前作の金子修介版「大怪獣総攻撃」を見逃してしまったので(その後しっかり観賞。感想はこちらに^^;)偶然にも手塚 昌明版ゴジラ映画を続けて二本観ることになってしまった。前作でいろいろ小細工しすぎてかえっておかしくなってしまった反省か、今度は極めてストレートな、判りやすいゴジラ映画になっていた。ちょっと判りやすすぎて、元祖ゴジラシリーズのように、対象がどんどん低年齢化しているのは気掛かりだが、なまいきなハイティーンはどうせアニメに持っていかれるから、端から無視して作ったのだろうか。それにしても、いちいちお約束な展開の連続にはちょっと呆れてしまった。平成ガメラの影響か、徹底してローアングルの構図は、以前よりだいぶこなれてきているのだが。
この映画の世界では、ゴジラは昭和29年に一度登場して以来、50年間ものあいだ日本には現れていないことになっている(もちろん前作も前々作もなかったことに^^;)それ以外の怪獣は、モスラとガイラが日本を襲ったことになっているが、これはたぶん登場するメーサー殺獣車の説明のために必要だったのだろう。50年後、第ニのゴジラが館山を襲い、街を壊滅させたことからメカゴジラを作る法案が通り、各界の頭脳を集めて製作がスタートする。このあたりの展開は、誰が見てもゴジラ=核兵器のメタファーで、北の某国あたりは「いよいよ日本も核兵器製造に着手か」などと神経をとがらすかも知れない。なにしろ時の総理大臣(なんと水野久美)が「ゴジラの被害を受けた唯一の国として」などと発言しているのだ。この言い回しが何を指しているかは明らかだろう。それでなくてもこの映画、これまでになく自衛隊が前面に出ている。主人公が所属するのは、防衛隊でもGフォースでもなく、「特生自衛隊」という名のれっきとした自衛隊内の一組織なのだ。最初のゴジラ映画から現在までに、国民の意識はこれほどまで変わった、ということなのだろうか。
新兵器メカゴジラこと機龍は、なんと第一作ゴジラの骨(オキシジェン・デストロイヤーで退治された)から採取したゴジラ細胞からDNAコンピューターを作ったという設定。DNAの塩基は四種類あるので、オン、オフ二種類のデジタル信号より遥かに多くの情報を処理できる、という判ったような判らないような理屈で押し切られてしまうが、ゴジラの声に同調して暴走してしまう、という設定上の都合でわざわざひねり出したのだろう。もっとも僕も「新世紀日米大戦」で「量子コンピューター」なる似たような理屈のシロモノを登場させた前科があるので、人のことは言えないが^^;
さて、肝心のメカゴジラのデザインだが、これはただもう「伝統芸」の世界だというしかないだろう。ゴジラに対抗する戦闘マシンがなぜゴジラの形まで踏襲しなくてはならないのか、まったく説明になっていないし、こんなにゴテゴテ飾り立ててちゃんと動けるのか、と心配になるくらい装飾過剰。さすがに動きづらかったのか、終盤では背中に背負っていたロケットパックみたいなものを、ゴジラに投げつけたりしていた(^_^)ゴジラと格闘するときすさまじいGがかかるので、人間は中には乗らずに遠隔操縦するのだが(つまり巨大なラジコンゴジラというわけ^^;)格闘の途中でアンテナが破損すると、オペレーター家城 茜(釈 由美子)はメンテナンスハッチから内部に乗り込み、直接操縦することになる。内部にもちゃんと操縦できるシステムが用意されているのも不思議だが、それができるのになぜかシートは折畳み椅子で、シートベルトすらない^^;本格的なシートにしてしまっては、あまりにご都合主義に見えると思ったのかも知れないが、たとえ折畳み椅子だってご都合主義には違いないのだ。上映時間の関係で仕方なかったのかも知れないが、せめて整備のシーンで一度でも出ていれば(さらにその存在理由もそれとなく説明していれば)それほど唐突な感はなかったのだろうが。
主演の釈は、テレビドラマなどで見るかぎりは意外にも演技の引出しが多そうに感じるが、本編ではとにかく固く、いかにもコチコチの女性自衛官という感じ。キャラクターを掘り下げる努力などほとんどない映画なので、どうしてそうなってしまったのかは良く判らないが、彼女の判断ミスにより兄を失った隊員から酷く罵倒されるシーンなどで、メンバーの中でもひとり浮いているという設定は判りすぎるくらい判った。しかし、どんな理由があろうと、公衆の面前で同僚を罵倒してしまうほど自己抑制のできない隊員に、他のメンバーは自分の命を預けたりできるものなのだろうか。
それにしても今回のゴジラは大根だった。以前は確かにあった、動きによる演技が今回はほとんどなく、ただ漫然と動く、止まる、ただそれだけだ。着ぐるみの材質が固かったのだろうか。とにかく生物感がまるでなかった。アメリカ版GODZZILAまでとはいわないが、もうすこし生きている感じがあっても良かっただろう。・・・
かつてTVシリーズ化されたこともある、有名なアメリカン・コミックの映画化、という点では「スーパーマン」「バットマン」あるいは「スパイダーマン」と同じ流れだが、大きく違うのは監督に台湾出身のアン・リー(李 安)をもってきたことだろうか。そのせいか、従前のヒーローものとはどことなく肌合いの違った作品になっていた。が、それが作品の魅力になっていたかというと、即答するのはちょっと難しい。
主人公の科学者がガンマ線を浴びて、激怒すると超人ハルクに変身する体質になってしまう、というのはオリジナルと同じだが、今どきそれだけでは説得力にかけると思ったのか、本編にはもう一つのキーワード、遺伝子工学が登場する。60年代、軍でバイオテクノロジー(本編ではナノテクノロジーと言っているが、内容を見るかぎりではバイオの方が近いだろう)により、人間を不死身の体に変えてしまう実験を行っていたブルース(エリック・バナ)の父は、極秘のうちにみずからの体を使って人体実験を試みていた。やがて生まれた彼の息子、ブルースにもその遺伝子は受け継がれていたのだ。そして、その遺伝子は強いガンマ線を浴びると発現する仕掛けになっていた。
成長して父と同じ生化学者になったブルースは、事故で致死量のガンマ線を浴びてしまうが、なぜか体調に変化はなく、そればかりか持病であった膝の痛みまでが消えてしまう。彼のかつての恋人であり。現在も同僚のベティ(ジェニファー・コネリー)はそれをいぶかしく思うが、ベティの父、ロス将軍はブルースの出自を知り、二人を引きはなそうとする。ロス将軍こそ、ブルースの父に研究を命じていた上司だったのだ。
物語はここに典型的悪役、軍をやめて製薬企業のコンサルタントになったグレン(ジョシュ・ルーカス)が加わることによってお定まりの展開を始め、やがてブルースはついにハルクへと変身を遂げる。おもしろいのは、普通のスーパーヒーローものでは必ずヒーローは正体を隠し、一般市民とスーパーヒーローの二重生活を行うものなのだが、ハルクは最初の変身を再会した父(ニック・ノルティ)に目撃され、次にはグレンの目の前で変身してしまう。最初からこれだけ正体の明らかなスーパーヒーローも珍しいのではないだろうか。
ハルクはコミックのイメージを極力大切にCG化されており、漫画的印象と実写のリアリティを同時に満足させようとした意図はわかるのだが、やはり幾ばくかの不自然さは残ってしまった。モーションキャプチャーできる動きはまだしも、人間には到底不可能な動きをさせると、やはり嘘っぽく見えてしまう。「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」でも書いたことだが、この辺が今の技術の限界かも知れない。
手塚治虫の実験作「ジャンピング」を思わせるハルクの跳躍移動や、砂漠地帯で繰り広げられる戦車や攻撃ヘリを相手にした戦いは、馬鹿馬鹿しいまでに爽快であり、M1戦車の砲身を握ってのジャイアント・スイングなど思いきり力の入ったCG映像だった。また、映画にはたぶん初登場のRAH-66コマンチは、現実のヘリコプターよりやや敏捷すぎる嫌いはあったものの、CG丸出しというほどのこともなく自然に飛び回っていた。ただ、ハルクの体温が摂氏数百度、ということでもないかぎり、熱線追尾型のミサイルは無効である。まあ、一発も当たっていないので(一発だけ追尾しているように見えたのは、気のせい?)その辺は判っていての演出なのだろうが。
しかしこうしたアクションシーンに比べ、人間ドラマの方はお世辞にもよく出来ていたとは言い難い。まず、父とブルースの関係が最後までよく判らなかった。父は自分の遺伝子を受け継いだ幼いブルースを、不憫に思ったからこそ殺そうとしたのだろうが、その後の生き方はそれとは正反対で、100%自分のためだけにブルース(の遺伝子)を利用しようとする。一方のベティも、ハルクに変身した後のブルースを、監禁され、実験材料にされるとわかっていながらも父の率いる軍に引き渡してしまう。その場その場でキャラクターが何を考えているのか、どうも判然としないのだ。おかげでどんなにハルクが大暴れしても、カタルシスとは無縁の映画になってしまった。・・・
タイトルからは、ある犯罪が発生して、その犯人とは別の人間が事件をまねた犯行を犯し、事件を追う刑事たちと三つどもえの追跡劇を展開する、とか、過去の有名犯罪をそっくりまねた連続犯罪が起こる(はもう「コピー・キャット」でやってるか)というようなクライムフィクションを予想したのだが、全然違っていた。そもそもこの内容なら、「模倣犯」というタイトル自体ほとんど意味をなしていない。それでもまあ、前半一時間くらいはそれなりに面白かったんだけど・・・・。
爆笑問題の登場シーンのあと、物語は時系列を一気に遡って、犯人側からもう一度事件がなぞられるわけだが、そのあたりから映画は???の連続になってしまう。話は事件の発端に近い部分に戻ったものの、その後にも何度か時系列を往復しているために、映画の「現在」が一体どこなのか判りづらくなってしまった。いい加減気を持たせたあと、ようやく登場した中居クンは、歌以外なら何をやってもそこそこにこなす、ある意味器用ビンボーなアイドルだが、今回もまた知能犯である犯人を彼なりにキチンと演じていた。まあ、欲を言えば、SMAPなら中居クンより木村クンの方がこの役には合っていたような気がするが。しかしたとえ木村クンが主演していたとしても、この映画の悲惨な結末は救えなかっただろう。
自分のクレバーさに絶対的な自信を持っている主犯のピース(中居 正広)の行動が、実はけっこう場当たり的で(少なくとも観客を納得させるほどのクレバーさは発揮していない。重要な場面で何度も証人に目撃されているし、終盤、みずからに嫌疑がかかるのを承知でマスコミに登場したりしている)自らの台詞のような、犯罪を通じて人類を進化させるようなレベルには到底達していない。要するにリアリティのある犯罪ドラマとしては、成立していないのだ。そもそもそのあたりのことは、森田にとってはどうでもよかったのだろう。森田の頭にあったのは、マスコミ対個人とか、デジタルvsアナログとかいった対立の構図にキャラクターたちを当てはめることだったと思われる。そのためにくどいほど事件に関するテレビニュースの映像や、カメオ出演したタレントたちのCMが流れるし、デジタル変調された中居クンの声が(でも変調されたにしては、すぐ中居クンだとわかった。英語やフランス語でしゃべるシーンでは少し自信がなくなったが、それもそのはず、あの部分は別人がしゃべっていたのだ)その構図を判りやすくしていたようにも思える。もっとも、そのわりにはデジタル社会の真の意味や怖さをちゃんと表現できていたとはとても言えないが。
ドラマの構成自体、かなり乱暴な部分が多く、たとえば物語の語り手、豆腐屋(山崎 努)の孫娘、鞠子(伊藤 美咲)が行方不明となる(10ヶ月後に遺体で発見)のが事件の発端なのだが、事件のあらましが明らかになる後半部で、彼女が携帯メールで誰かから指示され、どこかへ向かう途中でピースたちに拉致されたあと(具体的な拉致シーンは出てこない)「殺されてもいいから、おじいちゃんには私がどこへ行こうとしていたのか言わないで」と懇願する台詞が出てくる。これは何かの伏線なのかと思って観ていたのだが、結局なんのタネ明かしもなしに、映画は終わってしまった。鞠子ネタとしては、入院している鞠子の母に見せるために、山崎がニセ手紙をしたためているシーンなど(バックに流れる「カナダからの手紙」はいくらなんでもクサ過ぎだ^^;)森田らしい演出だと思ったのだが、この映画の中で、彼らしい閃きはここくらいしか見当たらなかった(もちろんチューブ入りのコンデンスミルクとまるごとの苺を交互に口に入れたり、パインの切り身を缶から直接フォークで食べたり、「消えもの」シーンにこだわる森田らしい演出はみられるものの、その意図するところは残念ながら判らなかった)
また、ピースが事件の真相に感づいたらしいカズアキ(藤井 隆)を、共犯者のヒロミ(津田 寛治)もろとも謀殺してしまうあたりは、あまりに唐突な演出で呆れてしまった。主犯が邪魔になった共犯者を始末する、という展開自体はこの手の犯罪ものの定番ではあるが、いつからピースはヒロミまでも消してしまおうと思っていたのだろう。映画ではその辺がまったく描かれていないために、ピースの行動原理がもうひとつ判らない。全体的にこの映画、キャラクターが動く動機がいちいち不可解だ。どこに真実があるのか、まったく見えてこない。ミステリー最大の成立要件は、「真実はいつもひとつ」(by 江戸川コナン)ということなのだが、この映画にはまさにそれが決定的に不足しているのだ。
しかし、なによりこの作品を噴飯物に貶めてしまっているのは、ルポライター前畑 滋子(木村 佳乃)や刑事たちによって追いつめられたピースが、ワイドショーのスタジオで爆死(?)する部分で、端からリアリティをまったく求めていない奇妙なGCのおかげで、映画そのものが一種のおふざけに堕してしまった感すらある。具体的に、ピースは何によって死んだのだろうか。もし手榴弾のようなもので爆死したのなら、すぐ横に並んでいたキャスターやコメンテイターが無事なわけはなく、さりとて、爆発力を伴わないものであのように首がもげたりするはずもないわけで(しかもその首は、しばらくの間重力に逆らって、炭化して粉々になるまで宙に浮かび、カメラを通して視聴者を睨み続ける^^;)森田 芳光のイメージするデジタル・ファンタジーの世界での爆死、ということなのだろうか。しかし、全体的にファンタジーというならまだしも、日常的描写の続くドラマの中で、そこだけ唐突に現実離れした映像を挟み込まれても、観客はただ戸惑うばかりだ。
とってつけたようなラストは論外(~_~;)これではピースがそれまでしてきた主張と完全に矛盾するし、だいたい赤ん坊の母親は誰だったのだ?10ヶ月、という月日から、実はその赤ん坊はピースと鞠子の間にできた子だ、という説もあるが、ちょっと無理がありすぎ。総じて、いかにも伏線のような展開には結局結びがないし、ラストでは逆に何の伏線もなく忘れ形見を登場させたりと、狙っていたとしてもこの混乱は目に余る。監督のみならず、脚本も手がけた森田の責任は重いと言わざるを得ない。・・・
昨年の邦画としては、かなり評判のよかったものなのだが、観終わったあとの評価は・・・そう悪くはなかったけれど、絶賛するほどの出来でもなかったなあ、というのが素直な感想だ。
原作を書いている佐々淳行を役所広司が演じ、彼が警察庁から長野県警に送り込まれ、事件の指揮をとることから生じる軋轢が物語の縦糸、というか、ほとんどメインのストーリィとなる。どこかユーモラスな会議シーンの数々は、原田の前作「金融腐食列島・呪縛」からの繋がりなのだろうが、警察ものとしてはもちろん「踊る大捜査線 The Movie」を多いに意識したものでもあろう。
物語は徹底して警察側からのみ描かれており、その頃あさま山荘内部で何が起こっていたかについてはまったく触れられていない。描写はただひたすら攻める側の警察内部のみに限られる。というより有り体にいってしまえば、主人公の佐々が無能な官僚主義者たちの中でいかに奮闘したかを、2時間かけてこれでもかと描写した作品といえるだろう。なにしろ原作者が主人公なのだから、一番正当なキャラが自分自身になってしまうのは当たり前の話だ。この手法は、たとえば「13デイズ」や「ブラックホーク・ダウン」などのような最近の実録映画の常道のようだが、これらハリウッド作品は、そもそも相互理解の難しい相手と敵対した時の話であり、本編のように事件が日本国内で起こっており、当事者もすべて日本人の場合にまで同じ手法で描いてよかったのだろうか、という疑問は残る。この映画を見ても、連合赤軍のメンバーたちがなぜあさま山荘に立てこもることになったのかまったく判らないし、それよりまず、連合赤軍とは何だったのかすらほとんど触れられてはいない。
実は僕もあのテレビ中継にくぎ付けになった世代であり、当時のことはよく覚えている。映画では2時間少しの上映時間でことは終わってしまうが、現実には一週間以上にわたって膠着した現場だったのだ。世間の関心はいやがうえにも高まり、だからこそ10日目にして突入作戦が開始されたとき、テレビ局はすべての番組をすっ飛ばして延々と生中継したのだ。人質が解放され、テレビカメラの前を引き立てられていく連合赤軍のメンバーたちの姿は、今でもありありと覚えている。そんな彼らについての描写がまったくといっていいほど欠落した本編には、どうしても一面的、という印象を抱かざるを得ないのだ。
技術的には、例によって銃声の嘘っぽさが気になった。山に囲まれたあのような土地で窓からライフルを発射すれば、その発射音は山々にこだまし、本編のいかにも音効さんがライブラリーから拾ってきました、というような感じの音には絶対にならなかったはずだ(まあ、ある程度は雪に吸収されたかも知れないが)また、音楽の方も変にのどかな感じを強調して、緊張感を殺ぐことおびただしかった。確かに度重なる会議のシーンなど、意図的にユーモアを強調するシーンも多かったのだが、音楽くらいは逆に締める方向に向かわないと、だらけた印象しか残らない。本編が与えるどこかまったりしすぎた雰囲気は、この音楽によるところが大きいのではないだろうか。
しかし、なにより残念だったのは、構図の分かりにくさである。会議シーンの序列など、演劇的に重要なシーンではかなり神経を使っていたのだが(たとえば県警本部長の着座位置など)肝心の突入シーンは平板なアングルで、建物内における犯人たちとの位置関係や、建物のどこから警官たちは突入したのか、などという重要なファクターがおざなりにされていた。キャラクター相互の位置関係は、映画に限らずマンガや落語など、ビジュアル的要素のある娯楽すべてにわたって守らなければならない大原則だと思うのだが、このあたりが「ガンヘッド」の監督には限界なのかもしれない^^;・・・
6本作られたスター・トレック(オリジナル・シリーズ)劇場版のなかで、おそらく最低の評価を与えられた作品。第10回ゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)の作品賞、監督賞、主演男優賞を総ナメにしたのだから、半端ではない^^;
ストーリィはけっこう単純。物語の重要な核となるバルカン人のサイボックは、スポックの異母兄弟という設定なのだが、ある目的のために惑星ニンバス3で叛乱を起こす。サイボックには人の心を操る特殊能力があり、おかげで叛乱の収拾に来たエンタープライズのクルーたちは、艦長たち3人を除いてみな洗脳され、艦はサイボックの目的地、禁断の惑星シャカリーへと向かうのだ。このシャカリーでのエピソードがまた、とても劇場用の作品とは思えないほどの安っぽさで、ここだけでもラジー賞にノミネートされる資格は十分だ(断言)
このお話、どうも全体的にかなりご都合主義的で、あちこち修理中でモニタースクリーンもまともに映らないエンタープライズ号が、なぜか叛乱を収めに派遣されたり、そのエンタープライズの都合のいいときにしか攻撃を仕掛けないクリンゴン戦艦が登場したり、ギャグのつもりなのか、敵地でウフーラが奇妙な踊りを披露し、それを観賞しにやって来た反乱軍兵士たちが一網打尽にされるなど、とにかく釈然としない展開なのだ。いちばん呆れたのは、仕事場であるエンタープライズ艦内で隔壁に頭をぶつけて昏倒してしまうスコッティで、おもわずこれはスタトレに舞台を借りたコント作品か、と我が目を疑ってしまった。あの倒れ方はどう見てもコントの乗りである。
冒頭、サイボックの反乱軍に拉致される惑星ニンバス3の代表者たちのなかに、あのデビッド・ワーナー(「トロン」「タイム・アフター・タイム」「バンデッドQ」等の悪役で有名)が登場しているのだが、物語のラストまで、本当にまったく何もしない。製作者は一体どういうつもりで彼をキャスティングしたのだろう。日本の2時間サスペンスドラマでは、たとえば渡辺裕之が登場すれば、どんなに善人に見えてもラストでは必ず犯人であることが露見する(ふたたび断言^^;)し、豊原巧補が登場すれば、どんなに女にもてても必ず最後にはふられる(みたび断言!!!)それがキャスティングというものだ。いかにも一癖ありそうな俳優が登場すれば、当然観客は彼に注目するし、演出する側もそれを意識しながらキャラクターを動かす。もちろん、いかにも犯人っぽいキャラが実は善人だったりしても、それはそれで構わないのだが、出しておいて結局なんの役割も与えないまま終わる、というのでは、なんのために高いギャラを払ったのか判らない。
かようにほとんど見るべきところのない作品なのだが、どういうわけか意外に印象に残るのは、たぶん地球のヨセミテ国立公園で休暇を過ごすクルーたちの描写に、ドラマを越えた絆のようなものを感じさせてくれるからだろう。・・・
ジェリー・グッドマンというバイオリン奏者が80年代、Private Musicレーベルから“On The Future of Aviation”(邦題;未来飛行)というCDを出していた。当時ブレイクしていたMTV(テレビ番組)のために、Private Musicの総帥、ピーター・バウマンは表題曲のプロモーションフィルム(5分ほどの短いもの。You Tubeで見ることができる)を製作し、それは後にビデオ作品「遥かなる飛翔」にまとめられたのだが、WATARIDORIを観て最初に思い出したのはそのビデオ作品だった。画面にカナダグースの飛行シーンがふんだんに登場する、ほとんど本編のダイジェスト版のような短編映画だったのだ。あるいは、監督のペランもこの作品に影響を受けたのかも知れない(「遥かなる飛翔」のLDはすでに廃盤だが、CD“On The Future of Aviation”は現在、One Way Recordsというレーベルから再発されている)
「未来飛行」のMTV同様、WATARIDORIにもほとんど人間が登場しない。ほぼ唯一と言っていい登場人物は、冒頭とラスト近くに登場する少年だが、この部分の存在が本編をありきたりな動物ドキュメントとは一線を画す作品にしている。悪く言えば作為的演出なのだが、そういった批判など百も承知で、監督ジャック・ペランはいたるところに作り込んだ構図を入れてくる。たとえば、渡りの途中で農園の片隅に降り立ったツルたちが、老農夫にエサをもらいに近づくシーンなど、まずツルの視点から、納屋から出てくる農夫をとらえ、次にクレーン撮影の俯瞰で全体像、その後クレーンを下げながら横からのショットと、劇映画のようなカット割りである。明らかにまず最初にコンテがあり、それにしたがって撮影しているのだ。
売りの飛行シーンは「グース」同様、特製のウルトラライトプレーンを使用し、鳥たちをそれに馴らせるためにたっぷり特訓してから撮影に臨んだのだそうだ。本当の野生の鳥たちが、いかにウルトラライトとはいえ、人間の造った飛行機と編隊を組むなどということはあり得ないので、これもコンテ通りの結果を得るための演出なのだ。その結果得られた画像は見事のひとこと、カナダグースはいうに及ばず、オオハクチョウ、コウノトリ、ペリカン、各種のツルから果ては南米のコンゴウインコまで、さまざまな鳥たちとカメラは編隊を組んで飛行する。狭い水路など、どうやって飛んでいるのかよく判らないところにまで入り込んだ撮影は、特撮かCGではないかと思えるほどだった。おかげで僕たちは、まったく鳥たちの視点になって、鳥の立場から彼らと渡りの旅を続けることができるのだ。
もちろん、世界各地での営巣地にはちゃんと現地に撮影班をやって、過去のドキュメンタリー作品に一歩も引けを取らない見事な映像をとらえている。そのあたりはさすがにヤラセなしのドキュメンタリーそのものである。飛行シーンは場面場面のつなぎに使用されているのだ。それでも理解が難しそうなところには、CGをも動員して判りやすさを目指していた。たとえば、本編中数ヵ所でアジサシが衛星軌道高度まで上昇するシーンがあるが、これなど大陸間を渡るという、鳥にしかできない大移動を一目で判らせるために作ったCGによる演出である。もっとも年少者は、あまりに見事なCGのおかげでアジサシは本当に衛星軌道を飛んでいると思ってしまうかも知れないが^^;
それにしても、「アトランティス」や「ミクロコスモス」など、この種の記録映画の傑作はみなフランス映画なのには何か原因があるのだろうか。いずれの作品も映像の素晴らしさと、編集の見事さで十分娯楽作品としての観賞に耐えうるクオリティを持っており、映像ソフトとして所有したいという欲求をかきたててくれる。日本にも、動物カメラマンとして世界的に有名な方は何人もいらっしゃるのに、この種の映画が製作される、といううわさは聞いたことがない。製作サイドが目先の利益にばかり捕らわれているからだと思ってしまうのは、ちょっとうがち過ぎかな。
ところどころ残酷なシーンがあり、また、人間という存在が自然に対してどういう意味を持っているのか問うような場面もあるが、やはりこういう作品こそ、まだ魂の柔らかな時期の少年少女に観て欲しい。この映画のさまざまな演出は、まさにそういう若い人たちに向けたものだと思うからだ。・・・
原題の“Hollow Man”をどう訳すのかよく判らないが、hollowとは「くぼみ」や「中空」という意味なので、「中身のない男」とでもいうことだろうか。もちろん絵的には、ラバーマスクをかぶった主人公の、くりぬかれた目の部分から中を覗くとまるっきり中身がないように見えることを指しているのだが、同時に主人公セバスチャン(ケビン・ベーコン)自身の「中身の無さ」をも示しているように思える。自他共に認める天才的科学者ではあるが、功名心が強くかなり嫌みな男で、あまり一緒にチームを組みたくはない手合だ。カーリー・サイモンにYou're So Vainと歌われてしまいそうなタイプだろう。
