TOMさんの映画にひとこと'02

このページは日ごろ僕が書きためた、テレビや映画の鑑賞日記です。

いちおう星取り表になっていますが、そのときの気分で付けたもので、あまり信頼性はありません。

“注意!! 以下ネタバレあり” の下の文章は、カーソルで選択し、背景色を反転させれば読めるようになっています。

ただし、注意しているようにネタバレが含まれますので、映画観賞後まではお読みにならないようお願いします。


48)トータル・フィアーズ/フィル・アルデン・ロビンソン;2002年アメリカ映画(12.30)

 文庫本で上下巻合わせて1.500ページにも及ぶ、電話帳のような原作をわずか2時間程度の映画として仕上げるのだから、この仕事を任された脚本家の苦悩が目に浮かぶ。もっとも、たとえば原潜<メイン>のスクリューを破壊することになる木材の由来を、製材所で切り出される以前から延々と説明するなど、いささかくどすぎる描写の多い原作なので、鉈のふるい甲斐もあったかも知れないが。

 前作「今そこにある危機」まではハリソン・フォードがジャック・ライアン役を演じていたが、さすがに歳をとりすぎたためか、今回のライアンはぐっと若返って、この手の作品では常連のベン・アフレックにバトンタッチ。しかし今度はあまりにも若すぎ、原作のCIA副長官という設定からまだヒラの若きアナリストに変更されてしまい、「パトリオット・ゲーム」の頃から妻だったはずのキャシーとは、まだ結婚もしていない恋人同士という関係に変わった。原作者クランシー自身、ハリソン・フォードでは老けすぎだとクレームを付けていたライアン役だが、今回は逆に若すぎて、本編ではまだしも次作「日米開戦」では大統領になってしまうわけだから、いくら何でもベン・アフレックでは無理がある。もっとも次作もまたベンがライアンを演じるという保証は全然ないが。ロシア大統領との個人的信頼関係のおかげで窮地を脱する、という物語そのものには不自然さはないが、ベンのどう見てもアナリストには見えない外観や、もうひとりの主人公格、ジョン・クラーク役(「今そこにある危機」では、ウィレム・デフォーが怪演)をあまりに地味な俳優(リーヴ・シュライバー←誰?)に割り振るなど、どうも今回のキャスティングには頷けない点が多い。ハリソン・フォード主演シリーズの頃より大幅に進歩したCG技術のおかげで、SFXそのものは格段に迫力を増したが、演じる役者たちがいくぶん小粒になってしまったので、全体としては妙に軽い作品になってしまった。厚みのある演技が出来るのが、キャボットCIA長官を演じたモーガン・フリーマンのみというのではいささか寂しい。

 物語の核心はもちろん原作同様、史上初めてアメリカ本土に核攻撃が行われるという場面だが、衝撃波の凄さこそCGを多用して表現しているものの、20万人という空前の犠牲者を出したという設定のわりには、被災現場の描写が情けなくなるほど甘い。原作に描かれていた爆心地のスタジアムの描写はほとんどなく、黒焦げの死体ひとつ出てこない。考えてみるとアメリカ映画で核兵器の恐ろしさをそこそこに描いて見せたのは、「ターミネーター2」でサラ・コナーが見る幻影くらいのものだろう。ちょっと話題になったTVムービー「ザ・デイ・アフター」ですら、核爆発そのものについてはかなり克明に描写しているのに、肝心の被害状況については大甘に甘かった。これはどういうことなのだろう。最初は核兵器そのものについて無知なのだろうと思っていたが、どうやらそういうことでもないらしい。実はアメリカ人は、自分たちが人類史上初めて実戦で核兵器を使用した国民である、ということについて、原罪に近い意識を持っているのではあるまいか。そう考えれば、在郷軍人会がヒロシマ原爆展などに対して異常に過敏な反応を示すのも頷ける。核兵器の持つ本質について、直視するのが恐いのではないだろうか。

 閑話休題、爆発が起こってしまってからの米ロ関係のエスカレートぶりはほぼ原作に準じるが、映画の方が全体的にこぢんまりしている。互いの攻撃がなんとなくみみっちく、B−2ステルス爆撃機などが登場することはしているが、単にありもののフッテージを使い回しているようにしか見えず、原作では重要な役割をはたしていた原潜が登場しないので、展開があまりに一本調子に見えてしまう。どうもクランシー作品をきちんと映画化するのはかなり難しい作業のようだ。製作には当のクランシー自身も当たっているはずだが。

 最後にタイトルのことなど。原作の原題は“The Sum Of All Fears”「恐怖の総和」だが、意味としてはさほど変わらない“Total Fears”という造語を日本題として持ってきた。つねづね、洋画の日本題を考える連中は例外なく最低のセンスしか持ち合わせていないと思っていたのだが、今回のはそう悪くないようだ。・・・


47)灰羽連盟/ところともかず;2002年テレビアニメ作品(12.27)

 アニメの場合には、その作業は普通の映画よりさらにさまざまな才能の寄せ集め、といった感が強く、この作品の場合も監督のところともかずのものというより、作品の世界観そのものをまとめた安倍吉俊の作品と言った方が的確かも知れない。安倍は以前にもlainなどの作品がアニメ化されているが(原作ではなくキャラ設定)当時は「エヴァンゲリオン」の影響か、キャラクターの内面描写を売り物にする難解な作品が多く、lainもそのうちの一本くらいの認識しかなかった。

 さて、本編は2002年の秋、CX系の深夜枠で放映されたアニメ作品だが、ご覧になった方ならお判りの通り、「エヴァンゲリオン」とは違った意味できわめて内省的な、風合いの変わった作品である。作品世界そのものが、現実世界から遠く隔たった場所にあり、登場する「灰羽」と呼ばれる人間とも妖精ともつかない者たちの日常生活を描いている。背中に羽が生え、頭に光輪を冠するその姿はどう見ても天使そのものだが、作中にはそうした言葉は出てこず、単に「ヒト」とは違った「灰羽」という存在である、としか表現されていない。「灰羽」の存在自体もかなり不思議なものだが、彼らのいる街、彼らを律するルールもまた現世からは大きく隔たっており、濃厚な寓意の匂いがする。もっともこの寓意、作品に関わっている製作者たちも正確にその意味するところを解しているとは思えず、半ば自動書記的に生まれいでたものではなかろうか、という気がする。

 第一回ではヒロインのラッカが繭から生まれ、背中から羽が生えて頭に光輪を冠するようになるまでが描かれているが、ビスタサイズの画面ならではの構図や微妙な中間色の色調など、凡百のテレビアニメを軽く凌駕するクオリティで、ファンタジイ作品には不可欠なディテールへのこだわりを、かなり執拗に表現していた。ラッカは生まれたばかりではあるが、最初から言葉をしゃべり、思い出せはしないものの、別の場所で子供時代をすごしてきたらしい記憶の断片がある。つまり繭は一種の転生装置であり、何らかの理由でただの人間だったものが「灰羽」に生まれ変わる、という設定のようだ。回が進むと彼女たちはいずれ「壁の向こう」に出ていく運命にあることが判り、この世界もまた一時的な逗留場所に過ぎないことが示されている。穿った見方をすれば、オールドホームと呼ばれる彼女らの家は「ホスピス」そのものではないか、とも受け取れるし、最終回では、そこが死後の世界であるかのような暗示もあるが、こういう絵解きのような鑑賞法では肝心の物語の面白さが抜け落ちてしまうので、あまりお勧めは出来ない。隠された深い意味など考えずに、とりあえずは作品世界そのものを楽しむのがこの種のファンタジーを楽しむ正しい見方だろう。

 ほとんど独特の世界観からのみ成立している物語なので、観客を選ぶタイプの作品なのだろうとは思っていたが、発売されたばかりのDVDは何故かどの店にも見あたらず、やむを得ずアマゾンで取り寄せた。プレス枚数自体少ないのかも知れないが、意外によく売れているのかも?・・・


46)老人と海/アレキサンドル・ペトロフ;2000年ロシア映画(12.27)

 夏にNHKで放映されたものを、今頃になってようやく観た。わずか20分程度の小品だが、作者のペトロフはこの作品に5年の歳月と3万枚のセル画(実際には彼の場合、ガラスに直接指で描くので、いわゆる「セル画」ではない)を費やしている。その出来映えはまさに動く油絵、美しいの一語である。使われた色の純度がそれぞれきわめて高く、微妙な空の青や海の紺が抜けるようにきれいだし、波の表現、登場するさまざまな動物たち、そしてもちろん登場人物もまた素晴らしい。さらに、透過光の表現が実に巧みで、凪いだ海面からの照り返しの表現など、これまでのアニメではお目にかかったことがなかった美しさだ。

 物語はもちろん、かの有名なアーネスト・ヘミングウェイの中編小説を原作にしている。20分という長さなので、そのすべてを完全にアニメ化しているわけではないが、エッセンスは見事に昇華していた。特に、後半の巨大なカジキとの格闘シーン、それに続くサメの群の襲撃など、動きのあるシーンも完璧な構図とカット割りで、まさに力業、とでもいうべき作品といえるだろう。

 唯一、これは欠点というほどのこともないのだが、動画の一枚一枚をすべて油絵で手描きする、という手法をとっているため、絵の動きはそれほどスムースではない。特に冒頭の部分など、観客がまだこの作品世界になじんでいない間は、ややぎこちなさが気になるところがないでもない。もちろん、次々に現れる鮮やかなシーンに目を奪われ、そんなことはすぐ気にならなくなってしまうのだが。

 最後に、これは作者のペトロフとは直接関係ないが、日本語版で老人の声を当てていたのは、何故かこの手のアニメでは常連の三國連太郎であった。「木を植えた男」などで見せた演技を買われての起用だろうが、さすがにうまさが際だっており、まあ的を射た人選だろう。・・・


45)スパイダーマン/サム・ライミ;2002年アメリカ映画(12.25)

 9.11テロで世界貿易センターのツインタワーが崩壊してしまったおかげで、予告編で印象的だったシーンを削除するなど大幅な再編集を行い、公開が半年遅れてしまった曰く付きの作品だが、内容はそんなこととは関係なく、原作の持ち味=悩める若きスーパーヒーロー像を過不足なく描ききった快作となった。ライミの演出は、「ダークマン」の頃よりだいぶ丸くなり、多少けれん味はなくなったものの、よく練り込んだ脚本をテンポよくこなしており、全体に非常に素直な作りであった。

 主演のトビー・マグワイヤ は、いじめられっ子の高校生が突然超人的な力を得て歓び、とまどう姿をうまく演じており、原作のイメージにかなり近くていいキャスティングだったと思う。その恋人役のカースティン・ダンストも、それほど美人過ぎず、いかにも「となりの女の子」的な雰囲気をよく出しており、悪くなかった。また、宿敵グリーン・ゴブリンのウィレム・デフォーは、次第にゴブリンの人格に乗っ取られてしまう男の悲劇をさすがの演技力で演じており、映画の骨格を十分に支えていた。ところで彼の演じた(変身前の)ノーマン・オズボーンというキャラクター、これまで彼がこなした役の中でもいちばん普通の人間だったような気がする。いつもあくの強い役柄ばかり演じる人なので、たまにこうした「普通の」人を演じられるとかえって新鮮な感じだ。

 物語はいわばスーパーヒーロー誕生編といったところで、いじめられっ子のピーターが、遺伝子操作を受けた新種の蜘蛛に噛まれ、突然蜘蛛の超能力を身につけるところから始まる。このあたり、もたもた演出したらそれだけで2時間くらいかかりそうだが、超能力に気づいてからそれを使いこなせるようになるまでを、巧みなカットバックを活用し、わずかな時間で表現しているあたりはやはりサム・ライミならではだ。一方軍需産業のオーナー、ノーマンは、人間の持つ潜在能力を極限まで発揮させる新薬を開発していたが、軍からの契約をうち切られそうになり、危険な人体実験を自ら買って出、結局第二の人格グリーン・ゴブリンに取って代わられてしまうのだが、このノーマンの息子がピーターの親友であるという設定が、二人をうまく結びつけ、ストーリィに不自然さのない流れを作っていた。

 ところでこの種のヒーローが正義に目覚めるきっかけは、「バットマン」のブルース・ウェインのように親をギャングに殺されるなど、一種のトラウマが元になっている場合が多いが、スパイダーマン=ピーター・パーカーの場合はそれより一歩踏み込んだ形で表現されており、この辺にも脚本のうまさを感じさせられた。また、スーパーヒーローのコスチュームは、なんであんな恥ずかしいものばかりなのだろう、といつも感じていたのだが、本編はそのあたりにも実に説得力のある設定がなされており、さすがショービジネスの国だな、と納得させられてしまった。

 最後にSFXのことを少し。総指揮にクレジットされているのはあの懐かしいジョン・ダイクストラ(「スター・ウォーズ」第一作のSFXマンとして有名)昨今のこの手の映画の例に洩れず、CGをバリバリに使っていたが、まだ現実と見分けがつかないという水準までには至っておらず、ところどころ非常にアニメっぽい映像があったのは少し残念だった。まあこの辺は、もともとコミックスを映画化したものなので、コミックスらしい雰囲気を出そうと意図的に狙ったのかも知れないが。・・・


44)犬夜叉 時代を越えた想い/篠原 俊哉;2001年劇場公開作品(12.16)

 人気テレビアニメのスピンアウト作品だが、独立した映画としてもうまく作られており、テレビを見ていなくても、だいたいの設定は判るようになっていた。物語はレギュラー登場人物全員が揃って「四魂の玉」の破片を捜す過程でのワンエピソードで、オリジナル敵キャラ瑪瑙丸との死闘がメインになる。瑪瑙丸は大陸から元寇とともにやって来た大妖怪飛妖蛾の息子で、父の残した無限の妖力を封印した結界を破るために、犬夜叉の鉄砕牙が必要だったのだ。

 映画版にふさわしく作画、シナリオともテレビ版よりかなりスケールアップしており、さまざまな要素をてんこ盛りした物語を要領よく、いいテンポで見せてくれる。テレビシリーズでもよくやった場違いなコメディリリーフも健在で、この辺はいかにもるーみっくワールドらしくまとめてくれている。よく見るとかなり大胆にCG映像が使われているのだが、なんとなく観ている分にはほとんど気にならなかった。

 しいて問題点をあげるなら、たぶんいくつもの作画プロダクションに発注した結果なのだろうが、特にヒロインかごめの顔が場面によってかなり印象が違うこと。おそらく時間的余裕がなく、やむなくやったことなのだろうが、これだけ目立つとやはりちょっとシラケる。また、飛妖蛾の妖力を身につけ、大怪獣並みのスケールに巨大化した瑪瑙丸を倒す方法というのが、なんとも工夫のないもので、頭の悪い感じがしてしまう。いくらアニメとは言っても、こういう肝心な部分でクレバーさを見せてくれないと、ちょっと情けない。やはりここだけは、巧妙な伏線とあっと驚く意外性で決着をつけて欲しかったところだ。

 また、映画で言えば友情出演のような感じで犬夜叉の兄、殺生丸と犬夜叉を封印した張本人である巫女、桔梗が登場するのだが、犬夜叉との関係でかごめを悩ませ、現世に追い返してしまう役柄を与えられた桔梗はまだしも、どういう理由で登場したのかよく判らない殺生丸は、ほとんど無意味なゲスト出演であった。また、かごめは桔梗の生まれ変わりという設定なのだが、死んだ後も桔梗は土の肉体を与えられ、まるで生きているかのように行動している。つまり、この物語の世界では、同一人物が時代を越えて二人同時に存在しているわけだ。このあたり、よく考えるとややこしいのだが(そしてその設定は登場人物自身も知っているにもかかわらず)便宜的にか、別個の存在として扱っている。単純に、生まれ変わりとはいえ、一度死んだ以上は別の存在である、と割り切って考えているのだろうか。・・・


43)リング0 バースデイ/鶴田 法男;2000年劇場公開作品(12.16)

 シリーズ最新作は監督を鶴田 法男にバトンタッチして、貞子存命中の70年代を舞台にしたホラー映画。なんと、恐い貞子の話から、薄幸の美少女貞子の物語にスタイルを変えてきた。貞子役は「らせん」の佐伯日菜子から仲間由紀恵に変わり、怖さから悲しい運命を背負ったヒロインにイメチェンしてはいるのだが、おかげでシリーズを支えるはずの「怖さ」がますます希薄になってしまった。なにしろ第一作目の物語の、ごく狭い範囲にストーリィをはめ込まなくてはならないので、どうしてもつじつま合わせが目立ってしまうのだ。一作目からの「お約束」が見えてしまうのもちょっと興ざめ。たとえば、通信社の記者である宮地彰子(田中好子)が、劇団員たちを撮った写真の異常を見て「劇団全員が呪われている」と言うシーンがあるのだが、写真に異常が起こることにより「呪い」の存在が判るのは、第一作目の「リング」の設定であり、それより30年近く遡る貞子の生きていた時代に、写真を一目見てそんなことが判るはずはない。少なくともプロなら、そばにいたカメラマンにその原因について問いただすはずだ。

 タイトルの「バースデイ」は、原作を読んでいないためにその真意はよく判らないが、たぶん「怨霊としての貞子」が誕生する話なのだろう。しかし、二人いたことになっている貞子の出生の秘密も舌足らずでよく判らないし、何故二人なのかという点も不明確で、いろいろ悪さをしているらしい裏貞子(笑)に説得力がなかったのがこの映画最大の失敗だろう。驚異的な「癒し」能力を持ってるという貞子の設定も、結局彼女が不死身であることの説明にしかなっていないし、ただひとり貞子の味方であったはずの遠山(田辺誠一)も、その最期は悲鳴ひとつであっさり処理されてしまっている。なにしろ登場人物のほとんどが死んでしまうラストなので、観客は誰の視点で物語を俯瞰していいのか判らない。まったく困った脚本である。

 最後にミニミニ突っ込みをひとつ。宮地はなぜか戦時中の拳銃、南部14年式を所有しており、それを貞子との決戦のために持っていくのだが、最初に箱の中から出すシーンで、あまりにもヒョイッと持ち上げてしまうのには呆れた。もちろん実物の銃にさわったことがないため、プラスチック製のモデルガンそのままの演技をしてしまったのだろうが、大型の自動拳銃は1キロ前後の重さがあり、男でもあれほどスッとは持ち上がらない。微妙なところなので気にならなかった人がほとんどだろうが、いかにも軽そうに見えてしまった僕はやっぱりガンマニア?・・・


