濃いヲタクグッズはなかった。おまけに映画が始まっていくらも経たないところでヲタクファッションを卒業し、本来のイケ面俳優、山田孝之の素顔を曝してしまうのだから、やはりミスキャストだろう。これは醜いアヒルの子の話ではないのだ。
一方のエルメスを演じた中谷美紀は、撮影当時29歳、一方の山田孝之はまだ21歳だったから、どうしてもずっと年上に見えてしまう。恋人同士というより(歳の離れた)姉と弟のように見えてしまうのだ。中谷美紀はお気に入りの女優の一人だが、この役に関するかぎり、やはりもう少し山田に年齢の近い別の女優を当てるべきだっただろう。それから、よく観ていると気付くのだが、エルメスが電車男の申し出を断るのはたった一度、レンタルルームが手違いで借りられず、あわてて別の部屋を手配した電車男に「もう時間がない」と言って帰ってしまう場面のみだ。これにしても、実際に翌日から海外出張を控えていたためにそう言っただけで、他意があったわけではない。それ以外、エルメスはとにかく徹底的に電車男を受け入れ続ける。いくら電車内で酔漢(大杉蓮)に絡まれているところを救われたからといって、この受け入れ方は少し異常に見える。実際にあった話だということだが、こんなフィクションにも描けないような人物が実在したとはちょっと信じられない。
確実にフィクションなのは電車男を応援するネットの住人たちで(彼らも電車男同様に実在の人物ではあるが、ネットの向こうの匿名的存在であって、キャラクター付けは100%脚本家の創作である)実はこの話はヲタクの生態などより遥かにネット世界に重点を置いた作りになっている(そういう意味では、かつてパソコン通信をテーマにして作られた「(ハル)」のアップデート版に近い作品でもある)点描的に登場する彼らネットの住人たちは、それなりにキャラクターを出そうと頑張ってはいたのだが、紋切り型の描写に終わってしまった。いくら時間的な制約があったとしても、もうすこし別の表現方法があったような気がするのだが・・・。
結局、映画はヲタク=対人恐怖的傾向のある、自分に自信を持てないうぶな青年と定義し、そんな電車男がエルメスの力を借りてそこから脱却するところで終わる。問題はむしろそこから先のような気もするのだが、そうした多難さを予測させるような描写は一切なく、ひたすら甘美なまま物語は終わってしまう(しかし最後の定期券を拾う場面の意味はよく判らなかった。最初の頃に出てくる似た場面の「その後」を描いたのか、エルメスとの出会いそのものが夢オチということなのか??)お話が終わった後、その後のエピソードとしてテレビ版電車男、伊藤・ちびノリダー・淳史とエルメス・伊東美咲がやはり同じ酔漢・大杉蓮に絡まれているシーンが出てくるが、これはテレビ版第一回につなげる仕掛けだったのだろうか。少なくとも映画の中で完結しているエピソードではなく、あまりにもマルチメディア展開を意識しすぎたあざといやり方で、いい感じはしなかった。
ここではそのテレビ版に触れる余裕はあまりないが、少なくともヲタク描写に関しては、タイトルバックに使われたダイコン4オープニングフィルムのパロディ(曲が同じELOの「トワイライト」だったりするあたり、完全な確信犯^^;)とか、秋葉系の風俗などかなり研究の跡があった(時々「マチルダさ〜ん」と叫んでいた電車男の母親役が、実は戸田恵子=声のマチルダさん^^;=であったと最終回に判明するところなど心憎い^^;)無理にコメディ仕立てにしてやや不自然な展開が目に付いたのが玉に瑕だが、少なくとも映画版より個人的には気に入っている。・・・
記念すべきビートルズ初主演映画。製作年度からすれば当然カラー作品でもおかしくないのに、敢えてモノクロで製作したところに製作サイドの姿勢がかいま見える。とはいえ、凝った芸術映画ともかけ離れた作品ではあるが^^;
突然現れたポールの祖父が、ただでさえいたずら好きのビートルズの面々をけしかけ、行く先々で騒動を巻き起こすという一種のロードムービーだが、今でいうMTV風に数々のヒット曲を歌う場面を挿入したりして、モノクロで作ったことの意味がよく判らず、ドキュメンタリーの生々しさを狙ったのかコメディの面白さを狙ったのか中途半端に終わった印象が残る。もともと素人であるビートルズ・メンバーに本格的な演技を求めたところで無理なのは判っていたので、ビートルズがビートルズを演ずるという偽ドキュメンタリー的なコメディ作品を狙ったのだろうが、少なくともコメディとして成功していたとは思えない。なにしろ笑えるところがほとんどないのだから(笑えるのは、体のあちこちから鳩を出す芸人の腕をジョンがポンと叩くと、袖口からぱらぱらと数枚の羽根がこぼれ、10羽の鳩、と書かれていた看板を芸人が9羽と書き直すところくらいのもの)
ファンとしては、動いているビートルズが見られればそれだけでOKなのかもしれないが、それだけの志しかない作品ではなかっただけに、狙いどころがあやふやなままだったのが惜しまれる。メンバーの演技は演技ともいえない稚拙なものだったが、そのなかでリンゴだけは与えられた役割を一所懸命演じていたのが目立った。そういえば解散後、まともな劇映画と呼べそうなものに出演していたのはリンゴただひとりだった。とはいっても本格的に俳優業に乗り出すことは結局なかったが。・・・
今の目で改めて見直すと、いろいろご都合主義が目立つ作品である。冒頭で不時着したテイラーたちが宇宙船から避難するとき、実は彼らは地球に向けて帰還中であったことが語られるのだが、降り立ったその星が地球でなく別の星だとなぜ思ったのだろう。空の色も大気も地球と同じで、やがて地球人と寸分たがわぬ人間たちが登場し、ついには英語をしゃべる猿たちまでが登場しているのだから、ここが数千年後の地球かもしれない、とテイラーが思わなかったほうが不思議である(自分たちが帰還する地球が、ウラシマ効果のおかげで数百年から数千年後の世界であろうことは知っているという設定であった)
特に気になるのは言葉の問題だ。ロッド・サーリングによるたくみな脚本のおかげでごまかされてしまうが、よく考えれば同じ人間同士でさえ国が違えば言葉が違い、意志疎通がほとんど不可能になってしまうのに、猿たちが使っている言葉がストレートに理解できてしまうという設定は、やはりあの時代だからこそ許されたのだろう。猿が英語を使っている理由はのちの「新・猿の惑星」から「最後の猿の惑星」にいたる三部作で語られるのだが、もちろん本編が作られたときにはそんな設定など存在しなかったはずで、やはりご都合主義というしかない。まあ、この部分で猿が猿にしか判らない猿語を話していたら話が先へ進まず、また、猿たちが英語を話すこと自体をタイラーが疑問に思ってしまったら、当然「ここは地球ではないか?」という発想も生まれるからラストシーンのインパクトもなくなる。そう考えるとやはりこれ以外の展開はなかったのだろう。全体的に寓意の強い物語であり(原作者ピエール・ブールの語ったところによると、この物語のアイデアは日本軍の捕虜になっていたころ思いついたものだそうで、猿はズバリ日本人を指していたのだそうだ。それをそうした差別感覚とはまったく次元の違う物語に昇華したロッド・サーリングはやはり偉大だった)瑣末な点についてあれこれつっついてみたところで、得るところは少ないだろう。
映画館で観た当時はその見事な特殊メイクに驚いたものだが、今の目で見ると猿たちの表情はほとんど動かず、猿を演じたロディ・マクドウォールなど俳優陣はみな身振りと目だけで演技していた。それでもやはり引き込まれる熱演であり、その説得力が現実以上に素晴らしい特殊メイクとして記憶に残っていたのかもしれない。・・・
「リング」の名コンビ、鈴木光司と中田秀夫がふたたび組んだホラー・ムービーなのだが、ひところ話題になった、老朽マンションの給水塔の不潔さをネタにしたような話である。ネズミやカラスの死骸はざら、なかには・・・^^;
ま、しょっぱなからネタばらしも何なので、別の方向から書くことにしよう。ヒロインの淑美(黒木 瞳)は夫(小日向文世)との離婚調停中で、一人娘、郁子の親権をめぐって係争中である。別居のために新しいマンションを物色していた淑美は、格安の物件を見つけるのだが、引っ越してまもなく、母子二人は度重なる怪奇現象に襲われる・・・というのが導入部。怖さの演出にかけてはさすがにベテランの域に達した中田監督、手堅いカットの積み重ねで徐々に恐怖を盛り上げていく。今回登場するのはどうやら幼い少女の霊のようであり、付近では数年前、父子家庭の少女が行方不明になる事件が起きていた。娘の郁子を襲う怪奇現象のさなかにその少女の名前(みっちゃん)がさりげなく登場し、また、電柱に貼られた目撃情報を募る貼り紙にもその「美津子」という名前が書かれていて、その時点では特に意識していない観客の記憶に巧妙に埋め込むテクニックはさすがである。
淑美が精神的に追いつめられていく前半部分は、行方不明になった少女が持っていたらしい赤いバッグをうまく使って、なかなか巧妙に語られている。しかし、少女の霊が登場する後半部分には、リングシリーズ同様の破綻が見られるのが残念だ。前半でせっかくいわくありげに登場した夫も、わざわざ存在を誇示する証拠(エレベータのボタンについた煙草の跡)を残しているにも関わらず、結局無関係に終わってしまうし、淑美も明らかに危機的状況に陥っているのに、娘を一人部屋に残してわざわざ給水塔を見に行くなど、論理的にも感情的にもあり得ない(母親なら間違いなくまず娘を手元に置くことを優先するはずだ)行動を起こす。これは、ラストのオチを演出するための人物配置だとしか考えられないのだ。また、肝心の少女の霊そのものも、どう見ても子役の少女がかぶりものをかぶって演技しているようにしか見えず、かなり興ざめした。こういう部分のセンスは、「リング」当時からあまり成長していないようだ。おどろおどろしい特殊メイクは避けたかったのかも知れないが、だったら全体像をもっとぼかすとか、CGを重ねてより具体性のない存在にしてしまうとかして、観客をしらけさせないやり方はいくつもあったと思う。
さて、この話の核心はやはりエレベーターでの究極の選択に尽きると思う。給水塔から駆け戻った淑美は風呂場で倒れている郁子を発見し、彼女を抱きかかえてマンションから逃げようとする。エレベーターに戻り、ボタンを押そうとすると、たった今あとにしてきた自室のドアがふたたび開き、中からずぶぬれの郁子が出てくる。あれが本物の郁子だとすると、自分が抱きかかえてきたのは、と目をやると、そこにいたのは・・・前述のかぶりものをした子役だという展開^^;
だいたい、霊となった少女が淑美を母と慕っているのか、はたまた怨霊として呪っているのかよく判らない。慕っているにしてはいきなり首を絞めているわけだから、ちょっと不自然だし、といってどうやら悲惨な殺人事件の犠牲者というわけでもなく(淑美の見た夢の回想シーンが真実なら、いかにも子供らしい事故死に過ぎない)呪うとしたらその呪いの原因も判らない。だいたい一般的なホラー映画では、怨霊は祟る相手をえり好みせず、その結果主人公以前に相当の犠牲が出ている、というのがセオリーだが、本編においては徹頭徹尾淑美たち母子にしか見えていない。淑美には精神を患ったという過去があり、あるいはそのあたりに落とし所がある話なのかとも思ったが、その方向に振るわけでもなく、結局のところ「母が身を挺してわが娘を守った」という終り方になっていた。しかし、我が子の目の前で怨霊に「私がママよ」と宣言するということは、娘の側から見れば自分を否定されてしまったことにもなる。幼稚園児といえどもこうしたショッキングなシーンは記憶の底に残り、トラウマとなって成長した後にも影響を残しそうだ。
結局、淑美は霊とともに姿を消し、そのまま10年の時が流れる。10年後の蛇足のようなエピローグは果たして必要だったのだろうか。プロダクションとのからみでミス・何とかに選ばれた新人女優(水川あさみ)をどうしても出さなければならなかったからのかもしれないが。それにしても、事件のあったマンションに10年間淑美が住み続けていた、と郁子が考えるのはいくらなんでも無理がありすぎる。どう見ても廃屋となったマンションに人が住んでいるはずはないし、10年前の若い姿のまま出てくれば、おかしいと思わないほうが変だ。実は郁子の前に姿を現したのは、霊となった淑美だったということなのだろうが、映画はそうした疑問には一切こたえずあっさり終わってしまう。もっと面白くなりそうな分岐点がいくつもあったのに、一番無難な路線で手を打ってしまった凡作、といったところか。・・・
昨年放映されたテレビシリーズ「攻殻機動隊Stand Alone Complex」の中心的エピソードであった「笑い男」関連の数話を一本にまとめた作品である。この第一シリーズには映画版で監督を務めた押井守氏は参加していないが、やはりその影響力は強いのか、士郎正宗のコミック版よりは映画版に近い世界観で貫かれていた(もっとも映画の続きというわけではない)
発端となる6年前の誘拐事件そのものは、いうまでもなくグリコ森永事件を下敷きにしていると思われる。冒頭に起こる社長誘拐事件に始まって、それが企業脅迫事件へと発展し、次々に大手企業が狙われるという展開もグリモリ的だ。しかし本編ではその広がりをネット社会全体、さらには警察組織や政界をも巻き込んだ巨大な陰謀へとエスカレートさせている。舞台となるのは西暦2030年、つまり今から25年後の未来だが、その頃には実現されているであろう数々のテクノロジーの進化、つまり擬体化や汎ネットワーク化の陥穽を突くという形で、想定される問題点をも摘出している。このあたりは下手な未来学者より正鵠を射ているかも知れない。
数々の名作からの引用によって世界観を構築しているあたりもまた、押井的な雰囲気がある。表題の「笑い男」そのものからしてJ・D・サリンジャーの短編のタイトルだし、「笑い男」のロゴマークでぐるぐる回転している英語の文章は、同じくサリンジャーの代表作「ライ麦畑でつかまえて」で主人公ホールデン・コールフィールドが独白する台詞である。こうした「借景」で世界を構築するのはもともとSFの専売特許なので、そうした意味では本編は紛れもなくきわめて今日的なSFといえるのだろう。
ネタバレにならないように筋を書くのは難しい作品なので、お話に関してはこれくらいにしておくが、最後に映像そのものにも触れておきたい。テレビ放映を前提としたアニメでありながら、撮影はビスタサイズで行われており、その情報量は圧倒的だ。おそらくはハイビジョン化を想定した絵作りなのだろう。また、メカニカル描写はほとんど3DCGだが、二次元のアニメ絵と重ねても違和感がないように2D的な処理がなされ、これまでの同種の作品に比べて格段に違和感が少なかった。特にタチコマたちはCGとは思えないほど手描きアニメ風に処理されており、人物との絡みでもまったく破綻は感じなかった。ちなみにこのタチコマたち、原作ではフチコマとなっているのがなぜ変えられたのか、ちょっとした謎である。名前こそ変えてあるが、キャラクター性はほとんど原作を踏襲しており、このあたりが唯一押井版との違いと言えるかも知れない。・・・
前作「ギャング・オブ・ニューヨーク」と同じく、レオナルド・ディカプリオがマーティン・スコセッシと組んだ歴史大作。前回の主人公は架空の人物だったが、今回はかのハワード・ヒューズをあのレオ様がどんなふうに演じるのか、興味津々で観せてもらった。しかしてその結果は・・・。
もともと若いころのハワード・ヒューズはなかなかの美青年で、数々の女優と浮き名を流したのも頷けるのだが、同時に後の運命を感じさせる線の細さというか、神経質そうな感じも見て取れる。どうしても年齢より若く見えてしまうディカプリオだが、少年時代のトラウマ(なのだろうか?)に囚われ続けるというある意味小児性を残した役柄なだけに、今回ばかりはまさに適役という感じだった。ディカプリオはどちらかといえばジョン・ウェインタイプの、自分を役に近づけるというより役を自分に近づける役者なのだが、今回はもともと似ているヒューズに自分を近づけ、まさに同一化したと言えるほどまでに「なりきって」いた。そこにはもう「タイタニック」のレオ様の面影はどこにもなかった。
さて、なにしろ「アビエイター」すなわち「飛行家」というタイトルの映画なので、当然ながら飛行シーンはふんだんに出てくる。そのほとんどは当時の記録フィルムではなく、CGであらたに作り直したシーンなのだが、正直言って「なぜこんなCGでござい、とでもいいたげな構図ばかり使うのだろう」というのが第一印象であった。たとえば空撮中のヒューズの機体がこっちを向いて飛んでくるシーンがあるのだが、画面の真ん中にディカプリオの顔があり、それがぐんぐん接近してスクリーンいっぱいに広がり、次の瞬間後ろ姿になって飛び去るのだ。いうまでもなく現実のカメラでは実現不可能な構図である。もちろんこんな嘘っぽいシーンばかりではなかったが、全体的な雰囲気はやはりどこかリアリティに欠けていた。CGによる画像そのものはすでにほとんど現実と見分けがつかない程度まで発達しているのだが、使うほうの人間のセンスがまだそれについて行っていないようだ。
もちろん映画はヒューズの飛行家としての面だけではなく、実業家としての顔もしっかり描いている。大金にものを言わせた企業買収など、現在にも通じる部分だが、今のヒルズ族たちとの大きな違いはやはりその夢のスケールだろう。もちろんヒルズ族の方々もことあるごとに夢を語ってはいるが、そのほとんどは金で買える程度のスケールであり、とてもではないがヒューズの夢には遠く及ばない。映画の後半、パンナムに海外路線を独占させないよう争う場面で、公聴会でパンナム側の上院議員とやりあってついに勝利を収めるあたり、なかなか面白かった。ちなみにパンナムの総支配人ホワン・トリップ役でちょっと懐かしいアレック・ボールドウィンが出ていたのだが、映画を観ているあいだじゅう「どこかで見た顔だな」と思いながら最後まで思い出せなかった^^;逆に、割と大きくクレジットされていたジュード・ロウは、最後までどこに出ていたのか気付かなかった。ウィレム・デフォーなんか、ワンシーンだけのチョイ役ながらものすごく目立ってたのに(;o;)
いろいろな女優が実名で登場するのもこの映画の売りのひとつだと思うが、なぜか女優陣があまり充実していなかったのは惜しまれる。エバ・ガードナー役には当初グゥイネス・パルトロウが予定されていたのだそうだが、あまり似ているとは思えないので降板してよかったのかもしれない。結局のところヒューズの一番の理解者であったキャサリン・ヘップバーンをケイト・ブランシェットが演じていたのだが、こちらはかなり雰囲気を掴んでいて、特にヒューズと深い仲になる以前の「バリバリの舞台女優」という感じがとてもよく出ていた。
