TOMさんの映画にひとこと'04

このページは日ごろ僕が書きためた、テレピや映画の鑑賞日記です。

いちおう星取り表になっていますが、そのときの気分で付けたもので、あまり信頼性はありません。

“注意!! 以下ネタバレあり” の下の文章は、カーソルで選択し、背景色を反転させれば読めるようになっています。

ただし、注意しているようにネタバレが含まれますので、映画観賞後まではお読みにならないようお願いします。


68)アラン・ドロンの刑事物語/ジョゼ・ピネロ;2001年フランステレビ作品(12.29)

 今を時めく奥様方のアイドルがヨン様なら、ビートルズが登場した今から40年ほど前に同様のポジションにいたのは、まず間違いなく本編の主人公を演じたアラン・ドロンその人だろう。「太陽がいっぱい」「地下室のメロディー」「ボルサリーノ」「サムライ」「冒険者たち」などなど、綺羅星のごとき主演作が目白押しだが、1998年にいったん引退宣言し、本編はその復帰第一作となるTVミニシリーズである。

 舞台は現代の南仏マルセイユ。まもなく定年を迎えようとする老刑事ファビオ(アラン・ドロン)のまわりで不可解な殺人事件が立て続けに起き、やがて事件は警察内部をも巻き込んだ一大スキャンダルにまで発展する・・・といった筋書きだが、2001年に撮影された作品としては、驚くほど最近のフランス映画らしくない、というか、ベッソンやベネックスが登場して引っかき回してしまう以前のフィルム・ノワールの香りが濃厚に漂う作品になっている。監督のジョゼ・ピネロは80年代末、やはりアラン・ドロンと組んだ「私刑警察」一本しか日本では知られていないが、おもにテレビの仕事をやってきた人らしい。80年代になってから現れた人なので、フィルム・ノワール華やかなりし頃は経験していないはずなのだが、「私刑警察」がドロンの製作・脚本・主演という事実上のワンマン映画だったように、今回もほとんどアラン・ドロン主導の撮影だったのかも知れない。

 主演のアラン・ドロンは撮影当時66歳くらいだったはずで、さすがにハードなアクションこそないが、それなりにきびきびした動きであまり年齢を感じさせなかった。とにかくやたらと人が死んでしまう話で、マフィアらしき殺人者の容赦のないことはこの種の映画でも珍しいほどだ。なにしろ主要な登場人物で最後まで生き延びるのは、半数にも満たないのだから。

 ドロンを食うくらいの好演を見せていたのが、彼の片腕の若い刑事ペロールを演じたセドリック・シュバルムで、第一話でアラブ人の恋人を殺されて半狂乱になり、自らの左手を撃ち抜いてしまったりするのだが、動と静の演じ分けが巧みで、暴走しがちのファビオを信頼できるパートナーとしてサポートする難しい役柄を的確に演じていた。特に物語終盤でスナイパーとして登場するあたりは、その格好よさに痺れてしまった^^;

 定年を迎えるファビオの後釜として着任し、後に彼を愛するようになる美貌の女刑事ペセールは、どこかで見たような顔だと思ったらマチルダ・メイ(「スペースバンパイア」の女バンパイア)であった。あの映画からすでに15年以上も過ぎているというのに、この変わらなさはどうだろう?ひょっとしたら彼女本当に(^_^;)・・・


67)悲しみは星影と共に/ネロ・リージ;1965年イタリア映画(12.14)

 テレビをつけっぱなしにしていたら、昔のモノクロ映画が始まり、つまらなそうだったのでスイッチを切ろうとしたところ、聞き覚えのあるテーマ曲が始まったので手を止めて、結局最後まで観てしまった^^;

 主演はジェラルディン・チャップリン、あの喜劇王チャップリンの娘で、いわれてみれば若いころのチャップリンの面影がちょっとあるものの、楚々としたかなりの美少女である。アメリカ人の彼女がいかなる理由でイタリア映画に主演したのか知る由もないが(父チャールズがレッドパージのあおりを食ってアメリカを追われたため、スイスやロンドンで学んだらしい)当時の映画はたいていがアフレコだったので、たぶん声を当てていたのはイタリア人の声優さんだったのだろう。なにしろ登場人物がみなイタリア語をしゃべっているのだから、当然イタリアが舞台の映画のように見えたが、それにしては街中でナチスの腕章をした憲兵らしき姿が目立つな、と思っていたら、会話の中でここは第二次大戦中のユーゴスラビアだということが判る仕掛けになっていた。

 ユーゴの田舎に住むレンカ(ジェラルディン・チャップリン)と盲目の弟ミーシャ。父のラクトはユダヤ人であるため、娘のレンカもナチ協力者である警察からマークされていた。ある日警察に呼びだされた彼女は、収容所から脱走した父が死亡したことを知らされる。レンカの恋人イヴァン(ニーノ・カステルヌォーボ=ビスコンティの「若者のすべて」やジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」に主演)は町を離れて森に隠れ、パルチザンとして反ナチの活動をしていた。ある日、死んだはずのラクトが帰ってきたことから、彼のための偽造身分証を都合するために森を出るが、ドイツ兵に見つかり負傷してしまう。追ってきたドイツ兵の目をそらすためにラクトはイヴァンの銃を受け取り、危険を承知で表にとびだすのだが・・・。

 というふうに筋立てを語ればさほど複雑な話ではないのだが、ドキュメンタリー畑出身の新人監督、ネロ・リージは抑揚を抑えた演出でユダヤ人姉弟の悲劇的な運命を描いていく。ラストシーン、盲目の弟に「もうすぐお医者さんで手術を受けられる」と嘘をつき、目に見える世界がどんなに素晴らしいかをとうとうと語るレンカの姿は、さぞかし当時の観客の涙をさそったのだろうな、と思う。それにしてもつい20年前、枢軸国のひとつとしてドイツ第三帝国とともにユダヤ人を排斥する側に立っていたイタリアからこのような映画が生まれたのだから、皮肉なものだ。・・・


66)トロン/スティーブン・リズバーガー;1982年アメリカ映画(12.8)

 初公開当時、オールナイトで三回くらい繰り返して観た(単に始発待ちで^^;)おかげでストーリィは暗記状態、構図や何かもほとんど覚えてしまっていたのだが、今回ほぼ20年ぶりに観返してみて、意外にもよく出来た映画だということに(いまさらながら)気付いた。

 なにしろ凄いのはやはり世界観である。この映画が作られた1982年当時といえば、インターネットはおろか、マイクロソフト社発展の基礎を作ったMS-DOSが発表されてわずか1年しか経っていない頃である。パソコンへの理解など、一般にはまだほとんど浸透していない時代であった。マッキントッシュもウインドウズもまだ影も形もなかったのだ。そんな時代にこうしたサイバーパンクな設定を作り上げてしまったこと自体、驚異的である。

 当時のコンピューターではまだポリゴンを自動的に生成することができず、ワイヤーフレームに手描きで色を塗ったり、一見CGっぽく見える、実は普通の手描きアニメでお茶を濁していたシーンもけっこうあったようだ。そうした涙ぐましい努力によって生み出された世界は、少なくとも当時の「電脳世界」のイメージをうまく捉えたものとなった。フランス人マンガ家メビウスによる美術は現在にも通用するセンスだし(中盤登場するソーラー帆船など、「スターウォーズ・エピソード2」にもそっくりなものが出ていた)画面全体にちりばめられた透過光の表現が素晴らしく、現実世界とは違う質感をみごとに醸し出していた。あまりによく出来ていたために、現在に至ってもトイやゲーム(有名なライトサイクルのシーンを再現したオンラインゲーム「GLtron」はここでダウンロードできる)が開発されているくらいだ。

 そうした見事な映像に比べて、従来ストーリィは軽視されがちだったが、今回じっくり観て、それほどいい加減なものではないことが判った。もちろん単純な娯楽作品であるからたいした深みは感じられないが、行き当たりばったりな展開が多いB級作品のなかでは、キャラクターそれぞれの行動の動機がきっちり描かれていた方だろう。けして傑作というつもりはないが、エポックメイキングな作品であることには間違いない。・・・


65)リーグ・オブ・レジェンド/スティーブン・ノリントン;2003年アメリカ・ドイツ・イギリス・チェコ合作映画(12.8)

 物語は19世紀末、超兵器を使ってヨーロッパ各国の中枢を破壊するテロ事件が続発、各国政府はそれぞれの事件を敵対国の責任だと思い込み、世界は一触即発の危機に瀕する。そんな状況から世界を守るために、英国政府を代表するMという人物が主体となって「超人紳士同盟」が結成されるのだが・・・。

 Mの招集に呼応して現れる超人たちのうち、肝心の主人公アラン・クウォーターメイン(ショーン・コネリー)が何者か判らず、イマイチ乗り切れなかった。クウォーターメインとはH.R.ハガードの冒険小説「ソロモン王の洞窟」に登場する冒険家なのだそうだ。他の超人、透明人間やネモ船長、女吸血鬼ミナ・ハーカー、ジキル博士(当然ハイド氏でもある^^;)、不老不死のドリアン・グレイ、そしてトム・ソーヤーは日本でもそれなりに有名なのだが(もっとも女吸血鬼といえばカーミラの方が有名だと思う)

 ショーン・コネリーを招集する人物がMとは、いやおうなくボンドシリーズを連想してしまうが、それとはまったく違う設定を用意してあったあたりは感心した。しかし、それなら主役はやっぱりホームズだろうと思うのだが(笑)あっ、そしたら冒頭でMの正体が見破られてしまうか^^;ホームズが相手では、下手な変装も通用しないだろうし(^_^)

 見どころはやはり、これでもかとばかりに登場する超兵器の数々(まだ19世紀なのに、ネモ船長のノーチラス号は現在の潜水艦より凄い。ほとんど「ふしぎの海のナディア」に登場するノーチラス号並み^^;)や、破壊されるベニスの街並みなどのSFXである。今の時代、どんなに不可能に思えるシーンもCGを使えば簡単に作れると思いがちだが、本編においては、ノーチラス号のように他に手段のないものは仕方ないとして、町並みやハイド氏(まさに緑色じゃないハルク^^;)は意外にも徹底してアナログの手法にこだわっていた。特に1/5スケールのミニチュアを使って作られたベニスの街の崩壊シーンはなかなかの見物。

 原作はコミックなのだそうで、いわれてみれば確かにマンガっぽい設定ではある。いろいろな超人が力を合わせて悪に挑むあたりは、すでにシリーズ化されている「Xメン」にも通じる。しかしながら、それなりにキャラクターたちの設定に工夫があった「Xメン」に比べて、こちらは超人たち(というよりはっきり言えば怪人たち)が英国のために力を合わせなければならない理由がよくわからなかった(どちらかといえば世間から迫害を受けていた連中ばかりだし、そもそも英国とは無関係なキャラも多い)何だかよく判らないうちに敵の襲撃にあい、反撃するうちにズルズル流されてしまった感じだ。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 結局、敵方の親玉ファントムは意外な人物であり、「超人紳士同盟」の結成目的自体が最初の趣旨とはまったく違っていることが終盤明らかになるのだが、そのあたりの展開はちょっと無理があり過ぎた。仲間の中に一人裏切りものがいる、という設定も話のベクトルを変な方向に向けてしまうし、どうもすっきりしないお話になってしまった。思わせぶりなラストもちょっといただけない^^;・・・


64)スターウォーズ 帝国の逆襲・特別編/アーヴィン・カーシュナー;1980年アメリカ映画(12.7)

 先日スターウォーズ・トリロジーのDVDが発売されたおかげで割を食ったのが、以前LDで発売されていた特別編トリロジーである。その価格は激しく凋落し、発売当時定価14.000円もしたものが、今では中古価格で数分の一、オークションでは新品同様のものが1.000円台で出品されていたりする。実は、DVDバージョンは特別編を作った当時からさらに発達したデジタルSFX技術や、エピソード1及びで登場した俳優たちを使って手直しされており、20世紀の時点で観ることができた「特別編」はLDバージョンだけということになるのだが。ここでも書いたように、基本的に僕はNTSC信号で記録されたソフトはもう購入しないつもりなのだが、こうした「この先リリースされる可能性が極めて乏しいもの」は別である。

 閑話休題、こうしたシリーズもの作品で要となるのは、実は2作目の作品ではないかと最近思っている。第1作目は、受けなければそれっきりで終わってしまうわけだから、よほどの保証でもないかぎりは完結した物語になっている。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にしろ「マトリックス」にしろ当初は一本で完結したお話であり、それが大ヒットしたおかげで続編が作られたのだ。同じことはスターウォーズにもいえ、ルーカスの頭の中には全9話(後に6話に縮小)の壮大なプランがあったとはいっても、エピソードIVがもしヒットしなければ、それっきりで終わっていただろう。いずれにしろ第1作は、全力で一発勝負に賭ければいいだけの話だ。しかし、2作目は大ヒットした1作目を受けてシリーズ化する最初の作品である。なにしろ1作目のヒットを受けて世界観を確立しなければならない重責を負ううえに、観客は前作を越える面白さを期待するから、作り手側としてはものすごく高いハードルを設定されてしまうことになる。

 さて、ようやく話は本編「帝国の逆襲」に移るが、なにしろあの大ヒット作、「スターウォーズ」の続編なのだから、そのハードルは雲にも届くほどに高かったと思われる。そのせいか、ルーカスはシナリオを、女流SF作家にして「リオ・ブラボー」や「エル・ドラド」の脚本家としても名高いリー・ブラケットに任せ、監督も職人監督、アーヴィン・カーシュナーに任せて自らは製作総指揮に専念した。その結果は幸いにも吉と出て、その先のエピソードへと続くスターウォーズ・サーガの基礎をみごとにまとめ上げることに成功した。世界観の設定、人物の相関関係、新キャラクターの紹介、新たな事実の暴露などなど、図にしてまとめると判るが、このシナリオは恐ろしいほど複雑な形をとっている。普通に考えたら、これほどややこしい話をたった2時間程度の映画にまとめるのは不可能とも思えるのだが、カーシュナーとルーカスはそれを「誰にでも判る平易な形に」やってのけた。これは本当に凄いことである。

 今回の特別編におけるデジタルSFXは、エピソードIVほど目立ってはいないが、クラウドシティの3Dマットアートなど、ここぞというところで使われていた。また、以前はけっこう目立っていたマスクの境界線や、合成されたメカの違和感などは見事に払拭されていた。・・・


63)ミシェル・ヴァイヨン/ルイ・パスカル・クーヴレール;2003年フランス映画(12.7)

 珍しいフランス製のレース映画なのだが、それにしてもこの脚本は凸(><#)少なくともスポーツとしてのレースの面白さを知っている人のシナリオじゃないだろう。・・え?、シナリオはあのリュック・ベッソン !? 信じられん・・・。登場する人間は美男美女ばかりで誰が誰やら見分けがつかないし、キャラ設定もあまりに単純で深みもくそもない。肝心のストーリィも、レースの駆け引きはあくまでルールにのっとってやるから面白いので、ラリーの最中にライバル車を両側から挟んで停車してドアを開けられなくしたり、燃料やタイヤに細工したり、あげくに関係者を誘拐して勝ちを譲れと迫ってみたりでは、レースの面白さも何もあったものじゃない。原作はフランスの人気コミックということだが、あちらのコミックはこれほど底の浅いストーリィでも商売になってしまうのだろうか。「赤いペガサス」でもフランス語訳して読ませてあげたいものである。

 シナリオの情けなさに反比例するかのように、映像はフランス映画らしく凝っていて美しい。レースシーンもアメリカの某レース映画と違ってCG使いまくりというわけではなく、本物のル・マン24時間に撮影用の車両を参加させて撮影しているだけに映像の重みが違う。スタートのシーンでミシェルの車に止まった蝶が飛び立ち、その視点から走り始めた車を見送るセンスはアメリカ映画にはないものだろう(もっとも映像に登場するオオゴマダラはアジアの特産種なので、ル・マンにいるはずがないのだが)シナリオのマイナスポイントと映像のプラスポイントとを相殺して、結局この点数(→)に^^;・・・


62)マトリックス・レボリューションズ/アンディ&ラリー・ウォシャウスキー;2003年アメリカ映画(12.3)

 前作「マトリックス・リローデッド」でリロードされたのは、前回挙げた要素すべてをミックスしたようなものだったらしい。レボリューション(革命)と言う見地からは、込められた弾丸はやはり救世主ネオであり、また、スミスの存在もやはりマトリックスに変革をもたらす変数として込められた存在となっていた。そもそもタイトルは「レボリューション」ではなく複数形の「レボリューションズ」である。つまりネオの介在によって起こる革命はひとつではない、ということになる。それが具体的に何を示すのかは、残念ながら観終わった今もよく判らないのだが。

 しかし、ネオよりもスミスよりもなによりも、本編で描かれるのはまず第一にザイオン対機械文明の攻防戦である。おそらくほとんどの予算はこの場面のために費やされたのだと思う。襲いかかる敵側のドリルロボットや魚の群れのように空間を飛び交うおびただしい数のセンティネルは、これまで観たさまざまなSFXの中でも最高の部類だし、迎え撃つ人類側の人型兵器APUも素晴らしくよく動き、搭乗する人間との合成も巧みだ。しかし、これらのシーンがあまりに膨大かつ強烈だったために、本編はただひたすら人類VS機械生命の戦いを描き続ける映画になってしまった。いや、ザイオンの戦いそれ自体は前作でくどいくらいに予告していたので、これくらいこってりした描写もありかもしれないが、問題はそれに比べて肝心のマトリックスそのものの描写や、救世主ネオとは何なのかといった前作での問い掛けへの答えが、ほとんど登場しなかったことだ。おかげでラストのネオの戦いが付け足しのようにしか見えなくなってしまった。

 前作でもちらっと登場したミフネ船長や、ザイオンの女たちの戦い方はアクション映画の王道を行っていて、それ自体はまったく問題ないのだが(ミフネの大活躍など、これが三部作でなかったらあきらかに主役級の扱いだ)その間、ホバークラフトに乗って別の場所にいたトリニティやモーフィアスの存在感はどうしようもないほど希薄で、特に今回のモーフィアスの扱いは気の毒なほどだった。もう少しキャラの配置を考えて、生き場所なり死に場所なりを与えてやるべきだったろう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ザイオンでの戦闘の間に、トリニティとネオはもう一隻のホバークラフトでマトリックスをつかさどる機械世界の本拠地へと向かい、なぜか「手かざし」で押し寄せるセンティネルどもを撃退しつつ(現実世界なのにね)とうとうラスボス(笑)へとたどりつく。そこへの過程でトリニティはあっさり命を落としてしまい、ネオは人類の命運を賭けてスミスと戦うべくマトリックスへと入る。ここでの戦いはテレビスポットなどて再三流された「例のシーン」だが、死闘の揚げ句ネオとスミスは合体し、そして消滅する。考えてみればスミスは第一作の「マトリックス」でネオが生み出してしまった存在であり、彼自身の鏡像のような存在として設定されていたのかもしれない(それにしては性能が違いすぎるような気もするが)とにかくスミスを片づけるという約束が果たされたので、ザイオンに攻め入っていたセンティネルは攻撃を止め、ようやく戦闘は終結する。

 ・・・というのが物語の終盤だが、よく考えてみると第一作目の流れからはずいぶんズレてしまった展開である。「マトリックス」とは所詮仮想空間に過ぎず、実は人間たちは乾電池のようなエネルギー源として機械に消費されるだけの存在であり、そこから人類を開放するためにモーフィアスたちは活動していたはずである。しかるに本編においてネオは単に戦争の終結のみを望んでおり、機械生命もマトリックスも結果的に温存される。本編を観たあと何かはぐらかされたような気がするのは、この「戦いの目的」のズレのためだろう。

 また、物語の肝心な部分、つまり救世主ネオとスミスとの関係、預言者とアーキテクト(創造主)なる存在の関係など、前作からの流れからすればむしろ大切に思える要素はほとんど説明不足のまま素通りしてしまい、結局うやむやのまま終わってしまうのも問題だ。それから物語の冒頭、ネオは長い名前のフランス人の仕掛けた罠にはまって機械世界とマトリックスの間の空間に閉じこめられてしまい、そこから救出するためにモーフィアスとトリニティが活躍するのだが(彼らが活躍するのは本当にここだけだ)そのことが結局物語の主題にほとんど絡んでこず、単なる導入部のサービスアクションに終わってしまったのも残念だ。

 もうひとつ、センティネルたち機械生命はEMP(エレクトロ・マグネティック・パルス)に弱く、その一撃で活動を停止してしまうという弱点を持っていることは、第一作でも触れられているが、どうしてそんな必殺兵器がホバークラフトにしか搭載されていないのだろう。かろうじて間に合ったホバークラフトのEMPで一度目の攻撃を撃退したあと、議長は「こちらの守りも完全に崩壊した」などと言っているが、機械生命と戦う兵器を電子化するなどというバカなことをするからいけないのであって、火薬類の反動だけで作動する火器を補助的に使い、EMPのつるべ打ちで対抗すれば簡単に勝てる相手だろう(最初のEMPで次のEMPを発生させる装置が壊れてしまうという説もあるが、装置を使うまで電子レンジの筐体みたいなものに入れておけばEMPは届かないだろうし、それをも打ち破るほど強烈なEMPならそもそも人体がもたない)そうしない理由は何なのか、そのあたりも釈然としない脚本であった。・・・


61)墨東奇譚/新藤 兼人;1992年劇場公開作品(12.2)

 こういう映画を観ると、日本映画の未来が本当に心配になってしまう。新藤兼人といえば日本を代表する映画作家の一人と目されているのだが、どうしてこれだけ面白くない映画を平気で撮ってしまえるのか・・・。見どころといえば墨田ユキのおっぱい以外、本当に何もない映画なのだ。

 原作を書いた永井荷風自身を主役に持ってきて、一種の自然主義文学っぽい映像作品にしたかったのかも知れないが、主演の津川雅之はこうした文学者にはまったくのミスキャストで、女たらしの仮面に隠した文学者の矜恃みたいなものがまったく伝わってこず、ただの女たらしにしか見えない。戦前から戦中にかけての話なので、ロケーションは霊園とか雷門とか、当時とほとんど変わらない場所を(なるべくまわりが写らないようなアングルで)撮影するだけで、話のほとんどはこじんまりしたセットの中で進行する。ときおり兵隊さんなどが登場して時代色を出そうと努力してはいるのだが、あまり成功してはいない。玉ノ井の「ぬけられます」の看板がかかった裏通りのもぐり遊廓が舞台なのだが、この界隈全体が妙にせせこましいセットになっており(せせこましいのは実際そうだったのだろうが)スタジオライトで均一に照らされたおかげで、実感も何もないセット丸出しの表情を見せていた。せめて一度くらいは戦前の町並みをオープンセットなりマットアートなりで再現してくれれば、これほど狭苦しい印象の映画にはならなかったのに、と思う。特に永井の自宅「ペンキ亭」については、冒頭で真新しいペンキ塗り立ての姿が登場し、終盤では空襲ですっかり焼け落ちた姿になって再登場するのだが、焼け落ちた廃虚から引いていくと焼け野原になった東京の市街全体が見えてくる映像には、対比させるためにも戦前の町並みの俯瞰が欲しかったところだ。

 お雪(墨田ユキ)のいる置屋の調度品の配置なども平板なうえに(まあ、やることは決まっているのでたいした調度品も必要ないのだろうが)ライティングも町並み同様照度重視のメリハリに欠けたものだった。すべては墨田ユキのヌードを奇麗に見せる舞台装置だったのだろうが、グラビア撮影するわけでもないのに(お雪は永井をエロ写真家だと思い込んでおり、面白がった永井がカメラを持ち込んで彼女を撮影するシーンはあるが)影のないのっぺりした映像ばかり見せてどうするのだろう。戦前といえば白熱電球の時代、戦時中には灯火管制も厳しかったはずで、そうしたライティングの演出だけでもかなり時代感覚は表現できたと思うのだが。

 置屋の女将に新藤映画お約束の乙羽信子が扮しており、過去を背負った苦労人らしいキャラを好演しているのだが、戦後のシーンでモガ風の扮装をして登場したのにはちょっと驚いた。とても若々しくて、まさかわずか2年後に病没してしまうとは思えなかった。・・・


60)ファイブ・イージー・ピーセス/ボブ・ラフェルソン;1970年アメリカ映画(11.30)

 「イージー・ライダー」の翌年に作られたアメリカン・ニューシネマの一本だが、本編でアカデミー賞を受賞したジャック・ニコルソンの怪演は目立つものの、全体としてはいらだちに満ちた、いかにも当時のアメリカ(ベトナム戦争末期の時代)を反映したような退屈な映画だった。実は公開当時にも観ていたのだが、こまかいシーンはけっこう覚えていたものの(あごの割れた子供と神様の話とか、ジャック・ニコルソンがピアノを弾くシーンなど)全体がどういうストーリィだったのかは完全に忘れていた。忘れるのも道理、そもそも語れるようなストーリィのほとんど存在しない映画だったのだ。

 主人公ボビー(ジャック・ニコルソン)の恋人レイ役のカレン・ブラックは、ちょっと鬱陶しいキャラクターを的確に演じており、ボビーの実家の面々もそれぞれがいかにもな役者を配されているなど、キャスティングの妙で観る映画と言えるかもしれない。しかしながら主人公のいらだちの原因は、この映画で表現された部分だけではどうしても伝わらず、ボビーが単なるわがまま男に見えてしまう。ラストシーンはその計算違いが凝縮されてしまったような雰囲気で、この主人公は最後まで自分のことしか考えられない男だったんだな、ということ以外どんな意味が込められていたのか、少なくとも観ている最中には判らなかった。それともそもそも監督は、この映画でこういうダメ男像を描きたかっただけなのだろうか?・・・


59)ゴジラXモスラXメカゴジラ 東京SOS/手塚 昌明;2003年劇場公開作品(11.30)

 たいてい前作との繋がりをリセットしてしまい、54年の第一作の続編という形で作られることの多いミレニアム・ゴジラだが、この作品ははっきり前作「ゴジラXメカゴジラ」の続編として作られていた。話は前作終了後から一年後、ふたたび出現したゴジラを迎え撃つべく、ダメージを負ったメカゴジラ「機龍」を復活させた特生自衛隊の活躍が描かれる。特筆すべきは「モスラ」の小泉 博があれから40年後に同じ中條博士役で登場することだ。もちろんモスラも小美人(ふたりの身長は揃えて欲しかったが)も登場する(「モスラ対ゴジラ」と「ゴジラVSモスラ」はなかったことになっているらしい。そういえば前作でも「モスラ」と「サンダ対ガイラ」だけがあったことになっていた)その登場のさせ方はまさに「モスラ対ゴジラ」を踏襲しており、ある意味本編はそのリメイクであるともいえそうだ。

 話の発端では、高速で接近する未確認飛行隊に自衛隊機がスクランブルをかけ、それがモスラであると視認するのだが、今回は自衛隊の協力を得ているために実機映像が登場する。しかし、あいかわらず特撮シーンとのギャップが目立ってしまうのはやはりセンスの問題だろうか。モスラが日本を目指したのは、初代ゴジラの骨を使って作られたメカゴジラの使用を止めるように説得するためだったのだが、差し迫った危機の前には賛同を得られるはずもなく、中條博士と孫の瞬の導きでモスラ自らがゴジラと戦うことになる。