監督のバーホーベンは、この物語をどういう視点から描くかを彼なりに完全にコントロールしていたように思う。透明人間という題材は、これまでもたびたび映画化され、最近ではチェビー・チェイス主演のジョン・カーペンター作品(1992年)が記憶に新しい。カーペンター作品が彼には珍しいヒューマンドラマに仕上がっていたのに比べ、本編は紛れもなくコッテコテのバーホーベン映画^^;とにかくエログロ満載のある意味確信犯的な作品であった。
とにかく目を見張るのはやはり最新CGを駆使したSFXだろう。透明だったゴリラが血清により可視状態に戻る場面とか、逆にセバスチャンが透明人間に変わっていくシーンなど、細かい毛細血管の一本一本まで描かれた精緻なCGで、あり得ない光景を圧倒的なリアリティで見せてくれる。メリエス以来の特撮映画がついになしとげた到達点といってもいいだろう。
しかしながら、それに比較してストーリィはあまりに通俗的というか、見せ場をつなぐためのみに存在しているような感じで少々期待外れだった。バーホーベンらしいといえばらしいのだが、これまでの彼の作品、たとえば個人的には最低の出来だと思っている「ショーガール」でさえ、シナリオにはもう少し工夫があった。せっかく透明人間という題材を得たのだから、結局それから逃走するだけの話などよりもう少し別の角度からの描き方があったと思う。常に腹に一物ある作品を撮り続けてきたバーホーベンにしては、ちょっと捻りの足りない一本であった、というのが正直なところだ。いや、別にカーペンター張りのヒューマンストーリィを期待していたわけじゃありませんよ。ただ、透明人間化したセバスチャンが悪漢としてもモンスターとしてもあまり魅力的ではなかったから、ひとこと言いたくなってしまうのだ。バーホーベン監督、今回はあのSFXの演出だけで全精力を使い果たしてしまったのだろうか。・・・
下の「ネメシスS.T.X」を観るためにセッティングしたままのプロジェクターで、そのあとテレビ放映された「トリック 劇場版」もついでに観てしまった。ずっと下の「踊る大捜査線」などと同様、テレビシリーズのスピンオフ作品である。こちらはもともと堤演出がテレビドラマとしてはきわめて特異なものだっただけに、ほぼテレビそのままの演出/撮影で、いかにも映画ならではのグレード感はなかった。
手品のトリックを絡めたミステリーと、売れない女奇術師、山田奈緒子(仲間由紀恵)と日本科技大助教授、上田次郎(阿部 寛)の迷コンビがおりなす、漫才のようなやりとりが核になってストーリィが展開するのもテレビシリーズとほぼ同じ。現実的に考えたら、仲間由紀恵みたいなかわいい女奇術師が、つたない手つきでけなげにステージを勤めていたら、それだけで人だかりができてしまいそうだが、それを言ったらこの作品世界そのものが崩壊してしまうので、ここでは考えないことにする^^;
事件は、糸節村という山奥の寒村からやって来た青年団の団長に、山田が偽の神様を演じるように依頼されるところから始まる。一方、上田が大学時代の同級生たちと開いていた飲み会のさなかに、埋蔵金の発掘にすべてをかけていた学友が殺され、彼が残したダイイング・メッセージ「トイレツマル」を解読した山田は糸節村へと向かう。上田は上田で「どんとこい超常現象」第三弾の取材のためにやはり糸節村に現れ、また、「トイレツマル」を字義通りうけとった上田の同級生たちは、官僚という地位を利用して日本全国の水洗トイレ化という名目の元に、公務員を大々的に動員して詰まったトイレ(に詰まった埋蔵金?)の探索をさせることになり、テレビシリーズレギュラーの「髪の不自由な」刑事、矢部とその助手(?)石原も動員されてなぜか糸節村へとやって来る。かくて、テレビでお馴染みの面々がみな糸節村で顔を合わせることになる。
山田は依頼通り、村人たちの前で神様を演じて見せるのだが、彼女の前にすでに3人もの自称神様が村にやって来ており、前半は彼らとの手品合戦(てゆーかネタ見破り合戦)が軸となる。ここで神様を演じる3人のペテン師たち(001番竹中直人、002番ベンガル、003番石橋蓮司という豪華な配役)がなかなか傑作。しかし、いずれも004番の山田にネタを見破られたりして村から姿を消し、やがて無残な惨殺死体として発見される・・・。
テレビシリーズ同様ここでのネタばらしがなかなか面白い。ただ、003番の使ったカードトリックのネタだけはやや説明不足な感じがした。また、お互いの暗号として、横書きした文章を縦に読むという小ネタを見せてくれたが、これって最初に行代えの字数を決めておかないと、字で書いたときにはいいとしても、耳で聞いただけだとまったく解読不能の暗号になってしまうと思う。まあ、区切って音読すればいいのかもしれないが。いちばん笑ったのは、巻かれたタコ糸を使ったトリックで、ご丁寧にも村人が「ファックスの原理だべ」と解説してくれる。よく考えるとかなり無理があるのだが、アイデアとしては面白く、脚本家も相当頭を絞ったのではあるまいか。
やがて物語は本当の神様(?)が出現してみたり、意外な犯人像が明らかになったり、300年ぶりの天変地異が起こったり、突然山田の母、書道家山田里見(野際陽子)が登場したりするのだが、この辺に触れるとネタバレの危険性が高くなるので、気になる方はレンタルDVDでチェックしてみてください。テレビシリーズのファンの方ならまず楽しめる内容にはなっている。
ラスト近くでせっかくお宝を手にした山田だが、なぜかそれを放り出してしまい、そのお宝の行方は結局映画の終わりまで明らかにされなかった。1億もの価値のあるお宝を捨ててしまうとは、山田、お金の大切さをなんだと思っているのだ!?・・・
「ネメシス」とはギリシャ神話に登場する復讐の女神のことだが(ナルシスに自分自身しか愛せなくなる呪いをかけた張本人)それと今回のタイトルがどうリンクしているのか、観終わった今でもよく判らない。今回のような話なら、他にもっとふさわしそうなネタがあったような気がするのだが。ちなみにほぼ10年前、「ネメシス」というタイトルの映画が公開されたが、もちろんそれとは無関係。小文字のnから始まる一般名詞のnemesisは単に「強敵」とか「天敵」、「天罰」、「因果応報」という意味になるらしいので、あまり深く考えなくてもいいのかもしれない。S.T.とはスタートレックの略であり、Xは第10作目の劇場用映画だということらしい。どうしてアメリカと同じく「スタートレック・ネメシス」としなかったのかは配給会社のみが知ることだが、これまでのスタートレック映画があまり芳しい興業成績を上げなかったため、意図的に外したのかもしれない。
物語はロミュラン帝国内での政変から始まる。政変というよりは、評議会員全員を暗殺してしまうのだから、大量虐殺事件とでも言うべきか。そしてロミュランは、かつてドミニオン戦争でも連邦の敵として戦った(という設定になっている)レムスと合併することになり(ロミュラス星とレムス星はちょうどガミラスとイスカンダルのような二重星なのだ)レムスの指導者シンゾンが総督としてロミュランの実権を握る。そのシンゾンが仕掛けた罠にまんまとはまったエンタープライズは、データ少佐そっくりのアンドロイドの残骸をロミュラン帝国との中立地帯に位置する未開の惑星から回収し、その道すがら、突如連邦と和平協定を結ぼうと持ちかけてきたロミュラン帝国を、外交使節として訪問することになる。そこでピカードたち一行は、総督シンゾンと対面することになるのだが・・・。あちこちの映画紹介などですでにネタバラシされているので、シンゾンとは一体誰なのか、ここで書いてしまっても差し支えないだろう。彼はロミュラン帝国によって人工的に作られた、ピカード艦長のクローンなのである。偽のピカード艦長を連邦に送り込み、内部崩壊を狙った作戦だったのだが、その作戦自体が中止され、シンゾンは少年時代にレムス星に追放される。しかし、持ち前の統率力でのし上がり、レムスのトップにまで登り詰めたのだった。
かくてピカードは、自分自身の分身とも言うべき相手と戦うことになるのだが、このあたりの葛藤はかなりの部分がカットされてしまい(DVDの映像特典部分に入っている)あまり深みは感じられなかった。監督のスチュアート・ベアードは「エクゼクティブ・デシジョン」などで知られる職人監督で、監督というよりフィルム編集者としてのキャリアの方が長い人なのだそうだ。スタートレック・ファミリーとはまったく関わりのない人で、この作品を監督すると決まるまで、一本も観たことがなかったという。あまりマニアックなファンも、距離を置いた作品作りが難しくなるので好ましくはないが、スタトレの一本も観たことがないということは、SFというジャンルそのものに興味がないということであり、その仕上がりにはやや不安があった。
しかし実際に観てみると、さすが職人監督だけに、あちこちにやや不満な部分はみられるものの、まあ、そこそこまとまった娯楽作品として仕上がっていた。少なくとも前作「スタートレック〜叛乱」などよりは映画らしい映画になっていたといっていい。
CG全盛のSFXはさすがに堂に入ったものだったが、どういうわけか人間とエンタープライズなど宇宙船との大きさを比較できるショットがほとんどなく(ラスト近くでデータ少佐が宇宙遊泳するシーンくらい)巨大な宇宙船の中にたくさんの乗組員が生活している、という感じが乏しいのが気になった。シンゾンの座乗するシミターという超巨大宇宙戦艦も、ほとんどブリッジ内部しか登場しないためにやはり実感に乏しかった。だいたいあのブリッジ、艦のどの部分にあったのだろう。ああいうクライマックスを持ってくるのなら、シンゾンの乗っているのはどのあたりなのか、よく判らないのはちょっと辛い。また、クライマックスシーンの艦対艦砲撃戦は、洋上の艦船などよりさらに近い距離で行われるという不自然さで、とても遠未来の宇宙船とは思えないほどの運動性の悪さもあいまって、あまりリアルな感じはしなかった。こういう部分の説得力のなさに、SF門外漢であるベアード監督の馬脚が現れてしまったようだ。
物語はほとんどなんの必然性もなく、データ少佐の咄嗟の自己犠牲により大団円を迎える。考えてみるとこういうエンディングは、TMP(ザ・モーション・ピクチャー)第二作の「カーンの復讐」とほぼ同じである。とりあえずこの「ネメシス」が映画版TNG(ザ・ネクスト・ジェネレーション)の完結編ということだが、アメリカではけっこうヒットしたらしいので、そのうち続編がつくられることになるのかもしれない。その時のタイトルは、やはり「データ少佐を探せ」になるのかな^^;・・・
このページには書かなかったが、実は第1部「旅の仲間」も先行公開時に劇場で観ており、かなりの感銘を受けた。正直言ってあまり感心しなかった「ハリー・ポッターと賢者の石」などより遥かに観賞に値する作品だろう。ここに書かなかったのは、当時このページはビデオ観賞した作品のみについて書くと決めていたからであり、その方針を転換した理由はここに書いた通りである。
さて、長大な原作を別のジャンルに移し替えなくてはならないとき、量的な変化は言うまでもなく、ある程度の質的変化もまた免れない。本編の原作となった「指輪物語」のように極めて長大で、また厚いファン層を持つ作品を映画化するとなると、その苦労が並大抵でないことは容易に想像がつく。ましてや、その小説のファンと、小説を読んだことのない一般の映画ファン双方を満足させるとなると、まさに神業といえるくらいの演出力が必要になるだろう。少なくとも第1部の「旅の仲間」でピーター・ジャクソンはそれに近いことをやってのけた。もちろん、すべての人を満足させることなどはできなかったが、それでも小説ファン、映画ファン双方にかなりの満足度を与える作品を仕上げることには成功したのだ。
そして、「二つの塔」である。膨大な予算のかかる作品なので、三部作を一度に撮影するという方式をとったためか、演出スタイルはほとんど前作「旅の仲間」に似通っている。ジャクソンの以前撮った作品同様、動きのあるダイナミックな演出にはたけているものの、ロマンチックなラブシーンではやはりちょっとしたぎこちなさが見え隠れしている。それでも今回は、ひそかに想いを寄せていたものの、死んだと思って諦めていたアラゴルンが無事帰還したのを喜んだ王女エオフィンが、次の瞬間レゴラスから彼に返される(エルフの王女アルウェンの愛の証である)ペンダントに気づいて複雑な表情を見せる場面など、こまやかな演出もところどころだが光っていた。こういうこまやかさが全編を覆えば、もう少し違った印象の作品になるのだろうが・・・。
原作がそうなので仕方ないのだが、第1部の終わりで仲間のメリーとピピンがさらわれてしまい、その行方を追うアラゴルン一行と、指輪を捨てる旅を続けるフロドとサムの三手に分かれて物語は進行する。メインとなるのはアラゴルン、レゴラス、それにドワーフのギムリたちが遭遇する冒険で、それと平行して指輪の元の持ち主ゴラムに出会って三人で旅を続けるフロドとサム、それから、囚われの身から脱してエント族の長老と出会ったメリーとピピンの冒険も描かれる。ただ、時間的な制約もあって、こちら二組は比較的あっさりとした描写にとどまった。
今回の白眉はやはり、ヘルム渓谷の戦いだろう。MASSIVEという新しいコンピューターソフトを用いて描かれた群衆シーンはものすごい迫力で、どこまでがライブアクションでどこからがCGによるアニメーションなのだか、まったく区別がつかない。CGによる動物や人物は従来どうしても非現実的な感じがつきまとったものだが、このMASSIVEというソフト、細かく描かれたキャラクター一人ひとりに個性すら与えており、その動きはまったく自然で作られたものという感じがしない。マトリックスとはまた違った意味で、CG全盛時代ならではの作品なのだ。
CGキャラといえば、もう一人外せないのはやはりゴラムであろう。このキャラクターはもともとホビット族のスメアゴルという男だったので、邪悪なゴラムと善良なスメアゴル、二つの個性を内在した存在である。ときどき見せる独り芝居のような独特の動きが面白い、人間なような、そうでないような、キモかわいい系キャラクターなのだが、もちろんすべてCGで描かれている。しかし、ホビットたちとの絡みのシーンなどとてもそうとは思えない自然さだったものの、完璧かというとそうでもなく、たとえば岩壁にパッと跳びついたりするシーンなどでは、いくらかCG臭さも目に付いた。やはり、モーションキャプチャーできる普通の動きとは違って、現実には不可能な動きをさせるとまだ不自然さは残ってしまうらしい。不可能といえば、戦いのさなかにレゴラスが走っている馬に跳び乗るシーンがあるのだが、あれも人間業では不可能な乗り方で、おそらくCGを使っていたのだろう。しかし、どこでライブアクションとつないだのか、まったくわからなかった。
ヘルム渓谷の戦いに平行して、メリーとピピン率いるエント族も、サルマンの塔のあるアイゼンガルドを襲撃するのだが、さすがに時間不足がたたってか、ややそっけない描写に終わっていた。展開があまりに一方的で、単純すぎるのだ。あれではサルマンはただの木偶の坊である。このあたり、多少上映時間が長くなっても、もうちょっとそれらしく演出して欲しかった。少なくともやっていることの規模は、ヘルム渓谷の戦いの比ではなかったのだから。・・・
あの傑作サイバーパンク・アクション「マトリックス」の続編・・・ということで期待が大きすぎたのかもしれないが、やはりやや期待外れの感は否めない作品になってしまった。前作では斬新なSFX(最近ではVFXと呼ぶことも多いらしい)と、たぶん史上もっとも判りやすいサイバーパンク設定とがうまく相互作用して、一級の娯楽作品になっていたのだが、その続編となる本編では、なにより肝心のSFXにみんな驚かなくなってしまった結果、サイバーパンクとしての練り不足ばかりが目立つ作品になってしまった。特にかなりあっさり描かれていたエージェント(ではなくなってしまったか)スミスの設定は、第3部への引きのつもりなのかもしれないが、やはり不十分だろう。基本的には第1部でネオの攻撃を受け、データが混じりあって、新生スミスとして生まれ変わったのだろうが(それまでのバグチェック機能以外の「独自性」を身に付けたということなのだろう)いまのところ、無限に自己を再生産できるというガン細胞的な機能以外にみるべき能力は発揮されていない。
前作でも多用されたスローモーションや巧みなCG合成はもちろんパワーアップされ、たとえば高速道路のチェイスシーンなどではかなりの効果を上げているのだが(たとえばトリニティの乗ったバイクを撮影するとき、カメラはときどき走っている車を突き抜けて移動する。現実にはこんなことは不可能なので、車そのものがCGによるイリュージョンなのだろう)結局は前作の基本線上での進化なので、さほどの驚きはない。それよりも、場面そのものの必然性があまり感じられず、結局見せ場のための見せ場でしかないように思えてしまった。
前作では設定の中でしか登場しなかった、人類側の本拠地ザイオンが今回は登場するのだが、アニメなどで繰り返し描かれた地底都市そのもので、もう少し斬新なものを期待していただけに肩透かしを食らった感じだ(ウォシャウスキー兄弟は相当のアニメおたくだそうで、あちこちに登場するいかにもアニメ風のディテールがそれを裏付けているような気がする)ザイオン内部のキャラクター描写は、人類サイドもけして一枚岩ではないことを演出したかったのだろうが、あの程度のことで齟齬を来すような組織では、とてもではないが「機械のように正確無比な」マトリックス側の攻撃には耐えられそうもない。なつかしい「モスラ」の群舞シーンを髣髴させる踊りのシーンも無意味に長く、演出意図がどうもわからなかった。マトリックス内部の秩序とは正反対の、生きた人間の渾沌としたパワーを描きたかったのだろうか・・・?予算不足か上映時間の都合か、最後のクライマックスに肝心のザイオンがほとんど登場しなかったのも解せない。冒頭で登場する、ネオのみた予知夢の帰結が必要だったのは判るのだが、ああいう演出は第1部ですでにやっており、そんな時間があったのならもう少しザイオンの行く末を描いて欲しかった。ネオの迫られた「選択」の結果が何をもたらしたのか、ちゃんと観客に示さなければ、物語のテーマはぼける一方だ。
実は、本編のいちばん肝心な部分は、マトリックスそのものの誕生の秘密とか、救世主ネオの存在の意味、物語の指針となる存在である預言者とは本当はなんなのか、といった部分なのだが、それを語る部分とアクションとが、前作ではうまく相乗効果を上げていたのに今回は逆に乖離した印象しか残せなかったのが最大の欠点だろう。説明が説明で終始した印象が否めないのだ。
タイトルの「リローデッド」とは、「弾丸を込めた」といった意味でよく使われるのだが、込められたのは果たして何なのだろう。マトリックスというサイバーパンク空間が、ネオたちバグの存在に対して、常に代替物を用意している、という意味なのか、逆にマトリックスそのものに革命(レボリューション)を起こすネオたちが弾丸のように「込められた」のだろうか。それとも、それまでは存在しなかった新生スミスが新しい変数としてマトリックス世界に「込められた」のか(映画のラストシーンはそれを予感させる終わり方だ)・・・その意味はたぶん第3部で明らかになるのだろうが、今回のような不出来な作品にならないことを、とりあえずは期待したい。・・・
「ドキュメンタリーは、様々な立場からの意見を紹介し、客観的な視点から描かれていなければいい作品とはいえない」・・・ある映画マニアらしい方が某映画サイトにアップしていた文章の書き出しである。この伝でいえば、本編など偏狭な視点から描かれた糞ドキュメンタリーに過ぎないことになる。この人は自らの主張に忠実に、10点満点で5点のポイントを本編に献上している。
まさにお笑い草である。完全に中立なニュース報道など存在しえないように、中立なドキュメンタリーなど存在しえないし、そもそも存在する意味すらない。ドキュメンタリー作家に限らず、作家には必ずポイント・オブ・ビューが存在するし、それがはっきりしている作品ほど観客に訴える力も大きく、影響力を持つ。総花主義的な御意見紹介で「客観的に」作家自らのスタンスを隠したようなドキュメンタリーこそが、糞ドキュメンタリーの見本であろう。そういう意味では本編は、いうまでもなくその手の糞ドキュメンタリーとは無縁の作品である。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」とはちょっと奇妙なタイトルだが、これはコロンバイン高校で拳銃乱射事件を起こした犯人たちが、事件をおこすその日の午前中にボウリングをしており、また、映画の中でインタビューされた人が、ボウリングのピンをターゲットに射撃練習をしている理由を聞かれて「形が人間に似ているからさ」と答えたところから来ているのだろう。ボウリングというゲーム自体、立っているピンをボウルで全部なぎ倒すという、いわば破壊、殺戮を楽しむゲームなのである。犯人たちが行った「ゲーム」のメタファーとしては、確かにこれほどふさわしいものはない。
誤解を恐れずいえば、この映画はけして感情的なアンチ銃砲ドキュメンタリーではない。監督のムーア自身、全米ライフル協会の終身会員であり、作中何度か出てくる銃を構えるシーンもなかなか堂に入っている。基本的にはこの男、銃が好きなのだ。ただ、アメリカにおける銃の位置については明らかに間違っていると思っている。世界の中でなぜアメリカ人だけがこれほど銃に頼り、その犠牲者が飛び抜けて多いのか、を2時間かけて解明していったのがこの映画だ。この中にはコロンバイン高校乱射事件の被害者や、犯人の友だち、オクラホマ州連邦政府ビル爆破事件犯人の兄といった市井の人たちから、マリリン・マンソン、チャールトン・ヘストンといった有名人に至るまで、さまざまな人たちのインタビューが出てくるが、いずれもムーアのキャラクターに和まされてか、かなり本音をしゃべってくれる。なかでもマリリン・マンソンの理知的な分析力と、老いさらばえて、ムーアの仕掛けた言葉の罠にあっさり引っ掛かってしまうチャールトン・ヘストンの老残が目立っていた。
一見したところ、拳銃による犠牲者の人数はそのまま拳銃の普及率と比例するように思える。実際、市民の拳銃所持を規制しているイギリスや日本の犠牲者はアメリカよりケタ違いに少ない。しかし、3000万の国民に対して700万挺もの拳銃が普及しているカナダもまた、アメリカより遥かに少ない犠牲者しか出ていないのはなぜか・・・。その謎をムーアはまるで推理小説のごとく追及し、やがてある結論にたどり着く。このあたりはアニメなども動員して、なかなか見事な説得力をみせてくれた。
作中もっともムーアの立場が明瞭になるシーンは、コロンバイン高校で銃撃され、身障者になった二人の青年を連れて、犯人たちの使った銃弾を売ったKマートの本部に押しかけるくだりだろう。Kマートの受け答えはいかにも大企業のそれで、責任の所在をうやむやにしようという態度が見え見え。もちろんこれはムーアの読み通りで、彼の本当の狙いはこうすることでマスコミの注目を浴び、二度目に近所のKマートで買った拳銃弾を携えて押しかけたとき、大勢のレポーターを従える結果になることだった。さすがにこれはKマート側も無視することができず、全店舗からの拳銃弾の撤去を確約する。ほんのわずかな一歩だが、確かにムーアは自らの行動で世界を変えたのであり、取り澄ました糞ドキュメンタリーにはとても不可能なことだろう。チャールトン・ヘストン邸を去るとき、拳銃の犠牲になった6歳の少女の写真をそっと置いてくるなど(風でも吹いていたらどうするつもりだったのだろう)いささかクサい演出も目に付いたが、全体的には作者の主張がストレートに伝わるいい作品だったと思う。
映画を観ていてムーアの主張とは関係なく、かなり気になったことがもう一つあった。監督のムーア自身もそうだが、インタビューされたアメリカ人たちの多くが肥満型であったことである。インタビューに登場したカナダ人などから比べると、明らかにデブが多い。銃と並んで肥満もアメリカの抱える重大な社会問題の一つだといわれるが、ムーア氏、次のネタに肥満問題を取り上げるつもりでもあるのだろうか。「実は僕も全米肥満協会の終身会員でして・・・」なんちゃってね^^;・・・
これで二度目のテレビ放映だが、律義にもまたちゃんと観てしまった^^;もっとも一度目の頃には、この欄にはビデオ鑑賞した映画作品のみをとりあげていたので、「ひとこと」書くのは今回が初めてである。現在、劇場用第二作「踊る大捜査線The Movie2 レインボーブリッジを封鎖せよ」が大ヒットロングラン中だが、本編はその前編に当たる。もっとも、それ以前にテレビシリーズ1シーズン全11話、スペシャル3話が存在している。いわばテレビシリーズのスピンオフ作品と言っていい。設定など細かいことはそちらで十分に描かれているので、人間関係やキャラクター個人の説明などは映画ではほとんど描かれない。厳密に言えば、映画は映画のみで必要かつ十分な存在であって欲しいが、マルチメディア展開が常識になってしまった現在では、そうした「独立した」作品は存在しづらいのだろう。
テレビドラマとしては傑出したシリーズだったが、同じ脚本家と監督を起用した本編でも、たとえばデ・パルマ張りの長回しを使ってみたり、テレビとは違ったワイド・アングルを意識した絵作りなど、やる気は十分に感じられる作品となっている。シリアスな設定(事件そのものだけではなく、本庁対所轄、キャリア対ノンキャリアという対立の構図など)とユーモラスな風味を絶妙なバランスで盛り込んだのが、このシリーズのヒットの最大要因だったと思うのだが、そのあたりの特色は本編でも遺憾なく発揮されている。メインとなるのは本庁が統括する警視庁副総監誘拐事件だが、それと同じころ起きた猟奇殺人事件の捜査も所轄によって行われ、本庁と所轄との葛藤がうまく表現されている。しかし、時間的な制約もあったのだろうが、いずれの事件もやや御都合主義的展開が見えてしまうのは残念だった。シナリオそのものは、署内で起こったささやかな窃盗事件などもうまく絡ませ、その他の複雑な伏線をこれでもかと盛り込んだ、教科書的によくまとまったものだったが、全体的な描写不足は残念だ。特に、猟奇殺人鬼を演じた小泉今日子がいい演技をしていただけに、和製レクターらしい描写の決定的不足は惜しまれる。本編の御都合主義的な印象は、彼女の存在感の薄さによるところが大きい。
細かいことだが、たとえば登場人物たちの所持している銃がちゃんとニュー・ナンブだったり(昔の刑事ドラマはたいていモデルガンメーカーとタイアップしており、そこの売りたいモデル=コルト・パイソンやカバメントのカスタムモデルなど、現実にはあり得ないもの=がそのまま主人公の所持する拳銃になっていた)「本店」「戒名」など独特の隠語を多用するなど、ディテールに異様なくらいこだわっているのも、これまでの刑事ドラマにはなかったテイストだと思う。その一方で、営業畑のサラリーマン出身という主人公青島の設定や、スリーアミーゴスに代表される人間味溢れる(ちょっと溢れすぎ^^;)キャラクター造形は、いずれもややカリカチュアライズされすぎた感が否めない。