映画はかのスプルース・グースが初飛行(この飛行シーンが本編の白眉なのだろうが、やはりどこかCG臭さの抜けきれない映像だったのは残念だ)に成功して、その祝賀会のさなかに精神障害の発作を起こしたヒューズが個室に閉じこもるところで終わる。口をついて同じ言葉が飛び出し、それをコントロールできなくなって逃げ込むわけだが、その時の言葉が「未来に続く道」というのはいかにも皮肉だ。これが脚本家による創作なのか、あるいは事実なのか知る由もないが、その後70年代中ごろに亡くなるまでホテルの一室に閉じこもりっきりで世捨て人同然に暮らしたことを思うと、やはりあまり幸福な人生とは言えなかったのかもしれない。・・・
ウ〜〜〜ム^^;今回ばかりは富野マジックも不発だったようだ(;o;)
もともとオリジナル・シリーズに比べてZは舞台設定が複雑で一口では説明しづらく、また、キャラクターの意思決定そのものもかなり無理のある話だった。それが映画化にあたってうまく修正されていたとは残念ながらいえず、結果的にTVオリジナル版を観てあらかじめ予習しておかないと、何が何だか判らない作品に成り果ててしまった。
たとえば、物語中盤まで主人公カミーユ・ビダンのライバルとして扱われるジェリド・メサ中尉だが、TV版第一話でいきなりカミーユに殴られる肝心なシーンが割愛されている(回想シーンでチラッと出てはくるが)ために、両者の確執がもうひとつ伝わらない。同じことはティターンズからエウーゴに寝返るエマ中尉にも言え、ティターンズのパイロットとして出撃した次の日には、エウーゴのパイロットとしてジャブロー攻撃に加わっているように見えてしまう(もちろんTV放映ではかなりの時間を経ているのだが、映画ではほとんど「次のエピソード」になっているのでそう見えてしまうのだ)ティターンズから強奪した黒いガンダムは、次の出番には白いガンダムになっているし、とにかく演出の緩急もなければ、物語の連続性そのものにもあまり注意が払われてはいない。かつての劇場版ガンダムは、これほど乱暴な演出ではなかったのだが・・・。おそらくこれは限られた上映時間の影響が大きいと思われる。最近の大作には珍しく、この映画の上映時間はわずか100分足らずなのだ。かつてのガンダム映画ではそれよりたっぷり30分は長かったから、かなり丁寧な演出が可能だったのだが、今回はとにかくエピソードの羅列に終始し、演出のテンポも糞もあったものではなかった。
もうひとつ、非常に気になったのが新作部分とTV版オリジナル部分との落差。画質の良さとか作画の丁寧さとか動画の枚数とか、そうした質的な部分ではなく、はっきりとキャラクターの顔が違う。作画監督の恩田尚之氏はこのアニメの中で、もともとのガンダムキャラを作り上げた安彦良和や、実質的にZのキャラを創っていた北爪宏幸を踏襲しようとする態度を微塵も見せず、ひたすら「オレキャラ」に突っ走ってしまっている。恩田氏はTVオリジナル版にも名を連ねていたオリジナル・スタッフの一人なのだが、とにかく、オリジナル版と新たに描き起こした部分とは、ひと目見てはっきり判るくらいに絵が違うのだ。異様なドングリまなこと妙に下ぶくれな輪郭が違和感バリバリである^^;コミックのような、個人の作業ならある程度その人の作風が出てしまうのは仕方ないが、アニメの場合には実際に動画を描くのは作画監督の仕事ではない。にもかかわらず、作品としての統一感を乱してまでもオレキャラにこだわったこの作画監督には、はっきりいって作品への「愛」を感じることはできない。
貶してばかりいると気分が良くないので、買える部分もあげておこう。それは新たに描き起こされたモビルスーツ戦のクオリティだ。これはもう、誰一人として批判できないほどの仕上がりである。違和感ばかり目立ってしまった人物部分とは違い、確かに違和感は感じるものの(てゆーか、オリジナル版のモビルスーツ戦が今の目で見るとショボすぎるのだが^^;)その重量感や滑らかな動きなど、まさに新世代の映像であった。
富野氏がこの仕事を引き受けることになった経緯や、おそらくは潤沢ではなかったであろう資金を考えると仕方なかったのかもしれないが、やはり昔のゼロックス・セル画アニメと現代のコンピューター・アニメとを、同一スクリーン上で一本のアニメとして見せようという企画それ自体に無理があったのかもしれない。・・・にしても、あの全然似てないキャラだけはどうにかして欲しかったものだ(;o;)・・・
なんというか、すごい時代になったものである。これほどの映像を個人の才能と予算で創り出せるようになったのだから。予算の制限からわずか25分というショート・フィルムではあるが、その全編がすべてCGにより製作されており、「この作品は実写を一切使用しておりません」が謳い文句になっている。
わずか25分の中に物語の発端からラストまですべてを盛り込まなければならないので、話は極限まで単純化されている。昭和100年、100億を越えた世界人口を賄うため、火星のテラフォーミング計画が着手されたが、その地中から掘り出された未知の物体が地球に運ばれる途中で覚醒し、宇宙船ごと東京郊外に墜落する。くすぶる残骸の中から現れたのは、異形の宇宙怪獣ネガドンであった。怪光線であたりを焼き尽くしながらネガドンは東京都心めがけて移動を開始した。10年前、不慮の事故により愛娘を失い、それ以来世捨て人同然の生活を送っていた天才ロボット工学者、楢崎博士はその様子をテレビ中継で見ていたが、とうとう意を決してすでに完成していた巨大ロボット兵器、Mi-6(ミロク)二号に乗り込むのだった・・・というのがおおまかなストーリィだが、短い時間の中でもダイジェストのようなせわしない感じを与えないように努力した跡が見られる。
なんといっても見事なのは、丹念に描かれた、雨にけむる昭和100年の世界である。劇場のシネマスコープ・スクリーンで観るには画像解像度がやや低く、ジャギーが目立つところが散見されるのが残念だが、ほとんど気にはならない。ボケッと見ていたら、実写と見まごうばかりのリアリティだ。なかでも、メカニズム描写は特に優れている。離陸する防衛軍のF-104J戦闘機や、街中を行軍する74式戦車はその動きも含めてきわめてリアルで、実体のないCG画像であることを感じさせない。F-104Jは、かつての繰演で飛ぶ東宝自衛隊機のような力学的にあり得ない(水平飛行で向きだけを変える)飛行ではなく、方向変換の時にはちゃんとバンクして、昇降舵を使って旋回しているし、74式戦車は急停車するとサスペンションが効いて派手につんのめり、主砲を発射すればちゃんと反動で砲身が後退する。いずれも模型を使った特撮では不可能な表現で、監督粟津順が単純な東宝特撮映画の再現ではなく、昭和の少年たちが、スクリーンの向こうに見ていたイデアとしての映像の再現を目指していることが判る。クライマックスのネガドンとMi-6の死闘はまさに力作で、この部分だけを取れば、スターウォーズ・シリーズのようなメガバジェット作品に一歩も引けをとらない仕上がりになっている、といってもけして過言ではない。
しかし、CGで描かれたキャラクターは残念ながら実写のようにリアルというわけにはいかず、「ファイナル・ファンタジー」と同様の違和感を感じさせてしまう。それでも、100億を越える予算を費やしながらあの程度の出来に終わった「ファイナル〜」に比べれば、遥かに少ない予算でほぼ同水準のキャラクターを創造できたこと自体は称賛に値するだろう。欲を言えばやはりここは生身の俳優を使って撮影し、観客が違和感なく映画の世界に没入できるようにしてほしかった。ついでにもうひとつ欲を言ってしまえば、上映時間25分はやはり短すぎる。せめてこの倍、いや、ホンネを言えば東宝特撮映画なみの90分の本編として撮って欲しかった。
もっともこの作品、ジョージ・ルーカスの「THX-1138」や今井雅之の「WINDS
OF GOD」のように、よりメジャーな商業映画としてリメイクされる可能性も十分考えられるので、この先も期待して見守っていきたい。・・・
今月、7年ぶりの新作が公開される「あぶデカ」シリーズの、これはひとつ前の作品になる。当時すでに40代後半に突入していた館ひろしと、それより一歳だけ若い柴田恭兵はさすがに以前に比べて体の切れが悪く、相変わらずのお遊び脚本もあいまって、どうにもしまらない作品になってしまった。「フォーエヴァー」とつけたのは、もちろん「あぶデカ」前作が「リターンズ」だったから(いうまでもなく「バットマン・リターンズ」からのいただき)今回も「バットマン・フォーエバー」にひっかけたのだろうが、それを名乗るのがおこがましいくらいの出来だったのは、昔からのファンとしては情けないかぎりだ。
もともとこのシリーズは、アメリカのTVシリーズ「特捜刑事マイアミ・バイス」の日本版を作ろうという企画から始まっており、舞台をマイアミから横浜に移し、ソニー(ドン・ジョンソン)とタブス(フィリップ・M・トーマス)のコンビをそれぞれダンディ鷹山(館ひろし)とセクシー大下(柴田恭兵)に置き換えてスタートした。しかし、製作元であった東映のセンスで「マイアミ・バイス」をそのまま翻案できるはずもなく、結局「探偵物語」など、それ以前からの日テレ=東映ラインによるコメディ味たっぷりの日の丸探偵路線に成り果ててしまった。もっとも、こうしたお醤油味ドラマの方が日本の視聴者には受けがよいのも確かで、最高26%を越える視聴率を記録している。実はかくいう僕もこのラインのドラマはけっこう好きで、本編のみならず「傷だらけの天使」も「探偵物語」も、再放送も含めてほぼ全話ちゃんと観ている^^;
番組が始まったのはバブル景気たけなわの80年代中盤で、当時まだ30代の館も柴田もスタントマンなしの大活躍、つまらないギャグも軽い乗りでごまかして、なんと6クール(1年半)もの長きにわたって続き、スピンオフの映画版も本編を含めて5本作られた。しかし、特に映画版の後期に入ってからは息切れの感が強く、もともとたいして中身のない脚本だったのが、アクションのメッキが剥げたおかげで露呈してしまった。たとえキャラクターが軽い乗りで走り回っていても、脚本さえしっかりしていればそれなりに観客を引き込む話は作れると思うのだが、残念ながらそうした脚本を書ける人材が、今の映画界には存在しないようだ。
まもなく第6作「まだまだあぶない刑事」が公開されるが、館も柴田もすでに50代半ば、体を張ったアクションにはさすがに限界があるだろう。そのあたりを脚本がどうフォローするのか、いずれテレビ放映されたときにでも確かめてやろう^^;・・・
子供の頃、ロバート・カルプとビル・コスビーのコンビが演じていた同名のテレビ番組を観ていたのだが、これはそのリメイク作品。テレビでは主人公のスパイは世界を転戦するテニスプレイヤーという設定だったのだが、今回、主人公ケリー(エディ・マーフィ)の役どころは現在57連勝中という世界チャンピオンのボクサー。テレビのようなプロスパイではなく、本物のボクサーなのだが、大統領じきじきの要請によりスパイを引き受けるはめになるという、いわば巻き込まれ型のヒーローだ。もっともエディ・マーフィのことだから、いつも通り口八丁手八丁のキャラクターで、もう一人の主人公アレックスを完全に食ってしまっている。もっとも彼を演じたオーウェン・ウィルソンという俳優、以前主演した「エネミー・ライン」を観たときにも思ったのだが、どうもキャラクターが薄くてもうひとつオーラが足りない。もっと渋い映画に主演するならいいのだろうが、こうした「濃い」キャラクター性を要求される作品に主演するようなタイプではないような気がする。ま、プロデューサー・サイドとしては「0011ナポレオン・ソロ」でデビッド・マッカラムが演じたイリヤのような線を狙ったのだろうが。
さて、物語はこの凸凹コンビが敵の武器商人ガンダース(マルコム・マクドウェル)からいかにして究極のステルス機(レーダーに映らないだけではなく、肉眼にも見えない!!)を取り戻すか、という話なのだが、どうも脚本がシリアスに振ったほうがいいか、コメディに振ったほうがいいか迷いながら進行している感じで、結果的にお笑いとしてもアクションとしても不完全燃焼な作品になってしまった。
アレックスの同僚として登場する女スパイ、レイチェル(ファムケ・ヤンセン)がルパンの峰不二子を思わせるキャラクターで、この映画の退屈さをちょっとだけ救っている。また、どうみてもスティーブン・セガールをパロっているとしか思えない究極のスパイ、カルロス(しかしこれほどの有名人になってしまったらスパイも糞もないと思うのだが^^;)がやはりちょっとだけ笑わせてくれるが、どうせならセガール本人を登場させ、最後の決め台詞を言わせたほうがずっと面白い作品になっただろう。有名人を演じるのはやはり有名人でなくては^^;
最後にようやくちょっとだけ飛行して見せる究極のステルス機「スイッチブレード」だが、トマホークをステルス化、さらに有人化したような凝った設定なのに、ちゃんとした姿を見せるまもなく墜落してしまってちょっと残念だった。にしてもこの飛行機、この大きさで二人乗り、かつVTOLも可能というのは、仮にステルス機でなくてもものすごい性能だと思うのだが^^;・・・
ワンシーズン分24話深夜枠一気放映の第三弾。昨年の第二シーズン放映からちょうど一年ぶりとなるが、物語の方は前シリーズより三年後という設定。
さすがに三シーズン目ともなると、製作サイドもだいぶこなれてきて、人間の生理機能のような、あまり興味を持たれそうもない部分はあっさり無視し、ひたすらジャック・バウアーという超人的な男の活躍を描くことのみに終始している。潜入捜査の過程でみずからも麻薬中毒になっている、というのが今回唯一の生理機能描写だが、これも冒頭の部分にちょっと出てくるだけで、話が進むにつれてそんなことはほとんど忘れられてしまう。とにかく前回にも増してクリフハンガー的設定にはこと欠かず、これでもかこれでもかと力技で押しまくってくるのはむしろ心地よいくらいだ。何か事態が発生したら、ほぼ100%それは悪い方向に発展し、ただでさえ忙しいジャックの手をさらに煩わせる展開になるのはこれまで通りだが、必ず視聴者が予想するのとは微妙にずれた方向に持って行くあたりがちょっと新しい。単純な展開では、第二シーズンまで観て24独特の手法に馴れてしまった観客を満足させられないと踏んだのだろう。
前シリーズではジャックの活躍とは無関係に危ない橋を渡っていた娘のキムは、今回CTUのアナライザーとなり、ジャックの部下として働いているという設定。娘を溺愛しているジャックは、これまでの経験から娘を目の届く範囲に置きたい、という気持ちでCTUに入局させるのだが、もちろんお約束通り、逆にそのせいで危険な目に何度も遭ってしまう。前回愛を誓いあっていたトニーとミッシェルはその後結婚し、現在は夫婦一緒にCTU局員として働いている。そうした二人の関係がお互いを窮地に陥らせてしまうというのもまた、このシリーズを観てきた人にとっては予想通りの展開かも^^;
前回の核テロに引き続いて、今回は細菌兵器テロというこれまたありがちな題材だが、ちょっと疑問なのが冒頭の部分。ズバリ書いてしまうとネタバレになってしまうので書けないが、よく考えてみると話が矛盾している。いつその疑問を晴らしてくれるかと思って観続けたのだが、速すぎる展開を追うことだけに汲々としていて、結局謎は解けないまま終わってしまった。
それにしても、感染して最短三時間ほどで死んでしまうウイルスでは、あまりに強烈すぎて兵器としては使いづらそうだ。基本的に細菌兵器は敵を死に至らしめる必要まではなく、行動不能にできればいい。また、その敵の間に入ってもみずからは発症しないよう、ワクチンを開発しておくのが定石である。どうも今回の細菌兵器にはそうした安全対策は取られていないようで、まあそれだからこそテロリストが使う、という設定にしたのだろうが・・・。
さすがに第三シリーズまで来ると以前のキャラを引きずることに限界を感じたのか、第一シーズンからお馴染みだった人間が何人か、今回限りで姿を消している。それが誰かは書けないが、ちょっともったいないような気はする。すでに第四シリーズもレンタルされているので、いずれまた深夜枠で集中放映されるだろう。今から楽しみだ(テレビ番組はやはり基本的にテレビ放映で観るのが正しい観賞態度だと思うので^^;)・・・
キャメロン唯一のコメディ作品にして、唯一の失敗作ともいわれている本編だが、こうして何度目か観賞してみると、やはりなかなかどうしてキャメロンらしい練られた作品になっていた。キャメロン本人は彼流のボンド映画を撮りたかったようだが、仕掛けばかり大きくなって肝心の内容が空疎になってきた本家ボンド映画に比べ、緻密な仕掛けで見せてくれる本編の方が、映画としての出来はよほどいいと思う。
表向き平凡なコンピューター・セールスマンにして、その実オメガという政府直属の秘密機関に属するハリー(シュワちゃん)は、アメリカに潜入した凶悪なテロリスト、アジズを追っていたが、ひょんなことから愛妻(ジェミー・リー・カーティス)の浮気に気付き、本来の任務そっちのけで総力を挙げてその相手を追いつめる(ビル・パクストンがいい味出している)しかし、作戦の仕上げ段階で本来の敵、アジズの逆襲に遭い、妻もろともテロリストに拉致されてしまう・・・と書くとシリアスな映画みたいだが、道具立ては超本格的で、話もそれほど無理矢理ではないものの、やはり基本的にはコメディとして成立している。
妻に正体がバレたあとの展開は、いつものキャメロン映画らしくアクション全開になり、コメディ味はやや薄くなる(しかしアジズの演説途中で切れるバッテリーや、助かったと思ったところに舞い降りるペリカンなど、小技はちゃんと効かせてくれる)やがて核爆弾まで絡んでくると少々話が荒唐無稽な気もするが、あちらでは核テロはいずれ現実になるであろう悪夢なのかもしれない。にしても、核爆発のキノコ雲をバックにキスシーンはないだろう、と思うが、結局のところ彼らにとって核兵器は所詮でっかい爆弾程度の認識に過ぎないのか(もっとも、前作T2でリンダ・ハミルトンが見た白昼夢は、映画で見ることのできたもっともリアルな核爆発のひとつだが)
クライマックス・シーンのハリアーによる空中シーンは、海兵隊の実機、実物大プロップ、そしてCG合成を駆使した当時としてはほぼ完璧な出来で、垂直離着陸というハリアーの特質を十二分に引きだしていた。ちなみに拙著「緊急発動!ナイトアウルズ」はこの映画の公開前年に出版されており、ハリアーがビル街を飛行するシーンは本編に影響されて描いたわけではないことをお断りしておく^^;・・・
ちょっと前、とある民放テレビ局でやっていた映画配給会社を舞台にしたメロドラマで、主人公が買い入れていたのが「えびボクサー」という冗談としか思えない映画だったのだが、なんとこの映画、ドラマの創作ではなく、その後本当に公開されたのはご存じの通り。あまりに馬鹿馬鹿しい作品だったので(えびボクサー=実際にはどう見てもシャコ=そのものの作りも仮面ライダーの怪人以下で、とてもお金を払ってまで観たいシロモノではなかった)すっかり忘れていたが、本編「いかレスラー」のスタッフたちは忘れていなかったようだ。そして、「えびボクサー」公開から3年後の2004年、日本版「えびボクサー」としかいいようのない本編が生まれたのだ。