 モスラの造形は、以前のぬいぐるみ風のものからかつての生物感溢れた造形に戻されており、CGを使った翅の表現など、下の「大怪獣総攻撃」より数段いい出来だった(なにしろ「大怪獣総攻撃」では鱗粉の代わりに小銃弾みたいなものを乱射するのだ^^;)途中で親モスラは力尽きて死に、その代わりに双子の幼虫モスラが健気に戦うあたりも「モスラ対ゴジラ」と同じ。幼虫の目は始めは青いのだが、親モスラの死に接して赤く輝き始める。このあたりも、青、赤両方あった昭和モスラの設定をうまく消化していた。もっとも作り手側は、単に「風の谷のナウシカ」の王蟲あたりを参考にしたのかもしれないが^^;

 例によってメカゴジラは遠隔操縦で戦うのだが、これまた例によってダメージを受けて操縦不能に。これでパイロットが駆けつけて中に入って操縦すれば前回と同じ話になってしまうところだが、今回の主人公、中條博士の甥の義人(金子 昇)は整備士で、操縦することができない。それでも彼は修理するために機龍へと向かう。瓦礫の山に阻まれて倒れた機龍になかなか近づけないのだが、崩れかけた地下鉄の入り口を見て地下の線路づたいに接近することを思いつき、義人はバイクに乗ったまま地下鉄の構内へと入っていく(最近の地下鉄はかなり大深度に作られているので、たとえ上をゴジラが通っても踏み抜かれることはないかもしれない)出口の近くでふたたび彼は小美人たちと遭遇するのだが(それにしても小美人はいったいどうやって移動しているのだろう)今回は彼女たちは義人の行動を阻止しようとはせず、逆に手助けすらしてくれる。この態度の変化こそ「メカゴジラ」という超兵器に対する人類の立場をモスラが理解し、信頼をよせてくれた結果だと取ることもできるだろう(実はその信頼を人類は密かに裏切っていたのだ、ということがラストシーンで示されているのだが)

 あいかわらずキャラクター設定は幼児向けの戦隊ものみたいな大ざっぱさだが、今回はシナリオがなかなかよく練れていたのと、モンスターの造形そのものにも説得力があったので、すくなくともこれまでの手塚ゴジラ作品の中ではもっとも評価に値する作品になったと思う。

 しかし、肝心のSFXに関しては残念ながら↓の金子ゴジラに比べて大幅に退歩してしまった。スタジオ丸出しのライティング、中途半端なポイント・オブ・ビュー、ミニチュアがミニチュアにしか見えない焦点深度の浅さなど、十年以上前の平成ゴジラのセンスである。金子ゴジラが苦労して成し遂げたイノベーションを、すべてご破算にしてしまうようなこの仕上がりは、やはり責められても仕方ないだろう。・・・


58)ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃/金子 修介;2001年劇場公開作品(11.30)

 ジリ貧状態だった東宝ゴジラ映画が、とうとう平成ガメラの御大将を迎えて作った起死回生の一発。ガメラ三部作で怪獣オタクぶりを見せつけてくれた金子監督が果たしていかなるゴジラ映画を見せてくれるか興味津々だったが、まあ合格点は与えられるものの、怪獣オールスター戦のような設定はいかに金子でも完璧な手際で料理しているとは言い切れず、後半に行くにしたがってグズグズな展開になってしまうのが残念だった。

 今回の設定はまたしても、初代ゴジラ以外のすべての東宝ゴジラ映画をご破算にしてしまっており、冒頭の説明でUSゴジラ(GODZILLAね^^;)に皮肉みたいな言及があるのが笑わせてくれる。まず最初に登場するのは地底怪獣バラゴン。初登場した「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」では、人間をむさぼり食う怪物として描かれていたが、今回は特にそういうことはなく、ひたすら「聖獣」としてゴジラを迎え撃つためだけに行動していたようだ。モスラの描き方は非常におざなりで、はっきり言って手抜きとしか言いようがなく、頭数を合わせるためだけの存在にしか見えなかった。キングギドラは最初「ギドラ」という名前で登場するのだが、なぜか首が初登場時(三大怪獣 地球最大の決戦)の半分以下の長さしかなく、非常に不格好。三段変身するので、最後の姿で美しく首の伸びた姿になるのかと思ったが、羽が生えて飛べるようになってからもすんなり長い首になることはなかった。真打ちのゴジラもちょっと頭でっかちで、もうひとつ精悍さに欠けた造形なのが残念だった。世間では凄みがあるといわれている白目も、なんだか白内障のようでいい感じはしなかった。むしろ虹彩の部分を増やして、瞳孔をぐっと絞ったほうが狼みたいな凶悪そうな感じになったと思う。

 人間ドラマの方は、さすがに監督経験豊富な金子だけに手慣れた演出で、不自然な設定や未消化な演技が目に付いたこれまでのゴジラ映画を大きく上回っていた。防衛軍(昭和ゴジラシリーズへのオマージュか、今回の作品に自衛隊は登場せず、防衛庁は防衛省に格上げになっており、劇中に登場する軍人は自衛官ではなく「兵隊さん」と呼ばれていた)の描き方にしても、これまでのゴジラ映画とさほど変わったところはないものの、最終的にゴジラに引導を渡す役割を担っており、防衛庁や自衛隊の協力がなかったわりにはきちんと描いていたように思う。また、「ガメラ3〜イリス覚醒」では中心テーマとなっていた「とばっちりの死」は今回も山盛りで、最初にゴジラに襲われる小島の民宿はあっさり踏み潰されるし、そこでかろうじて生き残った娘(篠原ともえ)も、入院していた病院がゴジラの尻尾の一撃で無残に倒壊してしまう。夜になって防衛軍の戦闘機(暗くてよく見えなかったが、どうやらスホーイ系の機体だったようだ)がゴジラに対して集中攻撃をおこなうも、全機熱線にやられて撃墜され、その破片の一部が明かりのついている(つまり人が住んでいる)民家に激突して爆発する、といった按配だ。

 金子といえば平成ガメラで見せてくれた、徹底的にローアングルにこだわった絵作りは今回も健在で、新潟の山中から登場したバラゴンの移動シーンは、上空に逃げ惑う鳥たちを配してなかなかリアル。清水港からゴジラが上陸するシーンはあきらかにUSゴジラのパクりだが(ゴジラ2000 MILLENNIUMにおいてもこの種のパクりが見られるが、あの映画が日本側の製作者に与えたインパクトは想像以上に大きかったようだ)港湾施設や魚市場から市内にかけてのシーンはシュールなまでに現実的で、初代ゴジラが持っていた恐怖感を見事に再現していた。ところでこのシーン、よく見ていると一瞬だが第五福竜丸のポスターが大写しになるシーンがあり、また、最初にゴジラが発した熱線が炸裂するシーンを、少し離れたところにある小学校の窓から教師(かとうかずこ)が目撃するカットが出てくるが、彼女が目にするのはまさに原爆のキノコ雲なのだ(しかしこれ以降、熱線がキノコ雲を形成することはなく、やや統一感に乏しい感じがした)これにはあきらかに何らかの意図を感じざるを得ない。また、富士の裾野で警察署に保護されていた謎の老人(天本英世)は、ゴジラについて「太平洋戦争で死んだ人間の残留思念の集合体」と定義するのだが、この説明はあまりに矛盾が多く(劇中の登場人物による解釈すら定まっていない)また観客にちゃんと理解するいとまを与えない演出も相まって、結局何が何だか判らないままに物語の奔流に押し流されてしまう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 箱根の山中でゴジラとバラゴンは遭遇し、第一ラウンドの決闘が行われるのだが、山の向こうからゴジラがぬっと頭を出したり、バラゴンがロープウェイの下をくぐったりと、なかなか秀逸なシーンが多かった。しかし、やがて場所が横浜に移ると、残念ながら以前の平成ゴジラ作品と大差のない怪獣プロレスに終始することになる。最終的にギドラがゴジラの前に敗れ去った他の聖獣たちを吸収する形でキングギドラになるのだが、前述のようにその造形がもうひとつだったおかげで、あまり冴えない取っ組み合いに終わってしまった。本当はここでこそこれまで見たことがなかったような演出をして欲しかったのだが。戦いのとばっちりでベイブリッジが崩壊して(こういうシーンこそもっとちゃんと見せて欲しい)ヒロインのケーブルTVレポーター、由里(新山千春)が転落する時落とした聖なる石版のかけらが合体し、キングギドラは最終変身を遂げるのだが、単に反重力光線(は「三大怪獣 地球最大の決戦」の設定か^^;)を吐けるようになっただけでは、ビジュアル的にちょっと苦しいような気が。

 結局キングギドラは、あのパワーアップは何だったの?と思うくらいあっさりとやられてしまい、由里の父、防衛軍軍人で作戦の指揮官であった立花准将(宇崎竜童)みずからが特殊潜航艇「さつま」に乗って水中のゴジラに挑む。ここはいくらなんでもむりやりの設定で、ふだんから「さつま」を乗り回し、隊の誰よりも操縦に自信を持っているのならともかく、まったくそうしたシーンもなしに指揮官が唐突に「俺が乗る」では、部下たちはたまったものではない。ストーリィ展開上仕方がなかったのだろうが、こうした不自然さを感じさせないように上手に嘘をつくのが監督の手腕ではなかろうか。

 先にドリルのついたミサイルを魚雷の先端に仕込んだものが「さつま」の唯一の武器なのだが、同行した部下(渡辺裕之)の艇はお約束通り外してしまい、立花の乗った艇もゴジラに飲み込まれてしまう。ゴジラの腹の中で気を失った立花は、娘の由里が夢枕(?)に立ったおかげで正気に戻り(その時ちょうど由里はベイブリッジから落下して溺れ、仮死状態になっていた)体内からドリルミサイルを発射してゴジラを倒す。外からの攻撃には不死身であったゴジラも、どうしたわけか体内のからの攻撃には脆く、体に大穴を開けられ、そこから熱線が漏れて自爆してしまう。ゴジラ本体すら破壊してしまう爆発からどうやって逃れたのかはわからないが、立花艇はそこからたいした被害もなく生還する。ご都合主義と言ってしまえばそれまでだが、本編ではゴジラは「霊的存在」として定義されており、幽体離脱(?)して父の元に現れたりした由里と、何か関連づけたかったのかもしれない。

 ラストシーンで、海底に沈んだゴジラの心臓が脈打っているところを見せて(次回作への引き?)映画は終了するのだが、霊的存在に心臓が存在するのも、考えてみれば奇妙な話である。・・・


57)座頭市/北野 武;2003年劇場公開作品(11.28)

 実を言うと北野武の撮った映画はほとんど観たことがない。興味がないわけではないのだが、なんとなくチャンスを逃したまま現在に至ってしまった。初めて観たのはBROTHERだが、映画作家としては否定しているはずの主人公(ビートたけし)の生き方が、いちばんカッコよく描かれていたのが矛盾に感じられた程度で、いずれにしろ僕にとってはそれほど強い印象に残る作品ではなかったということだ。

 かようにほとんど何の先入観もなく観たたけし版座頭市だが、これが予想外に面白かった。ストーリィははっきり言って定番の時代劇という感じで、BROTHERほどの独創性は感じなかったが、時代劇はいわばお約束の世界、しかも座頭市というお約束中のお約束ヒーローを描くとあっては、いかに世界の北野とはいっても正攻法で描くよりなかったのだろう。面白さはその筋立てよりも、漫才芸の基本を演繹的に流用したような演出テンポにある。いつもの久石 譲ではなく、もとムーンライダースの鈴木慶一の音楽もそうした独特のテンポに一役買っていた。

 もちろんお約束の物語とはいっても、やはり北野作品らしいひねりはあちこちに見られる。話題になった座頭市の金髪は、白髪っぽく見える程度でさほど効果的とは思えなかったが(単に年寄りっぽく見えただけ^^;)殺陣で豪快に飛び散る血しぶきは衝撃的であった。以前、ハーツ・アンド・マインズというベトナム戦争を扱ったドキュメンタリー映画で、テト攻勢に参加したベトコンが街頭で処刑されるシーンを見たのだが、動脈の通る急所をやられた人間は、驚くほど大量の血を吹き出させて死ぬ。それは映画などでよく見る特殊効果(弾着による血糊の出血)などとは違い、まさに噴水のように血が噴き出すのだ。日本刀で切りつけられれば銃弾などより遥かに大きな傷がつくわけだから、吹き出す血液も銃創の比ではないだろう。しかし、日本の時代劇ではいわばお約束としてこのことを無視してきた。例としてあげられるのはせいぜい黒澤の「椿 三十郎」のラストで、三船に切られた仲代達矢が大量の血を吹き出させて死ぬシーンくらいのものだろう。しかし黒澤の時代と違い、現代にはCGという万能の利器がある。血糊を使わずに、CGで描き加えることによってそうした血しぶきを画面上に表現したのは、僕の知るかぎりではスピルバーグの「プライベート・ライアン」が初めてで(「シンドラーのリスト」にも実験的に使われたかも?)ノルマンディ上陸のシーンではまさに実写と見まごうばかりの効果を上げていた。北野がそれに影響を受けたか否かは知る由もないが、発想やテクノロジーは同根である。突き刺さったCGの刀と肉体との一体感が今一つで、体が豆腐でできているように見えてしまうような欠点はあるものの、これまでのわきの下に抱えた刀よりは数段リアルな表現だった。

 殺陣のCGに関してはさほど批判的な声は聞こえてこないが、ラストシーンでカーテンコールよろしく踊る集団タップダンスについては、毀誉褒貶さまざまな声が聞こえてくる。僕はその善しあしよりも、以前観た岡本喜八の「ジャズ大名」のエンディングを思い出してしまった。かなり無理のある展開と、それを押し切るだけの強烈なパワーの存在を印象づける演出だった。岡本の場合は原作(筒井康隆作品)のエンディングがそうだったので、あれ以外の終り方はあり得なかったのだが、この開き直り感はやはり、たけし版座頭市の力技に通じるところがあるように思う。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 唯一残念に思えたのは、市に「目明き」という要素を付け加えたことだ。盗賊一味の首領の正体が意外に早く割れてしまうので、間を持たせるためだったのだろうか。ラストシーンのぼやき(ビートたけしに戻ってるって^^;)で実は「明き盲」であると告白させ、結果的にはオリジナル・キャラを守っているものの、そんな落ちをつけるくらいならなぜやったんだ、という疑問は残る。最後の対決シーンでもうひとつ迫力を増すために、座頭市の「眼光」というあり得ないものをひねり出したのだろうか。勝新の大映映画とは違ってシリーズ化する目論見はなく、だからこそ最初で最後のハッタリを効かせて見せたのかな???・・・


56)ゴジラ2000 MILLENNIUM/大河原孝夫;1999年劇場公開作品(11.17)

 「ゴジラVSデストロイア」でひとまずピリオドを打たれた平成ゴジラシリーズだが、それからわずか4年後の1999年はやくも本編で復活。あれだけ大々的に「ゴジラ死す」と騒いでいたのはいったい何だったのだろう。

 とはいえ、少なくとも前半部分に関しては、一部目を覆いたくなるようなシーンもあるものの(F-15イーグルの編隊曲技攻撃とか^^;)トンネルの出口で車ごとゴジラに噛まれそうになったり(GODZILLAのワンシーンを参考にしたのは見え見えだが)走る車の後ろからゴジラが追いかけてきたり(みごとに合成臭さがぬけ、巨大な怪物がすぐ向こうに存在する雰囲気がよく出ていた)一杯飲み屋の小さな木造家屋が尻尾の一撃で超リアルに粉砕されたりと、かつてこんなのが見たいと思っていたシーンがてんこ盛りで、もしもこの調子で映画全体が貫かれていれば、初代ゴジラ以来の傑作になった可能性すらあった。

 しかしながら、深海から引き上げられた未知の岩塊が意志を持つように動き始めたあたりから、物語は変な方向に動き始め、結局のところ平成ゴジラといささかもかわらないVS路線へと収斂していく。どうやら岩塊から現れたUFOは不死身のゴジラから細胞を採取し、自らも不死性を得たいと考えたようだが、中盤登場するCG丸出しの巨大宇宙人は、まさに失笑モノのお粗末さ^^;前半部分で期待を持たされたために、この失速ぶりは輪をかけて目立ってしまった。登場するキャラクターも、佐野史郎演ずる宮坂をはじめ、主役の篠田(村田雅浩)をも含めてほとんど動機も目的も不明な連中ばかりで、特に阿部 寛演じる片桐CCI長官ときたら、最後の最後までわけの判らぬ人物で終わってしまった。どうして最後のシーンでゴジラと対峙して煙草に火をつけなければならないのか、まるで意味不明。煙草の火とは人類文明のメタファーだ、などという穿った見方もあるようだが、青臭い芸術映画でもあるまいし、こんな場面にメタファーを持ち込んでどうする。ゴジラとの戦いはまだまだ続くのだから、まともな指揮官ならここは退却すべき場面であろう。指揮官がこれだから物語は収拾をつけることができず、首都を蹂躙するゴジラを誰も退治できないままエンドロールが始まってしまう(@_@)史上もっとも人類が情けなかったゴジラ映画といってもいいだろう。

 音楽担当は服部隆之氏だが、東京湾からゴジラが再上陸するシーンに限っては、伊福部昭の「ゴジラの恐怖」と「ゴジラ〜メイン・タイトル」がメドレーで使われていた。これはボンド映画の例のテーマ同様、ゴジラ音楽のいわば定番ともいえるものなので、作曲家が変わっても使い続けてくれるのは嬉しいかぎりだ。・・・


55)ゴジラ/橋本 幸治;1984年劇場公開作品(11.17)

 「メカゴジラの逆襲」でひとまず終わったゴジラシリーズが、それから9年後の1984年、最初のゴジラ('54年製作)の続編という形をとって復活した。この映画自体はまだ昭和のころの作品だが、以後の平成ゴジラシリーズの起点とされる作品なので、とりあえず平成ゴジラの一本と見られているようだ。

 この映画が公開された当時はちょうどSF映画が花盛りだったころで、よく映画館にも通ったものだが、この新ゴジラは予告編を観ただけで、結局劇場で観ることはなかった。実際に観たのはそれから数年後のテレビ初放映の時である。

 話そのものは、前シリーズがあまりに子供向け作品に堕してしまった反省からか、大人の鑑賞に堪える作品にしようという意欲の溢れた脚本なのだが(竹内均氏をはじめ、各界の識者を監修に迎えており、そのなかにはあの田原総一朗氏の名も^^;)残念ながらその意欲は空回りに終わっており、実際にゴジラが存在したら米ソ(当時はまだソ連が健在だった)両核保有国がどう出るかをシミュレーションして見せるあたりも、結局粗雑な議論を通り一遍見せただけだった。ただ、閣議の場面で小沢栄太郎や金子信雄、織本順吉、加藤武といった大御所たちが大臣に扮して鳩首会談を演じるあたりが、いかにも往年の東宝映画という感じで懐かしかった。

 肝心のストーリィはほぼ定番のゴジラ登場物語なので、話はもっぱらゴジラVS人類の戦いを描くことに尽きる。この作品から自衛隊は防衛隊ではなく本来の自衛隊として登場するのだが、あいかわらずミニチュアの出来はもうひとつで、変なカナードのついたF-1支援戦闘機など、大昔の防衛隊時代同様に安っぽく、とてもスターウォーズの洗礼を受けた後に作られた映画とは思えない。

 たまたまゴジラに襲われたロシアの貨物船に戦術核ミサイルの発射装置があって(ご都合主義その一)回路がショートするとかして(ご都合主義その二)戦術核衛星からゴジラに向けて核ミサイルが誤射されてしまう(たしか軌道上にそうした核兵器を乗せることは、条約で禁止されていたはずだが^^;)のだが、これはむりやりにサスペンスを盛り上げようというあまりにもベタな展開。その割りにはたいして盛り上がらず、もう少しうまい演出はできなかったものかと悔やまれる。戦術核ミサイルは結局アメリカの迎撃ミサイルにより撃墜されるのだが(このあたりは、軌道に乗るということをまったく理解していなかった「Xメガギラス」などに比べれば遥かにマシではあるが^^;)ふつう迎撃された核ミサイルが核爆発を起こすことはあり得ない。もちろんこの脚本では、高空で核爆発を起こすことにより生じるEMPが、カドミウム弾で眠らされていたゴジラを覚醒させる役割を負っているわけだが。

 ゴジラを眠らせることにまでは成功した陸上自衛隊の首都防衛の切り札、スーパーXはその丸っこい銀色の造形がまるでロボコップのヘルメットみたいだが、ロボコップの方が数年製作年度が遅いので、参考にしたということはないようだ。一見したところ、どういう動力で宙に浮いているのか判らない不思議メカだが、やられる直前にリフトファンや噴射ノズルなどという台詞が飛び交っており、少なくとも未知の動力で動いているという設定ではなかったらしい。それにしても、地上で動けなくなったところに高層ビルが倒壊してきて潰されるというのは、ヒーローメカとしてはあんまりの最期であった(;o;)

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ゴジラが東海村の原子炉を襲ったとき、なぜか渡り鳥の群れを追って帰っていったことから、ゴジラの生態について研究していた林田博士(夏木陽介)はゴジラの体内にある磁性体と帰巣本能とを関連づけ、ゴジラを呼び寄せる装置を開発する。渡り鳥の内耳には磁性体があり、「渡り」の時にはそれによって方向を決定しているという説があることから思いついたアイデアだろうが、それと鳥の後を追うことと何の関係があるのか、最後まで判らなかった。ただ後ろをついていったことが「渡り」を意味することにはならないし、だいたい鳥は何かに呼び寄せられて「渡り」をしているわけではない。このあたり、ちょっと無理のある脚本だと言われても仕方ないだろう。

 新宿の町を徹底的に破壊したあと、ゴジラは林田博士の作成した誘導信号に誘われて伊豆大島の三原山へと向かい、噴火口に転落して姿を消すのだが、それを中継画面で見つめる三田村首相(小林桂樹)がなぜか感無量といった表情をしていたのは疑問である。ゴジラシリーズを長年観てきたファンや、製作側の人間がそういう顔をするのなら判るが、為政者にとってはゴジラとは歩き回る災害そのものであった筈で、それをようやく退治することができたにしては、あまりにもさえない顔つきであった。

 上記以外にも、たとえば全長が30メートルも伸びたにも関わらず、超高層ビルの狭間でとても小さく見えるゴジラや、特ダネ狙いの本能に従って行動していたはずの新聞記者・牧(田中 健)がいつの間にか本職を忘れ、林田博士の助手のように行動するようになるご都合主義など、減点ポイントは枚挙にいとまがないが、そのなかでも最大の破壊力を持っていたのは、やはり東宝シンデレラとしてデビューした沢口靖子のあまりの大根ぶりであろう。彼女がこの後ほどなく一人前の女優に育っていることを考えると、この大根ぶりは彼女自身のせいというより、監督の演技の付け方にこそ大きな問題があったようだ。・・・


54)ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還/ピーター・ジャクソン;2003年アメリカ・ニュージーランド合作映画(11.8)

 ご存じ超大作三部作の第3弾。今年度のアカデミー賞では作品賞を始め、11部門を制したシリーズ完結編である。しかし、観終わった感想は「それほどのものだったかな?」というのが正直なところだ。もちろん、けして駄作だと貶すつもりはないのだが、前半部分での期待が大きすぎたのかもしれない。物語の結末がわかっているのでどうしてもストーリィが予定調和的に進んでしまうし、とにかくこれでもかというばかりの群衆戦闘シーンの連続で、これだけ戦闘シーンが続くと見ている方はさすがにちょっと食傷してしまう。アクションシーンとバランスを保つために、前作まではかなり盛り込まれていたキャラクター説明や心理描写も、今回はかなり端折られており、動ばかりで静の部分が不足気味なのだ。原作は文庫版でも700ページに及ぶ大部であり、主要エピソードを取りこぼさずに盛り込もうとすれば、どうしても動的な部分を強調するような展開にならざるを得ないのだろう。それにしても今回は静と動のバランスが悪かった。

 もちろん今回もデジタルSFXは驚異的な出来で、入り乱れた戦闘シーンのどこまでが本物の人間で、どこからがデジタル合成なのかまったく判らない。いくつも登場する巨大な建造物も、あんなセットが実際に建てられるはずはないから、ほとんどの部分は3Dマットアートなのだろうが、中の人間の動きといい、壊れるときの自然さといいほぼ完璧な出来。投擲機を使って投げつけられる巨石が建物を粉砕する様子も、もし現実にあるとすればあんな感じなのだろうと思うほどリアリティに溢れていた。だからこそ、肝心の人間描写に時間を割かなかった(割けなかった)ことが残念なのだ。たとえば前作でアラゴルンに密かに想いを寄せていた王女エオフィンが、今回はとうとうその想いを告白するのだが、あっさり断られてしまう。その後、戦いが終わった後の戴冠式の場面で、エルフの王女アルウェンがアラゴルンとキスするシーンでは、そこにエオフィンも同席していたにも関わらず、その表情を抜くカットがなかった。すでにアラゴルンのことを諦め、ゴンドールの王子ファラミア(いつのまに元気になったのだ?)といい仲になっていたから、もうどうでもよかったのかも知れないが、せめてワンカットくらいは二人を見つめるエオフィンの表情も欲しかったところだ。

 戦闘スペクタクルシーンと交互に、フロドとサム、そしてゴラムの指輪を捨てる旅が描かれるわけだが、今回は冒頭に、いかにして元ホビットであったスメアゴルがゴラムへと変貌を遂げるのかが描かれており、ほとんど唯一のキャラクターを掘り下げる描写として印象に残った。しかし残念ながらゴラムの二面性は水鏡との会話のシーンを最後に現れなくなり、それからサマス・ナウアの火口のシーンまで単に指輪狙いのキャラに堕してしまう。指輪に対するフロドの葛藤、そしていかなる時にもひるまないサムの忠誠心もちゃんと描かれてはいるが、どうしても戦闘シーンに比べて扱いが軽めで、その苦悩や苦労があまり観客に伝わってこない。おかげで大変なはずの彼らの旅が、さほど実感のないものになってしまっている(コスチュームのやつれ具合などで表現しようとした努力はわかるのだが)まあ、限られた上映時間の中ではこれが限界だったのだろう。しかし、そのおかげで指輪を捨てる肝心のシーンがもうひとつ感情移入できない、やや上滑りした印象に終わってしまった気がする。うまくいえないが、どうもジグソーパズルのピースがうまくはまらないまま強引に完成を宣言してしまったような感じだ。

 とはいってもやはり三部作全体を観るとその迫力は尋常ではなく、これほどのスケールの作品をこれだけの水準にまとめあげた監督ピーター・ジャクソンの力量は、まさにアカデミー賞ものといっていいだろう。ただ、それを承知したうえでいわせてもらえば、やはりこの作品は劇場用の映画には向かなかったのではないかと思う。最近では空前絶後のスケールを備えたTVシリーズもあることだし、同じだけの予算を投下した贅沢なテレビシリーズとして作れなかったのだろうか。そうしたほうが、少なくとも上映時間が足りなくなってしまうようなことはなくなるだろうし、なによりテーマを一回ごとに絞ることができるので、場面をそれほど細切れにせずとも話を進めることができそうに思えるのだ。・・・


53)エンド・オブ・デイズ/ピーター・ハイアムズ;1999年アメリカ映画(11.6)