42)ひまわり/行定 勲;2000年劇場公開作品(12.5)

 ↓の行定 勲が2000年に撮影した作品。いかにもスタイリッシュな映像が光った「GO」と比べ、こちらはぐっと渋く、手持ちカメラの揺れる映像など、比較的プリミティブな絵作りである。が、なかには皆既日食の黒い太陽をバックにほの見える少女の表情のように、なかなか凝ったものも見られた。しかし全体的には、自主映画のテイストが残るような作風だ。

 物語は、釣り船の事故で死んだ小学生時代の同級生の葬儀に集まったクラスメートが、事故死した同級生=真鍋朋美の過去と現在を対比しながらたどってゆく重層的な回想ドラマだが、基本的には主演の袴田吉彦の回想が軸になっている。しかし、彼が演じる輝明と朋美との淡い恋の思い出と、現在の朋美(麻生久美子が好演)に関わる男たちの証言のカットバックが、もう一つしっくりはまらないジグソーパズルのようで、作品としての統一性を乱していた。ここはやはり、いずれかの視点に腰を据えてじっくり描き、もう一方は補足程度の配分にしないとちょっときつい。また、彼女をめぐる男たちの描き方もやはりやや総花的で、二股をかけられた二人の男(笹原と高橋)も、実のところ朋美にとってどういう存在だったのか、よく判らないまま終わってしまった。

 それは輝明と朋美との関係にも言える。輝明は朋美が好きだったが、子供らしい照れからそれを隠そうとし、わざと意地悪な態度をとったりする。しかし、大人になってそのことをすっかり忘れていた。葬儀の間に見せる輝明の行動は、考えてみるとそれら数々の意地悪への贖罪といえるだろう。だからこそ、なぜか成長した姿で輝明の前に現れた朋美は自分にボールを当てさせようとするわけだ(ドッジボールでひとり残った朋美にわざとボールを当てなかったために、友人たちから恋心を見破られそうになった輝明は、苦しまぎれに「あんなブスに当てたらボールが腐る」と言い訳し、それが新たないじめの起点になってしまう)しかしそれは輝明自身の心の帰結ではあっても、物語そのものの帰結とするにはあまりに薄弱で、朋美の死の原因とか、そもそも本当に朋美は死んでいるのかといった解決されていない疑問にはまったく答えていない。

 ラスト、半分砂に埋まった小舟をみんなで掘り出し、海に出たもののすぐに沈んで浜辺で途方に暮れているとき、輝明の携帯が鳴って現実に戻される、というとってつけたような結末は、いかにもはぐらかされたようないただけないエンディングで、作品の評価を多いに下げてしまっている。こうしてみるとやはり「GO」の成功は宮藤官九郎の力によるところが大きいようだ。・・・


41)GO/行定 勲;2001年劇場公開作品(12.4)

 昨年度の日本映画賞を総ナメにした話題作。ノーカットテレビ放映と言うことで、CMによる細切れをものともせず頑張って観た。行定 勲による演出はいい意味でテレビ的で、CMにより寸断されてもその影響でテンポが狂うようなことはなかった。しかし、この映画の一番の勝因はやはり宮藤官九郎による脚本だろう。原作を未読なのでどこまで忠実なのか判らないが、間違いなく宮藤の功績と思われるシーンは多々ある。たとえば杉原が初めて桜井に出会うシーンでは、パーティ会場の騒々しい音楽に何故か円生(だと思うが、歌丸かもしれない)の落語がかぶっているのだが、画面を見ているとそれが杉原の聴いているウォークマンから流れていることが判る演出であり、しかもその内容が、遊女の美しさを形容する台詞で、画面の桜井(を演じる柴咲コウ)をも形容する仕掛けになっている。それ以外にも、とにかく全体に日本映画独特の切れの悪さを徹底的に排除した過不足ない脚本で、そのヌーボーとした風貌とは裏腹に宮藤という男、なかなかの才人と見た。

 基本的にこの映画は、窪塚自身によるナレーションでも再三言われているとおり、杉原と桜井のラブストーリィを軸にしてはいる。しかし、もちろんそれだけの作品ではない。主人公杉原の在日朝鮮人という出自の問題や、親と子、友情、友の死といった青春映画に普遍的なテーマをも織り込んだ盛りだくさんの内容である。それら、ひとつ間違えば足をすくわれてテンポを台無しにしてしまいそうな要素を、宮藤脚本はものの見事に交通整理し、頻繁に起こる時間軸の変換も実に判りやすくクリアしてしまっている。杉原の民族学校時代の友人や高校に入ってからのクラスメートのキャラクターは、原作にあるのかどうかは判らないが、いかにも宮藤の書いたテレビドラマ(「池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ」など)に登場しそうなキャラなので、あるいはかなりの部分彼の創作かも知れない。

 主演の窪塚洋介、彼の両親を演じる山崎勉と大竹しのぶ(やっぱり凄い人だ)も良かったし、柴咲コウのちょっと不思議ちゃんキャラもなかなか決まっていた。ラブホテルで杉原が在日と知って思いっきり引いてしまうあたりも、ふだんの言動とあまりに相反する「常識的」反応に自ら驚いている感じがよく出ていた。「血」の話は部落差別の時にもよく持ち出される話題ではあるが、今時そんなことを言う人間がいるのかと思っていたところ、意外に身近なところで実例を見てしまった。建て前ではきれい事を言っていても、本音の部分ではまだまだ差別感覚は深く根付いているのかも知れない。ちょい役で登場する萩原聖人や大杉漣もいい味を出していた。宮藤はこうしたサブキャラの処理が実にうまい。

 しかし、以前の日本映画界ならせいぜい「三国人」としてしか登場しなかった在日朝鮮人を主人公に持ってきて、しかもまったく肩肘を張らない娯楽作品として成功してしまえるようになったのだから、やはり時代は変わったのだろう。少々大げさに言えば、この作品の功績は1977年アメリカで放映されたTVシリーズ「ルーツ」にも匹敵するものかも知れない。・・・


40)ダーク・ブルー/ヤン・スヴィエラーク;2001年チェコ・イギリス・デンマーク・イタリア合作映画(11.9)

 ふだんなら映画を見るときは、地元の映画館に行くかレンタルビデオで済ませるのだが、この作品はバトル・オブ・ブリテン当時活躍した亡命チェコ人パイロットを主役とし、彼らの駆るスピットファイアが画面狭しと飛び回る航空映画であり、仕事上観ておかなければならない作品であると同時に、シネスイッチ銀座のみの単館ロードショウ上映なので、仕方なしに銀座まで足を運ぶことになった。

 さて、観終わっての感想であるが、これがなかなか難しい。とくに手抜きであるとか、脚本に致命的な難点があるとかいうわけではないが、それでは逆に、人に積極的に勧められる作品かというと、そうともいいきれないのだ。ふだんハリウッドのメリハリの効きすぎた映画ばかり観ている人間には、どうも焦点のはっきりしない、あやふやな作品に見えてしまう。娯楽側にもゲージュツ側にも振り切れておらず、なんとも中途半端な印象なのだ。

 物語は、ナチスドイツに占領されたチェコ軍のパイロットたちがイギリスに亡命し、RAFのパイロットとしてドイツ空軍と戦う、というものだが、恋人を残して部下カレルとイギリス軍に身を投じる主人公=フランタのキャラクターが始めから終わりまでよく判らなかった。キャラクターそのものが不明瞭である、というより、何を考え、いかなる動機で行動しているのかという表現が希薄なのだ。内省的な演技といえなくもないのだろうが、徹頭徹尾それで通されては、解釈の幅が広くなり過ぎ、結局どういうキャラクターなのか混沌としたまま終わってしまう。逆に、やや図式的に過ぎるところも見られたにしろ、カレルの方がはっきりしたキャラクターを与えられていたように思う。いっそのことカレルを主役とし、彼の人間的成長に焦点を絞った方が、判りやすい作品になったような気がする。

 航空映画としてみた場合、なにより肝心なのは、登場する飛行機、特にその動かし方の説得力である。バトル・オブ・ブリテン当時まだ登場していたなかったスピットVIII型が出てくるのはまあ仕方がないにしろ、残念ながら空撮にはそれほどの新味は見られなかった。描き方が冒頭からラストまでほぼ同じで、「ここぞ」というところでのけれん味に欠けていた。飛行シーンを淡々と描く、というのはおそらく監督の意図であろうとは思うのだが、それにしてももう少しメリハリは効かすべきだっただろう。おかげで人間と飛行機との関係までが非常に希薄になってしまい、スピットファイアが単なる「乗り物」に止まってしまった。チェコ空軍ののどかな複葉機からいきなり当時の最新鋭機に乗り換えたパイロットの驚きも感動もまったく出ていなかったし、映画としての誇張なのだろうが、おもちゃの翼を付けた自転車で編隊飛行訓練を繰り返していただけのチェコ人部隊を、転換訓練もなしにいきなり実戦にたたき込んだのだから、全員戦死しなかったのは奇跡に近いのではなかろうか。

 撮影には、さすがにスピットファイアこそ実機を使っていたが、敵方の機体までは手が回らなかったらしく、メッサーシュミットBf-109Eは「空軍大戦略」同様、イスパノエンジン装備のレプリカで(アゴのラインで一目瞭然)おそらくCGと「空軍大戦略」のフッテージをそのまま使い回したものと思われる(Bf-109の空中分解シーンなど)ちらっと登場するHe-111らしき機体も、友軍のB-25もやはりCG製であった(B-25の着陸時のみ実機)空中戦のCG自体はなかなかの出来だったのだが、ばらまかれる空薬莢はいくらなんでもあんなに固まって空中に浮かんでいるとは思えず、少々不自然だった。

 物語の後半では、ある人妻に恋したカレルと、その人妻に惚れられてしまうフランタの三角関係が軸となり、恋をとるか友情をとるかの葛藤が描かれるのだが、このあたりも通り一遍な感じでそれほど深みを感じさせてはくれない。カレルと友情の絆で結ばれているはずのフランタが、なぜ人妻スーザンの愛をすんなり受け入れてしまうのか、唐突すぎて判りにくいのだ。やがて真相を知ったカレルとのあいだにお定まりの悶着が起こるのだが、この描写もまた平板かつ予定調和的で、食い足りない印象が強い。後ろから撃ったの撃たないのというくだりに至っては、いかに後方視界の悪いスピットV型であろうとも、それはないだろう、と思った。もっとも、カレルに対する罪悪感の裏返しでフランタはそう確信してしまった、という解釈も成り立つのかも知れないが。

 ところで映画にはサイドストーリィというか、戦後、共産主義体制になった故国で、不穏分子として収監されたフランタの現在がカットバック風に挿入されているのだが、どうしてこの映画にこの部分が必要だったのか、観終わるまで結局判らなかった。そういう状況の中でひたる回想が本編、というのならまだ判るのだが、映画では単に、亡命チェコ人パイロットの悲惨な末路を描くだけで、映画本編との有機的な関わりは感じられなかった。歴史の一コマとして必要だったのなら、もう少し別の処理方法があったのではないだろうか。

 それにしても、一番印象に残った名演技が、犬のそれだったというのは、やはり映画として問題あり、かも知れない。・・・


39)ジャングル・ジョージ/サム・ワイズマン;1997年アメリカ映画(10.31)

 公私ともども暗いニュースばかり続く昨今、映画くらいは底抜けに明るいものを、と思って観たのであるが、まあそこそこに笑える水準作ではあるものの、大爆笑を保証するまでの作品ではなかった。そこここに、この辺もうちょっとひねればもっと笑えるのに、と思えるような糸口がかいま見えただけに、少々残念だ。

 物語はターザンの脳天気なパロディ。ただそれだけである。ジョージがいかにしてアフリカでゴリラに育てられるようになったかといういきさつは、冒頭のアニメでごく簡単に描かれるだけで、一緒にいるゴリラのエイプ(=猿)がなぜ読み書きでき、流暢に話せるのかなど、いっさいの説明はない。一言でいってしまえば「お約束」だから、ということなのだろう。しかし、かなりお手軽な作りの映画にも関わらず、この作品、なんと一億ドルを超える興業収益を叩き出したそうで、案外アメリカ人のハートには訴えるところがあったのかも知れない。来年(2003年)にはパート2の公開も決定している。

 あらすじを書いてしまえば、助けた金持ち娘アースラにサンフランシスコへ連れていかれたジャングルの王=ジョージが、カルチャーギャップでさんざん笑わせてくれたあと、窮地に陥っているエイプを救いに単身アフリカに戻るのだが、アースラもそれを追ってアフリカに行き、さらに彼女の元婚約者ライルもまた・・・という他愛のない話である。作る側もそうした「お話」で見せる映画ではないことを十二分に認識しており、話の流れの中に、いかにギャグをばらまいておくか、またそれらをいかに連鎖的に発生させられるかが鍵の作品といえるだろう。そういう点では不成功とはいえないまでも、ギャグが相乗効果を上げるほど巧妙に配置されていたわけでもなかった。もちろん、蔓を掴んで雄叫びを上げながら木から木へ飛び移るターザンお得意のアクションは本編でもふんだんに登場しており、最後に必ず幹に激突してしまうというお約束ギャグもまた、何度となく繰り返される。一番最後の激突シーンでは、その結果がちゃんとストーリィ上のキーポイントになっており、この辺は、良くも悪くもハリウッド脚本の基本なのだろう。

 基本的にお手軽なコメディ映画として作られているのだが、登場する動物たちはアニマトロニクスやCGを駆使して描かれており、たとえば犬とまったく同じ身軽な動作を見せる象(!)のポチなど、現代のCG技術をもって初めて表現できるものだし、かなり複雑な表情を見せるエイプもやはり、アニマトロニクス無しには存在し得ない。そういう意味ではこの映画も、「ジュラシック・パーク」以降のSFX技術の進歩の上に成り立っている作品である。映画の内容と比較すると、ちぐはぐな感じがするくらい立派なSFXではあるが、以前に比べれば格段に安い経費で高画質なCG映像が作れるようになった現代では、低予算映画でもすでにこの程度は当たり前になりつつあるのだろう。

 主演のブレンダン・フレイザーは「ハムナプトラ失われた砂漠の都」などコメディがかったアクション映画でお馴染みの人で、はにかんだ笑顔など、若い頃のトム・ハンクスにちょっと似たところがある。はたして彼のように、後に演技派に転校し、アカデミー賞俳優まで登りつめることができるのか、気になるところだ・・・が、ちょっと無理だろうなあ。・・・


38)サイレント・ランニング/ダグラス・トランブル;1971年アメリカ映画(10.18)

 誰にでも、冷静に語ることのできない映画、というものがあるだろう。僕の場合、きわめてそれに近いのが本編である。評論家的視点で見れば、もちろんこの映画にも山ほど欠陥はある。よく言われるように、8年も植物を研究し続けてきた主人公が日照不足に気づかないはずはないとか、そもそも設定となる地球環境に無理がありすぎるとか、女の子がひとりも登場しないとか(笑)

 もちろんそうした欠点は認めないわけには行かないが、それを補ってあまりあるプラスアルファがこの映画には確かに存在する。

 ストーリィはこの手のSFとしてはかなり単純で、ほんの数行で説明できる。地球全体が人類にもっとも適した摂氏24度に保たれ、自然環境が消え失せた未来、わずかに残された地球の自然はドームに保存され、宇宙空間を旅していた。主人公ローウェルはいつか自分たちが地球に呼び戻され、自然環境を復活させることを夢見ていたが、ほかの乗組員たちにとっては退屈な任務に過ぎず、はやいとこドームを投棄して帰還することを願っていた。そこへ地球から全ドームを放棄、爆破して帰還せよとの指令が届く。ローウェル以外の乗組員は喜ぶが、ひとつ、またひとつと破壊されるドームを見てついにローウェルはある決意を固める・・・。

 基本的に本編は環境保護をテーマとした作品に類別されるのだろう。ちょうど自然保護の概念がはっきり形を見せてきた頃作られた映画だし、ジョーン・バエズが歌う主題歌などにもそのテーマは色濃く漂っている。保護というと防御的なイメージがあるが、本編のそれはかなり攻撃的である。なにしろ、最後にたったひとつ残った森のドームを守るために、ローウェルは三人の同僚を殺してしまうのだ。もちろん、すぐに行動を起こさなければ手遅れになってしまう、という条件下ではあるが、殺人を犯してまで守らなければならない「森」は何を象徴しているのか・・・。

 ローウェルは仲間たちから変わり者と見られてはいるが、特に彼らを嫌っていたわけではなく、もちろんはじめから殺意を抱いていたわけでもなかった。殺してしまったあと、彼らの思い出に悩まされるシーンが何度となく出てくることからも、そのことは判る仕掛けになっている。彼にとってはそれにもまして、森のドームが重要だったに過ぎない。仲間を殺したあと、ローウェルは三体のドローンを直接自分の命令を聞くようにプログラムし直し、新しい仲間にするのだが、戦争で足を失った人が中に入って演じているこのドローンは、のちのスターウォーズのR2-D2の原型になったといわれる。たとえば微妙なつま先の演技など、ラジコン操縦のロボットではとても不可能だし、「待て」と命じられたときのたたずまいは、まさに人間ならではである。ただちょっとした謎なのは、ローウェルがドローンたちに名前を付けようと考えていたことだ(「ヒューイ」「デューイ」「ルーイ」はドナルドダックの三人の甥の名前)どの時点から彼がそう考えていたのか、はっきりした描写はないが、これは彼の行動がある程度計画性をもっていたことを物語っている。