井筒監督に言わせると、この作りすぎたリアリティの無さが日本映画をダメにした、ということになるのだろうが、ドキュメンタリーを作っているわけではないのだから、映画の面白さとリアリティとはなんの関係もないだろう。監督の言わんとしているのはただのリアリティではなく、本当らしさというか、説得力のことなのだろうが、その感じ方が世代によって、また時代によってまったく異なることを彼は判っているのだろうか。今の若者たちに言わせたら、井筒流の伝統的日本映画の手法より、テレビ出身の本広や岩井俊二あたりの作風の方がよほど説得力を持つのだろうし、若者ではない僕らですら、今では登場人物すべてが力みかえった「太陽にほえろ」型の刑事ドラマより、人間的な「踊る〜」のほうに現実味を感じるのだ。より広い層の観客を狙うには、こうした同時代感覚は何より必要なものだろう。
それから、これは意図的なものかどうかは判らないが、当時大ブレイクしていたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のBGMをそのまま使っていたりして、オタク世代の視聴者層も狙っていたのかもしれない(ちなみにこのBGM、初期のジェームズ・ボンドシリーズで使われていた“007”という曲に酷似しており、踊る〜エヴァ〜007という不思議な音楽的パースペクティブを見せてくれる^^;)そうかと思うと、最大のクライマックスにはドビュッシーの「海」をロック風に編曲したものを使ったりして、音楽担当者の一筋縄では行かないセンスを感じさせてもくれる。
猟奇殺人鬼、小泉今日子の出番が終わったあとあたりから(せっかく手にした銃がモデルガンだったという設定なのだから、キャップ火薬のチャチな発火音でも聞かせてくれたらよかったのに)物語の展開はやや単調になり、例の有名な台詞「事件は会議室で〜」が出てきたり、意外な犯人像が明らかになったりはするものの、「天国と地獄」に範をとったあのシーン(ご丁寧に青島刑事役の織田裕二が「天国と地獄」とつぶやく^^;)の特撮がイマイチだったり(もっとリアルに赤い煙を見せなきゃね)悲劇が一転して喜劇になる肝心のシーンがややくどすぎたりする瑕疵もあって(そんな時間があるならもう少し小泉の出番を増やして欲しかった)映画としてのバランスがやや崩れていたのが気になった。ただ、こうした情緒的シーンこそ日本人のもっとも好むところなので、全体のバランスを崩してまでもこのシーンを長々と続けた監督の意図は大ヒットにより報われた、ということなのだろう。・・・
井筒 和幸監督の代表作の一つ「岸和田少年愚連隊」の主要な登場人物の一人、「街の乳酸菌」カオルちゃんにVシネマの帝王、竹内 力を迎えての痛快番外篇。話は1970年現在からカオルちゃんが中学を卒業した1959年を回想する形で始まるのだが、なんと、そこからすでに竹内がカオルちゃんを演じるのだ(!!)どうみたって15歳には見えない思いっきりなキャスティングだが(竹内は当時すでに30代半ば)カオルちゃんを終生のライバルだと勝手に思い込んでいる倉本に、さらに年長(撮影当時43歳!!)の田口トモロヲを配することにより、それなりにバランスはとれている。いずれも、どう見ても中年男が長ランを着込んでいるようにしか見えないのだが、他の登場人物に「父兄の方ですか?」などという台詞を言わせることにより、瞬間的に観客をこの映画の世界に引きずり込むことに成功している。このしたたかな脚本を書いたのは、NAKA雅MURAという、名前からは何人かすらもわからないような人物だが、「岸和田」シリーズのうち吉本興業製作作品の脚本すべてを書いており、最近ではかの「ドラゴンヘッド」も手がけるなど、なかなかの才人のようだ。
全国高校総番になることをめざして地元の岸和田第三高校に入学したカオルちゃんは、入学初日から総番長を倒し、なおかつ中学卒業の日にスカウトを断られ、ついでに殴り倒された仕返しに高校へやって来たやくざ連中を、親分もろとも返り討ちにしてしまう。とにかくもう超弩級の強さで、いってみれば一般人のなかにボブ・サップが乱入したようなものだ。演じる竹内 力は、もとからややオーバーアクションな俳優ではあったが、今回は完全にぶちきれた演技でカオルちゃんになり切っており、あまりにもなりきりすぎた河内弁(?)で、もはや何を言っているのかすらよく判らない(笑)日本映画に久々に登場した、そびえるばかりにおっ立ったキャラクターである。
見た目はどう見てもおっさんで、喧嘩もやたらに強いカオルちゃんだが、そんな彼も一皮むけばやはりうぶな高校一年生、一人前に恋もする。彼が見初めたのは喫茶店のウエイトレス・緑という少女だが、実は彼女は昼はウエイトレスとして働き、夜は体を売ってお金を稼いでいた。彼女の父がやくざに借金していて、そうしなければ金を返せないからだ。そのことを知ったカオルちゃんは父親を半殺しにしたあと(~_~;)意外にまともな台詞でこんこんと彼女を諭す。その一方で、鉄道のレールを盗んだり(@_@)動物園のサイを盗んだり\(@_@)/してなんとか金を作り、返そうとするのだが、時すでに遅く、緑の父はやくざに暴行されたあげく死んでしまい、緑も組事務所に連れ去られてしまう。ことの次第を知ったカオルちゃんが組事務所に殴り込みをかけ、大暴れするのが本編のクライマックスなのだが、恐れをなした組員が情けなくも警察に助けを求めたりする(笑)のが少しも変でないくらいに、カオルちゃんの暴れっぷりはすさまじい。
担任の京子先生(野村真美)がカオルちゃんの家を家庭訪問するシーンもおかしい。カオルちゃんの両親には吉本の池乃めだかと中山美保が扮し、「コロポックルの夫婦が不動明王を生んだようなもの」と自分たちのことを説明する(笑)池乃めだかのコロポックルと竹内 力の不動明王とはあまりにもはまりすぎだ。また、カオルちゃんの乱暴者ぶりに手を焼いた先生が、「なにか禁じ手がないと、けだものと同じよ」と言って、カオルちゃんに三つの禁じ手を自分で決めさせるシーンもなかなかよかった。考えあぐねたカオルちゃんは、やがて一つ目の「女を泣かさないこと」と二つ目の「親に手を上げないこと」をひねり出すが、三つ目に「喧嘩相手をギリギリのところで殺さない」といったところ、それは「女を泣かさないこと」と同じことよ、と却下されてしまう。けげんそうなカオルちゃんに、相手を殺したら、その恋人や母親を泣かすことになるでしょう、と先生は説明し、なるほどのう、と一応納得するカオルちゃんだが、それに代わる三つ目の禁じ手はついに思いつけず、結局宿題ということになってしまう。このことは後々までずっと伏線になっており、冒頭の回想シーンの始まりともつながっている。ふざけてはいるものの、けっこう締めるところは締めているちゃんとした脚本なのだ。
基本的にこの話はコメディだが、タイトルからもわかるように、カオルちゃんをダース・ベーダーになぞらえて、スターウォーズのパロディ風な作りになっている(オープニングはもろにそれ風)もちろんVシネマに毛が生えたような予算しかないので(てゆーか、もともとVシネマ作品を劇場公開したものらしい)派手なSFXなどやれるはずがないし、舞台設定の1959年を再現しようという努力もほとんどしていない。せいぜいやくざの乗っていたクラウンが旧車なくらいだ(とは言っても60年代末の型で、むしろ映画の現在=1970年=に走っているほうがふさわしい)が、もともと極めて狭い範囲で展開する話なので、時代性の欠如はそれほど気にならなかった。
サブタイトルにEpisode1とあるが、劇場用ではなくVシネマではあるものの、Episode2やEpisode
Final、そして番長足球と、次々に続編が作られている。機会があったらぜひ観てみたいものだ。それから、せっかく田口トモロヲをキャスティングしたコメディなのだから、オープニングとエンディングにはぜひともあのナレーションを聞きたかった。パロディとしてだけではなく、過去からさらに過去を回想するという意外に凝った構成の物語なので、設定を説明するナレーションも無いよりあったほうが良かったと思うのだ。・・・
以前から何度も放映されていて、今回で何度目なのか見当も付かないほどなのだが、やはりまた観てしまった。表面的には当時よくあったギャング映画だが、さすがにジョン・ブアマン、一筋縄では行かない作品になっていて、何度観ても新鮮な発見がある。映画が撮られた1967年は、フラワームーブメントやサイケブーム華やかなりしころで、本編のカットバック手法やクラブ内部での場面設定などにその影響が見られる。
原作はリチャード・スタークの「悪党パーカー・人狩り」(ハヤカワ文庫刊)で、だいたい設定などは守っているが、なぜか主人公の名前がパーカーではなくウォーカーとなっている。近年、メル・ギブソン主演で再映画化されたが、ここでも主人公の名はポーターという別名になっていた。原作の映画化権とは別に、パーカーというキャラクター名にも何らかの権利が絡んでいるようだ。アメリカならではのややこしい話である。
物語は、アル・カトラス刑務所跡でおこなわれる犯罪組織の金の受け渡しをめぐる犯罪劇で、その金を仲間と強奪したウォーカーが裏切りに合い、妻と金を奪われてしまう。やがて妻の居場所を突き止めたパーカーは、裏切り者リースを求めて果てしない闘争を繰り広げていく、という話だが、映画の中盤でリースはあっけなく死んでしまい、後半は彼の背後にいる犯罪組織そのものへの挑戦にテーマが変わってゆく。しかし、ウオーカーの目的はあくまで奪われた金にあり、彼らに対して勝利を得ることが目的ではない。そのあたりのクールさを主人公ウォーカー役のリー・マービンはうまく表現していた。ウォーカーはやがて組織の上層部に食い込み、その前に立ちはだかる幹部たちを次々と倒していく。そして、舞台は再びアル・カトラスの刑務所跡にもどる・・・。
原作のパーカーは、目的のためには手段を選ばない徹底してクールなキャラクターで、善悪を超越した存在なのだが、本編のウォーカーも超越的存在という意味ではかなり忠実に原作をトレースしている。とにかく余計な台詞はいっさい言わないし、笑うシーンすら一度もない。リースの手下に口を割らせるシーンでは、彼と同乗した売り物の中古車(手下の商売が中古車ディーラーなのだ)を橋脚に何度も衝突させてボロボロにしてしまうのだが、衝突のショックで手下はほとんど失神状態になってしまうのに、問い詰めるウォーカーの方は(同じ車に乗っていたのにも関わらず)転げ落ちた手下を追って車を飛び降り、そののど元を締め上げる、というタフさ加減である。別の場面では、自殺を遂げた妻の妹(アンジー・ディキンソン)に両手で思いっきり叩かれ続ける(おそらく監督の指示だろうが、アンジーはほとんど本気でリーを叩き、びんたを食らわせていた)のだが、1分ほども続くこのシーンの間じゅう、ウォーカーは微動だにしなかった。ウォーカーのタフさを示す、いかにもブアマンらしい演出だ。
ラストシーンで意外な人物が黒幕とわかる仕掛けだが(てゆーか、最初から目星はしっかり付いてしまうのだが)ここでも結局ウォーカーは自分のものだったはずの金にしか興味がなかった。いかにも宙ぶらりんの結末に見えるのだが、ウォーカーの立場から物語を描けば、結局これ以外のエンディングはなかったのかもしれない。
航空機マニアとしては、金の受け渡しシーンに登場するヒューズ300ヘリコプターがちょっと懐かしく、興味深かった。・・・
かつて('80年代末)一世を風靡したTVアニメシリーズの映画化で、シリーズ完結編のような存在らしい。お話はこれ以上単純化できないほど単純な三角関係の物語で、キャラクターたちの設定に関する描写も少なく、もっぱらTVシリーズのファンのための作品だったようだ。
原作は少年ジャンプに連載されていた、まつもと泉のラブコメ「きまぐれオレンジロード」だが、映画は受験を目前にしたキャラクターが三角関係に悩むという、ただでさえ重いテーマがダブルで重なっているので、全編ひたすら暗くシリアスに展開する。一部では傑作という声もあるらしいが、おおかたのファンの声は「観なければよかった」というものだったようだ。僕は原作もTVシリーズも未見なので何とも言えないが、独立した作品として評価するにはあまりに不完全な作品であったとは言えるだろう。ラブコメディならではの明るさや軽さを、あえてスポイルしてまで「現実」の厳しさを「完結編」という形で描く必要がどこにあったのか、この映画を観るかぎりではよく判らなかった。荒井由美の名曲のタイトルを借用したサブタイトルからは、観客のノスタルジーに訴えたいという意図も感じられるが、大人向けの作品ならいざ知らず、明らかに作中人物とほぼ重なる層を狙っているとしか思えないので、結局狙いが曖昧のまま宙に浮いてしまった感じだ。
どうでもいい話だが、登場人物の二人が劇中、映画館で見る映画が「タッチ」なのにはちょっと笑ってしまった。劇中劇ならぬアニメ中アニメとしては、「クラッシャー・ジョウ」のなかで主人公ジョウたちが、ドライブイン・シアターで「ダーティ・ペア」の映画を観ているシーンがあったが、あれはもともといずれも安彦良和氏の絵だったのでそれほど違和感がなかったし、アニメの中で見ていたのは実写の映画だったとも考えられる。一方こちらはまつもと泉(というよりは高田明美か)の絵の世界の中に、あだち充の絵が入っているのだから明らかにアニメを観ていたのである。まあ、同じ東宝配給のアニメだったから実現したのだろうが、よく考えるとちょっと不条理な話ではあった。・・・
昼の時間帯にやっている洋画劇場での観賞だが、放映枠が2時間あり、本編の長さが94minと、この手の大作のわりには短めだったため、ほぼノーカットに近い放映だったようだ。もともと70mm作品なので、TVのフレームではこじんまりしすぎてしまうという欠点は隠しようがないし、フィルムの発色もオリジナルからはほど遠く退色してしまっているが、それでもこの作品独特のムードはちゃんと伝わってきた。
物語の舞台は20世紀初頭のアメリカ。製鉄所に勤めていた主人公ビリー(リチャード・ギア)は、現場監督を殴り倒し、その足で恋人のアビーと妹のリンダを引き連れてホーボー(貨物列車に無賃乗車して大陸を彷徨う季節労働者)となり、やがて中西部の大農場で麦刈り人夫の職にありつく。仕事はきつく、賃金も安く、将来になんの希望も見いだせない日々が続く中、偶然にもビリーは若き農場主、チャック(サム・シェパード)が不治の病であと一年の命と知ってしまう。チャックがアビーに好意を抱いていると知ったビリーは、アビーを妹として紹介し、農場の仕事が終わった後も農場に残ることになる。
やがてチャックとアビーは結婚し、ビリーとリンダも親族として農場主の家でなに不自由ない暮らしを送るのだが、そのうちにチャックはビリーとアビーの間に兄妹以上の親密さを感じ取り、不信に囚われる・・・・。
こう書いてしまうと、何だかドロドロとした人間ドラマのように感じるが、物語が妹リンダの口を通して語られ、また、名手ネストール・アルメンドロスの手による美しすぎる映像もあって、全体としてはむしろ夢で見た風景のような、淡々とした印象を残す。マジック・アワー(日没後20〜25分間の黄昏時)の光線を巧みに生かした画像や、室内での非常に明るいレンズを使った場面など(ちょっとキューブリックの「バリー・リンドン」を思わせる)印象に残る映像目白押しで、こうしたシーンの積み重ねによる独特の演出が、この映画をともすれば陥りやすい陳腐化から救っていた。アルメンドロスはこの仕事でアカデミー撮影賞を得ているが、誰もが頷ける結果であろう。
物語は、いちどバーンストーマー(余談だが、フォッカー三葉機などが登場するところから、映画の描いている時代が第一次大戦の終わった直後らしいことがわかる)に同行して農場を去っていたビリーが帰ってきてから急展開する。ビリーは本当にチャックを愛し始めてしまったらしいアビーに不満だし、また、チャックの方はますます不信感を募らせ、嫉妬に狂う。そんな時、農場がイナゴの大群に襲われ、為す術もないまま麦畑はイナゴたちに食い荒らされる。そして、イナゴをいぶすために焚いていた火が、ビリーとチャックのいさかいで麦畑に燃え移り、やがて農場全体が火に包まれてしまう。
すべてが燃え尽きた翌朝、銃を手にしたチャックはビリーの姿を探し求めて彷徨い歩く・・・。
イナゴ襲来のシーンでは、まさか本物のイナゴの大群を使って撮影するわけにも行かないので、もちろん特殊効果が使われたのだが、現在のようにCG万能の時代ではなかったので、人間と絡むシーンでは大量の本物を使って撮影し、空を覆い尽くすような大群は、ヘリコプターから穀物やピーナツの殻を撒いて、フィルムを逆回転させて使ったそうだ。種明かしを聞いてしまえばどうということのないローテクだが、それでもまるで何億というイナゴの群れのように見えたのだから侮れない。むしろ、「ハムナプトラ失われた砂漠の都」のCGによる砂嵐よりは、よほど自然に見えたくらいだ^^;
銃を付きつけられたビリーは、もみあったあげく手にしたドライバーで逆にチャックを刺殺してしまう。殺人というよりは、事故に近い状況だったのだが、それを証明する目撃者もおらず、結局ビリーはアビーとリンダを連れ、川づたいに逃亡をはかる。
しかし、やがて追手が彼らに追いつき、抵抗したビリーはあっさり射殺されてしまう。
物語はそこではまだ終わらず、後日談のようにアビーとリンダのその後が語られる。無一文だったはずのアビーがリンダを寄宿学校に入れるのだが、その金は一体どこから出たのであろうか。ひょっとしたらチャックの財産を相続したのかもしれない。少なくともビリーとアビーの関係はチャックが薄々気づいていただけだったし、ビリーと共謀して夫殺しをしたと証明されたわけでもないだろうから、遺産相続する権利はあったはずだ。
せっかく寄宿学校に入ったリンダだったが、すぐに脱走し、以前農場で知りあった少女とともに再び放浪の旅に出るところで、ようやく映画は終わる。結局のところこの映画は、リンダの口述によるリンダの物語だったわけだ。
この作品もまた、以前放映されたときに観てはいたのだが、やはり印象的な場面(たとえばミレーの絵のような、黄昏時の農場で働く労働者の群像とか、イナゴの大群が襲ってくるシーン、また、ビリーが川の真ん中で射殺されるシーンなど)くらいしか覚えていなかった。名作だとは思うのだが、場面の美しさに拮抗できるほどの物語性に恵まれなかったことが、この映画の最大の悲劇だったのかもしれない。・・・
才人竹中直人の劇場用映画第四作ということなのだが、TV観賞のためか、もうひとつ竹中ならではの世界に浸り込めなかった。彼のようなタイプの映画作家の作品は、やはり映画館の暗やみの中で、大勢の観客とともに観賞するのが正しい態度なのかもしれない。それでなくてもコメディは観賞するときの環境が大きく物をいうのだから。
とにかくのっけから天海祐希演じる妻、奈美子のオーバーなキャラクターに辟易してしまって、感情移入ができない。おそらく意図的なものだと思うのだが、この映画では、日常の淡々とした描写と非日常的な「事件」との落差がものすごくて(たとえば「主夫」している正太郎=竹中直人の日常に、奈美子と自分の夫が不倫関係にある女が割り込んで、探偵が撮影したらしい不倫現場の写真をまき散らすシーンなど)見る側は戸惑ってしまう。ある場面ではコメディらしい演出、そしてある場面ではリアルな日常描写と、演出のリズムが一定しないのだ。
竹中はいつもの怪演がややひかえめで、天海のウケに回っているのだが、逆にアンバランスな印象を受けてしまった。美奈子が突出しすぎてしまって、彼女のどうしようもない勝手な性格が家庭崩壊をもたらしたようにしか見えないのだ。
「連弾」という意味深なタイトルは、もちろん夫婦間のあうんの呼吸とか、さまざまな人間関係を表現しているのだと思うのだが(もちろん直接的にはピアノの発表会でおこなう連弾そのものを指しているのだが)達者な子役たちのおかげでけっこうさまにはなっているものの、特に美奈子のキャラクターが遠くに行きすぎてしまったので、子供たちの側からそれでも彼女を求める場面では、ホロリとするというより何だか無理を感じてしまった。やはり美奈子のキャラクター設定にはいくらか計算違いがあったのではないだろうか。だから、本来なら感動的なはずのラストシーンもあっさり静止画にして、そのままエンドロールになだれ込んでしまったのだろう。こういう終わり方の作品は、特に日本映画ではときどき見かけるが、何か肩透かしを食らったように感じてしまうのは僕だけなのだろうか。・・・
小さな車の修理工場に勤めるベニーには、軽い精神障害を持つジューンという妹がおり、彼女のことを思うと恋人を作る気にもなれない。あるとき、工場の仲間たちとやったカードゲームにジューンが参加して負けてしまい、その代償として同僚の甥を同居させることになる・・・。
はっきり言ってかなり淡々とした物語なのだが、その甥、サムを演じるのがジョニー・デップ、妹のジューンがメアリー・スチュアート・マスターソン(リー・トンプソン主演の「恋しくて」でボーイッシュな少女役を好演)というフレッシュな組み合わせで意外に見せてくれる。特に、バスター・キートンを尊敬する映画マニアの変わり者、というサムの設定はジョニー・デップにはぴったりで、当初どうしても気になってしまうチャップリンぽさも、デップ特有の目の演技のうまさや全身を使ったボードビルなどに目を見張らされ、途中から完全にジョニー・デップそのものの映画になってしまう。デップのファンにとってはたまらない作品だろう。
物語そのものは、障害を持つ妹がいる、というハンデに実はベニー自身が逃避していた、ということにやがて気づくというよくあるものだが、サムの設定があまりに飛躍しすぎているのと、ジューンの持つ障害が、ややご都合主義的な感じを与えてしまうあたりが全体的にこの映画を「おとぎ話」っぽくしてしまっている感はぬぐえない。
ベニーに思いを寄せる元女優で今はウエイトレスをしているルーシー(ジュリアン・ムーア)がとても奇麗に撮れていたのが印象的だった。また、出番は少ないながら、バグダッド・カフェのCCH.バウンダーが、いかにも存在感のあるジューンの主治医として好演していた。
ところで、サムとジューンの会話の中で、某干しぶどうメーカーのCMについて「気持ちが悪い」と言っていたが、タイアップで商品をさりげなく紹介したり、画面に映したりすることはあるものの、その逆というのはあまり知らない。聞けば誰でもわかるように説明しているので、メーカーの耳に届かなかったはずはないし、問題になったりしなかったのだろうか。まあ、そんなことにいちいち目くじらを立てること自体、企業イメージの低下につながる、と判断したのかもしれないが。・・・
「ゴジラVSデストロイア」(1995)でいったん終わった平成ゴジラシリーズが、1999年、「ゴジラ 2000 MILLENNIUM」で21世紀を待たずに再開された。長年裏切られ続けてきたので、このシリーズに対してはほとんどなんの期待もしていなかったのだが、一連の平成ガメラシリーズの影響を受けたためか、以前のシリーズより多少は対象年齢を上げ、SFテイストを加味した作品に仕上げてある。第二作目に当たる本編では、度重なるゴジラの襲撃で焦土と化した東京の街を捨て、首都が大阪に移転しているという設定が新鮮だった。が、それが物語に何か反映していたかというと、残念ながらほとんどなんの関係もない。結局ゴジラは放射性物質に引かれてやっぱり東京に来るし、新怪獣メガギラスとはお台場で戦うことになる。
今回の新機軸は、確実にゴジラを消滅させる兵器として、マイクロブラックホールを応用した「ディメンション・タイド」なる新兵器が登場することだが、こいつの実験により時空がゆがみ、なぜか石炭紀の巨大昆虫メガヌロン(ラドンでおなじみ)を現代に呼び寄せてしまうことになる。かなりご都合主義な設定だが、昔から怪獣映画のSF設定なんてこんなものだった。このメガヌロンの成虫が巨大トンボ、メガネウラで(ってふつう幼虫も成虫も学名は同じはずなのだが)その中でも女王蜂的な存在がメガギラスなのである(ってなんでトンボに女王が存在するの??)超音波を発するシーンがビジュアル的に表現されているあたりも「ガメラ大怪獣空中決戦」を髣髴させる。
SFXのデジタル化が進み、ミニチュアワークよりCGアニメーションがだいぶ目立つようになってはきたが、やはりセンスの問題なのか、画面の嘘っぽさは変わらなかった。これより少し前に作られたアメリカ版のGODZILLAが、造形には問題が多いものの(てゆーか、よく出来ているのだがあれはゴジラではない)かなりリアルな絵作りとなっていたのとは対照的であった。
ストーリィは結局そんなものだろう、といった程度のオチにおさまるのだが、ちょっと問題だ、と思ったのが軌道上(だよね、あの絵だと)に打ち上げられた「ディメンション・タイド」の扱いである。低軌道においては、衛星はほぼ90分で地球を一周してしまうので、本来なら「ディメンション・タイド」が日本上空にいられるのはごくわずかな時間のはずである。ところが本編では、まるで静止衛星ででもあるかのように日本上空に位置し続け、燃料の不足で軌道を維持できなくなり(!?)大気圏に突入してもやっぱり日本上空にいる。この脚本を書いた人間は、「軌道に乗る」というのがどういうことなのか、まるっきり判っていないようだ。・・・
長島一茂がどういうわけか阪神タイガースの覆面ルーキーを演じるという、真面目なのかふざけているのかよく判らない不思議な映画だった。といって、別にコメディ仕立てになっているわけでもない。くすぐり程度の笑いはあるが、けっこうシリアスに、少年ジャンプ的に物語は展開する。あまり説得力はないものの、ビジュアル的にはそこそこインパクトのある覆面ピッチャーという設定は、確かに劇画というジャンルこそふさわしかったかもしれない。
映画としてはこれ以上ないほど凡庸な作品で、特にラストの盛り上げ方など観る前からすべて読めてしまった。たぶんこうなる、ああなるという読みが次々に的中するのは確かにちょっと楽しいが、それを上回るものを見せてもらわないと、お金を取って見せる映画としてはあまりに寂しい。唯一いくらか面白かったのは、野球選手の夢を諦めかけた一茂演じる主人公を、妻の鶴田真由が逆説的に力づけるシーンで、俳優が演技らしい演技を見せてくれるシーンといったら本当にここくらいのものだった。
映像的にもあまり見るべきものがなかった。球場をエキストラで満員にして撮影した肝心のゲームシーンは、まるでテレビ中継を見ているようで、映画ならでは、という斬新な構図など皆無だったし、望遠レンズの圧縮効果でミスター・ルーキーの放つ球が160キロオーバーにはまったく見えなかった。相手チームが「東京ガリバーズ」などという時代錯誤のネーミングになっていたのも興ざめ。いまどきTVゲームでさえ実名球団が常識である。誰が見たって読売なんだし、ここはがんばって版権使用料を奮発してほしかったところだ。