 心臓手術から生還したシュワちゃんが復帰第一作として選んだ作品だが、それにしてはなんだかなー、というのが正直な印象。もちろんミレニアムに引っかけた題材なのだが、この世の終りに関する設定があまりにご都合主義的で説得力がなく、また、悪魔のもつ能力についてもその限界がはっきり描かれないなど、どうもよく判らないままストーリイが進んでしまうおかげで、あまりリアリティを感じさせない作品になってしまった。

 ハイアムズらしいきびきびした演出はここでも健在なのだが、なにしろ脚本が脚本だけに、観客をおいてけぼりにする展開になるのを食い止めることはできなかったようだ。

 ラストは、どうしていままでそうしなかったの、と悪魔に聞きたくなるような展開で(途中でシュワちゃん演じるジェリコに家族の幻影を見せる部分がその手始めだったのかもしれないが、ラストであんなことが可能なのなら、そんなまだるっこしいことなどする必要はなかっただろう)製作サイドとしては信仰の力強さを見せたかったのかも知れないが、結局のところご都合主義以外の何ものにも見えなかった。・・・


52)クローン/ゲイリー・フレダー;2001年アメリカ映画(11.4)

 フィリップ・K・ディックの短編「贋物」を映画化した作品。基本設定はほぼ同じで、それを2時間弱の映画として膨らませたものだが、一連のディック作品を映画化した作品とほとんど同じような傾向の映画になってしまった。まあ、テーマそのものが自己のアイデンティティに関わる、ディック作品ではお馴染みのものなので(ディックの作品群の中では本編はその嚆矢ということだが)似た印象の作品になってしまうのは仕方がないのかもしれない。小説の中ではほとんど描写されていなかったケンタウリ星人との戦争に関する描写が、冒頭でデジタルSFXを駆使して描かれており(てゆーかSFXはほとんどここくらいしか使われていない)低予算映画としてはなかなか頑張っている。しかし、手放しでは評価できない面もいろいろとある映画だったことは、残念ながら認めざるを得ない。

 まず第一に、どうして邦題を「クローン」などというテーマにも実体にもそぐわないものにしたのか、配給会社のセンスを疑ってしまう。送り込まれたサイボーグは、入れ替わるべき対象に忠実に作られた一種のロボットであって、クローンの定義にはまったく当てはまらない。おそらく、オリジナルとまったく同じ身体的特徴をもつというクローンのイメージが、対象と細部までそっくり同じである敵サイボーグと重なったために採用されたタイトルなのだろうが、はっきり言って担当者の科学的無知をひけらかすだけのものに終わっている。原題の“Impostor”とは、「詐欺師」「他人の名をかたる人」というそのものズバリの意味なのだが、そのままでは日本語タイトルとしては難しいとしても、だからといってクローンではね・・・。

 主人公のスペンサー(ゲイリー・シニーズ)は対ケンタウリ戦の秘密兵器を開発する技術者なのだが、ある日突然地球保安局により拉致され、みずからが体内にウラニウム爆弾を埋め込まれたサイボーグであり、本物のスペンサーを殺して彼になり代わっているのだと告げられる。そして、彼の胸の中からウラニウム爆弾を取りだす準備が始まる。しかし、身に覚えの無いスペンサーはすべてが誤認であると確信し、隙をみて逃亡してしまう。執拗な地球保安局の追及を逃れ、スペンサーは妻が院長を務める病院に保管してある自らの医療データと現在の自分とを比較して、自分自身がサイボーグではないことを証明しようとするのだが・・・。

 スペンサーを演じたゲイリー・シニーズは、ディック的世界の住人を演じるには適役であり、その妻マヤを演じたマデリーン・ストウ(12モンキーズ以来ひさびさに見た)も、例によって印象は薄いながらも^^;大病院の女院長という役を過不足なく演じていた。さすがに原作に登場するキャラクターだけでは2時間の間が持たないので、バリヤーに守られた都市の外に広がるゾーンと呼ばれる無法地帯に住む難民たちが登場し、スペンサーはその中の一人ケール(メキー・ファイファー)を相棒として活躍することになるのだが、これはちょっと無理矢理の感が強い。

 原作をほぼ踏襲したエンディングは、原作を知らなければちょっとは衝撃的かも知れないが、妻の存在という原作にはない要素を追加したために、かえって判りづらくなってしまった。原作に手を加え、もう一捻りしたつもりなのかもしれないが、これはかえって逆効果だったようだ。・・・


51)スターウォーズ・特別編/ジョージ・ルーカス;1977年アメリカ映画(10.30)

 このコーナーに登場した映画の中で、間違いなく一番たくさん観た作品であろう。まず、封切り直後に新宿プラザで観たし、その後帰省した郷里の映画館でも観た。まだ国内版ビデオが出回る前に、ダビングした輸入版ビデオを手に入れて観たし、CAVスペシャルエディションのレーザーディスクを購入して観た。そして、封切り後ほぼ20年経ち、あらたに多くのカットをデジタルでリファインした特別編もまた公開当時に新宿まで観に行った。映画館でちゃんとお金を払って観ただけでも最低三回、ビデオやLDも含めたらそれこそ10回は確実に越える。正直言ってそれほど素晴らしくよく出来た話とも思えないし、ものすごく好きなシーンがあるわけでもないのに、何だかとても気になる作品なのだ。

 ものすごく好きなわけではないが、ものすごいと思ったシーンはある。それは映画の冒頭、レイヤ姫の乗った宇宙船を追って、画面に覆いかぶさるように登場するスターデストロイヤーの巨大さの表現である。実際には2メートルもない模型なのだそうだが、あたかも数100メートルはありそうな巨艦に見える。この映像自体はたぶん、「2001年宇宙の旅」に登場したディスカバリー号の見せ方にヒントを得ているのだろうとは思うが、科学的現実を無視できるこちらの方がより大迫力だ(2001年の方は科学的な正確さを標榜しているために、真空の宇宙空間では音が伝わらないが、スターウォーズではエンジン音がごうごうと響いている^^;)冒頭でこのように印象的なシーンを持ってくることで、まさに掴みはOK、観客はもうすっかりスターウォーズ宇宙の住人になりきっている、という寸法だ(^_^)

 冗談は置いといて、やはりSF映画として、本編がまさにエポックメイキングな作品であることに誰も異存はないであろう。この作品で初めて「使い古されて手垢のついた宇宙」という概念は登場したのであり、スターウォーズ以前と以後で、SF映画の定義自体がすっかり変わってしまった(スターウォーズ以前はSF=サイエンス・フィクション、以後はほとんどSF=スペース・ファンタジーと言い切ってもいい)ほどである。それだけ重い意味を持った作品なのだ。

 閑話休題、スターウォーズ・サーガには有名、無名キャラクターがそれこそ山のように登場するのだが、その中でも僕のお気に入りはウェッジ・アンティリーズ中佐である。ウェッジは実はメイン・ストーリィにはまったく絡んでこないキャラなのだが、なぜか戦闘シーンには必ず登場し、エピソードIV以降の三作すべてでルークの頼れる戦友として一緒に戦っている。本編では愛機がTIEファイターに追尾され、被弾寸前の危機からルークを救っているし、「帝国の逆襲」ではスノーウォーカーの脚にワイヤを絡ませて転倒させたスノースピーダーを操縦していた。そして「ジェダイの復讐」(今回のDVDから正式に「ジェダイの帰還」と原題通りに変えられた)では新デススターの反応炉に最初の一撃を加えている、というように、まさに戦いの要所要所で大活躍する、エースパイロットなのである。「帝国の逆襲」でベンが「もうひとつの希望」といったのは、実は彼のことだという説もあったくらいに、地味ながらも気になるキャラクターだったのだ。

 さて、今回の特別編ではさまざまなデジタルSFXが追加され、70年代には表現できなかったクリーチャーなどが多数登場するのだが、それに加えて設定上不自然な部分をいろいろと修正してもいた。スターウォーズ・サーガは基本的に遠い昔の、別の宇宙の物語なので、言語は現在の地球とはまったく異なっているはずだった。しかし、最初のバージョンではそのあたりがもうひとつ徹底しておらず、ベンがトラクタービームのエネルギーをカットしに行く場面で、インジケーターが堂々と英語表記だったりしたものだ。さすがに今回の修正でその辺りは直されたが、じつはもうひとつ、かなり目立つところにアラビア数字が使われていた。それは終盤のデススター攻撃シーンで、スコープに映るCGの下に出ていた、ターゲットとなる排気口までの距離を示すと思われるデジタル表示である。なぜベンのシーンは手直ししたのにここは直さなかったのか、ちょっと不思議だ。あれほど大きく表示されていたのだから、まさか誰も気付かないということはなかったと思うのだが。・・・


50)みんなのいえ/三谷 幸喜;2001年劇場公開作品(10.30)

 僕自身の職業のせいか、ものを作る過程を描いた作品にはわけもなく惹かれてしまう。加えてこの作品では住宅の設計者と施工者という、いわば机上と現場との葛藤が主題になっているので、よけいに身につまされるのかもしれない。

 今風に呼べば空間プロデューサーというのか、お店などのインテリアデザインをトータルコーディネイトしている柳沢(唐沢寿明)が大学時代の友人、民子(八木亜希子)にたのまれて、本職でもないマイホームの設計をすることになるのだが、民子の父は昔気質の大工で、彼女のマイホームの建築を請け負ってしまったものだから、欧米の有名建築家に憧れを抱く柳沢といちいち対立してしまう、というのが物語の骨子、というよりほとんどこれ以外の話はない。ちょっとなさすぎて、やや話の膨らみが足りないような気がしてしまうくらい、物語はテーマにきっちりと沿って進んでいく。

 とかく理想家肌の柳沢と、たたき上げの職人気質の父、長一郎(田中邦衛)とのぶつかり合いが前半の見せ場なのだが、間に挟まれる形の民子の夫、直介(ココリコ田中)の情けなさぶりがなかなかいい。マイホームのような一世一代の買い物の場合、施工主はほとんど請負業者の言いなりになるのだが(なにしろ建築にはさまざまな法律も絡むうえに、とにかく経験がものをいう世界だ)その業者間で意見の食い違いが生じてしまったら、どんな態度をとったらいいのかちゃんとわかっている人はそうはいないだろう。そんな施工主の戸惑いを、田中の線の細さがよく体現していた。

 中盤から話のテーマは次第にずれ、柳沢と長一郎はお互いの共通点に気付き始めて対立の構図はやがて崩れてしまう。このことはつまり芸術家と職人との接点を三谷なりのやり方で説明しようとしているかのようだ。端的なエピソードが劇中劇ならぬ、「もの作り中もの作り」なのだが、ここにあまり言及してしまうとネタバレになるので、これ以上はやめておこう。

 これまで顔見せ程度の端役はあっても、本格的な映画出演はこれが初めてだったはずの八木亜希子は、自然体の演技でなかなかいい味を出しており、ちょっと頼りない直介の姉さん女房をリアルに演じていた。結婚してニューヨークに移り住み、ほとんどその姿を見られなくなってしまったのは返すがえすも残念だ(;o;)・・・


49)ローマの休日/ウィリアム・ワイラー;1953年アメリカ映画(10.29)

 この種の映画としてはほとんど教科書的な作品であり、のちのラブロマンス映画や日本の少女マンガに与えた影響は計り知れない。実は意外に大柄なオードリー・ヘップバーンも、さらに大男のグレゴリー・ペックのおかげでその長身が目立たないなどなど、あちこち細かい演出が冴えているのもワイラー演出ならではだ。しかし、そんな彼も時計台の針までには神経が行き届かなかったらしく、カットが変わると突然針の角度まで変わってしまっているという、今となっては有名なポカもあることはあるのだが^^;

 ストーリィはすでに語り尽されているので今さら書くこともない。ひとことで言えば古風な時代の古風な物語である。あの設定を現代に置き換えたら、狭いアパートで一晩を過ごした二人に何もなかったはずはなく、そもそもアン王女(オードリー・ヘップバーン)がジョー(グレゴリー・ペック)に無事巡りあえたかどうかも判らない。いや、そのことはたぶん映画が作られた50年前もそんなに変わるはずはなく、この映画はアメリカ映画でありながらイタリアを舞台にした、いわば異国のおとぎ話としてようやく説得力を得たのだろう。そしてそのためには、男物のパジャマを身にまとってすら王女としての気品を表現しえるだけの、希有な美しさを持ったオードリー・ヘップバーンという女優と、包容力という言葉を具現化したような体躯を持ち、誠実さを無言のうちに演ずることのできるグレゴリー・ペックという名優が不可欠だったのだ。

 いかにもワイラーの作品らしく、楷書体の骨太な演出の映画なのだが、テーマ的にもうひとつ乗れない話であったため(僕的にはワイラーといえばやはり「ベン・ハー」と「コレクター」の人なのだ)さほど高い評価にはならない。めいっぱい奮発してもせいぜい→くらいのものだ^^;・・・


48)フランダースの犬/ケビン・ブロディ;1999年アメリカ映画(10.27)

 僕はアニメ版を観ていないのでさほど気にはならなかったのだが、アニメ版の信奉者にはすこぶる評判の悪い映画のようだ。しかし、原作小説は薄っぺらい文庫本の半分程度を占める中編小説に過ぎず、アニメのように微に入り細に入る描写があるわけではない。原作者のウィーダは英仏混血のイギリス人で、ベルギーを舞台にしたこの小説は、彼女がベルギーのアントワープ地方を旅行したときの印象をもとに書かれたフィクションなのだ。道理で、アントワープ当地の人々にとってはなじみの薄い物語のはずである(アニメ版の影響で日本人の観光客が押し寄せたおかげで、現在では主要な観光資源になっているらしいが)

 アニメに登場するパトラッシュはセントバーナード風の巨犬として描かれるが、本来はブービエ・デ・フランダースという黒いムク犬で、映画のパトラッシュもそれに準じている。このあたりもアニメ版を好きな人には気に入らなかったらしいが。もっとも映画もかなり原作とは異なる部分も多く、それがさほど効果的とはいえない展開であることも手伝って、作品の評価を下げてしまっている。

 悲劇的なラストはあまりに有名なためか、日本公開バージョンでは一応原作に準じているが、アメリカ公開版はなんとハッピーエンドに終わっているらしい。原作があまりなじみのないものならともかく、ハリウッドでもすでに4回も映画化されている作品のラストを勝手に書き換える権利が誰にあるというのだろう。もっとも、悲劇的なラストも細かく観ていくとかなり奇妙な部分が多く、たとえばネロ少年がいまわの際に見る幻は、なんと彼が敬愛していた巨匠ルーベンスその人だったりするし、天に召されるネロを待っていたのは彼の母であり、ラストは二人の魂を模したまばゆい星のようなものが天に昇っていくという、アンハッピーだかハッピーなのかにわかには断じがたい終り方になっている(劇伴も長調の妙に明るい曲だったし^^;)

 出演している俳優は、ネロの師となる画家のグランデを演じたジョン・ボイドくらいしかなじみのある人はいなかったのだが、よく見るとネロのガールフレンド、アロアの母親役であのシェリル・ラッドが登場していた。なんと、「ミレニアム」以来14年ぶりのお目見えであった。さすがに寄る年波は隠せなかったが、それなりに品のある婦人像を演じていたように思う。・・・


47)アリスの恋/マーティン・スコセッシ;1974年アメリカ映画(10.22)

 ずっと以前に一度観たことがあるのだが、当時は監督が誰かまでは意識しないで観ていたので、まさかこの作品がスコセッシのものだとは夢にも思わず、当時流行りの女性映画の一本くらいにしか思わなかった。今観ても、監督名を伏せられたらまさかスコセッシ作品とは思わないだろう。この次の作品「タクシー・ドライバー」で彼は頭角を現すことになる。

 30過ぎのヒロイン、アリスはもとクラブ歌手だったのだが、結婚して家庭に入り、12歳になる一人息子と三人で暮らしていた。時に暴力的になる夫に手を焼きながらも、平穏な生活を営んでいたのだが、ある日その夫が交通事故であっけなく死んでしまい、突然自立せざるを得なくなってしまう。昔取った杵柄で、再びクラブ歌手を目指すのだが、もはやうば桜の彼女になかなかいい仕事は見つからず、やっとありついた職場でも、二重人格的な男(若き日のハーベイ・カイテル!!)にひっかかって命からがら逃げ出したり、ろくなことがない。やがてたどり着いた町、ツーソンでは歌手の仕事は見つからず、やむなく彼女はウエイトレスとして働きだす。やがてそこの常連客デビッド(クリス・クリストファソン)に見初められるのだが・・・、というのがおおまかな話。

 とにかく登場する男が揃いも揃って暴力的なのが気になった。事故死してしまう夫は家庭内暴力常習者だし、一見無邪気な剽軽もののベン(ハーベイ・カイテル)も一皮むけば家庭をまったく省みないサディストで、冷静で優しい男の役が多いクリス・クリストファソンまでが、今回は感情を爆発させるシーンが出てくる。こうした男たちにたいして女はいかなるスタンスで立ち向かわなければならないか、というお話にどうしても見えてしまう。

 アリスの息子トムの友だちとしてオードリーという少女が登場するのだが、それが子役時代のジョディ・フォスター(!!)トム役のアルフレッド・ルッターより大柄で声も太く、とても女の子には見えないのだが、これがけっこう問題児で、トムを万引きに誘ったりとやりたい放題。男で損ばかりしている母親とは対照的に描かれている。正直言ってあまりテーマに則したエピソードとは思えないのだが、さすがにジョディ・フォスター、無名時代から光る演技を見せていた。

 主役のアリスを演じたエレン・バースティンはこの役でオスカーを得たのだが、それほどの映画だったのかな、という感じも正直してしまう作品であった。・・・


46)24-TWENTY FOUR シーズンII/ジェイムズ・ホイットモアJr.他;2003年アメリカテレビ作品(10.10)

 前シリーズから半年後、早くも第二シーズンの24本が深夜枠でまとめて放映された。アメリカ本国では昨年(2003年)半年にわたって週一で放映されたシリーズだが、日本では全話をほぼ一週間ほどでまとめて放映するというスタイルを、今回もとった。最初のシーズンは24時間にすべての物語を凝縮するための無理があちこちに目立ってしまったが、今回はなにしろ二度目なので、面白くするためだけでいっぱいいっぱいだった前回よりだいぶこなれた話になっている。

 今回のネタはテロリストがアメリカ国内に持ち込んだ核爆弾で、時間が限られるという設定を前回より無理なく折り込んでいた。例によって今回も話の展開に無理矢理のところは数々あり、なかにはそのために事実関係を歪めてしまったりしている部分も見受けられたが(たとえば、爆発時の被害予想などを見る限り、核についてかなり詳しく研究したシナリオにもかかわらず、プルトニウムの危険性については呆れるほどデタラメなのだが、どうしてそんな設定にしなければならなかったのかは、回が進むとわかる仕掛けになっている)まあ所詮はフィクションなので、そういうところにあまりツッコミを入れるのは無粋というものだろう。

 前回は主人公ジャック・バウアー(キーファー・サザーランド)とその家族の受難とがうまく関連づけられたシナリオだったが、今回はさすがにそこまでは無理だったと見えて、ジャックの娘キム(エリシャ・カスバート)の24時間の冒険は、ジャックとはほぼ無関係に展開される。これはジャック本人が敵方の狙いであった前作とは違い、今回は本来のCTU捜査官としての任務だったので仕方がないのだろう。それにしても、結局キムのパートはこの物語に必要だったのか、という疑問は残る。どうせ描くのなら、ロスで核爆発がある、という噂の発火点としての役割を与えるとか、暴動を起こす側のキャラクターと関連させたほうが状況を多角的に見せるシナリオになったと思う。家庭内暴力の犠牲になった少女を救い出すというストーリィはあまりにも本筋との関連が薄く、結局のところ話を分裂させるだけの要因にしかならなかった。

 24回も続くシナリオでは当然なのかも知れないが、今回も第一の山場である核爆発のタイムリミットはちょうど中盤あたりに設定されており、その後はテロリストを後押しする国家への報復爆撃をするか否かという部分に焦点を絞った展開となる、一種の二部構成的な構造になっている。しかし、いくら緊急展開部隊があるとはいっても、攻撃からわずか10時間ちょっとで戦争を仕掛けるのはあまりにも無理があり(9.11のあとのアフガン攻撃は異例に素早かったのだが、それでも準備に一ヶ月はかかっている)現実離れしたシナリオになってしまったのは否めない。まあ、そこがすべてを24時間内に描かなければならないこの物語の宿命なのかも知れないが。・・・


45)ダイ・ハード3/ジョン・マクティアナン;1995年アメリカ映画(10.9)

 話の繋がりだと、どうも前作「ダイ・ハード2」はなかったことになっているみたいだ。確かに前作は監督も別人(レニー・ハーリン)だったし、物語も「ダイ・ハード」シリーズ用に書き下ろされたものではなく、原作は空港を舞台にした普通のミステリー小説だった。今回は監督が第一作のマクティアナンにもどったせいか、人物の相関関係など、いやに第一作との繋がりを強調した作りになっている。ただ、ハイテクビルという閉鎖空間を設定し、その中で限られた資源を有効に使いつつ頭脳作戦を展開した第一作に比べて、「平成教育委員会」風の知能テストをちりばめた今回も別の意味での頭脳作戦に違いはないが、アクションに直接絡むわけではなかった分、今回の方が切実感には欠けてしまっていた。今回のシナリオはもともと「リーサル・ウエポン」用に用意されたものだったそうで、言われてみれば確かに主人公のキャラクターはジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)よりはマーチン・リッグス(メル・ギブソン)的な感じがする。

 脚本は前作ほど穴が目立ったわけではないが、細かく見ていけば、そもそもなぜ扱いが難しく、ものすごく重いはずの液体バイナリー爆弾などを犯人が使ったりするのか、あまり説得力のある説明はなかった。もちろん小学校でのシークエンスに必要だったのは判るのだが、わざわざあの「絵」のために無理矢理でっち上げた設定という感じはどうしてもしてしまう。また、途中でマクレーンが相手を確認もせずに、トラックの運転席にいる敵をドア越しに射殺してしまう場面が出てくるが、いくらなんでもこれは暴走で、いかに危機的なシチュエーションであっても、問答無用で相手を射殺する権限までは警官にはない。相手を殺すからにはそれにふさわしい演出、たとえばルームミラーに銃を構えた敵が映るとか、がなければまずいと思うのだが。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 貨物船でのシークエンスのあと、マクレーンは頭痛薬の瓶の底に書かれた文字をヒントに敵のボス、サイモン・グルーバー(ジェレミー・アイアンズ)を追いつめるわけだが、この設定にはかなり無理があり、苦し紛れの感は免れない。小売店の情報はレシートには書かれてあっても、通常は瓶にまでは書かれないし、書かれていたのが生産地だったりしたらまったく意味がなくなってしまう。その頭痛薬をサイモンが手に入れた経緯もはっきりしない。部下に貰ったものかもしれないし、ニューヨークに出てきてから手に入れた可能性だってある。ここはやはり、もう少し説得力のあるヒントを用意するとか、なぜマクレーンがボスの居場所を確信するに至ったのか、その理由をはっきり述べさせるべきだっただろう。全体に今回のシナリオは、緻密に練られたというよりも、最近のボンド映画同様に、派手な見せ場の連続で観客をあきさせないことのみに腐心している印象が強かった。こういう手法はやはり、第一作でマクレーンのファンになった観客たちを満足させるものではないだろう。・・・


 

44)ヤア!ブロード・ストリート/ピーター・ウェッブ;1984年イギリス映画(10.9)

 お話は、完成した楽曲の入ったテープを持ったままスタッフの一人が失踪して、それなしだとプロダクションが人手に渡ってしまうので、主演のポール・マッカートニーほかの登場人物があわてふためく様子を、さまざまな楽曲の演奏風景を交えながら描く音楽映画で、当時流行っていたMTVのセンスでまるまる一本の映画を作ってしまったような作品である。使われた楽曲はビートルズ時代の代表曲からウイングス時代の曲までさまざまだが、リンダの生前の姿が収録されているところがミソかもしれない。映画として積極的に評価するにはあまりにもいい加減なシナリオで、どうしようもないベタな落ちもあって、ビートルズ時代の遺産の食いつぶしと言われても仕方ないだろう。

 リンゴ・スターとその細君のバーバラ・バックもゲスト出演してはいるのだが、単に出ているというだけのことで、ほとんどストーリイに絡むことはない。せっかくプロの女優が出ているのだから、もう少しそれらしいシナリオは作れなかったものか。どうせファンたちは演奏シーンしか観ていないだろうと思って、いい加減なシナリオのままゴーサインが出てしまったのではないかと思われるくらい、内容の寂しい映画だった。肝心の演奏シーンも特に代わり映えするものではなく、「レット・イット・ビー」のようにドキュメント風な描き方をしているわけでもない。実は、公開後しばらくしてレーザーディスクが発売され、けっこうディープなビートルズファンである僕は真剣に購入を検討したのだが、今回ばかりは自分の優柔不断な性格が幸いしたと思わずにはいられない。・・・


43)タイタニック/ジェームズ・キャメロン;1997年アメリカ映画(10.2)

 確かテレビで二度目の放映である。前回は吹き替えに若手俳優を使い悪評の嵐だったが、今回はどうやらすべて録音し直したようで、主演の二人も無名ながらちゃんとプロの声優が演じていた。そのおかげか、前回ほどの違和感は感じなかった。ところで、この映画ももちろん劇場で観賞しており、このページに載っていないのはいうまでもなく、当時はまだ劇場で見た映画について記していなかったからにほかならない。

 なにしろタイタニックのような歴史的大惨事を扱うわけだから、どうしても膨大な予算を使う大作映画にならざるを得ない。一般的にはグランドホテル形式と呼ばれる、何組もの有名俳優の組み合わせを配し、多方面から総合的に事件の全貌を描くドラマ作りが常道だが、キャメロンは敢えてそうした手法を取らず、架空のキャラクター二人を中心に据えた純然たるラブ・ストーリィとして仕上げてきた。辛口の映画マニアはこういうやり方を「受け狙いのミエミエの戦略」とこきおろすが、これまでのキャメロンの作品を見れば判る通り、もともと彼の資質にグランドホテル形式の脚本をまとめるような才はない。広くいろいろな部分に目配せするような話ではなく、ポイントを一点に絞り、そこに突っ込んでいくようなタイプの物語にこそ彼の資質が現れる。タイタニックのような題材を与えられても、キャメロンのこの本質が変わることはなかった。それに加えて、以前にも書いた通り基本的にキャメロンは「愛の作家」である。どのように激しいアクション大作であろうと、中心となるテーマは「愛」であり、このことは事実上のデビュー作「ターミネーター」から変わらない(名目上のデビュー作「殺人魚フライングキラー」はちょっと違うけど^^;)どんな場合でも主人公は一途な愛を貫くことにより、最終的にすべてのトラブルを乗り切ってしまう。その流れから見れば、「タイタニック」がこうした作品になることは最初から決まっていたといっていいだろう。