それにしても、まったく「シベ超」とがっぷり四つに組めるほどしよーもない映画である。プロレスの試合にいきなりイカ(!!)が乱入すれば、試合うんぬん以前にまず生物学者が調査を開始するだろう。なにしろ、軟体動物なのにリングに立ち、数々のプロレス技を繰り出してチャンピオンに勝ってしまうのである。それだけではなく、このイカ、人語を解し、あまつさえ日本語をしゃべることすら可能なのだ。生物学的に見て、ノーベル賞級の大発見であろう。そういう展開に持って行かなかったのは、もちろん「えびボクサー」という前例があったおかげで観客の側に「二番煎じ」に対する心構えができているはずだ、という思い込みが製作者側にあり、また、基本的にこの映画はモンスター映画ではなくプロレス映画である、というスタンスをかたくなに崩さなかったからだろう。しかしなにしろ人間がイカやタコといった軟体動物とプロレスする映画である。まともなプロレス映画として評価してくれ、というほうに無理がある。
物語は冗談ともシリアスともつかない奇妙な雰囲気のまま展開し(イカになってしまった天才レスラーの元カノだった女が現チャンピオンの女になっており、いかレスラーの出現で深刻に悩んだり、いかレスラー人気を利用してプロレスに往年の人気を取り戻させようとするプロモーターが登場したり、妙にシリアスな話と馬鹿馬鹿しい話、ありえねーだろ、という話が文字通りごちゃまぜになっている)やがて現チャンプがたこレスラーに変身したり、新たな強敵しゃこボクサーが登場したりと、ますますわけの判らない話になっていき、そして最後には、40年も前に死んだはずの往年の大レスラー「強道山」までが復活したりして、完全に論理を超越したシュールな世界へとワープしてしまう。こうなるともう、映画を理解しているのは監督/脚本の河崎 実のみといっても過言ではなかろう(この人、「地球防衛少女イコちゃん」やいくつかのヘンテコなOVAでも有名なカントクなのだが、正直言って彼のセンスはいまだによく判らない)
ラストで人間に戻った元チャンプと、彼の元に戻った元カノとのあいだの赤ん坊がチラッと出てくるのだが、なんとそれがどう見てもイカ^^;元カノがイカを生んだのか、あるいはパキスタンの秘術で赤ちゃんがイカに変身したのかは判らないが、ふつー赤ん坊がイカになってしまったらあんなふうに喜ばないと思うのだが・・・
2時間の放映時間枠なのに、やたらと未公開映像やらシネマ情報やらを流すのはどうしてかと思ったが、この作品、上映時間がわずか75分という短さなのであった。ノーカットで放映しても時間が余ってしまうので、その分いろいろ埋め合わせが必要だったということだ。おかげでチャゲアスのプロモ用アニメーションを観ることができたのは収穫だったが(正直言って今回の映画本編より遥かに面白かった^^;)
それにしても、論評に困る映画である。特にこれといったマイナス点はないのだが、逆にプラスと言えるようなところも見当たらない、本編はそんな作品なのだ。主人公を敢えてどこにでもいそうな人物にするために、きわめて没個性的なキャラクターとして設定したのはおそらく計算なのだろうし、異世界に引き込まれてからの展開がすべて受け身であるのも、能動的にみずからとの関わりを作り出そうとする宮崎キャラとの差別化を図ったものと思われる。そうした狙いそのものは狙い通りに行ったとは思うが、おかげで物語としていちばん肝心なものが抜け落ちてしまっていることに誰も気付かなかったのだろうか。あるいは、それほどまでに宮崎駿という人間の比重がスタジオジブリの中で高い、ということの裏返しなのか。
とにかくこの映画の興奮度の低さといったら、おそらく歴代のジブリ映画の中でも最低であろう。作り手としては、そうした興奮の代わりに物語世界に浸る心地よさ、みたいなものを提供したかったのではないかと思うが、姉妹作とされる「耳をすませば」に比べても、あまりに違う作品となってしまった(互いに共通するのはせいぜいバロンが登場するくらいのものだ)スタジオジブリの作品がすべて宮崎/高畑スタイルの先鋭的なものである必要はないが、ただダルなだけで何も残らず終わってしまっては元も子もない。登場するさまざまなキャラクターの設定はそれなりに面白いのに(少女時代、「猫と話せる」回想シーンに登場した猫のことなど)それが見事なまでに全然生きていない。パロンにしろ、「耳をすませば」で断片的に語られた生誕の秘密や別れたままの恋人の話なども登場せずじまいで、結局のところ狂言回し役だけでいっぱいいっぱいだった。この辺は意図的というより、脚本家の力量の問題かも知れないが^^;
あと10分でいいから上映時間を延ばして、キャラクターそれぞれの描写に深みを持たせ、世界観をもう少しきちんと描いていたら、ちょっとは評価に値する作品になったと思われるだけに残念だ(;o;)・・・
というわけで、しっかり観ました、「シベ超2」(^_^)/
ちょっとびっくりだったのは、「シベリア超特急2」というタイトルながら肝心の「シベ超」はただの一度も画面に登場せず、事件はすべて満州奥地のホテルで展開する、ということだ。もはや「シベ超」は実際の列車の呼称ではなく、監督水野晴郎が山下大将を主人公にして撮った、自作自演のミステリー映画すべてのブランド名ということなのだろう。
冒頭、デ・パルマ張りの長回しで見せるホテルロビーでの登場人物紹介シーンは、やや説明臭さが気にかかるものの、前作から比べればプロの仕事を感じさせてくれるところだ(次々に登場する往年の名優たちにもずいぶん助けられていると思うが)しかし、トリに登場する山下大将(水野晴郎)の相変わらずのスーパー大根ぶりに、「ああ、おれは今シベ超を観ているんだった」と妙に納得させてもくれる^^;
シベ超にネタバレとは、とお思いかもしれないが、曲がりなりにも本編はトリックを使った一種の探偵ミステリーとして作られているので、この種の配慮はエチケットだろう。それに、この作品の持つ基本的欠陥を語るためには、どうしてもトリック設定に触れざるを得ないのだ。
車内に乗り合わせたもの全員が一人の人間に殺意をもって共謀する、というのは、クリスティの「オリエント急行殺人事件」で使われた有名な設定である。基本的には本編もそこから範を取っているのだが、問題は全員の共同謀議が車内にいるうちに行われているにも関わらず、事件そのものが泊る予定のなかったホテルで(そもそもゲリラによって線路が爆破されなければ、シベ超の乗客がこのホテルに泊ることはなかった)まったく偶発的に起こったものであり、彼らの共同謀議とは無関係のものであった、というあたりだろう。しかるに(山下将軍に恨みを持つという点で)利害の一致していた乗客たち全員は、あたかも事前から計画していたかのように割り当てられた役割を見事に演じきる。いくら御都合主義が当然のミステリーとはいえ、よく考えてみればあり得ない話である。もしゲリラに線路を爆破されなかったら、どういう方法で彼らは山下大将を抹殺するつもりだったのだろう。ほんの少しでもその計画が語られ、それを大胆に再構成して今回の犯罪に応用したという展開になっていたなら、これほど不自然な話にはならなかったかもしれない。
殺人のタネ明かしそのものは、テレビの2時間サスペンス劇場程度の水準には達しており、そこそこ楽しめる。お約束の「どんでん返し」も前作のような意味不明のものではなく、多少御都合主義ではあるものの、そこそこうまくドラマの中に折り込まれていた(「や〜めた」はちょっとアレだが^^;)このあたりは前作から長足の進歩が見られるところだが、前作の「怪作ぶり」を期待していた観客にはかえって期待外れだったようだ。
とにかく、水野晴郎のあいかわらずの下手糞ぶりも堂に入り、棒読み台詞がうっかりすると、笠智衆のような芸風に見えてくるから馴れというのは恐ろしい(;o;)ラストシーンの小さなタネ明かしは、水野晴郎の笑顔がなかったらたぶん嫌みなものになってしまっただろう。・・・いかん、やっぱりすでに僕は水野センセイの術中にどっぷりはまってしまったようだ。・・・
ついに観てしまった、わがニッポンの誇る史上最低映画「シベ超」を(;o;)
観てひとつだけ、とてもよく判ることは監督水野晴郎がよくいえば映画好き、もっとぶっちゃけいっちゃえば映画的雰囲気が好きなのだろうということだ。前者と後者の違いをきちんと説明することは難しいが、敢えていえば水野氏は「映画というイレモノ」を愛しているのである。もう少し中身にも関心を持っていたら、ここまで空虚な作品にはならなかっただろう。
注いだ酒が微動だにしないほどまったく揺れない列車、どういうわけか英語をしゃべり、プライバシー保護のためコンパートメントのスペアキーを持っていない(なにかあったら=実際あったのだが=どうするつもりだったのだろう)車掌、密室であることを強調している(前後の車両へのドアにすら鍵がかかっている設定)わりにその密室がまったく生きてこない数々の殺人、ただ椅子に座って目を閉じているだけで(オマエは眠りの小五郎か)超能力者のように事件の真相を次から次へと棒読み説明する山下泰文将軍(水野晴郎)などなど、脚本を書いた水野氏はシナリオの説得力になどまったく興味がなく、ひたすら趣味にのみつっ走っているようだ。アガタ・モレシャンと、アンビリバボーの再現ドラマでよく見かける稲川素子事務所所属の金髪女優(シェリー・スウェニーさんというそうです)のおかげで、なんだか映画ではなく家のテレビを見ているような気分になるが、考えてみれば普通のテレビ番組でこれほどシュールな作品があるはずもなく、ある意味きわめて映画的な映画と言えるかもしれない。われわれはこの映画で、水野センセイの頭の中を見ているというわけだ。逆マルコビッチの穴!?
ストーリィをひとことでいうと、さまざまな陰謀の絡んだ山下将軍暗殺計画なのだが、それぞれの動機は部分的には説得力があっても、映画全体の中で有機的につながっているわけではなく、結局何が何だかよく判らないうちに山下=水野将軍の「これほど悲惨な事態を招くのだから、なにがあっても戦争をやってはいけない」という(観客に向けての)演説で映画は突然終わってしまう。観客があっけにとられている間も延々とクレジットは流れ、これで終りかと思うと突然撮影終了後の後日談となり、そこでまた殺人事件が起こって、という、摩訶不思議な重層構造を持つ作品なのである(作品の毒気に当てられたか、文章ちょっと変^^;)これが水野氏のいう「どんでん返し」(とはちょっと言葉の意味が違うと思うが^^;)らしいのだが、その後も現実の殺人事件で死んだはずの人物が、次の場面ではまた登場して食事会になったりとますます意味不明な展開で、オマケのNG集あたりになるともうすでに頭は混乱の極み、そもそもこの映画にNGでなかった部分などあったのかと超基本的な疑問にとらわれてしまうのだった。
それにしても、せっかくあんなにでっかい客車のセットを作ったのだから、せめて屋根の上のシーンくらいもっと強力な扇風機を用意して、スモークをもっと速く飛ばして速度感を出して欲しかったものである。最初から最後までとても走っているようには見えなかった「超特急」であった。
同じ時間帯で来週は「シベリア超特急2」を放映するそうだ。絶対観てやろうと思っている僕は、やっぱり水野センセイの術中にはまってしまったのだろうか^^;・・・
最初からあまり期待はしていなかったが、さすがにあの「後出し」の天才・秋元 康の原作だけあって、頭からパクりのオンパレード。いかにも都市伝説的な冒頭の描写には明らかに「リング」の影響が見て取れる。てゆーか、「リング」のビデオが携帯電話に代わっただけ^^;
演出も、日本的というよりは洋画的なショッカー演出が前面に出ており、最初から海外進出を狙っているとしか思えない。このあたりのあざとさは、いかにも秋元氏絡みらしい。彼の名前は原作にしかクレジットされていないが、たぶん企画段階から深く関わっているのだろう。携帯電話にかかってくる謎の着信について丁寧に描写されるのはテレビの生中継シーンまでで、このあたりまではそこそこマトモに観られたものの、この後の展開はほとんど意味不明なものに堕してしまう。どうせパクるなら、「リング」の、ともかくもホラーを論理で貫く意志を見せてくれたガッツも見習って欲しかったものだ。
終盤の廃病院のシーンにいたっては、意図したものではないシーンにこそ異様な不気味さが感じられたりして、おっかないシーンが始まると逆にほっとしてしまったりする。いくら映画とはいえ、安易にこんな場所でロケーションするとホントにやばいことになりそうだ。僕は霊魂とか祟りとかは全然信じないが、そうしたものを信じた人間の怖さは信じる。神の存在はともかく、宗教が頑とした存在感を示すのと同じことで、少なくとも信じた人の心の中に、その信じたものは存在するのだ。
閑話休題、こんなことを書くしかないくらいに終盤の展開は意味不明で、とり殺された人間の口の中から転がり出てくるアメ玉と、終盤病室で由美(柴咲コウ)から山下(堤真一)に口移しされるアメ玉とはどういう関係にあるのか、後ろ手に果物ナイフを握った由美はあのあと山下をどうするつもりなのか、あそこで殺すならなぜアパートで止めを刺さなかったのか、そもそも由美は誰に取り憑かれてるのか、携帯電話の着信とそれにより殺される人間たちとの関連は何だったのか、何一つ解明されないまま映画は終わってしまうのだ。「謎の解明は着信アリ2で」とは原作者秋元氏の弁だそうだが、この男、どこまで観客を舐めてくれるのか^^;
映画としては最低に近い出来なのだが、前半のそれなりに怖い演出を評価してのポイント→・・・
原作はあまりにも有名なH・G・ウェルズの「宇宙戦争」だが、実はこの日本語タイトルは意図的な誤訳であって、原題“War of the Worlds”の正確なニュアンスは「ふたつの世界の戦争」というような意味なのだそうだ。つまり現代の地球人類と、遥かに進んだ文明を持つ宇宙人(原作では火星人)それぞれの世界の衝突である。非凡な文明批評家でもあったウェルズは、当時パーシヴァル・ローウェルなどの活躍によりブームになっていた火星人を肴にして、侵略ものSFの嚆矢にしていまだに最高傑作といわれる「宇宙戦争」を書いたのだ。書かれたのは1895年から1897年末にかけてだが、連載の形で発表されたのは1897年春からで、単行本化は翌1898年になされている。なんとまだ19世紀のことだったのだ。
それからほぼ半世紀後(奇しくも今からほぼ半世紀前)の1953年、ジョージ・パルによって一度映画化されており、今回のスピルバーグ版はそのリメイクという立場の作品だが、さすがにただのリメイクではあまり意味がないと思ったのか、この作品にスピルバーグは「家族愛」という、原作や50年前のオリジナル版にはなかったテーマを封じ込めた。
スピルバーグというと、派手な演出にばかり目を奪われてあまり気付かないが、実は劇場用映画第一作である「続・激突カージャック」(なんとかならんか、このダサすぎる邦題。ちなみに原題は“The Sugarland Express”むかし自作のサブタイトルにそのままいただいたことがありますm(_ _)m )からすでに、家族愛は重要なテーマであった。もちろん現代が舞台であるから主人公レイ(トム・クルーズ)の家庭は崩壊しているという設定で、離婚した元妻から二人の子供を一時的に預っている最中に宇宙人が攻めてきて、三人はただひたすら逃げることになる。異変はまず空から始まるのだが、それまでの短い間に親子関係を手短に、なおかつ的確に描いており、スピルバーグの職業監督としての非凡さを表していた。出だしのぎくしゃくした親子関係がリアルな分だけ、やがて本当の父性愛に目覚めていくレイの姿が際立ってくるという寸法だ。まさに観客はスピルバーグの手玉にとられるわけだ(^_^;)
本編が他のよくある侵略テーマ作品と大きく異なるポイントは、なんといっても登場人物たちの握る情報量の少なさであろう。通常この手の作品の主人公に選ばれるのは、科学者、軍人、政治家など、テーマに則した情報に触れやすいポジションにある人間なのだが、本編の主人公はただの港湾労働者であり、これは彼とその家族がひたすら宇宙人の攻撃から逃れる過程が、ロードムービーよろしく描かれるだけの映画なのだ。世界が今どうなっているかは、とぎれとぎれに入るラジオのニュースや、デマともつかない人々の噂話から得られる情報の断片から判断するよりない。ヨーロッパは無傷だ、という噂もあれば、逆に全滅したという噂もあって、どれが真実なのかは観客にすら判らない仕掛けである。傑作なのは「大阪ではトライポッド(宇宙人の侵略兵器)を3体倒した」というくだりで、もちろんこれも真偽のほどは判らないが、ロンドンでもパリでも東京でもなく「大阪」であるあたりに妙なリアリティがある。
そしてもうひとつ、この映画が従来の侵略ものと決定的に異なる点がある。基本的にこの映画の登場人物は、相手がエイリアンどころか人間であっても、自分と家族以外の誰も信じていない。レイたちの乗ってきた車は船着き場で暴徒に奪われてしまうし、そのとき一緒に奪われた拳銃で誰かが殺されたことを銃声が物語っていた。その日の日中、一家が川を流れてくる無数の死体を目にするシーンがあるのだが、宇宙人に殺された人間は灰になって消滅するはずなので、彼らは宇宙人以外の理由によって死んだことになる。その理由とは、やはり人間以外に考えられないだろう(トライポッドにさらわれた人間もまた、怪光線に撃たれた者同様に服だけを残して消滅したことを示すシーンがわざわざ挿入されている)この種の侵略テーマの作品で、これほど人間たちが結束しない作品はたぶん初めてではないだろうか。極限状態に置かれたとき、しょせん人間なんてこんなものさ、という諦念すらうかがわれる脚本である。それがもっとも端的に表れているのは、終盤自分たちをかくまってくれたオグルビー(ティム・ロビンス)が錯乱してしまったとき、娘レイチェル(ダコタ・ファニング)を守りたい一心でレイが彼を手にかけてしまったことを暗示するシーンである。パニックに陥った人間たちの脆さ、怖さを、よりによってそのことに対する警句を常に口にしていたオグルビーが体現してしまうあたりに、また、その状況から逃れるためには文字通り彼の口を塞ぐよりない、と結果的に主張するあたりに、この映画の怖さはある。
さて、徹底した秘密主義により、映画本編でしか見られないトライポッドだが、そのデザインはイギリスの著名イラストレーター、ロジャー・ディーン(ロックグループ「イエス」のジャケットなどで有名)が「宇宙戦争」にインスパイアされて描いたイラストによく似ており(画集“Magnetic Storm”所収。頭の下に小さな胴があるのと、脚がよりメカニカルになっている以外、そっくりなデザイン)いかに原作が同じとはいえちょっと気になるところだ。それはそれとして、いつも通りミニチュアとCGとを巧みに組みあわせたSFXはやはり見事で、地中からトライポッドが姿を現し、逃げ惑う人々を次々と怪光線で灰にしてしまうあたりの演出は、さすがにスピルバーグならではのうまさが光っていた。多数のトライポッドが街を蹂躙して行く様子を丘の上から俯瞰する場面など、かつての名作イラストがそのまま動いているかのごとき美しさである。たびたび書いてきた通り、SFとはつまるところ絵なのだが、スピルバーグもやはりルーカス同様に、そんなことなど百も承知の映画作家なのであった。