主演の長島一茂自身はいわれているほど悪くはない。バラエティ番組に露出しすぎているために「天然」のイメージが強いが、なかなかどうして自己演出のうまい人だと思う。意外に多くテレビドラマへの出演経験もあるし、野球選手出身の俳優の中ではかなりいい人材だろう。もちろん大根のイメージはつきまとうが、下の項でも書いたように、大根であることはむしろスターの証であると僕は思っているので、へんにわき役などでうまくなっていくより、あくまで主役を演じるべきだ。
さて、この映画が撮られていたころには誰も夢にも思っていなかった阪神の優勝が目前に迫り、映画で描かれていたようなシーンももう秒読みの段階にある。あり得ない話だからこそファンタジーとして意味のある作品だったのに、現実は映画の世界を大幅に越えてしまった(^_^)ということで、ご祝儀ポイント→・・・
くだらないといえばくだらない映画なのだが、これがけっこう面白かった。スタローンは相変わらず大根だが、大根であることはいわばスターの条件なので、うだうだ言っても始まらない。相手役のウェズリー・スナイプスは・・・これがよかった。このところ正義の味方ばかり演じていたが、こういうちょっとキレた、でもどこか剽軽な悪役をやらせたら、彼の右に出るものはそうはいまい。格闘技の技もスタローンより全然決まっていて、最後の対決でなぜ彼が敗れてしまうのか、ちょっと解せなく思えてしまうくらいだった。
舞台は2032年の西海岸。かつての大都会は2010年の大地震により崩壊し、サン・アンジェルスというあらたな都市ができている。そこにある冷凍刑務所で冷凍刑に処されていたサイモン・フェニックス(スナイプス)という極悪人が復活し、やりたい放題の悪事を重ね始める。その時代、犯罪は遠い過去のものとなり、警察の仕事は汚い言葉を吐いた人間から罰金を徴収するくらい。サイモンの発揮するバイタリティはとても手に負えず、やむなくやはり冷凍刑に処されていた暴力警官ジャック・スパルタン(スタローン)が解凍され、サイモンを逮捕すべく捜査を開始するのだが・・・。
2032年の未来世界の設定がとにかくおかしい。酒もたばこも違法となり、ピザがご馳走になっている(ご丁寧にピザハットという設定。こういうタイアップって、かえってマイナスイメージのような気も・・・)人々は異常に潔癖な生活を強いられており、セックスすらもはやバーチャル・セックスと化してしまっていて、妊娠、出産はすべて人工授精に頼っている始末。なにか禁止用語をしゃべると、町中に設置されている機械に聞きつけられ、違反切符を切られる。ここまで極端だとさすがにいくばくかの寓意を感じざるを得ないが、多分にコント的な演出であまり嫌みを感じさせることはない。シュワちゃんが大統領になっていた、という設定はもちろんレーガンにひっかけたもので、なおかつシュワちゃんとスタローンとの関係も意識したのだろうが、現在のカリフォルニア州知事選をみていると、そのうち現実が追いつきそうな気もしてしまう(もっとも憲法の規定で、アメリカで生まれた者以外は大統領にはなれないので、オーストリア出身のシュワちゃんにはその可能性はないそうだが)
パトカーなどの乗り物もそれらしくデザインされており、巧みにマット合成された未来都市の景観も、いかにもそれらしい場所でのロケーションの成果もあってなかなか説得力があった。
残念ながら面白いテーマが後半ではやや失速してしまい、サイモンvsスパルタンの肉弾戦ばかりが目立ってしまった。まあ、それを見せることが第一の映画なので、外すわけには行かないだろうが、もう少し物語そのもののテーマに関わる部分にも気を使って欲しかった。自らの作った社会をより強固なものにするために、サイモンを復活させた悪玉の扱いも、これではちょっと間抜けすぎる。いくらコメディ仕立ての話だといっても、これではせっかくのテーマがあまり生きていない。
冷凍睡眠中の人格矯正プログラムとして、スパルタンにはなんと編み物のプログラムがインプットされており、知らず知らずのうちにセーターを編みあげてしまう、というあたりも妙に笑わせてくれた。・・・
ある大富豪が、自分のコレクションであった中世の斧で猟奇的な殺され方をする。その斧には、サンフランシスコの地方検事補、デビッド・コレリのかつての恋人であり、現在は友人の弁護士ギャビンの妻になっているカトリーナの指紋がついていた・・・。
脚本を書いたのが「氷の微笑」のジョー・エスターハスなので、かなり似た傾向のセクシャル・ミステリーとして仕上がっていた。コンスタントに作品を発表してはいるが、なぜか時代が下るごとに小粒になっていくフリードキン作品の悪い部分を集約したような作品になってしまっている。いかにもフリードキンらしい絵作りや、間の取り方がときどき見られるものの、ミステリーとしての面白みにはやや欠けるし、なにより、劇場用映画としての重みに欠けているのだ。過激なセックス表現がなければ、TVムービーといわれても少しも不思議ではない(実際、この前後のフリードキン作品にはTVムービーが多い)犯人は結局定石通りの人物だったのだが、終盤まで実は別の人物が犯人ではないか、と思わせる展開。そのこと自体は悪くはないのだが、おかげで中盤のカーアクション(さすが「フレンチ・コネクション」の監督だな、と思わせる出来)の相手がいったいどちらだったのか、とか、説明不足のまま終わってしまった。
タイトルの「ジェイド」とは、殺された大富豪と関係のあった女の口から出た謎の女の名前で、理想的なセックス・シンボルである。そのジェイドが結局誰だったのかがこの物語のキーポイントなのだが、ほとんど最初から目星がついてしまうあたりに、この脚本の限界があったようだ。・・・
これでいったい何度目の放映なのだろうか。お盆の頃にはいつもやっているような気がする。まあ、そういう内容の映画なので仕方ないのだろうが。
冒頭、浮浪児だった清太が駅の構内で行き倒れ、その霊が回想する、という形で物語は始まる。軍人の家庭で比較的裕福に暮らしていた一家は(父は巡洋艦に乗っていて留守)空襲にあって母を失い、二人だけになった兄弟は叔母の家に身を寄せる。中学生の清太は学校が焼失してしまい、四歳の妹、節子の面倒を見る以外にすることがない。戦争末期の物資が不足している時代、突然子供を二人も抱え込んでしまった叔母はやはり苦しくなる。なにもしないくせに食事だけは三度食べようとする兄妹を見ていると、どうしても辛く当たってしまい、清太は叔母の家を出ることを決意する。しかし、東京にいるはずの親戚はその住所すらわからず、結局二人は池のそばの小さな防空壕で暮らし始める。
仕事もお金もない子供が二人だけで生活を始めたら、結果は見えている。食べ物は手に入らず、妹の節子は栄養失調に陥り、やがてあっけなく命を落としてしまう。物語はその辺の描写を比較的あっさりと流す。明らかに体調不良と判る状態になって始めて清太は節子を医者に見せるが、栄養失調と告げられたのにも関わらず、なぜか大人たちに助けを求めたりしない。その気になれば、再び叔母の元を訪れて、節子だけでも面倒を見てもらえるように頼むことだって出来たはずだ。そういえば、畑で芋を盗もうとして農民に見つかり、交番に突き出されたときも、暖かく彼を助けた老警官に、特に頼るそぶりを見せなかった。外で待っていた節子が「はばかりにいきたい」と言っても、すぐそばの交番のトイレを借りることもせず、節子をおぶって急いで防空壕に戻ろうとする。彼をここまで意固地にしたのはいったい何なのだろう。少なくとも、戦時中という背景とは直接つながらないように、映画を見るかぎりでは感じられる。世間一般ではこのアニメは「戦争の悲惨さを子供たちにも伝え残す」ものということになっているようだが、この物語では戦争はバックグラウンドに霞んでしまい、単なる環境にすぎなくなっている。別に戦災でなくても、たとえば震災にだって置き換えられるだろう。おかげで物語の主題がどこにあるのかやや曖昧になってしまった。
監督の高畑氏はどういう意図で野坂昭如の原作をアニメ化しようとしたのだろう。おおざっぱにいってしまえば、これは大人たちの間で行き場を無くした兄妹がやがて野垂れ死にしてしまうという悲劇なのだが、大人たちの「悪意」があまりにソフトなせいで、それらがほとんど観客に伝わらないのがこの脚本の一番の問題点だろう。たとえば、兄妹が叔母の家を出ることになる経緯にしても、あれでは含みが残ってしまい、助けを求めないのは清太が意地を張っているからに見えてしまう。叩き出すというような露骨なことはしなくても、もう少し喧嘩別れらしくしてもよかったのではないか。少なくとも清太が「二度と戻るものか」と決意するようななにかがあるべきだった。極力安易な「悪役」を出さないように努めた脚本のおかげか、結局は清太の空回りばかり目立つ話になってしまった。むしろ早すぎる独立と、その代償について描いた映画であるかのようにすら見える。「戦争に追いつめられて、子供などに気を配っていられなくなった大人たち」という描写の不足はやはり残念だ。
戦時中の雰囲気の描写は悪くない。B-29の飛行高度はもっと高かったような気がするが、アニメ的表現としてはあれでもいいのだろう。パラパラと焼夷弾が降り注ぎ、それが町を火の海に変えていく描写もなかなかだ。住民が避難して無人になった町並みに落下した焼夷弾が、どういうプロセスで家を燃やしてしまうのか、おそらく当時の生き残りの方たちに山ほどインタビューをしたのであろう。地上戦を体験しなかった大半の日本人にとって、戦争とはズバリこうした空襲だったのだ。また、物語中盤にはP-51やグラマンによる機銃掃射も出てくる。実際にグラマンは子供でも撃ったそうだ。まあ、上空から見たら大人も子供もほとんど判別はつかなかっただろうが、それ以前に明らかに非戦闘員とわかる人間でも彼らは撃ったのだ。その場面の臨場感は、おそらく下手な実写映画を遥かにしのいでいた。問題はそれらが前述のように、物語の主題と有機的に結びついていないように見えてしまったことだ。
この映画は「となりのトトロ」と併映されたが、「火垂るの墓」→「となりのトトロ」の順で観たならならまだしも「となりのトトロ」→「火垂るの墓」の順だと、かなり後味の悪い帰宅となりそうだ。・・・
ジェット・リーことリー・リンチェイが国際的に進出する足がかりになった、香港のスピルバーグことツイ・ハーク製作、ワイヤーアクションばりばりの中国歴史(伝奇?)ロマン大作。こういうのはカンフー映画ではなく、武侠映画というのだそうだが、いやはやなんともとにかく人が飛びまくる、死にまくる、爆発しまくる(!!)凄い映画だ。 僕が最初に観たワイヤーアクション全開の映画は、チャイニーズ・ゴースト・ストーリィだったが、あの作品が文芸大作に見えてくるほどこちらは荒唐無稽、何でもありの見せ物映画になっていた。
Gガンダムなどにも登場してその名だけは名高い東方不敗が、一方の主人公として登場するが(この映画が Gガンのもとネタ)葵花法典という書にある秘術をマスターするために宦官となり、果ては女性化してしまうという設定には驚いた(演じたブリジット・リンはもちろん本物の女性^^;)その東方不敗と偶然出会い、女だと思って恋に落ちてしまうのがリー扮する剣士リン。彼女こそが宿敵東方不敗だとわかるのは、物語も押し詰まった終盤のことだ。普通ならこの辺で恋をとるか正義をとるか悩むところだが、なにしろワイヤーアクションのまっただ中なのでそんな余裕はなく、あっさりと敵に回って戦いを挑むあたり、ちょっとキャラクターを単純化しすぎている、といわれても仕方あるまい。とにかくこの映画に出てくる人間は、微塵も悩んだり迷ったりしない。自らを犠牲にしても事をなすべきだ、と思ったら、考えるより早く行動してあっさりと死ぬ。ものすごい人命の浪費。
ストーリィは一応あるが、とにかく全編飛んだり跳ねたり、荒唐無稽な秘術のかけあいで、思わず笑ってしまう。まさにドラゴンボール実写版。こういうもの、と割り切ってみれば、これはこれでなかなか面白い。とにかく馬鹿馬鹿しい高さまで人間が跳ね上がる。移動速度も、ある程度はコマ落としだということを計算に入れてもとんでもない速さだ。この技術がやがてハリウッドに移植され、やがてマトリックスを生むことになる。・・・
わざわざ下の「初体験/リッジモント・ハイ」を潰して録画したのだが、その甲斐があったとは冗談でも言えないお寒い映画だった。
冒頭の部分はなかなか面白い。犯罪としても型破りだし、撮影もこれまでの日本映画では考えられないほどの迫力だ。警察の裏をかいてついに3億円をせしめてしまうまでは、クライムストーリィとしてなかなかよく出来ていると思う。しかし、よかったのはそこまでで、後半の失速ぶりといったらおそらく記録的な酷さなのではあるまいか。
ある企業のトップが拉致され、身代金として3億円が要求されるところから物語は始まる。犯人側は、その金を彼らが指定する別の大企業の重役に運ばせ、しかもその様子をすべてのマスコミに生中継させることを要求する。マスコミによる中継、という要素こそないものの、時間を指定され、次々に電話ボックスのはしごをさせられるところは「ダーティ・ハリー」そのものだ。しかし、合計30キロにもなる3億円の現金を、大企業の重役クラスの年配者が素手で運ぶのはいかにも無理があり、最初の人間は心臓発作を起こして倒れてしまう。金の受け渡しはいったん中止され、また別の運び人が指名されるのだが、その人間はまたしても別の大企業の重役だった・・・。
企業のトップが誘拐される、と言う発端は「グリコ森永事件」を思い起こすが、残念ながら映画の方は、現実よりよほど単純な紋切り型の構図で、悲しくなるほどダメダメな脚本であった。前半部分の「面白くなりそうな部分」をすべてパスしてしまい、まさかこんな方向へは持っていかないだろうな、と思うような、最悪の方向へと話を持っていってしまう。
ここから先はネタバレになるので、もし読むのならそれなりに覚悟してもらいたいが、犯人たちの本当の目的は、実は3億円をせしめることではない。それはいわば副産物で、本当の目的は指名された人間に30キロもの錘を持たせて走り回らせ、体力の限界を超えさせること、つまりは復讐だったのである。3億円という金額は、まさに人間が持って歩ける限度の現金として設定されていたのである。二人目の運び人も限界が来て倒れてしまい、その先は渡 哲也扮する津波刑事がバトンタッチして金を運ぶのだが、ここでのトリックはなかなか巧妙で、ここまでだったらこの映画の評価はそれなりに高くなったと思う。
身代金は結局警察の手をすり抜けて奪われてしまい、その後は手がかりを求めて地道な捜査が続くことになるのだが、やがて指名された重役たちの間にある繋がりが見え始め、その線は事件の目撃者たちや、第一発見者までをもつなぐことになる。そして捜査は山梨の山村で起きたある公害事件へとたどり着く。もうこうなってしまえばあとは大企業=悪玉論で押し通せばいい。話はここから絵に描いたような紋切り型シナリオとなって突き進み、社会悪を告発する論調へと変貌を遂げる。最初のクライムものの展開もどこへやらだ。
もちろんクライムもので社会悪を追及してはいけない、ということではない。しかし、やるならそれなりの覚悟と見識が必要だと思う。この映画にはそんな覚悟も見識もいっさいなく、あるのはただ薄っぺらい正義感と、昔ながらのサヨク思想の残滓としか思えない大企業悪玉論だけだ。
冒頭の滑り出しや、犯人の設定など見るべきものはけっこうあったのに、その料理の仕方があまりにまずく、大甘の結論に運んでいってしまったあたりに古い日本映画の体質がにじみ出て、ほとんど評価に値しない作品になってしまった。全く残念な話だ。・・・
原題は“Fast Times at Ridgemont High”で、「初体験」(First Time)とは綴りが違うのだが、この辺は意図的な誤訳なのだろうか。確かに映画の内容自体には「初体験」も絡んでくるのだが。
製作はいまから20年以上前の1982年。出演はマドンナの元夫、ショーン・ペンやフィービー・ケイツ、ジェニファー・ジェイソン・リーなどその後に活躍した俳優が多く、黄金の80年代の入り口を象徴する作品といえる。内容もまあ、やはり80年代的にいい意味でアッケラカンとしているが。
製作者としては、たぶん80年代の「アメリカン・グラフィティ」を作りたかったのだろうと思う。一種の群像劇であるところも似ているし、同時代のヒット曲をサウンドトラックにたくさん取り入れて、雰囲気をもり立てようとするところや(なんと、この映画で使われた曲のシングル・レコードを3枚も持っていた^^;)なによりラストの「登場人物たちのその後」など、アメグラそのものである。しかし、24時間というタイムリミットのなかで、それぞれの人生模様の交錯を巧みに描いていたルーカス作品に比べて、こちらはかなりルーズな出来であり、ジェニファー・ジェイソン・リー演じるステイシーとその兄ブラッドの二人を通して、クラスメートたちの織りなす青春を通りいっぺんの学園ドラマとして描いて見せたに過ぎない。この二人の家、庭にでっかいプールまである豪邸なのだが、ふたりとも学園生活の傍らバイトに精を出している。金がないというより、社会の仕組みがそうなっているのだろう。ちなみに兄はバイトの金を60年代のビッグなアメ車の月賦に回している。
物語は、ステイシーの初体験やクラスメートの男の子たちとの関わりを、やや雑然としたタッチで描いている。ステイシーはただ初体験のためだけに、見た目の恰好良い男を逆ナンしたり(もちろん二度と付き合わない)してしまう15歳の女の子。ちょっと気の弱い同級生マークから告白されて、ステディとして付き合うようになるものの、もう一歩煮え切らない彼に欲求不満気味。そんな時、彼の親友で、バイト先の映画館でダフ屋をやっているマイクに迫られると、簡単になびいてしまい、その結果妊娠してしまう・・・という展開。こう書くと、教訓的内容を含んでいるように見えるかもしれないが、そんな意図はほとんどなく単に当時の若者の生態を描いているだけのようだ。フィービー・ケイツ演じるリンダはステイシーのバイト先の先輩で、彼女の姉御的な存在。あくまでも助言者的なキャラクターで、ストーリィにあまり絡んではこない。水着の彼女を見て兄のブラッドが興奮し、トイレでひとり耽っているとき突然当の彼女がドアを開けてしまう、というエピソードがあるにはあるが、結局その先の進展はなかった。
ステイシーのクラスメートではあるがほとんどなんの関わりもない、ショーン・ペン演じるスピコーリというサーフィン狂の劣等生(その後いちばん有名になったせいか、クレジットでは最初に名前が出てくるが、本編中ではせいぜい助演といった扱いである)と、彼に手を焼く学校一厳しい歴史教師ハンド先生(レイ・ウォルストンが好演)とのエピソードがなかなかいい。感動とはほとんど縁のない映画だったのだが、ハンド先生がスピコーリに見せる、厳しいなかにも窺える思いやりが、フィービー・ケイツのバストご開帳しか価値のない映画、という評価から救っている。
この映画、少なくともこれまで3〜4回は見ているはずなのだが、覚えていたのはほとんどラストの、ブラッドがコンビニ強盗を捕まえるシーンくらい。これもどういうわけか、ずっとブラッドがセブンイレブンの制服を着ていたように記憶していたのだが、今日見たら、単に水色の上着を着ていただけだった。たぶん最後の、「登場人物たちのその後」で、ダフ屋をやっていて捕まったマイクの「現在はセブンイレブンで働いている」という一行が記憶の混乱をもたらしたのだろう。それにしても、フィービー・ケイツやジェイソン・リーのヌードさえ覚えていなかったとは・・・。たぶん同じころの「プライベート・スクール」なんかと混同していたんだろうな。・・・
「狼たちの街」で、凡百のハリウッド監督とは一味違った作風を見せてくれたリー・タマホリが、極め付けの娯楽大作007シリーズをどう料理するのか、非常に興味があったところだが、結果はまあ合格点、といったところだろうか。
冒頭、北朝鮮に潜入したボンドたちは、「将軍」の息子ムーン大佐を追いつめ、滝つぼに落としていちおう任務を全うするが、直後に拘束されてしまい、そのままなんと14ヶ月が経過する。天下のボンドが一年以上も敵に捕らわれていた、という設定は前代未聞だろう。映画の中では半分近くも囚われの身であった「ゴールドフィンガー」であっても、実際の経過時間はせいぜい数日だったはずだ。囚われている間の拷問シーンにタイトルがかぶるというのも新しい趣向だ。主題歌は今回初登板のマドンナが歌っている。前にも歌っていたような気がしたのだが、どうやらこちらの勘違いだったようだ。マドンナは主題歌だけではなく、中盤のクライマックスシーンでは女優としても登場している。
そして14ヶ月後、ボンドはムーン大佐の腹心ザオと捕虜交換の形でようやく釈放されるのだが、拷問による機密漏洩の嫌疑がかかり、情報部から00ナンバーを取り消されてしまう。自らの無罪を証明するために、ボンドは病院を脱走してひとり捜査を開始する。やがて彼は利害を同じくする中国情報部の助けを借りて、キューバへと向かうことになるのだが・・・。
とにかく前半の導入部は、最近のボンド映画とはかなり趣を変えて、こちらの読みをどんどん外していってくれる。少なくとも前半に関するかぎり、監督タマホリのいっていたように、ボンド映画の原点に立ち返ることを狙っていたようだ。キューバの町中をフルサイズのアメ車でクルージングするボンドの姿は、明らかに第一作「ドクター・ノオ(007は殺しの番号)」へのオマージュだろうし、水着のハル・ベリーが水の中から現れるシーンは、否が応でもアーシュラ・アンドレスを思い浮かべる。蛇足だが、ハル・ベリー演じるジンクスに自己紹介するとき、ボンドは「鳥類学者のジェームズ・ボンド」、というのだが、映画の中では地元の協力者宅で偶然見かけた図鑑をヒントにしているという設定。いうまでもなくこれは、原作者イアン・フレミングが、ジェームズ・ボンドという名前を実際に鳥類図鑑の著者名からとった、という有名なエピソードをそのまま使ったものだ。
これ以外にも本編では旧シリーズの設定や名台詞、名シーンをふんだんに再現している。たとえば、ダイヤモンド王グスタフ・グレーブスの秘密兵器は「ダイヤモンドは永遠に」とほとんど同じものだし、ラストの決着の付け方など、「ゴールドフィンガー」そのものだ。
ボンド映画であるからには、後半には敵の秘密基地が登場し(今回は特に秘密でもなかったが)それをぶっ壊すという重要なシークエンスを避けて通るわけには行かない。このあたりから話は荒唐無稽の度合いを急激に上げ、全体としての印象を、最近のボンド映画とさして変わらないものにしてしまっている。タマホリ監督が本気で生身のボンドを表現したかったのなら、本当はこの辺にこそ手を入れるべきだったのだろうが、プロデューサーとの力関係からしても、それは無理というものだろう。
ボンドガールの扱いが、ハル・ベリー以外極めて希薄だったのも残念だ。もう一人のボンドガール、ミランダ・フロストを演じたロザムンド・パイクは上品な顔立ちではあったが、あまりに印象が薄く、まったくハル・ベリーに対抗できていないし、ミス・マニーペニーを演じたサマンサ・ボンドももうすこし出番が多ければ、ラストの落ちがもっと生きたと思う。
例によって秘密兵器も満載だが、珍しく複数の出番があった「指輪」はまだしも、光学迷彩を装備したボンドカーというのはちょっとやり過ぎかも。これは「攻殻機動隊」の草薙素子か、はたまた「プレデター」の宇宙人の影響か・・・。ちゃめっ気一杯で新兵器を説明する新Qことジョン・クリースがここでもいい味を出していた。・・・
ウルトラマンコスモスのテレビシリーズを受けて製作された続編なのだが、例の事件のために主演に代役を立てた別バージョンが撮影されたり、公開までにいろいろとすったもんだのあった曰く付きの作品でもある。
前回の映画版は主人公、春野ムサシが少年時代、初めてウルトラマンコスモスと出会う話だったが、今回は大人になったムサシがチームEYES隊員の時代を経て宇宙飛行士となり、惑星ジュランでふたたびウルトラマンコスモスと出会う。そこはかつて緑豊かな惑星だったが、今は怪獣兵器スコーピスの手により砂漠の惑星と化していた。やがて地球に帰り着いたムサシは、友人の結婚式のためにサイパンへと出かけるが、そこで人魚を目撃する。その人魚は実はスコーピスによって母なる星を滅ぼされ、地球へとひそかに逃亡していたギャシー星人であった。やがてスコーピスが地球めがけて飛来し、サイパンの街を破壊し始める・・・。
昭和の頃のシリーズに比べて大幅にデジタル化され、怪獣のメタモルフォーゼなども巧みなモーフィング技術でうまくこなしている。とはいってもやっぱり怪獣は着ぐるみで、初代からの怪獣プロレス路線はほとんど変わっていないが。物語は前作ほど自由な作りにはなっておらず、テレビシリーズのワンエピソードといわれてもそれほど違和感はない。クライマックスにおいて、ギャシー星人の伝説の巨人=ウルトラマンジャスティスが登場し、コスモスと協力して敵を倒すといったパターンも、これまで何度繰り返されたことか。しかし、定番には定番のよさがあり、これこそが正調ウルトラマンの醍醐味なのだろう。何と言っても子供向きの作品である。そこに深遠な思想がないとか、人間が描けていないとかいっても仕方がない。深く意味を探ればそこにもやはり異民族との接触で起こる問題や、生命とは何かといった問いかけはちゃんと含まれているのだ。
ところで、くだんの代役版もDVDソフトとして販売されているらしい。これはこれでなかなかよく出来た作品らしいので、いずれレンタル屋でみつけたら観てみようと思う。・・・
このところ夏の恒例行事化しているルパン三世のTVスペシャルだが、作画や演出はほぼ劇場用映画なみの水準に至っているし(質的にも製作費もこれに及ばない劇場用映画はそれこそたくさんありそうだ)この欄で評価する価値は十分にあるだろう。
元祖ルパン声優であった山田康夫氏の突然の死去で、彼の物まねをやっていた栗田貫一がバトンタッチしてすでに8年、当初はしょせん物まね芸人の演じるまがい物という評価しかされなかったものだが、ここ数年の成長ぶりはすさまじく、もはやわれわれは栗田ルパンを全くなんの違和感もなく受け入れることができるようになった。ただひたすら山田ルパンの影武者に徹する栗田貫一という男の凄さを、この「違和感のなさ」にこそ僕らは感じなくてはいけないのだろう。今回の「お宝返却大作戦!!」は劇場用、TVスペシャル合わせて12本目の栗田ルパンの登板である。
いつもとやや趣向が違うのは、今回のルパンは死んだライバルの遺言により、彼が生涯かけて盗んだお宝を一つずつもとの場所に返却する、という意表をついた設定であることだ。もちろんこれには裏があって、期限内にすべてのお宝を返し終えたら、「トリックダイヤ」と呼ばれる巨大な黒ダイヤを手にすることができるのだ。物語はこの返却劇に、ロシアンマフィアの殺し屋や、毎度おなじみ銭形警部などもからんで、結局はいつも通り、やや混乱気味に展開する。