 それにしても長い映画である。ジャックとローズの出会いから、船が氷山に激突するまでの間で普通の映画なら終わってしまう。もちろんその間には二人の描写だけではなく、二人に関わるさまざまな人間や、それぞれが属する階級についての描写もちゃんとあるし、デジタルSFXを駆使したタイタニックの外観や、あまりに巨大な機関室の描写など、いかにもメカ好みのキャメロンらしい場面もきっちり描かれている。しかしそれらはあくまでも主役二人の悲恋を盛り上げるための脇役に過ぎず、ストーリィ上のポイントは二人の関係(デッキで偶然見初めてから命がけの恋人同士になるまで)を丁寧に描くことに徹している。肝心の二人の人物描写があまりに一面的だという批判もあるようだが、キャラクターに単一の機能しか与えないというのもまたキャメロン脚本の特質であり、おかげで人物描写に深みは欠けるものの、単純明快な判りやすいキャラに徹した分だけ観客はストーリィ展開に集中できるということになる。

 船が氷山にぶつかってからは一転してパニック映画の体裁を取ることになる。このあたりの演出はさすがに当代随一の演出力を持つ監督だけに、メリハリのある細かい描写をあちこちに配して観客をあきさせない。とにかくもの凄い物量作戦で、これでもかとばかりに超豪華なタイタニックの調度品を破壊しまくる。この手の映画だと、似たような構図の破壊シーンが繰り返し使われるのが常だが、キャメロンはそうした印象を観客が抱くことを極力避けたかったのか、同じ場面でもいちいちカメラアングルを変え、刻々と変わっていく船内の状況を肌で感じさせることに成功していた。最後の沈没シーンは、残念ながら部分的にミニチュアらしさが残ってしまったが(浮き上がった船尾から滴り落ちる水滴や、それが水上に落下したときの水しぶきなど)そうした瑕疵はごく一部分に過ぎず、甲板からこぼれ落ちる乗客たちの描写など、デジタルで描き込まれた細かなSFXがミニチュアにリアリティを与えることに成功していた。

 この映画の「泣き所」についてはいろいろいわれているが、基本的に僕は映画を見て泣くことはないので、もちろん今回も泣いたりはしなかった。女の子たちが泣くというジャックとローズの悲恋についてはもちろんだし、男の子にはぐっと来るらしい、デッキ上で演奏を終えられない楽士たちや、乗客を射殺した後自らも頭を撃ち抜いてしまう甲板員にも、特に泣くようなことはなかった。それはまあ、単に僕が冷たい人間であるというだけのことかも知れないが^^;

 実はその時、僕はあることに気を取られてそれどころではなかったのだ。それは何かといえば、4月とはいえ氷山が浮かび海中の温度が零度そこそこな筈の寒さの中で、甲板の上でごった返す人たちの息が誰一人として白くないことである。船内は暖房が効いていただろうから問題ないだろうが、夜の屋外はかなり寒く、普通なら白い息が目立つはずだ。しかし、船が完全に沈みきるまで叫ぶジャックの口元から白い息が見えることはなかった。画面の中で白い息が確認できるのは、物語の終盤近く、水中のジャックに向けてローズが何度も呼びかけるシーンくらいのものである。これもよく見るとちょっと不自然に見えるので、たぶんあとから合成したものなのだろう。まあ、実際に零度近くの海で演技するわけには行かないので、仕方のないことなのだろうが、完全主義といわれるキャメロンにしては、残念な妥協と言えなくもない。・・・


42)ウイング・コマンダー/クリス・ロバーツ;1999年アメリカ映画(9.18)

 それらしいタイトルに騙されて^^;観てしまったが、これは航空映画ではなく、今から約600年後、27世紀の宇宙空間を舞台にしたSF作品である。僕はやったことがないが、同名のパソコン用シューティング・ゲームの映画化作品なのだそうだ。その時代、人類はキルラティと呼ばれるヒューマノイドと宇宙の覇権をめぐって戦っており、地球へのワープ・ポイントを計算するナブコム-AIを彼らに奪われて、絶体絶命のピンチに陥る。たまたま近くを航行していた貨物船に乗っていた主人公ブレアは、コース設定を瞬時にプログラムしてしまう特殊能力を持っており、それを買われて宇宙連邦軍にスカウトされ、宇宙空母タイガークローの戦闘機パイロットとして戦うことになる、という話。

 主人公の乗る宇宙戦闘機レイピアは、「宇宙空母ギャラクティカ」に登場するコロニアル・バイパーをさらに寸詰まりにしたような機体で、コクピット回りのパーツには、なんとイギリス空軍のライトニング戦闘機の部品が使われているという。が、はっきり言ってあまりいいデザインとはいえず、たとえプラモデルになっても売り上げは期待できないだろう。それに対抗する敵側の戦闘機や空母などのデザインにしても、地球側のものとコンセプトにあまり差を感じられず、どれが敵でどれが味方かよく判らない。わりと最近の映画(1999年製作)であるにもかかわらず、どうももうひとつ新しさの感じられない作品であった。

 主演のブレア役にはフレディ・プリンゼJr.、親友のマニアックにマシュー・リラードといういずれも若手を配するが、脇を固める将官クラスには「ニキータ」の教官役で知られるチェッキー・カリョ、「タイム・アフター・タイム」のデビッド・ワーナー、そして「Uボート」「デューン 砂の惑星」のユルゲン・プロホノフとなかなか渋いところを揃えている。しかし、せっかくの名優も名演技を披露する場面はほとんどなく、演出のまずさにはつくづく閉口させられる映画であった。監督のクリス・ロバーツはもともと「ウイング・コマンダー」のゲームデザイナーで、これは第一回監督作品なのだが、ほとんど同じような経緯をたどって製作された「ファイナル・ファンタジー」と同様の結果に終わってしまったようだ。・・・


41)ゴジラ〜GODZILLA〜/ローランド・エメリッヒ;1998年アメリカ映画(9.17)

 実は公開当時に劇場で観ているのだが、例によって当時はまだ劇場観賞作品をここに書くことはなかったため、今回が初めての「ひとこと」になる。

 ハリウッドで「ゴジラ」をリメイクしたらどのような映画になるのか、という素朴な疑問は、まだ昭和ゴジラがスクリーンで活躍していたころから僕の中にあった。この作品は、そうした僕の思いをついに現実化してくれたものとして、特別な一本といえる。初めにそうした気持ちを抱いてから実に20年以上の時を経ての映画化だが、その間にデジタルSFX技術は長足の進歩を遂げ、日本の「特撮」とはまったく別種の映像空間を作り出すことが可能になった。これは、日本の平成ゴジラが50年にも及ぶ映像技術の進化にほとんど背を向け、昭和20年代に始まった撮影テクニックを後生大事に守り続けているのと対照的である。もちろん平成ゴジラとて、画面合成や細かい映像処理にデジタルテクニックを導入してはいるが、それはあくまでも部分的なものであり、基本的には第一作「ゴジラ」の頃と何一つ変わっていない。

 さて、日本のゴジラは太平洋の片隅に生き残っていた中生代の(それにしては年代表記がおかしいが)恐竜が、原水爆実験の影響で巨大化した、という設定だが、今回のハリウッド版ゴジラは、フランスがムルロワ環礁で行った核実験の影響で、なんとイグアナが巨大化した、という設定になっている。自国の核実験ではなく、フランスの、というあたりに責任転嫁の意図も感じられないではないが、アメリカはこの数十年地下核実験しかやっておらず、それもずいぶん前から臨界前に限定されているので、実際オリジナル・ゴジラの設定を踏襲しようと思ったらフランスに悪玉になってもらうしかないわけだ^^;ま、おかげでジャン・レノが活躍する舞台設定も作れたわけだし、これはこれで狙ってやったことだったのだろう。

 肝心なゴジラのデザインは、はっきり言って日本のゴジラとは似ても似つかないトカゲの怪物で、これをもって「ゴジラ」と呼ぶのはかなり苦しい。しかし、生物学的に考えれば、日本の着ぐるみゴジラの方こそがあり得ないデザインであり、いささか巨大すぎる感はあるにせよ、ハリウッド版ゴジラの方が「生物感」はあるといっていい。基本的なストーリィ展開はほぼ第一作目「ゴジラ」を今風にアレンジしたものであるが、ゴジラという生物にリアリティを持たせようとした分だけ、生物としての弱点も持たされてしまい、結果としてオリジナルよりずいぶんと弱い怪獣になってしまった。

 もうひとつ、日本のゴジラと大幅に違う点は、単性生殖する生物である、と設定したところだろう。実際には爬虫類クラスの脊椎動物には単性生殖するものはなく(魚類や両生類で、同じ性別の個体ばかり集めると、一部が後天的に性転換して有性生殖する種はある)われわれに身近なものとしては、アリマキなどの昆虫に見られる程度だが、なにしろ放射能の影響であんな大きさにまで変化したくらいだから、他に何が起きたって不思議ではない。もちろん、中盤のマジソンスクエア・ガーデンの場面を作るための設定には違いないのだが。ちなみに、マジソンスクエア・ガーデンの子ゴジラのシークエンスは他から比べると合成が粗雑で、ストーリィ的な無理もあって、結果的にこの映画の質を下げる要因になってしまっている。プロデューサーサイドとしては、「ジュラシック・パーク」のベロキラプトルに相当する敵が必要だと思って付け加えたのだろうが。

 エメリッヒお得意の超密集戦闘シーン(この映画では、ウンカのように押し寄せるAH-64アパッチ・ヘリ軍団)は本編でも健在であり、実現性を抜きにすればけっこう面白い。もっとも、あれだけの数のアパッチが対戦車ミサイル「ヘルファイア」を発射すれば、さしものゴジラとてひとたまりもないだろう(全弾命中すればの話だが^^;)もちろんその代償として、ニューヨークの街はメチャクチャに破壊されてしまうことになるが。

 日本のゴジラが一番苦手とした点は、人物との直接対比である。あまりうまくない合成でその種のシーンを演出したことは過去に何度かあったものの、おしなべて成功したとはいえず、結果として模型の町並みは模型にしか見えないまま終わってしまった。ハリウッド版ゴジラはその辺について、かなり挑戦的な試みを何度も行っており、少なくとも日本版よりは「同じ空間にいる巨大な生物」という実感を持たせることに、ある程度成功しているように思う。このあたりエメリッヒはたぶん強烈な意志で「日本とは違うもの」を作ろうと努力したのだろう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 マジソンスクエア・ガーデンで自分の子供たちを虐殺されたゴジラは猛烈に怒り、近くにいた主人公たちを徹底的に追いかけ回すのだが、ここからエンディングまでの流れは、これまでのまだるっこしい展開を吹き飛ばすほどのスピーディーさで、怒ったゴジラの怖さ、もの凄さがよく伝わってくる。マジソンスクエア・ガーデンのシークエンスなどすっ飛ばして、全編をこの迫力で押し通せば、遥かに高い評価を得られる作品になっただろう。

 しかし、あのエンディンクだけはやはりいただけない。最終的にたった数発の空対地ミサイルによって退治されてしまうゴジラなど、日本のゴジラファンに言わせれば「あんなのゴジラじゃない」ということになろう。そこだけは僕もまったく同感で、あのままエンドクレジットに突入してしまったのを見て、劇場では「????」の連発であった。エイリアン・シリーズみたいな引きのエンディングも悪くはないが、やはりゴジラは不死身でなくてはいけない。そして、それを倒すには、オキシゲン・デストロイヤー並みの超兵器でなければならないのだ。このことがわかっていないエメリッヒは、やはりもうひとつゴジラへの理解が足りないというしかない。・・・


 

40)あの頃ペニー・レインと/キャメロン・クロウ;2000年アメリカ映画(9.15)

 以前から観たいと思っていた作品だったが、なかなかチャンスがなく、結局テレビ観賞になってしまった。

 そして今回、ようやく観た感想は・・・・これはひょっとしたら、10年に一本の傑作かもしれない。取り立ててどこがいいというのは難しいのだが、とにかく愛すべき映画、というのが第一印象だった。若いときに観ていたら、おそらくはマイ・フェバレット・ムービーになっていただろう。監督のキャメロン・クロウは10代の頃、実際にローリング・ストーン誌のライターをしていたそうで、この映画は自伝的要素の強い作品なのだそうだ。

 60年代末、スチュワーデスになるために家を出た姉にLPコレクションを譲り受けた11歳の少年ウィリアムは、それを機にロック・ミュージックに目覚め、15歳になった70年代の初め、地元のロック評論雑誌クリームの編集長に見出されでライターへの道を歩き始める。そして初仕事の日、ブレイク寸前(Almost Famous=この映画の原題)の新進バンド、スティルウォーターのメンバーと知りあいになり、彼らの記事を書くために行動を共にするようになるのだが・・・。

 まず、姉から譲られたロック・コレクションの数々が60年代末の綺羅星のような名盤ばかりで、実は僕もほとんど持っている(^_^)こうした同時代感覚は、理屈抜きで映画の世界と自分の過ごしてきた時代とを結びつける力を持っているのだと、今回は思い知らされた。国が違い、言葉も違い、習慣から人種からすべて違っていても、まったく同じものを心から愛する人との絆は確かに存在するのだ。この映画は、そうした絆を信じる人たちのために作られた作品である。

 スティルウォーターと出会う直前、別のバンドの記事を書くために通用門の前に立っていたウィリアムは、スティルウォーターのグルーピー(本人はグルーピーではなく「バンドエイド」だと言い張るのだが、その違いはよく判らない^^;)のひとり、ペニー・レインと呼ばれる少女と出会う。演じる ケイト・ハドソンは、ちょっと個性的な顔立ちながら、他の女の子とは一味違う独特の雰囲気を持ったペニー・レイン役を、他の女優では考えられないくらいなりきって演じていた。聞けばゴールディ・ホーンの娘さんだそうで、そういえばどことなく面影が似ているような気もする。主人公のウィリアムを演じるのはテレビ出身のパトリック・フュジット(1982年生まれなので、撮影当時、実は17歳!!)で、今までと全然違った環境に置かれながらも、自分はこう見えてもプロの物書きなのだ、という意識を常に抱いているナマイキなガキ像をうまく創り出していた。何度も出てくる印象的な目のアップなどに、そうした意識がかいま見えるという演出だったように思う。他にも、スティルウォーターのメンバーを演じていた俳優たち(彼らもいかにも70年代のロック野郎という感じを実にうまく出していた)や、折に触れウィリアムに助言を与えるクリーム誌の編集長レスター・バンクス(フィリップ・シーモア・ホフマン)、ウィリアムの母である大学講師エレイン(フランシス・マクドーマンド=「ファーゴ」の署長役で好演)などなど、それぞれよく考え抜かれた、実に絶妙なキャスティングだった。

 クリーム誌に書いた記事が有名雑誌、ローリングストーン誌の編集部の目にとまり、ウィリアムはスティルウォーターの記事を書くために、ペニーたちとともにバンドのツアーに同行することになる。とはいっても所詮は15歳の少年なので、母は心配で仕方がない。ことあるごとにツアー先に電話をかけ、ウィリアムの生の声を聞こうとする。いっぽうバンド内の人間関係も、中から見るとけっこう複雑で、人気のあるメンバーに対する他のメンバーからの嫉妬や、素人マネージャーのおかげでトラブル処理に失敗して、賠償金を取るどころか逆に負債を抱えてしまったりするあたりなど、かつて内部にいた人間ならではの描写もある。それ以外にも、行く先々のホテルでばったり出くわすツェッペリン・フリークの少年とか、ペニー・レインと行動を共にするグルーピー仲間(なんとアンナ・パキンもいた!)など、端役キャラクターへの細かい目配りのうまさは、同種の作品の中でも群を抜いていた。

 メンバー間のいさかいはやがて頂点に達し、リードギターのラッセルはバンドからの脱退を真剣に考え始めてしまう。そんな時、公演先の町で地元のファンたちのパーティーに誘われたラッセルは、翌朝クスリをやってフラフラになっているところをバンドのメンバーたちに連れ戻される。その日の午後、町から離れるツアーバスは沈みきった雰囲気に包まれていたのだが、スピーカーから流れるエルトン・ジョンの声に次第に和まされ、一人、また一人と自然に合唱が始まる。やがてはラッセルまでが合唱に加わり、沈んだ空気は一気に華やいだものへと変わってしまう。このシーンは音楽の力をなにより雄弁に物語る名シーンで、同じ音楽シーンでも、ミュージカル映画の人工的な雰囲気とは全然違うパワーを感じさせてくれた。

 その後もえんえんとツアーは続き、途中で交代した敏腕マネージャーのおかげでツアーバスから小型飛行機に乗り換え、雷雲に突っ込んで危うく遭難しかけたりする(ここでの「死ぬ前にひとこと告白合戦」は傑作!!)のだが、その先は映画を観てのお楽しみにとっておこう。とにかく、ペニー・レインのかわいい策略にちょっと驚かされるラストまで、いい感じで引っ張っていってくれる映画である。観終わったあと、これだけ心地よい余韻を残してくれる映画も、最近では少なかったように思う。

 架空のバンド、スティルウォーターのモデルはかのオールマン・ブラザース・バンドだそうで、そのわりに肝心の演奏シーンがイマイチだったのが心残りだが(この映画ほとんど唯一の、そして最大の欠点はスティルウォーターの演奏する曲にまったく魅力がないことだった。それゆえのポイント減点である^^;ここだけはプロデューサーにもう少し商売っ気を出して欲しかった)それでもやはり愛すべき映画に違いはない。・・・


39)ディープ・ブルー/アラステア・フォザーギル &アンディ・バイヤット;2003年イギリス・ドイツ合作映画(9.8)

 数年前公開された、遺伝子操作されたサメが大暴れするパニック映画(はこちら^^;)ではない。同じタイトルなので混乱するが、こちらはBBC製作のれっきとした海洋記録映画である。

 ほとんど同じような性格の映画に、リュック・ベッソンの「アトランティス」があり、本編の製作者も相当意識したのではなかろうか。しかし、両者をよく観るとその視点には民族性の違いなのか、明らかな差が見て取れる。アトランティスの視点は、どちらかといえば旅行者の視点であり、旅人の目で現地の風俗や風景を眺めて回る、物見遊山的な感覚がある。それに対して本編は、あくまで生存競争の場としての海に視点を定めている。一番端的に表れているのは、ガラパゴスの海のアシカ(アトランティス)と、南アメリカのオタリア(本編)の描き方の差だろう。あくまで海の剽軽者として描かれるガラパゴスのアシカに対して、オタリアの子供は海に出るなり巨大なシャチに食われ、その死体はおもちゃのようにもてあそばれる。ホモ・ルーデンスの国フランス(独断です^^;)と、マルクスが資本論を書く題材にした国イギリスの差、といったところだろうか。

 BBC製作であるだけに、さすがに目を見張るような凄い映像の連続だが、そのうちのかなりの部分(前述のシャチに襲われるオタリアの子供とか)が、すでにNHKなどで放映された番組に使用されており、まったくの初見というのは少なかった。また、イワシの魚群がサメやイルカに襲われ、最後に巨大なイワシクジラがガバーッとひと飲みにしてしまうシーンが都合3回も登場するなど(もちろん同じフィルムの使い回しというわけではなく、シチュエーションもそれぞれ違うのだが)構成もやや緩慢でタイトな感じに乏しかった。演出のメリハリという一点に絞れば、映画としての出来は、アトランティスの方がやや優れていたようにも思う。それから、マリアナ海溝を俯瞰するシーンは明らかにそこだけCGで(実際の4.000メートルの深海底は真っ暗だし、どんなに強力なライトを点けたとしても、海中には微生物の死骸などの有機物が浮遊し、また海水にはさまざまな物質が溶けているので、見通しがあんなにいいはずはない)ヘンテコな効果音の多用とともにちょっと気になってしまった。

 それでもたとえば海面から躍り上がったイルカの群れが、誰に教えられたわけでもないのに空中三回転ロールをこなすシーンや、「アビス」に出てきた宇宙船のように、カラフルに幻想的に光る深海クラゲ、獲物を追って水中をまるで空中のように飛び回るミズナギドリ、やはり水中を魚雷のような超高速で突進し(キャビテーションまで発生させている!!)次々に氷の上に跳び上がるコウテイペンギンなど、観るに値するシーンは山盛りである。ハイビジョンDVD化されたら絶対「買い」の一本だろう。・・・


38)タイム・アフター・タイム/ニコラス・メイヤー;1979年アメリカ映画(9.6)

 元祖SF作家にして文明評論家でもあるH.G.ウェルズを主人公にした時間テーマSF映画。自らの小説に登場したタイムマシンを、じつはウェルズ自身が発明していた、という設定で、同時代の代表的凶悪犯であるジャック・ザ・リッパーも絡んで物語は展開する。突然1979年のサンフランシスコに現れたウェルズ(マルコム・マクダウェル)のうろたえぶりがまずおかしい。彼のいた19世紀にはまだ存在していなかったさまざまなガジェット(自動車、電話、コンピューター)に、いちいち驚くのだが、当時としてはピカ一の文化人であったウェルズ、さすがに物語終盤では、見様見まねながら自動車の運転までマスターしてしまうのだ(^_^)

 銀行の換金係で、後にウェルズの恋人になる女性にメアリー・スティーンバーゲンを配し、ジャック・ザ・リッパー役のデビッド・ワーナーとともに100点満点のキャスティングといっていいだろう。特にスティーンバーゲンは、この映画で日本初お目見えしたのだが、ちょっと個性的なのほほんとした顔立ちで印象に残った。ちなみに、この出演がもとで彼女は主演のマクダウェルと本当に結婚してしまう。

 全体にSFとしてはさほど凝った話ではないが(いろいろツッコミどころもあるし)それでもマルコム・マクドウェルには珍しい善人役(ほかに思い当たるのは「スカイ・エース」くらいのものだ)もあいまって、なかなかいい感じの小品に仕上がっていると思う。・・・


37)リターナー/山崎 貴;2002年劇場公開作品(8.28)

 これまで何度かレンタル屋で借りようとしたのだが、どういうわけかその都度貸し出し中で、結局テレビ放映まで観るチャンスがなかった。

 今回の放映は通常の2時間枠だったので、本来116分あった上映時間の20分ほどがカットされている計算になるが、もともと無駄な描写が多かったのか、それとも編集のうまさか、さほど舌足らずな感じにはなっていなかった。

 お話はすでにあちこちで語り尽くされているとおり、ほとんどオリジナリティのかけらもない。基本的なストーリィ設定からちょっとした小ネタに至るまで、とにかくパクりのオンパレード(設定全体はいうまでもなく「ターミネーター」だし、そのほかにも「マトリックス」「E.T.」「インディペンデンス・デイ」「ニューヨーク1997」などなど大小さまざまなパクりがちりばめられている。なかには「クイック・アンド・デッド」なんていう畑違いのネタも^^;)コンピューターグラフィックの成熟ぶりを見せたいがために、無理矢理でっちあげたシナリオといわれても仕方ないだろう。もともとパロディ映画として作ったならそれも許されるだろうが、どう見ても製作者はシリアスな映画としての評価を狙って作っているようで、それならもう少し違ったアプローチの仕方があったろうと思う。

 売りのCG(この映画ではVFXと呼んでいる)はさすがに国際水準に近づきつつあるが、使い方のセンスがどうもどこかで見たようなものばかりで、もうひとつ新鮮味に欠けた。中盤登場する宇宙人はあまりにもE.T.そのままで、よくユニバーサルから著作権侵害で訴えられなかったものだ。考えてみれば、敵の宇宙人が実はどういう姿をしているのかよく知らずにタイムワープしてきたミリ(鈴木 杏)にも呆れたものだが、その姿を見るなり敵意を失い、逆に庇護する立場になるというメチャクチャな脚本なので、姿形は無理にでも「よく知られている敵でない宇宙人」にしなければならなかったのだろう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 タイムパラドックスについては、「ターミネーター3」でもちょっと触れた通り、この手のタイムワープものでは避けて通れない道なのだが、ミリが未来から来たことを宮本(金城 武)に悟らせるシーンで何度か語られるものの、よく考えてみるとちょっとおかしい。2002年の現在から始まった宇宙人の侵略により、87年後の未来では人類はチベットの山奥まで追いつめられてしまっている。ミリの年齢は15歳なので、人類がかなり追いつめられてから生まれた子供と考えられる。つまり、人類が追いつめられる未来でなくては彼女はそもそも生まれてこなかったはずなのだ。したがって、過去を改変し、宇宙人の侵略が未然に防がれた時点で彼女のいた未来もまた消滅し、彼女は未来に帰ったのではなく、帰るべき未来とともに消滅した、と考えたほうが自然であろう。

 しかしミリは一度姿を消した後、ふたたびまだ出会ったばかりの宮本とミリのもとを訪れ、後に宮本の命を助けることになるある仕掛けを残していく(このあたりはあまりに唐突になると思ったのか、ついでに宮本の射殺死体の写真まで残して観客にアピールするのだが、それ以外の意味がまったくないという、逆に意味不明の設定になってしまった)あのミリはいったい何だったのか、最後に“Mission Complete”という台詞を残して行くあたりもちょっと意味深だ。

 冷酷な悪役、溝口役の岸谷五朗はなかなか頑張っていたのだが、やはり本来の善良さがチラホラ顔を出してしまい、何をやらかすか判らない危ないやつ、という設定をもうひとつこなしきれていなかった。考えてみると、日本にはこうしたタイプの悪役をきっちり演じられる俳優はきわめて少ないように思われる。・・・


36)マイ・ドッグ・スキップ/ジェイ・ラッセル;2000年アメリカ映画(8.25)

 語り手が、誕生日プレゼントとしてもらった愛犬スキップと過ごした少年時代(第二次世界大戦の頃)を回想する形で描かれる愛犬物語。主演のウィリー役フランキー・ムニッツがかなり個性的な顔立ち(Mr.ビーンのローワン・ワトキンソンそっくり^^;)で、物語の舞台となる1940年代の雰囲気によく合っていた。父ジャック(ケビン・ベーコン)はスペイン内乱に義勇兵として参加し、片足を失っているという設定で、冒頭でウィリーに子犬をプレゼントしようとする母(ダイアン・レイン)に強硬に反対する理由にそのキャラクターがよく出ていた。また、野球の名手として子供たちのアイドルであり、華々しく出征しながら不名誉除隊して帰ってきたディンクの、戦役を拒否した理由にもやはり時代性(映画の舞台の40年代ではなく、映画が作られた西暦2000年の)が出ていたと思う。

 物語の淡々としたエピソードの羅列は、犬好きにはアピールするだろうが、はっきり言ってさほど面白いものではない。語り手(ハリー・コニックJr.)はこの犬によって彼の人生が決定的に変わった、と言っているが、どうもそれほどまでに大きな影響を与えたとは思えない作りになっているのだ。スキップなしでもやはりワルガキたちはウィリーに試練を与え、もしそれに彼が打ち勝てば、仲間として認めただろうし、町一番の美少女(とウィリーが勝手に思っている)と仲良くなれたのも、特にスキップがとりもったというわけではない。飼い主はどうしてもペットを過大評価しがちなものだが、この映画の原作者にもやはりその傾向は見られるようだ。ラストの盛り上がりももうひとつで、実話ならではの迫力というか、らしさに欠けていたような気がする。

 たぶん戦後になっているのだろうが、イギリスの大学に留学するためにウィリーが町を去るところで物語は終わる(余談だが、ここに登場するバスがウィリー9歳の頃のそれとまったく同じであるのはちょっと解せない。同型の車であっても10年近くたてば、塗装が変わっていたり、ぐっと古ぼけていたりするものだと思うのだが)成長したウィリーはもちろん別の俳優が演じているのだが、目の辺りの雰囲気など、驚くほど子供時代のウィリーそっくりであった。もしかしたら親族なのかと思って調べてみたのだが、姓も違うので(マイケル・バークシャーという俳優が演じている)オーディションで似た俳優を選んだのかも知れない。・・・