 SF映画に不可欠のSFXは、もともとSFXマンであったトランブルの作品だけに、当時のものとしては圧倒的なリアリティをもって迫ってくる。鉄パイプを組み合わせたようなトラス構造の骨組みに、ブリッジ部分と半球形のドームを数個組み合わせたバリフォージ号のデザインはよく巨大感が出ており、その後某アニメなどにも流用されたし、本物の空母(まさかバリフォージではないだろうが・・・と思っていたら、撮影は実際に退役して係留中のバリフォージ内部で行われ、宇宙船の船名も空母バリフォージにちなんで命名されたのだそうだ)の内部で撮影した船内の様子も、かなり説得力があったと思う。その船内を走り回るバギーや、独特の六角形をしたコンテナなど、あんまり格好いいので僕も自作の中に登場させてしまったほどだ。ただ、ドローンたちのプログラムを変更するために回路を焼き付けるシーンは、当時としてはリアルだったのかも知れないが、今から見るといかにも「昔のコンピュータ」のイメージである。ま、ローラ・ダーン(「ジュラシック・パーク」「遠い空の向こうに」など)の親父のブルース・ダーン(ローウェル)が若かりし頃の映画なので、仕方がないといえばそれまでだが。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 映画のラストでドームの植物をヒューイ(ドローン1号)に託し、ローウェルは死を選ぶのだが、ここをどう解釈するかはなかなか難しい。よく考えてみれば、ここで彼が死ななくてはならない必然性はないのだ。ドーム内の植物で自給自足の生活は可能だから、バリフォージ号を捨てて自らドームに避難してもいいし、助けに来た仲間の船に救助され、しらばっくれたところで船内で何があったかは誰にも判らない。しかしローウェルはあえて死を選ぶ。一般的な解釈では、仲間を殺したことへの罪の意識と、僚船の捜索にもう逃げ切れないと覚悟したからだとされているが、僕の解釈はちょっと違う。もちろん罪の意識は大きいだろうが、逃げ切れないということよりも、自らの主張した「乗組員たちの思いやりの無さ」を行動によって否定されてしまったことの方が大きいのではないだろうか。僚船がバリフォージ号を捜すためには自らも危険な土星の影に入らねばならず、それは命がけの行為となる。そんな危険を冒してまで自分を救出に来ることはいわば「究極の思いやり」だ。森のドームはなんとしても守らなければならないが、自分自身にはそんなにまでして救われるほどの価値はない、という思いが結局彼に核ボタンのスイッチを押させてしまったのではないだろうか。

 いずれにしろ、本気で守ろうとするものがあったら、はたから見たら狂気としか思えないような行動をとらなければならないときもある、というのが本編の核心なのだろう。過激な自然保護論者、たとえばグリンピースのような連中にとっては、バイブルのような作品かも知れない?・・・


37)オアシスを求めて/富沢 正幸;1985年テレビ作品(9.14)

 コラムに昔のドラマについて書いていたら(ここです)、この作品のことを思い出し、急に観たくなってテープの山から発掘してようやく観ることができた。映画ではなく、純然たるテレビドラマだが、↓の「戦闘妖精雪風」もOVA、つまりテレビ画面で鑑賞するのを前提にした作品だし、そう大差はないだろう。

 このドラマ、今から十数年前にNHKで放映されたものだが、その後一度も再放送されず、また、ビデオ化されたこともない幻の作品。当時僕の住んでいたあたりはNHKの難視聴地域で、オリジナルテープは友人に頼んで録画してもらったものだ。当時としてはまだ珍しかったステレオ放送だったが、ハイファイビデオが開発される前だったので、ノーマルトラックにステレオ録音する方式のデッキで録ってもらった。しかし、この方式で録画したものをステレオ再生できる装置は今はなく、古いノーマルステレオデッキは、レインボーノイズが盛大に出てしまうほどヘッドが劣化していたので、今回僕が鑑賞したのは、通常のハイファイビデオで再生した画面を8ミリビデオテープに録画し、あとでステレオ音声をサイマルキャストでデジタルトラックにかぶせたもの。タイミングを計るのが大変だったが、観ても不自然ではない程度にはシンクロさせることができた。何故ここまでステレオにこだわるのかと言えば、もちろんこの作品が音響にかなり神経を使って作られたドラマであり、また、音楽担当の富田勲が過去の自分の作品(有名クラシック曲をシンセサイザーで演奏したもの)を非常に効果的に使っていたからでもある。

 物語は21世紀末、世界で9番目に完成した日本初のスペースコロニー「勝利号」のエンジニア、織部(中井貴一)が、度重なる些細なトラブルに疑念を抱き、システムすべてを統括するスーパーコンピュータ「R7」を調べるうちに遭遇する驚愕の事実を描いたものだが、ちらっと出てくる「勝利号」内部の様子など、SFマインドに溢れている。事件を追究する織部は、やがて月面地下の研究所にたどり着き、真相を知ることになるのだが、この巨大な空間は大谷石の採掘場跡で、かつて「エノケンの孫悟空」でも使われていたところだ。余談だが、ここで織部を狙撃するレーザーは合成ではない本物のレーザー光線で(もちろん殺傷能力はない)映画やドラマで実物が使用されたのは、これが最初ではないだろうか。

 さて、肝心の出来だが、あの当時こうした大人向けのSFをきっちり作ったこと自体、評価に値すると思う。環境破壊、人口爆発、高齢化など、このドラマで取り上げられたテーマは今でも今日的で、いささかも古びていない。ミニチュアを使ったSFXは今の目から見たらほほえましい出来だが、酸性雨が降り注ぐ2087年の東京市街など、「ブレードランナー」の影響が色濃いものの、なかなか雰囲気は出ていた。全体にあまりセットを使わず、それらしい場所でのロケーションを主体にして撮影したおかげで、説得力のある映像になっていた。もしビデオではなくフィルムで撮影していれば、さらにそれらしく見えたかも知れない。

 ミニチュアがミニチュアにしか見えなかったり、ラストの展開が少々強引だったりするあたりが気にかかるが(月面の地下深くで発せられた電波が、どうやって地球で受信できたのか、など)当時の作品としては出色の出来であり、なぜたった一度放映されただけでお蔵入りになっているのか、理解に苦しむところだ。あるいは、「R7」の次世代機「R8」に関する描写が某団体の逆鱗に触れたのかも知れないが、この程度のことでいちいち「なかったこと」にされては、作品を作る側としてはたまったものではない。封印されている理由がこんなくだらないことでないことを、願うばかりである。・・・


36)戦闘妖精雪風(1)/大倉 雅彦;2002年オリジナル・ビデオアニメ作品(8.27)

 一度世に出た原作を、さらに別のメディアで発表することの難しさは、僕にも経験があるので苦労はよく判るのだが、それにしてもこれはないんじゃないの?と思うくらい不親切な脚本である。なにしろ状況説明がまったく不足しており、ベースとなる基地がいったいどこにあるのかも判らない(僕はずっと南極だと思っていた)し、キャラクターの説明も全体に不足気味で、人間関係もほとんど判らない。いつの時代の話なのかも判らないし、その時代の軍がいったいどういう構成になっているのか、また、主人公たちの所属しているのがいったいどういう部隊なのか、全体的にもうすこしきちんと説明すべきだろう。

 スーパーシルフなる偵察機(といっているが、行動を見る限りは実質的に戦闘機である)と「雪風」との関係もまた、よく判らない。ラスト近く、無人機にデータが転送される場面でどうにか「雪風」がプログラムらしい、と判る程度である。その少し前、突然敵側の捕虜になる場面も、省略が多すぎて夢なのか現実なのか判然としない(直前に主人公が檻の中の女の夢を見るシーンがあり、画面処理がよく似ていた)「エヴァンゲリオン」以降、多少難解でもとりあえず話を進めてしまい、あと付け的に説明を入れるか、あるいは謎のまま残してしまう、というやり方が流行っているが、あまりやりすぎると誰もついてこられない作品になってしまうだろう。この作品も、原作を知らない人間にとってはやや難解に過ぎる。マニアによるマニアのための作品、ということなのだろうか。

 セルシェイダー処理の3DCGアニメーションは、前作「青の6号」に比べてかなりアニメらしい感じに仕上がっており、戦闘機の機動も自然で悪くない。しかし、リミテッドアニメである2Dと交互に見ると、あまりにスムースな3Dシーンがまだ浮いて見える。いっそのことフルアニメの3DCGからコマを間引きして、手描きアニメの味を出す、といったテクニックも必要かも知れない。また、P&W F-100エンジンそのままのエンジン音も、もう少し独特の味付けをして欲しかった。J-79やF-100はあまりに身近すぎて、「聞き覚えのある音」に聞こえてしまうのだ。

 漫画家にして、かの「エヴァンゲリオン」をデザインしたことで知られる山下いくと氏によるスーパーシルフのデザインは、近未来機テイストを山盛りに盛り込んだ、ややゴチャついたもので、あちこちで渦流が発生しそうである。あまりすっきりしていては、キャラクター性が希薄になってしまう、と思ったのかも知れないが、大気圏内を飛行する航空機としては、いかにも抵抗が大きそうだ。角度によってはクリント・イーストウッド作品「ファイア・フォックス」に登場するミグ31とそっくりなのも気になった。一方、天野喜孝氏を彷彿させる耽美系のキャラデザインは、今っぽいのかも知れないが、あまりしっくりこなかった。髪型や極端にスマートな体形など、どうみてもパイロットには見えないのだ。ま、もともと原作の主人公がそういうキャラなのかも知れないが、ほかの登場人物も全員が同様の体型というのは、やっぱりちょっと変。・・・


35)アポロ11/ノルベルト・バーバ;1996年アメリカTV作品(8.26)

 どうしたわけか、それほど古い作品ではないにも関わらず、70年代の映画の、16ミリリプリント版みたいな寝ぼけた画質でかなり見づらかった。あるいは、多用していた記録フィルムとの画質の差を目立たなくする工夫なのかも知れないが、こういう消極的なボロ隠しは願い下げである。

 物語はタイトル通り、アポロ11号のメンバー選びからミッション終了までを淡々と描いたセミドキュメンタリー・ドラマで、低予算のTV映画としてはそこそこよくやっているが、わずか数年後の「フロム・ジ・アース」には比べるべくもない。見るべきものと言えば、大量に使われている当時の記録フィルムと、おそらく実物を使用したと思われる宇宙船およびコントロールセンター内の様子である。特に後者は、前述のフィルムの荒れも手伝って、ドキュメンタリー・フィルムのようなリアリティがあった。そんな中で、月着陸船の切り離しシーンと着陸シーンだけは新たにSFXを撮り下ろしているのだが、さすがにこのあたりの技術は現代のもので、逆にこの部分だけちょっと浮いてしまっていた。どうせ70年代風のフィルムにしたかったのなら、もっとチャチな模型を使った特撮にすればよかったのに・・・


34)アメリ/ジャン・ピエール・ジュネ;2001年フランス映画(8.26)

 今年観た映画の中では文句なしに最高の一本である。キャラクターの立て方、シナリオの独自性、映像センス、そして映画のテンポと、ほとんど非の打ち所がない。ジュネの作品を観るのはは確かこれで四本目なはずだが、これほど外さない監督も珍しいのではなかろうか。

 物語は一言でいってしまえば、Boy meets Girlのよくあるものなのだが、その展開の仕方は尋常ではない。この物語には、大きな謎、小さな謎、ちょっとした謎など、さまざまな謎が登場するが、そのすべてが蜘蛛の巣のように互いに関連しながら、ちゃんとした落とし所におさまるあたり、すでに名人芸の世界だ。もうちょっと具体的に書きたいのだが、そうするとまだ見ていない方の楽しみを殺ぐことになるし、ここはぐっと我慢しよう。ご覧になれば、僕の言っていることがなにを指しているのかは一目瞭然だろう。ドワーフ人形と猫の関係など、さすがと言うよりない。

 しかしとびぬけて秀逸なのは、やはりヒロイン、アメリのキャラ設定であろう。一歩間違うとやたら暗い話になってしまう幼少時代のエピソードから、結局はお節介にすぎないさまざまな「人助け」まで、きわめて秀逸な演出により観客を肯定的な気分にさせてしまう。特に、寡黙な店員をいじめる果物屋のおやじに復讐を仕掛けるあたりは、演出を誤ると後味の悪い「仕置き人」みたいな展開になりそうだが、うまく笑いの中に収めてしまった手際は見事だ。実際にはどうもアメリという女性は、親切そのものよりも、「親切なことをした」という満足感が欲しいだけのような気もするが(自分が干渉した結果が後々どうなるかまでは考えていない)ジュネの脚本は、「よかれと思ってやったことが結局は悪い結果に終わることも多いけれど、それでもなにもしなかったり、悪意による行為よりは遙かにましである」といいたいのだろう。ハリウッド製の映画によくあるような、善意による行為は必ず善なる結果をもたらす、という教条主義的な結論を持ってこないだけ、その手のお説教に飽き飽きしていた観客たちにアピールしたのだと思う。

 ハリウッドで撮った「エイリアン4」を除いて、ジュネの映画では音楽もきわめて大切な要素である。テーマ曲がよくTV番組などで使われるし、一度聴いたら忘れられないほど耳になじむ。今回の「アメリ」も、タイトルバックに流れるピアノ曲や、アコーディオンが心地よいエンドタイトルなど、非常に印象的だ。

 ひとつだけ、本筋にまったく関係のないイチャモンなど。映画のほとんどラストの部分で、ある男が本を読んでおり、そこにナレーションが「人間の脳細胞の数は、全宇宙の原子の数より多い」とかぶるのだが、脳細胞の数はせいぜい140億個、銀河系の恒星の数、約2000億個よりまだ少ない。どこからそんな数字が出てきたのか、気になるところだ。あるいは有名な「ゴジラ」の惹句「紀元前200万年の大怪獣」同様、確信犯的な行為かも知れない。

 久しぶりに、DVDソフトを購入してもいいな、と思う作品に出会った。・・・


33)ジュブナイル/山崎 貴;2000年劇場公開作品(8.8)

 2000年にフジテレビが製作した年少者向けSF作品。「ジュブナイル」とはもともと「年少者向け」という意味の英語であり、そのものズバリのタイトルである。しかし、オハナシに関してはまったく何の情報も与えてくれないタイトルでもある。あまり詳しく書くとネタばらしになるので、はっきりとは言えないが、一言で言えばよくある侵略テーマとこれまたよくある時間テーマを融合したSFであり、残念ながらそこには一片の斬新さも感じられなかった。エイリアンたちの地球侵略はいかにも設定のための設定だし、その基地の規模や宇宙船の壮大さに比べ、やることがあまりにチャチ。爆弾と勘違いされた例のメカなど、最後の使い方を想定した設定としか思えない。

 主演の香取慎吾は可もなく不可もない出来だが、20年後の姿をきちんと演じ分けていたのにはちょっと感心(メイクだけでなく、物腰や発声もちゃんと20年後していた)した。しかし、主人公裕介や彼を囲む少年たちのキャラクターは、イマイチはっきりしなかった。それぞれの少年たちのキャラ造形にはもう少し気を使うべきだっただろう(たとえばいじめる側といじめられる側とか)それとも、登場した少年たちを均等に扱わねばならないような、何か特別な理由でもあったのだろうか。

 監督の山崎 貴はもともとSFXマンの出身らしく、本編でも特撮監督を兼ねている。そのおかげか、多重合成が必要になるようなシーンも無理なくドラマにはめ込んでいるのだが、肝心のドラマそのものの展開がやや平板かつ冗漫で、全体に緊迫感が不足していた。また、合成のアラを隠すためなのだろうが、侵略テーマの方のクライマックスが夜なのも興ざめだ。おかげでせっかくのメカニズム描写がイマイチ盛り上がらなかった。一方時間テーマの方の結末は、そこまでやらなくても賢明な観客には理解できるだろう、と思うほどのくどさだった。これほどきっちり描かなくても、ほんのワンカットもあれば、十分意図は伝わるはずだ。このくどい終わらせ方で、物語の余韻はあらかた死んでしまったような気がする。・・・


32)千と千尋の神隠し/宮崎 駿;2001年劇場公開作品(8.8)

 これまで日本で公開されたすべての映画の中で、最高の興行成績をあげた一本である。子供向きの作品なので、親子連れが多く、その分収益が増えたとか、いろいろ言われてはいるが、つまるところはやはり宮崎ブランドへの信頼と、それを裏切らなかった作品の質の勝利であろう。とにかく非常にそつなく作られたアニメ映画であり、ストレートな物語性と、逆に真意を掴みかねる寓意性(たとえばカオナシはなにを指しているのだろうか、などと考え始めたら、きりがない)とがないまぜになったちょっと不思議な作品であるところも、見る側にとっては魅力と映ったのかもしれない。

 テーマを前作「もののけ姫」のように無理に広げなかった分だけ、年少の観客にも判りやすかったのだと思う。この作品のキーワードは「いい子」である。冒頭、父の運転する4WD車の車内で千尋が見せる普通の女の子の姿は、まったくここだけしか出てこない。その後の千尋はとにかく聞き分けのいい「いい子」だ。油屋で働くようになるきっかけも、言うことをきく「いい子」だから掴めたのだし、いろいろ命令を与えられても、そのひとつひとつを誠実に実行し、未来を切り開いていく。何のことはない、「風の谷のナウシカ」以来宮崎氏が一貫して描いてきたヒロインそのままの姿である。原作者がほかにいた「魔女の宅急便」を除けば、宮崎アニメのヒロインたちはみな最初から人間として完成されているのだ。おそらくそれは、彼女らに宮崎氏の理想像が常に投影されているからなのだろう。個人的には、もうすこし怠けたり恐怖にすくんだり、生身の女の子らしさを見せてもいいと思うのだが、千尋もまた、とても少女とは思えぬ眼差しでしっかり目標を見据え、やがてはそのすべてをクリアしてしまう。

 ひとつ、とても奇妙に思えたシーンがあった。物語の中盤、千尋が建物の外に出て、非常階段のようなものを登る場面で、平安風の衣装の上に襷を掛けるのだが、その手際があまりによすぎるのだ。現代っ子の千尋に襷に触れる機会があるとは思えず、また、リンたち先輩に教わる十分な時間もなかったと思うのだが・・・。このあたり、謎の少年ハクの言っていた「昔から知っていた」ことと何か関連があるのかと思ったが、結局はまったく関係のない種明かしが用意されており、その意味は最後まで分からなかった。あれは一体何だったのだろう???・・・


31)海のオーロラ/菅野嘉則;2000年劇場公開作品(8.5)

 フルCGによる海洋SFの野心作になるはずだったのだろうが、どうも狙いのよく判らない作品になってしまった。キャラ設定、メカ設定とも独創的といえば聞こえはいいが、単に現代的なSFセンスに欠けている造形といった方がいい。特にキャラは、おそらく最初からリアル指向は諦め、人形劇のような方向を狙ったのだろうが、質感までまったく人形になってしまい、CGならではの生物感といったものが微塵も感じられなかった。リアルな人間を作ろうとして力不足に終わった「ファイナル・ファンタジー」より志が低い分、なんのためのCGなのかなおさら判らない作品に成り下がってしまった。メカ設定はそれなりに個性は認められるのだが、これも形状に必然性があまり感じられず、作業用潜水艇や攻撃型潜水艦がなぜあんな生物的な姿をしているのか、まるで説得力がなかった。特に、終盤登場するオスプレイやハマーがほとんど実物そのままだっただけに、ちぐはぐさがよけい目立ってしまったようだ。