遺言にあった六つのお宝の返却は、映画の前半で早々に終わってしまい、それ以降は死んだライバル=マークが思いを寄せた女の忘れ形見、アニタが持っていた「トリックダイヤ」をめぐる物語となる。ここから舞台はスペイン、バルセロナのサクラダ・ファミリア教会へと移り、ふんだんなロケハンの成果と思われる見事なガウディ作品の背景画が連続する。マークがなぜ返却に期限を区切ったのか、ここで明らかになるのだが、このあたりもなかなかうまい演出だ。
結局のところルパンはいつも通り、ほとんど何も得ることなく物語は終わってしまうのだが、今回の設定はかつての宮崎アニメ、「コナン三世」こと「カリオストロの城」によく似ている。シナリオにはほとんど文句はないのだが、少々気になるのがルパン一座とそれ以外のゲストキャラとのギャップである。その他大勢の男たちは別にどうでもいいのだが、主要な二人の女性キャラ、アニタと女殺し屋のミーシャは明らかに別人の手になるキャラに見えてしまう。これは今回だけの問題ではなく、もうたいぶ前から感じていたのたが、やはり女性キャラの統一感はアニメ作品には必要なのではないだろうか。・・・
原作は大島弓子の50ページほどの短編だが、全体として割合忠実につくられていた。あの、天才的才能に恵まれなければ絶対思いつけない、かなり現実離れした物語をそれなりにリアルな話として仕上げたあたり、監督/脚本の犬童 一心という人物、ただ者ではないと見た。
大島の非凡さは、単なるボケ老人の妄想に過ぎないかもしれないむちゃな設定(80歳の老人が突然20歳の若者に、精神だけ逆戻りしてしまう)を、老人をビジュアルだけ若者にしてしまうことで(しかもそれは主人公日暮里老人と読者だけのお約束で、ほかの登場実物の目には彼はちゃんと80歳の老人に見えているという設定)少女マンガの範疇にぴったり収まるロマンチック・ストーリィとして成立させたところにあるのだが、本編ではそれを、冒頭の若き日暮里(伊勢谷友介)が目覚めるところからしっかり描いており(このあたりはまあ、ほぼ原作そのままなのだが)観客を一瞬にしてこの映画独特の世界に引き込むことに成功している。
ある日目覚めた日暮里は、体の節々の痛みや重さによろめきながらも階下に降りると、(その日からヘルパーとしてやってきた)古代なりすを目にして驚愕する。彼女こそは、ひそかに思いを寄せていた女学校のマドンナその人だったのだ(もちろん他人の空似だったのだが)あまりに出来過ぎの事態に、日暮里はすべてを夢の中の出来事だと思い込む。物語は現実を夢と思い込み、日々を淡々と過ごす日暮里と、いろいろ悩みながらも職務に忠実たらんと頑張るなりすとの交流を軸に展開してゆくが、自らを20歳と思い込んでいた日暮里は徐々に現実と直面していき、やがて大学の同級生のほとんどがすでに鬼籍に入っていることを知り、衝撃を受ける。このあたりの描写は映画的な膨らみはあるものの、基本的にコミックと同一であった。というより、あの原作を映画化しようとしたら、絶対に避けて通れない道だったのだろう。その一方で、日暮里同様に外見と中身が著しく違う(外見50代で内面13歳)クレープ屋のおやじという原作にはないキャラクターを登場させ、二人を必然性もなく引きあわせることで、日暮里個人の問題であったはずの外見と中身の乖離を無理に一般化して見せた。さすがにこのあたりはやや蛇足という感じだったが。
アルバイトのヘルパー古代なりすを演じる池脇千鶴は、ビジュアルこそ原作マンガと大幅に違うものの(マンガ版のなりすより池脇の方がかなり幼く見える)池脇の演技力がそれなりに新しいなりす像をつくっていた。映画ではなりす側の設定はかなり入り組んでおり、原作ではただ失恋したばかりという設定だったのに対し、映画では、なりすが失恋した相手は血のつながらない弟であり、しかも、その恋の相手というのが彼女の親友だったりする、といった具合だ。
ドラマはその後、原作通り悲劇的な結末に向かって急展開していくのだが、これ以上書いてはネタバレになるのでこの辺でやめることにする。基本的に原作のよさにおんぶにだっこの映画ではあったが、少なくとも、原作の面白さをスポイルしてしまうような出来にはなっていなかったことは、褒めてもいいと思う。・・・
ターミネーターシリーズをSFマニアとして考察すると、ちょっと気になるところがあった。ターミネーター2のエンディングでスカイネットに成長するはずのテクノロジーは壊滅し、審判の日は避けられたはずなのに、その後の未来からやって来た戦士カイルとサラ・コナーの子であるジョンは、物語が終わっても存在し続けていた。そもそも審判の日が来なければ人類は平和に存続し、カイルが過去に送り込まれることもないのでジョンは本来なら存在し得ないはずだ。SF用語でいうところのタイム・パラドックスである。しかしそれでもジョンが存在し続けたということは・・・。
いずれシリーズ第三部が製作されることは必然だった、と言えるのかも知れない。前作ターミネーター2から実に12年が過ぎ、2003年の今年とうとうシリーズ第三弾、ターミネーター3が公開された(冒頭三たび登場したエンド・スケルトン軍団の動きの自然さに、12年間の技術の進歩を思い知らされる)今回は生みの親とも言えるジェイムズ・キャメロンがまったくノータッチで、しかも監督があの凡作「U-571」のジョナサン・モストウということなので、仕上がりは正直いってちょっと危惧されたのだが、まあそれほどの破綻もなく成立した作品となっていた。けしてこれまでのような傑作とはいいがたい出来ではあるが。
それにしても毎回ワンパターンの発想をするコンピューターである。2までは許せても、3度まで同じ戦略を使ってくるとは、学習能力のない連中というしかない。まあ、問題はスカイネットにではなく、こんな企画ばかりたてる製作者にあるのだが^^;これはもうこういう「お約束」の映画なのだ、と考え、頭をからっぽにして観るよりないのだろう。とにかく前回の設定から10年後(2の設定では1994年だったから、2004年が舞台ということになる)ジョン・コナーはあらたなターミネーターの出現に怯え、自分の足取りを一切残さないようにしながらその日暮らしの生活をしている。そこへ女ターミネーター(!!)が送り込まれ、ジョンではなく未来でジョンの部下となる人間たちを次々と抹殺しはじめる。そんな面倒をやらなくても、2や最初のターミネーターの舞台となった時代に助っ人を送り込み、より確実にターゲットを始末すれば済むように思えるのだが、同じ時代にそれぞれ別の時代からターミネーターを送り込むことはできない仕組みにでもなっているのだろうか。とにかくそうするうちにシュワちゃん演じる2体目のターミネーターが登場し、ジョンを守る側にまわるわけだが、まったくまるで2を観ているような展開だ。もちろん製作側もそれを意識しないわけがなく、シュワちゃんの服を手に入れる方法やサングラスの小ネタなどに、ちょっとしたセルフ・パロディ的技を使ってくれる。
今回の敵側ターミネーターT-Xは女性タイプだが、はっきりいってその必然性は皆無だ。ただ単に、2のT-1000=ロバート・パトリックの印象が強烈すぎたために、どんな男性俳優でも越えることができないので女性にした、というくらいのことだろう。女ターミネーター(機械に性別などあるわけがないのだが)T-Xを演じるクリスタナ・ローケンは、身長180センチとシュワちゃんにもひけをとらない体格だが、顔立ちは超美人タイプではなく、どちらかといえばカワイイ系なので、無表情で戦う時にもやや凄みに欠ける感じがしたのがちょっと残念だった(ロボットを演じる時のお約束で、彼女も一度もまばたきをしなかった)だいたいこのT-X、前回の無定形アンドロイドであったT-1000と比べて内骨格を備えており、技術的にはやや後退しているように思える。一方肝心のジョン・コナーは当初予定されていたエドワード・ファーロングが出演できなくなり、新鋭ニック・スタールが演じることになったのだが、この配役にはやはりちょっと無理を感じる。おかげで2と共通する俳優は、シュワちゃん本人とチョイ役で登場するシルバーマン博士役のアール・ボーエンだけになってしまった。
いくらなんでも前回と同じ終わり方ではマンネリだと感じたのか、今回は正反対のエンディングが用意されている。ある意味、タイムパラドックスを避けるシナリオだが、要するにTVCMのキャッチコピーを真っ向から否定してしまう終わり方だ。しかし、その時点からジョンが指導者としてスカイネットと戦うまでには、まだ途方もない時間が残されている。この調子だとまだまだ続編は作られそうな予感がする。作品としてのパワーは低下し続けるだろうが、それがドル箱路線の宿命ということなのだろう。・・・
テレビ局が製作する映画というと、たいていは下の作品のようにヒット番組の映画化、というパターンが多い中、これはまったくのオリジナル企画であり(今年になって続編がテレビドラマ化されはしたが)プロデューサーはかなりがんばったと思う。実質的に製作したのは「Shall We ダンス?」などの佳作を送りだしているアルタミラピクチャーズで、そういえば本編はあそこの作品のカラーそのものだ。アイデア自体は埼玉県立川越高校で現実に行われ、テレビニュースでも取り上げられたりしていた男子シンクロチームからとっているが、もちろんストーリィはオリジナル。脚本も監督の矢口史靖が書いており、なかなかの才気を感じさせてくれる。
この映画、一見すると一連のスポ根ものの変型のように感じられるが、実際にはそれよりも「ブラス!」のような「何かに賭ける青春」ものに近い。なぜなら、これは基本的に闘争ではなく創造の物語だからだ。主人公たちの目指すのは競争ではなく、あくまでも自己完成なのである。したがって当然ながら彼らにはライバルがおらず、躍動するイルカの動きをヒントに新しい泳ぎを開発したりする。とにかく視点が「比較」ではなく、あくまでも唯一の存在として主人公たちグループを追っていたのが新鮮だった。
主演の妻夫木聡はちょっとヘナチョコだけどナイーブで、意外に芯の硬いキャラクターをうまく演じており(というか、妻夫木自身の持っているキャラクターにかなり近い)まわりに集まった仲間たちの描写も過不足なく(ちょっとありきたりだけど)いつも通りの竹中直人の怪演もあいまって(でも本当にシャチに乗ってしまうあたり、やはりたいした役者根性だ)ひさびさの快作に仕上がっていた。特に見事だったのは、ラストで演じられる男子シンクロの実演シーンで、登場人物たち本人が演技しており、このシーンだけでも見ごたえがある。映画製作のために1ヶ月にもわたる合宿で練習したそうだ。そう、何もお金をかけなくたって、人を感動させる映像を作ることはできるのだ。こんな単純なことを思い出させてくれただけでも、この映画が撮られた意義はあったと思う。・・・
もともとはテレビ作品のスピン・オフなのだが、テレビと比べてさすがに映画ならでは、といえるほどの仕上がりになっていなかったのはちょっと残念。まあ、脚本家も監督もほとんどテレビシリーズと同じなので、大きな変化を期待しようがなかったのだが。4話のオムニバスなのだが、せっかく一本の映画として企画したのだから、なにかそれなりのつながりを各話に設けてもよかったのではないか。もちろんストーリーテラー役にいつもどおりタモリが登場しているが(このエピソードは三谷幸喜脚本)さほど工夫は見られなかった。
4話のうちで比較的まとまっていたのは第3話の「チェス」で、いかにも映画的な仕掛けがテレビとはまた違った感触を与えてくれた。演出はテレビ界ではそのスタイルでファンの多い星護で、いつものミュージカル的な派手派手演出は影をひそめていたものの、やはりあちこちに彼らしい才気の片鱗を見せてくれた。
残りの作品について、ひとことずつ。
第1話の「雪山」はホラーだが、オープニングでタモリの語った雪山の怪談がモチーフになっており(そのエピソード自体もテレビ時代に渡辺裕之主演でドラマ化されている)そこそこ恐さを演出するのに成功してはいる。しかし、肝心の5人目の存在に気づくシーンの演出が非常にまずく(あれでは見ている人間のほとんどは理解できない)興醒めだった。さすがに「パラサイト・イブ」や「催眠」をダメにした監督だけのことはある。
第2話の「携帯忠臣蔵」は典型的ワンアイデアストーリィで、中井貴一の軽妙な演技でいくらか救われてはいるものの、単調な物語は救いようがなく、SFとしてはもういくつかひねりが必要だと思った。
第4話の「結婚シミュレーター」はタイトル通りの内容だが、4話のうちでもっともテレビ的な作品であった。けしてどうしようもなくつまらないわけではないが、もう少し映画的な広がりを表現できなかったのだろうか。せっかく「シミュレーター」という、それが可能な設定を使っていたことを思うと、まさに設定の持ち腐れとしか言い様のない展開であった。
各話それぞれについて書くとだいたい上のようになるが、一本の映画としてはやはり高い評価は与えられないな、というのが正直な印象だ・・・
テレビ朝日が1985年に製作を始めた劇場用アニメシリーズの第一作で、一発目だけになかなか力の入った作品になっていた。原作はもちろん宮沢賢治の有名な童話だが、むしろ、その二年前に朝日ソノラマから刊行された、ますむらひろし氏の漫画化作品の方をアニメ化した、という方が正しいだろう。動画、美術とも素晴らしいが、やはり特筆すべきなのは劇作家、別役実によるダイアローグで、自身宮沢賢治の研究家として知られる人だけに、賢治の独特な節回しや、雰囲気を実にうまく表現していた。また、音楽担当は元YMOの細野晴臣で、エスニックなメロディ・ラインのテーマ曲を始め、賢治自身の作品である「星めぐりの歌」なども効果的に使っていた。
ストーリィ自体はあまりに有名なので、いまさら書くこともないのだが、ところどころに潜む象徴的なもの(たとえばパン屋の店先ですれ違う、切符を落とした老人や、牛乳屋への小道を横切る巨大な鳥の影など)が強く印象に残った。町の広場やプリシオン海岸駅前の町並みなど、背景画も素晴らしかった。映画のラスト近くでジョパンニがカンパネルラの名前を叫ぶシーンでは、何度見ても涙が出そうになる。けして派手な演出もなにもない作品なのだが、その静謐な雰囲気がたった一度だけ乱されるシーンなので、強く訴えるものがあったのだろう。
余談だが、海難事故で沈んだ姉弟とその家庭教師が唯一の人間(?)の乗客として登場する。そのキャラクターが原作と違い、あまりにあだち充っぽい雰囲気がしたのだが、それもそのはず、監督の杉井ギサブローはアニメ映画「ナイン」や「タッチ」を監督した人だったのだ(「銀河鉄道の夜」は両者の間に製作されたもの)もちろん、スタッフにも前田庸生氏など重複する人が多い。
関係ない話ついでだが、冒頭で銀河系についての質問をする教師によく似ていると、むかし友人に言われたことがある^^;・・・
ミニシアター系のこの手の映画は、まず観に行くことはないのだが、こんなマイナーなものさえ今の深夜映画枠ではやってしまうのだ。有難いといえば、有難い時代になったものだ。
この作品は、「青いパパイヤの香り」で日本に紹介されたベトナム系フランス人監督、トラン・アン・ユンの最新作なのだが、この手の映画に興味のない僕は、観るのはもちろん初めてだ。で、観た感想は、というと、ただただキレイな映画だった、という印象しかない。フィルムの発色には相当気を使っているようで、そのクールな映像からはとてもベトナムの高温多湿な気候は伝わってこない。むしろ、何だかとても涼しそうだ。
物語は、三姉妹を巡るそれぞれのストーリィがあることはあるのだが、どうも映像スタイルがあまりに先走ってしまって、結局どういう話だったのかあまり定かには思い出せない。基本的には不倫噺なのだが、長女の旦那の二重生活の設定など、いくら何でもふつう気づくだろう、と思うような不自然な展開も平気でやってしまう。まあ、その不自然さがさほど気にならないくらい、物語そのものに重きをおいていないとも言える。
ちょっと危うい感じで印象的だったのが、兄と一緒に暮らす三女の描写で、まわりに夫婦と間違われるのがまんざらでもなかったり、やや近親相姦的雰囲気をただよわせる。特に、俳優である兄の稽古相手として、恋人役を演じてみせるあたりは監督の手腕を感じさせる。しかし最後まで観ると、唖然とするようなオチが用意されており、これまでの思わせぶりは何だったんだよ、と突っ込みたくなるのだが^^;・・・
数日前、深夜に放映されていたものをタイトルの面白さから録画し、今ごろになって鑑賞^^;「スパイ大作戦」というタイトルとは違って、アメリカの小学校が舞台の子供向き映画だった。もともとルイーズ・フィッツヒュー作「スパイになりたいハリエットのいじめ解決法」というタイトルの児童文学(邦訳:講談社)の映画化作品だったのだ。
主人公のハリエットは小学5年生の女の子で、芸能人の両親と広大な邸宅で暮らしているが、彼女の面倒を事実上見ていたのはメイドのゴリーという女性。このひとがかなり面白いキャラクターで、ハリエットの人格形成に、両親以上に影響を与えていた。作家志望のハリエットは、彼女の助言で観察力を身に付けるため、身の回りのことすべてについてノートをとっていた。クラスメート一人一人に対して記録を付けたり、近くの邸宅に忍び込んで家人の観察をしたり、まさにスパイそこのけの活躍をする女の子だったのだ。
主演のミシェル・トラクテンバーグはこのハリエット役を、ポーカーフェイスに徹して演じている。もちろん、見たものを見たままに記録する、観察役に徹するためには主観を排除しなければならないからだが、どことなく吉沢悠(in「動物のお医者さん」)を思わせる彼女の無表情さはなかなかユニークで、説得力があった。
ある日、ひょんなことからゴリーはメイドを辞めることになり、ハリエットは精神的支柱を失ってしまう。そんなとき、偶然が重なって大切なノートをクラス委員の少女に拾われ、そこに書かれていることを、クラスメートたちの目の前で朗読されてしまう。それまで彼女を親友だと思っていた友人たちまで、自分への辛らつなコメントに傷つき、ハリエットから距離をおくようになる。クラスの中でハリエットは孤立してしまうのだった。
ここまでの描写で映画は全体の2/3ほども使ってしまい、そこからの脱出に関しては意外にあっさり描いている。もちろん、集団のいじめにあって傷つくハリエットの描写もあることはあるが、もともと強い性格の少女なので、いじめに対して倍返ししてしまったりして(このあたりの描写はちょっと凄い)かえって事態はこじれてしまう。さすがに両親もことここに至って何かおかしいと気づき、旅先からゴリーを呼び寄せる。久しぶりにハリエットの前に現れたゴリーは、彼女にある金言を授けるのだが・・・。
この映画の素晴らしいところは、なにより子供の視線にあわせたドラマ作りの妙であろう。冒頭、ハリエットのスパイ活動がえんえんと描かれるのだが、この時彼女が覗きに訪れる猫屋敷の鳥かご職人とか、大邸宅にひとり住んでいる謎の老女など、単なる一エピソードにしておくのは惜しいほど印象的である。また、彼女の親友であった発明好きの変人少女や、食えない作家の父を持つ極貧の少年などなど、取り巻くキャラクター描写も過不足なく、児童文学の映画化作品としては模範的と言えるだろう。特に猫屋敷の描写は短いながら、たくさんの猫たちに囲まれ幸せそうな職人の描写が少しあって、その後、保健所に猫たちを取り上げられ、がらんとした仕事場で黙々と仕事をする職人、そしてラストシーンでは新しい子猫が・・・と、ハリエットの心と見事にシンクロして描かれていた。考えてみるとハリエットと職人が直接顔をあわせるシーンは一度もないわけで、みごとな演出というべきだろう。
ちなみに、IMDb(インターネット・ムービー・データ・ベース)でこの作品について調べると、同時にお勧めしたい作品として「グース」が挙げられていた。なんとなく納得する選択であった。・・・
下の項からのつながりで、買ったまま死蔵していた「ダーティハリー」のDVDをようやく鑑賞した。この作品、テレビ放送ではそれこそ数え切れないくらい観ているのだが、劇場やビデオではまだ観たことが無かった。
物語は、スコーピオを名乗る異常性格の犯人と、ハリー・キャラハンとの対決をその発端から最後まで描くもの。この種のドラマには、何より魅力的な悪役が欠かせないが、今回スコーピオを演じたアンドリュー・ロビンソンには合格点を与えられるだろう。見事な異常性格ぶりで警備の盲点、法の盲点を突き、悪事を重ねていく。また、正当な手続きを経ないで入手した証拠物件は証拠能力を欠く、という、後のドラマで数限り無く使われることになるシークエンスが初登場したという点でもエポック・メイキングな作品だ。
現実的に考えれば、たとえ裁判で勝てなくとも数々の状況証拠から彼が犯人に間違いないわけだし、再犯の可能性も高いのだから、警察当局が徹底的にマークしないはずはない。釈放後のスコーピオがあれほど好き勝手をできるとは思えないのだ。もちろんそれではハリーの出る幕がなくなるので、話の都合上仕方なかったのだろうが。釈放後も(非番の時間を利用して)尾行を続けるハリーがじゃまなスコーピオは、殴り屋を雇って顔の形が変わるほど自分を殴らせ、それをハリーのせいにして彼を担当から外させる。さすがに、製作された71年当時はこれほど粘着質の犯罪者キャラなど存在しなかった。型破りなキャラハン刑事といい、このスコーピオといい、そういう意味でも優れた脚本だったと思う。
主人公ハリー・キャラハンのキャラクターは、基本的には下の「マンハッタン無宿」同様、あくまで我流を通す一匹狼なのだが、ちょっと勘違いしていたところがあった。2作目以降は違うのかも知れないが、この第一作においては、主人公ハリー・キャラハンはまったく女にもてない、というか、女など眼中に無いかのようなキャラクターなのだ。どうやら、傷ついた相棒を見舞いに来た奥さんにちょっとだけ語っているように、交通事故で女房を失っている、という悲しい過去があるらしい。なぜハリーが「ダーティ」などという形容詞をつけられているのか、というタイトルに関わる問題は、彼の部下として配属された若手刑事チコとの会話のなかであきらかにされるが、要するに人のやりたがらない、汚い仕事をおしつけられるキャラクターということで、別に汚職警官とかいう意味ではない。そちらの意味では逆に、かなりクリーンな男であるようだ。
この作品の影響下に製作された凡百の刑事物に比べ、意外にもこの第一作目はそれほどガン・アクションが派手ではない。冒頭の、ホットドッグを頬張ったままの銃撃シーンがあまりにも印象的なので、やたらと銃を振り回す映画だというイメージが出来上がってしまっているが、ガン・アクションはほんの数シーンにすぎない。もちろんそのいずれもが、弾数を競うような現在のガン・アクションとは一線を画すリアリティ溢れるものであることはいうまでもないが。冒頭の銃撃シーンのあと、ショット・ガンに手を延ばそうとしている犯人に S&W M29 (いわゆる44マグナム)をつきつけ“I know what you're thinking. Did he fire 6 shots or only 5? Well, to tell you the truth, In all this excitement, I've kind of lost track myself.”(お前が何を考えているか、わかってるぜ。おれがもう6発撃ったか、まだ5発なのか・・・実はおれも、夢中で数えるのを忘れていたんだ)という有名な台詞をいうシーンがあり(6発撃っていればすでに銃には弾が残っていない)ほぼ同じ台詞を映画の終盤、スコーピオを前にして言うのだが、このあたりのスタイリッシュさ加減はやはり、イーストウッドならではだろう。この映画にはほかにも、のちに有名になった“Go Ahead,Make My Day”など、名台詞の宝庫でもある。どちらかといえば寡黙なキャラだけに、一言の重みが大きいのだろう。
映像は、一応ほんもののパナビジョンカメラで撮影されているようだが、手持ちカメラの画像が多く、意識的にぶれの多い、ざらついた雰囲気をつくり出していたようだ。夜のシーンはこれ以前の「アメリカの夜」ではなく(60年代まではほとんど昼間に濃いフィルターをつけて、夜のシーンの撮影をしていた)本当の夜間撮影で、そのためやや見づらいシーンも目についた。これもやはり、クリアなショットよりは雰囲気のある絵を優先した結果だろう。この、光と闇の対比という映画史においては使い古された手法は、テクニカラーの時代になってからあまり意図的には取り上げられなかったのだが、本編はかなりはっきりその狙いが見える映画といっていい。それ以外にも、たとえば最初にスコーピオを逮捕した時のスタジアムの俯瞰ショットとか、身代金を運んでいった先の公園に聳える巨大な十字架とか、映像的に凝ったシーンもこの種のアクション映画としては多かった。
さて、物語のラストでハリーは法の定めるところを無視して犯人を射殺し、ポリスバッジを投げ捨ててしまうわけだが、この締めくくりは要するに「法で裁けない悪はおれがこの手で裁く」という姿勢を示すものでもある。これはこの第一作目を貫くトーンでもあるのだが、ほぼ似たような哲学を持つ警察内の秘密組織と対立する第二作目とは、微妙なズレを感じてしまうのもまた事実である。一作目のハリーと二作目の白バイ軍団との境界線がどこにあるのかは、正義とはなんなのかを考える時、けっこう重要なポイントではないかと思うのだが。・・・
イタリアで一発当てて、アメリカに凱旋したクリント・イーストウッドが初めてドン・シーゲルと組んで撮ったポリスアクション。「ダーティハリー」の原形などとよく言われるが、銃器に対するフェティッシュなまでのこだわりはまだないものの、あくまで我流を通す主人公の生き方などは、ほとんどそのままの形で「ダーティハリー」に生かされている。
アリゾナで保安官助手を務めていたイーストウッド扮するクーガンが、凶悪犯の引き渡しを求めてニューヨークにやって来る。この時の登場の仕方がなかなかで、なんと、パンナムビルの屋上に飛来したバートル707から降り立つのである。当時(1968年)はここにヘリポートがあり、定期便が飛んでいたのだ(1977年死亡事故をおこし、1979年に運行停止)アリゾナの田舎者がニューヨークに出て来る方法としては、ちょっとカッコよすぎるのだが、イーストウッドなら許せてしまいそうだ。その時のイーストウッドのコスチュームがなかなかだ。テンガロンハットにウェスタンブーツという、まさにカウボーイそのままの格好なのだ。だいぶ後になって製作されたコメディ「クロコダイル・ダンディ」を思わせる設定である。まあ、なにより当時のクリント・イーストウッドのイメージ(「ローハイド」や一連のマカロニ・ウェスタンで西部劇スターというイメージが強かった)を生かしたかったのだろうが。