35)クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのひずめ大作戦/原 恵一;1998年劇場公開作品(8.14)

 シリーズ第六作に当たる劇場公開作品で、この辺から後の傑作群につながる要素がかなりはっきりしてくる。仕掛けが大掛かりになり、家族愛というテーマ性も色濃くなってきたあたり、監督/絵コンテを担当している原 恵一のカラーが前面に出てきているといってもいいだろう。もっともクレジットによると、演出はテレビシリーズも手がけている水島 努がおこなっており、アニメ界における監督と演出の区分けはどうもよくわからない。

 例によって荒唐無稽なお話ではあるが、敵方や味方のキャラクター設定などはよく考えられており、特に、物語終盤になって登場するブリブリざえもんの使い方はなかなかうまかった。しかし、ブリブリざえもんがコンピューターウイルスとして登場するとは、原作者の臼井義人も考えつかなかっただろう。

 正直言って後の作品群ほど強烈なカラーが出ておらず、また、テレビシリーズのような日常性のなかのギャグも不発だったので、どうしても中途半端な印象が残ってしまうが、これも傑作への産みの苦しみなのだろうか。・・・


34)スズメバチ/フローレン・エミリオ・シリ;2002年フランス映画(8.5)

 ずいぶんと変な邦題だが、これは原題の“Nid de guepes”のうしろ半分を直訳したもので、タイトル本来の意味は「蜂の巣」つまり、多量の弾丸により穴だらけになってしまうことである。いうまでもなくそれは、マフィア軍団の総攻撃によりボロボロになってしまった、主人公たちが籠城していた工場そのものを指している。どうして後ろ半分だけ訳して、意味不明の邦題を作ってしまったのか、配給会社の人間に問いただしてみたいものだ(ちなみに英語タイトルは逆に前半分だけ訳した“The Nest”で、これまた意味不明^^;)

 泥棒たちがパリ郊外のパソコン工場を襲い、守衛たちを縛り上げてお宝をゲットしたちょうどその時に、マフィアの襲撃を受けて護衛をすべて失った囚人護送車が工場に逃げ込んできて、泥棒たちもろともマフィアたちに包囲されてしまうことから物語が始まるわけだが、ここに至るまでの間の描写がやや緩慢としていて、もうひとつタイトさにかけていた。導入部からなかなか凝った構成だった(泥棒たちが口笛で「大いなる西部」を合唱?するあたりなど、MTV出身の監督らしいセンスだ)が、スタイルには凝るわりに、この監督、自分が今一番何をしなくてはならないか、という優先順位を今一つ判っていないように感じた。

 話に登場するのは基本的に三つのグループ、つまり、冒頭に出てくる泥棒たち、マフィアのボスを護送する警察特殊部隊のメンバー、それに、襲われることになる工場の守衛たちである。残念ながら登場する俳優たちにまったくなじみがなく、また、それほど個性的でもないために、キャラクターを把握できないまま物語が進んでしまった。唯一キャラクター描写らしきものがあったのは、二人の守衛のうち年かさの、元消防士の方であったが、彼にしても、バイオリンをたしなむという個性は発揮するものの、なぜ消防士をやめて守衛になったのかといった、肝心の部分は語られないまま終わってしまった。もちろん襲う側のマフィアも登場することはするが、彼らは徹頭徹尾、凶悪なエイリアンのごとく人間性を排除した姿で描かれる。全員暗視ゴーグルをかけ、素顔すら見せないのだ。どんな人間が指揮をとっているのかも判らないし、そもそも作戦を練っている場面すら出てこない。描写はまったくエイリアンそのものだった。

 映画の後半は籠城した特殊部隊、泥棒たち、そして守衛が力を合わせて、襲い来るマフィア軍団と戦うという、その一点だけに焦点を合わせた演出で、ときどき点描のごとく工場外の警察や、泥棒の仲間の動きも描かれるが、それらは本当に最小限度、ほとんどの上映時間はマフィアとの攻防戦に絞られている。この種の設定はたとえば「要塞警察」や、「アパッチ砦ブロンクス」もっと古くは「アパッチ砦」や「アラモ」「リオ・ブラボー」など、西部劇やそれをルーツとした作品によく見られるものだが、本編もそれらを参考にしたであろうことは想像に難くない。基本的に観客に頭を使わせず、ただ画面を眺めているだけですべてが終わってしまう映画を目指したのだろうが、逆に説明不足な部分が多くて頭をひねらざるを得なかったという、もうひとつ不完全燃焼な印象の残る作品になってしまった。不完全燃焼といえば、ハリウッド作品ならラストでもうひと盛り上がりあるだろう、というところでしり切れトンボ的に話が終わってしまうのも、かなり不満な点のひとつだ。ベッソンの旧作にもそうした終り方の作品が多いが、これってフランス映画の美学なのだろうか。・・・


33)マジック・ダイナソー/リック・スティーブンソン;1995年アメリカ映画(8.5)

 1995年というから、だいたい10年くらい前に作られた、やはりジュブナイルもののSF作品。SFといっても宇宙とかタイムマシンとかが登場するタイプではなく、今風に言えばUMA(未確認動物)ネタの作品である。ラジオの精神分析コーナーを担当するジャックは、バカンスのために娘(アシュレイ)と息子(ジョシュア)を連れてブリティッシュ・コロンビア州のある湖に出かける。そこには、「オーキー」と呼ばれるネッシーのような怪獣がいると信じられていたのだが・・・。

 この手の話ではお定まりのごとく、父ジャックはやはりワーカホリックで、せっかく子供たちと出かけたのに、ほとんどいつも携帯電話とばかり話していて、親子の会話などほとんどない。一方、娘のアシュレイはふとしたことから怪獣オーキーが実在すると信じるようになり、ある夜、それを証明しようと怪獣探しに行くのだが、木でできた梯子を登ろうとしてその梯子が折れ、宙づりになってしまう。その頃娘を探していたジャックは、不思議な力で湖に引き込まれ、気付いたときには落ちてきた娘を地上で受け止めていた。

 この事件を堺に、ジャックはオーキーの心を感じ取れるようになり、それとともに親子の絆は急速に深まっていく・・・、というのがだいたいの物語だが、それに日本から来た調査隊とか、湖に違法な廃棄物を投棄している業者などが絡んでストーリィは展開していく。ビデオの売りでは「ターミネーター2のSFXチームが特撮場面を担当」ということになっているが、オーキーが登場するラスト近くのシーン以外はほとんどSFXらしいSFXなどないに等しく、ラストに登場した肝心のオーキーも、実物大の作り物であることがはっきり判ってしまう程度の出来で、もう少し活動的な怪獣を期待していた僕は、ちょっとがっかりしてしまった。ただ、湖のUMAといえば決まって首長竜的な生物が登場したものだが、今回のオーキーはそれとはちょっと違う感じにしてあったのが新鮮といえば新鮮であった。・・・


32)ナビゲイター/ランダル・クレイザー;1986年アメリカ映画(8.4)

 80年代中ごろ、「E.T.」のヒットにあやかって作られた一連のジュブナイルSF作品のひとつ。1978年、家の近くの森に弟を探しに行ったまま行方不明になっていた12歳の少年が、それから8年後、当時とまったく同じ姿で現れる、という、いかにもなSF的設定で物語は始まる。映画はここまでの経緯を少年の一人称で描いており、足を滑らせて崖から転落した少年が、どうにかよじ登って家に帰り着くと、その家には見知らぬ人たちが住んでおり、警察に保護されてようやく、現在が8年後の世界であると判る。同じ頃、紡錘形のUFOが鉄塔にぶつかって飛行不能になり、NASAに回収される。少年もまた調査のためにNASAに引き取られ、両者は運命的な再会を果たす・・・というのがおおまかなストーリィだが、これ以上書くとネタバレになりそうなので、この辺でやめておこう。

 全体的な展開は、いかにも子供向けらしい優しいタッチで描かれており、このあたりもやはりE.T.の影響が大きいのだろう(劇中なんども「家に電話する」という台詞が出てくることからも判る)飛行中のUFOは、飛行条件により変形するのだが、その姿はまだ出始めたばかりの3DCGにより描かれていて、当時の目ではちょっと目新しく見えたかもしれない。UFOの端末というか、対人キャラクターとして、マックスという目玉オヤジみたいなのが登場するのだが、はじめはいかにもコンピューター端末らしい応対をしていたのが、ある事情で少年の人格の一部を吸収してしまってからは、まさに子供みたいな性格になってしまうあたりも、お約束ではあるものの和める設定であった。

 物語の終盤で、少年は無事家に帰ることができるのだが、失われた8年の年月はどうしようもない。しかし、そこにもちゃんとSFらしい解決が用意されており、安心して劇場を出られるようなエンディングになっているあたりは、やはりショービジネスの国の映画ならではだろう。・・・


31)12人の優しい日本人/中原 俊;1991年劇場公開作品(7.18)

 傑作映画「十二人の怒れる男」からはいくつものスピンオフ作品が生まれているが、これはその代表的なもののひとつ。三谷と中原という、まったく水と油のような異質の才能がルメットの原作をどう料理するのか、ちょっと興味はあったが、それほど期待しないで観たためか、意外に評価の高い作品になった。

 物語はほぼ原作同様、ある殺人事件の審理を任された12人の陪審員の喧々諤々のやりとりを描くものだが、先日裁判員制度に関する法案も通り、似たような状況が現実化しないとも限らない(もっともすべて素人で審理する陪審員と異なり、裁判員は裁判官と合同で審理を行うので、本質的にはずいぶん異なるようだ)もともとは三谷幸喜が東京サンシャインボーイズ公演用に書き下ろした戯曲で、これはその映画化作品である。

 三谷という男がただ者ではないことがよくわかるのは、原作の設定を一度解体し、さらに捻りを加えた重層構造に作り替えてしまったあたりだろうか。もちろんそこには筒井康隆「12人の浮かれる男」の影も見られなくはない。原作を倒立させ、逆の結論をもたらしてしまう筒井バージョンが存在したおかげで、もはや単純な換骨奪胎は許されなくなっており、さらに複雑な構造にせざるをえなかったのだろう。三谷はこの難しい注文に見事に答え、まったく別の演劇空間を創出してしまった。もちろん三谷ならではのキャラクター描写も健在で、原作にもあった、階層の典型としての陪審員たちをさらにマンガチックに造形し、それぞれの味を濃く引きだすことに成功している。

 中原らしいいくぶん緊張感に欠けた演出は、いかにも三谷風のシチュエーション・コメディを期待していた向きには物足りないだろうが、この作品に限って言えば三谷コメディの非現実的な部分をうまく中和して、ぎりぎりのところでリアリティを保つことに成功していたように思う。もしこれが演出も三谷だったら、「ラヂオの時間」同様、コメディとしては見事に成立しているものの、結局はリアリティ皆無のほら話に終わっていたはずだ。それでもダイアローグは三谷のものなので、会話のテンポ、その内容などよく聞いていると非現実的なところもなくはない。後半のいくぶん強引な展開などその最たるもので、もっともらしいが無理な飛躍が時々見られる、後の「古畑任三郎」にも通じるところがある。しかしそうしたマイナス要因をさっ引いても、十分に楽しめる娯楽映画に仕上がっているところが、さすがに三谷作品である。トイレの連れションシーンなど、オリジナルを知っていると思わずにやりとしてしまうような場面もちゃんとあり、振りのお客からマニアまで、あらゆる層の観客に受け入れられるよう作り込んだ、いい意味で盆栽みたいな作品と言えるだろう。・・・


30)サブマリン707R/増尾昭一;2004年オリジナル・ビデオアニメ作品(7.6)

 数年前の「青の6号」に続き、とうとう小沢さとる(現・小澤さとる)の代表作、サブマリン707がOVA化された。そこでさっそく観てみたのだが・・・。普通のアニメ作品としてみれば、そこそこの水準作と言えるのかもしれないが、かの名作「サブマリン707」をアニメ化した作品としてみると、やはりちょっと寂しい出来と言わざるを得ないのが正直なところだ。

 まず、キャラクター設定。707の乗組員は速水艦長以外、誰も彼も線が細すぎ、とても潜水艦乗りには見えない。今っぽい絵にしたかったのかもしれないが、それらしく見えなくては原作を変更する意味はないだろう。少年たち三人組は、今回は二代目707の就役と同時に乗り組んでいて、原作のような時代を反映したエピソードはない(ちなみに原作では三人はブラジルに移民する途中、乗っていた貨客船がU結社の怪潜に撃沈され、707号に救われる)キャラデザインは原作よりさらに幼く見え、どう見ても中学生だ。アフリカの途上国じゃあるまいし、こんな子供を実戦参加させる文化国家がどこにあるのだろう。また、原作にはほとんど登場しない速水の家族(若すぎる美人の奥さんと、いかにも萌え狙い=試しに「速水あゆみ」の名で検索してみるといい=の娘)が登場するのだが、これは特典インタビューで監督が白状している通り、「メカや戦争にあまり興味のない人にも見てもらえるような工夫」なのだろう。尺にゆとりのある連続テレビアニメならそれも許されるだろうが、前後編合計2時間足らずのOVAでは、はっきり言っていかにも時間の無駄遣いに見えてしまった(萌え命のお兄さんたちには、逆に彼女の出番の少ないことが不満のようだが^^;)速水はまだしも、敵であるレッド提督すら、秘密基地に美人の奥さんと三人の娘、さらに生まれたばかりの赤ん坊までいる、という設定には、さすがに呆れた。あるいは、子沢山で有名なビンラディンのパロディなのか??

 キャラクターではないが、肝心のメカ設定にも無理がありすぎ。いかに日本の自衛隊が物持ちよくても、戦後まもなく供与されたガトー級改造の超旧式艦である初代707が、PKN(ピース・キーピング・ネイビー=明らかに「青の6号」の「青」や、707「ジェット海流編」のPSGを意識している)みたいな組織が作られるような近未来に、まだ生き残っているはずがない。あの「なだしお」ですらすでに退役しているのだ。一方、宮武一貴デザインの他の艦は、近未来的というよりはっきり言って宇宙船的で、あちこちに余計な突起物が目立ち、ちょっとでも動けばキャビテーションの塊になりそうだ。原作より10倍くらいも巨大化してしまったアポロノームは(冒頭でわざわざC-137つまりボーイング707=やっぱり707つながりか=を着艦させて見せたりする)どう見ても大型タンカー並みの運動性しか持ちあわせていないらしく、いくら潜航できるという特徴があるにせよ(そう深く潜れっこないのだから、衛星から見たら丸見えだし、ステルス性はあまり期待できそうもない)戦闘艦艇にははなはだ不向きに見える。最初にUX−1に攻撃された際、もしレッドがもう少し慎重な性格だったら、物語はここで終わっていた。

 二代目707はオリジナルデザインからそれほど大きく逸脱してはおらず、それなりにまとまってはいるが、全体にやや寸詰まりで、特にミサイルベイ後端からスクリューまでの距離が極端に短い。これは宮武氏の設定画を見たときにも感じたのだが、3DCGになると異様に目立つ。原作の絵は、あきらかに望遠レンズを通して見た圧縮効果を意識して描いているのだが、どうもそれを真に受けてそのままCG化してしまったようだ。

 水中での潜水艦はほとんど3DCGで描かれており、立体感に関しては申し分ないのだが、100メートル前後ある艦の大きさを考えると、その速さはほとんどジャンボジェット並みである。スピード感のある演出をしたかった気持ちは判るが、潜水艦らしい動きに見えなくては仕方がない。超高速潜水艦と呼ばれた旧ソ連のアルファ級でさえ水中最高速度は45ノット、電車程度のスピードである。しかし、UX−1も707も、明らかにその10倍以上は出ているように見えた。このあたりをもう少しリアルに描けば、多少はうそ臭い雰囲気も払拭されたかもしれない。いちばん自然に動いていたのはやはりジュニアで、これまた極端に運動性が良すぎるのが気になるが、もともとちょこまかと動き回る小型艇という設定だったし、なにしろ普通の潜水艦でもジャンボジェット並みなのだから、これくらい素速くしないと差別化できなかったのだろう。水上シーンなどでは従来の2D絵もけっこう使われていたが、これと3DCGとの質感の差はちょっと気になった。また、艦隊を常に異常な密集状態に描くなど、基本的な軍事常識の欠如も気になってしまった。原作ではこういう部分にもしっかり気を使っていて、たとえば「アポロ・ノーム編」で公試に立ちあった速水の台詞に「目立たんが水上艦艇も相当の数が出ている」というのがある。多数の艦艇が広い海域に散らばって警戒に当たっている、という意味だが、どうも今回の監督、原作のこうした部分は読み飛ばしているようだ。

 さて、お話は基本的に原作の「U結社編」を土台にして、「謎のムー潜団」のレッド(姿形はむしろゾーンダイクだが^^;)を敵のボスに据え、加えて「アポロ・ノーム編」のアポロノームや、まったく別の物語である「青の6号」のギルフォード艦長まで登場するというごった煮状態。そこに前述の速水艦長やレッド提督の家庭までが描写されるのだから、ただでさえ不足気味の尺がますます足りなくなってしまう。おかげで、レッド率いる秘密結社USRのザコ艦隊など、後編中盤でいきなり降って湧いたような登場の仕方をする。前編では、USRの所属艦はUX−1一隻しかいないような描き方だったのだが。レッドの家族構成などより、まずレッドの軍隊がどの程度の陣容なのか描くことの方が、この手の話ではよほど重要なのだと気づくスタッフは一人もいなかったのだろうか。

 後編も終盤に来て、ようやく新生707号は敵UX−1と対決するのだが、ここの演出は707ではなく、青6「謎のムスカ潜団」のクライマックスそのままだ。この辺の駆け引きの演出はそう悪くないのだが、音だけに頼って戦うという雰囲気は残念ながらほとんど出ていなかったし、ジェット機のように速い潜水艦や、ミサイルのごとく飛び交う魚雷の不自然さもあいまって、興ざめも甚だしかった。いずれにしろ、前述の家族構成云々や、冒頭のアポロノームの艦長たち(なぜか全員女性)の、イリーガル弾頭がどうしたとか、ギルフォードとコーバック号についての長話のような、ありもしない次回への無意味な引きなど、直接本筋に関係ない部分をもっと整理すれば、もう少しメリハリのある演出が出来たのではないかと思うと、残念な作品というしかない。・・・


29)名探偵コナン 迷宮の十字路/こだま兼嗣;2003年劇場公開作品(7.5)

 前回の「ベーカー街の亡霊」でややSF方面に振りすぎてしまった反省か、今回は古都、京都を舞台にした古典的な推理劇仕立てのコナンである。古美術品窃盗団の仲間割れとおぼしき連続殺人事件が発生し、その謎を解くべくコナンたち一行は京都へ向かう。一方、「西の高校生探偵」服部平次もやはり同じ事件に係わっており、二人は協力して事件の解決に当たるのだが・・・。

 基本的にはテレビシリーズとまったく同じような構成で、あえて映画版として作る必要があったのか疑問の残る話だった(とくに犯人の設定は、映画版の長尺を支えるにはちょっと弱い)この話で製作者が描きたがったのは、コナンたちの活躍よりむしろ、京都の町そのものではなかったのだろうか。観光名所案内のごとく、いろいろ京都らしい場所が出てくるし、トリックそのものも京都の地形がネタになっている。

 今回も新一と蘭、平次と和葉のカップルが恋の鞘当てを演じるが、どこまでも進展しない関係はこうした話ではお約束ではあるものの、冒頭に登場する平次の回想シーンが実は、というちょっとした工夫も見られる。すれっからしの映画マニアならお見通しの細工だろうが、この映画の主たる観客層である小中学生にはちょうどいい難易度のトリックだろう。

 技術的には、中盤に見られるバイクのチェイスシーンが全面的にCGで作られていたのが目新しかった。ただ、他の部分の交通機関、たとえば地下鉄などは普通の手描きアニメだったりして、あまり統一感は感じられなかった。やはり日本風のリミテッドアニメのなかにCGを持ち込むと、よほどうまくコマ抜きしてリミテッド風にダウングレードしないかぎり、違和感を感じない程度になじませるのは難しいのだろう。・・・


28)丹下左膳TANGESAZEN/本木克英;2004年テレビ作品(7.1)

 戦前の昔から、阪東妻三郎や嵐 寛寿郎などさまざまな名優たちが演じてきた、丹下左膳という強烈なキャラクターを、現代歌舞伎界の異端児、中村獅童がどう演じるか、ちょっと興味があったので録画しておいたものを、放映の翌日になって観た。

 物語は「こけ猿の壺」のエピソード。何度も映画化されているが、過去に作られた幾多の映画化作品でも、共通するのは峰 丹波一味と柳生一族が「こけ猿の壺」をめぐって争奪戦をおこなう、というところくらいで、あとの設定はそれぞれ大幅に異なっている(戦前の山中貞雄版では、なんと左膳はお藤と所帯を持っているし、戦後の松田定次版では、完全にコメディ路線に走っている)残念ながら原作を未読のため、本編がどの程度原作に忠実なのかは判らない。東照宮の造営を柳生に命じるくだりも、本編ではお庭番総帥、愚楽(麿 赤兒)が将軍吉宗(風間杜夫)に入れ知恵するという設定だが、過去の映画では大岡越前の深謀遠慮による、となっていたりする。今回ももちろん大岡越前(ちょっと太り気味の西田敏行=釣りバカつながり?)は登場し、最後に美味しいところを持っていってしまう^^;

 柳生の隠し金、百万両の在処を記した地図が隠されている壺の争奪戦、というのが物語の骨子だが、当事者である柳生の殿様すらまったく知らない埋蔵金のことを、なぜお庭番が知っているのか、さらに、小藩とはいえ大名である柳生の次男坊が、どうして町の道場の婿に入らなければならないのか、どうもよく判らなかった(このあたりはどの映画も同じなので、たぶん原作にある設定なのだろう)とにかく、司馬道場を乗っ取った峰 丹波(松重 豊)一味や、盗っ人鼓の与吉(渡辺いっけい)、壺を取り戻さんと躍起になる柳生一族、さらに公儀隠密も絡んで話は複雑に展開する。このあたりはあまりうまく交通整理されているとはいえず、たとえば話の途中で隠密に捉えられた与吉が、拷問のすえに峰 丹波の隠れ家(しかも嘘の)を教え、そこに隠密が火を放ったりする展開はまったく無駄だし、隠密の首領十蔵(またしても永澤俊矢!!)が、半殺しの与吉をわざわざ左膳の元に送り届けてやるのもちょっと親切すぎる。こういう場面ではあっさり殺してしまうのが定石だし、それを阻止させるのは演出家の力量であって、敵役の親切心であってはならない。

 丹下左膳といえば、左手一本で大刀を振り回すという設定なので、その殺陣には独特のセンスが要求される。なにしろ相手が両手で振り下ろす刀の切っ先を、片手だけで振り払わなければならないのだから、相当に腕力があるように見せなければならない。その点、さすがに歌舞伎役者である獅童は、しっかりと腰の据わった、スピード感のある殺陣を見せてくれた。少なくとも十分に強そうには見えた。もともと、その人相の悪さを買われてか(笑)強面の不良学生や、主人公の最強のライバルといった役柄が多かった獅童だけに、はたしてどんな左膳を見せてくれるのか期待していたのだが、まずはその期待を裏切ることのない丹下左膳を演じてくれた。子供のころ観た映画では、何を考えているのか判らないちょっと怖い浪人、といった印象があったのだが、そうした昔ながらの凶悪な左膳像を再現した感じだ。ただ、ややまったりしすぎた演出のおかげで、時間とともにその鋭さが失われてしまったのが残念だった。一方、鼓の与吉役の渡辺いっけいは、持ち前の三枚目的なキャラクターをさらに発展させて、彼以外考えられないほど見事に与吉を演じていた。とにかくちょこまかと走り回り、ときどきオーバーランして見せるしぐさの滑稽さは、かつてのエノケンや堺 俊二を髣髴させる。

 もうひとり、印象的だった出演者をあげれば、やはり司馬道場主の後妻、お蓮を演じた戸田恵子であろう。この時代、結婚した女性は既婚者の印として眉を剃り落とし、お歯黒をしていたのだが、従来の時代劇ではその辺は、お約束として無視するのが常識だった。それをしっかり再現しているあたり、やはり肝の据わった女優さんである。・・・


27)ポイント・ブランク/ジョージ・アーミテイジ;1997年アメリカ映画(6.30)

 日本タイトルはモロに「殺しの分け前 ポイント・ブランク(原題=Point Blank)」そのものなのだが、内容的にまったく繋がりはない。本編の原題はGrosse Pointe Blankといい、グロス・ポイントという田舎町出身の殺し屋、ブランクの物語(笑)明らかにタイトルはジョン・ブアマンの映画をもじっているが、基本的にこの話はコメディである。

 主人公マーティン・ブランク(ジョン・キューザック)は腕のいい殺し屋なのだが、最近仕事に行き詰まりを感じており、いかにもアメリカ人らしく精神分析医にかかったりしている(守秘義務と市民の義務、そして生命の危険にさいなまれる精神科医に名優アラン・アーキンが扮し、いい味を出している)ある日、秘書から高校の同窓会通知が来たことを知らされたブランクは、あまり気乗りしないものの、くだんの精神分析医にすすめられ、また、たまたま請け負った次の仕事の標的が同じ町に住んでいたことから、十年ぶりにグロス・ポイントを訪れる。ここで彼は十年前に別れた恋人に再会したり、執拗に彼をつけ狙う別の殺し屋と闘って、コンビニを爆破してしまったりするのだが、ここでの演出は話を盛り上げるというより、意図的にポイントをずらしたようなものになっていた。そこに、ブランクに自らの組織への参加を拒否され、メンツを潰されたと逆恨みしている同業者グロシー(ダン・アイクロイド)が絡んで、物語はさらにコメディじみてくる。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 やがて同窓会の会場にかつての恋人、デビーとともに訪れたブランクは、そこでまたしても殺し屋に襲われ、逆に殺してしまうのだが、その現場をデビーに目撃される。殺し屋というのを冗談と受け取っていたデビーはついに真実を悟り、家に逃げ帰ってしまう。一方ここに至って、ようやく自分の殺すべき標的がデビーの父であることを知ったブランクは、今度こそ殺し屋稼業から手を洗うことを決意する。ここでようやく話はシリアス路線に軌道修正するかと思いきや、土壇場で再びグロシーが手下を引き連れて登場し、デビーの家を舞台に超ド派手な銃撃戦を展開する。このあたりはもう完全にリアルさを放棄し、子供時代の「てっぽう撃ちっこ」そのままの描写になってしまう。

 もちろんブランクは主人公であるから、すべての敵を撃ち倒し、最後にはデビーと手に手をとって町を去るというハッピー・エンドなのだが、よく考えてみると、それまで彼が犯してきた数々の殺人についてはどうなってしまったのだろう。いや、僕としてはそんなことは全然構わないのだが、意外にも倫理基準の厳しいハリウッド作品としては、結局のところ悪が生き延びてしまうような話は、なかなかOKが出ないと思えるのだが。まあ、最終的にブランクは殺し屋をやめ、改心したのだからこれでいいということなのかな。それ以前にこれはコメディである、という大前提もあるし。

 それにしてもブランク、どさくさまぎれに政府機関のエージェントまでも射殺してしまっているんだよな^^;・・・


26)僕は天使ぢゃないよ/あがた森魚;1974年劇場公開作品(6.22)