 SFとしての設定は、少なくとも嫌気性細菌の意味をまったく判っていなかった「ゴジラ対デストロイア」より多少はましだったが、これも程度問題で、やはりかなりご都合主義的設定と言わざるを得ない。物語はクローンやら核融合炉やらいろいろなSFガジェットを詰め込んではいるが、結局は単純な脱出劇に終わっており、脚本家の力量不足は否めない。娯楽映画として成立させるには、もう少し広がりのあるストーリィが必要だったと思う。

 貶してばかりいてもつまらないので、買える部分を少し。ヒロイン春露の声を当てていた奥菜 恵は意外にもなかなかうまく、ドラマなどで感じた舌足らずな発音も、まったく気にならなかった。アフレコは当てているタレントの顔が思い浮かべられてしまったら失敗なのだが、そういう意味ではこの作品の唯一成功したところかも知れない。・・・


30)ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT/飯島 敏宏;2001年劇場公開作品(7.31)

 テレビシリーズ「ウルトラマンコスモス」の主人公、春野ムサシ隊員が小学生時代、ウルトラマンコスモスに初めて出会うエピソードである。怪獣と戦うボランティア組織、SRCが妙に所帯じみた組織として登場するが(隊員はみな、教員や菓子職人などの正業を持っている)その割には分離/合体するVTOL機を保有していたり、超近代的な巨大基地から作戦したりして、何だかよく判らない設定だ。脚本家はこの方が夢がある、と思ったのかも知れないが、どうなのだろう。

 物語は地球侵攻を謀るバルタン星人と、それを阻止しようとするウルトラマンコスモスが戦いながら地球に到達し、傷ついて地上に墜落したコスモスと、偶然それを目撃したムサシ少年とが出会うところから始まる。CGにより半透明の巨人として表現されているコスモスは、これまでのシリーズに登場した幾多のウルトラマンたちとはやや違う、ファンタジー色溢れる存在として描かれていた。残念ながらこの雰囲気は、実際に怪獣たちと戦うあたりではまったく雲散霧消し、いつもの怪獣プロレスとなってしまうのだが。

 以前からこのシリーズは、単に怪獣を退治するだけの存在として科特隊やウルトラ警備隊を描いてきたわけではないが、本編では怪獣の保護を目的としたSRCと、地球を守るためには彼らを殲滅するしかないと考え、その駆除を目的とした防衛軍という二重構造を設定したために、一層テーマが判りやすくなった。本編に登場する侵略者、バルタン星人は、実は科学文明の発達の結果、母なる星を滅ぼしてしまい、新たな移住先を探しているという設定。父親(?)たるバルタン星人は、子供たちのために力で地球を手に入れようとするのだが、子供たちは必ずしもそれを望んでいない、というのも新鮮だ。

 ストーリィに関してあまり書いてしまうとどうしてもネタばらしになってしまうので、あまり詳しいことは書けないのだが、SRCがバルタン星人を攻撃するくだりで、VTOL機からどでかいスピーカーが出現し子守歌を流し始め、地上にいるギャラリーたちもそれに合わせて合唱して、バルタン星人を眠らせてしまう場面はさすがにシュールでちょっと驚いた。大人の目から見ると、シュールの一言で済むのだが、メインターゲットの幼稚園児や小学生はどう感じるのだろうか。案外感動するのかも知れないが、やはり馬鹿馬鹿しいと感じるかも。・・・


29)サトラレ/本広 克行;2001年劇場公開作品(7.31)

 テレパシーを扱った作品は、小説、映画、マンガ等々いろいろあったが、この種のいわば逆テレパシーを描いた作品は初めてではなかろうか(後に清水義範の短編「もれパス係長」が同様の題材を扱っていたことが判明。この作品は92年に「世にも奇妙な物語」の1エピソードとしてドラマ化もされている)原作者佐藤マコトはこれを「超能力」と捉えるのではなく、一種の「障害」とする事でうまく物語化することに成功している。国家がたった一人の障害者のために、膨大な予算を組んで保護することには少々無理を感じるが、彼ら一人一人が超天才であり、その発明がもたらす経済効果がGNPの23パーセントにも達するとあれば、その程度のことはするかも知れない。

 設定を小出しにしながら展開する前半部分はなかなかうまく独特の世界観を構築し、観客を無理なく誘導することに成功している。しかし、映画が半ばを過ぎる頃から、さまざまな場面でほころびが出てしまうのが残念だ。最初の大きな躓きは、鈴木京香演じる小松一尉が主人公の症例7号(安藤政信)と無人島にバカンスに行くくだりで、設定としても無理がありすぎるし、そこで何故か巡り会う男が・・・というのもちょっとご都合主義が過ぎる。

 そしてなにより無理があったのが、八千草薫演じる祖母の膵臓ガン摘出手術を主人公が執刀するくだりだ。なにしろ主人公は「サトラレ」であるから、さまざまな患者の秘密にじかに接することになる外科手術からは、暗黙の了解として遠ざけられていた。つまり、祖母の手術の当日まで、実地経験は全くなかったわけである。外科部長はこれまで彼に執刀させなかった理由を、「自分より遙かに腕のいい彼に嫉妬して」といっているが、一度もメスを握ったことのない人間の腕前をどうやって知り得たのであろうか。

 さて、主人公一人が自分の正体を知らず、周りの人間たちすべてがその事実をひた隠しに隠している、という設定の映画を以前観たような気がする、と思ってこのページを読み直した結果、ジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」に行き当たった。この話も主人公は、自らがテレビ番組のキャラクターとして、完璧に人工的な環境の元で成長し、現在も生活しているという設定で、本編とかなりの部分で重なっている。監督もそのあたりはかなり意識しているようで、前半の夏祭りのシーンなど、まるでパロディのようだった。「トゥルーマン・ショー」自体もそれほど出来のいい映画ではなかったが、本編も一番肝心なテーマに関わる部分をムードに頼りすぎ、結果としてあまり説得力のない終わり方になってしまった。もうすこし脚本を練っていれば、あるいは名作になったかも知れない題材だけに、残念である。・・・


28)∀ガンダム I 地球光・II 月光蝶/富野 由悠季;2001年劇場公開作品(7.16)

 本編はCX系で1999年から2000年にかけて放映されていたTVシリーズを総集編化したものだが、ほぼ一年ものあいだ放映されていた膨大な作品を、わずか合計5時間程度の前・後編の映画として仕上げるため、やむを得ないとはいうものの、やはりかなり端折った印象の作品になってしまった。特に、プロローグ部分はオリジナルを知らないと、ちょっと理解しがたい。その後の展開に時間を割かねばならないので、仕方なく切った部分も多いのだろうが、オリジナルを知らないと意味が分からない、というのは一本の映画作品としては、やはりちょっとまずいと思う。

 物語はガンダムシリーズの中でも最もSF色の強いもので、舞台設定ははっきりとは言われていないものの、一年戦争などがあった宇宙世紀の頃から数千年後の未来、ということらしい。しかし、前編冒頭に近い部分で、主人公ロランが生年月日を答えるのだが、その時の年代が西暦2343年となっていた。宇宙世紀それ自体、西暦との関連がはっきりしていないのだから、2343年というのも現在の西暦とはなんの関係もないのだろうが、数字が数字だけにちょっと気になった(のちに判ったところでは、西暦ではなく正暦なのだそうだが、こんなの耳で聴いただけでは区別が付かない)

 ガンダムシリーズであるからには、例によって戦争の話なのだが、今回は月に生活の拠点を移していた人類が、産業革命当時の水準まで退化していた地球人たちに領土の明け渡しを求めて戦争が始まる、という設定。誰しもがユダヤ人とパレスチナ人の関係を想起するだろう。しかし、侵略者ムーンレイス(「月の種族」とでもいった意味)をたばねるディアナ・ソレルは戦争を望んでおらず、なぜか瓜二つであった地球人キエル・ハイムと入れ替わったりしつつ、戦争の防止に手を尽くす。それを側面から援助するのが、遺跡から現れた白い機械人形∀ガンダムを駆る主人公、ロラン・セアックという少年なのだが、もともとムーンレイスの一人であった彼が、いかにして地球に住むようになったか(一応ムーンレイスが地球に順応できるかどうかを調べるため送り込んだ実験体、という説明はあるが)そしてなぜ地球の側に立って戦うようになったかが、もう一つ判らない。ムーンレイスたちにしても、月に何らかの異変がありやむを得ず地球に帰る、というのならまだしも、ただ望郷の念に駆られて、では戦争の動機としてちょっと弱い気もする。戦いは望まないが、地球には帰りたい、というムーンレイスたちの葛藤が結果としてカタルシスのない展開を呼び寄せてしまったようだ。

 それにしても、この物語には「ふりをする」という設定が数多く登場する。まず、ディアナ・カウンター(占領軍)のディアナは前述のようにキエルと入れ替わってお互いの役を演じるし、ディアナの親衛隊長ハリー大尉に紹介されるロランは、何故か女装させられてローラ・ローラという架空の女性兵士のふりをする。入れ替わっていることを知らずにディアナを暗殺しにくるアグリッパの手のものは、地球側の防衛軍ミリシャ兵士に化けている、といった具合。

 ハリーは赤い暗視ゴーグルで素顔を隠し、金色のモビルスーツに乗るなど、ほとんどクワトロ・バジーナ時代のシャアそのものである。もっともハリーの場合は単にディアナに忠実な兵士に過ぎず、常に腹に一物抱いていたシャアとは外見が似ているだけなのだが。たぶんポジション的に求められたキャラなのだろう。いずれにしろ前編となる「地球光」は、設定とエピソードの配分がやや乱暴で、TVシリーズを未見な者にとっては幾分理解しがたいところのある作品になってしまった。

 どうもよく判らない展開を、敵役を設定することにより整理しようとしたのか、後編になって突然ギム・ギンガナムというキャラが登場してロランと戦うことになる。そういえばかつてのZガンダムにおいても、主役メカとメインの敵は、シリーズ後半になってようやく現れたものだ。ギムの駆るターンX(本編でミードが手がけた中でも、最高のデザイン)とロランの∀とが接触することで、∀は月光蝶と化し、黒歴史にあった災厄をもたらすことになるのだが、このあたりは本編のSFとしての核となる設定なので、これ以上書くのはやめよう。しかし野暮を承知で言わせてもらえば、ビジュアルで見せられるだけではちょっと納得しがたい展開であった。すべてを理屈で固めろとは言わないが、もう少し何とかならなかったのか、という悔いは残る。

 キャラデザインはこれまでのシリーズとはまったく違うラインとなり、ガンダムシリーズというより、かつてのカルピス名作劇場を思わせる絵柄になっていた。これは、産業革命当時にもどっている文明という背景によくマッチしており、やや絵の荒れが目立つところもみられたのが残念だが、TVシリーズの製作ペースではやむを得なかったのかも知れない。一方、モビルスーツの動画はかつてのものに比べれば、ずいぶんよく動いているのだが、なにしろシド・ミードによる微妙なデザインなので、どうしてもちょっとぎこちない感じが残ってしまった。ここは同じ頃放映されていたZOIDのように、セルシェイダーを導入した3DCGを使う手もあったのではないか。・・・


27)スチュアート・リトル/ロブ・ミンコフ;1999年アメリカ映画(7.13)

 「ベイブ」「マウスハント」など、意外に数多いハリウッド製動物SFXムービーの中でも、とりわけ奇妙な一本。動物を除いてはけっこう普通の世界なのだが、ことネズミに関しては、ミッキーマウスをそのまま実写風味のCGで描いたような雰囲気で(版権の問題なのか、スチュアートは白ネズミになっているが)徹底して擬人化されており、なんと、人間のいる普通の孤児院に、引き取り手を待つ孤児として収容されていたという設定。つまりこの映画の世界では、ネズミはほかの動物とは違ってほとんど人間に近い存在として扱われているわけだ。しかし、猫はやはり物言わぬ、ネズミを駆除する存在であるし、お約束の線引きの位置がやや曖昧のような気がする。

 もちろんこの手の映画には定番の、ネズミを人種や階層にたとえた寓話という見方は本編でも可能であろう。孤児院でスチュアートを引き取るという設定自体、製作側もかなり意識していると思わざるを得ない。 白ネズミであるスチュアートははたして黒人なのか、黄色人種なのか、あるいはプエルトリカンなのか、よく判らないが、持ち前の器用さとガッツで問題を切り抜けていく姿は、どことなく日本人を思わせる。製作には協同脚本という形でM・ナイト・シャマラン(シックス・センス)も参加しており、インド国籍の映画作家の目を通すことで、やはりある程度は「人種」を意識していたようだ。蛇足かも知れないが、模型ヨットレースに登場する主人公の乗った船の名が「スズメバチ(WASP=ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント、つまりメイフラワー号に乗ってやって来た白人=アメリカの支配階級のこと)号」なのも意味深だ。白人優先社会の象徴たる船に乗せられている、ともとれるが、船が危機に陥ったとき、巧みな舵さばきで危機を乗り越え、優勝に導いたのはひとえにスチュアートの力だし、そもそもそういう見方をされることを承知で作ったプロットなのかもしれない(つまり、深読みするのは勝手だけど、あまり意味はないよ、ということだ)

 なかにはネズミを身体障害者の象徴ととらえ「身障者の親が観たらきっと不愉快になるだろうから、こういう映画は否定しなければならない」などと主張するとんでもない輩もいるようだが、そういう連中はもちろん無視して差し支えない。少なくとも本編の製作者の意図がそのあたりにないことだけは、普通に映画を鑑賞する能力のある人間の目には明らかだし、身障者が不快感を抱きそうなものをすべて隔離することによって、差別そのものがなくなると脳天気に信じている阿呆に付き合って、文化そのものを破壊する手助けをすることなど僕はまっぴらだ。

 閑話休題、ネズミが主役なら、敵役は当然ながら猫である。リトル家にはスチュアートが養子に来る以前からスノーベルという名のペルシャ猫がおり、自分を差し置いて養子になったスチュアートが気に入らない。養子というからには人間扱いであり、自分も彼のペットということになってしまうからだ。ネズミのペットにされることを恥だと思う彼は、仲間の野良猫になんとか知られまいとするのだが、結局は知れわたり、このことが後半のクライマックスへとつながっていく。このあたりの展開は、よく考えるとかなり不条理なのだが、「家族」というキーワードでなんとなく見せられてしまう。猫サイドに立つ人間としては(笑)猫の、気まぐれで嫉妬深く、謀略好きであるという昔ながらの性格設定にはちょっと閉口してしまうのだが、最後にはちゃんと花を持たせるシーンもあり、まあ良しとしてあげよう。・・・


26)スターウォーズ・エピソード2 クローンの攻撃/ジョージ・ルーカス;2002年アメリカ映画(6.29)

 「SFは絵である」と喝破したのは確か、野田大元帥だったと思うが、この映画ほどその感を強く思い知らせてくれる作品はなかったと思う。チェスリー・ボーンスティル、クリス・フォス、シド・ミードといったビジュアルフューチャリストの作品そのままの世界が3Dで動く動く。ストーリィよりもなによりも、この「絵」がすべてを語る映画だと思う。前作エピソード1でも、前三部作とは隔世の感のあるSFXに驚いたものだが、今回のSFXはさらにそれを上回っていた。なによりその圧倒的な質感はまさに、筆舌に尽くしがたいものすごさだった。たとえば冒頭の共和国首都コルサントでのエピソードなど、絵としてはすでに、ベッソンの「フィフス・エレメント」など似たようなものはあったが、奥行き、深み、それからなによりSFとしての説得力が違っていた。ミニチュア、CG、そして実物大プロップの見事な融和がこうしたリアリズムを生んでいるのだろう。

 お話は、エピソードIから10年後、という設定で、アナキンはハイティーンのジェダイ・パダワン(修行者)となっている。彼を演じたへイデン・クリステンセンは、大抜擢に答える熱演で、アナキンの純粋さと脆さをうまく演じていた。一方アミダラ姫を演じたナタリー・ポートマンは、すでに大女優の風格が感じられるくらい堂々とした演技で、新人ヘイデンを支えていた。それにしてもアミダラ姫、湖畔の別荘に行くとき、あの服装はないだろう。エピソード1が公開されたとき、意地悪なマニアが「結局アミダラおねーさまが、アナキンをたらしこんじゃう話なのね」などといっていたけど、まさにその通り!! としかいいようのない展開である。すでに10年もジェダイの修行をしているのだから、アナキンももう少ししっかりしていてよさそうなものなのに、あれでは70年代の日本の学生より軟派だ。ジェダイの騎士を選ぶか恋を選ぶか、もっと深刻に悩むシーンがあってもよかったのではなかろうか。もっとも、あまりいつまで悩んでいては、彼をダークサイドに引き込む時間が足りなくなってしまうかもしれないが。

 閑話休題、ストーリィの話だった。全体に物語はややご都合主義的で、途中からアミダラ姫を守るアナキンと、暗殺者の正体を探るオビワンの探索行の二つの場面が交互するのだが、いずれも展開がちょっと不自然なくらい早すぎ、アミダラとアナキンは即座に恋仲になってしまうし、オビワンもまた、フォースの後押しがあったとしか思えないくらい素早くクローン工場のある惑星カミーノを突き止め、秘密であるはずの工場内部にやすやすと入り込んでしまう。そこでオビワンは、物語のキーを握るある人物と遭遇し・・・いかんいかん、これ以上書いてはネタばらしになってしまうので、この辺でやめておく。考えてみればストーリィの不自然なくらい早い展開は、エピソード4、つまりシリーズ第一作のスターウォーズからそうだったわけで、このシリーズ全編を通じた特色と見るべきなのかも知れない。

 それにしても、アナキンがのちのダース・ベイダーに至る片鱗を見せるシーンでは、バックにちゃんと「ダース・ベイダーのマーチ」が編曲されて流れていた。このあたり、歴史あるシリーズならではだろう。そういえば、チュニジアロケのシーンでは、それとなくルークのモチーフも使われており、アナキンの中にある二つの要素をうまく表現していた。