ところで、原作では単純に空から落ちてきた隕石の中からマーシャン・トライポッドが出現するのだが(パル版ではあの有名すぎる円盤が登場)スピルバーグ版ではその辺がやや凝っており、宇宙人は稲妻に乗って、数百万年前すでに地中に埋められていたトライポッド内に転送される設定になっていた(おかげで宇宙人たちは、それだけ長い間人類を研究し、また人類より遥かに高度な文明を持ちながら、なぜかやがて自分たちを滅ぼすことになる小さな存在に気付いていない、という一大矛盾を抱えてしまうことになる。個人的にはこのあたりをもう少し今風にアレンジして欲しかったところだ。人類はアポロ計画の昔から、宇宙の未知の病原体を持ち込まないよう完璧な検疫体制をとってきたのに、人類より遥かに進んだ宇宙人がなぜそうした対策をとらなかったのか、SFズレした現代の観客を納得させる工夫はやはり必要だったのではないか)なにもわざわざ転送などという手間をかけてトライポッドに乗り込まなくても、と思うのだが、ウェルズがこの小説を書いた当時にはまだ自律行動できる自動機械、つまりロボットは着想されておらず(ロボットという言葉の生みの親カレル・チャペックによって、ロボットが初登場する戯曲「R.U.R」が書かれたのは1921年)トライポッドは操縦士の操る乗り物でなければならなかったし、また、肝心な最後のオチのためにも無人機であるわけには行かなかったのだ。
家族愛というはっきりしたテーマを除けば、物語はジョージ・パル版に似た展開を示し、蛇型センサーに追いつめられたり、計らずも宇宙人たちに遭遇してしまう場面や、印象的なラストシーン(開いたハッチから宇宙人の手が・・・)など、パル版へのオマージュと受け取れるシーンも数多く登場する。しかし、白旗を掲げて宇宙人との交流を図る平和主義者たちが登場したパル版に比べ、本編では侵略の開始直後に「テロリストの攻撃!?」とおびえるシーンがあったりして、やはり9.11以降の作品であることが伝わってくる。今のアメリカでは、一朝何か起こればまずテロリストの攻撃を疑ってしまうのだろう。それほどに9.11はアメリカ人のトラウマになっているのだ。
原作通りのあっけないラストや、「最後に愛は勝つ」という昔の曲を思い出しそうな甘いエンディング(個人的には大ブーイング^^;こういうエンディングなら、息子ロビーがレイと別れたその後は、たとえワンカットでもいいから必要だったのではなかろうか)にはやや違和感を感じるものの、このあたりがスピルバーグの限界なのだろう。どうも彼の関心はそうしたことよりも、たとえば最初の攻撃から逃走する車を右から左から、あるいは正面から、内部で演技し続ける俳優ごとワンカットできっちり捉えきる長回し画像など(リモコンクレーンを使った撮影なのだろうか?)テクノロジー的な挑戦の方にあると思えてならない。・・・
もともとこの作品は、翌年(つまり今年)公開される↓のエピソード3のプロモーション用に、2004年に作られたテレビアニメである。やたら細かいチャプターに分けられているのでちょっと奇妙な感じがするが、これは本編が5分の帯番組として製作されたからで、本来は今回のようにまとめて観るべきものではないのだろうが、たとえ毎日放映されても見逃す可能性が高いし、逆に、観やすいようにと無理矢理ひとつながりの作品として再編集され、オリジナルの雰囲気を失っても困るので、まあ本来の形式に近い今回のような放映の仕方は次善の策といえるのだろう。
物語はエピソード2終了後、いよいよ本格化するクローン大戦を描いたもので、本編ではさほど活躍が描かれなかったジェダイの騎士たちが、それぞれクローン兵士たちを率いてドゥーク伯爵率いるドロイド軍団と壮絶な戦いを展開する。シナリオそのものにはさほど破綻もなく、なかなかよく描かれていたと思うのだが、問題は肝心のキャラクターで、そのセンスはほぼ半世紀前の誕生当時のテレビアニメとほとんど変わっていない。とにかく絵が平面的で、ほとんど立体感を感じられないのだ(映画のキャラにあまり似てないのも致命的^^;唯一、回想シーンでワンカット登場するクワイ・ガンジンだけがちょっと似ていた)おかげで、CGで描かれグリグリ三次元で動くメカとの間に違和感が生じてしまっている。全体的にコンピューターで描ける部分に関してはかなりグレードが高いものの、手を使う部分、たとえば爆発の描写など、もっと日本あたりのアニメを参考にするとか、せめて最近のディズニーアニメなみの「らしさ」を出せていたら、もう少し評価に値する作品になっていただろう。ふんだんに出てくる剣戟シーンなどかなり凝っていて、よく出来ていただけに残念だ。
全体的にエピソード3の予告編的な色彩の濃い作品なので、映画本編で重要な新キャラとして登場するグリーヴァス将軍も、ここで初登場している。映画では咳き込んだりして、まるで老人のような姿で登場するのだが、その理由も終盤にしっかり描かれている。そのほかにも、エピソード2でまだパダワン(弟子)であったアナキンがいかにしてジェダイの騎士として認められたか、また、鈍い金属色であったC3POが、いつの間にまばゆい黄金色に塗り替えられたかなど、映画では直接触れられていない小ネタもふんだんに盛り込まれていて、やはり小ネタ大会であったエピソード3を先取りしているかのようだ。
大戦はおもに辺境の星系で行われているのだが、実はその裏にはシスの陰謀が隠されていた。グリーヴァス将軍率いるドロイド軍団が突然共和国の首都コルサントを急襲し、議長パルパティーン(ちょっと風貌が怪しすぎ^^;ここはあくまでもふだんアナキンに見せているような善人面でなくては)を拉致してしまうのだ。その知らせを受けたアナキンとオビ・ワンが、ジェダイ・スターファイターで分離主義者の宇宙艦隊に攻撃を仕掛けるところで「つづく」となるのだが、いうまでもなくこれはエピソード3のファーストシーンであり、要するにこの作品は、単なる番外編というよりは、エピソード2と3との間をシームレスにつなげるための、新しいスタイルのスターウォーズ・サーガの一部なのだ。
聞くところによると、ルーカスフィルムでは続編の予定はないものの、エピソード3と4の間をつなぐテレビシリーズを企画中らしい。それがどんな形をとるかは判らないが、いずれにしろ実写では難しいので(エピソード4に登場した俳優たちはすでに歳をとったり亡くなってしまったりしている。それぞれのイメージが強すぎるので、別の俳優が演じるには抵抗感が強そうだ)あるいは今回のようなアニメになるのかもしれない。その時には、もうちょっとキャラクターデザインにも気を使って欲しいものだ(その後、来日したルーカス監督が語ったところによると、テレビ版はアニメ、実写の両方を予定しており、特に実写版の方は総計100時間にも及ぶ大作になるという。映画版全6作すべてを合わせても13時間あまりにしかならないことを思うと、まさにスタートレックなみの膨大なシリーズになりそうだ)・・・
誰でも知っている有名な物語であり、なおかつ30年近く前のエピソード4ですでに続きが発表されてしまっているので、それにすんなりつなげなくてはならないというのは、考えてみれば実に大変な大仕事である。監督/脚本のジョージ・ルーカスは、この無理難題に果敢に挑戦し、少なくとも「失敗作」の烙印を押されることだけは免れた作品を作り上げた。やはりこれはすごいことと言わねばならないだろう。
映画は壮大な宇宙空中戦から始まる。そのスケールは、アナログ合成時代の最高傑作と言われたエピソード6のクライマックスシーンに勝るとも劣らぬ、というかすでに完全に勝っており、改めて日進月歩のデジタル表現力には驚くばかりだ。登場する宇宙戦艦や戦闘機のデザインも、後のエピソード4以降のものにつながるコンセプトが見て取れるし、目まぐるしい空中戦機動などは完全に旧シリーズを凌駕していて、なぜこれから約20年後の宇宙戦闘機(XウイングやTIEファイターなど)はあんな鈍い動きになってしまうのだろう、などと余計な疑問を抱いてしまいそうだ^^;
ジェダイの騎士オビ・ワンとアナキンの任務は、分離主義者に拉致されてしまったパルパティーン議長を救い出すことだが、エピソード1の頃から書いてきたように、このパルパティーンこそはシスのマスター、ダース・シディアスと目される人物であり、興味の中心はいかにしてその正体が暴かれるか、またはこちらの裏をかくような人物設定がなされているか、というところであった。結論をここで書くわけには行かないが、正直言ってもう一工夫あればもっとよかったようにも思う。
基本的にエピソード3は、主人公アナキンがいかにしてダークサイドに落ち、究極の悪役ダース・ベイダーとして生まれ変わるかが描かれた話だが、伏線はそれこそエピソード2の頃から綿密に張り巡らされてはいたものの、実際に語られてみるとやはりちょっとあっけない感は免れない。シスのマスターによるダークサイドへの誘惑シーンはエピソード6にも登場してくるが、失敗したあちらにくらへて、こちらはわりと簡単に寝返ってしまったようにみえる。もちろん、いろいろ搦め手から攻められて、アナキン自身がにっちもさっちも行かなくなってしまうあたりはよく描かれているのだが、そこからダークサイドの魅力に囚われてしまうまでの距離がちょっと短すぎるように見えるのだ。この辺はやはりもっと具体的に、あるいは即物的にダークサイドのパワーと魅力を一身に受けたアナキンの変身を描かないと、ともするとうわべだけ信じたふりをしているようにも見えてしまう。1カットだけゴールドのカラー・コンタクトを入れて、ダークサイドに囚われたアナキンをビジュアル的に表現したシーンがあったが、なぜかその後のシーンではもとの黒い瞳に戻ってしまい、悪の魅力を訴える口調にもあまり説得力がなかった。剣戟の激しいアクションにうまく拮抗できていなかったということかもしれない。
それからこれは仕方のないことだろうが、全体的にエピソード4につなげるための辻褄合わせもかなり目立った。ルークとレイアの母であったパドメはどうしてエピソード4以降には出ていないのか、ルークとレイアはどうして引き離されることになったのか、なぜ美青年だったアナキンが兜を脱いだダース・ベイダーのような奇怪な素顔になったのか、そして、アナキンは普通の背丈なのに、同一人物のはずのダース・ベイダーはどうしてあんなに大男なのか(笑)などなど、さまざまな疑問にきっちりと答える形でドラマは進行する。ややきっちりとしすぎていて、全体的に想定の範囲内という感じのドラマになっていたのが心残りではあるが、膨大な要素を過不足なく描き、限られた上映時間内に収める手腕はさすがであった。
ところで終盤ワンカットだけ登場するアンティリーズ大尉って、やっぱりウエッジの親父という設定なのだろうか?・・・
日本に新たなホラームービーブームを巻き起こした「リング」のハリウッドリメイク版。じっとりとした怖さの演出は、日本の怪談映画に一日の長があるとかねがね思っていたが、ハリウッドもそれを認めたのか、このハリウッド版「リング」、シナリオはもとより、怖がらせる演出そのものも日本版「リング」を踏襲して、かなり似たような雰囲気を持つ作品となった。ただ、日本版で顕著であった天然痘や超能力実験といった、科学的要素へのアプローチはやや不足気味で、日本版の貞子にあたるサマラの描き方にはちょっと突っ込みの浅さを感じた。あれがないと、そもそもあのビデオがどうして存在しているのか、説明がついていないと思うのだが。代わって、馬に関する描写が新たに付け加えられた部分だが、多分絵として欲しかったのだろうとは思うものの、あまり必然性は感じられないし、結局蛇足に終わった感が強い。ビデオのルーツを巡って島へ行き、その後振り出しに戻って事件の発端となった山荘へ、という展開も日本版と同じだが、やや行き当たりばったりに見えたのは、たぶん伏線の描き込みが不足気味だったからだろう。
日本版の竜司にあたるノアが、テレビから出現したサマラに襲われるクライマックスシーンは、日本版とほぼ同じシチュエーション、カット割りなのだが(細かい部分、たとえばテレビから生身の体が出てくる貞子に比べ、サマラはテレビの外でも走査線のあるホログラムのような映像で、実体が無いように見える違いはある)同じことの繰り返しではやはり怖さは薄れてしまう。初見なのに何だか見慣れた情景に見えてしまうからだが、もちろんこの映画は日本版を観ていない人のための映画なので、これは日本版「リング」の怖さを、できるだけ正確に伝えようと努力した結果だ、と認めなくてはいけないのだろう。貞子よりサマラの方がだいぶ幼い設定のため、どうかするとちょっとかわいく見えてしまうあたりは計算違いか^^;
最後になぜノアが死んで自分が生き残ったか、ヒロインが気付くあたりも日本版と同じなのだが、その後息子を救うために究極の行動に出る日本版に比べ、ハリウッド版の方はそれを匂わせるだけで終わっている。ある意味この部分こそが「リング」の核と思われるのだが、この映画では付け足しのような表現で終わっており、ちょっと物足りなかった。全体に日本版に近づけようという努力はにじみ出ているが、その分ハリウッドならではのけれん味に欠けた映画になってしまった感は否めない。・・・
20年近く前、アメコミでもこんなタイトルの作品があり、ゲーム化もされていたはずだと思って調べてみたら、確かにカプコンから同名のゲームが出ていた。コミックスやゲームでは舞台は地球ではなかったようなので、そのまま映画化されたわけではないのだろうが、エイリアンとプレデターが登場し、そこに人間も絡んでくるとなるとどうしてもシナリオはある程度限られてしまい、一種のイベントムービー化は避けられなかったようだ。
本編ではこのイベントを、100年に一度の「成人の儀式」として設定していた。若いプレデターが強敵エイリアンを倒すことによって「成人」として認められるというわけだ。よく判らないのは、わざわざそのために人間の注意を引いて呼び寄せているあたりで、この場合人間の干渉にはほとんど意味がないし、かえって邪魔になるだけだろう。唯一人間の必要性が考えられるのは、エイリアンを成長させる餌として使うためだが、それならそれで誘拐とかいろいろ手はあるだろうし、なにより、最初に遭遇した捕鯨基地で地上に残る隊員たちをいきなり皆殺しにしてしまう理由がよくわからない。
いずれにしろ観客の興味はエイリアンとプレデターとどっちが強いのか、という点に尽きると思うのだが、きわめて優れた完全生物エイリアンに対して、同様に凶暴ではあるものの、人類より遥かに高度な文明を持つ知的生命体でもあるプレデターの方が、知能という武器を駆使できる分だけ有利であり、映画の設定でも当初エイリアンはプレデターに管理された存在として登場する。人類の干渉でその管理が崩れてしまい、逆にプレデター側が次々に倒されてしまうという計算違いが起こるわけだが、そのこと自体もあるいはプレデターの「想定範囲内」のことだったのかも知れない。
プレデターの思惑通りなのか、ピラミッド探索に訪れた人間たちは次々にエイリアンの餌食となり、その分エイリアンの数は増殖していくわけだが、前半でわりあい丁寧にキャラクター紹介をしている割には、全員あっけない最期を迎えてしまっており、ヒロインとなるレックス(サナ・レイサン)以外の扱いはおざなりというしかない。まあ、丁寧に描いたところでどうしても前4作の描写をなぞる形にしかならないので、そのあたりはあっさりパスしたというところかもしれないが、それならそれでプレデター側のものの見方とか、過去の地球人との関わりなどをもう少しきっちり描くべきだっただろう。ピラミッドを作った三大文明のいずれにも関わっていたという設定なのだから、単に考古学者の妄想みたいな形で描くよりもっと方法はあったと思う。まあ、そのあたりに突っ込むよりは、少しでも多くエイリアンVSプレデターの戦いを描くスペースが欲しかったのかも知れないが。10分ごとに形状を変え、そのたびに新たな迷路を造り出すピラミッドの構造もなかなか面白い趣向だが、地球人と宇宙人の時間の尺度が同じと考えるのは無理がある。もっとも、この映画の設定では地球人に文明を与えたのはプレデターなので、時間の尺度の概念そのものもプレデターが与えた、ということなのかも^^;
ラストのオチは、あまりにベタな形で伏線を張ってあるので誰もが予想した通りのものだが、場所がいささか気になった。あれではいかにも宇宙葬寸前という感じで、あのまま遺体が宇宙空間に廃棄されてしまったら、エイリアンの努力も無になってしまう。せめて病室か遺体安置所を連想させるような、密閉された場所ならよかったのだが。
ところで、ランス・ヘンリクセンがレックスたちを雇ったIT企業、ウェイランド社のオーナーとしてまたも登場するのだが、そのミドルネームが例によってビショップ(^_^)エイリアン3に登場した実業家ビショップのご先祖様、という設定なのだろうか??・・・
ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロゥ、アンジェリーナ・ジョリーという俳優たちの顔触れを見るととてもそうとは思えないが、これはれっきとしたインディペンデンス系のマイナーフィルムであり、すべてCGで作成された背景は、もちろん監督自身のイマジネーションを再現することが主眼ではあるが、それと同時に予算面での制約をクリアーするためのものでもあったと、DVD特典のインタビューで監督は答えていた(もっとも製作費は日本映画の超大作を遥かに越える70億円といわれている)現代のテクノロジーで過去のある時点から見た未来像を映像化する、という発想は、やや「ロケッティア」など一昔前のヒーロー物にも通じるところがあるが、当時とは比べ物にならないほど進化したCG技術により、ほとんどすべての大道具をCGのみで描ききってしまったあたりは、やはり21世紀のアクション映画である。
舞台設定は1939年のアメリカなので、作中で「先の大戦」といえばそれは第一次世界大戦なのだが、そのあたり字幕がもうひとつ不親切であった。スカイ・キャプテンことジョー(ジュード・ロウ)の愛機は、当時の最新鋭機であったカーチスP-40なのだが、零戦にボロカスにやられてしまったP-40が大活躍しているあたり、ちょっと不思議な感じがする。アメリカ人にとっては、あの形状がいちばんノスタルジーをそそるのかもしれない。もっともこの飛行機、ジョーの相棒の天才発明家、デックスの手で現代の航空機でも不可能なこと(なんと海中も飛べる!!)をやってのける万能機に改造されているのだが^^;
このスカイ・キャプテンというヒーローの設定がよく判らない。ニューヨークが謎のロボット軍団に襲われたとき、普通なら軍隊の出動が要請されるところで、なぜか警察はスカイ・キャプテンに出動要請するのだ。このスカイ・キャプテン、自前の航空部隊や基地までもっており、ほとんど私設軍隊。アメリカ陸軍航空隊は一体どこに行ってしまったのだろう??