 のっけからガロの名物編集長、故・長井勝一氏がかくしゃくとした姿で登場して「あれ?」と思ったが、なんとこの作品、今から30年も前の1974年に製作された映画なのであった。長井氏のほかにも、横尾忠則、大瀧詠一、山本コータロー、泉屋しげる、鈴木慶一、岡本喜八などといったそうそうたる面々が、30年前の若々しい姿で登場し、ちゃんと(?)演技している。製作・監督・脚本・主演の一人四役をこなすのは、当時シンガーソングライターとして売り出し中だった、あがた森魚。原作は、あがた自身がインスパイアされ、同タイトルのレコードまで出してしまった林静一のマンガ作品「赤色エレジー」。

 ひと目見て、なにより驚くのは映像の鮮明さだ。おそらくネガプリントの保存状態が良かったのだろうが、冒頭に登場する横尾、大瀧、あがたの三人組がぶらぶら歩いているシーンなど、あまりに生々しすぎて、最初はよく似たそっくりさんが演じているのかと思ったくらいだ。直後に西武線の電車が走り過ぎるのだが、その電車も今はなき小豆色とベージュに塗り分けられた旧車両だったので、この映像が間違いなく30年前のものだと判る。

 映画は、設定こそ原作のマンガ版「赤色エレジー」を踏襲してはいるが、部分的にミュージカル風だったり、あるところでは寺山修司風(シェークスピア劇団の衣装を着たちんどん屋さんが登場^^;)だったり、かなり奔放な演出だ。しかし、基本的には原作通り、同棲中の貧乏アニメーター幸子と一郎を主人公に、彼らを取り巻くさまざまな人間模様を描いている。映画の序盤で前述の三人組が訪れる売春宿(らしい描写はほとんどなく、みんなで酒を飲むシーンばかり。それぞれが猫を抱き、こたつに入って酒を飲むシーンにはちょっと憧れる)には女主人の緑魔子と、当時まだ新人だった桃井かおりがいて、同棲生活に疲れた一郎をときどき癒してくれたりするし、幸子と一郎それぞれの親族も登場し、結婚や家族間の古くて新しい問題を提供して、二人を悩ませたりもする。

 主演のあがたはもちろんだが、ヒロイン幸子を演じる斉藤沙稚子もまた本職の女優さんではないらしく(出演作品はこの一本だけ)台詞の発声などちょっとたどたどしい。特に激したときの叫び声など、正直言って素人臭さが目立ってしまった。ここはやはり、素人のあがたを支えるだけの演技力を持ったプロを配すべきだっただろう。斎藤がマンガ版「赤色エレジー」の幸子にぴったりのイメージだ、というならともかく、髪形から何からまったく共通点もないので、どうしてこんな配役にしたのか理解に苦しむ。本編のどこか学芸会のような稚拙な雰囲気は、やはり彼女の存在によるところが大きい。

 中盤、一郎が里帰り中に、かつて船乗りだったという父が死に、それなりにショックを受けたりもするのだが、それでも彼の生活が変わることはなく、何の結論も出せないまま映画はしり切れトンボで終わってしまう。全体的に、ストーリィ展開を追うのが難しい作品といえるだろう。あがたはこの映画で「物語る」ことにさして重きを置いておらず、時代の空気みたいなものを、まるごとすくい取ることに全力を注いだと思われる。劇場用映画として評価するのは難しいが、そういう意図はある程度成功している、といってもいいようだ。なにより、当時のサブカルのカリスマたちが勢揃いし、若々しい姿を見せてくれるだけでも、この映画の存在価値はある。・・・


25)ハリー・ポッターと秘密の部屋/クリス・コロンバス;2002年アメリカ映画(6.22)

 今回も前作「ハリー・ポッターと賢者の石」同様に原作を未読の状態で観たのだが、いわれているほど判りづらかったり、端折った感じはしなかった。確かに展開はやや早い感じがしたが、むしろテンポよい演出に思えたくらいだ。また、2時間40分にもなる上映時間もさほど気にはならなかった。

 しかしながら、確かにテンポはいいものの、どうもワンシーンワンシーン、キャラクターたちが自分のやっていることの意味を本当に判っているのか、こちらにあまり伝わってこないのが気になった。窮地に陥ったとき、彼らは必ず何らかの手段でそこから脱するのだが(そのこと自体はアクションものの定石ではあるが)その脱出法がどうも説得力に欠け、タメの演出も乏しいので、切実感もない。たぶん原作にある印象的なシーンを羅列しただけなのではないか、とすら思ってしまう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ストーリィ自体にはたいした破綻もなく、ちゃんと整合性のあるものだった。予想に反して、物語はまたもやホグワーツ魔法学校の内部で展開し、あまり広がりのある話にならなかったのは残念だが(ほんの少し出てくる外の世界での冒険、たとえば空飛ぶ車に乗ったりとかが面白かっただけに^^;)これはもう原作がそうなのだから仕方あるまい。しかし物語の細部になると、やや舌足らずな印象があったのは否めない。たとえば、事件の犯人と誤解されたハグリッドが連行される際、透明マントに隠れたハリーたちに、「クモの後を追え」と言い残すのだが、おかげでハリーたちは大グモの大群に取り巻かれ、絶体絶命のピンチに陥ってしまったりする。普通ならそういう危険が待ちかまえている場所に、たいした準備もしていない子供たちを送り込むようなことはしないだろうし(もとはといえば、ハグリッド自身がクモたちをそこにかくまっているわけだから)そこから脱出する手段もご都合主義以外の何者でもない。だいたい、彼らを迎えに来た空飛ぶ車は一体誰の意志で動いていたのだろう?やはり、日本語で300ページを越える大部のエピソードをあますことなく盛り込むためには、ひとつひとつを限られた時間内に収めなくてはならず、結果的にどうしても舌足らずな表現が目立つようになってしまうのだろう。

 SFXは前作同様ILMが担当しており、たとえば妖精ドビーのCG合成など、ほとんど完成の域に達しているといっていい。さまざまなモンスターたちや、魔法のCG表現なども自然で、とてもよく出来ていた。ただ、終盤に登場する大蛇バジリスクは、自然さを強調するあまりかなり地味な印象に終わってしまった。重要な武器であったはずの目もほとんど判らずじまいだったし(見ただけで死んでしまうほど凄い目なら、やっぱり相応の凄みがないと^^;)このあたりはもう少し、けれん味を発揮してド派手な演出をしてもよかっただろう。ゲームでいえば最終ボスに当たる、日記の亡霊トム・リドルとの戦いもまたあっけない決着の付け方だった。トム・リドルこそが邪悪な闇の魔法使いヴォルデモート自身であることが、アナグラムを使うことで判るシーンなどはそれなりに面白いのだが・・・。

 最後に出演者たちについて。主人公ハリーを演じたダニエル・ラドクリフ以外では、やっぱりハーマイオニー役のエマ・ワトソンが目立つ。物語後半になると、バジリスクにやられて石化してしまい、ほとんど登場できないのだが、それでも彼女の存在感は大きい。それからもう一人目立っていたのは、いい加減な魔法作家兼雇われ教師、ロックハート先生を演じた名優ケネス・ブラナーだろう。その気になれば、遥かに重みのある敵役や、校長クラスのキャラクターも演じられる俳優だが、今回はなんとコメディ・リリーフに徹していて、それがけっこう様になっていた。ほとんど一昔前のマイケル・ケインなみの器用さだ。長い長いエンドロールのあと、ほんのワンカットだが彼の後日談が出てくるので、まだ未見の方はエンドロールになっても再生をストップさせないように(^_^)・・・


24)G.I.ジェーン/リドリー・スコット;1997年アメリカ映画(6.10)

 アカデミー監督賞候補にもなった戦争映画の名作「ブラックホーク・ダウン」の前に、リドリー・スコットが撮った唯一のミリタリー映画なのだが、前評判通りかなり後味の悪い、さまざまな意味で勘違いしている映画になってしまっていた。

 まず、この映画の製作者は男女同権とか男女平等とかいう概念を、非常に短絡的に考えているとしか思えない。まず、当たり前の話だが、男女の間には体格にも体力にも明確な差がある。たとえばマラソンひとつ見ても判ることだが、驚異的な新記録でシドニーを制した、Qちゃんこと高橋尚子のタイムにしても、男の中に交じればトップから10分以上も遅い平凡なタイムなのだ。一方、男には逆立ちしたって子供は産めない。平等とは、こうした違いを認めあったうえで、その差を勘案して実現すべきものだろう。しかし、この映画では、映画的誇張を入れたつもりなのかもしれないが、軍隊内では女はあらゆる面において男と同等か、それ以上でなければ平等には扱われない、と主張しているようにしか見えない。

 また、デミ・ムーア演じるオニール大尉がシールズの訓練に送り込まれる事情も、いわば政争の具として、途中で音を上げることを前提にしていたのだが、このあたりの扱いも、政治というものにもう少し夢を持っている、アメリカ人の作った映画としてはややダークに感じた(監督のスコットはイギリス人だけどね^^;)おかげで途中から話の展開がおかしなことになってしまった。本来なら、そうした意図に気づけば、それなりのしっぺ返しを政治家に与えるのが筋だと思うのだが、つまるところオニールはただ男になりたかっただけだったのか。

 話の終盤で、訓練生たちが突然実戦に巻き込まれ、いわばそれが卒業試験のようになってしまうあたりは、弟トニー・スコットの「トップガン」を嫌でも思い出してしまう。もともとこの話は設定自体かなりトップガン的で、トップガンのパイロットがシールズ隊員に置き変わっただけともいえるし、政治的な理由で主人公の立場が危うくなったりするあたりまでよく似ている。

 もう一つ気になったのは、やはり敵兵の扱いである。この話の設定では、墜落した偵察衛星を回収に行った部隊の援護に、訓練生が送り込まれるのだが、その国がリビア^^;ま、撮影当時いちばん「敵」として描きやすかったのだろうが、とにかくリビア兵を殺しまくって離脱する。この話には、自分たちが他国の主権を侵害しているという後ろめたさは微塵もなく、ただ自らの目的、つまり軍人として、シールズの隊員として認められることのみに視点が絞られている。いかに仮想敵国だったとはいえ、単に、隠れている仲間に気づかれそうになったから、という理由だけで敵兵をあっさり射殺してしまう(その時点では、敵兵は自国に侵入したアメリカ軍の存在すら知らない)というのは、どう考えても交戦規定を満足させているとは思えないのだが。

 肝心の戦闘シーンにしても、迫力を出そうとしたのかも知れないが、アサルトライフルの射撃音に合わせて細かいズームイン/ズームアウトを繰り返してみたり(谷啓のガチョ〜〜ンみたい^^;)凝ってはいるのだが、単に見づらいだけの結果に終わっていた。

 この映画のために肉体改造し、まさに男さながらに変身したデミ・ムーアはみごとな役者魂を見せてくれたが、基本的な部分で間違った認識を抱えた脚本は、残念ながら彼女の肉体を怪物にしか見せてくれなかった。やはり残念な作品としかいうしかない。・・・


23)ハンキー・パンキー/シドニー・ポワチエ;1982年アメリカ映画(6.5)

 同タイトルの60年代のヒット曲とはまったく無関係の映画。ちなみに僕はタイトルだけで、ヒッピームーブメントを扱った、ストーンド(ドラッグで逝っちゃってる、てこと)ミュージカルではないかと勝手に想像して観てしまったのだが、まったく予想外の、サスペンス喜劇とでもいうしかない映画であった。

 主演はジーン・ワイルダーで、あえて分類すれば、やはり彼が主演した「大陸横断超特急」に近いテイストの映画といえるだろう。要するにシリアスなシチュエーションに、コメディアン的なキャラが放り込まれる話である。ワイルダーは今回、建築家マイケル・ジョーダン(映画が作られたのは1982年で、もちろんエア・ジョーダンとは無関係^^;当時まだ彼は中学生くらいだったはずだ)に扮するのだが、やることはもちろんコメディアン、ジーン・ワイルダー本人を演じることにほかならない。結構コロコロ人が死ぬシリアスな展開の中で(敵のボス役でなつかしいリチャード・ウィドマークが好演)ワイルダーが細かなギャグをまき散らしながらストーリィを展開させていく様子は、いやでも「大陸横断超特急」を思い出してしまう。

 お話は、ニューヨークに仕事で来ていたジョーダンが、同じタクシーを奪い合ったことでジャネットという女性と知りあうのだが、彼女はある重大な秘密を握って組織から追われており、一緒にいたジョーダンもまた命を狙われることになる。という、よくある巻き込まれ型の定番ストーリィ。映画の序盤でジャネットはあっさりと殺され、殺人現場に居合わせたジョーダンは犯人と間違われて、組織のみならず、警察からも追われることになってしまう。

 サスペンスもののストーリィをくどくど書くのはネタばらしの危険性大なので、これ以上書くことはしないが、基本設定は当時としてはまだ物珍しかったコンピューターネタで、大切なデータが入っているのがでっかい磁気テープのリールだというあたりに、時代性がよく出ていた。今なら光磁気ディスクか、ちいさなチップか何かになるところだが。

 ちなみにハンキー・パンキーとは「ごまかし」のことだそうで、映画のどの部分が「ごまかし」なのか書くわけにはいかないが、いくつかそれらしい部分はあるものの、「スティング」みたいな、ズバリごまかしそのものがネタになっている作品というわけではなかった。「大陸横断超特急」みたいな大仕掛けのスペクタクルもなく、全体的に小ぶりな印象の作品で、テレビで観賞するには我慢できても、わざわざ映画館でお金を払って観るほどのものでもない、というのが正直な印象だった。・・・


22)プレイガール/梶間 俊一;2003年劇場公開作品(5.28)

 かつてお茶の間のお父さんやお兄さんを悩殺していた(らしい)テレビシリーズの、ずいぶん時代を経てのリメイクである。ひょっとしたらチャーリーズ・エンジェルの成功に刺激された企画かも知れないが、この仕上がりではせっかくの柳の下のどぜうも裸足で逃げ出すだろう^^;

 とにかく、買えるポイントが何一つないというスゴイ映画だ。かつてのテレビ版プレイガールでは、ふんだんにあったパンチラが売りだったらしいが(世代的には見ていてもおかしくないのだが、ほとんど記憶にない)その手のお色気は皆無、アクションシーンも最初から諦めていたらしく、必然性も何もないご都合主義だけが目立つ脚本と、三拍子も四拍子も揃った典型的クソ映画であった。

 お金をかけられないのだから画面がビンボー臭くなるのは仕方がない。しかし、それならそれを逆手にとって、ゲリラロケなど打つ手はいくらでもあっただろうし、金だけの問題なら、こんなクソ映画だってたぶんエル・マリアッチの数倍の予算は使っているはずだ。予算はあるに越したことはないが、傑作になるための必要条件ではない。必要なのは、なにより映画を面白くしようとする情熱であり、その想いを形にできる才能である。残念ながら、この映画にはそのいずれもが欠けていた。

 佐藤江梨子を始めとした女優陣は、揃いも揃って大根であり、アクションもからきしダメで、とても見られたものではない。格闘シーンになるたびに場面はコマ落としになり、動きの切れのなさをごまかそうという意図が見え見え。動けないなら動けないでそれなりの特殊効果を使うとか、カット割りを工夫すればいいものを、とにかくバカのひとつ覚えのようにだらだらとコマ落としだけでごまかそうとする。残念ながらそこには才気のかけらも感じられない。せめて往年のお色気路線でも復活させれば、まだそれなりに観る価値もあっただろうに、寒い季節の撮影だったためか、みなさん着膨れて体のシルエットは見えないし、いったい何のために企画した映画なのだろう。熱狂的サトエリファンならあるいは見どころをあげられるかも知れないが、僕ら凡人にとっては、まさに観ても時間の無駄、としかいいようのない作品であった。・・・


21)クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード/水島 努;2003年劇場公開作品(5.22)

 前作「アッパレ!戦国大合戦」であまりに本来のしんちゃん路線から離れてしまったためか、今回は監督を代えて、従来のナンセンス路線に戻った。とは言え前作の監督原 恵一も脚本に参加しており、これまでとそう違った雰囲気にはなっていない。あいかわらず名画のパロディ路線も健在で、今回はなんと「地獄の黙示録」^^;終盤までしんちゃんたちを追いかけ回す謎の組織の首領が、台詞からスタイルからサーフィンマニアという性格までキルゴア中佐そのもので、撤収するとき彼のヘリコプター(もちろんUH-1イロコイ)にはサーフボードが取り付けられ、その下にはご丁寧にリバーボートまで吊されていた。せっかくなのでどこかで「ワルキューレの騎行」を使えばよかったのに、と思うのだが、それではあまりに「温泉わくわく大決戦」における怪獣大戦争マーチと同じになってしまうと、あえてやらなかったのかも。

 また、冒頭でしんちゃんの家に車で突っ込み、大冒険に一家を巻き込むことになる謎の男が怪優スティーブ・ブシェーミそのままの顔をしており、お約束通りちゃんと「変な顔」と言われていた。このあたりも「ファーゴ」などブシェーミ出演作を前もって観ていれば、面白さ倍増である。

 例によって今風のネタ(タマちゃんや、おもいっきり公道を走るセグウェイ軍団など)を絡めたギャグが小出しにされる演出もまた健在だが、今回は全体的に小粒な印象で、また、前二作のような全体を貫く大きなテーマが見当たらないため、お話も少々行き当たりばったりな印象が残ってしまった(どうしてバラバラになった家族が、判で押したようにみな熱海に向かうのか、イマイチ説得力がない)特に、ベージュのおパンツ娘とキルゴア中佐もどきとの関係がもうひとつはっきりしないまま、退場してしまうあたりはもったいない感じがした。部分的には、たとえば脳波増幅器(?)によって登場人物のみならず、熱海の住民すべてまでがブリブリざえもん化してしまうあたりなど非常に冴えていただけに、脚本の練り不足が残念だ。・・・


20)たそがれ清兵衛/山田洋次;2002年劇場公開作品(5.18)

 山田洋次といえば、「寅さん」シリーズやコケた「虹をつかむ男」シリーズ、そして「幸せの黄色いハンカチ」などの人情喜劇を思い浮かべるが、本編はそうした山田洋次像を期待して観ると、肩透かしを食らわされる映画である。これはもう、とても時代劇初監督作品とは思えないほど、昭和の頃の時代劇映画の骨格を見事にふまえたチャンバラ映画であった。昨日観た、結局のところ見た目の派手さだけに終わっている「梟の城」とは好対照の、中味のぎっしり詰まった映画といえよう。

 とにかく主演の真田広之がいい。その美貌を月代に生えたざんばらの毛髪や無精髭に隠し、着たきり雀のさえない風体に身をやつしてはいるものの、かつては有名道場の師範代をつとめたほどの使い手であることを思わせる立ち振る舞いや、クライマックスのすさまじい殺陣の説得力など、これまでの彼の芸歴を凝縮したような素晴らしさだ。また相手役の宮沢りえも、江戸自体末期の武家娘を、ほかに適役が考えられないほどピッタリと演じきって見せた。十代の頃アイドルとしてデビューしながら、その後の結婚騒動や拒食症による激痩せなどで一時は女優生命どころか、文字通り生命の危機さえささやかれていたことを思うと、現在、大女優として大輪の花を咲かせていることが夢のようだ。つらい経験が女優としての表現の幅を広げる結果になったのだとしたら、人間万事塞翁が馬を地で行く女優さんなのかもしれない。脇を固める助演陣もまた過不足のない好演で、ストーリィの自然な流れを作り出していた(丹波さんはちょっと目立ちすぎだったかも^^;)特に清兵衛の二人の娘を演じた伊藤未希と橋口恵莉奈のふたり(撮影当時弱冠11歳と5歳ながら、そのキャリアはたいしたもの)が良かった。昔の映画と今の映画を比べて唯一進歩があるとしたら、子役のうまさではないかと僕は最近思っている。

 冒頭でちょっと書いた「山田洋次像」と一番の落差を感じさせるのは、実は脚本や演出ではなく、カメラである。もちろん一連の喜劇シリーズでも、いい加減な絵作りをしていたわけではないが、わりあい説明的な構図の画面が多かったような気がする。それに比べて本編では、ビスタサイズの画角を生かした凝った構図がかなり目立ち、いい意味で山田洋次らしさを消していた。ときどき出てくる藁葺き屋根の家をローアングルから見上げたショットや、川のほとりで行われた最初の果たし合いのシーンなど、構図の取り方といいカット割りといい、すでに芸術の域に達している。それから、たとえば終盤に出てくる死体に群がる大量のハエなど、徹底したリアリズム描写もまた目立っていた。室内のシーンなどは全体的に薄暗かったが、これも行灯のようなとぼしい灯火しかなかった時代の雰囲気を出すための演出なのだろう。

 唯一欠点をあげるなら、内容のわりに上映時間がちょっと長い感じがしたことだ。129分という長さは最近の映画としては特に長いほうではないが、映画のテンポのせいか、実際より長く感じた。それから、これは映画そのものの欠点というわけではないが、ラストの井上陽水の歌は不必要だった。歌詞も映画の内容とミスマッチだし、雰囲気が現代的に過ぎた。・・・


19)梟の城/篠田正浩;1999年劇場公開作品(5.17)

 う〜〜む、たぶん原作は面白いんだろうな、と観客が観賞中に思いをはせるようでは、映画としては失敗なんじゃないだろうか。

 なによりキャスティングがよくわからない。まず、主演の中井貴一はこの物語の場合、主役に使うのはもったいない。むしろ、上川隆也が演じていた風間五平役の方が彼にはずっとふさわしく思える。忍びとして生を受けながらも今は公儀の側に身を置き、静かに権力欲に燃える男という屈折した役柄は中井向きだし、上川の演技力ではまだ彼の冷たく燃えるような野心を表現しきれていない。一方、中井が演じた主人公、葛籠重蔵はかなり単純なキャラクターなので、こちらの方こそ直情的な演技の得意な上川にふさわしいだろう。

 製作費の多くを注ぎ込んだといわれるCGは一見したところ派手だが、どことなく現実感がなく、妙にのっぺりした質感になってしまっている。これから作られるであろう時代劇では、もはや存在しない風景を再現するためにこうしたCGをふんだんに使うことになるのだろうが、まだ現実と見分けがつかない、という水準までには至っていない。たぶんこれは技術的な問題というより、作る側のセンスの問題なのだろう。

 もともと篠田正浩という監督は、こうしたアクション系の娯楽作はそれほど得意なわけではなく、ちょっと畑違いという印象がある。彼としてはアクションそのものよりも、権力者の都合で一族の存在すら脅かされる、忍びの悲哀みたいなものを描きたかったのだろうが、そういういわば陰の部分とアクションの陽の部分が有機的に関連してこそ、物語は俄然面白くなるのだ。しかるにこの映画では、どうもその双方がうまく絡み合っておらず、バランスを欠いたまま物語が進行してしまう。特に意味不明なのが甲賀忍者の摩利支天洞玄(永澤俊矢)で、たぶん原作にも登場した人物なのだろうが、本編では重蔵の子分雲兵衛(筧 利夫)やサブヒロインの木さる(葉月里緒菜−何のために出てきたのかよく判らなかった)をあっさり殺してしまうわりには存在感が薄く、キャラクターたちの重量配分がうまくとれていない感じがする。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 しかし、この映画の一番の問題点はやはり脚本だろう。一言でいって全体的に説得力に欠けている。キャラクターたちの動く動機がいちいちよく判らないのだ。たとえば、なぜ重蔵は豊臣秀吉の暗殺を引き受け、しかしながらそれが可能な段階に至って、なぜ思いとどまってしまうのか、観客にはまったく伝わってこない。特に、もともと乗り気ではなかった重蔵が、どうして秀吉を殺す気になったのかが判らない。それにくらべれば、一思いに殺せる段になってから結局殺さない理由は、とにかくべらべらとしゃべりまくるので一応判ったような気にはなるが、なにしろ殺そうと思った動機からしてよく判らないから、いかに殺さない理由をとうとうと述べたところで、だからなんだよ、と思ってしまう。実はこの構図は「HERO」とほぼ同じなのだが、監督の格の違いか、あるいは海外マーケットを見据えた脚本の練り込みの深さか、「HERO」の方は殺したい理由も殺さない理由もよく判った。

 ところで秀吉にはハリウッド俳優マコ・イワマツが扮しているが、これはなかなか意表をついたキャスティングで、ある意味この映画で一番評価できるポイントかも知れない。・・・


18)24-TWENTY FOUR/スティーブン・ホプキンス他;2003年アメリカテレビ作品(4.12)

 創作物の時間経過を鑑賞者のそれと一致させたい、という願望は、時間に関わる芸術を創る作家たちの果たせぬ夢のひとつかもしれない。音楽などは当然ながら鑑賞者と観賞対象の時間経過は一致するし、一幕ものの演劇なども、舞台上の時間経過と観客の時間経過はよほどのことがないかぎり一致する。小説のような、所要時間それ自体決まっていないものすら、筒井康隆「虚人たち」のように、読者がページを読むスピードをあらかじめ想定し、読書の時間経過と登場人物たちの時間経過とを一致させようという試みが存在している。しかしながら、映画やテレビドラマのような映像作品ではそういった試みはほとんど不可能として、これまで実行されたことはなかった。少なくとも今回の「24-TWENTY FOUR」までは^^;

 一日のうちに起きた事件を、リアルタイムで24時間かけて描く、というコンセプトが一体どこから生まれたのかは知らないが、たぶん、アメリカのテレビドラマがワンシーズン25回前後である、という原則から思いついた企画なのだろう。実際には一日のうち人間の行動している時間はそれほど長いわけではなく、仕事に8時間、休息や食事に8時間、そして睡眠に8時間というのが理想的な姿とされている。しかし、登場人物が8時間、つまり8回分も寝たまんまで画面に登場しない、というのではドラマにならないから、必然的に寝ている暇などないお話にせざるを得なくなる。というわけで、このシリーズは初めから最後まで極めてハイテンションの、クリフハンガーサスペンスとして企画されることになった。

 なにしろ24話もあるのだから、シリーズとしてはけして短いほうではない。週一回放映しても、全部放映し終わるまでに半年もかかってしまう。もちろん、撮影するほうも最低半年、たぶんそれ以上はかかっているはずだ。そのおかげだろうが、今回のように短期間で全話放映されたりすると、いろいろ無理な点も目立つ。たとえば、第一話でジャンボ旅客機がテロリストにより飛行中に爆破されるのだが、全員死亡でおそらく100人以上の死者が出ているにも関わらず、何故だかその日(ジャンボ機の事件は物語の当日に起こっているのだ) のテレビニュースには登場してこない。かなり早い段階で爆発物による空中爆発だと判っているのだから、本来なら丸一日くらいこのニュースで持ち切りだろう。しかし、物語も中盤になると、そのあたりのことは視聴者も製作者も忘れてしまっているようで、ニュースはもっぱら主人公の一人、パーマー上院議員の予備選の話題ばかりだ。現実的に考えれば、わずか半日前に起きたばかりの大規模なテロ事件がこうも早く忘れ去られるはずはない。それに、主人公ジャック・バウアーの活躍で暗殺者の計画に齟齬が生じ、急遽別のプランが採用されたりするのだが(それがまた何パターンもある)そのための小道具がそのつどちゃんと用意されているあたり、あまりに手回しがよすぎるのも変。

 また、登場人物の生理問題も、やむを得ないとは思うがまったく無視されている。まあ、睡眠は40時間くらいとらなくても大丈夫だろうが、トイレはそういうわけには行かないし、飲食などはもっと問題だ。カメラは24時間すべての登場人物に密着しているわけではないので、わずか1〜2分で足りてしまう小用はよほどそれが難しい状況でないかぎり(もっともバウアーはほとんど難しそうな状況にいたが^^;)なんとかなるだろうが、食事はそういうわけにはかない。短くても5分程度、長ければ30分以上はかかってしまう。パーマー上院議員に関わる人たちには何度かパーティーや食事のシーンがあったからまだしも、CTU本部ではコーヒーを飲むのがせいぜいだったし、現場から現場へ常に移動していたバウアーにいたっては、たぶんハンバーガーをかじる暇もなかっただろう。普通なら低血糖でぶっ倒れてしまいそうだが、シチュエーション的にはずっとアドレナリン大放出状態だったので、24時間程度なら寝食を忘れられるのかも??