ニューヨーク市警からは田舎者とけむたがられ、まともに協力してもらえない。そこでクーガンは彼独自のやり方で犯人を連行しようとし、一味の逆襲にあって逃げられてしまう。そこから追跡劇が始まるわけだが、日本と違いアメリカでは州を越えた捜査は、FBIのような特別な組織以外には許されておらず、やむなく無手勝流の私的捜査となってしまう。
このあたりの一人でなんでもやろうとする行動力や、それを支える度胸のよさ(なにしろ敵の本拠地に、丸腰で乗り込み乱闘になってしまうのだ)は後のハリー・キャラハンそのものだ。また、異常とも思えるほど女性にもてるのもやはり通じるところがある^^;
アクション映画の巨匠、ドン・シーゲルらしく昔の映画にしてはアクションの切れがいい。ワイヤーやCGで非現実的な動きばかり見せられる昨今の作品と違い、あくまでも生身にこだわった格闘シーンやバイク・スタントは、撮影時期を感じさせない新鮮さを保っている。だが、キャラクターやアクションに凝った分、シナリオはやや一本調子で少々ひねり不足に陥ってしまったようだ。上映時間一時間半ほどの小品なのだが、粗筋だけだと一時間ほどで終わってしまいそうな話である。まあ、後の「ダーティハリー」シリーズにしたところで、それほど凝った話ではなかったが、本編の単純さはそれ以上。ただ、ラストシーンでのタバコを使ったちょっとした心理描写(冒頭のシーンと見事にシンクロしている)とか、クーガンのこだわりの部分などに、当時の映画の肌理細やかな部分が垣間見える。
ところでこの邦題、なんとかならなかったのだろうか。これではまるでニューヨークのホームレスの話みたいだ^^;・・・
70年代に一世を風靡したテレビシリーズのリメイク版。それなりにお金はかかっているようだが、正直いって劇場に足を運ぶほどの作品とは思えなかった。御都合主義のシナリオに、もう見飽きました、のワイヤーアクション。色彩感覚がどことなく「オースティン・パワーズ」に似ていると思ったら、やはりかなりの部分参考にしたそうだ。そう、この映画の一番辛い部分は、ずばり独創性の欠如である。アクションも特殊効果もセット美術も絵作りも、みんなどこかで見たような場面の連続なのだ。
ミッション・インポッシブルをはじめとして、70年代テレビシリーズの映画化が流行っているが、はたしてどうなのだろう。新しい企画のネタが尽きたのか、知名度の高いヒット作品という安心感からか、これからもぞくぞくとやって来るようだが、「チャーリーズ・エンジェル」みたいな作品ばかりだったら、テレビ放送まで待った方が賢明だろう。・・・
韓国映画「リメンバー・ミー」という作品をリメイクしたものなのだそうだが、どうしたわけか日本では二作品ともほぼ時を同じくして公開された。何のためのリメイクなのか、理由がよく判らない。
韓国版を未見なので、どの程度のものか判らないが、日本版はあまりに地味すぎる作品として仕上がってしまった。主演の吹石一恵はいかにも70年代にいそうなタイプで、けしてミスキャストではないし、2001年サイドの斎藤工も今っぽいタイプで悪くはないのだが(本職はモデルだそうだ)脚本、演出ともどうもぱっとしない。まず、物語にあまりにも抑揚がない。お互いを隔てているのが距離ではなくて時間だと判っても、その驚きはせいぜい「ほう」という程度である。別に大仰に驚く必要はないが、普通ならもう少し悩むだろうし(たとえば頭がおかしくなったのではないか、とか)たったひとつ予言が当たったからといって、通話している相手が未来人である、とあれほど簡単に信じてしまうものなのだろうか。普通なら常に頭の片隅に疑惑が存在し続けると思う。いくら恋人のことで頭がいっぱいだからといって、この百合(吹石)という女性、大学生にしてはちょっと頭が単純すぎるようだ。
脚本は基本的に70年代の百合の青春と、2001年の優二(斎藤工)の青春を交互に描き、それぞれの時代色を出そうとしたらしいのだが、ほとんど成功していない。70年代のデートのシーンが何度か出てくるが、60年代ならいざ知らず、70年代も末期という設定にしては、あまりに古風な「男女交際」でリアリティがないし(「ベッド・イン」という単語が生まれてすでに10年近く経つのだ。フリーセックスの観念もかなり広まっている頃である)優二の方も特に現代的、といえるほどのことはない。彼に付きまとう恋人、美樹(北川弘美)の存在だけがかろうじて現代らしさを匂わせていたようだが、時代を背負ったキャラクターが一人も登場しなかったのが痛い。映画で70年代を意識させるのは、冒頭にちょっと登場する二代目セリカと、吹石のファッションくらいのもので、一方の2001年にいたっては、それらしさがかけらも登場しない。確かに21世紀の現在には、70年代に想像していたほど革命的な変化は訪れなかったが、それでもパソコンとかケータイとか、当時はまだ想像の域を出なかったものがあふれている。建物だって当時から見ればずいぶんユニークなものが増えている。そうしたものを小道具に使うとか、せめて背景にでも組み込めば、少しは世代の差が出せただろうと思うと残念だ。
ところで、脚本家の力量不足に起因すると思われる、ちょっと不自然なところがこの脚本には目につく。たとえば、百合の友人である幸子(武藤美幸)が教育実習の初日に足を骨折して入院するのだが、なんと、それが治って退院しても実習が続いているというのはいかにも変な話だ。当時も今も教育実習などせいぜい2〜3週間で、とてもではないが骨折が完治するのを待っていられるほど長くはない。逆に、百合が思いを寄せる先輩教師香取が校内暴力のとばっちりで腕を骨折し、同じ病因に入院するのだが、よほどひどい複雑骨折ならまだしも、普通腕の骨折くらいでは入院はしないだろう。いかにお話とはいっても、このあたりの設定にはちょっと無理があり過ぎた。もちろん、後の展開のために香取と幸子の接点が必要だったからだが、どうしても御都合主義が目についてしまう。
演出はあまりに淡々とし過ぎて、よくいえばゆったりしているが、脚本同様起伏に乏しい。美術も小道具も、70年代と2001年の今との差をくっきり際立たせようという努力を最初から放棄しているように見える。もし僕がこの演出をまかされたとしたら、まず画面の色彩設計自体を70年代と2001年で大幅に変えてしまうだろう。70年代の色温度を低く設定してノスタルジーを強調し、2001年は逆に高めにして、病院の内部のように清潔感を強調する(なにしろ「抗菌」の時代である)・・・ちょっと陳腐な手法ではあるが、何もしないよりは遥かにマシだと思う。似てはいるけれど別世界である、ということを観客に判らせる努力は、一種のタイムパラドックスものの本編には不可欠だからだ。
吹石演じる百合と、2001年の優二(斎藤工)の関係は、ストーリィが進むにつれて明らかになっていくのだが、その過程もドラマチックとは言えず、あまりに膨らみがない。ラスト近くで、時を隔てた百合と優二が同じ場所を歩いているシーンがあるのだが、本当にただ同じ場所を歩いているだけで、そこに20年もの隔たりがあると感じさせる演出などまったくなかった。20年経てば街路樹だって変わるだろうし、ガードレールやその他、道ばたにあるものも違っていて当然なのだが、ものの見事にまったく同じ。置いてあるクズカゴまでが同一なのだ。せめてプリント時に色調を変えるなり、クズカゴくらい違うものと取り替えるなりすれば、これほど手抜きの印象は免れたかも知れないのに。・・・
一応自称フィルディキアン(フィリップ・K・ディックおたく)な僕なので、とりあえずディック原作の映画は観るようにしている。
さて、本編はこれまで映画化されたディック作品の中でも最新作であり、おそらくは最大の予算をかけたものと思われる。監督はスピルバーグ、もちろんスタッフも超一流。なのに、観終わったあとのどこか腑に落ちない感じは一体なんなのだろう。
映画の設定は2054年。今から50年ほど未来だ。個人確認はすべて瞳の虹彩によって行われ、どんなところでも(たとえ地下鉄の中でも)読取り機により個人データを収集されているという、悪夢のようなディストピアなのだが、映画は特にそれを批判的にではなく、当然の未来像として描いている。そのデータはすべて警察に筒抜けであり、こんな管理社会なら、たとえプレコグ(予知能力者)の力を借りなくても検挙率は相当に高そうだ。もちろんそういった中にもちゃんと抜け穴はあり、モグリ眼科医なども登場するのだが、眼球をそっくりそのまま交換するのはいかに必要に迫られてとはいえ、かなりの覚悟を要するだろう。
そういう未来世界で、プレコグを使って殺人を予知し、それを未然に防ぐ犯罪予防局の副長官ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)がこともあろうに自分が犯す殺人を予知され、逃亡するというストーリィ。逮捕寸前に局から脱出したアンダートンは、局員たちの追撃を逃れ、システムを構築した本人ハイネマン博士に真相を聞きに行く。そこで、予知された未来とは違う「少数報告(マイノリティ・リポート)」が存在する可能性を聞かされ、それを脳内に保存しているかも知れないブレコグのひとり、アガサを確保するために、ふたたび犯罪予防局に戻る決心をする・・・。
以前読んだことのある原作を引っぱりだして、エピソードを見比べてみると、もっとも基本となるマイノリティ・リポート、すなわち少数報告そのものの比重が大きく違っていることが判った。そのリポートを出すプレコグは原作通り三人いるのだが、原作が多数決原理を働かせるために3という人数を選択しているのに比べ、映画では女性のアガサがメインで、ほかのふたり(双児という設定)はあくまで彼女を補佐する存在に過ぎない。三者が対等な立場でない以上、多数決原理は働かず、「少数報告」というもの自体に存在する意味がなくなる。(原作ではプレコグの予知の結果が2対1になった場合、前者を多数報告、後者を少数報告と呼ぶのだが、この映画の世界では、三人が食い違う予知をすることは想定されていないようだ)おかげで映画の中の「少数報告」はあくまでも「違う未来の可能性」程度におとしめられ、タイトルロールとしてはあまりに存在感のないものになってしまった。
ただ、この変更についてはある程度やむを得なかったと思われる。原作では結局誤りであった多数報告について「同じ結果に見えても、二つの予言はそれぞれ別の時間線上でなされたものであり、それが見破れなかったために多数報告のような幻想を生んだ」と解釈するのだが、この理屈はSFの「お約束」に精通していないとなかなか理解できない。こんな説明をされても、マニア以外には皆目見当もつかないだろう。そこで、かわりに「同じように見えるまったく別の殺人現場」という、より一般の観客に判りやすそうなシチュエーションを生み出した。おかげで判りやすくはなったが、物語の本質がちょっとずれてしまった感は否めない。
キーポイントはやはり「プレコグ」という存在だろう。原作に登場するプレコグは、ぶつぶつとわけの判らないうわごとを呟く植物人間としてしか描かれないが、映画においてははっきり自我を持ち、それを抑圧された存在として登場する。これはまあ、時代的背景が大きいのだろうが(原作が書かれた当時はまだ「障害者差別」などといった観点はなかった)スピルバーグ版のプレコグは、まさに天使のような存在なのだ。無気味でしかなかった原作版に比べて、主人公ジョンと意思疎通すらかわすことができる。この差は大きいだろう。
圧巻はやはりILMがつくり出した50年後の未来の姿だ。ディックの小説にはつきものの「空飛ぶ車」こそあまり登場しないが(局員たちが突入に使うローターのないヘリコプターみたいなのは出てくる)そのかわりにエレベーターのように壁面に沿って走る車とか、プレコグの脳裏に浮かんだ映像を表示する透明なディスプレイ、強制的に光を当てて虹彩を読み取る蜘蛛型ロボット「スパイダー」(余談だが、手術後6時間で片目に光を当てられてしまったジョンは失明せずにすんだのだろうか)などなど、ディック的世界を構築するガジェットはふんだんに登場する。
あくまでも組織論に終止した原作に比べ、映画の中のジョンはきわめて個人的な動機で犯罪予防局に入り、その動機を「敵」に利用されたりもする。ここに深く立ち入るとネタバレに陥りそうなので、この辺でやめておくが、冒頭で触れたちょっとした違和感はあるものの、まあ万人が納得するオチにはちゃんとなっていた。そういう意味ではやはり典型的スピルバーグ作品と言えるだろう。・・・
実は一般公開より遥か前の5月28日に試写で見てしまっていたのだが、さる事情で公開時まで「ひとこと」のアップは差し控えていた。ようやく本編が公開になったので、この駄文もこうして皆さんの目に触れることができるようになった。
監督のチャン・イーモウ(張 藝謀)は「紅いコーリャン」「菊豆」「初恋のきた道」などで有名な、中国の誇る文芸派(というような流派があるわけではないが^^;)の大監督である。そんなチャンがツイ・ハーク張りの武侠映画を撮ったのだから、果たしてどんな作品になったのか、興味津々である。
さて、観終わった印象はちょっと複雑だった。もちろん現代の武侠映画であるから、ワイヤーワークはバリバリに使われており、また、マトリックスのCGチームによるCGワークも見事に決まっていた。ストーリィの方も、さすがにチャンが撮っただけのことはあり、荒唐無稽の一語に尽きることの多かったツイ・ハークの一連の作品とはかなり風合いの違う、重厚感溢れる武侠映画になっていた。その重厚さと、ワイヤーワークのもつ独特の軽さがややミスマッチ感を生みだしていたようにも思える、といったら言い過ぎか。なにも流行のワイヤーワークにたよらなくとも、その演武だけで十分観客を納得させられる出演者ぞろいのように思えたのだ。
中国の天下がまだ統一されていなかった時代、後に始皇帝として君臨することになる秦王の元に、一人の地方官吏が訪れる。彼は秦王の命をつけ狙っていた三人の剣客を倒した褒美に、秦王への謁見を許されたのだ。秦王は無名と名乗るその男(ジェット・リー)に百歩までの距離に近づくことを許し、三人の刺客を倒した顛末を語らせる。映画の序盤はこの無名の話す物語を映像化したものだが、やがて話を聞き終わった秦王は、無名の話の嘘を見抜き、無名はそれまで語った話とはまた別の物語を語り始める。そして、話が一つ終わるごとに、秦王は無名に十歩ずつ自分に近づくことを許す・・・。
映画は無名の語る物語ひとつひとつにテーマカラーを決め、シチュエーションが一目でわかるように工夫していた。たとえば最初の物語では、トニー・レオン扮する残剣とマギー・チャン扮する飛雪が開設している私塾の内部や、塾生たちの衣服、そして無名の服装までもが燃えるような赤に設定されていたし、また別の物語では澄んだ青、翡翠のような緑、そして雪のような純白へと次々にテーマカラーを変えて、それまでに話した物語との関連を見事に断ち切っていた。シチュエーションが変わるたびに変化する無名の物語を、観客を混乱させずに理解してもらうためには、画面全体の色調を変えてゆくこの手法は極めて効果的だったようだ。
みどころは、いうまでもなく俳優たちの見事な剣劇である。ジェット・リーや槍の達人、長空役のドニー・イェンはもともと武術家から俳優になったので見事なのは当然だが、「初恋のきた道」で可憐なヒロインを演じたチャン・ツィイー(残剣の侍女、如月)や秦王役のチェン・ダオミンなど、ほとんど武芸のたしなみのない俳優たちも、とてもそうとは信じられない華麗な剣さばきを見せてくれる。その動きはほとんどバレエのようで、さすがに長い京劇の歴史を持つ国の俳優たちだ、と感心した。彼らの流麗な動きが、ワダエミの手になる衣装や撮影監督クリストファー・ドイルの美的感覚との相乗効果で、素晴らしい映像としてフィルムに定着されていた。
この映画に登場する人数は数万の単位に上るが、そのほとんどは人民解放軍などのエキストラで、主要な人物はわずか6人である。しかも、冒頭で無名と対決する長空はその後登場しないので、実質的には無名、残剣、如月、飛雪、そして秦王のわずか5人だけの物語といっていい。巨大な王宮はチェン・カイコーの「始皇帝暗殺」の時に組まれたセットを手直しして使っているが、あとはほとんどが屋外のロケーションで、当時の町や村は全く登場せず、兵士以外の一般住民も一人として登場しない。おかげでこの物語はどこか異世界の物語のような、極めて抽象的な印象を観客に与える。おそらくこれは監督チャン・イーモウが意図したことだったのだろうが、やや抽象化しすぎた感もある。登場人物たちに生活感がなさ過ぎるのだ。まあ、ひとっとびでスーパーマンのように空中を舞ってしまう超人たちの物語なので、あえて生活感をなくしたのだろうが。
かなりよく出来た映画だとは思ったが、ちょっと気になったところを挙げれば、前述の抽象化されすぎた(単純化ではない)キャラクター設定と、ワイヤーアクションそのもののもつ不自然さが、わずかながら見えてしまうことだろう。コンピューターを使っていかにうまくワイヤーを消し去ろうと、ワイヤーアクションにはどうしてもその動きに「吊られたもの」独特の不自然さがともなう。簡単に説明すれば、東宝の特撮ものによく登場する戦闘機の動きと、本物の戦闘機の機動の違いといえばいいだろうか。特撮の戦闘機は、模型をピアノ線で吊し、「操演」と呼ばれるテクニックでそれらしく動かして、飛んでいるように見せているのだが、やはり翼の揚力で飛行している実物の戦闘機の機動を完全に再現することは不可能で、どこか物理法則を無視した不自然な動きをしてしまう。同じようなことが、ワイヤーで吊っている俳優たちの動きにもいえるのだ。どうしても、自分の意志ではない力によって「飛ばされている」ように見えてしまう。これが冒頭で述べた一種の「軽さ」を醸しだす原因ではなかったか。もっともこの世に飛べる人間などいないので、どういうのが「不自然でない」飛ぶ人間の姿かを説明することはできないのだが^^;
以上のような些細な「気になるところ」はあったものの、全体としては、武侠映画というジャンルに単なる見せ物ではない、鑑賞するに足る作品を初めて生み出した、という点で高く評価されるべき映画だと思った。・・・
数日前の深夜に放映されたものだが、このようなビデオ化もされていない埋もれた作品を、深夜枠ではあれ見せてくれるとは、テレビとは実に有難いものだ。昭和27年作品というから、なんと今から50年も前の作品である。東宝のマークが出てすぐあと、タイトルバックで主演の越路吹雪が主題歌を歌うのだが、これがアップテンポの実にヘンテコな曲で、しかも刑事役の池部良の「うるさい〜」のひとことで止めさせられてしまう、という始まりからして型破りの映画だ。
物語は単純で、大阪で名をあげた女スリ(越路吹雪)が、ある復讐のため東京行きの列車に乗るのだが、偶然その列車には彼女を追い続けていた刑事(池部良)が乗り合わせていて(休暇で東京見物に行くという設定)ばったり出会ってしまい、執筆のために伊豆へ向かっていた流行作家、坂々安古(山村 総)を巻き込んで繰り広げられるドタバタコメディ、といったもの。ダイアローグがいちいち漫才口調で、当時のコメディに対する感覚がよく判る。登場する俳優たちを見ると、いかにも渋そうなイメージだが、なにしろ50年前の映画なので、当然ながらみんなすごく若く、特に山村 総など、後の重厚な演技の片鱗も見られない軽妙ぶりである。
彼らが乗っていた列車は蒸気機関車ではなく、電気機関車に牽引されていた。当時すでに東海道線は電化されていたのだ。車中の描写は端切れよく、それぞれのキャラクターを過不足なく出していて、いかにも市川昆演出という感じ(タイトルの意味もちゃんと判るシーンあり)だ。余談だが、映画の中盤、刑事が熱海に置き去りにされるシーンで、彼が落とし物を捜すために車体の下に潜り込んだ時に列車が発車してしまうのだが、このシーンはどう見ても特殊効果ではなく実際に池部良本人がレールの間にうずくまっていた。ひとつ間違えて衣服の端でも車軸に巻き込まれたら、と思うとまさに血も凍るシーンだ(さすがに進行方向からのショットではスクリーンプロセス=一種の画面合成=を使っていたが)当時の映画人は本当に体を張って映画を撮っていたのだ。
やがて一同はそれぞれ汽船に乗り換え、女スリの目的地である伊豆下田へと向かう。ここで彼女は復讐を果たすわけだが、このあたりは当時の世相も反映していてちょっとしんみりさせるところ。それまでのドタバタと比べてややシリアスな感じがしてしまうが、やはり映画は時代を写す鏡なのだろう。
その後も物語は続き、一同は東京警視庁までたどり着くのだが(ここで池部良演ずる刑事は自分を「大阪警視庁から来ました」と自己紹介する^^;)スリは現行犯でなくては逮捕できず、結局二人は動物園見物をして大阪に帰ることになる・・・という展開。しかし、その後またまたどんでん返しがあるのだが、詳しく書いてしまうとネタばらしになるのでこの辺で止めることにする。
なにしろ50年も前の作品なので、コメディセンスが現代とはかなり違い、意味のよく判らないギャグなどもあるのだが、それでもやはり市川 昆作品、いいテンポで飽きさせずに見せてくれる。
ちなみにこの原作、戦前に一度映画化されており、さらに昭和35年にも京マチ子主演、増村保造演出で再々映画化されている。・・・
50年代から60年代のなかば頃にかけて、盛んに作られたプログラムピクチャーの一本だが、日活の同傾向の作品に比べて、東宝の本編はごくわずかではあるがリアル志向が感じられなくもない。少なくとも日活の無国籍アクションに比べ、架空ではあるがれっきとした日本の某都市がモデルになっているようだ。なお、同じ監督による「暗黒街の顔役」「暗黒街の弾痕」と三部作をなすが、いずれも内容的なつながりはない。
お話は、この頃のプログラムピクチャーにはお定まりの暴力団もので、新興の大岡組と、古参の小塚組の対立する地方都市、荒神市にふらりとやってきた男(三船敏郎)は、その物腰からいずれかの組に雇われた殺し屋と誤解されたが、実は汚職事件の責任を取らされ左遷されてきた(って普通なら懲戒免職、よくて依願退職だと思うが)刑事、藤丘であった。しかしその正体は・・・、という定番の設定。
うまく大岡組の組織に近付いた藤丘は、妻を交通事故で失った元小塚組幹部、村山(鶴田浩二)と出会う。村山は妻の死に大岡組が関わっていると確信しており、いつか仇を討つチャンスを狙っていた・・・。二つの組の対立は、ついに大岡組の殺し屋が小塚組組長(田崎 潤)を暗殺するところまでエスカレートする。ここで一気に小塚組壊滅を狙う大岡組は、村山の命をも狙うが、間一髪で藤丘の機転により救われる。やがて物語は村山の妻を殺した犯人(仁木)の妹サリー(司 葉子)や、大岡組の弁護士=殺し屋の一人にしか見えないが=である天堂(平田昭彦)などを巻き込み、大団円に向けて突き進んで行く。
大岡組に雇われる殺し屋としてミッキー・カーチスや天本英世が登場し、なぜかキャバレーに雇われたコーラスグループとしてテーマ曲を歌う(しかも本当は全員が音痴なので、すべて口パクという設定^^;)など、全体に岡本喜八らしい個性的な演出で、特に前半は独特なモンタージュ手法により非常に端切れがいい。構図なども、まさに60年代においては現代的であったろうと思わせる不安定さを強調したもので、ストーリィが動き始めた後半はさすがに前半ほど凝ったシーンはなくなるが、テンポはだれることなく観客をラストまで引っ張ってくれた。
いかにも東宝映画らしく、平田昭彦、田崎 潤、佐藤 充、中丸忠雄、そして当時バリバリの若手だった夏木陽介といった俳優たちが大挙して登場するあたりも、日活の無国籍アクションとはひと味違う印象を与える。しかし、なんといっても主演の三船敏郎のキャラクターがすべてを決定しているといっていい。同じ頃、黒澤映画にも多数出演していた三船だけに、大スターの風格十分な演技で、楽しそうに藤丘刑事の役柄を演じていた。背広の上に白いトレンチコートを着こなした三船は、今見ても十分に格好いい。ラストシーンは鶴田に花を持たせたような終わり方だが、やはりこれ以外に終わり方のない物語だったような気がする。・・・
全編ビデオ撮影によるドキュメンタリー・タッチのれっきとした劇映画。こうした手法の映画というと、まず「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」を思い浮かべるが、本編はそれより4年も前に撮られているので、関連性はまったくない。逆に、「ブレア・ウイッチ〜」のスタッフが本編を観て、ああいう手法を思い付いた可能性はあるが。
物語自体は単純で、TVディレクター( 白井 晃)とそのクルーたちが、盗聴マニアの青年(浅野忠信)を取材するうちに、偶然傍受してしまった拳銃取り引きの情報を巡って巻き起こるドラマを描いている。ふつう映画というものは「神の視点」で撮られるものだが、この作品の場合、すべての画像はクルーの一人のカメラマンが撮影したビデオ画像であり、ある意味徹底した一人称描写と言える。この描写は特にドラマ前半で際立っており、テレビ業界、というよりドキュメンタリーそのものの「作り方」に対する映画製作者のスタンスがよく判る仕組みになっていた。拳銃取り引きの現場からまんまと拳銃を手にしてしまうまでの描写は、嫌味度100パーセントの仕事人間ディレクターや、一見素直そうだが無気味さを内包した盗聴マニア青年のキャラクターをうまくからめて、さほど不自然さを感じさせない流れになってる。ここまでの演出はなかなか新鮮で面白く(たとえばバスの中でのちょっとした刺傷事件の描写など)今までの日本映画にはなかった潮流を感じさせる。
しかし、銃を手にしてからの展開は残念ながら、ごく普通のアクション映画の流れに飲み込まれてしまう。こちらの目が一人称演出に慣れてしまったこともあるが、前半のような新鮮さが失われ、ありがちのストーリーテリングに堕してしまった。ここからどんな飛躍を見せてくれるのかと期待していただけに、ちょっと残念だった。もちろん銃を手にしてキレてしまったあとの浅野の演技はなかなかよく、それをうける白井も悪くはないのだが、それ以前にシナリオそれ自体に膨らみが足りないような気がするのだ。浅野扮する盗聴マニアが銃を手にするのは物語の発端なのだと思うのだが、どうも作り手側はそこを物語の終着点のように考えていたようだ。上映時間の関係で仕方なかったのかも知れないが、それにしてももうひとひねりないと、エンターテインメントとしてはちょっと物足りないような気がする。ラストシーンの夜明けの海岸など、シーンそのものはなかなか印象的だっただけに、惜しまれる。・・・
名探偵コナンシリーズもこれで6作目、今回は脚本に乱歩賞作家、野沢尚をむかえ、これまでとはひと味違ったコナン映画を目指したようだが、結果ははたして吉と出たのか・・・?