一方、事件の鍵を握るあるアイテムを手にした敏腕女性記者、ポリー・パーキンス(グウィネス・パルトロゥ)は実はスカイ・キャプテンことジョーの元カノであり、事件の謎をめぐって二人で行動するうちに焼けぼっくいに火が付いてしまうという、お定まりの展開に(^_^)もっとも、かなり古風なこの展開は、全体のレトロ調の作風やジュード・ロウ、グウィネス・パルトロゥという、どちらかといえば古風な美男美女によく合っており、脚本も書いている監督コンラン氏の確信犯的行動であろう。
もう一人の重要な登場人物、フランキー・クック大尉(にしちゃずいぶん偉そうだったけど^^;=アンジェリーナ・ジョリー)は、片目のアイパッチやナチスドイツ風の黒ずくめのコスチュームから、観る前は敵の親玉かと思っていたのだが、実際には・・・^^;ま、正体は観てのお楽しみというところか。出番はさほど多くはないが、かなり印象的な、得な役どころだった。彼女の率いるマンタ部隊は、いかにも戦時中にいろいろ出てきた試作機のような雰囲気を醸し出しており、また、ジョーの愛機同様、飛行艇とは違う意味の水陸両用機で、現実感には欠けるものの、40年ほど前の小沢さとるマンガに登場するメカのような魅力があった(ただし、マンタが空中仕様から水中仕様に変形するとき、プロペラの位置が前方から後方に移動する意味はよく判らなかった。映画の設定の1939年当時から、後ろにプロペラがついているプッシャー式の飛行機はいくつも存在していたのだから)
ジョーとポリーの活躍によってついに敵の正体が明らかになるのだが、その意図するあたりは割と意外性があって、SFとしてちゃんと成立していたように思う。敵の中心人物トーテンコフの正体が実は、というあたりも気が利いていたが、なによりその人物をサー・ローレンス・オリビエが演じているあたりが面白かった(余談だが、ローレンス・オリビエは本編公開の15年前、1989年に亡くなっている)
全体に、重要なヒントがあまりに明白な形で提示されていたり、展開が強引に過ぎる部分も目に付くが、そのあたりは当時たくさん作られたこの手の冒険映画の定石でもあり、むしろ「レトロな味わい」として評価すべきなのかもしれない。その一方で、ジョーとポリーの関係についてはしつこいくらい丁寧に描かれており(ジョーの愛機の機体番号=上下逆の鏡文字でh110dつまりPOLLY=など小技満載^^;)何かというとすぐ寝てしまうアメリカン・ニューシネマ以降の青春像とはあまりに違っていて興味深かった。また、ポリーが途中で手持ちのフィルムをすべて失ってしまい、2枚だけ残ったカメラ内蔵のフィルムをどう使うか思い悩むあたりも、ラストのあまりにベタなオチにストレートにつながっていて、思わず画面にツッコミを入れてしまった観客も多かったのではあるまいか。それもこれもおそらくは監督の計算通りであり、そういう意味でもなかなかよく出来ていた映画だったと思う。・・・
中村吉右衛門が主人公・長谷川平蔵を演じる同名テレビ番組のスピンオフ作品である。テレビでは表現できないスケールといううたい文句ではあるが、残念ながらこうしてテレビで観ると、もとからテレビ用に撮影されたシリーズ作品との違いはほとんど判らなかった(映画はもともとビスタサイズで撮られていたが、テレビ放映用にトリミングされていた。最近ではテレビ枠でもビスタサイズ放映されることが多いことを思うと、まったく余計なサービスであった)まあ、それだけテレビ版のグレードが高いとも言えるのだが。それより問題だったのは、シナリオそれ自体もまた2時間枠のテレビ映画的な出来だったことで、どれくらい池波正太郎の原作に近いのかは知らないが、いずれにしろあまり出来のいいほうではなかったような気がする。
特に、もっと話に絡んでくるのかと思った狐火の勇五郎(世良公則)や(それにしても放免する代償として右腕を切り落とすとは^^;)平蔵の息子・辰蔵(東根作寿英)など、もったいぶったわりにあっさりと退場してしまうのは、上映時間の関係か、原作がそうだったのかは知らないが、やはり無理を感じてしまった。
肝心のチャンバラシーンにしても、全体的にいかにもテレビ時代劇風の平板な構図で、映画ならではの工夫みたいなものは感じられなかった。・・・
60年代の名作コメディ「うっかり博士の大発明」のリメイク。当時と同じディズニーの製作で、いかにもディズニーらしい、よくいえばファミリー向きの、はっきり言えば詰めの甘いファンタジーだった。設定などはオリジナル作品とほぼ同じだが、フィリップ博士(ロビン・ウィリアムズ)の助手を務めるロボット(?)フィーボの存在があまりに目立ちすぎて、肝心のフラバーが霞んでしまったのは計算違いか。なにしろフィーボときたら完璧な自意識を持つ人工知能を搭載しているし、ローターもなしに空中を自由に移動するという、まさに反重力を実現した存在なのだから。さすがにプログラムそのものは、フラバー同様偶然の産物ということにして、なぜ量産化してお金を儲けないのか、という謎に答えてはいるが、空中浮揚の技術に関しては何の言及もなかった。後に登場するフラバーの技術を生かした空飛ぶフォード・サンダーバード(後にちゃんとフォード社に売り込みに行くあたり、間違いなくタイアップだろう。ちなみに、オリジナル版「うっかり博士の大発明」でも、飛んでいたのはT型フォードだったそうなので、まさに歴史的なタイアップである)など、こんなややこしいことをせずともフィーボの飛行原理を応用すればいいのではないか、と思ってしまった。ともあれ、人間になったみずからの姿をホログラム投影して、眠る博士にこっそり想いを告白するシーンは、印象に残る名シーンである。抱きしめられた途端に光の粒になって消えてしまうあたり、最近とある日本映画でそっくりそのままパクっていた^^;
バスケットボールのシーンはオリジナルにもあるらしいが、明らかに普通ではない跳躍力を見せられても、何の疑いもなく得点を認めてしまう審判の目は一体どうなっているのだろう。フラバーを発明した側から描かれた話だからあまり問題ではないのかもしれないが、もし逆サイドから描かれた話だとしたら、明らかにアンフェアだと誰しも思うに違いない。昔のコメディにはよくあった設定だが、1997年というまだ10年も経っていない作品の中で、こうした描写が堂々と行われるのはやっぱりちょっと気になる。東西の軍事バランスを崩すという理由だけで、飛行機泥棒を正当化してしまった映画「ファイアーフォックス」の発想ともどこか通じるところがある、といったら言い過ぎだろうか。
フルCGによるフラバーの描写がこの映画の一番の売りなのだろうが、ILMの手になるだけにさすがによく動いてはいるものの、もうひとつ魅力に欠けてしまった感は否めない。フラバーがただの化学物質なのか、それともなんらかの知性体なのか(映像を見る限りでは知性体としか思えないのだが、そうした説明はいっさいなかった)結局判らずじまいだったり、結婚式を3回もすっぽかす困ったちゃんの博士のキャラがイマイチ掴めなかったり、結婚相手となる学長の気持ちもよく判らなかったりと、いろいろ欠点も多い作品だったのは残念だ。それもこれもやはりフィーボが目立ちすぎた結果なのだろうが。・・・
僕は世界各国の言語に精通している、というほどのことは全然ないが^^;それでも映画の中でしゃべっている言語が何語かくらいはだいたい判る。しかるに今回の「雪の女王」ときたら、たまに出てくる「プリンセス」という単語以外、ほんの断片すらも判らなかった。ヨーロッパ映画でこういう場合、たいていは東欧か北欧辺りのなじみのない言語なのだろうな、と思うのだが、資料を調べてみたらフィンランド・スウェーデンの合作映画であった。道理でひとことも理解できないはずである。
物語は基本的にアンデルセンの「雪の女王」を踏襲しており、登場するキャラクターもヒロインのゲルダ、女王にさらわれてしまうカイなどいちおうは原作に従っているのだが、童話らしく説明的なアンデルセンの原作に比べ、非常に台詞が少なく、きわめて幻想的な映像の連続で綴る象徴主義的な映画作品、という感じに仕上がっていた。登場する悪い魔女や山賊たちなども、リアリティはほとんどなく、単に映画に彩りを添える存在に過ぎない。
しかしそれではつまらない実験映画かというと、そうとも言いきれないところのある不思議な作品で(前衛的な感じはあるが、基本的には童話の映画化であり、子供向けの映画なのだ)特にヒロイン・ゲルダを演じるOuti
Vainionkulma(オゥティ・ヴァイニオンクルマとでも発音するのだろうか)の可憐さもあいまって(ちょっと原作より幼すぎる感じはするが、さすがにグレタ・ガルボやイングリット・バーグマンを生んだ国だけあって、その美しさは傑出していた)なかなか引き込まれる映画なのだ。1986年の作品なので、それほど新しいわけでもないのだが、それにしては映像は新鮮で発色などかなり美しい。全体的にまるで夢の中のように模糊とした印象で、そうした作品の雰囲気に発色の美しさはよく合っているといえる。昔風にいえば、環境ビデオ的な観賞に向いた作品といえるかもしれない。別に炉系の人でなくても、動いているOutiちゃんを観ているだけで満足できそうだ。・・・
「櫻の園」に続いて吉田秋生のコミック作品映画化二作目だが、かなり話題になった前作に比べて、いかにも地味な扱いだったのはちょっとかわいそうだった。残念ながら原作を未読なので、本編の風変わりな構成が映画オリジナルなのか、それとも原作がもともとそうだったのかわからないが、なにしろ一癖ある吉田作品のことだから、もとからこれくらい捻くれていても何の不思議もない。
始まりはごく普通のラブ・ストーリィ風なのだが、映画の1/4くらいのところで主人公二人の恋愛ドラマは一応成就してしまう。あれ?と思っていると、それまで脇にいた人物の視点でもう一度最初から物語が語られ始める。こうした手法で同じラブ・ストーリィが、別々の角度から何度も語られるという面白い趣向の作品なのだが、もちろん回を重ねるごとに話の奥行きは深くなり、何気ない点景の一人だったキャラクターに幅が生まれ、それぞれの存在がストーリィのなかにジグソーパズルのピースのように嵌まっていくさまは、なかなかに新鮮だった。
脇の人間たちの関係がそれぞれホモ的だったりレズ的だったりするあたりも、少し昔の少女マンガっぽい趣向でなごんてしまった。吉田秋生のコミックに登場する人間たちの恋愛模様には、肉体のドロドロした感じがすっかり抜け落ちているのだが(だからこそ「少女」マンガなのだが)そんな軽い雰囲気を本編の監督はなかなかうまく出していたように思う。てゆーか単に理解できないのでサラッと流してしまっただけなのかもしれないが^^;
ちょっと残念だったのは、ヒロインを演じている平山 綾が、現在のバラドル的キャラ(平山あや)に進化する以前の正統派アイドル演技を見せているあたりで、年齢的にいったら仕方ないが、できれば今のキャラでヒロイン里伽子を演じてくれたほうが、特に冒頭のひねくれ娘キャラをうまく出せたような気がする。親友役の市川実日子がけっこう達者な分、ポイントを掴みづらいのだ。
それから、全然本筋とは関係ないが、ちょっと気になったこと。最初のエピソードのラストシーンでキスする二人の写真が、映画のラストに登場するのだが、撮影していたのは、あれほどどアップの超望遠写真が撮れたとはどうしても思えない小さなカメラだった。・・・
テレビシリーズのスピンオフ作品だが、同様の経過をたどって製作された「踊る大捜査線 The Movie」などが、まがりなりにも劇場用作品としての体裁を保っていたのに比べ、本編は演出もカメラのフレーミングも、ほぼ100パーセントテレビシリーズそのままのスタイルを踏襲していて、劇場用映画というよりほとんどテレビ版最終回の次の回、といった雰囲気になっていた。したがって、主人公ぶっさん(岡田准一)の余命半年という設定も、すでに死亡しているオジー(古田新太)の設定もまったく何の説明もなくそのまま踏襲している(ただしぶっさんの余命はシリーズ開始直後もやはり半年だったはずで、今回の映画版では余命がリセットされていた。逆にテレビ版で余命半年の宣告をした医師の方が、ガンで先に死んでいたり^^;)
シナリオを細かく分割して、それを野球になぞらえそれぞれ九回表だの裏だの、細かくサブタイトルをつけているのもテレビシリーズそのままで、その回で語るテーマに沿って時間軸を超高速で遡ったり下ったりするのもやはりデレビと同じ手法だ。うっかりしていると、前後の脈絡がわからなくなってしまう危険はあるが、キャッツ独特のノリはやっぱりこれでなくちゃね(^_^)
物語後半、展開がかなり無理矢理になり、女護が島や怪獣ゴミンゴが登場したりするあたりはさすがにやり過ぎだと思うが、氣志團のライブシーンなど、さすがだと思わせる映像もあることはある。しかし、おふざけが空回りで終わってしまっている分、クドカンの才能の無駄遣い、という感はどうしてもしてしまう。もう少し腰を据えて書いてくれたら、ちっとは面白い作品になっていたかもしれないのだが。・・・
前作「 栄光のヤキニクロード」に引き続いて水島 努脚本・演出のパロディ路線しんちゃん映画である。前作のスティーブ・ブシェーミに当たる役柄を今回はクラウス・キンスキーや水野晴郎センセイに割り振っており、いくらパロディ路線といってもちょっとやり過ぎの感が強い。特に、終盤突然登場する「荒野の七人」キャラたちには、わざわざご本人の声を当てているベテラン声優さん(大塚周夫、内海賢二)を起用しているのだが、こんなの誰も気付かないって^^;
お話の発端は、春日部の町外れにある寂れた映画館に、たまたまかくれんぼをしていたしんちゃんたち「かすかべ防衛隊」が忍び込むと、そこは映画の中の世界に通じていて・・・という、このシリーズではありがちな一種の異次元もの。アイデアとしてはウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」に近い。映画の中の世界はアメリカ西部らしき町、ジャスティスシティーで、前述のキンスキーを始め、お馴染みの西部劇スターたちがたむろしている。と同時に、しんちゃんたち同様映画館からこの世界に迷い込んだ春日部住民もけっこういて、彼らは目的のよく判らない肉体労働に従事させられている。
基本的には前作同様、子供たち向けの娯楽作品になっているのだが、やはり劇場版しんちゃんだけに、一筋縄では行かない。例によって映画マニア向けのパロディはふんだんに登場するし、テーマ性もかなり鮮明である。これまでのしんちゃん映画ではずっと強調されてきた家族愛が、今回はやや後退しており、代わって今回前面に出てきているのはみずからのアイデンティティーだ。ジャスティスシティーに迷い込んだ住民たちは、徐々に記憶を失って映画の登場人物たちと同化していくのだが、春日部に帰りたい一心で、しんちゃんは記憶を失うまいと懸命に努力する。それでも記憶は失われていき、とうとう得意だったはずのブリブリざえもんの絵すらまともに描けなくなってしまう。このあたりの愕然とする感覚は、やはりしんちゃん映画らしい鋭さだ。
映画の世界では、太陽はいつも同じ位置に留まっており、時間が動いていない。しんちゃんたちがその世界の秘密に気付いたとたんに物語は動き出し、どんどん加速度的にスピードアップしていく。前半の緩い展開は後半への溜めだったのだろうが、やや溜め過ぎだったかも^^;とにかく秘密兵器赤パンツを穿いたあとのカスカベボーイズの活躍はまさに超人的であり、巨大ロボットなども登場してこれまでの西部劇は何だったの?という展開になる。飛んだりはねたり空を飛んだりと、とても人間とは思えないほどだが、ヒロイズムはやはり年少の観客に観てもらうには不可欠な要素だし、テレビではなく劇場用映画である以上、テレビでは見られない迫力が欲しかったのだろう。
「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」のチャコ、「アッパレ!戦国大合戦」の廉姫など、意外に魅力的なヒロインを輩出しているこのシリーズだが、今回のつばきもやはりかなり印象的だった。いつもよりやや幼く、中学生くらいの年齢なのだが、本来女子高生以上の女にしか興味がないはずのしんちゃんが、初めて本当の恋心を感じる相手として設定されているのだ。彼女の存在にはちょっとしたひねりが加えてあり(「戦国大合戦」とは違う意味で)切ないエンディングになっていた。小学生くらいの観客だとたぶんしんちゃんに自分を投影して観ているだろうから、このエンディングはけっこう心に残るのではあるまいか。スタッフロールのバックで身長の違いすぎる二人が踊るシーンには、さすがに無理を感じてしまったが(しんちゃん、浮いてる^^;)・・・
ポール・バーホーベンの怪作「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編に当たる作品だが、作品の規模はぐっと小さく、続編というより番外編の扱いに近い。アメリカ版Vシネマのような性格の作品として作られたようで、撮影もフィルムではなくHDTVによりおこなわれていた。しかしその割に画質はフイルムの雰囲気がよく出ていて、いわれないかぎりビデオ作品であると見破ることは難しいだろう。
監督は、スターウォーズ・サーガやジュラシック・パークを始めとする、大作SF映画には欠かせないSFXマンであるフィル・ティペットで、本編はその監督デビュー作である。せっかく監督デビューするのなら、せめて劇場でちゃんと公開されるフィルム作品にして欲しかったところだが、御当人は「この方が合成なども簡単でむしろ好都合だった」とくったくがない。もっとも、かのスターウォーズ・サーガですらデジタルHDTVにより撮影されている昨今なので、すでにフィルムにこだわる時代ではないのかも知れないが。
なにしろ前作で原作の大部分は描かれてしまっているので、今回はほとんどオリジナル脚本とせざるを得なかったようだ。そこで考え出された新たな仕掛けが「エイリアンも進化する」という新設定。進化とはいってもバグ、つまり虫にとってはそう珍しくないパターンで、実際昆虫に範をとったこのアイデアで作られた映画は多数あり、それほど新味のある設定とは言えないのが正直なところだ。また、設定上どうしても地味な心理劇的な要素が強くなり、前作のような派手なSFXの出番が少なくなってしまった。もちろんこのことは、なにより予算の制約によるところが大きいのだろうが。
映画が全体的にディストピアにおけるプロパガンダ作品を模しているのは前作同様であるが、たびたび官報や徴兵のスポットを挿入してプロパガンダ色を強化していた前作に比べて、本編ではその手の映像的な工夫は作品の前後にしか見られない。中盤のちょっと中だるみな展開もあって、とても徴兵目的で作られたプロパガンダ映画とは思えないものに仕上がっていたのは、監督の資質なのか、それとも前作との類似性を回避しようとした結果なのだろうか。・・・
アイザック・アシモフの一連のロボット小説がモチーフになってはいるが、ストーリィそのものはオリジナルと言っていい。物語は2035年、アメリカ第一の巨大ロボットメーカーUSRの研究員、ラニング博士が謎の死を遂げ、主人公であるスプーナー刑事(ウィル・スミス)が調査に赴くところから始まる。博士の遺品の中にスプーナーへの遺言があり、それで彼が呼び出されたのだ。博士は墜落死を遂げており、どうやらみずからの研究室から飛び降り自殺をしたらしい。スプーナーが現場の調査をしていると、突然がらくたの山の中から一体のロボットが飛び出し、逃亡を計る。彼が事件の鍵を握っているらしいと睨んだスプーナーはロボットを追跡し、ようやく確保する。それは、売り出されたばかりのUSR社の最新型ロボット、NS-5のうちの一体であった・・・。
監督のプロヤスは「ダークシティ」以来僕がもっとも注目しているファンタジー系の監督で、本編でも凡庸なSF映画作家どもとは一味違う本格SFムービーを見せてくれた。SFにおいてもっとも重要なのは、実は骨子となるお話そのものよりも、それをささえる細かいディテールの積み重ねなのだが、よくわかってるな、と思わせるところが本編中の随所に散見できるのだ。それはちょっとした小道具だったり、登場するキャラクターのちょっとした振る舞いだったりするのだが、たとえば21世紀初頭の現在を描写するとき、携帯電話が欠かせない小道具になるはずなのに、少し以前に作られた21世紀を舞台にした映画群にはそのようなものはまったく存在しなかった。当時の未来予測にはそうしたものがけっこう登場していたのにである。その点本編は、30年後の未来像をしっかりした予測に従って映像化しており、たとえばその時代の携帯電話の形状など、なかなか説得力にあふれたものになっている(電話のかけ方がもう一つ判らなかったが^^;)