 ストーリィについては残念ながらほとんど触れることは出来ない。いつものような「あぶり出し」も今回はなし。なにしろクリフハンガーな物語なので、どんでん返しの「引き」が毎回のようにあるし、その「引き」が次の回のテーマになったりするので、ストーリィについて語ること自体が、どうしてもネタばらしにならざるを得ないのだ。それでもひとことだけ言ってしまえば、一回分のお話を観る限りでは毎回かなり高い完成度で、よく出来たシリーズだと言えるのだが、数回連続すると、どうしても詰め込み過ぎの無理やどんでん返しの矛盾点が目に付いてしまう。このことはむろん製作者側も判ってはいるのだろうが、どこから見ても矛盾の無い話よりも、物語一話ごとの完成度に重きを置いた結果がこうしたスタイルの作品を生んだのだろう。・・・


17)ハムナプトラ2 黄金のピラミッド/スティーブン・ソマーズ;2001年アメリカ映画(4.10)

 映画に人生のなんたるかを求めるような御仁には、まったく向かない一本^^;

 例によってちょっと軽すぎる主人公リック(ブレンダン・フレイザー)が、今回は一児の父となり、息子を巻き込んで相変わらずのすったもんだの大活躍をする。前回黄泉の国に連れ去られたはずのイムホテップがまたまた復活し、今回はあっさりと愛妾アナクスナムーンをも復活させ(前回のあの騒ぎは何だったの?)リックとその妻イブリン(レイチェル・ワイズ)が発掘した黄金の腕輪を狙って来るのだ。その腕輪こそ、5000年昔に封じられたスコーピオン・キングのアヌビス神軍団を復活させる鍵だったのだ。

 物語は基本的に、前作「ハムナプトラ 失われた砂漠の都」を踏襲したというか、ほとんど同じようなものだが、なにしろ脚本も監督も同じ人間がやっており、登場するキャラクターもほとんど同じなのだから仕方がない。CGを多用した特殊効果に頼っているのも前作同様で、いかにもパート2らしく、CGのほうも格段にスケールアップされている。特に人間たちとアヌビス神軍団の戦闘シーンは、その人数といい動きの自然さといい、「ロード・オブ・ザ・リング」の冒頭のシーンを髣髴させる。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 映画初出演のプロレスラー、ザ・ロックが冒頭でスコーピオン・キングを演じており、その後彼を主人公にしたスピン・オフ作品まで作られたのだが、肝心のクライマックスで再登場するときには、なぜか巨大サソリと合体したモンスターとして出現する。この手のクリーチャーはすでに「ロスト・イン・スペース」などでも登場しており、はっきり言ってあまり新味がないうえに、肝心のCGテクニックももうひとつで、作り物にしか見えない。ここはやはり、特殊メイク程度におさえて、ザ・ロック本人の魅力をもう少し引きだすべきだっただろう。

 結局スコーピオン・キングはあっさりと倒されてしまうのだが、その時開いた地獄の口に、リックもイムホテップも落ちそうになる。イブリンは自らの身の危険も省みず、手を差し伸べて助けようとするのに、アナクスナムーンは土壇場であっさりイムホテップを見捨てて逃げてしまう。もともとアナクスナムーンは、イムホテップの後を追って自ら死を選ぶほど彼を深く愛していたはずなのに、これは一体どういうことだろう。逃げた彼女は結局スカラベの穴に落ちて食い尽くされてしまうのだが、これは前作のベニーの最期とまったく同じである。一人はこういう死に方をする人間を登場させたかったのだろうか?あるいは一度死んでいるので、もう二度と死の世界に戻るのは嫌だと思ったのかも^^;・・・


16)WASABI/ジェラール・クラウジック;2001年日本・フランス合作映画(4.1)

 この映画、存在自体がちょっとした謎である。

 そういえば、このところのベッソン作品にはこんな匂いのものが多かったように思う。予告編でしか見ていないが、TAXIシリーズはみんなこんな雰囲気みたいだし、ちょっと前のものだが「フィフス・エレメント」も、SFの衣をはがせばこんな感じだった。よく考えてみると、最初期の「グラン・ブルー」を除くと、「ニキータ」にしろ「レオン」にしろ、シリアスの度合いは違うが基本的には同様に荒唐無稽な話だ。

 にしても今回の脚本にはアラが目立った。というより、今回は話の必然性や細かいディテールよりも、話のテンポやダイアログの面白さを選んだ、ということなのだろう。ちょっと考えるとものすごく不自然な話なのだが、少なくとも観ている間はその不自然さがそれほど気にはならない。狙ったコメディとは違うが、やはりシーンごとの「くすぐり」をかなり意識した脚本だったような気がする。主人公ユベール(ジャン・レノ)のキャラ設定も、シリアスというよりは劇画チックに誇張されているし、それは日本での助手役になるモモや、ユキを演じる広末涼子にも通じる(テレビ放映では吹き替えだったために、ヒロスエのフランス語がどうだったのかは判らなかったが、少なくとも日本人の耳には「上手なフランス語」に聞こえたようだ)日本側のヤクザの親分や、税関職員、刑事たちもやはり同様にリアルというよりはかなり誇張された、おふざけと紙一重の演技だった。これはやはり、そういうところを初めから狙った映画なのだと思うしかない。

 現実的に考えれば、そもそもユキがフランス語をしゃべれること自体が不自然だ。いくら父親がフランス人だからといって、それだけのことでしゃべれるわけがないし、フランス語が必要な環境にいたわけでもないらしい(税関職員や警察官、銀行員までもが流暢なフランス語をしゃべるなんて、ここは絶対日本ではない^^;)しかしそれをいったら成立しない話なので、その辺には「お約束」として目をつぶってくれ、ということなのだろう。スタトレなどでよく登場する、壊れた宇宙船の中なのに、まるで重力があるかのように全員キャビンにつっ立っているシーンと同じことだ。正直言って僕はヒロスエのファンではないし、彼女が美しいとか可愛いとか思ったこともないのだが、それでもこの映画ではせいいっぱい頑張ってユキを演じていたことは認めよう。ぬるい脚本もヒロスエの頑張りと、今回は受けに徹したジャン・レノの演技でそれほど気にならなかった。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ストーリィ展開も行き当たりばったりのご都合主義で、ユキの母親の遺品だったカギを使うためだけに京都へ行ったりする。カギは絵馬を開けるためのもの(てゆーか鍵付きの絵馬なんて見たことない)だったのだが、それが何かの謎解きになるのかというとそうでもなく、単に京都ロケをしたかったから脚本に書き加えた、という感じなのだ。やがて、ユキの母親ミコが何故ユベールを捨てて、姿を消さなければならなかったのかが明らかにされるが、フランス本国の中での話ならいざ知らず、こんな極東の片隅のヤクザ組織に潜入捜査などするものだろうか。フランス相手になにかでかい商売でもやっているならともかく、そんな描写もなかったし、やはりこれはむちゃな設定(遠く離れた日本に、なぜかユベール本人も知らない忘れ形見がいる)をなんとか主人公の責任にせず、観客に納得させようとする苦肉の策だったのだろう。

 ところでこのタイトル、映画の中盤に実物が登場するので、そこから取ったらしいことは判るのだが、一体何を意味していたのかは結局最後まで判らなかった。あるいは、お話があまりにもさび抜きのピリッとしないものだったので、せめて画像だけでもワサビを利かせたかったのかな。にしてもまさか本物のワサビをジャン・レノがあれほど頬張れるわけはないから、たぶん作り物なのだろうが、正体は一体何だったのだろう。・・・


15)黄泉がえり/塩田明彦;2002年劇場公開作品(3.31)

 物語は、九州阿蘇の山村で、突如として故人が再び生前の姿で遺族たちの前に現れる、という事件が続発するところから始まる。あちらの作品なら、ゾンビテーマのホラー映画にもなりかねないところだが、原作者はおそらくP.J.ファーマーの「リバーワールド」シリーズや、スタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」あたりを意識したと思われる、むしろ淡々としたお話に仕立ててきた。普通なら死者がいきなり生前の姿で現れれば、マスコミが黙っていないと思うのだが、映画ではテーマにふさわしくないと思ったのか、そのあたりはあっさりすっとばして、よみがえった死者と残された生者の関係にのみ話を絞っていく。

 ヒロイン葵(竹内結子)の登場シーンは、ちょっとカットの繋がりが不自然に思えるのだが、実はこれが物語のポイントとなる設定と大きく関係しており、点描されるさまざまな黄泉がえりの人たちや、それをとりまく人たちとのエピソードと合わせて、この監督の才気を感じさせる部分だと思う。しかし肝心の主人公平太(草なぎ-残念ながら彼の「なぎ」の字は、第二水準にも存在していない-剛)と葵との物語は、それほどうまく描かれているとは言い切れず、特に葵の死んだ恋人、俊介(伊勢谷友介)が結局ほとんど登場しないままおわるという、どうにも解せない展開になっていく。もしメイン・ストーリィをちゃんと描きたいのなら、ラーメン屋の主人(哀川翔)夫婦や使用人( 山本圭壱)兄弟のエピソードより、こちらに時間を割くべきだっただろう。それから、冒頭に謎の男女が登場し、終盤にそれがシンガーのRUI(柴咲コウ)とココリコ田中似のキーボード奏者(プロデューサー?)だったのだと判るのだが、このあたりも物語に密接に関連しているとはいえず、長すぎるRUIのコンサートシーンも相まって、どうしても、監督というよりはプロデューサーの意向を尊重した演出ではないかと思ってしまう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 復活した人々は、なんらかの超自然的な力により、自分たちがまもなくこの世に存在できなくなることを知り、その時に合わせてRUIが無料ライブコンサートを開く。葵のために俊介を復活させようと、彼が残した献体(角膜)を受け取りに阿蘇を離れていた平太は、葵にそのコンサートで会おうと約束するのだが、いくら昔と違ってみんな携帯を持っているからと言っても、何万もの人が訪れる場所を会合場所に選ぶというのは、通常ならまずあり得ない選択だろう。ここにはドラマの必然性はまったくなく、そこを舞台に設定したいというプロデューサーの願望しか読み取れない。

 結局、葵を存在させていたのは平太の想いだったことを彼女は知り(冒頭の繋がりの不自然な部分で、実は彼女は事故に遭い、すでに死んでいたのだ)自分が本当に求めていたのは平太だったのだと理解する。そして、二人が抱き合おうとした瞬間、葵は無数の光になって散ってしまうのだが、このあたりのビジュアルは、これまで散々見てきたファンタジー映画(スター・ウォーズ、ダーク・クリスタル等)のそれから一歩も出ることなく、正直言って陳腐な印象だった。最後には光になって消えるにしろ、ここはもう少し独自の演出を考えるべきだっただろう。

 原作を書いた梶尾真治という人は、この種の感傷的なストーリィが得意なSF作家で、もちろん本作もちゃんとSFとしての理由付けを備えているし、SFをSFたらしめている一番大切な要素、「外挿」をも一応はふまえている。しかし、本編に関するかぎり、それらのSF的ガジェットは結局夾雑物にしか過ぎない印象に終わってしまった。中途半端に科学を持ち込むのなら、むしろやらないほうがよかったかも知れない。それをやらなくても現象の説明は出来そうだし、別に説明できなくても、起こった現象だけで経験則的な原理原則を作り上げてしまうという、ホラー映画特有の方法論がちゃんと存在するのだから。・・・


14)氷の微笑/ポール・バーホーベン;1992年アメリカ映画(3.22)

 一見したところ、いかにもバーホーベンらしく猥雑な作品に見えるが、いささか扇情的すぎる場面に気を取られず、全体の構成に気をつけてじっくり観てみると、よく練られた脚本(製作会社のカロルコが300万ドルで買い上げた話題作)や、あちこちにちりばめられた犯人が誰かを示すヒントなど、バーホーベン作品には珍しくかなり知的な作品だったということが判る。ディレクターズ・カットの輸入盤LDには、巻末に一時間以上にわたるインタビューが収められているが、それによると監督のバーホーベンは、ハリウッドでの監督第三作を本編に決めた理由として、昔からヒッチコック風のサスペンス映画を撮りたかったことと、被害者にはならない強い女を描きたかったという二つの理由を挙げている。ヒッチコック風サスペンス、というあたりには、眉をひそめる識者も多いだろうが、実はヒッチコック作品は常にお上品だったわけではなく、単に時代の制約でああした描写に留まっていたに過ぎないことは、晩年の作品、たとえば「フレンジー」などを観れば判る。もしヒッチコックが今でも健在で、サスペンス作品を撮り続けていたとしたら、少なくとも性描写については、本編程度までエスカレートしていた可能性は十分あるだろう。

 後になり、扇情的なシーンについて「あれは監督に騙されたのよ」とか言っているシャロン・ストーンも、このインタビューでは自らの演じたキャサリンについていろいろ分析しており、後に大女優になってゆく片鱗をすでに見せている。バーホーベンの話によると、映画はすべて絵コンテに沿って撮影されており、その場の思いつきによるアドリブ的な撮影はいっさいなかったそうだ。例の取調室のシーンにしても、やはり詳細に切られた絵コンテに従って撮影されたらしい。アメリカではR指定作品として公開されたが、ディレクターズ・カットの本編では、R指定獲得のためカットされていた冒頭の殺人事件の数カットが復活している。それは被害者の元ロックスターがアイスピックで刺し殺されるシーンで、公開された映画にはなかった、アイスピックが顔面に刺さったり(!)首や胸を貫いたりする瞬間のカットだが、このために旧知の特殊効果マン、ロブ・ボッデンの名もクレジットされていた。

 さて、本編がアメリカ映画として一番異色なのは、何と言ってもラストまで犯人を特定しないまま終わっているところだろう。最後にベッドの下に置かれたアイスピックを映し出すことで、強く真犯人キャサリン説をにおわせはするものの、映画はそのまま終わってしまい、彼女が逮捕されたり、逆にニック(マイケル・ダグラス)が刺殺されたりする結末になっていないため、どう解釈するかは観客に任された格好だ。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 インタビューの中でもさすがに「真犯人は誰だ」みたいな質問はなかったため、具体的に誰が犯人かは特定していないが、最後に言いたいことは、と聞かれたバーホーベンが、ちょっと考えたあげくに「キャサリンは邪悪(evil)そのものだ」と答えていたことがすべてを物語っているのだろう。それまでも、「操る」(manipulate)という単語を使って、キャサリンとその他のキャラクターとの関係を説明しているので、事件の構図すべてがキャサリンによって描かれた、という前提のもとに演出していたことが窺える。

 また、ニックの相棒ガスが刺殺されるシーンでは、キャサリンの執筆中の小説にその予告ともとれる描写があり、劇中で真犯人とされた心理学者ベス(ジーン・トリプルホーン)がそれを読む可能性は皆無なので、やはり一番怪しいのはキャサリンということになる(そのことに事件後ニックが気づかないのは、ちょっと解せないが)個人的には、キャサリンが犯人だろうということに異存はないのだが(ベス真犯人説では逆にキャサリンのキャラクターが薄れてしまう)もう少し、観客を惑わすようなシーン(ベスもまたそうとうにしたたかな女だと思わせるような)があれば、もっと面白くなったかもしれない。・・・


13)ネバーセイ・ネバーアゲイン/アーヴィン・カーシュナー;1983年アメリカ映画(3.19)

 本編は第四作目のボンド映画、「サンダーボール作戦」(1965年製作)のリメイク作品だが、主演に同じショーン・コネリーをもってきたために、ちょっと奇妙な感覚に陥ってしまう不思議な作品になった。実はこの映画、サルツマン/ブロッコリのイオン・プロとは別のプロダクションで製作された、異色のボンド映画なのだ。原作の映画化権をめぐっては、いろいろと紆余曲折があったらしいが、その結果がこうしたリメイクにつながったらしい。コネリー以外の俳優が演じれば、単なる亜流作品で終わったところだが、主演に本家ボンド、ショーン・コネリーを配し、ボンドガールにはバーバラ・カレラとキム・ベイシンガー、敵役ブロフェルドにマックス・フォン・シドーと、かなり豪華な配役で、スタッフにも監督に「スターウォーズ帝国の逆襲」のアーヴィン・カーシュナー、音楽担当に「おもいでの夏」や「シェルブールの雨傘」のミシェル・ルグランを配し(モンティ・ノーマン作曲の例のテーマを使えなかったのはかなり痛い)大作ムードを盛り上げている。

 さて、映画そのものは「サンダーボール作戦」のリニューアルというか、焼き直しだが、20年の時代の変化は、核爆弾を運搬する手段を爆撃機から巡航ミサイルに変え、その強奪手段もテクノロジーを駆使したぐっとモダンなものになっている。核爆弾を強奪したスペクターがそれをネタに全世界をゆする、という構図は前作同様だが、具体的なストーリィはほぼ全面的に書き直され、撮影当時53歳になっていたコネリーに配慮してか、全体的にややまったりとした映画になっていた。本家ボンド映画は回を重ねるごとに大掛かりになり、荒唐無稽の色を濃くしていったのだが(同じ1983年に製作された本家ボンド映画は「007 オクトパシー」である)本編はそれに対抗するかのようにリアル路線に突っ走ったか、というとそうでもなく、物語そのものは負けずに荒唐無稽なのだが(まあ、原作が原作なので仕方ないのだが)セットやアクションが妙にこじんまりして、ややスケール感に欠ける作品になってしまった。例によってQの作った新兵器も登場するのだが、これもお約束の使われ方で新味がないし、潜水艦から打ち出される一人乗り空中ジープのような乗り物も、ただ単に「乗り物」として登場するだけで、ストーリィに絡むわけではない。本家シリーズでは、こうしたシロモノは無理にでもアクションと絡めて見せていたものだが。

 ラストの盛り上げ方が本家ボンド映画との一番の違いで、とにかく火薬を豊富に使った大爆発シーンがなければ終われない本家と違って、こちらのボンド映画は極めてこじんまりとしたエンディングを迎える。なにしろ最後の最後に登場するのが、若き日のミスター・ビーンことローワン・ワトキンソンなのだから^^;・・・


12)特殊部隊フォースメジャー ハイジャック殲滅作戦/ジョー・コッポレッタ;2000年ドイツ映画(3.16)

 ぼけっと「新スーパーマンIII」を観て、チャンネルをそのままにしていたら、珍しいドイツ製のTVムービーが始まった。冒頭、銀行(?)で立てこもり事件が起こり、特殊部隊が制圧に向かうのだが、なぜか彼らが使っている乗り物はTAV-8B、つまりハリアーの複座型なのである。屋上に着陸した二機のハリアーから特殊部隊隊員が降り立ち、見事犯人を制圧するのだが、犯人が人質に持たせていた手榴弾の処理に手間取り、隊員の一人が殉職してしまう。

 殉職した隊員の葬儀が行われた翌日、ベルリンから出発したジェット旅客機がハイジャックされるが、これには主人公の特殊部隊隊員フィリップの恋人も、スチュワーデスとして乗りあわせていた。犯人は最寄りの使われなくなった軍用飛行場に旅客機を着陸させ、そこを舞台に特殊部隊との駆け引きが始まるのだが・・・。

 いきなりハリアーが登場する目新しさで思わず観てしまったが、それ以外はわりとありがちな特殊部隊モノで、中盤から部隊内に潜む内通者が登場したり、冷戦時代のなごりのキャラクター設定があったりと、いかにもドイツを舞台にしたお話らしい部分もあるが、どちらもやや唐突で、もう少し脚本を練って欲しかったところだ。

 冒頭に出て以来まったく登場しなかったハリアーだが(あれは見間違えだったのだろうか、とすら思ってしまうほど出てこない)終盤やや唐突に再登場し、車で逃げる犯人と追跡劇を展開したりする。このハリアーはたぶん大型の模型なのだろうが、離着陸で出し入れされるギア類や、排気で飛び散る埃や木の葉は巧みにCG処理されており、場面によってはかなり本物っぽく見えた。操縦席のアップでは、HUDや風防枠、キャノピー破砕コードなどかなりそれっぽかったので、たぶん本物を借りて撮影したのだろう。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 実は部隊内の内通者とは、最初からフィリップたちと行動を共にしていた女性隊員なのだが、警察官をしていた彼女の父は、冷戦時代、東ドイツのスパイだったハイジャック犯に殺されていたのだ。しかし、物語は単なる復讐譚ではなく、ハイジャック犯が身代金としてせしめた大量のダイヤモンドこそが彼女の目的だった。あっさりハイジャック犯を射殺した女性隊員は、ダイヤを奪い、フィリップの恋人を人質に逃亡するのだが、前述のようにハリアーに乗ったフィリップに追いつめられ、最後の対決を迎える。このあたりの描写ははっきりいってほとんど新味はないのだが、まあTVムービーの限界だろうか。

 しかし結局なぜハリアーが必要なのかは、最後まで判らなかった。いうまでもなく、ハリアーはドイツ軍にもドイツ警察にも配備されていない^^;・・・


11)機動戦士ガンダムII 哀・戦士編/富野 喜幸;1981年劇場公開作品(3.14)

 先日観賞した劇場版「機動戦士ガンダム」の続編で、前回で地上に降り立ったホワイトペースが地球を半周した後、連邦軍の司令部のあるジャブローにたどりつき、そこで乗組員全員が正規軍として認証され、再び宇宙の戦場に戻るまでを描いた物語。連続もののテレビアニメには珍しく、物語中盤でレギュラーメンバーの一人が戦死するという衝撃的な展開だが、今回はさまざまな要素を詰め込まなくてはならなかったためか、死者ひとりひとりへの鎮魂の情がやや分散されてしまった感は免れない。総集編ならではの難しさだ。

 しかし、そうした点を除けば今回も富野マジックは健在で、傷つきやすいアムロのキャラクターを描く部分や、死んでゆく人たち、たとえばランバ・ラルとその妻ハモン、マチルダ中尉とその婚約者ウッディ大尉、薄幸の少女ミハルなどの登場シーンも、きっちりと収められている(冷静に考えれば、マチルダ中尉の死に方など常軌を逸していると思うが^^;)前回より大幅に増えた追加シーンも見どころで、たとえばテレビアニメ版のGアーマーのかわりに、映画ではコアブースターなる強化版コアファイターが登場し、セイラ・マス准尉の乗機として大活躍する。

 導入部と完結編とをつなぐ物語なので、どうしても中だるみ感は免れず、そうして意味では不利な条件にある作品だが、テレビアニメで印象的だったキャラクターやシーンを出来るだけ残そうとすれば、ある程度の冗長さは許容範囲と取らなければならないのかもしれない。・・・


10)夢のチョコレート工場/メル・スチュアート;1971年アメリカ映画(3.10)

 西武新宿線で新宿へ向かうと、左手に大きな工場が見えてくる。ロッテの新宿工場だ。どんなものを作っているのか以前から気になっていたのだが、前を通った人の話によると、強烈なミントの香りがするそうで、たぶんガムを作る工場なのだろう。いずれにしろ、お菓子工場というのは子供の頃から一度行ってみたい場所だった。

 さて本編だが、ワンカというチョコレートを作っている会社を舞台にしたミュージカルである。原作はかのロアルト・ダール。サキやO・ヘンリーと並び称される短編の名手が唯一残した童話作品だ。未読なのでどういう作品かよくは知らないが、だいたい忠実な映画化らしい。

 主人公のチャーリーは、四人の祖父母(父方母方の両方ということだ)と一緒に暮らす小学生だが、父がはやく死んだために新聞配達で一家を支えている。もちろん給金など知れたものだから、一家は貧困のどん底にあり、子供たちが大好きなお菓子も思うように買えない。そんな時、彼も大好きなワンカを製造している秘密工場に、5人の子供たちが招待されることになり、全世界でたった5枚の黄金のチケットがワンカに封入される。

 とにかく人々がワンカに熱中するさまが秀逸である。僕などは少し前のチョコエッグ騒動を思い浮かべてしまうが、もちろん映画の方がケタ違いに規模がでかい。オークション(ネットではない本物の)に売れ残りのひとケースが出品され、みるみる1.000ドル単位でせり上がってしまうくらいの加熱ぶりなのだ。なけなしのお金をはたいて買ったのに、チケットが入っていなかったワンカをしみじみ眺めてチャーリーが「金のチケットのせいでチョコレートがおいしくないね」とつぶやくシーンは、否が応でもダブりを引いたときのチョコエッグの味を思い出す(もっともチョコエッグのチョコは、もともとたいして美味しいものではなかった^^;)

 お金にものを言わせてワンカを買い占めたわがままな社長令嬢や、いつも何かを食べている食い意地の張った少年、テレビにしか興味のない子供などさまざまな当選者の中に、偶然拾ったお金で買ったワンカからチケットを見つけたチャーリーも入って(見つけたとたんにチョコを投げ捨てて走り出すとは^^;)一同はワンカの工場へと向かうのだが、実は子供たちはみな、ワルダという対抗するお菓子メーカーの社長から、大金と引き換えにワンカの工場内にある「なめても減らないキャンディ」を盗んでくることを持ちかけられていた・・・。

 チョコレート工場の主、ウィリー・ワンカを演じるのはジーン・ワイルダー。ちょっぴり剽軽だが、どこか不思議なワンカを演じるには最適な配役だろう。工場の内部は正直言ってあんまりファンタスティックではなく、いくぶんチープな雰囲気が漂っていた。本物の小人たちを使ったウンバ・ルンバとか、あまり高級そうには見えないさまざまなセットなど、あちこちに現実の尻尾が見えてしまうのがちょっと残念だった。このあたりの演出はやや退屈で、申し訳ないが一瞬うとうとしてしまったくらいだ。

 チャーリー以外の子供たちは、それぞれの本性をむき出しにしてパーティから外され、いつしかワンカ社長に同行するのはチャーリーと祖父だけになってしまう・・・。ここから先はネタバレになってしまうので書けないが、まあ子供向けのファンタジーらしい締めくくりには、ちゃんとなっている。もう少し特殊効果や美術関係にお金をかければ(せめて「オズの魔法使い」くらいに)もっと説得力のある映画になったのだろうが、そのぶんはレスリー・ブリッカス&アンソニー・リューリー(かの「ゴールドフィンガー」作詞コンビ)など豪華な作詞・作曲陣に使ったのだろう。この映画をミュージカル仕立てにする必要がどこかにあったような気は、残念ながらしないのだが。・・・


9)スモール・ソルジャーズ/ジョー・ダンテ;1998年アメリカ映画(3.7)

 ギズモが動くフィギュアに変わっただけで、ほとんどグレムリン^^;

 もし監督の名を伏せられても、そのテーマとタッチですぐダンテ作品だとわかってしまう、これはそんな映画である。一般的にダンテの作品は、「ピラニア」や「ハウリング」といった初期作品を除いては、かなりスピルバーグの影響が強いと思われているのだが、「グレムリン」「インナースペース」や「エクスプローラーズ」など一連の作品をよく観ると、実はこれこそが彼のオリジナルな持ち味ではないかと思われてくる。スピルバーグ風のけれん味たっぷりな演出は目立つものの、スピルバーグの演出とは立脚点が微妙に違うのだ。スピルバーグは自身は子供っぽいが、意外にも子供向けの作品はほとんどない。逆にダンテ作品は、大人が子供のために作ったちょっとだけ毒のあるファンタジー、といった風合いが強い。これは一見すると似ているが、よく見ると、ミルクコーヒーとブラックココアくらいの差があると思う。

 さて本編だが、いかにも現代の映画らしく、自律歩行するフィギュアたちはCGにより描かれている。しかし、意外に多くのシーンでマペットも使われていたようだ。キャスティングは、ダンテ映画には常連のディック・ミラー以外知っている俳優がまったく出ていないのだが、フィギュアたちの声を当てる声優陣は、戦争映画によく登場する俳優たち(トミー・リー・ジョーンズ、アーネスト・ボーグナイン、ブルース・ダーン、ジョージ・ケネディ等)が結集した非常に豪華なものだった。残念ながら日本語吹き替えで観たために、その効果はまったく判らなかったが^^;

 この映画のキモはやはり、普通なら人間の味方と設定されるであろう兵隊のフィギュアを、あえて好戦的な敵として設定し、ゴーゴナイトと呼ばれる怪物たちを逆に心優しい仲間としたあたりだろう。おもちゃ会社のトンマな技術者により、頭に軍事用の特殊チップを埋め込まれた兵隊フィギュアたちは、自意識を持ち、自発的に活動し始めるのだが、キャラクター設定にはあくまでも忠実で、兵隊フィギュア「コマンド・エリート」は仇敵ゴーゴナイトを殲滅することだけを目標に、主人公アランの家で戦闘を始める。傑作なのは兵隊たちがヒロイン、クリスティの部屋で発見した大量のバービー人形コレクションを、兵士に改造してしまうくだりで、おかしいがよく考えるとちょっと怖い。しかし、壊れた男性兵士のチップから作られたはずなのに、バービー兵士たちはみんな、過剰なまでに女っぽいのはどうしてだろう??