 前三部作では完全につなぎとして演出されていた「帝国の逆襲」同様、今回のエピソード2ではアナキンもまた(ルークと同じく)片手を失い、物語は「続く」という形で終わっている。「帝国の逆襲」でのハン・ソロとレイヤ姫のラブ・ストーリィと呼応する形でアナキンとアミダラ姫が恋に落ちるわけだが、こちらは悲恋に終わることが判っているだけに、なおさら悲劇的である。続くエピソード3でアナキンはフォースのダークサイドに落ち、ダース・ベイダーとして生まれ変わるわけだが、その時点で子供たちに関する情報をほとんど持っていないわけだから、身ごもったアミダラ姫とはそれより以前に別れていなくてはならない。一体どんなドラマを見せてくれるのか、興味は尽きない。このシリーズが映画史に残る傑作SFサガとなり得るか、はたまた前シリーズの遺産を食い潰しただけの凡作となり果てるかは、これから作られるエピソード3にすべてかかっていると言っていいだろう。たぶん脚本には、これまで以上に時間がかかるのではなかろうか。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 ところで、パルパティーンは今回もまだ正体を現さなかった。「ジェダイの復讐」ですでに皇帝パルパティーンとして登場しているのだから、彼が皇帝となることは明らかなのだが、ダース・シディアスは一体誰なのだろう。常識的にはパルパティーンその人ということになるのだろうが、それではあまりに当たり前すぎて、意外性に欠ける。案外全然違った人物だったら面白いのだが・・・。

 最後に、今回一番驚いたのは、ライトセーバーを持ったヨーダの強さ!!! あの戦い方にはマジでびっくりした。・・・


25)デューン砂の惑星/ジョン・ハリスン;2000年アメリカテレビ作品(6.15)

 2000年にアメリカのサイ・ファイ・チャンネルで放映されたTV版の「デューン 砂の惑星」である。デューンには、デビッド・リンチ監督作品「デューン 砂の惑星」のTVバージョン(スーパー・プレミアム版、アラン・スミシー監督名義)も存在するのでややこしいが、これはリンチ版とはまったく異なるリメイク版とでもいうべき作品。

 一巻95分程度の長さで全3巻なので、全長4時間半あまりという大長編なのだが、内容ははっきりいってリンチ版とそう大きな差はない。しいてあげれば、リンチ版ではほとんどナレーション担当で、出番はごくわずかしかなかったイルラン姫が、かなり大きな出番を与えられていたのが一番大きな違いであろうか。演じていたジュリー・コックスも、全体的に薄味な演技陣の中にあって、そこそこに光っていた。イルラン姫の扱いは、リンチ版の大きなウイークポイントのひとつだったので、今回出番が増えたのは喜ばしい限りである。また、原作にあってリンチ版からすっぽり抜け落ちていた惑星アラキスの生態学も、スパイスとサンドウォームとの関係など、簡単にではあるが一応ちゃんと説明していた。

 しかし、残念ながら評価できる点はほとんどその程度しかない。まず、レト・アトレイデス公爵を演じたウィリアム・ハートくらいしか知っている俳優が出ていない(と思ったら、皇帝シャダム4世はあのジャンカルロ・ジャンニーニであった!! 見たような顔だとは思ったが、全然方向性の違う人なので、気づかなかった)知らなくても、一発で覚えられるくらい個性的な俳優がいればまだいいのだが、主役であるポールを演じたアレック・ニューマンを始め、チェニ役のバーバラ・コデトワ、ジェシカ役のサスキア・リーブスなどなどそろいもそろって没個性的で、リンチ版の「濃すぎる」キャスティングに比べ非常に印象が薄い。いくら低予算のTV映画だとはいっても、もう少し何とかならなかったものだろうか。特に、リンチ版ではスティングが演じて強烈な個性を発揮していたフェイドはあまりに影が薄く、ラストの決闘シーンなどいかにも取って付けた感じになってしまった。

 演出もまた、いかにもテレビ的なメリハリの無さで、発端の第一巻やエンディングがある第三巻はまだしも、双方のつなぎとなる第二巻は、退屈以外の何物でもなかった。たしかに原作もだらだらと長くて、こんな雰囲気がなきにしもあらずであったが、なにも映像作品にまでそんな欠点を継承する必要はないのではないか。美術はリンチ版に準じて、アールデコ風の装飾に彩られていたが、TV映画なだけに、リンチ版では強烈だったフリーク趣味は、かなり押さえたものになっていた(冒頭に登場するギルドのナビゲーターは、フリークそのもののリンチ版に比べ、翼を持つ鳥人のように表現されていた)映像も、最近流行のビスタサイズで全編撮られているのだが、構図の取り方、セットの大きさなどいかにもテレビ的で、リンチ版の持っていた広がり感は微塵も感じられなかった。撮影監督はあのビットリオ・ストラーロということなのだが、にわかには信じられないほど凡庸な絵作りであった。

 リンチ版の時代と一番変わったのは、おそらくSFXのデジタル化であろうが、確かに部分的にはサンドウォームの登場シーンなどに生きているものの、全体的にはさほど効果を上げているとは言えなかった。いくつもの惑星を股にかけた話なのに、出てくるのは惑星アラキス=デューンの画像だけで、ポールの出生地である惑星カラダン、ハルコネン家の本拠地、惑星ギエディ・プライム、そして皇帝シャダム4世の宮殿がある惑星カイテインなど、一度も登場しなかった。おかげで映像的にはアラキスの地表でちまちま行われている小競り合い、という印象を免れない。この種の描写はごく低予算でいくらでもできるものだけに、なぜ他の惑星の描写が一度もなかったのか、ちょっとした謎である。ただ、登場する小型飛行機(ソプターと呼ばれていたが、原作版のオーニソプター、つまり羽ばたき飛行機の略であろう)の扱いだけは、リンチ版よりだいぶましになっていて、羽ばたきこそしないが、全体に虫のイメージで造形されており、原作のオーニソプターに近いイメージに仕上がっていた。

 総じて、せっかくの題材を凡庸な演出で凡作に終わらせてしまった印象の強い作品で、こんなものよりこちらとしては、リンチ版のデビッド・リンチ本人による完全版こそ観てみたいのだ。できればスタトレTMPのように、不出来なSFXを最新のデジタル処理でリメイクしてくれたら言うことはないのだが・・・


24)ハリー・ポッターと賢者の石/クリス・コロンバス;2001年イギリス・アメリカ合作映画(6.2)

 こういうベストセラー小説の映画化作品を観る場合、よく問題になるのが原作を読んでから観るか否か、ということである。僕など、あらゆる映像作品はいっさいの予備知識なしに観るべし、と確信している口なので、わざわざ原作を読んでから劇場に足を運ぶ人の気が知れないが、ま、映画鑑賞の方法は人それぞれなので、一概にああしろこうしろとは言えない。要は、面白く観られればそれでいいのだ。

 ただ言えることは、どういう話なのかまったく知らずに観るのと、小説であらかじめ筋を知った上で観るのとでは、おのずと目の付け所が違ってしまうのではなかろうか、ということだ。物語を知っていて観る場合は、あらかじめ読んでいた小説の内容を追体験することになり、演出や構成など、技術的な部分にどうしても目がいってしまうだろう。しかし、予備知識なく観た場合には、なにしろ初めて観る物語なのだから、予想のつかない展開に、ただただついて行くだけである。そうした見方こそが作り手側の意図したものだろうし、映画という「おいしい食事」をあまさず平らげる唯一の方法だと、少なくとも僕は思っている。

 もちろん僕は、原作を未読の状態でこの映画を(レンタルDVDで)観た。その感想は、良くも悪くもクリス・コロンバス作品だったな、ということに尽きる。デビュー作「ベビーシッター・アドベンチャー」から「ホーム・アローン」シリーズ、「ミセス・ダウト」そして「アンドリューNDR114」まで、彼の映画は一貫してファミリー指向が強い。そうした意味では、この映画化には最適の人材だとは思う。しかし、メッセージ性の希薄なところも残念ながらすべての作品に共通しており、本編も例外ではない。ひらたくいえば、「ああ面白かったな」で終わってしまい、あとに残る余韻が少ないのだ。ともあれ、小説を未読の観客には「お約束」をちょっと端折り過ぎかな、と思う部分もあることはあるが、あの大部をおおむね取りこぼすことなく2時間30分の時間内に納めた腕は、やはり確かだといわねばならない。

 しかし、ファンタジー作品特有の毒がかなり希薄になってしまっていることも、無視することは出来ない。これは原作が子供向けである、ということもあるだろうが、それにしてもこの物語、ストーリィ展開にいちいち切迫感がない。事件が全て魔法学校内で起こる出来事であるせいかも知れないが、どこか仕組まれたお話、といった感を免れないのだ。一応悪玉は登場し、彼が破滅することで物語は終わるのだが、主人公がそこに至るまでの流れが、ほとんど回りの人間たちによる誘導(たとえばハグリッドがときどき与えるあまりに判りやすいヒントとか)だし、だいたい校長から誰からみな、ハリーをほとんど依怙贔屓と思えるくらい厚遇するあたりも妙に気になる。いかにハリーには出生の秘密があり、将来大魔法使いになる素質があったとしても、あれでは逆に彼をスポイルしてしまうのではないか、と思えるくらいだ。魔法使いって競馬馬並みに「血統」ですべてが決まるの?と聞きたくなってしまう。

 主演のダニエル・ラドクリフは一目見て主人公だと判る顔立ちであり、キャスティングで映画の成功は約束されたようなものだろう。冒険をともにする同級生ロンを演じたルパート・グリントは、これまたいかにも「主人公の親友役」という顔をしており、おしゃまな優等生ハーマイオニー役のエマ・ワトソンも、個性的な顔立ちながらなかなか可愛く、5年後くらいの成長した姿を見てみたい。成長といえば、ハリー役のラドクリフが大きくなる前に、シリーズを撮り終える必要があるので(でないと、「ネバーエンディング・ストーリー」みたいな無様なことになってしまう)続編が引き続き撮られているそうだ。魔法学校から外の世界に出たハリーの活躍がいかなるものになるのか、ちょっと興味をそそられる。・・・


23)未知との遭遇/スティーブン・スピルバーグ;1977年アメリカ映画(5.18)

 ようやく「未知との遭遇」のDVDバージョンが発売されたので、さっそく観てみた。これは、'77年に公開されたオリジナル版とも、'80年に再公開された特別編とも違う決定版と言うふれこみだったが、実際に観てみると、ほぼ特別編の構成に準じていて、そこからマザーシップ内部のフッテージを除いたもの、と言えそうだ。

 細かくみるとそれ以外にも、たとえば主人公ロイがデビルズタワーのジオラマを作るシークエンスで、特別編では大幅にカットされていた、材料を調達する部分(植木を引っこ抜いたり、隣家のアヒルの池を囲うフェンスを強奪したりする部分)が追加されている。これはUFOに取り付かれたロイの執念を描くのに不可欠な場面だったので、短縮された特別編では描写が不十分になってしまったと批判されたりしたものだが、今回めでたく復活したわけだ。しかし、オリジナル版にはあって、個人的に気に入っていた電力会社内部のフッテージは全面的に削除されたままだった。ここは、社内におけるロイの立場を端的に示すシーンであり、必要不可欠とまでは言えないまでも、上映時間に制限のないDVD版では残してもよかったのでは、と思う。

 あと気づいたのは、ジリアン親子とロイが初めて出会った小型UFOとの遭遇シーンで、特別編で追加されていた、UFOがマクドナルドの看板にスポットライトを当てる場面がカットされていた。タイアップなのがあまりに露骨に判るからだろうか。もっともほかのマクドナルド登場シーンはちゃんと残っているが。

 映画本編については、あまりに有名な作品でもありさほど語ることはない。完成度、という観点からは他のスピルバーグ作品、たとえばアカデミー賞受賞作などに譲るかも知れないが、映画作家の熱意のようなものは、本編に一番色濃く出ていたのではないかと思う。同様のテーマの作品では後にE.T.が作られており、作品としての評価はこちらの方が高いようだが(総合的には僕も同感)個人的にはエイリアンを必要以上にペット化してしまったE.T.より、最後まで一抹の恐怖感を残したままだった本編の方にリアリティを感じる。ともあれ、政府当局者を含め、誰一人悪意を抱くものが登場しない、というあたりに、スピルバーグの理想を見せつけられた思いがした。・・・


22)タンポポ/伊丹 十三;1985年劇場公開作品(5.18)

 テレビ放送されたものをそのまま見たのだが、ノーカット放映であるし、プロジェクターをセッティングして観たので、まあビデオに準ずるものとしてこのコーナーで取り上げることにした。とは言っても頻繁に入るCMにはやはり閉口させられた。とにかく10分ごとに2分間ものインターバルを開けられては、映画のリズムもなにもあったものではない。やはり、基本的に映画というメディアはテレビ放映には向かないのではないか、という気がする。

 さて、映画本編であるが、あるひとが書いていた批判ともとれる文章が頭にあったので、やや偏った先入観を持っていたのだが、実際に観るとそんなこともなく、ごくニュートラルに「食」に関するあらゆる要素を盛り込んだ娯楽作品になっていた。その文章というのは、要するに「好きなものを食べるのにああしろこうしろ、と言われながら食べるのは楽しくない」と言うことなのだが、そのこと自体は至極もっともだけれども、この映画はけしてそのような「作法」を強制するものではない。おそらく冒頭の、運転助手ガンが読んでいる「ラーメン道」ともいうべき本の内容を映像化した部分でそんな印象を抱いたのだろうが、ここはその種の本のパロディとして描かれただけで、映画そのもののテーマとは関係ない。「作法」に関する部分は、ショートショート風の挿話で(この映画には本筋とは関係のない挿話が多く、伊丹のエスプリを感じさせてくれる)フランス料理のテーブルマナーを徹底的に茶化すところなどもあり、映画そのもののスタンスは全く逆ではないかと思う。

 食べる側はどう食べようと勝手なのだが、食べさせる側となると話はまったく違う。これはもうスポコンものの世界である。うまいスープを作る店の秘密を知るために、となりの骨董品屋の主人に金を払って厨房をこっそり覗かせてもらったり、涙ぐましい努力の連続である。基本的に「ものを創る」作業に関わる人々の努力と工夫を描いた話であって、たとえば「スープを飲み終わるまで丼を一度も置かせるな」という台詞は、客の側にではなく、店の側に向けたものなのだ。つまり、あまりにおいしくて、食べ終わるまで一度も丼を置けないようなものを作れ、と言っているのであって、テレビなどによく登場する、客の食べ方にまでいちいち口を挟む「わがままな店主」を奨励しているわけでは決してないのである。

 物語は、傾いたラーメン屋を経営する女主人たんぽぽのもとを訪れたトラック運転手ゴローとその助手のガンが、ひょんなことから店の再建に手を貸し、その道のエキスパートたちの力を借りて、立派なラーメン屋として再出発するのを見届けて去っていく、という、サクセスストーリィの王道を行く作品である。きわめてありがちなストーリィを補完するような形で前述のような挿話が配置され、陳腐化を防いでいるのだが、あまりに脈絡が無さ過ぎるのが難と言えば難かも・・・。

 いずれにしろやはりこの作品、いかにも伊丹らしいギャグセンスと構成の光るものになっているのだが、挿話に彩られた肝心のメインストーリィがやや予定調和的で、結末はこれでいいにしろ、もう少し波乱を持たせてもよかったのでは、という気もしないでもない。・・・


21)ダンジョン&ドラゴン/コートニー・ソロモン;2000年アメリカ・チェコ合作映画(4.23)

 またもや人気パソコンゲームの映画化作品である。下の「トゥームレイダー」とは違い、パソコンの黎明期、1974年から存在していた名作ロール・プレイング・ゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ」をもとに、60億円もの大金をかけて製作した大作映画なのだ。しかし、悪役プロフィオンを演じるジェレミー・アイアンズを除いては、有名俳優はまったく出ておらず、かかった予算のほとんどはSFXに費やされたものと思われる。ダンジョンとは地下の迷路のことだが、タイトルとは違って本編にはダンジョンはほとんど登場しない。もっともあの種のRPGでダンジョンがよく登場するのは、当時のパソコンに十分な描画能力が無く、背景の不要な洞窟内に舞台を絞らざるを得なかったからで、映画では別にそれにこだわる必要もないのだが(だいたいどこまで行ってもダンジョンばかりでは、観ている方が飽きる)その分ドラゴンの方はふんだんに登場して、ラストの襲撃シーンでは大迫力の集団空中戦を見せてくれる。

 物語はRPGによくある宝探しもので、主人公たちは、それを手にすれば戦闘能力の高いレッド・ドラゴンを操れるようになる杖を探し求めるのだが、その杖は肝心な時にプロフィオンの手に渡ってしまい、王女の操るゴールド・ドラゴン軍と空中戦を繰り広げることになる。これがデビュー作となる監督コートニー・ソロモンは、テンポを重視した演出を心がけたようだが、そのためか、せっかく撮影した状況説明やキャラクター紹介のシークエンスを大幅にカットしてしまい、結果としてかなり説明不足な作品になってしまった。たとえば、主人公リドリーとマリーナが地図の世界に入り込んでしまうところなど、物語のキーを握る重要なシーンなのだが、ほとんどカットされたために、意味不明な設定になってしまった。監督は「後のシーンで内容は説明しているので問題はない」などと言っていたが、その世界でキャラクターたちが体験するのと、あとになってキャラの口から語られるのではリアリティが全然違う。それ以外にも、たとえばエルフの戦士ノルダと、彼女に思いを寄せるリドリーの親友スネイルとの会話シーンや、プロフィオンの剣に肩を貫かれたリドリーが、エルフの村に運ばれるまでのシークエンスなども全て省略されており、結果として奥行きのない、ただチャラチャラするだけのせわしない作品になってしまった。いろいろ大人の事情はあるのだろうが、監督がインタビューで、カットされた重要なシーンについていちいち「将来ディレクターズ・カット版を出せたら、何とかしたいと思う」と語るようでは、封切り時に劇場に足を運んだ人たちの立場はどうなるのだろう。・・・


20)トゥームレイダー/サイモン・ウエスト;2001年アメリカ映画(4.23)