しかしなにより本編が重視したのは、アシモフによるロボットをメインとした未来史観と、今のテクノロジーをそのまま延長した現実の未来との融合であろう。アシモフが一連のSF作品を書いた時代、コンピューターもロボットもまだまだ黎明期で、一般家庭への浸透など夢物語に過ぎなかった。それからほぼ半世紀後の現在、コンピューターはポピュラーな存在となり、大多数の家庭に入り込んでいるし、ロボットの方も、前世紀末にとうとう二足歩行可能なものが登場して、現在爆発的な進化の過程にある。いわばアシモフのいた時代とその描いた時代との中間地点にわれわれはいるわけだ。本編はそうした立脚点をきっちり踏まえたうえで、空想的要素(たとえば今現在まだその理論すら登場していない「陽電子頭脳」など)をうまくちりばめて映像化していた。
本編のテーマはずばり、ロボット三原則である。詳しくはここで解説してあるので、興味のある方はご参照願いたい。この三原則をとことん突き詰めたらどうなるのか、その恐るべき結論を回避するために、ラニング博士は特別改造したNS-5、サニーを使ってスプーナーを事件に巻き込むわけだが、すでに死んでいるキャラクターの計略によって主人公が翻弄されるといった展開は、この手の話が好きな人ならまず押井 守の「機動警察パトレイバー The Movie」を思い浮かべることだろう。プロヤスはその作風からも日本製アニメのファンではないかと思われるのだが、本編が押井作品をヒントに作られたか否かまでは判らない。また、ヒーローであるスプーナー本人もほかならぬラニング博士の手でサイボーグに改造されており(まだ超高性能の義手がついている、といったレベルではあるが)機械と人間との関わりをさまざまな角度から考察する趣向も、いかにもプロヤスらしい。
iMacを参考にしたといわれるNS-5の半透明ボディはなかなか独創的で、新世代のSF映画にはふさわしいキャラクターになっていた。しかし、残念ながらその動きはまさにモーションキャプチャーそのままのCG臭さあふれるもので、エレガントすぎるその動作には、実物には存在するであろう「重み」を感じることができなかった。ロボットのみならず、たとえば主人公スプーナーの乗る愛車(アウディのコンセプトカーがもとなっている)の派手なカーアクションにしても、あまりにアニメチックで、物理的な質量をともなう実物がそこで動いているようは見えなかった(だいたい車はスピンすると急激に前進力を失うものである。しかるにスプーナーのアウディはスピンしながら加速していた!!)このあたりが現在のCG技術の限界なのかも知れない。全体的にもうちょっと「重み」の表現ができていたなら、かなり完璧に近いSF映画になっていただろうと思うと、ちょっぴり残念だ。
NS-5の異端児サニーが何度となく観たという夢が具現化されるラストシーンは、いろいろ象徴的な意味が汲み取れて一筋縄では行かない。おそらくは意図的にさまざまな解釈が可能なシーンとしたのだろうが、非常に具体的なストーリィ展開でここまで来ていながら、急に突き放された感じがしてしまう。いくぶん不親切な終わり方である、というのはちょっと言い過ぎか^^;・・・
推理ドラマとしての完成度は、おそらくこれまでのシリーズ作品でも最低ではなかろうか。飛行機の機内で起こる殺人事件は本筋とほとんどなんの関連もなく、とりあえず殺人事件が起こらないとコナンらしくない、という理由でひねり出された事件としか思えない。また、殺人に用いられた青酸性毒物、まあ青酸カリだろうが、その毒性は意外に弱く、こうしたドラマでよく使われるような手法ではたぶん人は殺せない。その致死量は0.2グラムほどだが、0.2グラムの青酸カリを計量匙などですくい取ってみると、思いのほかカサがあるのだ。とてもではないがちょっぴり舐めた程度で摂取できる量ではない。また、相当に刺激性の強い薬品なので、帝銀事件のようにあらかじめ言いくるめられてでもいなければ、うっかり飲んでしまえるようなシロモノではないのだそうだ。
今回はこの付け足し的な殺人事件を除けば、後半はほとんど純粋な航空パニックものなので、いつもより僕の守備範囲に近い話と言える。行きがかり上操縦席に座ることになる怪盗キッドにしてもコナン(だいたいあの小さな体ではペダルやスイッチ類に手足が届かないだろうに)にしても、日常的に飛行機を飛ばしている人間ではないはずなのに、異常にジャンボジェットの操縦に詳しいのはかなり変だが、こうでもしないと話が進まないので仕方なかったのだろう。コナンはまだ新一だったころ、父からセスナ操縦の手ほどきを受けたという設定だが、セスナとジャンボではあまりに構造が違っていてほとんど役には立たないのではないかと思う。たとえばセスナは固定脚なので、着陸時にギアダウンの操作すらしないのだ。フラップの形式も効きもまったく違うし、なによりオートパイロットで着陸などという芸当などもちろんできない。キッドの方はいつもハングライダーで逃亡する(笑)という設定から、飛行機の操縦にも詳しい、というキャラにしたのだろうが、これにもかなりの無理を感じる。普通に考えたら、ハングライダーとジャンボとではセスナ以上に共通点はなさそうだ。
実際にこうした場合に備えてマニュアル類が機内に装備されているかどうかは知らないが、どうせフィクションなのだから(架空の航空会社でもあるし)社内規定であることにし、それを活用するようなシナリオにしたほうが、少なくとも説得力はあったと思う。飛行機の構造に相当詳しいマニアだって、ジャンボの燃料系統がどうなっているのか即座に答えられるやつはそうはいないはずだし、コナンが航空マニアであったなどという設定もこれまでみたことはない。少なくとも、地上に停まったセスナの中で一通りの手ほどきを受けただけの人間の知識では判るはずがないことだけは確かだ。
3DCGによって描かれたジャンボジェットはうまくコナンの画風に合っていて、なおかつしっかり立体感も出ており、ようやくCGによるメカ描写がリミテッドアニメの世界に無理なく融合できるようになってきたと感じた。しかし、せっかくのメカニック作画も、あまりに御都合主義的な展開とほとんど意味のない推理劇のおかげでぶちこわしだった。もう少し事件に空で起こる必然性があり、なおかつそれがもっと有機的に後半のパニック劇に結びついていれば、これほど散漫な印象のドラマにはならなかっただろうと惜しまれる。それにしても、終盤でジャンボから飛び降りたキッドが使っていたハングライダー、いったいどこから出したのだろう。まあ、彼がハングライダーを使うときにはいつもその謎がついて回るのだが^^;・・・
「ジェヴォーダンの獣」とは18世紀半ばにフランスの田舎で実際に起きた事件で、わずか3年あまりの間に謎の獣に100人以上もの女子供が惨殺されたのだが、現在に至るまでその真相は解明されていない。本編はその事件を映画という手法を借りて解明しようとした作品なのだが、う〜〜〜ん、いつからフランス映画ってこんなになっちゃったんだろう。「ミシェル・ヴァイヨン」のルイ・パスカル・クーヴレールとか、「ドーベルマン」のヤン・クーネンなんかにも言えてるが、どうも自国の文化にあんまり誇りを持っていないような、ヒットした外国映画のいいところだけを抽出したごった煮的作品が目立ちすぎる。
本編も、出だしこそフランス映画の香りがそこはかと匂うものの、主人公の博物学者フロンサック(サミュエル・ル・ビアン)とその従者マニ(マーク・ダカスコス)が登場する序盤ですでにカンフーアクション全開、やたらとスローモーションを折り込むマトリックス風撮影も相まって、どうにかフランス映画らしい伝統を残すのは凝りに凝った衣装くらいのものになってしまっていた。
物語の方も、中盤あたりまでは貴族の娘マリアンヌ(エミリエ・デュケンヌ)とフロンサックとの恋や、肝心の「ジェヴォーダンの獣」の正体をめぐってそこそこミステリーらしい展開を見せるが、ミエミエのCGによる「獣」の映像が出てくるあたりから話は急激にスピードダウンし、妙にのったりした展開になってしまう。「獣」の存在に人間が絡んでいると気付いたフロンサックとマニ、そして領主の息子トマ(ジェレミー・レニエ)の三人は周到な準備をして「獣」狩りに赴くのだが、彼らが考えていた以上に事件の背景は広く深かったのだった・・・。
「獣」狩りの途中でマニが殺されると、その後はフロンサックが「獣」の背後にいる組織と単身闘うことになるのだが、マニが生きている間はほとんど格闘に参加しなかったのが不思議に思えるほどの大活躍。前半に見せていた学者っぽさは微塵もなくなり、ほとんど最強の戦闘機械と化してしまう。フロンサック同様に博物学者であったインディ・ジョーンズもそこまでは強くなかったぞ^^;
このフロンサックの混乱ぶりをはじめ、マニ、マリアンヌとその兄ジャン(ヴァンサン・カッセル)謎の娼婦にしてその正体はなんとバチカンの密偵シルビア(モニカ・ベルッチ)そして冒頭フロンサックたちに救われるジプシー風の親娘(だいたい彼らを襲っていたのは結局何者だったのだろう)などなど、キャラクターの描き方がうまく統一されておらず、総じてなんのために登場しているのかよくわからなかった。この監督は本編の脚本も書いているのだが、脚本家としての才能がそうたいしたものとは思えない所以だ。マニが殺された理由は、彼を倒した銀の弾丸がマリアンヌの兄ジャンの銃から発射されたものである、つまり、事件の黒幕はジェヴォーダンの貴族社会そのものである、という事実をフロンサックが知る必要があったからだが、本来殺される役にふさわしいのは、あまり役に立つキャラではなかったトマであったはずなのだ。しかし後述する理由のおかげで、ここで彼を殺してしまうわけには行かない。で、結局のところマニが貧乏くじを引いてしまうわけだが、そのおかげで物語後半、フロンサックはみずからとマニ二人分のキャラを演じなければならなくなる。それで突然あれほど強くなってしまったわけだ。ほとんど素人の書いた脚本なみの御都合主義さ加減である。
話の重点がいつのまにか「獣」を操る人間たちの方に移ってしまい「獣」の正体なんかどうでもよくなってしまうのだが、それでも一応物語のラストで種明かしはされている。「獣」は最後までかぶりものを取らず、はっきりした正体を見せることはないのだが、単に「アフリカから連れてこられた獣の子孫」とだけ語られる。しかし、一体どんな猛獣があんな怪物じみたパワーを発揮できるというのだろう。候補としてはライオンくらいしか思い浮かばないが、アフリカでライオンに遭遇したことのあるフロンサックが気付かないはずはないし、だいたいライオンだとしてもあまりに不死身すぎる。中盤ちらりと動物の骨や標本が陳列されている部屋が登場するので、僕などはてっきりフランケンシュタインの怪物を連想してしまったのだが、話は全然そんな方向へは向かわずに終わってしまった。
冒頭とラストに事件のナレーターとして初老の貴族が登場するのだが、実は彼こそがフロンサックたちと行動を共にしていたトマの25年後の姿であり、時あたかもフランス革命のさなかで、トマ本人も断頭台の露と消える寸前の回想、という形で本編は語られるのだ。こうした手法は現在から何十年か過去を回想する場合には、風俗の微妙な違いなど、見ている側にも十分に伝わるので成立しやすいが、1789年と1765年との差など見て判るはずもなく、あまり意味を感じられなかった。こんなところの構成に凝るくらいなら、中だるみの激しい中盤の展開にこそもう少し気を使うべきだっただろう。・・・
さいとう・たかを氏はゴルゴ13のキャラクターを造形するに当たって、本編主演の高倉 健をイメージしたそうだが、それにしては全然ゴルゴのイメージに合致していないのはどういうわけだろう。二次元世界のキャラクターを生身の人間が演じるのは不可能ということか?しかし、マンガが原作の映画が大ヒットした例(スーパーマン、バットマン、スパイダーマン等々)は枚挙にいとまがないので、そうとは言い切れないような気もするのだが・・・。
劇画のゴルゴ13とは一応切り離して「デューク東郷」という謎の東洋人スナイパーを演じていたと考えれば、高倉 健の演技はそう悪いものではなかった。まわりをすべてイラン人の俳優に固められた中で、日本人デューク東郷ここにあり、とばかりに立ったキャラクターにはちゃんとなっていたように思う。終始能面のように表情を変えない劇画のゴルゴ13に比べれば、目をむいたりトボケて見せたり、拷問を受けて苦しむ高倉ゴルゴは妙に人間的で、かえってゴルゴっぽく見えなかったのは残念だが。劇画のゴルゴ13は人間性のかけらもない、ほとんどターミネーターのような描き方をされているので、今現在彼をそれらしく演じられるのは、元祖ターミネーターのシュワちゃんか、ロバート・T-1000・パトリックくらいのものかもしれない。少なくとも日本人の俳優で演じられそうな人間は、誰一人思いつかない。
映画は全編がイランで撮影されており、ほとんど日本国内を舞台にしたことのなかった原作のムードを踏襲しようとしたのだろうが、逆に砂漠や遺跡ばかりが登場して単調な印象に終始してしまった。クライマックスの場面はいいとしても、せっかくロケをするのならテヘラン以外の大都市も登場させるべきだっただろう。当時はまだパーレビ時代だったので、テヘランも現在より多少は華やかだっただろうが、それにしても国際派のドラマとしてはあまりに地味であった。序盤ではやはり、ベイルートやパリくらいは登場させてしかるべきだった。
しかし、なによりまずいのはやはり脚本である。このことに関しては、さいとう氏本人とさいとうプロの脚本家、K・元美津氏が執筆しているので、製作した東映に文句を言うのは筋違いだろう(のっけから流暢な日本語を話す外人たちのおかげで、リアリティもくそもないお話になっているのはさすがに東映の責任かも知れないが^^;)どうしようもなくだるい展開の中で、たとえば遺跡の中での銃撃シーンのように、そこだけ取りだせばそう悪くはないものもあるにはあったのだが、それが持続してくれない。義足の殺し屋のエピソードなど、あまりにベタで脚本家を殴ってやりたくなったくらいだ。誰でも想像がつくようなネタをいかにも「どうだ」ってな感じで出されたら、いくら70年代だってみんな引いてしまっただろう。出てくるのが拳銃ではなく、バズーカだったりしたらロバート・ロドリゲスの先を行っていたと評価されたかもしれないのに、残念だ。
とにかく、敵キャラの行動にいちいち説得力がない。敵の親玉マックス・ボアなる人物は、一体なぜ何百人もの女たちをさらっていったのかよく判らないし(人身売買目的にしてはいつまでも手元に置いておくのは変だし、まさか最初からゴルゴの盾にしようと思っていたわけじゃないだろう^^;)絶体絶命のピンチになっても、なぜかなかなか殺されないゴルゴとか(誰に雇われたのかがそれほど重大な問題なら、なぜ冒頭に出てきたエージェントたちは簡単に殺されてしまうのだ?)ご都合主義は至る所に顔を出している。それにしても、お茶の時間にゾロゾロ影武者集団が登場するのには笑ってしまった。ゴルゴが最初に影武者の一人を倒したときにはオウムまでも影武者だったのに、この時にはどういうわけかオウムは本物しかいなかった。もちろん脚本家がゴルゴに(本物を見破る)重大なヒントを与えるためなのだが^^;
中でもいちばんケッサクだったのは、シンジケートのメンバーがなぜか砂漠に地雷を仕掛けるところで、全然意図するところがわからなかったのだが、ゴルゴを追ってきたテヘラン市警警部の車がどういうわけか道をそれて地雷の埋められた砂漠を走ってしまい、見かねたゴルゴは前方の地雷を狙撃し爆発させて助けてやるのだ^^;あんなところに地雷を仕掛けたシンジケートの連中も、なぜか道をそれて急造の地雷原に迷い込む警部も、なぜか(わざわざ警部を助ける理由も何もないのに)地雷のある場所を探知器なみの正確さで狙撃するゴルゴも、みんなわけの判らないやつばかりだ(;o;)
シンジケートの連中を置き去りにして逃げ去ったマックス・ボアを追い、途中でヘリコプターによる攻撃に遭遇したゴルゴは辛くもヘリを撃墜するも、みずからも車を失い、砂漠に一人取り残されてしまう。熱さと乾きでフラフラになりながら砂漠を彷徨うゴルゴだが、映画のラストでは突然マックスの隠れ家に現れ、一撃でその額を撃ち抜く。なぜだかその後、彼のペットであったオウムまでも撃ち殺して映画は終わるのだが、どうやってゴルゴはマックスの居場所を突き止めたのか、また、たくさんの影武者を引き連れていたはずのマックスがその時に限ってなぜ無防備だったのか、何一つ説明はなかった。そういう部分の描写こそ、物語にリアリティを生む大切な要素だと思うのだが・・・
前作「スチュアート・リトル」の続編で、スタッフ、キャストともほぼ同じ(脚本家は代わっている)メンバーで作られたファンタジー・フィルム。前回同様リアリティのかけらもないシナリオで、一応実写映画ではあるが、むしろスチュアートたちCGキャラクターの世界に人間たちが入り込んだような感じのお話になっている。
今回はリトル家に迎え入れられた渡り鳥(という設定だがどう見ても飛行帽をかぶったカナリアにしか見えない)の女の子、マーガロを軸に物語が進む。マーガロは最初、公園脇の巨大な邸宅のてっぺんに住むタカに襲われ、命からがらリトル家にかくまわれるという登場の仕方をするのだが、じつはそれが・・・という意外な展開。マーガロや悪役のタカの羽毛の表現など実感たっぷりで、もうほとんど完璧に近い。CGによる羽毛や毛皮の表現にかけては、現時点ではおそらくこの映画を上回るものはほとんどないと思われる。また、タカが獲物に襲いかかるときの体のひねり方や、マーガロのいかにも小鳥っぽい動き(ときおりピョンピョン跳ねたり尾羽を振ったり)など、形だけでなく動きそのものの描写も非常によくできていた。
前回もけっこう情けなかった猫のスノーベルは、今回はもう完全に三枚目に徹しており、頑張った割りには家族にまったく評価されないまま終わってしまうという、絵に描いたような損キャラ。リトル家の人たちはネズミのみならず、渡り鳥のマーガロとも会話を交わせるのに、なぜかスノーベルはペットの立場のままで会話を交わすシーンはない(スノーベルの方はちゃんと人語を解するのだが^^;)まったく登場しない犬より少しはいい立場かも知れないが、それにしても哀れなポジションである。まあ、ネズミが主人公の話である以上は仕方ない設定なのだろうが。
全編でわずか75分という短さの映画なので、物語の展開はメチャクチャに速いが、それなりに伏線は張ってあるし意外性もあって、さほど陳腐な感じにはなっていない。特に後半のたたみかけるような展開は、いかにもアニメっぽいテンポになっていて、この作品がアニメ映画として作られたと確信させるのに十分である。
ところで、都市に住むタカは確か保護鳥だったはずだが、あんな扱いをしていいのだろうか?・・・
ということで、ずっと以前テレビ放映された「おれの女に手を出すな」のビデオをラックの底からひっぱり出して観賞した^^;
トニー・カーチス主演の軍隊コメディだが、ちょっと意外なのは、恋のライバル役にあのジョージ・C・スコットが扮して珍しいコメディ演技を披露してくれていることだろう。時は60年代中盤、イギリス大使館付きの武官、パーカー将軍の副官であるであるトム・フェリス少佐(トニー・カーチス)は大変な愛妻家だが、任務に熱心なあまりなかなか妻ジュリー(ビルナ・リージ)の望みをかなえられない。そんな時、偶然かつての戦友タンク・マーチン大佐(ジョージ・C・スコット)に再会する。実は朝鮮戦争当時、妻をめぐって彼とちょっとしたいきさつがあり、トムは彼を出し抜く形でジュリーを妻にしてしまったのだ。タンクの存在が気が気でないトムは、策を弄して何とか二人を近づけまいとするが、それが裏目に出てジュリーはタンクを同伴してパーカー夫人のお供に出かけることになり、焼けぼっくいに火がついてしまう。