 映画はダンテの他のメジャー作品同様に、心優しいエンディングを迎えるのだが、すべてをあっさり金で解決してしまうおもちゃ会社のオーナーは、トランプ氏あたりをイメージしたのだろうか。彼が切った小切手の金額がいかほどだったのか、ちょっと知りたかった。・・・


8)機動戦士ガンダム/富野 喜幸;1981年劇場公開作品(3.6)

 これで何度目になるか忘れたが、とにかく数回目にはなる映画版の観賞である。もっとも、最後に観てからすでに10年以上が過ぎており、ここにひとこと記すのも今回が初めてだ。映画は、ほぼ一年にわたって放映されたテレビアニメを三部作に再編集したうちの、第一部に当たるものだが、そうと知らずに観れば、再編集版とは思えないくらいによくまとまった、なかなかの傑作である。これに匹敵する再編集作品としては、ウォルフガング・ペーターゼンの「Uボート」くらいしか思い浮かばない(TVミニシリーズ版についてはこちらを参照)よく言われる富野マジックの、これは最も成功した例なのだろう。ガンダムといえばまず思い出されるのは、個性的なキャラクターたちの名台詞の数々だが、これらも取りこぼしなく、かつ、ごく自然にちりばめられている。技術的に見れば、もちろん当時なりのつたなさはあちこちに残るものの、シナリオや演出はすでに完成の域に達しており、これから比べれば、昨年放映されていた「機動戦士ガンダムSEED」など、過去の遺産の縮小再生産にしか見えない。

 それにしても、毎回思うのだがすさまじい設定である。人類が宇宙に居住するようになってから、物語のスタートまでの間に、全人類の半数が死に絶えてしまうほどの大戦争があり、その部分だけでも何本もの大長編が出来てしまいそうなほどだ。これ以前にも幾多のSFアニメが作られ、なかには「宇宙戦艦ヤマト」のように絶大な人気を博したものもあったが、たしかに松本メカが画面狭しと飛び回る面白さはあったものの、SFプロパーな見地からは、ご都合主義ばかりが目立つ、たいして見るべきものもない作品であった。その点ガンダムは、その幕開けまでに要する壮大な歴史設定といい、人型兵器を必然化させるための大仕掛けな量子論レベルの科学設定といい、それまで類を見なかった大河SF作品としての風格を持っていた。基本的には、総監督をつとめる富野氏の歴史観や人生観が反映されている設定なのだろうが、その特質は、彼のそれ以前の作品から比べても突出している。

 ほんの少し残念なところは、新たに追加された部分と、オリジナルのTV放映版の部分との間に、わずかながらグレードに差があることだ。このことは監督も気になっていたらしく、第二部「哀・戦士」ではかなり新作の分量が多くなり、第三部「めぐりあい宇宙」になるとほとんど丸ごと新作になってしまう。もちろん本編の中にも新規に作り直した部分はさりげなく追加されており、有名なところでは、ガンダムが単機で大気圏突入を果たしてしまう場面で、テレビ版では薄いフィルム状の耐熱素材をかぶることでクリアしているのだが、本編では自らの排気で渦流を作り、その陰に隠れるというよく判らない手法に変更されている。しかし、こんなことで大気圏に突入できてしまうなら、後のZガンダムなど可変モビルスーツの必要性がなくなってしまいそうだが^^;(安彦氏もそう思ったのか、現在連載中のマンガ版「オリジン」では、なんとホワイトベースの陰に隠れて突入したという設定に再変更されている)

 それから、これはTV版の第一回放送から気になっていたのだが、最初に登場した3機のザクがコロニー内に侵入するシーンで、かれらはモビルスーツのために設計されたとしか思えないスイッチを操作して中に入る。あんなでかいツマミを人間に操作できるわけはないし、宇宙船か何かのマニピュレーターで回すと考えるのも無理があり過ぎだ。しかし、連邦軍のモビルスーツはまだ試作段階だし、この段階でジオン公国以外モビルスーツを装備している国家はないはずだから、サイド7のコロニーにモビルスーツ用の開閉スイッチが用意されているのは変である。こんなツマミなどわざわざ設定せずに、回路をショートさせるとかその程度にしておけば、これほど奇妙なことにはならなかっただろう。個人で描くマンガならまだしも、アニメの場合はいろんな人間が設定の辻褄合わせをしていたはずだから、誰も気づかなかったとは思えないのだが・・・・。

 まあ、こんなことは全体から比べれば実に些細なことであり、そんな瑕瑾など補ってあまりあるほどの作品なので、今回の評価は当然ながら・・・


7)エア・バディ ダンクを決めろ!/チャールズ・マーティン・スミス;1997年アメリカ・カナダ合作映画(3.2)

 しがない巡回ピエロの飼い主に捨てられたレトリーバーのバディは、父を失って引きこもりがちになっていた少年ジョシュにひろわれ、バスケットボールが出来るという(!)特技で人々の心をつかんで、やがて・・・という心温まるファンタジー。製作にはあのディズニーも絡んでおり、いかにも、というファミリー向けの作品に仕上がっている。少なくとも犬好きにはたまらない映画だろう。

 この映画の成功はまさに主演のバディにかかっている。この犬、特殊効果なしで本当に投げられたボールを鼻先で返し、シュートを決めるという特殊能力の持ち主なのだ。オットセイの曲芸などではよく見るシーンだが、同じことを犬にもやれるとは知らなかった。

 ファミリー向けの映画だから仕方ないのかもしれないが、人物描写がやや表面的すぎるのが気になった。たとえば冒頭、仕事でつらい目にあったピエロが自暴自棄になり、相棒の犬を捨てて去ってしまうのだが、その犬がバスケットボール犬として有名になっていることを知ると、取り戻しにやって来る。このピエロの描写があまりに単純で、物語を浅薄なものにしてしまっていた。やられ役として単純化されたキャラクターにしたかったのは判るのだが(こてんぱんにされても観客に不快感を与えないためだろう)おかげでもっと面白くなるはずだった話が、半端な形で終わってしまった。このピエロもまた彼なりのやり方でバディを愛していた、という設定なら、話にもう少し奥行きが出て、大人が見ても納得できる話になったと思うのだが。・・・


6)イノセンス/押井 守;2004年劇場公開作品(2.27)

 公開日より少し早い「ひとこと」だが、知り合いの編集者が試写会に連れていってくれたのだ。

 以前このページにも何度か書いたように、監督の押井氏とは感覚的に合わないところがあり、正直言ってこれまで彼の作品の評価はあまり高くなかったのだが、本編はそんな中にあって、意外と思えるくらい(僕自身の中では)評価の高い作品になった。

 タイトルではなぜか謳っていないが、これは間違いなく映画「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」の続編である。草薙素子を失ってしまった公安九課のその後の物語だ。失踪した素子がどうしているのかは観てのお楽しみだが・・・。主人公は前作で素子のパートナーとして活躍していたバトーで、テレビシリーズSTAND ALONE COMPLEXでは同僚として働いているトグサがパートナーとなり、事件の謎を解いていく。前作にもましてアクションはてんこ盛りで、そっち方面でのサービスも満点だ。

 シナリオは基本的に原作コミック第6章“ROBOT RONDO”を下敷きにしているが、原作は素子が人形使いに出会い、失踪してしまう以前の話なので、もちろん素子も登場している。二人の刑事がロボットの暴走事件を追って捜査していくうちに、さまざまな事件に巻き込まれる、という本編の展開は、考えてみると押井氏が降りてしまった「WXIII 機動警察パトレイバー3」によく似ているが、両者の間にはくっきりとした違いがある。パトレイバーの刑事の描写が、結局は空回りの目立つ雰囲気だけのものだったのに比べ、「イノセンス」では描写のひとつひとつに凝縮された意味が隠されており、常に作品のテーマと直結していた、ということだ。これまでの作品で目立っていた押井氏独自の組織論が、今回はほとんど表に出てこず、もうひとつのテーマ「人間とは、自分とは何か」がストーリィの展開と表裏一体となって、いわばお話の推進力の役割をちゃんと果たしていた。おかげで、これまでの押井作品とは違ってずいぶん判りやすい映画になっていた。ラストのオチなど、あまりに判りやすすぎて、なにか騙されたような気がしたくらいだ。

 大きなマイナスポイントではないが、映像的にいささか気になったのは、背景やメカのフル3D画面と、キャラクターの昔ながらの2D映像とがミスマッチに見えてしまったことだ。以前「青の6号」で書いたことの繰り返しになるが、3Dの背景やメカはフルアニメでスムーズに動いているのに、人物だけがリミテッドでカクカク動いていると、どうしても違和感のある映像になる。人物は輪郭線の中を指定色で塗りつぶした平面的マンガ絵なのに、背景はまだしも、自動車や飛行機までもが輪郭線のない立体的画像でむしろ実写映画的であり、それらが同じ空間の中に存在しているとしっくり馴染まない。僕が古いだけなのかも知れないが、せめて同一画面の中の「動くもの」くらいは同じタッチで描いて欲しかった。

 それから、これはちょっとしたイチャモンだが、キャラクターたち全員の台詞に異様に引用句が多いのは、なんとかならなかったのだろうか。一言二言なら効いてくるのだろうが、ああも度々やられると、「またですか」と思わざるを得ない。・・・


5)サラマンダー/ロブ・ボウマン;2002年イギリス・アイルランド・アメリカ合作映画(2.10)

 監督ボウマンの前作は、妙に説得力に欠けた劇場版の「Xファイル・ザ・ムービー」だったので、いくぶん危惧を感じながら観ていたのだが、残念ながらその危惧はほとんど的中してしまった。今回の作品は、Xファイルよりもさらに説得力に欠ける設定で(一番の責任はもちろん脚本にあるのだが)全世界的な災厄について述べているものの、結局はごく小規模な印象しか残らない典型的B級作品になってしまった。

 ロンドンの地下鉄工事現場から復活したドラゴン(いわゆる「サラマンダー」は「火の精霊」のことであり、翼のないトカゲとして描かれることが多く、本編のような翼のある「ドラゴン」とは区別される。ちなみに現生動物では両生類のサンショウウオの仲間をさす)が瞬く間に全世界を滅ぼしてしまい、絶滅に瀕した人類が種の存続をかけてドラゴンに立ち向かう、というのが物語の骨子だが、はっきり言ってこのドラゴン、どうみてもそれほど強そうには見えない。核攻撃にも耐え、むしろその影響で人類の方が絶滅に瀕してしまったという設定なのに、それにしてはランボー式の擲弾筒弓矢一発で退治されてしまうなど、とにかく弱すぎるのだ。火を吐くからには体温も相当高いはずだから赤外線誘導ミサイルの標的にもなるだろうし、羽ばたいて飛ぶのだから最高速もせいぜい200km/h程度であろう。口から吐く火の射程など知れたものだから、空中戦になったら超音速戦闘機どころか、レシプロ戦闘機の敵ですらない。パリの街が焼き払われるまで、人類が手をこまねいていたとしたら、それはたぶん人類の側に何か深刻な問題があったのだろう。ドラゴンがせめてギャオスほどにも強力だったら、これほど設定倒れにはならなかったのだろうが。

 閑話休題、かろうじて生き残った人類は古い炭坑の跡地に砦を築いて立てこもっており、そのリーダー、クイン(クリスチャン・ベイル)はかつてドラゴンの復活を目撃した少年の成長した姿だった。ある日、アメリカからC−5A輸送機に乗ってやって来たという、戦車を連ねたドラゴン狩りの一行が砦に立ち寄り、協力を求める。しかし、ドラゴンの恐ろしさを知っているクインたちは最低限の協力しかしようとせず、やむなくアメリカ人たちは彼らだけでドラゴン狩りを実行する。具体的には、彼らの装備するヘリコプターが狩りの手段として使われるのだが、ヘリコプターのような、整備にマンアワーを費やし大量に燃料を消費する乗り物が、こんな時代に運用可能なはずはなく(どこで燃料を手に入れるのだ?)このあたりで物語は一気にリアリティを失っていく。また、狩猟方法もかなり不可思議なもので、ヘリからメンバーがスカイダイビングの要領で降下し、空中でネットを広げてドラゴンを狩るのだが、どうしてこんなに面倒かつ危険な方法をとらなくてはいけないのかも、結局判らなかった。

 やがてロンドンに巣くうドラゴンたちのボス(たった一匹のオス)を退治するためにドラゴン狩り一行は出発するのだが、その途中でドラゴンの襲撃に遭い、ほとんどのメンバーは死んでしまい(戦車に乗っていた連中はどうなったのだろう)かろうじて生き残った隊長のヴァンザン(マシュー・マコノヒー・・・って、全然別人みたい^^;)とヘリコプターパイロットのアレックスだけが砦に戻ってくる。ドラゴンの狙いが砦に立てこもった最後の人間たちだと知ったクインは、意を決してヴァンザンたちとボスのドラゴンを仕留めにロンドンへと向かう。

 ロンドンに到着してすぐ彼らはオスのドラゴンに遭遇するのだが(ってヘリコプターで飛んでいけば、人間の耳だって数キロ先から接近してくることは判ってしまう)まず、どうしてそれがオスだとわかったのかよく判らないし(メスとは色が違うとか、極端に大きいとかいった差異はない)なぜたった一匹しかいないオスがわざわざ危険を冒してまで、自分を狩ろうとやって来た人間たちを出迎えたのかも謎だ。人間側はもともとたいした武器など持っていなかったのだから、数頭のメスが襲いかかるだけで武器を使い果たし、全滅していたことだろう。それにも関わらず物語はお約束のエンディングを迎えるわけだが、その展開も上映時間の問題でもあるのか、妙にあっさり終わってしまう。最近のこの手の話には珍しいほど捻りのない、直球勝負である。てゆーかはっきり言ってご都合主義の連続だ。この辺は、やはりご都合主義ばかり目に付いた「Xファイル・ザ・ムービー」に通じるところだ。

 メイキングを見る限りではドラコンのデザインはオリジナルらしいが、どう見てもこれは「ドラゴンスレイヤー」に登場したドラゴンそのものである。伝統的なドラゴンのように背中に翼があるのではなく、前肢が翼を兼ねているのも同じだし、顔の回りを角状の飾り突起が覆っているのもそっくり。もちろん火の吐き方とか、冒頭に出てくる歩き方などもそっくり同じだし、飛んでいる姿なんか翼に開いた穴まで同じだ^^;これほど似ていて何か問題は起きなかったのだろうかと思ったのだが、「ドラゴンスレイヤー」も本編も同じディズニー系の作品なので、事前にそういった問題はクリアしていたのかもしれない。・・・


4)ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間/ピーター・ジャクソン;2001年アメリカ・ニュージーランド合作映画(2.7)

 もちろんロードショー公開時に観ているのだが(実は先行ロードショー^_^)当時は映画館で観たものについては書かなかったので、今回改めてテレビ観賞し、当時の思い出も含めて書こうと思う。

 実をいうと、僕はこの原作について非常に気になっており、かつて分厚い原作本を購入したものの、手が疲れて(?)あえなく挫折、それなら小さい文庫本ならよかろうと全6卷購入したものの、こんどはあまりに小さな活字に閉口して(現在出ている版は普通の大きさに直されている)これまた挫折、ラルフ・バクシ版アニメ映画も途中で寝てしまうというふがいない状態であった。で、結局のところ「ハリー・ポッターと賢者の石」同様、ほとんど白紙の状態で映画版の観賞に臨んだのだった。

 まず冒頭の、冥王サウロンの軍勢に対するエルフと人類連合軍の戦闘シーンに圧倒された。とにかく、これまで見たこともないほどの規模で描かれた群衆シーンの迫力が凄い。もちろん現実にこれほどの人数を(しかも鎧兜を着せて)一ヵ所に集めることは不可能なので、ほとんどはCGで描かれた兵士なのだが、まばらにいるはずのライブアクションの俳優たちとの違和感はまったく見られなかった。ちょっと前の「タイタニック」や「バットマン・フォーエバー」などに登場したCG人間たちの不自然さから比べると、技術の進歩にはまったく驚かされる。

 それと対比するようにのどかなホビット庄の日常がまた素晴らしい。撮影地はニュージーランドだということだが、多少は大道具が手を加え、また、背景にCG加工を施されているとはいえ、そうした部分を差し引いても実に美しい風景だ。この雰囲気、どこかで一度見たことがある、と思ったのだが、確か「ベイブ」の撮影地もまたニュージーランドだった。古き良きイングランドの片田舎風の風景は、もはやここまで行かないと残っていないのかも知れない。

 主人公フロド(イライジャ・ウッド)がいかなる経緯で指輪を手にし、それをモルドールの火口に捨てるという困難な旅に出ることになるのか、映画は長大な原作を手際よく料理している。ややテンポが速すぎる感はあるが、これくらいでないと三時間の上映時間にはとても収まらないだろう。次々に襲い来るサウロンの手下たちや、困難な旅路で遭遇する怪物たちとの戦いはそのいずれもが過去に類を見ないほどの迫力で、その合間に訪れるエルロンドの館やロスロエリンなどエルフの領地の美しさもあいまって、これまで観たあらゆるファンタジー映画を遥かに凌駕する見事な作品になっていた。

 もちろん三時間の枠の中では、たとえばボロミアの心変わりなどやや唐突に見えてしまうのはやむを得ないが(むしろボロミアは最初から指輪に執着しているように見え、彼を仲間として信頼する「旅の仲間」たちの方が不自然に感じられた)そんな瑕疵などほとんど気にならないほど丹念に描き込まれた世界観に圧倒され、観客はただただ監督の手のひらの中で転がされるばかりだ。ただ、アルウェン(リブ・タイラー)とアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)のラブシーンだけは、どことなくぎこちない雰囲気が漂っていた。もともと人間とエルフという異種族間の恋だけに、自然な表現は難しいのだろうが・・・。

 聞くところによると監督のジャクソンは筋金入りの「指輪」オタクだそうで、確かに、それならばこそのこだわりがあちこちに見て取れるが、往々にしてディテールに捕われ、結果的にいびつな作品になってしまうことの多いカルト映画の類例からは、見事に解き放たれた作品になっていた。少なくともほとんど予備知識なしに観た僕にも、難解だと思えるところはなかったし、萌え言語をちりばめて部外者をシャットアウトするような姿勢もまったく感じられなかった。

 余談ながら本編を観たのは当時近くに出来たばかりのシネマ・コンプレックスで、9面あったスクリーンのうちの最大のものであった。500席ほどの映写室で、地方の大型映画館なみの規模だが、これだけの大きさにも関わらずスクリーンにはほとんど湾曲がなく、非常に見やすかった。ボーズの音響システムも素晴らしく、あれ以来歌舞伎町の映画館街にはほとんど足を運ぶこともなくなってしまった。家の近くにこうしたシネコンが出来ることは嬉しいが、活動範囲がいくぶん狭まってしまうことにもなり、そういう意味では善し悪しである。

 本編に続く第二部、「二つの塔」はすでに観賞し、ここにひとこと記してある。一週間後には完結編となる「王の帰還」も公開されるが、通常なら一作ごとにパワーダウンしてしまうシリーズもののパターンとは違って、アカデミー賞に11部門もノミネートされ、作品賞の本命との声も高い。もともと連続するひとつの物語として、一度に撮影してしまったおかげかもしれない。いずれにしろ、観賞するのが今から楽しみである。・・・


3)カルテット/久石 譲;2000年劇場公開作品(1.28)

 う〜〜〜ん、やはり餅は餅屋、ということだろうか。いかにも音楽家の撮った映画らしく、いわばスポ根もののミュージシャン版といった風味で、相当に特訓を重ねた演奏シーンはそれなりに様になってはいたが(それでもやはり、俳優たちの抱えた楽器から音が出ているようには見えなかった)それ以外の部分はもっぱら俳優たちの演技力と、カメラマンの手腕に頼っていたような感じがつきまとう。観客へのサービスなのか、演奏シーンには監督自身が作曲したジブリ映画や北野作品のテーマ曲も登場するが、当たり前の話だがこれらは映画音楽なので、映画を観ながら別の映画を思い浮かべてしまうという奇妙な状況が出現してしまう。いくら自ら書いた曲だといっても、いったん世に出てしまった作品は独り歩きするものなのだ、ということを久石氏お判りなのだろうか。

 脚本はこれ以上ないくらいに凡庸な出来だが、映画の筋立てにはこれといった破綻はない。しいていえば、物語後半で主演の袴田吉彦に関わる人間たちが入れ替わりに登場し、彼の出自や置かれている状況をべらべら語りだすあたりがやや無理めな感じがするくらいで、このあたりをもう少し突き詰め、予定調和的なエンディングをあえて外していれば、もうちょっとは評価に値する作品になっていたかも知れない。・・・


2)パラサイト/ロバート・ロドリゲス;1998年アメリカ映画(1.25)

 いかにも「フロム・ダスク・ティル・ドーン」を撮ったロドリゲスらしい、おバカな乗りの青春パニックムービーである。

 とにかく配役がいちいち面白い。主人公のいじめられっ子、ケイシーにはホビットのフロド役でブレイクしたイライジャ・ウッドが扮し、有り余る科学の才能を合成ドラッグの開発に浪費している不良学生ジークにジョシュ・ハートネット、最初にエイリアンに乗っ取られ、学園を恐怖に陥れるフットボール部のコーチにロバート・T-1000・パトリック、お堅くさえない外見だが、エイリアンに乗っ取られた途端に隠されていた本性がむき出しになり、ジークを誘惑する女教師に元ボンドガールのファムケ・ヤンセンといった按配だ。

 ある日ケイシーが学校の校庭で発見した奇妙な生物が、実は人間に寄生し、体を乗っ取って人格をコントロールしてしまう怪物だと判るのだが、そいつがどこから来たのか、一体何者なのかといった部分はあっさりと飛ばし、物語は彼らに寄生されたゾンビ人間たちと、寄生されなかった一握りの学生たちとの戦いに絞られる。なぜか、ジークが開発した合成ドラッグがその寄生生物に対抗する特効薬と判り、寄生生物の女王を捜して倒そうということになるのだが、どうしてパラサイトたちに女王が存在すると判断できたのか、結局最後まで判らなかった。もちろんその女王は、冒頭からそうではないかと睨んだ通りの人物なのだが。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ラストでジークの作ったドラッグを目玉に注入されて、あえなくパラサイト女王は退治されてしまうのだが、彼女が死んだ途端に他の人間たちに寄生していたパラサイトたちもいっせいに死んでしまい、ご都合主義的にも寄生されていた人間たちはあっさり元に戻ってしまう。女教師バークなど、ジークの乗った車から放り出されて首がもげてしまい、それをパラサイトがタコのような触手でなんとかもとの体に合体させるのだが、その彼女ですら事件後にも健在で、ジークといい仲になっている始末(このあたりだけ乗っ取られた影響が残っているということ?)結局この話の中で死んでしまったのは、途中でケイシーたちに退治され、灰になってしまった校長先生くらいのものだった。いっそのこと校長も灰の中から復活すれば面白かったのだが、これでは完全にギャグになってしまうな^^;・・・


1)風花/相米 慎二;2000年劇場公開作品(1.21)

 小泉今日子の風俗嬢、という設定そのものに無理があり、お話の説得力を大幅に削いでしまっていた。もちろん小泉の演技力に問題がある、というのではなく、単に「らしくない」のである。だから、たとえキャバクラで浅野忠信の股間に顔をうずめるシーンがあっても、「行為」そのものを連想させることはない。やはりミスキャストと言わざるを得ない。ここはやはり話題性を犠牲にしても、そういった役柄が似合いそうな演技派女優を選ぶべきだっただろう。

 一方の浅野はさすがの演技力で、酔っぱらったときのちょっとかわいげな酔漢ぶりと、素面のときのいかにも高級官僚候補生といった、面白みのない人物を巧みに演じ分けていた。

 物語は、ひょんなことから知りあった謹慎中のエリート公務員、浅野と、風俗嬢小泉が彼女の故郷北海道を目指すロード・ムービーだが、ロードムービーというにはいささか旅の途中のエピソードに欠け、同行することになった次のカットでは、二人はすでにピンクの四駆で北海道を走っているといった具合。

 演出はいかにも相米らしい長回しの連続で、それはそれで効果を上げてはいるのだが、とにかくやたらと時間を食ってしまうので、話の展開は極端に遅く、また大ざっぱに進む。今回は倒叙的に事の顛末を説明するシーンが挿入されているのだが、そのやり方がちょっと脈絡に欠け、ときどき観る方を混乱させる。

 総じてかつての面影の残滓しか残っていないような作品になってしまっていたが、それでも腐っても相米、たとえば睡眠薬自殺を図った小泉が雪原で舞う幻想的なシーンなど、強く印象に残るシーンはわずかながらあった。

 相米はこの作品の完成後、程なくして肺ガンにより亡くなってしまうのだが、遺作というにはちょっと力を抜きすぎた小品、というしかない。・・・


ホームページへ 映画にひとことメインページへ 映画にひとこと'03へもどる 映画にひとこと'05へジャンプ