 人気パソコンゲームの映画化作品。といっても僕はやったことがないが、経験者の話によると、相当はまるアクションゲームだそうだ。ゲームに登場するララ・クロフトは見たことがあるが、少ないポリゴンで描かれているせいもあるにせよ、お世辞にも美人とは言えない東洋風の女性キャラであった。本編ではそのララにアカデミー賞女優、アンジェリーナ・ジョリーが体当たり演技で扮している。ふだん彼女が演じている、どちらかといえばシリアスな役に比べ、本編ではまさにとんだり跳ねたり、かなり危険な場面でもスタントマン無しで楽しそうに演じていた。あまりに楽しそうで、絶体絶命の時にも口元がゆるんでいるように見えたくらいだ。

 お話の設定はいかにもゲームらしく荒唐無稽で、女冒険家ララ・クロフトがフリーメーソン風の秘密結社イルミナーティと、5000年に一度、時空を超越できる力を人間にもたらす「聖なる三角」をめぐって争奪戦をおこなう、といったものだが、それはもうほとんど主人公ララを活躍させるための舞台に過ぎず、観客はただ頭を空っぽにして畳みかけるアクションを目で追えばいいのだ。と、少なくとも製作者は考えているのだろう。監督がいみじくもインタビューで語っているとおり、本編は007+インディ・ジョーンズの女性版として企画され、ほぼその通りの作品として仕上がっている。いや、ある意味彼ら以上に格闘能力は高く、一発も殴らせずに敵を倒してしまう彼女の強さはスティーブン・セガール並みである。脚本ははっきりいって矛盾だらけで、行き当たりばったりだが、監督サイモン・ウエストはその無理のある部分に観客が気づくいとまを与えず、とにかくテンポで見せてしまう。アンジェリーナ・ジョリーの運動神経はそんな監督の要求に十二分に応えていた。「マトリックス」の空中格闘ギミックをそのまま応用したようなバンジー・バレエのシーンや、カンボジア寺院内の「ハムナプトラ」風活劇シーンなど、どこかで見たようなものではありながら、それなりに見応えはあった。とにかくこの映画の魅力は、アンジェリーナ・ジョリーの動きの切れのよさにかかっていると言っていい。

 唯一の問題点と思えるところは、肝心のアクションシーンが、話が進むにつれてスケールアップするのではなく、逆にスケールダウンしていってしまうあたりだ。たとえばしつこい敵と一対一で戦うシークエンスは、結局冒頭の格闘ロボットとの訓練シーンに勝る場面はなかったし、数多くの敵と渡り合うシーンも、カンボジアの寺院で登場するCG製の石猿軍団やブラフマンとの戦いが一番見応えがあった。そこへ行くと肝心のラストシーンは、セットの規模のわりにはやや盛り上がりに欠ける印象を免れないのが残念だった。・・・


19)機動戦士ガンダム F91/富野 由悠季;1991年劇場公開作品(4.17)

 ↓の「0083」のOVAバージョンが発売されたのが1991年、一方この「F91」が劇場公開されたのが1991年の春だから、サンライズはほぼ同時期に二本のガンダム作品に取りかかっていたことになる。まさか戦力が二分されたから、というわけでもないだろうが、こちらの「F91」は監督・富野 由悠季、キャラクターデザイン・安彦 良和、メカニックデザイン・大河原 邦男という、往年のオリジナルスタッフを擁しながら、全体としてはどうもパッとしない作品になってしまった。

 基本設定はほとんど第一シリーズと同じで、ザビ家のパロディのようなロナ家という貴族が登場し、彼らの私兵としてクロスボーン・バンガードという強力な軍隊が攻撃を仕掛けてくる。主人公のシーブック・アノーは最初なにげない高校生として登場するが、実はガンダムF91のコンピューターシステムの開発者の息子であったりするのは、ほとんどアムロ・レイと同じである。一方、ヒロインにしてシーブックのガールフレンドであったセシリーは、実はロナ家の一人娘であり、強引にロナ家に連れ戻され、敵方のモビルスーツに搭乗して戦ったりする。シャア・アズナブルの妹であったセイラと重なる設定だ。ストーリィの展開もまたほぼ忠実に第一シリーズをなぞっており、乗組員が素人ばかりで構成された戦艦に難民たちとともに乗り組み、そこを起点に作戦行動をとるところなど、第一シリーズのホワイトベースそのものである。シーブックがF91に乗り込むきっかけも、アムロほどせっぱ詰まってではないが、まあ似たようなものだ。ただ、長さのせいもあるのだろうが、第一シリーズに比べて展開がいちいち小規模で、エピソードの処理も手慣れてきてはいるが、意外性に乏しく、シリーズをまったく観たことがなければ、あるいは感動を呼んだかも知れないラストシーンも、イマイチ楽しめなかった。

 唯一今まで観たガンダムシリーズとの相違点は、冒頭のバンガード襲撃シーンで、徹底して人間の目線からモビルスーツ戦を描いていることだ。人々の見守る目の前で、連邦軍モビルスーツが破壊され、破片が目の前に飛んできたり、空薬莢が難民の女性に当たり、死んでしまったりするくだりは、これまであまり見ることの無かったシーンだ(もっともいくらモビルスーツが巨大だといっても、せいぜい人間の10倍、空薬莢も同じく10倍だとすると、缶ジュースと同程度のサイズで=直径6〜10センチ、中味はもうないので、重さはせいぜい百グラム前後であろうか。たぶん頭に当たっても、痛いだろうが死ぬようなことはないと思う)しかしそんな斬新な描写も、シーブックがパイロットになる頃にはごく普通の描写に入れ替わってしまい、さほど長続きしなかったのが残念だ。また、些細な点ではあるが、舞台となるスペースコロニーがどれも回転しているようには見えなかったのもちょっと首をひねる。もちろん、内部の街では人々は、いかにも重力があるかのごとく振る舞っているのだから、当然回転しているはずである。以前の「逆襲のシャア」では、わざわざCGを導入してコロニーの回転を表現していたことを思うと、技術的には明らかに後退している。

 この二編を続けて観て気づいたのは、新しくなるほどモビルスーツのデザインから個性が失われていき、記憶に残らないものになっていく、ということだ。第一シリーズからZガンダム、ZZガンダムあたりまでは、敵味方に関わらず、なかなか面白いデザインのメカが多かったのだが、この頃になると、モビルスーツそのものよりも、デンドロビウムやラフレシアなど、モビルアーマー的なものの方にデザイナーの興味が移っているようだ。個人的には、せっかく大河原氏を起用したのだから、第一シリーズのような個性あふれるモビルスーツ群をデザインして欲しかったところだが、残念ながらカトキハジメ氏らがデザインした一連の新世代ガンダムたちと、ほとんど変わらぬテイストだった。もっとも、観客がいつガンダムワールドに入ってきたか、によって好きなモビルスーツのデザインも変わるようで、最近の人たちは「もっとも美しいガンダム」として、↓の0083に登場する一号機(GP01)を押すらしいし、それより「F91のほうがまとまっていていい」という人もいる。結局は主観の問題なのだろうが。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 結局シーブックはF91のパイロットとしてクロスボーン・バンガードと戦い、途中でふたたび彼らに合流したセシリーとともに、彼女の父にしてロナ家当主である鉄仮面を倒すことになるのだが、このあたりの流れも特に工夫は見られず、あまりに予定調和的に流れる。なぜか美形パイロットを揃えたクロスボーン・バンガードのエリート部隊は、後のテレビシリーズ化を意識したのか、ほとんど無傷で去っていくのだが、その後シリーズ化の動きもなかったために、結局使い捨てのキャラで終わってしまった。・・・


18)機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光/今西 隆志;1992年劇場公開作品(4.17)

 本編は「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」に続いて作られた、OVAシリーズ第二弾「機動戦士ガンダム0083」を再編集し、劇場用映画としてまとめたものである。0083という年代からも判るとおり、一年戦争終結から3年が経過し、戦後復興がようやく軌道に乗り始めた世界が舞台。ラグランジュポイントには破壊された宇宙戦艦やモビルスーツの破片が大量に浮遊し、そこにはジオン復興を密かに狙う勢力、デラーズ・フリートが潜んでいた、という設定で始まる物語は、なかなかよく練られてはいるのだが、やはり全13話もの分量を、わずか2時間の映画にまとめなければならなかったために、ところどころ話がうまくつながらなかったり、キャラクターの心理や彼らの関係がよくわからない(たとえばニナとアナベル・ガトーの再会シーンなど)場面が散見されたりしたのが残念だ。

 特に主人公、コウ・ウラキが軍から脱走するエピソードなどまずいつなぎの最たる例で、あんなものを挿入するくらいなら、もうすこしキャラクターたちの内面を掘り下げた描写が欲しかったところだ。あれでも映画としてまとめるために、約5分ほどの新作映像が追加されているそうだが、第一シリーズの映画版(特にII「哀・戦士」とIII「めぐりあい宇宙」)くらいまでとはいわないが、さらにあと少し新規に絵を起こして、映画としての体裁を整えるべきだった。

 すでにアクシズは存在し、止め絵だがワンカットだけハマーン・カーンも登場する。連邦との関係は、この時点では中立状態ではあるが、ジオン系の国家として後の関係悪化を予想させる描写はある。また、コロニー落としを通じて連邦軍内の急進派組織が次第に台頭してくるのだが、それこそがZガンダムにおいて一大勢力となるティターンズなのだ。このOVAはもちろんZ、ZZの放映が終わった後作られたものだが、それらと最初のガンダムの時代をつなぐ、ミッシングリンク的な発想で企画したのだろう。

 物語終盤のコロニー落とし「星の屑作戦」は、最初の「ブリティッシュ作戦」が今のところ設定のみに終わっているだけに、この手のテーマとしては初の映像化である(月面への落下はTV版「機動戦士Zガンダム」にも出て来るが、目標を外したうえに大気のない月面ではそもそも気候変動という影響はありえない。しかし、破壊されたコロニーの破片は容易に月の重力圏からの脱出速度に達すると思うので、おびただしい量のデブリがまたもや地球圏を彷徨うことになるのだが・・・)このあたりの演出はテレビ視聴用のOVAとしては異例の高密度な作画で、あの複雑なデンドロビウムも実によく動いていた。全体として、物語もなかなか良くできていたと思う。それだけに、映画としての構成のぬるさが気になってしまうのだ。・・・


17)ファイナル・ファンタジー/坂口 博信;2001年日本アメリカ合作映画(4.2)

 いろいろ毀誉褒貶の激しい作品ではあるが、虚心坦懐に鑑賞してみれば、どうということのない普通のSF映画、というのが第一の感想である。いかにもRPGのシナリオをもっぱら書いていた人間の作品らしく、ほとんどなんの説明もなく「八つのスピリット」を探す設定になっていたり(南総里見八犬伝か!?)物語の展開がいかにも「第一ステージ」「第二ステージ」というように、それこそRPG風に構成されていたりするあたりがちょっと笑えるが、このくらいのことは普通のSF映画でもよくあることだし、取り立ててひどい欠点とまでは言えない。

 では何がまずかったのかといわれれば、やはり背景から登場人物から、とにかく画面に登場するもの全部をCGで描いてしまったことだろう。ものすごい資金投資と、CGアニメーターの労力を費やしたことだろうが、CGでしか描けない大規模な舞台装置やファントムなどのモンスターはまだしも、登場人物のすべてまでもCGで描く必然性がどこにあったのか、観終わったあとも結局判らなかった。ヒロイン・アキの髪の毛のレンダリングなど、彼女の登場シーンほとんど全てでやらなければならなかったのだから、あれだけで数億円かかっているのではないか。そうまでして生身の人間に擬態する必要性がどこにあったのか。「シュレック」や「トイ・ストーリィ」のようにCGならではのキャラクターをクリエイトするのならまだしも、ただ単に技術力を誇示するためにCG人間を作り上げたのだとしたら、虚しい話である。キャラクターがリアルになればなるほどお金はかかり、逆にCGであることの意味は失われていく。もし、誰一人としてCGと気づかないキャラクターを完成させたとしても、それにどんな意味があるのか、作者は考えたことがあるのだろうか。生身の人間と見分けがつかないのなら、わざわざCGを使う意味はない。俳優を使って普通に撮ればいいのである。その方が、遙かにリアルな人間を描けるし(本物の人間を使うのだから当たり前だ)経費もずっと少なくて済む。

 技術的視点から見れば、大根役者にしか見えないCG人間はまだしも、モンスターやVTOL機などのSFガジェットは見事な出来で、近年のハリウッド製SF映画にまったく引けを取っていない。シナリオには多少の欠点はあるものの、それほどひどい話ではなかった(一部の人たちは、「ファイナル・ファンタジー」というRPGゲームタイトルにふさわしくない話だった、と抗議しているが、そもそも僕は「ファイナル・ファンタジー」なるゲームをやったことがなく、まったく思い入れもないのでタイトルなどどうでもいいのだ)しいていえば題材がやや観念的に過ぎ、もう少し即物的な展開を望むアメリカ人にはイマイチ受けなかったかも知れない。どちらかといえばこういう展開は日本人のメンタリティにふさわしいのかも知れないが、その割りに日本で受けなかったのは、なによりアメリカでの評判が影を投げかけていたのだろう。かつてに比べて今の日本の観客は、自らの鑑賞眼などまったく信頼してはおらず、人の評判ぱかり気にする。アメリカで受けなかったという事実が彼らの行動を左右するのだ。

 この映画の問題点はやはり、経営陣が、投資した金額を回収できるほどの大ヒットをマジで期待していた、というあたりにあるのだと思う。この作品を作るためにスクエアは巨額の投資を行い、ハワイに専用のスタジオを作った。そこには膨大な数のスーパー・コンピュータが設置され、鉄骨で床を補強しなければならなかったほどだそうだ。そんなこんなでかかった金額がしめて100億以上!! ふつうならその辺で「まてよ」と思うはずなのだが、数十億の金額をやりとりするのが当たり前のゲーム業界では、金銭感覚が凡人とは違うのかも知れない。とにかくそうやって出来た映画は、ごく普通のSF、投資金額のせいぜい1/10程度の興収を納められるかどうか、というシロモノであった。もちろんその程度の出来であっても、映画など撮るのは生まれて初めての人間が作ったのだから、常識的に考えればよくやったといえる。もしあの映画があの1/10の金額で完成してさえいれば、おそらくその評価は今とはかなり違ったものになっていたと思う。

 ところでこの映画、好きか嫌いかと聞かれれば、僕はけっこう好きな部類にはいる。キャラクター全てをCGで描くという行為そのものは、もうさして珍しくはないが、徹底してリアリズムにこだわるというドン・キホーテ的発想は、やはり常人には出来ない。ゲームバブルのあだ花といってしまえばそれまでだが、くだらないマネーゲームに浪費してしまうよりは遙かに生産的だったと思う。・・・


16)ブラックホーク・ダウン/リドリー・スコット;2001年アメリカ映画(3.30)

 現代戦、つまり低烈度戦争をきちんと描いた作品は、ひょっとしたら本編が初めてかも知れない。「アフリカの角」ソマリアについての映画自体、これまでなかっただろう。これは1993年実際に行われたアメリカ陸軍特殊部隊の、アイディード将軍排除のための作戦が失敗に終わる過程を史実に即して描いた作品である。

 監督リドリー・スコットにとっては「G.I.ジェーン」に続いて二本目となる戦争アクションものだが、前作を観ていない身としてはあまりはっきりしたことは言えないものの、ブーイングの嵐であったと伝えられる「G.I.ジェーン」と比べれば、かなり様になっていたと思う。とにかく戦場のリアリティ、という点においては、現在のところこれに匹敵するのはスピルバーグの「プライベート・ライアン」くらいしか思い浮かばない。そういえばこの作品でも、「プライベート・ライアン」で多用された速いシャッター速度の映像(動きが激しくてもぶれが少ない)が多用されていた。このテクニックを使うと、いかにも報道の現場写真という感じになって臨場感が増すのだ。

 冒頭、新兵のブラックバーン上等兵が配属されてくるところから物語は始まるのだが、このブラックバーン、どこかで見たような顔だと思ったら、「ロード・オブ・ザ・リング」で弓矢の得意なエルフ戦士、レゴラスを演じたオーランド・ブルームであった。彼を含む屈強なレンジャーとデルタ・フォースの隊員たちが、ブラックホーク(MH-60)とリトルバード(OH-6D)に分乗して空から、またハンヴィー(HMMWV=高機動軍用装輪車=大型のジープのような車両)をつらねて地上からアイディード派幹部の確保に向かう。エンドロールには使われた機体についてはっきりとは書かれていなかったが、まさか特殊部隊用の実機を貸し出すとも思えないので、おそらく民間用の機体を改造したのだろう。これが素晴らしくよく出来ていて、スチール写真で見ても実機と見分けがつかない(後にスコットが語ったところによると、この機体は国防省からレンタルした本物なのだそうだ)このヘリコプターの編隊飛行シーンは、明らかにコッポラの「地獄の黙示録」を意識した撮影と思われる。

 一方地上斑のハンヴィーは民間用も売っているので調達は楽だったと思う。こちらを率いるダニー中佐は、「プライベート・ライアン」や「パール・ハーバー」でも似たような役柄だったトム・サイズモアが演じている。今気がついたのだが、本編には彼だけではなく、主演のジョシュ・ハートネット始め「パール・ハーバー」組が大挙して出演している。製作が同じジェリー・ブラッカイマーだったからかも知れない。

 敵地上空で降下を試みようとした際、RPG-7の攻撃をよけてブラックホークは大きく傾き、ブラックバーン上等兵が地上に落下してしまう。それを救うためジョシュ演じるエヴァーズマン軍曹は予定外の降下をし、作戦は齟齬を来たす。やがて、当初想定していたより遙かに強力なアイディード派の抵抗にあって、兵士たちは次々に倒されていく。ブラックホーク・ヘリもテイルローターを壊され、墜落するのだが(だからこそこのタイトルなわけだ)この墜落シーン、実際のシーンもかくや、と思えるほどリアリティがあった。現場に非常に大きなクレーンを設置し、それに実物大のブラックホークの模型を吊って撮影したということだ。ここから作戦は当初の目的を外れ、ただひたすら敵地からの脱出を試みる展開となる。このあたりの描写は大量の弾薬を使った実戦さながらのものすごさで、アイディード派の戦死者1.000人という数字もあり得る話だ。兵士に扮した俳優たちは、それぞれ実際にレンジャーやデルタ・フォースの基地で訓練を受けたというだけあって、相互に援護しながら前進する時の身のこなしや、銃器の扱いなど、本物の兵士と見分けがつかない(実は実際にソマリアに行き、戦った本物の兵士もゲスト出演しているのだが、どれがそうだったのか、種明かしされるまで気づかなかった)