特別訓練でトムがグリーンランドへ出張している(言うまでもなくタンクが手を回したのだが)あいだにタンクとジュリーの距離はどんどん接近し、一方トムは耐寒訓練と称してエスキモーのような暮らしを強いられる(この辺のコント的展開はいかにもトニー・カーチスの面目躍如という感じ)任務と称していつもほっておかれることに嫌気が差し、やがて夫の愛を疑いだしたジュリーはついに離婚を口にしてしまう。慌てたトムはアラブの石油成り金の自家用ジェット機を乗っ取って(!!)ローマに滞在中の妻のもとに急ぐのだが、当時まだ出来たばかりのホーカーHS125を使って撮影した超低空スタント飛行はなかなか見応えがあった(いうまでもなくエッフェル塔をかすめたりするあたりは特撮だが)冗談のような漫遊飛行のあげく、トムの操縦するジェット機はどうにかローマにたどり着き、妻に欲しがっていた栓抜き(といっているがあれはどう見てもコルク抜き)を渡してふたりはお互いの愛を確認する(もちろんその場にはタンクもいて、お約束の一悶着はちゃんと用意されているのだが)
軍紀をいくつも破るどころか、ジェット機強奪という犯罪まで犯しながらも、きっちりハッピーエンドで終わるところがこの時代のコメディ映画らしいところだ。
ところでタンクは再会した時サンダーバーズの飛行隊長を務めており、F-100時代のサンダーバーズの飛行シーンを見ることができるのが嬉しい(ジュリーを思うあまり注意力が散漫になって、危うく衝突事故を起こしそうになったりする^^;)また、朝鮮戦争時代の回想シーンでは
F-86FセイバーとF-84Fサンダーストリーク(もちろんミグ15に扮している)を飛ばして模擬空戦を撮影しており、空軍が全面的に協力した作品であったことがうかがえる。リクルート効果などまったく望めそうもない映画なのだが、それでも協力を惜しまないおおらかな時代だったのだろう。・・・
その昔、似たようなタイトルのコメディがハリウッド映画にあったが、それとは似ても似つかぬつまらない日本製アイドル映画。僕がわりと高く評価している中原監督の初期作品なのだが、後に現れてくる中原らしい個性はまだまったく発揮されておらず、ひたすら退屈なアイドル映画的演出に終始している。
不良少女小泉今日子(だいたいとてもそうは見えない)が偶然とある弁護士と知りあい、大富豪の一人息子の家庭教師をやらないかと誘われるところから物語は始まるのだが、その小学生のわがままぶりがもう少し強調されれば、あるいはだらだらしたシナリオがもう少しマシになったかも知れぬものの、わがままを発揮するのは物語が動き出す以前の話で、誘拐騒動に巻き込まれてからはそうした個性を発揮するまでもなく、物語の展開を何とかこなすだけで精いっぱいの脚本に堕してしまう。
制作側は一種のロード・ムービーっぽく仕上げたかったのかも知れないが(不自然なまでに「旅」絡みの展開が多い)その効果はほとんど上がっておらず、小学生のガキが「ボクの女に〜」などと啖呵を切る場面ももちろんなし。だいたい小泉を「ボクの女」などというほどませたガキではなかったし、二人がそうした関係になっていたと思わせるような演出も皆無。あるいは放送時間の関係でカットされているのかとも思ったが、もともと95分というそれほど長いわけでもない作品なので、1時間50分の放映時間を確保していたのだから、少なくとも作品の本質が変わってしまうほどひどいカットはなかったはずだ。
途中から黒幕の存在もミエミエになるが、観客を馬鹿にしているのか、そもそもアイドル映画なんてそんなもんだ、と割り切っているのか、とにかくたいしたメリハリもないまま唐突にラストシーンに突入し、殺し屋と弁護士の格闘シーンで思いも寄らぬ真相が明らかにされるわけだが、みんな当惑したまま警官隊が到着して(波間に揺れる小さなボートの上から数100メートル離れた殺し屋の額を一発で撃ち抜くなんて、あんたの腕はゴルゴ13以上だよ、夏八木刑事^^;)あれ?と思っているうちにスタッフロールが始まってしまう^^;
80年代アイドルムービーの水準を思い知らせてくれる、目を覆うばかりの凡作というよりない。・・・
中世ヨーロッパが舞台の活劇で、なぜかクイーンの曲が主題歌になっていると、なにか実験的な作品ではないかと思えるのだが、その実これほど王道を行く作品も少ないのではないかと思えるほど、いい意味で「水戸黄門」的な娯楽映画だった、というのが正直な感想である。
物語の骨子は基本的にスポ根ものである。いや、努力という要素があまり重視されず、ひたすら才能のみを強調しているあたり、日本のスポ根ものとはちょっと違うような気もするが、要するに天才的な才能を持ったスポーツ選手の活躍物語といっていい。主人公ウィリアムはある騎士の従者をしていたのだが、馬上槍試合(ジュースティング)で受けた傷がもとでこの騎士が死んでしまい、3人の従者たちは路頭に迷ってしまう。とにかく食いぶちを稼ぐために、ウィリアムは見様見まねでその死んだ騎士の身代わりを演じ、競技会で見事勝利を得る。そのことに味をしめ、彼はリヒテンシュタインの貴族であると身分を偽って選手権大会に出場し、連戦連勝の成績を収める(馬上槍試合には貴族のみにしか参加資格がない)要するに眠っていた才能が開花したというわけだ。
この手の作品にはよくあるように、やがて彼には有能かつ狡猾なライバルが登場し、やがて彼の手によって実は平民であるという正体が暴かれ、競技者生命どころか生命そのものをも失いそうになるのだが、すんでのところで救われるのも絵に描いたようなお約束の展開。そのあたりにつながる伏線も、どんなアホにもわかるようにくっきり張ってあるので、まったく唐突という感はしない。そのあたりも日本の時代劇に通じる「お約束」である。
映像的に特筆すべきなのはやはり、馬上槍試合の競技そのものを映像化して見せてくれたことだろう。挿絵やイラストなどで見たことはあっても、実際にあんな長い槍を構えて鎧兜の騎士同士が激突する場面を、これまでの映画で見たことは、少なくとも僕の記憶ではない。騎士の鎧につき立った木製の槍が粉々に粉砕されるシーンとか、そのショックで落馬する騎士のスタントなど、なかなか迫力満点である。勝負そのものが一瞬でついてしまって、肝心の競技シーンに変化が乏しいのが難ではあるが、こればかりは実際にそんな競技だったらしいので仕方ないことなのだろう。個人的にはやや史実を曲げてでも、競技そのものにもう一ひねり加えて、戦略性を加味してもよかったような気がするのだが。・・・
相米作品のいいところだけを搾り出したのが「ラブホテル」だとしたら、本編は逆に悪いところばかりを抜き出してしまった失敗作ということになるのかも知れない。もちろん、人によってはこの作品こそ相米監督の最高傑作と押す向きもあるのは承知しているが、僕にはとても納得できない。
とにかく、どこが面白いのかさっぱり判らない。少なくとも今回で二度目の鑑賞になるのだが、断片的に記憶している場面はいくつかあるものの、ストーリィ構成はまるで把握できていなかったし、今回観てもやはり物語の脈絡をきちんと捉えることは難しかった。どう考えても無理のある場面転換は、なぜこの場面からそこへつながるのか、論理的にも直感的にも納得できないのだ。興業成績を度外視できる実験映画ならまだしも、いちおう純然たる商業映画でこれはないだろう、というのが正直なところだ。・・・
ホラームービーというジャンルは洋の東西を問わず存在するが、日本の怪談映画はやっぱり一種独特の雰囲気がある。西洋のどちらかといえばドライなショッカー系の作品にくらべ、日本のものは風土に合った湿度の高いムード至上主義みたいなところがあるのだ。もちろんショッカー的な演出も必ずあることはあるが(こちらはおばけ屋敷の伝統から来ているのだろうか)そこに至るまでの盛り上げ方はやはり日本独自のものである。
しかるに本編は、徹頭徹尾ショッカー演出に終始して、ムードも糞もない。もともとビデオ用映画として作られたものが予想外のヒットを収めて、あらためて劇場用にリメイクした作品なのだが、恐怖演出はワンパターン、いつもおんなじペースで画面の端にトシオくんが現れたりするものだから、観る方もそれを期待して、肝心の俳優の演技より画面の隅ばかり見つめることになってしまう。登場する幽霊、というか怨霊たちはみな申し合わせたように白塗りのおばけメイクで、見慣れないうちはけっこう驚くが、何度か見ているうちに演じる俳優のめいっぱいの演技が透けて見えてしまってちょっと笑える。
それにしても、判ったようで判らないシナリオである。一見普通に見える住宅でかつてあった殺人事件が契機になっているらしいが、結局真相がどうなのかは判らず仕舞いで、とにかく怨霊たちは家に足を踏み入れたものたちを皆殺しにするまで徹底的に祟る。ほとんど怨霊界のテロリストである^^;現在その住宅に住んでいるサラリーマン(津田寛治)の妹、仁美(伊藤美咲)も一度足を踏み入れただけで祟られるのだが、彼女の勤め先の警備員など、ほとんど何の関係もないのにあっさり殺されてしまったりする。冒頭に登場する理佳(奥菜 恵)だけがなかなか殺されずにラスト近くまで生き延びるのだが、その理由がこのシナリオのキモだと、少なくとも脚本をも手がけた監督、清水 崇は思ったのかもしれない。しかしラストのネタばらしは完全に破綻しており、とても観客を納得させるものにはなっていなかった。あまり意味なく時間軸をいじって、本来単純な話をことさら難解に仕立てようとしてみたり、どうもこの監督、肝心な部分にはあまり神経を使わず、余計な部分にばかり手をかける傾向が強いようだ。結局なぜ怨霊たちがあれほど強烈に家にこだわったのか、その答えが出ないうちに映画は終わってしまった。
どういうわけかこの作品、ハリウッドでまたもリメイクされ、清水 崇本人がメガホンをとったわけだが(THE
JUON 呪怨)この映画のショッカー演出はいかにも欧米人向きの大味なものだったので、もともとそっち畑の出身であるサム・ライミに目をつけられたのも当然なのかもしれない。・・・
実をいうとこの手の障害者ものは、どちらかというと苦手な方だ。肯定的に描くにしろ、滅多にないことだが否定的に描くにしろ、ある種の作為がちらつくことから逃れられず、鑑賞するうえでどうしてもそれが邪魔に感じられてしまうからだ。この種の知的障害を描いた傑作とされる作品には、「フォレスト・ガンプ」や「レインマン」があったが、いずれもいい作品だとは思うものの、やはりそうした作為的傾向と無縁には思えなかった。
さて、この「アイ・アム・サム」では、7歳程度の知能をもつ障害者の主人公が、一人娘を巡って親権を争うという「クレイマー・クレイマー」的状況に追い込まれる話である。ただし、この映画では娘をサムから引き離そうとするのが母親ではなく、保護司や里親という社会のシステムそのものであることが違っている。知的障害のあるサム(ショーン・ペン)には娘を育てることができない、というのが保護司側の主張だが、サムはそれに納得できず、障害者仲間が「いちばん長い名前だからいちばんいい法律事務所に違いない」と推薦した事務所に赴き、ひょんなことからやり手の女弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)を弁護士につけることに成功する。
ショーン・ペンという俳優は、かつてマドンナの旦那だったということくらいしか予備知識がなく、チンピラ的な演技がハマる軽めの俳優、という程度の印象だったが、まったくの認識不足であったことが本編を観てよく判った。とにかく大変な演技力である。天才的という以外ないくらい見事な演技で、サムという知恵遅れの中年男をリアルかつあくまで敬意を込めて演じていた。健常者がこうした障害者の役を演じる場合、どこかに演技のほころびが生じ、本来の知性がかいま見えてしまって興ざめなものだが(あのダスティン・ホフマンですら完璧とは言えなかった)ペンの演じたサムはまさに障害者そのものの名演技で、今にもキれそうな若者像を演じていたかつてのペンの姿は微塵も感じられなかった。理解力の乏しいサムは、事態が処理できなくなるとやはりキれるのだが、そのキれ方もチンピラのそれとはまったく違い、障害者独特の表現方法や間合いの取り方をきわめて自然に演じていた。まったく恐るべき観察力である。当代一の名優といってもいいだろう。
一方、サムの7歳になる娘ルーシーを演じたダコタ・ファニングもまた恐るべき演技力である。以前にもちょっと書いたように、うま過ぎる子役に僕は否定的な意見を持っているのだが、この人の場合にはすでに「子役」という範疇に収まりきれないくらいに完成されている気がする。ちょっと例にはまずいかも知れないが、生身の人間というよりアニメのキャラクターみたいなのだ。アニメキャラはたとえ小学校低学年であろうとも、作画をする人も演出する人も声をあてる人も、特殊な例外を除けばほぼ大人なわけだが、だれ一人それを不自然だとは思わない。ダコタ・ファニングの演技にはそれに通じる自然さがあるのだ。つまり、ものすごくうまいのだがそれを意識させることなく、自然に物語世界に観客を引き込んでしまう力がある、ということだ。
この二人に対するのが、気乗りしないままサムの弁護を引き受けることになる女弁護士リタを演じるミシェル・ファイファー。もはや息詰まる演技合戦といった様相を呈するほど、三人三様の人間模様を見せるわけだが、サムの目からは何事もてきぱき片づけ、有能を絵に描いたようなパーフェクト人間にみえるリタも、実は夫に逃げられ、一人息子との仲もしっくり行かないワーカホリックの中年女に過ぎない。このあたりの描写、特に彼女自身が自分のことをどう思っているかを涙ながらに告白するあたりはなかなか見事な演出だ。
観終わって感じるのは、かつてこれほど悪人の登場しない映画はなかったかもしれない、ということだ。保護司にしろ里親にしろ、自分たちの行為がルーシーのためになると心から思っている。特にローラ・ダーン演じる継母となる女性は、ルーシーを自分の娘として愛そうと努力しているのが痛いほど判る演出になっていた。にもかかわらず、その思いがサムの愛情と背反してしまい、その結果、誰一人幸福ではない状況が訪れそうになる。それを万人が納得するような方法で収めるのが演出家の手腕なわけだが、ある程度まで成功を収めているといっていいだろう。その裁判の成り行きについてここで書くわけにはいかないが、少なくとも観客が安心して家路につける仕上がりにはなっていたように思う。・・・
シュワちゃん主演の近未来SF大作というと、「トータル・リコール」を始めとして枚挙にいとまがないくらいだが、これもその手の作品のうちの一本か、くらいに思って観始めたら、なかなかどうして近未来SFとしてはよく練れた脚本になっていた。もちろん、細かくみていけばまだまだ矛盾や不合理なところは数々あるが、これまでの映画や文学作品では素通りしてしまっていたディテールにけっこうこだわっていて、少なくとも作品世界内においてはさほど無理を感じさせなかったのは立派である。死んでしまったペットのクローンである「リペット」なる存在は、善かれ悪しかれいずれ登場しそうな気がする。
遺伝子レベルまで本人とそっくりで、なおかつその記憶までが忠実に再現されているとなれば、確かにクローンが自分をクローンであると気づく可能性は皆無に近い。この脚本はそのあたりをなかなか効果的に使っており、ちょっとディック的な味わいすらある。しかしさすがにボンド映画の監督だけにそういう部分にはあまり突っ込まず、後半部分、アクション重視の展開になってやや腰砕けの感もあったが、それを差し引いてもなかなか面白い話になっていた。もしシュワちゃんを主演に持ってこないで、違うタイプの主人公が悩みながら闘う話になっていたら、全然違うジャンルの映画として評価されたかも知れない。
本編中でシュワちゃんたちが営業に使っている可変ローター翼機“Whispercraft”は、NASA/シコルスキーのX翼機からアイデアを得たものなのだろうが、なかなかカッコいい。調べてみたところでは、「エイリアン2」「アビス」などで優れたメカデザインを見せてくれたロン・コッブの作品なのだそうだ。ところで、ローターから固定翼に変換する間は揚力がほとんど発生していないはずで、変換中もあんなに安定した飛行をするのは難しいと思うのだが、もしNASAのX翼機同様に翼後端からもジェット噴射しているという設定なら、実現する可能性はあるかもしれない。いずれにしろ映画の中では実物大モックアップとCGとの巧みな合成で、さほど不自然さのない映像を見せてくれた。どこかからガレージキットが出ていないかな(ここにモックアップの画像が沢山あるが、実在の機体にしか見えないほどよく出来ている)
ついでに、もうひとつ重大なツッコミどころ。壁掛けテレビの裏側は、未来どころか今だってあんなじゃないぞ^^;・・・
久しぶりの東映ヤクザ映画、しかも実在した暴力団組長にして後に俳優に転身した、安藤 昇の配下の組員が書いた小説を原作にした実録物である。というとなんだか殺伐とした映画のようだが、主演に高島政伸という、およそヤクザに似付かわしくないお坊ちゃん俳優を持ってきたためか、妙にほんわかしたムードの不思議なヤクザ映画に仕上がってしまった。最初からこんなムードの映画を目指したのか、それとも結果的にこうなってしまったのかよく判らないが、いずれしろ東映ヤクザ映画に一種の郷愁を抱いている人間には、極めて不評だったらしい。
物語の舞台は戦後しばらくして、まだGIが街を闊歩していたころの渋谷だが、例によって時代感覚を出しているのはファッションと、せいぜい主人公たちが乗っている車くらいなもので、セット以外の街並みは当然出てこないし、出てくる電車などはもちろん撮影当時(すでに平成に入っていた)のものだ。まあ、この種の無頓着さはかつての「仁義なき戦い」シリーズもそうだったので、東映プログラムピクチャーの限界なのだろう。
高島演じる主人公朝田平吉は早稲田のテンプラ学生だったが、ひょんなことから安藤組の若頭森島(布施 博)とGIたちの決闘現場に出くわし、森島の男気にほれ込んで、そのまま組員になってしまう。物語はその後、平吉の目を通した安藤組のメンバーたちの姿が描かれるのだが、ボクシングジムを開いて地道に生きようとする森島と、ムショ帰りの武闘派、花形( 山下真司が好演)との確執など、そこそこ当時の雰囲気を出そうとはしているものの、どうももう一つピントを絞りきれなかった印象が強い。特に、花形の子供や家庭のエピソードなど、もう少し強調したほうが、彼を殺そうとする平吉の迷いをストレートに出せるだろうし、その後の安藤組長(原田芳雄)による手打ち式の、ばつが悪そうな雰囲気もよりくっきりと描けただろう。
やがて時代は高度成長期にさしかかり、悪は政治と結託した形をとるようになって、安藤組のような暴力組織はすでに時代遅れとなりつつあった。組に対立する実業家村木(佐野史郎)に対し、安藤はヒットマン(といってもわざわざ急所から10センチ外すよう命じているので、本来の「暗殺者」とはちょっと違うのだが)を放つのだが、目撃されたそのヒットマンが偶然平吉と誤認されたため(誤認のもとなった写真は、森島と花形の手打ち式の時の記念写真だというあたりが面白い)彼は指名手配を受けて警察から追われる羽目なる。その直前、田舎から出てきた母の前で以前から付き合っていた純子(南野陽子=これまでの出演作の中でいちばん奇麗に撮れていた)と式を挙げていたため、とんでもない形の新婚旅行になってしまう。
結局宿泊先の通報で平吉はあえなく逮捕され、安藤もまた潜伏先の箱根で捕まってしまうのだが、このあたりの展開はけっこう引っ張った割にはあっけなく、人違いであることが判って釈放される平吉と、逮捕され護送されてきた安藤が警察署の入り口ですれ違うあたりは、本来ならもう少し感動的であってしかるべきだっただろう。
こういうタイプのヤクザ映画があっても別に悪くはないと思うが、いったいどういう人たちに観て欲しいと思って作った映画なのか、もう一つ判らない作品になってしまった。・・・
この映画も劇場公開時に観ているのだが、例によって当時は劇場で観た作品についてひとこと述べることはなかったので、今回が初めてのカキコになる。前回のテレビ放映の時には、開始時間を間違え、テレビをつけたときにはすでに開始から一時間が過ぎたあとだったので、結局観なかったのだ^^;
もちろん今回はそんなこともなく、冒頭からしっかり観た。どういうわけか松田聖子の登場シーンがごっそり削られていたが、ほとんどエキストラ同然の扱いだったので内容にはまったく影響していない。彼女のファンにとっては不愉快なことかも知れないが。