物語の設定にバーチャル・リアリティを使ったのは、いかにもアニメ向きの趣向だが、残念ながら物語の設定以上のものにはなっていなかった。また、現実世界での犯罪と、バーチャル世界での事件が平行して進行するという物語展開も、相乗効果をあげるというよりも、互いにサスペンスを相殺しあうような流れに陥っていたのは残念だ。
このシリーズの基本設定は、高校生だった主人公が謎の毒薬を飲まされ、小学生並みの体格に縮んでしまい、自らの素性を隠して小学生として生活しながら事件を解決していく、というものだが、あまりに御都合主義的というか、あり得ない設定のもとに探偵ものという、物語の中でもとりわけ実証性を重視するジャンルを選択したミスマッチ感覚の面白さが受けて、ここまで続いてきたのだろう。しかし今回は、架空のゲーム世界での推理劇なためか、肝心の推理の部分がやや霞んでしまった。何しろバーチャルな世界なので、論理性があまり意味をなさないのだ。そうした設定上の基本的欠陥を、脚本の野沢尚はなんとか目立たせないように努力したのだとは思うが、完全に払拭するまでには至っていない。
作画は、テレビシリーズとおなじ東京ムービー作品であるためか、おおむね違和感はない。が、ビスタサイズである以外、劇場用映画としての差別化も特にみられない。良くいえば、テレビになじんだ観客のイメージをできるだけ壊さないためそうしたのだろうが、逆にいえば、入場料を払って映画館で観るだけの付加価値もまたない、といわざるを得ない。コナンたち小学生は、例によっていくら小学生にしても小さすぎると思うのだが、これもテレビシリーズのままである。
お話では、バーチャル世界の事件を江戸川コナン=工藤新一が、そして現実世界の殺人事件を新一の父である推理作家、工藤優作(って工藤俊作と松田優作の合成?)が担当し、映画のラストでは両者が見事にシンクロして終わる展開にはなっているのだが、もうひとつしっくりこないまま終わってしまった印象は拭えない。
その最大の原因は、真犯人の殺害動機にもうひとつ説得力が薄いせいだろう。犯罪者の息子である、というのなら、それを負い目にすることもあり得るだろうが、単に子孫である、というのでは、あまりに無理のある設定ではなかろうか。遺伝子的な判定によって、祖先が実は歴史的犯罪者と判ったところで、そのことが現在の本人の社会的名声とは何の関係もない、と普通の人なら考えると思うのだが。・・・
昨年度の文化庁メディア芸術祭アニメ部門で、あのアカデミー賞短編アニメーション部門候補作「頭山」を押さえ、大賞を受賞してしまった作品である。前作「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」もかなり評価は高かったが、今回はとうとう国にまで認められてしまった。やはり、見る人は見ているのだ。
始まり方はいつものクレしん映画とはちょっと違い、汀に佇む姫の映像から始まる。それはしんのすけの見た夢なのだが、その夢を何故か野原一家全員が見ている、というSF的展開に。しんのすけの愛犬シロが庭に大穴を掘って、その中から謎の手紙が出てくる。それはまぎれもなくしんのすけ自身の筆跡なのだが、彼にはそんな手紙を書いた記憶がない。そして、ふと気がつくとしんのすけはいつの間にか戦国時代の世界にタイムスリップしていた・・・。
何の科学的裏づけも、理論もなしにただ気分でタイムスリップを納得させてしまう手腕はなかなかだ。しんのすけの出現で命を救われた井尻又兵衛という侍に招かれ、戦国の世界でもしんちゃんは簡単に居場所をみつけてしまう。一方残された家族たちは、謎の手紙に書かれた内容や春日部市の歴史書から、しんのすけが何故か戦国時代にタイムスリップし、歴史に残る活躍をすることを確信する。一家の大黒柱、ひろしは「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか」と断言し、しんのすけを救いに自分たちもタイムスリップすることを決意するのだが、このあたりの台詞は、前作「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」の大きなテーマであった家族愛をより明確な形で表現している。
しんのすけは井尻の仕官する春日城へつれられて行き、そこで夢に出てきた廉姫に会う(演じていた声優さんは知らない人だが、凛とした雰囲気が出ていてとてもよかった)そして、どうやら廉姫と井尻は互いに想いあっていることを察する。まったく早熟なガキである(笑)もちろん身分違いの二人の恋は御法度で、廉姫はやがて隣国の殿様、大蔵井高虎に嫁入りすることになっていた。井尻は自分の思いをあくまで隠し、察してしまったしんのすけと金打(きんちょう)の誓いをかわす。このあたりの描写は、とてもクレしん映画とは思えないほど正統派時代劇のそれであった。
やがて野原一家の乗った車もタイムスリップに成功し、野原家の面々が戦国の世界に揃う。廉姫は隣国への輿入れを断り、それを口実に高虎は春日の城へ攻め込むべく、軍勢を組織する。ここまでくると、この映画がただものではないことがひしひしと伝わってくる。とにかく戦国時代の合戦の作法をマニアックなまでに再現しているのだ。作画密度も高く、リアリティもかなりのもの。やがて乱戦が始まり、しんのすけやひろしたちも戦いに巻き込まれてしまう。これまでのクレしん映画よりややギャグは少なめだが、それでもここぞというところでは、見事にやってくれた。たとえばひろしが太刀と間違えてボディブレードを取り出してしまい、やむを得ずそれを振って戦うところなど秀逸である。僕たちは使い方を知っているので笑ってしまうが、戦国時代の人間の目には未知の武器として映るだろう。ある意味、「レイダース・失われたアーク」に登場するハンガーの場面に共通するおかしさだ。車に乗って足軽たちの間に突入し、ボディに傷がつくと保険の心配をするあたりも、笑いの中にも妙にリアリティを感じさせる台詞であった。
これ以上書くとネタばれになってしまうのでやめておくが、ある意味前作以上に大人向きの作品になっていた。映画のラストで、青空にポッカリ浮かぶ千切れ雲(それは井尻又兵衛の旗印でもある)を見上げるしんのすけの姿に、はからずも感動してしまったのは僕だけではあるまい。本来の観客である子供達にはたして受け入れられるのか、ちょっと心配になるくらいだ。まるで黒澤映画のような風格すら感じられ、監督の原恵一はたぶんこの仕事を確信犯的にこなしたのだろう。・・・
前回の放映の翌日、電車の車内でイマ風の高校生たちが「きのう、ラピュタ見ててさ〜、おれ、泣いちゃったよ〜」「ウン、あれ、泣けるよな〜」などと話していたのを思い出した(実話)今見ても、やはりそれくらいのパワーに溢れた作品だと思う。テクニックという観点からは、この作品でほかに並ぶもののない水準に到達したと断言してもいいだろう。
宮崎アニメはおおざっぱに言って、「ラピュタ」以前と以後に分けられると思う。まあ、前作「風の谷のナウシカ」には以後の作品の萌芽も多く見られるので、あくまで便宜上の分類なのだが、「ラピュタ」にはそれまでの宮崎アニメ(おもにテレビアニメ)のすべての要素が含まれており、彼の作品の集大成ともいえるものだ。舞台となる炭坑町の美術設定や、産業革命の時代から別の時間軸に進んでしまったようなその町のテクノロジー設定、それと対比されるラピュタ側の遠未来的テクノロジー、そしてどこか憎めない悪漢たちなどなど、それまでの宮崎アニメのいろんな美味しい部分の寄せ集めだし、なにより主人公パズーとシータの関係は、その出会いからして「未来少年コナン」を彷佛させる。
しかし、もちろん本編の魅力はそういう寄せ集めの魅力ではなく、何より一本の映画としての完成度であろう。もっとくだいていえば、材料のよさよりなにより、料理のうまさが凄いのである。もしかつての宮崎アニメを一本も見ていない人が観ても、やはり感動させてしまうほどの力をこの作品は持っている。マニア的「言語」(たとえば「萌え」とか)でマニアたちを引き付けることはたやすいが、老若男女、すべての人たちを引き付ける作品を作ることはほとんど不可能に近い難事業である。それをやすやすとやってしまったあたりに(もちろん御当人にとってはとても「やすやすと」ではなかったのだろうが)当時の宮崎氏の凄さがうかがえる。その頃の彼は、今のように無理な理論武装をしなくても、作品の力のみでこうるさい外野を黙らせる力を持っていたのだ。・・・
まず最初にダメな点から挙げてしまおう。とにかく最悪なラストシーン。使えない脚本家が好んで使うどうしようもないラストの見本みたいなエンディングである。このシーンの一秒前まで比較的よかったこの作品の印象が、まったくぶちこわし。終わりよければすべて良しの正反対である。個人的には、おかげで★一つとはいわないまでも、くらいは確実に評価が下がってしまった。SEをまったく入れないか、せめてブレーキ音か女性の悲鳴くらいにしておけば、これほどガキっぽい印象にはならなかっただろうと思うと、かえすがえすも残念だ。
もうひとつ、これは一つのシーンというよりは、キャラクターの問題なのだが、肝心の主人公、佐藤浩市演じる富田三佐の人となり、そして具体的な行動に至る動機が最後までよく判らず終わってしまった。何しろ主人公なのだから、観客に理解できなければ作品として成功しているとは思えない。もちろん、割腹自殺を遂げた三島由紀夫に白い菊を捧げるなど、それなりに内面描写らしいシーンはあり、また、上官に日陰者としての自らの存在に対する不満をぶちまけたりして、キャラクターを出そうとする努力は認めるのだが、残念ながらあまり成功してはいない。それとKCIA側の人間に加担することになる動機とが、うまくリンクしていないのだ。
途中から事件に絡むことになる夕刊紙記者、神川(原田芳雄)は特攻隊崩れであり、戦いの場を求める富田とは合わせ鏡的存在である(おそらく監督のこだわりなのだろうが、この作品には印象的な場面でよく鏡が使われていた)脚本家は彼に「ブタは生きろ、狼は死ね」(当時はやったCMコピー「狼は生きろ、ブタは死ね」のもじり)という迷台詞を吐かせ、のちの富田の行動を暗示したのかも知れないが、やはりあまり効果的ではなく、蛇足に終わってしまった感が強い。
それから、金大中のにわかボディガードを務めることになる在日韓国人=金甲寿(筒井道隆)の存在価値がどうしても判らなかった。在日韓国人の微妙な立場を強調したかったのかも知れないが、ストーリィ上いなくてもまったく差しつかえのない人物なのだ。一人くらい若手を出したいという、営業上の都合で配役されたとしか思えない。
映画の全体的な出来は、ややテンポが緩やかすぎる印象はあるものの、全体に重厚な作りになっており、この手のポリティカル・フィクションがまったく不得手な日本映画としては、なかなかよくやったといっていい。また、日本映画にしては珍しく、事件の起きた1973年当時の映像再現を徹底的におこなっており、たとえば国会議事堂を正面から撮影したシーンでは、前の通りを走る車がすべて当時の車ばかりという凝り方だった。最初はコンピューター合成かと思ったが、メイキングを見ると、なんと四時間もかけて現地に実車を走らせ撮影したのだ。拉致された金大中を運んだ船も、同型のものを釜山まで行って見つけだし、それを使って撮影している。ただ、こうした凝り方も度が過ぎると、肝心の役者よりも小道具、大道具の方が印象に残り過ぎることになりかねない。本編でKCIAの面々が使っていたケンメリ4ドアも、ちょっと目立ち過ぎかも。ここはやはりセドリックあたりが無難だったと思うのだが・・・。
事件の最大の謎は、なぜKCIAが結果的に金大中を暗殺せず、直後に解放してしまったか、という点だが、このあたり本編はただ単純にアメリカの圧力がかかった、という結論で終わらせてしまっている。どうして暗殺目的だった行動が拉致となり、その後の解放にまで至ったのか、いちばん肝心な謎が結局解明されないまま終わってしまったのが、この作品のなにより残念なポイントと言えるかもしれない。・・・
この作品を元にして、中原俊「12人の優しい日本人」や筒井康隆「12人の浮かれる男」といったパロディ作品がいくつも作られたくらいの名作である。ほとんど陪審員室の中のみで進行する舞台劇のような映画だが、実際のちに舞台劇にもなっているそうだ。ちなみに、シドニー・ルメットの初監督作品でもある。
ストーリィを簡単に書いてしまえば、法廷で親殺しの第一級殺人に問われた少年を、有罪か否か判断するために無作為に集められた12人の陪審員たちが、開始当初ほぼ有罪と一致していた意見を、一人の男の反対意見により徐々に覆されていく過程を描いた作品なのだが、男ばかりの陪審員12人全員のキャラクターが、事件の経過を討論する過程で浮き彫りになるという、シナリオづくりの教科書のような脚本である。また、カメラワークも常に人物の位置関係などをきちんと把握しており、同じような構図の連続でもけして観客を飽きさせない。そしてもちろん緩急自在の演出テンポ。白熱した議論の展開される陪審員室をはなれ、うまいタイミングで窓辺やトイレのシーンが挿入されている。このあたりの「映画」としてのテクニックが時代を越えて生き残る名作を生んだのだ。
この作品が描くのは、もちろん無実の少年が死刑の淵から救い出される過程なのだが、それは実は表向きに過ぎず、本当の主題は「議論すること」の意味である。ヘンリー・フォンダ演じる陪審員8号は、別に少年の無実を信じているわけではない。ただ、少年の有罪を信じるに足る確信を持てないのである。ここの解釈を誤ると、一人のアジテーターが民衆の意見を覆し、洗脳していく過程を描いた作品とも受け取られかねないが、本編の意図はもちろんそんなところにはない。一言でいえば、「民主主義=多数決ではない」ことを96分かけて観客に訴えかける物語なのである。
煌めくような理想主義にあふれた作風は、アメリカの民主主義が成長過程にあった50年代当時の空気をよく描いている。ほんの数年前、ほぼ同じ脚本でテレビドラマ化されたが(ウィリアム・フリードキン監督作品)50年近く経った現代においてもまだ十分生きているテーマなのだろう。
今回の放映はノーカット字幕スーパー版だったが、ヘンリー・フォンダ=小山田宗徳吹き替えによる日本語版もぜひ見てみたかった。・・・
現実の板門店では、両陣営の兵士たちのこのような接触はまず不可能と思われるのだが、それを言ってしまってはこの映画の基本設定が成立しなくなるので、ここには目を瞑るしかあるまい。敵対しあう兵士たちが友情で結ばれてしまう、という設定は、戦争ドラマでは定番の一つであり、よく覚えてはいないが「コンバット」にもそんなエピソードがあったと思うし、「ラット・パトロール」のトロイ軍曹とディートリッヒ大尉の関係などもそう言えなくもない。
DMZ(非武装地帯)の現実は、非常にピリピリしたものと思われがちだが、知人の韓国人(退役軍人)の話では、警備の時間中に飲酒事件を起こしたりする輩もいたという。この映画の発端のごとく、迷子になってはからずも敵側に侵入してしまうようなこともあり得ないことではないらしい。ただしその後の展開は、現実はこうだろう、というリアリティのあるものではなく、こうあってほしい、という願いをこめたものになっていた。まあ、そうでなければそもそもこの映画そのものが作れやしないのだが。
ストーリィは、ひとりの韓国人兵士が起こした北側見張り所における殺人事件の調査に、中立国であるスイス軍の兵士が赴任するところから始まるのだが、この女性兵士(ソフィー)が物語になぜ必要だったのか、結局最後までよく判らなかった(彼女が登場しないと、女性が一人も出ない映画になってしまう、ということは別にして)彼女は父親がもと北朝鮮軍人で母がスイス人という設定なのだが、非常に美人ではあるものの、とても混血児には見えなかった。事件の報告書は北側と南側で食い違っており、いろいろ腑に落ちない点もあって、やがて彼女は韓国軍兵士が北朝鮮軍兵士を守ろうとしていることに気付く・・・という展開。その出自のせいで、結局彼女は途中で事件の担当から外されることになってしまうのだが、このあたりはやや蛇足という感じで、ばっさり切ってしまうか、あるいはもう少し強調し、メインストーリィに絡ませるべきであったろう。観客には途中でことの真実が、登場人物の一人の回想、という形で明らかにされるのだが、時間的な理由でやむを得なかったとは思うものの、これでは冒頭の絵解きミステリー的な滑り出しの意味がなくなってしまう。
悲劇的な結末ももうひとつ説得力が弱い。よく観ていると、この映画には一度観ただけでは気付かないような伏線があちこちちりばめられており、結末に至る理由の一つも示されてはいるのだが、あまりに瞬間的であり、また人名が耳慣れないものばかりであるため、事件の真相を説明されてもよく判らないのが難点だ。たとえば、スイス軍女性兵士がことの顛末に気付く重要なポイントは、北側の兵士が描いた一枚の絵なのだが、これが何を意味していたか、漫然と観ていてもよく判らないまま終わってしまう。このあたり、アメリカ映画ならもうちょっとメリハリのある演出をするだろうな、というのが正直な感想である。
絵空事とは判っていても、「シュリ」を超えるヒットを記録したことを考えると、やはりこの映画には韓国人、いや、朝鮮民族の心に訴えるものがあったのだと思う。板門店の忠実なセットや登場する武器などの扱いは、現実に分裂国家であり、徴兵制も存在する国だけにリアリティがあり、例えば拳銃を発射するシーンなどでも、激しいマズルフラッシュにもめげず、俳優はまばたき一つしなかったあたり見事であった。ただし、なぜか北朝鮮軍兵士がガバメントを握っていたのはちょっと気になった。せめてアップのシーンだけでも、日本製のモデルガンを使うわけにはいかなかったのだろうか・・・
実は前回の放映の時観ていたので、今回で二度目の鑑賞である。完全ノーカットなので、腕がもげたり首が飛んだりする描写もきちんとある。たしかにこれではアメリカではR指定になってしまうよなあ・・・。
以前から、テーマ主義的な映画の鑑賞はあまり望ましくないと思ってはいたのだが、本編に関する限り、そうやって観ないことには全然内容が理解できないので仕方がない。この映画はそういう作品なのだ。
村がタタリ神に襲われ、その原因を突き止めるためと、自分にかかった呪いを解くために西方に向かったアシタカは、エボシという名の女頭領が仕切る蹈鞴場へたどりつく。そこで、エボシの命を狙うサンという少女(彼女がもののけ姫というわけ)を助け、両者の関係を知る。ここでエボシは人間主義的な、自然の破壊者として登場し(森から資源を収奪してはじめて蹈鞴場は運営できる)サンはシャマニズム的な神々の代弁者、つまりは自然そのものの代表者だ。アシタカはいずれの立場も理解できてしまえるので、調停者としての立場をとる以外にない。
これだけだったら構図は単純なのだが、途中でもう一つの勢力が割り込んできて、物語の焦点をぼかしてしまう。途中からアシタカにつきまとい、実は隠然たる勢力を持っているジコ坊と、彼が率いる一群の僧兵たちだ。終盤になるとその目的が判るのだが、はっきりいって彼らの存在は物語のテーマをそらすことにしか機能せず、物語をスッキリしないものにしてしまった。なんと彼らはミカドのために、不老不死をもたらすというシシ神の首を欲していたのだ。シシ神とは森のすべての生死をつかさどる、いわば神の中の神といった存在である。
彼らが前面に出てくることで、エボシたち蹈鞴場の民とサンたち森のもののけとの対立の構図が曖昧になり、物語はちょっと見当違いなエンディングへと突き進んでしまう。巨大なデイダラボッチに変身したシシ神が、自分の首を探して歩き回るクライマックスシーンは、確かに迫力はあるけど、これまでのストーリィの流れとはズレまくっている感がぬぐえなかった。結果的にアシタカとサンはシシ神の首を取り戻し、その褒美にか呪いは解かれるのだが、この辺の展開も御都合主義的である。
どうして作者宮崎氏は、こんなテーマをはぐらかすような展開にしてしまったのだろう。やはりシナリオを練っている時点で、自然と人間との相克に自ら納得のいく結論を導けなかったのかも知れない。考えてみたらこの話は、これまでの宮崎作品の中でも「風の谷のナウシカ」にいちばん似通っている。あの作品は自然を滅ぼしてしまった人間たちの後日談だが、「もののけ姫」は逆に人間が自然を滅ぼす出発点を描いているとも言えるからだ。そういえばトルメキアの王女は片腕がないが、エボシも物語の終盤で片腕を失っている。これは偶然ではあるまい。それならなおのこと、このテーマは深く突っ込んでもらいたかった。作画も丁寧だし、本職ではない声優さんたちもとても上手で、アニメとしての完成度は極めて高いだけに、この展開は返すがえすも残念だ。
ところで「もののけ姫」というと、思い出してしまう作品がもう一つある。かつて宮崎氏が出したムック本の中に、同名タイトルの絵ものがたりが載っていたのだ。トトロそっくりの姿をしたもののけが姫をさらってしまう話で(「となりのトトロ」製作以前に描かれたもの)新作のタイトルが決まった時には、てっきりあの話をアニメ化するのかと期待してしまった。・・・
フランス人女優ジュリエット・ビノシュが主演して、舞台もフランスの片田舎、というといかにもフランス映画みたいだが、これはれっきとしたアメリカ映画である。冒頭にあらわれる城塞都市のような村の描写がちょっと変わっていて、たぶんCGで作った画像なのだろう(と思ったら、撮影地はフランス南部に実在する13世紀からある小さい村なのだそうだ。ただ、導入部の空撮は現実には難しそうなので、ここだけはCG合成の可能性はある)この村の不思議なたたずまいが、物語の童話のような寓意性を際立たせている。
ある日ふらっとこの村を訪れた母娘が、空き店鋪を借りてチョコレート店を開店する。旧弊な因習に捕われた村人たちは、よりによって断食月に現れた二人を無視しようとするが、やがてそのチョコレートの味にしだいに心を開き、二人を受け入れていく。しかし、そんな人々の姿に危機感を感じた村長のレノ伯爵は、村人たちに圧力をかけ、チョコレート店への出入りを禁止してしまう。そこへジョニー・デップ演じるルー率いるジプシーの一団が村へやってきて・・・。