 とにかく監督リドリー・スコットはリアリティに一番こだわったそうで、普通ならちょっと考えられないような作戦の杜撰さ(戦力の逐次投入、装甲車両の不使用など)も実際の作戦そのままだそうだ。面白いのは、その作戦を基地にいて指揮する将軍(なんと、「ライトスタッフ」でチャック・イェーガーを演じたサム・シェパード)がつねに現場上空のスカウト・ヘリから送られてくる映像を見ている、という設定で、このあたりもいかにも現代戦、という雰囲気が伝わってくる。・・・


15)新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に/庵野 秀明・鶴巻 和哉;1997年劇場公開作品(3.27)

 で、その「エヴァンゲリオン」である。TV版も第一回から謎だらけの展開ではあったが、それでもまだドラマとしてのお約束は一応守っていた。基本的な設定はやはり「機動戦士ガンダム」へのオマージュであると思う。ひょんなことから自閉症的傾向を持つ主人公がロボット(ここでは「人造人間」)に搭乗し、秘めた才能を発揮するところなど、まるっきり同じだし、肝心なところでヒッキーになってしまうあたりも似ている。また、彼を囲んでセクシーな女性たちが存在するあたりも、シリーズが進むに従って女性キャラのウェイトが重くなっていったガンダムに通じるところがある。

 しかし、中盤あたりから人気のエスカレートとともに、難解さの度合いは増し、最終回に近くなってくるともう一般人には理解不能の世界に突入しつつあった。その最大の原因は、言うまでもなく「死海写本」などに代表される宗教(キリスト教、しかも異端)への過剰なほどのアプローチである。あらゆる物理、科学現象がここでは宗教的フィルターを通して語られることになる。たとえば、ネルフの地下にある巨大コンピューターの名は東方の三賢人から取っているし、だいたい彼らを狙って定期的に襲い来る外敵は「シト(使徒)」と呼ばれる謎の存在である。

 宗教がらみのSF作品はけっこう多い。その代表的なものは、フィリップ・K・ディックの「ヴァリス」であろう。この作品はとにかく難解で、洒落ではないが何回読んでも判らない。巻末の、各種宗教学の達人のようなお方が書いた解説を読んでも、まだよくわからない。宗教に深く踏み込んでしまった人の書く文章は、えてしてそういうものが多いようだ。

 エヴァンゲリオンの場合には、難解さにおいては「ヴァリス」をも上回る。ディックの場合は自然にそうなってしまったのだろうが、ここでは明らかに狙ってやっているわけで、これは今まで自分の作品を理解したつもりになってついてきた人間を、揶揄する意図があるのではなかろうか。あるいは、積み上げてきた「難解さ」のボルテージを今さら下げるわけにも行かず(すべての謎が種明かし的に明らかにされることを、この物語の信者は望んでいないと監督の庵野氏は判断したのかも)ああいうイマジネーションの洪水でごまかす結果になったのかも知れない。いずれにしろ、この作品においては論理的な「理解」を要求する方が無理というもので、アスカの最後の台詞「キモチわるい」についても、そこから何らかの意味を汲もうとしてもなにも出てこないのではあるまいか。しかし、そうした「理解」しようとする努力を放棄すれば、圧倒的な映像表現は、それなりに評価できるかも知れない。といっても、この程度→であるが。・・・


14)オネアミスの翼〜王立宇宙軍/山賀 博之;1987年劇場公開作品(3.27)

 「新世紀エヴァンゲリオン」で大ヒットを放ち、一躍メジャーの仲間入りをしたガイナックスが、まだゼネプロと二本立てだった時期に作った長編アニメである。一見してわかることは、とにかく徹底したこだわりだ。物語の舞台は地球とはまったく別の世界で(しかし登場するキャラクターはすべて地球人と見分けがつかない)服から建物から貨幣から言語から(ただし主人公たちの言葉は「吹き替え」という設定なのか、文字は見たこともない不思議なものなのに、話し言葉は日本語である)すべて一から作り直している。そのこだわり方は、ある意味井上直久氏の「イバラード」に通じる徹底ぶりで、神はディテールに宿る、という名台詞を地でいっているようだ。

 物語は、たいした理由もなく王立宇宙軍に入隊した主人公シロツグが、熱心に布教活動を行う少女と知り合い、突然やる気に目覚めて宇宙飛行士に立候補し、無事に宇宙に飛び出すまでの経緯を淡々と綴ったもの。少女の信じる宗教がやや具体性に欠けるのと、ロケットを組み立てる老人たちの人数と出来上がったロケットの規模とがミスマッチすぎるなど、気になる点がないでもなかったが、とにかく作画の圧倒的情報量と、シロツグの声を当てた森本レオのうまさもあって、なかなか感動させてくれる作品となった。

 物語の終盤、打ち上げ基地をめぐる戦闘のさなかにロケットは離昇していくのだが、その戦闘シーンの見事さは凡百の戦争アニメを軽く凌駕するものすごさで、この部分だけでも評価に値する。離昇していくロケットを見て戦闘は中断し、そのまま収束してしまうのだが、その離昇シーンにはそれだけの説得力があった。アポロ打ち上げの記録フィルムでよく見られる、機体に貼り付いた氷がパラパラ落ちていくシーンをここでも再現しているのだが、まだCGなどない頃なので、すべての破片を手描きで仕上げたそうだ。実際スペースシャトルの発射などを目撃した人の話によると、宇宙ロケットの打ち上げには一種宗教的なまでの崇高さがあるそうだが、本編のこのシーンはよくそうした「崇高さ」をよく表現し得ていたと思う。・・・


13)機動警察パトレイバーThe Movie/押井 守;1989年劇場公開作品(3.26)

 コミック、OVAそしてテレビ放映とマルチな展開をしていたパトレイバーが、その真打ちとして出してきたのがこのパトレイバー映画版だったと思う。特異な才能をもつアニメーター押井守氏が、そのカリスマ的人気を決定した作品でもある。

 作品の設定では、舞台となるのは20世紀末の東京。はっきりとは言っていないが、劇中出てきたカレンダーによると、1999年あたりであろう。実際の映画は1989年度作品なので、10年後の未来を描いた近未来SF作品と言うことになる。1989年と言えば、まだインターネット環境が出来ていない頃で、当然ながら本編にもその種の描写は出てこない。しかしながら、キーワードのひとつはOSであり、当時まだコンピューターなどさわったこともなかった僕など、設定の半分も理解できなかった。もちろん今ではこんなホームページを開くほどであるから、当時に比べればかなりわかるようにはなったが。そもそもネット環境が成立している世界なら、エホバの企みは遙かに簡単に成就してしまったことだろう。今時、ネット環境から完全に切り離されたコンピューターなどちょっと考えにくいからだ。

 もちろん、レイバーなどといった歩行する作業用ロボットは21世紀に突入した現在も実在してはいないが(このことは作品内でもある程度触れられてはいる。要するに身の丈8メートルもある巨人は都市環境にまったくなじまず、ちょっと動くだけでもあちこち破壊してしまう。存在しうる必然性自体がないのだ)世紀末あたりからホンダやソニーが矢継ぎ早に発表している二足歩行ロボットが、現実社会での彼らの代わりと言える。人が乗って歩き回るロボットこそ実現しないが、近い将来、自ら判断して動き回る自律型ロボットが登場してくるのは間違いない。

 未来予測に関しては、劇中遊馬たちが使っていたパソコンのディスプレイが、ちょうどこの物語の設定した1999年頃出始めた液晶ディスプレイによく似たデザインだったのが、先見の明を感じさせてくれた。当時発表されたばかりのMOとおぼしき光磁気ディスクも登場するが、篠原重工製のレイバー専用プログラムHOS(ハイパー・オペレーティング・システム)はディスケット(フロッピー)に入った状態で送付される、という設定だったのが時代を感じさせてくれる。パソコン関係以外でも、彼らの飲んでいた缶ジュースのプルトップが、今と違って完全に缶本体から分離してしまうタイプなのもやはり時代を表していた。ある程度ディテールをきちんと描き込むと、どうしてもこうしたことは免れないのだろう。

 事件そのものは、当時問題になり始めていたビル風と、黒川紀章あたりが提唱していた東京湾再開発のアイデアを組み合わせた設定なのだが、話としては面白いものの、よく考えてみれば各階それぞれに爆薬が仕掛けられ、そのすべてを落下させることのできる「箱船」の設定など、かなり無理があると言わざるを得ない。いかにもこういう話の展開のために用意された建物、という感じなのだ。

 本編観賞後、続編と言える機動警察パトレイバー2The Movieも観たが、それについてはすでにここで発言している。興味のある方はどうぞ。・・・


12)クラッシャー・ジョウ/安彦 良和;1983年劇場公開作品(3.26)

 二本目は、アニメーターにしてマンガ家でもあるマルチクリエイター安彦良和氏の監督による、日本製スペースオペラの傑作、「クラッシャー・ジョウ」1983年の作品である。最初のガンダムと、Zガンダムとの間に作った作品というわけだ。

 小説家高千穂遥氏の原作本でも挿絵を描いていた安彦氏のキャラクターデザインなので、当たり前の話だが違和感は全くない。キャラの動かし方も、最近流行りのリアルなものに比べるとかなりマンガっぽく、遊び心にあふれていて好感が持てる。特にアルフィンやマチュアといった女性キャラは、その線の柔らかさが最大限に発揮されており、魅力的だ。また、メカアクションでも↓の「マクロス」同様空中戦シーンを河森正治氏が担当しており、独特のオリジナリティあふれる空戦機動を見せてくれる。実際にあんな速さで旋回したら、中の人間は間違いなくG-ロックに見舞われているはずだが、アニメでそれを言ってもあまり意味はなかろう。

 物語は原作者の高千穂遥がシナリオを書いているだけに、やや長さは感じるものの、スペースオペラとしてはまず一級品である。ストーリィの展開もスピーディーで無理がないし、キャラクターの持ち味もよく生かしている。もちろんただそれだけではなく、親と子、政治家と犯罪者、軍と民間などなどさまざまな関係性を絶え間ないアクションにちりばめ、教科書的とすら思えるほどすっきりまとまっている。ただ、そのすっきり具合が逆に予定調和っぽく見えてしまい、物足りなさを覚えるのだから観客とはわがままなものだ。・・・


11)超時空要塞マクロス 愛・おぼえてますか/石黒 昇・河森 正治;1984年劇場公開作品(3.26)

 この日は何故か無性にアニメが観たくなって、なんと一日に六本もイッキ鑑賞してしまった。おかげで眼精疲労のせいか、翌日の今日は朝から頭が痛い。もう若くないのだから、体は大切にしなくては(~_~;)

 さて、その一本目がこの「超時空要塞マクロス」劇場版である。物語は一応テレビ版の設定に沿っているのだが、細かい部分ではいろいろと違っていて、ちょっとしたパラレルワールドもの、といった雰囲気だ。もちろん、敵であるゼントラーディー軍に地球を追われ、宇宙を放浪している、という設定は同じであるが。この映画が作られた1984年当時といえば、おニャン子クラブはじめアイドルブーム華やかなりし頃で、そういう時代的な流れと、スタジオぬえが一枚噛んだハードウェア設定とが微妙なシンクロを見せ、ある意味時代を象徴する一本となった。

 宇宙戦闘機と戦闘ロボット双方の形をとることのできる、VF-1バルキリーというメカニズムが、なんといってもこの作品の白眉であろう。このあたりはさすがぬえ、2000年代に入ってから発売されたこのVF-1のスケールモデル(戦闘機型)がベストセラーとなるなど、時代を超えた魅力を放つすぐれたデザインと言える。いうまでもなく、現実にこんな変形するデザインが可能か、とか、変形する意味があるのか、とかいった疑問は存在するのだが、この種の作品を楽しもうと思ったら、それを言ったらオシマイなのである。

 ところで、そうしたメカ設定とは別に、単にドラマとしてこの作品を観た場合にはちょっとご都合主義が気になるのも確かだ。主人公一条少尉の上官として、早瀬未沙というキャラクターが設定されているのだが、どうもこの人、軍人としての自覚が希薄で、簡単に部下の一条になびいてしまったりする。彼女とアイドル歌手、リン・ミンメイ、それに一条少尉との三角関係がストーリィの軸になるのだが、無理やり、といった印象は免れない。

 一方でゼントラーディー軍と人類、それにゼントラーディーの宿敵メルトランディーとの関係も、遺伝子工学といういかにもSF然とした設定が用意されているのだが、メルトランディー側の描写が不足しているために、あまり説得力がない。そのあたりは脚本でもある程度諦めているらしく、とりあえず「プロトカルチャー」のひとことで観客を説得してしまおうとする。この辺のばかばかしさは、おそらく確信犯ではないかと思われるが、こういう設定にでもしないとミンメイの出番は全くないわけで、仕方なしにひねり出した苦肉の策だったのかも知れない。もちろん逆に、まずこのシーンから発想されたドラマである可能性も捨てきれないが。

 にしても、ミンメイの歌う「愛・おぼえてますか」という曲が地球の古代遺跡から発見された、プロトカルチャーの流行歌であるという設定と、その歌の力で一部のゼントラーディー軍人が地球側に寝返り、戦争を終わらせてしまうという展開は、アイドル歌手と戦争、という一見接点のないアイテムを力業で結びつけようとしたのだろうが、結局は意あまって力足らず、という結果に終わってしまったようだ。・・・


10)エネミー・ライン/ジョン・ムーア;2001年アメリカ映画(3.13) 

 今回から、このコーナーに取り上げる作品をレンタルビデオに限ることなく、劇場で観たものもテレビで観たものも、およそ映画と呼ばれるものならすべてに広げることにした。そうでないと、劇場で観て外した作品はビデオを借りたりDVDを買ったりはしないので、結局そのまま取り上げずじまいになってしまうからだ。

 上記のような書き方をすれば、本編のポジションもおのずから明らかだろう。その通り、この映画は少なくとも僕にとって「外れ」であった。F/A-18Fスーパーホーネットが初めて登場し、本格的なレスキューミッションを描いた映画だというふれこみだったが、実際には凡百の戦争映画同様、結局はご都合主義と大音響だけの、火薬ファンタジーとでもいうべき作品だった。

 買えないポイントは数々あるが、まず第一に、「実戦が出来なくて面白くないので軍を辞めたい」という主人公のキャラ設定。実際にそういうパイロットがこの世に一人もいないかと問われれば、中には変わり者がいるかも知れないが、まずあり得ない設定だ。次に、せっかくボスニア・ヘルツェゴビナという微妙な場所を舞台に選んでいるのに、そのあたりの描写が一切無く、セルビア人をただの無法者のごとく描いていること。いくらまずい物を目撃されてしまったからといって、捕虜にしたパイロットをその場で射殺してしまっては、交渉材料にも出来ないし、画像を収録したディスクを回収することも困難になる。総じてこの映画に登場するセルビア人は、軍人というよりはギャング集団のようにしか見えない。そして第三に、これがもっとも重大な欠陥だと思うのだが、後半の展開があまりに一本調子で、話に面白みがない。ただ逃げ続ける主人公バーネットの描写だけでは間が持たないと思ったのか、ジーン・ハックマン演ずる航空群司令官レイガートと、NATO軍指揮官ピケとの葛藤が挟まれるのだが、それも結局ラストでレイガートが下す決断を、より重く見せる演出以上にはなっておらず、幾分蛇足気味である。

 けなしてばかりいてもつまらないので、少しは買えるところも取り上げておこう。実際に空母カール・ビンソン上で撮影された発艦シーンはさすがに迫力があり、「トップガン」よりは新しい世代の映画だな、と思い知らせてくれる。話の都合上スーパーホーネットが単座のE型ではなく、複座のF型なのだが、山間をぬって飛行する姿はなかなか美しい。虐殺現場の上空を飛行し、そこを撮影してしまったF/A-18は、ロシア製の対空ミサイルに追尾される羽目になるのだが、この対空ミサイル、速度はたいして速くないものの、すさまじい運動性でチャフやフレアにごまかされることもなく、着実にF/A-18を撃墜する。CGによるミサイルの描写は、ややオーバーではあるが、それなりにリアリティは備えており、滞空時間の長さを気にしなければ、よくできていたと思う。爆発はちょっと不自然だったが、その結果空中分解したF/A-18の機首部分は、パイロットが脱出した後にも原形をとどめたまま森に突っ込む。これは何かの伏線かと思っていたところ、結局最後まで出てこずじまいだった。セルビア側がのちに回収した機体のパーツの中にもなかったし、あれはどう使おうと思っていたのだろう。画像を収録したディスクは、全然別の場所にあったのだが、実際あんなところにあるとは思えないので(てゆーか、だいたいスーパーホーネットの偵察型はまだ存在しない)これもご都合主義の現れのひとつなのか、途中で脚本が変更されたのかも知れない。

 ところで、主人公を延々と追いつめるセルビア人コマンドだが、これとそっくり同じコスチュームの人物がサトウ・ユウ氏の「きまぐれ主義!」という単行本で紹介されている。ジャージ姿でカラシニコフを手にしたその男はシリア人コマンドなのだそうだが、あるいはキャラ設定の時、監督かプロデューサーが偶然サトウ氏と同じネタ本を見たのかも知れない。・・・


9)ダーク・クリスタル/ジム・ヘンソン&フランク・オズ;1982年アメリカ・イギリス合作映画(3.8)

 せっかくプロジェクターをセットしたので、何か、ここしばらく観ていなかった手持ちのディスクをみてみようと思い、ラックの奥から発見したのが「ダーク・クリスタル」の米国版レーザーディスクであった。そういえばこの作品、もう10年以上観ていないし、この「映画にひとこと」の欄にもアップされていなかったので、この機会にひとこと書いてみようと思う。偶然ではあるが、ごく最近DVD版も発売されたようで、古い作品ではあるものの、入手は比較的容易である。

 なにしろセサミ・ストリートの作者たちの手による作品であるから、言うまでもなくマペットを使った人形劇なのだが、舞台装置のスケールや、物語性など、旧来の「人形劇」のイメージからは大きく逸脱した映画になっている。この種の映画は、CG全盛の現代にあってはなかなか作りづらいことだろうが、CGにはない「手作り感」や、ぬくもりが画面から伝わってきて非常に心地よい。