純粋にSF映画としてみれば、それこそ枚挙にいとまのないくらいツッコミどころ満載の映画だが、マイケル・ベイみたいなタイプの監督にきっちりとしたSFを期待したところでそれは無理というもの。いつも通り、日本の劇画にも通じるハッタリ満載のアクション大作として観るべきであろう。どうしてあれほど巨大な小惑星の接近に、たったひとりの天文学者しか気づかないのか、ロシアの宇宙ステーションは、どうしてシャトルがドッキングしようというときにわざわざ回転を始めなければならないのか、無重力の宇宙でステーション内にどうしてつららができるのか、どうして小惑星とランデブーするためのスイングバイ飛行にちょうど都合のいい位置に月があるのか、火星の地面に穴を掘るために開発されたビークルにどうしてガトリング砲が装備されているのか、などなど、際限なく出てくる「どうして」など無視して、頭を空っぽにして観るべき大作映画なのだ。そうした「お約束」さえ守れば、お金をかけただけのことはある大迫力のSFX映像をそれなりに楽しむことはできる。
とはいえ、やはり無理やりの展開の連続にはちょっと辟易してしまうのも事実だ。公開当時、ほとんど似たような設定の映画「ディープ・インパクト」も公開されたのだが、あちらも映画としての出来がたいしたことなかったおかげで、特にひどく批判されることがなかったのは、製作者にとっては幸運だったと言えるかも知れない。小惑星の衝突までわずか3週間しかないというのに、素人の石油採掘人たちをスカウトしてにわか宇宙飛行士に仕立て、小惑星に穴を掘ってその中に核爆弾を仕掛けて破壊してしまおう、などと考える人間が人類最高の頭脳だとはどうしても思えないのだが^^;この設定にリアリティを感じることができる人にとっては、素直に楽しめる映画といえるだろう。
いちいちまことにバカバカしい展開ではあるのだが、それでも何となく最後まで見せてしまうのは、ひとえにマイケル・ベイお得意のキャラクター描写のおかけだろう。つまるところこの物語は、父と娘とその恋人についての話である。非現実的な設定の中においても、最後までこの三者に的を絞ってストーリィを語り尽くしたおかげで、本編はかろうじて完全なる絵空事に堕すことから免れている。もちろん、だからといってこの映画に、現地アメリカの観客たちが大笑いしたことを忘れてはならないだろうが^^;・・・
言うまでもなく超有名SF映画の金字塔、フランクリン・J・シャフナー監督「猿の惑星」のリメイクである。ティム・バートンがこれをどう料理するのか興味はあったが、シャフナー版「猿の惑星」の特殊メイクがすでに現代とあまり変わらないくらい進化していたために、はたして今リメイクする必然性があるのかどうか、ちょっと疑問でもあった。
さて、観たあとの感想だが、技術的な面だけから見れば、やはり新しいテクノロジーによる長足の進化、といったような部分は見て取れず(むしろ、ヘレナ・ボナム・カーターの演じたヒロイン、アリのメイクなど、シャフナー版のコーネリアスやジーラよりも劣る感じだ)興味はただティム・バートンによる有名すぎる作品の解釈のみということになった。
あまりに有名なシャフナー版「猿の惑星」のエンディングは、実は映画オリジナルのもので、ピエール・ブールによる原作では、惑星探査に出かけた先(つまり猿の惑星)はベテルギウス星系のまったく別の惑星であり、遠い未来、彼らの記録を発見した地球人もまた人間ではなく猿になっていた、という落ちである。そういうあたりはむしろバートン版の方が原作に忠実といえるかもしれない。
とはいえ、細かい点を見ていくとやはり、ほとんどのストーリィ展開はバートン独自のものに変更されている。主人公の宇宙飛行士レオは冒険のためではなく、ただ単に遭難した研究所のチンパンジー、ペリクリーズを救うために宇宙磁気嵐の中に突っ込み、猿の惑星へと降り立つことになる。そこで人類と猿の逆転した世界に驚く点はシャフナー版と同じだが、大きく異なるのは、虐げられている人間たちも英語を話し、主人公といきなり意志の疎通ができてしまうというあたりだ。勘のいい観客ならここで、もともと軌道上のラボでレオが何をしていたのか思い出すだろう。
いくらネタバレありとはいってもエンディングをそのままバらしてしまうのは気が引けるが、この作品を論じるには避けて通れない道なので仕方がない。レオが降り立った星が猿の惑星になっている理由が、最初に行方不明になったチンパンジーにあるのではないかということは、ある程度SFズレしている人間になら容易に予測できる。そんなことなど百も承知のバートンは、それをまったく逆手にとった設定を作ってきた。物語の中盤で、猿たちのいう「聖なる場所」にあったのが実はレオがあとにしてきた宇宙動物園オベロン号で、彼らは行方不明になったレオを捜しに来て遭難し、この惑星に不時着していたのだと判る。彼らはレオの後を追ってやって来たはずなのに、なぜか遥か過去に遡って到着していたのだ。つまり、宇宙磁気嵐の中では空間のみならず、時間までが反転する、ということだ。ブラックホールの中では空間と時間の役割が反転する、などという話をかつて描いたことがあるが、この宇宙磁気嵐、実はそんな仕掛けだったようだ。この惑星の猿たちは、動物園で遺伝子操作を受けた猿たちの末裔であり、虐げられている人間たちは乗組員や研究者の末裔だったのだ。それで、地球とは違う星のはずなのにみんなが英語をしゃべっていた謎も解けるわけだ。
この事実は、猿たちと人間たちの闘争のさなかに、最初に遭難したペリクリーズの操縦する小型ポッドが到着することでダメ押しされる。要するに宇宙磁気嵐に先に入った物ほど遅れて到着するわけだ。この一種お約束的な設定は、「ミステリー・ゾーン」や「アウター・リミッツ」といったかつてのテレビシリーズにはよく出てきたので、オールドファンにはおなじみのものだろう。
凶暴なチンパンジーのボス、セード将軍(テイム・ロスが好演していた)を閉じこめて事態を収拾したレオは、ペリクリーズの乗ってきたポッドでふたたび宇宙磁気嵐を通過し、地球に帰還するわけだが、そこで彼が見たものはセード将軍の銅像であった、というのが落ちである。最後にゴリラの警官たちに囲まれて、ほとんど何の説明もなく映画は終わってしまうのだが、もちろんレオが帰ったあとふたたび支配権を確立したセード将軍が、何らかの方法でレオを追跡して宇宙磁気嵐に飛び込み、過去の地球に到着して歴史を改変してしまった、ということなのだろう。ちょっと通好みの落ちなので即座に理解するのは難しいかもしれないが、原作からそれほど逸脱してもいないし、さすがはSFオタクのバートンらしい決着の付け方であった。とはいえやっぱりインパクトという点では、シャフナー版の自由の女神に遠く及ばないが。・・・
エピソード2とあるから前作の続きなのかと思ったら、主演女優も設定も前作とはまったく違う作品となっていた。要するにこれは、新進女優とガンアクションとを組みあわせたB級作品という位置づけの連作シリーズらしい。
今回の主役は前回の米倉涼子から菊川 怜にバトンタッチ。インテリ風な風体に似合わず、跳んだりはねたりなかなかがんばっていた。特に、盛大なマズルフラッシュにもめげずしっかり目を開けて二丁拳銃を連射する姿には、かなりの訓練のあとが感じられた。残念ながらアクションは、例によって一連の動作がカット割りの連続で、あまり説得力がなかったのだが、こればかりは本職のアクション女優ではないのだから、仕方ないのだろう。
もとは敏腕弁護士だった女が法律の限界を思い知らされ、殺し屋の弟子になるという設定はかなり無理があり、特に彼女が簡単に殺し屋(今回は忍者ではない矢澤俊矢^^;)の居場所を突き止め、ガンアクションを教えてくれと懇願するくだりは、いくら上映時間に限りがあるからとはいえご都合主義に過ぎる。そんな彼女がたいした訓練もなくいっぱしの殺し屋となって苦もなく最初の仕事をこなしてしまうあたり、製作側もそれなりの説得力を持たせることを最初から諦め、この映画はそういう映画なんだよ、と開き直っているように思える。たとえ相手がどんな悪漢であろうと、また正当防衛であったとしても、最初の殺人にはそれなりの葛藤があるはずだが、「男たちの挽歌」もどきの大量殺人シーンを演じたあと、菊川の顔にはマシンガンをぶっ放したあとの薬師丸ひろ子みたいな「か・い・か〜〜ん」の表情しか浮かんでいなかった。やはり、これはそういう映画なのだ。彼女が一番魅力的に見えたのは、殺人マシーンと化して次々に標的を倒していく時のクールさだったのだが、途中で自らの正義に疑問を抱いたあたりからは、演技の幅の狭さがかいま見えてしまい、興ざめだった。
ガンクレイジーと題するだけに、今回も使用する小火器のたぐい(ガバメントからミニガンまで^^;)はバラエティ豊かであり、また効果もなかなか凝ってはいたが、やはり全体的な軽さは気になった。なんというか、鉄の持つ金属感が出ておらず、みんなでプラスチックのモデルガンを持って撃ち合いをしているようにしか見えなかったのだ。現代のプラ製モデルガンはヘビーウエイト材やグリップによって、実銃に近い重さがあるので、実際それほど軽いわけではないのだが、扱う人間の銃に対する態度の問題かもしれない。
見せ場の連続を意識し、ほとんど話らしい話のなかった前作から比べれば、今回は女弁護士が殺し屋になり、最後には自らの師匠と対決するという起伏のある話だけに、一応は「物語」としての体裁を保っていた。前作が単純明快なマカロニ・ウェスタンの線を狙ったとすれば、今回はかつての日活無国籍アクション映画の再現を目指したのだろうか。全体的にもう少し描写がリアルで、脚本も練れていれば平均点程度の作品には仕上がったと思う。せっかく菊川が新境地を開拓した作品だけに、ちょっとばかり残念だ。・・・
米倉涼子という女優は、こういう役どころのために芸能界に入ったのではないかと思われるくらい、こうしたタイプのヒロインにはまる。もちろんシリアスなドラマやコメディもそれなりにこなすが、そっち方面はほかに上手な女優がいくらでもいる。しかし、こうした派手なアクションの場合、どうしてもある程度の上背と運動神経が要求され、それに答えられる女優は日本には水野美紀と彼女くらいしかいないのだ。水野には清純なイメージがつきまとい、今回のような汚れ役はちょっと難しい。つまり今回の役は彼女以外考えられないほどの適役、ということになる。もちろん、水野に比べれば体の切れは雲泥の差で、アクションをそれらしく見せるため、やたらと多いカット割りが気になったが、とにかくこの種のダーティ・ヒロインをそつなく演じられる女優は、いまのところ彼女しかいないといっていいだろう。
せっかくそんな女優を起用していながら、この脚本は一体なんだ???以前から何度も書いている通り、血縁を使ったネタは才能のないライターが体裁を整えるために苦し紛れに使う最後っぺみたいなもので、これが出てくるだけで製作者の力量はおおかたバレてしまう。とにかく予定調和的で、一片の新味もない脚本には心底うんざりした。
来週にはパート2が放映されるそうだが、米倉の体の切れよりなにより、この脚本家がはたしてまともなシナリオを書けるかどうかの方が、よほど気掛かりだ。・・・
子供のころから数えたら、いったい何度目の観賞だろう。もうほとんど筋立ても台詞も覚えてしまっているのだが、それでもやっぱり観ると感動してしまう。これはそういうたぐいの映画である。子供のころ、僕の父は関東の大手私鉄の鉄道員をしており、国は違ってもやる仕事は大差ないので、主人公一家の暮らしぶりや職場の雰囲気など、どこか小さなころの記憶に通じるところがあるのかもしれない。
イタリア国鉄に勤める初老の男アンドレアは、急行列車の運転士として貧しいながらも充実した毎日を過ごしていたのだが、ある日、自分の運転する列車に若者が飛び込み自殺をする。そのことにショックを受けたアンドレアは気付けに酒をあおり、その後も運転を続行するが、赤信号を見落としてあわや正面衝突事故を起こしそうになる。この件が元で謹慎を言い渡され、復職した後も以前のような急行ではなく、貨物列車の運転士に降格されてしまう。家族のトラブルなどもあり、次第にアンドレアは酒に溺れ、仲間たちとも疎遠になってしまう。そんなある日、組合はストを決行するのだが、アンドレアは一人列車に乗り込み、スト破りをする。仲間たちとの亀裂は決定的になり、彼は職場へは向かわず、もっぱら酒場で時を過ごすようになってしまう。病魔はそんな彼の体を次第に蝕んでいくのだった・・・。
とにかく脚本・監督・主演の一人三役をこなすアンドレア役のピエトロ・ジェルミが抜群にいい。家族を深く愛しながら、どうしても素直に愛情を表現できない昔気質の父を、これ以上ないほどリアルに演じている。定職に就かず、悪い仲間との関係を断ち切れずにいる長男、不倫関係を清算するために青果店の店員と結婚するが、どうしても彼の愛を受け止められない長女(シルヴァ・コシナ=美女!!)そして彼らと頑固な父の間に立って、母(ルイザ・デラ・ノーチェ)はほとんど理想的な母親像を演じている。物語の語り手、年の離れた末っ子サンドロ(まだ小学校低学年)は、そんな一家の様子を子供らしい視点で淡々と描写していくが、姉の不倫相手だと直感的に気づいて車に石を投げつけ、窓ガラスを割ってしまったりもする。うま過ぎる子役にはどうしても一抹の「臭さ」が漂ってしまって、作品に没頭するのを阻害してくれたりするものだが、サンドロを演じた子役(エドアルド・ネボラ)は水の流れのように自然な演技で、ほとんど「演技」であることを感じさせない。イタリアには昔からドキュメンタリー出身の監督が多く、素人を起用することがよくあるのだが(たとえば「自転車泥棒」などもその代表的な例だろう)それが障害になる例はめったにないようだ。
ちょっと残酷にみえるラストは初めて観た当時けっこうショックだったが、現在の目で見てみると、やはりあれはあれでハッピーエンドだったのだろうと思う。なにしろ彼はクリスマスの夜、すべての人の愛と信頼を勝ち得ることができたのだから。そういう意味ではこれも一種のクリスマス映画といえるのかもしれない。
ところでこの映画、二週間ほど前にも同じチャンネルで同じような時間帯に放映していた。気付いたとき、もうかなり進んでしまっていたのでその時はパスしたのだが、今回たまたまチャンネルをひねったら、ちょうどタイトルの上映が始まったところだった。こんな短いインターバルで同じ映画を二度放映するのも珍しいが、二度とも偶然にもチャンネルを合わせた、ということはやはり観るべきだ、という啓示なのだろうと思い、今回はパソコンも消して、じっくりテレビに向かって観賞した。おかげでボケッと観ていては気付かないさまざまな「技」に気付くことができたのは、やはり収穫といえるだろう。・・・
おなじみテレビシリーズのスピンアウト作品。当時はまだ番組放映中だったので、後日談を描くわけには行かず、テレビ本編と矛盾しないサイドストーリィとなっている。
お話は戦国時代、犬夜叉の出生の秘密を描くところから始まる。そして現代、かごめの日暮家(日暮神社)の神器、「叢雲牙」が虫干し中に突然、意志を持つかのごとく空に飛び去ってしまう。やがて叢雲牙は犬夜叉に取り憑き、その凶悪な本性を現すことになるのだが、このあたりの展開はさすがに手慣れたもので、簡潔に叢雲牙と犬夜叉の鉄砕牙、殺生丸の天生牙との関係を描いている。この三振りの刀がいずれも犬夜叉たちの父に起因しているあたり、またもや殺生丸との兄弟げんかに展開するのだろうな、と思わせる設定だが、テレビシリーズ初期と比べて殺生丸もだいぶ丸くなってきており、以前のような殺し合いにまでは発展しない。
かごめの献身で犬夜叉を取り戻されてしまった叢雲牙は、犬夜叉の母、十六夜に横恋慕して一度は手にかけた(十六夜は天生牙のおかげでよみがえり、やがて犬夜叉を産み落とすことになる)戦国武将、猛丸を復活させ、彼に取り憑く。そしてふたたび犬夜叉たち一行と対決することになるのだが・・・。
物語の終り近く、自らの十六夜への想いに気付いた猛丸は戦意を喪失し、もとの白骨へと戻ってしまう。またも宿主を失ってしまった叢雲牙はどうやって戦うのかと思ったら、なんと人型をした変なキャラクターとなり、犬夜叉たちと戦いを継続するのだ。こんな形態でも戦えるのならわざわざ人間に取り憑く必要もなさそうだが、これは黄泉の国の入り口だからこそできた技なのだろうか。
全体的にいかにもテレビシリーズのエピソード的な雰囲気で、残念ながら劇場用作品としての風格がやや不足している感じだ。せっかく犬夜叉の出生や殺生丸との関係について語っているのだから、もう少しテレビではできないような深みのある表現が欲しかったところだ。・・・
2003年度邦画最大のヒット作どころか、なんと歴代実写映画最高の興行収益を上げた作品である。そのわりには映画としての密度感に欠けた作品であったといわなければならないのは残念だ。
物語は今回も例によって湾岸署管内で事件が起き、所轄と本店(警視庁本庁)との確執が描かれることになる。所轄の青島刑事(織田裕二 )と本庁の室井警視正(柳葉敏郎 )との対立と和解はこれまでさんざん描かれ、現在ではほとんど同志化してしまっているために、今回は官僚主義を具現化する新キャラが登場するのだが・・・。
とにかくその女性管理官、沖田警視正(真矢みき)のキャラクターがあまりにステレオタイプで、かえって説得力に欠けてしまっている。まるで共産圏のプロパガンダ映画のごとき底の浅さなのだ。ナイナイ岡村の吸血鬼マニア(?)など意味不明のキャラを登場させる時間があるなら、沖田の人となりをもう少しちゃんと描くとか、彼女なりの正義を表明させるなどして「人物像」をきちんと描くべきだっただろう。あるいはそうした楷書的な演出で観客を厭きさせるより、ひとつでも多くコント的なエピソードを入れて引き止める工夫をした方がマシだと考えたのかも知れないが、いかにカリカチュアライズされたキャラばっかり登場する映画だとはいっても、どこかできっちり締めてくれないと肝心の説得力が薄れてしまう結果になる。少なくとも沖田管理官というキャラに関しては、一片のリアリティも感じることはできなかったというのが正直なところだ。
そしてもう一方の肝心なキャラ、連続殺人事件の犯人にいたっては、ほとんど俳優のアップも出ないくらいの軽い扱いで、ドラマ内での事件の比重がどの程度だったのかよくわかる。リーダーのいない犯罪組織が新しいタイプの画期的なものだなんていってるけど、それぞれがやりたいことをやるだけなら組織である意味はなく、単なる烏合の衆に過ぎない。統率力のあるリーダーのもとで協力しあうことによって、一人では不可能なことをやるからこそ組織を作る意味があるわけで、仲間のやった犯罪の内容すら知らないのでは、集まる意味はほとんどないだろう。しかし、最初の犯罪では4人の人間が目撃されており、また、とてもひとりの人間の力だけでできるようなことでもなかったし(てゆーか、あそこで蜘蛛の巣もどきの大規模なSM縛りをやる必然性がまったく見えてこない)仲間の犯した犯罪そのものを知らないというのはおかしい(最終的に捕まった犯人は5人しかいなかったはずだ。犯人がそれで全員なら、少なくともそのうちの4人はSM縛りに関与していたことになる)前半と後半で話にズレが生じている。要するにいい加減な設定なのだ。
だいたい管内で連続殺人事件があったからといって、非常線を張るならまだしも、橋そのものを封鎖してしまうというのは聞いたことがない。凶悪なテロリストが潜伏している、といった話ではないのだ(タイトルからはどうしてもそういう内容を期待してしまうが、はるかに生ぬるいお話に終始してしまった^^;)封鎖というからには車だけではなく、ゆりかもめやりんかい線も運行停止させなくては意味がないが、そのあたりの描写もなかった。TVドラマでは緻密な脚本で僕らをうならせてくれる君塚良一にしては、いつになく杜撰な仕事であったというしかない。前回のThe Movieでは、たとえば小泉今日子の握った拳銃からどうして弾丸が出なかったのか、誘拐された和久刑事(いかりや長介=合掌)がいかにして自分の居場所を知らせたのか、いずれもしっかりした伏線が張られていたのだが、今回はそうした職人技を見せてくれることもなく、ひたすら行き当たりばったりな展開だった。「事件は会議室で起きてるの」「レインボーブリッジ封鎖できません」などといった迷台詞をちりばめるために、むりやり書いた脚本ではないかと勘ぐりたくなるくらいだ。・・・
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