などと粗筋を書くと、なんだかすごく昔の物語みたいだが、実は1950年代の、少しだけ昔の話なのだ。しかし、物語に登場する乗り物は、ジプシーたちが乗ってくるボートハウスくらいのものだ。このあたりも、この話に童話のような雰囲気を与える重要なポイントだろう。背景にはバイクなどもちらっとは出てくるものの、主要な人物が乗っていたりはしない。チョコレート店にしても、営業するためには材料をどこかから仕入れなければならないはずだが、その種の描写はいっさい出てこない。カカオ豆からチョコを作るシーンはあるので、少なくとも材料のカカオ豆をどこかから仕入れなければならないはずなのだが、それを描かないところが寓話たる所以なのだろう。
余談は置くとして、物語のテーマは新旧の衝突とも、異分子の侵入と融和のプロセスともとれるが、こう書いてしまえば話のすべてが語り尽くせるわけでもない。図式的なテーマはたしかに骨格の在り処を教えてはくれるが、それは文字どおりスープに入った骨であり、スープの味の一部を担っているに過ぎない。こういう話はやはり、物語そのものに味のほとんどが含まれているのだ。さて、この物語が登場するチョコレートのように甘く美味しいものだったかどうかは・・・はっきり言って人により違うと思う。それほどつまらない話ではなかったが、特に意外性があるわけでもなく、結局みんなおさまるところにおさまってしまう。このあたりが僕にはやや物足りなく思えた原因かも知れない。・・・
ウエズリー・スナイプス主演のポリティカル・フィクション。ホワイトハウス内部でおこった殺人事件の犯人探しにからめて、北朝鮮で起きた米兵人質事件に大統領がどう対処するか、という政治問題を持ってきたあたりがちょっと新鮮だが、じつはこれがこのシナリオのキーポイントになっている。詳しいことは書けないが、種を明かしてみればなるほど、という展開。二転三転するプロットはこの手の話のお約束だが、落としどころがやや意外性に欠けている気がした。といって、自分がこの手のシナリオをまかされたら、やはりこういうエンディングに持っていく以外とるべき道はないと思うが。
シークレットサービスの一人で、やがてリージス刑事(スナイプス)に協力するニーナを演じたダイアン・レインが久々に姿を見せてくれたが、オリンピックで金メダルをとったという射撃の腕をみせるところがわずかワンシーンだったのは残念。せっかくこういう設定のキャラにしたのなら、それなりの見せ場は用意すべきだっただろう。そういう展開にしようと思えば、使えそうな場面はいくつかあったはずだ。エンディングでの使い方はあまりに芸がないと言うか、はっきり言って興醒めだった。
全体に、せっかくの筋立ての割には舞台装置がこじんまりし過ぎ、TV映画を見ているような気がしてしまった。やはり見せ場にはもう少しお金をかけるべきだろう。なんたってハリウッド映画なのだから。・・・
本編は1961年製作のアメリカ映画で、これまで日本国内ではパッケージソフト化されたことはないのだが、その昔ローカル局でOAされたものをエアチェックした赤とんぼワークスさんのご好意で、この度観ることができた。赤とんぼワークスさんにはこの場を借りて深く御礼申し上げます。
さて、タイトルからするといったい何の映画かと思われるかも知れないが、X-15とはNASAがX-1、X-2に続いて極超音速と超高高度記録を狙って開発したロケット機であり、映画はほぼ史実に即したセミ・ドキュメンタリー・タッチの作品である。こう書くと、航空マニア必見の傑作映画みたいだが、残念ながら作品としての質はそれほど高くはなく、当時盛んに作られた軍の広報的な性格の強いプロパガンタ映画である。パイロットたちの家庭や私生活など、ドラマ的な膨らみもは少しあるが、見事に浮いてしまって、それなりにリアルな軍隊内の描写と全くマッチしていない。
この作品はシネスコサイズで製作されたらしいが、記録フィルムもトリミングせず、アナモフィックレンズでそのまま横長に引き延ばしてしまっているために、B-52もF-100もF-104も、もちろんX-15も異様に横長に引き延ばされた姿で登場する。せっかく資料的に貴重な映像も、これではぶちこわしだ。それでもなかには3号機に取り付けられたロケットエンジンが、異常燃焼して爆発してしまう事故シーンがそのまま収録されていたりする。そのとき破壊されてしまった3号機はひどい状態で、まさか後に修復され、いくつものミッションをこなしているとはとても思えない。また、X-15計画がまだ進行中だった1961年製作の作品なので、2号機が横転事故を起こし、その後A-2に改造されることになる経緯とか、復帰した3号機が空中分解して初の死亡事故を起こした事実などには当然ながら触れられていない。
主演はまだ若いころのチャールズ・ブロンソン。ここではいつもの荒くれ男役ではなく、ワイルドながらも理知的なテストパイロット役。しかし主演というにはやや印象が薄く、むしろ同僚のパイロットたちの引き立て役に見える。
ところで、この映画にはもうひとつ、エポックメイキングな要素がある。なんとあの「スーパーマン」シリーズや「リーサル・ウエポン」シリーズの巨匠リチャード・ドナー監督の劇場用初監督作品なのである。それにしては光るところも何もなく、極めて凡庸な作品に見えるが、何しろ新米の初監督作品では事実上プロデューサーが実権を握っており、ドナーの発言力はほとんどなかったのではないだろうか。・・・
苦手のバリー・レビンソン監督作品なので、レンタルビデオで観ることもなく、テレビ放映を待ってしまった。近未来の接近遭遇ものなので、少しばかり興味はあったのだが、なにしろけれん味に欠けるレビンソンのことだから、せっかくの題材もアンチクライマックスに終わりそうな予感がしたのだ。今回の放映は字幕/ほぼノーカットなので、レンタルビデオで観るのとあまり変わらなかったと思う。
物語は、大平洋のまん中で発見された300年前の宇宙船とおぼしき物体に、数人の科学者で編成された探査隊が入り、そこで発見された謎の球体とのかかわりを描いているのだが、レビンソンらしく彼ら相互の心理的葛藤はかなり執拗に描いているものの、肝心の球体の分析とか、海底基地の設定などはおざなりで、特に基地からかなり離れた場所にある緊急脱出艇(そこへは潜水服に身を固め、基地の外へ出ておぼつかない足取りで長距離を歩き、ようやくたどり着ける=こんな場所にあっては「いざ」という時使えそうにない)とか、御都合主義的に登場するモンスターたち(それには一応の意味があるのだが)などなど、単に話を面白くするためとしか思えない設定が目につく。かとおもえば、登場人物の一人がクラゲの大群に襲われ殺される場面では、何故かみんなモニターでその姿を見ているばかりで、誰一人として救出に向かわない。ふつうなら、間に合わないと承知の上でも一人くらい行動を起こしそうなものだが。まあ、その後説明されるクラゲ出現の理由が、そうしたキャラクターの動きを規制してしまったのかも知れない。
主人公の心理学者ノーマン・グッドマン博士にダスティン・ホフマン、かつての教え子で、関係を持った相手でもあった生物学者ベスにシャロン・ストーン、そして運命論者的な数学者ハリー・アダムズ博士にサミュエル・L・ジャクソンと、キャストはかなり豪華であるが、その割にはとにかく地味な映画だった。ある意味かなり哲学的な命題を扱っているにもかかわらず、残念ながらそうした深みを感じさせる部分はほとんどなかったのが致命的だった。凡作としか言いようのない作品である。・・・
こういう映画はどんなジャンルに分類すればいいのだろう。無理にカテゴライズすれば、ドキュメンタリー、あるいは記録映画と言うことになるのだろうが、とてもではないがそうしたジャンル分けではこの作品はくくれない。むしろ、現代音楽家フィリップ・グラスの作品に映像をつけた一種のMTV、と見なすのが一番自然かも知れない。事実、この作品のあとで登場したMTVの中には、よく似た映像処理が溢れた。
しかし、基本的にレコードやCDのプロモーションに過ぎないMTVと本編とは、その意味はもちろん本質的に違う。「コヤニスカッティ」=KOYAANISQATSI(コヤーニスカツィと発音する方が正確らしい)とはホピ族インディアンの言葉で、コントロールを失った生活とか、バランスを欠いた社会とかいう意味らしいが、たしかにそうした雰囲気を漂わせる映像が、フィリップ・グラスのミニマル・ミュージックに乗ってえんえんと流される。ほとんどの映像は微速度撮影、あるいは逆に高速度撮影によって見慣れたものも別の切り口から映し出され、まったくナレーションのない映画にも関わらず、観客を飽きさせることはなく(実は多少はある)衝撃的なラストも相まってテーマをかなりダイレクトに伝えることに成功している。
この映画の内容を言葉で説明するのは難しいが、あえてやってみれば、荒涼とした自然の描写から始まってカメラは人間社会へと入っていき、そのめまぐるしい動きを微速度撮影(いわゆるコマ落とし)で強調する。夜の大都会を流れる車のライトは、あたかも血管の中を流れる血球のようだし、都会の上空から撮影した衛星画像は、LSIの顕微鏡写真と見分けがつかない。猛烈な勢いで走る車から見た夜景は「2001年宇宙の旅」のスターゲイトそのものだ。それらは映画が進むほどに暴走し、前述のラストへと流れ込む。たまたまこのLDを入手したのがチャレンジャー号爆発事故の直後だったために、このラストはよけいにショッキングだった(と書けばだいたいどんなラストかは想像がついてしまうが)ここへ至って、ようやくこれまでの暴走がスローダウンするのも、効果的にテーマを浮き立たせている。
この種の映画を他に知らないので、評価の尺度がないのだが、全編を見終わっての満足度のみから評価すれば、これくらいのポイントはつけられると思う。・・・
一言でいってしまえば、10年も前の前作(機動警察パトレイバー2The Movie)の呪縛を未だに振り切れず、同じようなトーンでもっとも向いていない題材を扱ってしまった失敗作、ということになるのだろう。前作そのものも僕はけして気に入っていないが(押井氏のセンスとは決定的に合わない)ご当人が抜けたあとにもわざわざその抜け殻だけを引っ張ることもないだろうに、と思う。
ゆうきまさみ氏による原作マンガのエピソード「廃棄物13号」は、新書版単行本3巻半を費やした巨編で、シリーズ中でも特に特撮SF色の強いエピソードである。この原作を同じく漫画家、とり・みき氏がシナリオ化したわけだが、もともとパロディ系のギャグ漫画家であるとり氏には、いささか荷が勝ちすぎだったのではないかと思われる。アクション満載で特車二課の面々も大活躍する原作に比べて、映画版のシナリオでは原作に登場しない二人の刑事を主人公に設定し、パトレイバーが登場するのは映画が始まってから1時間15分も経ってからである。ロボットがなかなか登場しないロボットアニメがあったって悪くはないが、それに匹敵するだけの何かが表現されていなければ、結局退屈なだけの無駄な時間になってしまう。今回の主人公二人は、いかにも表面的に前作の雰囲気を取り繕うため創作された人物のようだ。特に彼らが出てこなくてはならない必然性は感じなかったし、とてもではないがアニメの面白さを背負って立てるようなキャラではなかった。かれらが淡々と事件を解き明かしていくシーンの連続が(その展開もまったく意外性がない)オリジナルメンバーの活躍する場面に取って代わり、特車二課の登場シーンは、中盤チラッと野明と遊馬が登場する以外はラストのクライマックスのみである。この扱いでタイトルロールはないだろう、と言わざるをえない。番外編なら番外編で、そう断りは入れるべきだ。
今回の敵役「廃棄物13号」は、流行りのバイオテクノロジーを応用した一種の生物兵器らしいのだが、なにしろ10年前の原作なので、設定自体やや古く感じてしまった。しかし、映像的にはなかなか良くできており、初登場シーンなど下手な特撮映画も真っ青なリアリティがあった。おそらく、この種の「怪物」を扱ったアニメ作品の中でも、動かし方に関する限り、いまのところ右に出るものはないだろう。しかし、演出はやや控えめに過ぎた。もったいぶるのは初登場までで、その後は大盤振る舞いで出しまくるのがこの手の怪獣映画のセオリーだろう。しかし、何故か出番の少ないままストーリィは展開し、クライマックスに於いてようやく登場したパトレイバー=イングラムとの格闘シーンになるのだが、ここははっきり言ってあっさりしすぎ。このあともう一つ、いや二つくらいは盛り上がりが必要だったと思う。わずか100分程度の作品なので、あと20分くらいサービスすることは可能だっただろう。サービスといえば、終盤になって突然登場し、火炎放射器で攻撃する陸自の兵士たちも、「時限爆弾」を撃ち込まれたあとではほとんど意味がなかった。一体何のためにこんな展開にしたのか、理解に苦しむ。順番が逆だと思うのだが。
ここからはネタばれになるのであぶり出し(笑)まず、原作の西脇冴子があまりにベタだと思ったのか、アニメでは結婚して岬
冴子という名になっており(その後ダンナは事故死しているというご都合主義設定)13号の元となったニシワキ・セル(宇宙から飛来した謎の細胞)の発見者西脇博士との関係が直接は判りにくくなっている。冴子の存在は原作よりかなりクローズアップされており、主人公のひとり、秦刑事と淡い恋仲にまで接近するし、なにより物語冒頭、事件が起こり始める頃すでに登場しているので、「西脇」の名を使うのがためらわれたのだろう。彼女が13号を守ろうとする動機も、原作では父の残した研究成果を無にしたくない、という科学者らしいものだったのに対して、アニメ版ではニシワキ・セルに組み込んだガン細胞の持ち主が、小児ガンで死んだ冴子の娘、という設定に変わっており、冴子が13号を娘の生まれ変わりと見なすようになる「母の視点」を持ち込んでいる。しかし、ガン細胞はあくまで「悪性新生物」であり、娘そのものというより、娘を殺してしまったいわば犯人である。いくら科学者だからといって、いや、科学者だからこそ、ガン細胞と実の娘とを同一視することはないのではないか。ここは原作のマッド・サイエンティストの片鱗をもっと強調し、現在ますます顕著になってきた科学とヒューマニズムとの乖離をテーマにした方が、遙かに面白くなったと思う。シナリオ的には平均点以下だが、13号の動かし方に免じての採点→・・・
日本のアクション映画を決定的にダメにした作品、という噂を耳にしていたので、さすがにビデオでは観る気になれず、テレビ放映まで待ってしまった。で、観終わった感想だが、「決定的にダメにした映画」とまで酷評する気はないものの(そういう評価は「千里眼」あたりのためにとっておきたい)「日本のアクション映画もここまで来たか」などとはとても言えないことも、残念ながら確かだ。
まず、実際のダムを使ってロケーションしたはずのシーンは残念ながらあまり臨場感がなく、緩慢な構図ややたらと派手な弾着で(ほとんど花火)いかにも「日本の安っぽいアクション映画」というイメージから脱却できていない。ダムのシーンで一番はらはらしたのは、冒頭のザイルで壁面を降下するシーンで、こういう高さを生かした演出をしますよ、という予告なのかと思ったら、その後本編終了まで一度も出てこなかった。これはもうほとんど詐欺である。冬山のいかにも寒そうな感じはよく出ていたが、実際に身も凍るほどの寒さだったそうで、本当に寒い中で寒そうな絵をとることは、至難のわざとまでは言えまい。技術的にはそれなりに難しいこともあったのだろうが。
原作を未読なので、どのあたりまでが原作の責任なのかよく判らないのだが、映画を観る限りでは、千晶(松嶋菜々子)が何故ダムに行かなくてはならないのか、また、物語のラストを締めくくるキャラでなくてはならないのか判然としなかった。彼女が主人公富樫(織田裕二)を、婚約者=吉岡を見殺しにした男として恨んでいたのだとしたら、通夜に訪れたときとか、冬山のポスターを見上げたときとか、どこかで感情をあらわにしない限り観客に彼女の気持ちは伝わらない。テロリストたちに捕らわれたあとで「あの人は戻らない」とつぶやいた一言だけで気持ちを察してくれ、というのは、少なくともこの種のアクション映画の演出ではない。
千晶に関する演出では、AK-47の安全装置の扱い方にも不器用さが見られた。千晶は一度笠原(吹越 満)のAKを奪って撃とうとするが、安全装置がかかっていたために発射できず、取り戻されてしまう。その時笠原に安全装置のことを言われ、二度目にAKを使うときには見事解除して、テロリストのひとりを射殺するのだが、言葉で言われただけでどれが安全装置かも判らないはずの千晶に、それを解除するのは不可能だろう。せめて最初に話した時、安全装置をこれ見よがしに作動させる場面でもインサートすれば千晶にも、そしてもちろん観客にも判っただろうが。こういうガンアクション映画に不可欠なセンスが、この監督には決定的に欠如しているようだ。
しかしなんといっても一番ズッコケたのは、番組予告などでも再三使われたあの場面、ヘリコプターの墜落シーンであろう。いや、CGによる墜落シーンそのものはなかなかよくできていたと思うのだが、その墜落の原因はなんと雪崩なのである。寸前までヘリの上に覆い被さるような峰も崖もなかったのに、富樫が爆発させたスノーモービルの轟音で(銃撃されたくらいであんなに激しく爆発するとは、爆弾でも積んでいたのだろうか)起こった突然の雪崩が、ローターの上からヘリを叩き、バランスを失ったヘリは墜落してしまうのだ。だがその一方、ヘリのすぐ下にいたはずの富樫は直後、何故かまったく無傷で墜落現場に立っていたりする。ヘリをたたき落とすほどの威力がある雪崩から、富樫が無事逃げおおせたとはとても思えないのだが。とにかく地形や人物の位置関係が無茶苦茶、それまでの話のリアリティをすべてぶち壊しにしてしまうほどひどい展開であった。
基本的にこの話は誰が見ても「日本版ダイハード」を目指したのだと判るのだが、肝心の富樫の設定にイマイチ説得力がなく、素人の発電所職員がテロリスト相手に戦う動機が伝わってこなかった。ラストを見ると、吉岡を挟んで千晶との関係がキーポイントであったかのようだが、そうならそうと、もう少し悩んだり葛藤したりする場面は必要だっただろう。とにかく富樫役の織田裕二は常に走り回っているか、息切れしているかの印象しかなかった。こうしてみると、ホワイトアウトに遭遇してしまったのは主人公富樫というよりは、監督や脚本家などこの映画の製作関係者そのものといえるだろう。・・・
巨匠リドリー・スコットがかの「ブレードランナー」の次に撮った作品だが、当代随一のカルトムービーとなった前作に比べると、本編の評判はあまりにも芳しくない。IMDBでも、前作の8.3ポイントはまあ妥当だが、個人的には遙かに駄作だと思っているその次の作品「誰かに見られてる」の6.1ポイントをも下回る、6.0ポイントという低評価だ。時期的にファンタジーというジャンルそのものがあまり受けなかったのかも知れないが、それにしても・・・・。
とにかくまだスコットがバリバリの映像派であった頃の作品なので、絵作りへのこだわりはものすごい。冒頭に登場する桃源郷のような世界は、おそらくセットを組んだのだろうが、そのスケールは半端ではなく、細かく見ていくと、実際には存在しそうもない巨大なトンボなど、画面にはせいぜい数秒しか写らないようなものにまで神経を配って作り込んでいる。物語の核となるユニコーンは、残念ながら一目見て馬だと判ってしまうが、角の特殊メイクも自然だし、なにより演じている馬自身がその長大な角に対してなんの違和感も持っていないかのように見えるところがすごい。オスのユニコーンがゴブリンたちに襲われるシーンでは、血を暗示するおびただしい量のピンクの花びらが、紙吹雪のように舞い散る中に倒れるのだが、まさにスコットの美学際まれり、といったところである。
映像の凝りまくり方に比べて評価の低いのが脚本である。本編の脚本は原作者、ウィリアム・ヒョーツバーグみずからが手がけており、少なくとも原作の持つイマジネーションを掴み切れていない、という評価は当たらない。ただ、完成前試写会に於いて、観客の反応を重視した結果、もともと1時間54分の比較的長尺であった作品が、わずか94分まで削られてしまったという事実は看過できない気がする。もちろん興行する側としては、映画の長さは短い方が一日の上演回数を増やせるので、そのぶん利益率が上り好ましいに違いない。観客の意見の中でそういうものを見つければ、重視したがる気持ちはわかる(後に調べて判ったところでは、スコットにこの短縮を勧めたのは、「バトル・オブ・ブラジル」でも悪名高い、ユニバーサルの取締役シドニー・J・シャインバーグその人であった。ちなみに、本編のアメリカ公開版では音楽担当がタンジェリン・ドリームに代わっているが、それを勧めたのもシャインバーグなのだそうだ)しかし、114分を94分に縮めてしまうというのはいささかやり過ぎではあるまいか。映画のほぼ1/6を切り捨ててしまうのと同じことである。そう思って観ていると、この映画にはいろいろ奇妙な点が多いのに気づく。
まず、ティンカーベルのような妖精に導かれ、主人公ジャック(トム・クルーズ)は金色に輝く鎖帷子と盾、それに剣を手に入れるのだが、その盾も剣も、魔王の城の手前の沼地で妖怪メグを倒すときのみしか使わず、城に忍び込んだあとは何故か手ぶらである。戦うとき一番必要な武器をみずから手放すとは考えられないから、何か重要なエピソードがカットされているのだろう。ほかにもこうしたつながりのおかしいところは間々あり、物語の展開が唐突なままエンディングまで進んでしまう。巨大な城で、ジャックたちはどうして迷わずユニコーンの捕らわれている場所までたどり着けたのか、魔王の弱点にジャックはいかにして気づいたのか、などなど、一応の説明はされていても、ちょっと話がすんなり進みすぎる印象は否めない。メインストーリィに直接関係ないところをずばずばカットしてしまった結果であろう。
実はアメリカではさすがにカットのされすぎが問題になり、昨年(2002年)春、スコットみずからが再編集したディレクターズカット版が発売されている。日本でも発売されないかと期待していたのだが、じきに一年が過ぎようとしている現在までそういった話はなく、観たければリージョン1のアメリカ版DVDを取り寄せるよりなさそうだ。・・・