 物語は、善と悪、二つの種族(ミスティック族とスケクシス族) が支配する、どことも知れない世界、いつとも知れない時代に、世界の終わりをもたらすと予言されたゲルフリン族の唯一の生き残りの少年、ジェンがたどる冒険物語である。クリスタルのかけらをクリスタル本体に戻すための旅を続ける、という設定は、当時世界的ブームを呼んでいた「指輪物語」にかなり近い。まだCG合成などの技術は存在せず、すべてオプチカルによる特殊撮影なのだが、それにしてはたいした破綻もなく、異世界を美しい映像で表現することに成功している。

 途中から旅の仲間として、ジェンと同じゲルフリンの生き残り、キラという可憐な女の子が登場するのだが、このキャラクター描写が秀逸で、声を当てている声優さんのうまさもあって、人形とは思えない生命感を宿していた。ふたりが崖っぷちで窮地に陥ったとき、突然キラはジェンを抱きかかえたまま、蝶のような翅を開いて飛びおりるのだが、「ぼくにはそんな翅なんかないよ」と不平を言うジェンに、「だってあなたは男の子だもの」と平然と答えるあたり、当時のフェミニズムをちょっとだけ意識した台詞なのかも知れない。キラにピッタリついてくる犬のような毛玉動物とか、森に住むさまざまなクリーチャーも、いかにもヘンソンやオズの作り出す世界の住人、といった感じで、作り手の愛情を感じさせてくれた。

 さまざまな冒険の後、ジェンとキラはクリスタルのあるスケクシスの城に潜入し、物語は大団円を迎えるわけだが、この辺についてはまだ未見の方もおられるだろうから、詳しくは書けない。ただ、なるほど、そういう話だったのか、と納得させてくれる作りにはなっている。劇場で初めて観たときには、けっこう感動したものだ。エンディングをすっかり知ってしまっている今となっては、せいぜいテクニックの善し悪しを見極めるような見方しかできないが、こういう段階に至ってしまった人でも、楽しめる展開にはなっている。大傑作とまでは行かないかも知れないが、やはり愛すべき小品、といったポジションは、確実に得られるのではあるまいか。・・・


8)A.I./スティーブン・スピルバーグ;2001年アメリカ映画(3.7)

 ふだんのスピルバーグ作品とはどこか肌合いが違うと思ったら、もともとこの企画はスタンリー・キューブリックが立てたもので、後に遺族がスピルバーグに監督を託したのだそうだ。本来はキューブリックが監督し、スピルバーグは製作に回るはずだったという。原作は英国のSF作家、ブライアン・W・オールディスの短編で、そういえばこの静謐な雰囲気は、あのイギリス・ニューウェーブ作家の味に近い。

 物語の概要は、すでにあちこちで触れられているのでここでは記さない。テーマとしては、昨年観た「アンドリューNDR114」によく似ている。いずれもロボットが家庭に入り、愛情を知り、いつか本物の人間になりたいと願うようになる、という話だ。物語のラストが強く死に結びついている点も、共通する要素だろう。

 ILMによるSFXはもはや完璧と言っていい出来で、物語の始まる近未来から、ラストの遠未来まで、現在とは違うさまざまな未来を説得力ある「絵」で表現している。特に、中盤登場するさまざまな壊れかけたロボットたちは、スタン・ウィンストンとデニス・ミューレンという「ジュラシック・パーク」以来のSFXマンが手がけており、みごとなフリークぶりを見せてくれる。また、三輪自動車やローターのないヘリコプター(海中まで飛行できる、究極のすぐれもの)から、ホログラムディスプレイを用いた未来のコンピューターといったメカ設定も、さりげないながらぬかりなくデザインされていた。

 問題点はさほどなく、よくできた物語だとは思うが、それにしては見終わったあと、エモーショナルな感動にやや乏しいような気がした。どうしてなのか、ちょっと考えてみたのだが、やはり結局はスピルバーグの演出手法の、いつもとの違いにとまどったようだ。ふだんのちょっと饒舌すぎるほどのダイアローグや、速いカット割りが今回はほとんど目につかず、むしろ全体にゆったりした、緩慢な展開に終始する。台詞も必要最小限度しか使われていない。上映時間の割には、物語の展開にさほどダイナミズムを感じられないのは、その演出法も影響しているのだろう。結果的にそれが成功しているか否かは議論の分かれるところだろうが、少なくとも、これまでのスピルバーグ印の作品を期待して劇場に足を運ぶと、肩すかしを食わされたと思うかも知れない。

 ところで、主演のハーレイ・ジョエル・オスメントくんは、映画が封切られた当時、この映画で苦労した点について、ロボットらしさを表現するために、カメラが回っている間はまったく瞬きしなかったと言っていた。余談だが、コミック版「新世紀日米大戦」の中で、僕もロボットを見やぶる手段として、「一分間瞬きをしない」ことを使っていた。原作にはないオリジナルのシチュエーションだったが、まだ小学生の男の子と同じ感性かと思うと、少し情けないと同時に、当代随一の子役と言われる少年と同じところに着目したのだから、少しは胸を張ってもいいのかも、と、なかなか複雑な心境である。

 それから、つい先日のことだが、新聞の学芸欄にこの映画の結末が、まったく関係ない題材のマクラとして公表されてしまっていた。まさかそんなことが書かれているとは予想もしていなかったので、不注意にも僕はその記事を読み、気づいたときには結末を知ってしまった。何度も繰り返すようだが、世の中にはその映画を観る意志があるのだが、様々な事情でまだ、という人も多いのである。多くの人の目に触れるものを作ったり書いたりする人は、その辺のことにもじゅうぶん留意して、仕事をしてもらいたいものだ。・・・


7)エノケンの孫悟空/山本 嘉次郎;1940年劇場公開作品(2.23)

 いまから15年以上昔、NHKで放送されたものを友人に録画してもらった(当時僕の住んでいたあたりは電波障害で、NHKはまともに映らなかった)テープが最近になって出てきたので、プロジェクターもセッティングしたままだったし、15年ぶりに再見した。

 この作品は、エノケン(榎本健一=戦前から戦後にかけて活躍した、日本の代表的喜劇人)主演の作品の中でも群を抜いて大がかりなものであり、全編で2時間半近くもある大作だ。物語は、天竺に有り難い教典をもらいに行く三蔵法師のお供に孫悟空、猪八戒、沙悟浄が同行して大冒険を繰り広げるというお馴染みのものだが、ミュージカル仕立ての楽しい冒険喜劇に仕上がっており、また、かの円谷英二も加わった特撮映像(もちろん初歩的なものではあるが)もふんだんにある。一人二役、瞬間移動、変身と、後の東映動画作品「西遊記」の元になったのではないかと思われるシーン満載である。映像処理が難しかったのか、金斗雲は登場せず、代わりに如意棒が当時の最新鋭戦闘機、96艦戦 (97戦?)もどきの飛行機に変身する。もちろん実物大よりはだいぶ小さく、小柄なエノケンはコクピットに入るが、猪八戒と沙悟浄は胴体に馬乗りになって飛ぶ。この時三人は必ずテーマソングを歌うのだが、子供ならたぶん一緒に口ずさんでしまいそうな、いかにも楽しげな歌であった。また、沙悟浄の台詞の中に「テレビジョン」という言葉が出てきてこれまたびっくり(三蔵法師の持っている「千里眼」という不思議な素通しの手鏡をさして言う)昭和15年の作品である。日本で本格的なテレビ放送が始まるのは、それから十数年後の話である。

 前半は孫悟空たちが三蔵法師のお供に加わり、天竺に向かう道中で次々に巡り会う妖怪変化を倒していく物語。「さるかに合戦」からの流れで、孫悟空の弱点が蟹である、というあたりが面白い。また、女性に暴力を振るったり妖術を使うことも厳禁されており、煩悩国の女王(実は金魚の化身)に三蔵法師がさらわれたときは、手も足も出せずに結局観音さまに救われる。後半は、金角銀角兄弟の呪いで犬の顔に変えられてしまった妖精の姫のために、彼らを倒すまでの物語がメインになっている。この妖精の国の描写がいかにも戦前の「お伽の国」というイメージで、秀逸である。妖精たちの踊りの場面では、なぜかディズニーの「星に願いを」や「ハイホー」が歌われる(著作権関係など、どうなっていたのだろう?)モノクロなのでちょっと暗い画面といった印象しかないが、もしカラーで撮られていたら、さぞかし美しいシーンであっただろう。

 金角銀角の秘密基地は、大谷石の採石場と思われる巨大な地下施設でロケーションされており、ちょっと不思議な、異国的な雰囲気を出すのに成功している。彼らはなんと、沢山のロボット兵士たちを操る悪の科学者だったのだ(しかも、どういうわけか雀の化身だったりする)コントロールルームには二人がけテーブルくらいの操作卓があって、金角銀角はそのスイッチを操作して、侵入してきた孫悟空たちを苦しめるわけだが、その操作盤の上半分は、巨大なテレビモニターになっているのだ。繰り返すが、日本のテレビ放送開始はそれから十数年後の話である。

 ここで沢山の殺生戒を犯した(と、金角から三蔵に告げ口された)孫悟空は三蔵法師から破門され、花果山に帰ってしまうが、三蔵法師の危急を知り、助太刀にもどる。命を救われた三蔵は悟空を許し、一行はめでたく天竺へとたどり着き任務を果たす。そして帰路の途中、再びお伽の国に立ち寄り、盛大なお祝いパーティが開かれてフィナーレとなる。まさに、戦前の日本映画の集大成といった感のある作品だ。全体にテンポがややまったりしているのは時代的に仕方がないが、エノケンのシャープな動きで結構見せてくれる。われわれの知っているエノケンは、すっかり年老いて体が動かなくなった後の姿であるが、戦前はあたかも軽業師のごとく、舞台を縦横無尽に駆け回っていたのだという。本編は、元気な頃のエノケンの片鱗をかいま見せてくれるというだけでも、貴重なものかも知れない。・・・


6)ドリヴン/レニー・ハーリン;2001年アメリカ・カナダ合作映画(2.22)

 レースものはなかなか名作になりづらい、というジンクスでもあるのだろうか、鬼才レニー・ハーリンをもってしても、アメリカン・カートを扱った本編は、彼の作品でも一、二を争う凡作となってしまった。シルべスター・スタローンによる脚本の凡庸さが一番の原因ではあるが、肝心のレースシーンが40年近く前の大作「グラン・プリ」にも劣る迫力の無さだったのが痛い。それにしても、「ロング・キス・グッドナイト」でアクション・ヒロインものに新境地を開き、「カットスロート・アイランド」では現代に海賊ものを蘇らせたあの手腕はどこへ行ってしまったのだろう。

 物語は、ほとんど引退状態だったかつての名レーサーが、スランプに陥った新人レーサーのパートナーとして復帰して彼を立ち直らせる、という使い古されたものだが、前述したように売り物のはずのレースシーンにまったくスピード感がなく、CGによるド派手なクラッシュシーンのみが浮いてしまった。素早いカット割りでスピード感を演出しようとしたのは判るが、昔の観客ならいざ知らず、今は実際のカートレース中継でもオンボードカメラの映像などありふれている。レース中にレーサーがどんな光景を見ているのか、みんな知っているのだ。たとえば、ストレートを時速400キロで疾走する時、ウォールやフェンスに描かれた看板のロゴはとても読めないが、本編ではしっかり読めてしまう(~_~;)もちろん撮影のためにレース本番より遙かに低速で走っているからだ。スピードの遅さをごまかすためか、オンボードカメラ映像(本番のビデオ映像ではなく、映画用の35ミリフィルムの映像)にはCGでモーションブラーを追加して「ドライバーの見た世界」を再現しようとしているのだが、まったく効果が上がっていない。せいぜい「二日酔いで視野が定まらないのかな」などとよけいな勘ぐりを観客にさせるだけである。映画の中盤で、カートが新車発表会場からそのまま市街地に走り出すシーンがあるのだが、マンホールの蓋を飛ばしたり、美女のスカートを旋風でまくり上げたりしてみても、その脇を走るカートが全然速く見えなかったので、わざとらしさだけが目立ってしまった。本来ならこういうところでこそCGを使うべきなのだが。

 定点カメラの横を2台のカートがすり抜ける、といったようなシーンでもあれば、少しはカートの尋常ではない速さを体感させることができたのかもしれないが、結局そんなシーンは一度もなく、多用されている中途半端なズーム画像とも相まって、とにかく車が速く見えない。ラストでゴールラインを駆け抜けるシーンでも、その寸前でわざわざ映像をスローダウンさせ、ラインを通過する順位をじっくり見せようとする。思わず「そりゃないだろ?」叫びそうになってしまった。どうもこの監督、この映画でスピードの持つカタルシスを描く、というつもりは端からなかったようだ。

 それにしても、いくら日本ロケだからといって、プールにあんなでかい日の丸を掲げることはないんじゃないかな。・・・


5)ジュラシック・パークIII/ジョー・ジョンストン;2001年アメリカ映画(2.13)

 この作品を映画館で、ロードショウ料金を払って観た人は、はたして満足して劇場をあとにしたのだろうか。少なくとも僕ならNOであったろう。監督のジョー・ジョンストンはけして人間を描けない監督ではなく、前作「遠い空の向こうに」では宇宙にあこがれる少年たちの思いを細やかな描写で描ききったし、「ロケッティア」や「ミクロ・キッズ」も、荒唐無稽な話ながら、的確なキャラクター描写で見せてくれた。

 しかし、今回ばかりは割り切ったのか、主要な5人のキャラクター描写も最低限で、途中恐竜に食われるサブキャラに至っては、名前すらほとんど判らない。おそらくその分を恐竜の絡むシークエンスに割り当てたのだろうが、それとて平板で、まるで出番を割り当てられたかのように、一定の時間をおいてかわるがわる登場するだけである。じらしの演出もなにもない。明らかに「ピーター・パン」をもじったと思われる、(恐竜に呑まれた)衛星携帯の着信音だけが笑わせてくれるが、本編の中でちょっとでも才気を感じさせてくれたのは、まるっきりそれだけなのである。話の展開は思い切りご都合主義だし、ラストに至っては、あんな結末が付けられるなら、そもそもこの物語自体が始まらなかったはずだ。

 こういう書き方をすると、「TOMはこの手の映画の見方を判っていない。こういう映画に望まれるのは、練りに練ったお話でも、的確なキャラクター描写でもなく、まず第一に観客をハラハラドキドキさせて、終幕まで一気に引っ張っていってくれるパワーなんだよ」という意見が聞こえてきそうだ。もちろんそういう意見は基本的に正しいと僕も思う。しかし、何事も程度問題である。この映画にはあまりにも物語れる部分が少な過ぎる。試しに誰かにストーリィを要約してきかせてみれば判る。400字詰め原稿用紙一枚分にもならないだろう。もうちょっと、三作目なら三作目なりの存在意義みたいなものを見せて欲しかった。たとえば「エイリアン3」にしろ「新・猿の惑星」にしろ「ジェダイの復讐」にしろ、ボンド映画なら「ゴールドフィンガー」にしろ、前二作とは違った主張が感じられた。残念ながらそういった「骨」は、少なくとも僕にはこの映画から感じることはできなかった。

 スピルバーグはどうしてこんな映画を作るつもりになったのだろう。少なくとも「ロストワールド・ジュラシックパーク」の時のような、映画作家としての創作意欲が作らせた映画とは思えない。もちろん「ロストワールド」が傑作映画だというつもりはないが、少なくともあの作品には「ジュラシック・パーク」の設定の帰結、という意味があった(なぜ原作にはなかった、サンディエゴの街をティラノサウルスが暴れ回るシーンを、スピルバーグは付け加えたのか、考えてみて欲しい)しかるに本編は、はっきり言って映画会社が必要とした夏の超大作、という以外に一片の存在意義も見つけられない。それを物語っているのが、93分という上映時間の短さである。映画会社はつねに上映時間の長さにこだわる。それはなにも、映画の芸術性とはなんの関係もなく、単に上映回数の問題だ。映画が短ければ、一日に上映できる回数が増え、収益率が上がる。ゆえに長すぎる作品ばかり撮りたがる監督は敬遠されるのだ。今回の作品が本当にそれだけの理由でこの上映時間になったのか否かは判らないが、まるでTVの「ナントカ洋画劇場」のために、ずたずたに切られた作品のような仕上がりから見ると、その可能性はかなり高そうに思われる。・・・


4)カウボーイ・ビバップ 天国の扉/渡辺 信一郎;2001年劇場公開作品(2.10)

 テレビシリーズの評価が高かったことから、映画バージョンもかなり期待されたようだが、少なくとも技術面に関する限り、テレビ版との大きな差はなかった。まあ、それだけテレビ版のクオリティが高かったということでもあるのだが。ただ、終盤登場するビンテージ機の動画だけはなぜかいただけなかった。その前後の、ソードフィッシュの空中戦がそこそこの出来だっただけに、なぜあんな下手糞なアニメが挟まれているのか、ちょっと納得できない(こちらには実在するソードフィッシュが登場)おそらくその部分は空中戦とは別のスタジオが手がけたのだろうが、それにしても・・・。お話はレギュラーメンバーが全員ビバップ号にいた頃なので、テレビシリーズ中盤あたりの設定だろうか。ちょっと長めではあるが、結局いつも通りの話、という感じだ。

 基本的にスパイクなど登場人物の設定に関わる部分は全くなく、本当にただのワン・エピソードに過ぎない。スパイクやフェイ、エドたちの背景に関わるエピソードは、シリーズ中で十分語られている、ということなのだろうか。物語の展開そのものは、いつも通りそつない感じではあるが、どういうわけか今回に限っては物語のバックグランドがやや杜撰であった。詳しくは、まだ未見の方もおられるだろうから書かないが、すべての事件の発端であり、さまざまな干渉を加えてきた「会社」が、物語のカタが付いたあと、何故だか登場しない。本来なら、ある意味諸悪の根元である彼らに対して、スパイクたちは何らかの落とし前を付けるべきだと思うのだが。そういえば、終盤にいたって突然軍が乱入し、ISSPの捜査に干渉したり、ソードフィッシュに空中戦を挑んできたりするのだが、そのあたりの必然性ももう少し強調して欲しかったところだ。バックに例の「会社」がいたのか、あるいは単なる官僚主義の結果なのか、映画を見ている限りでは、イマイチよく判らなかった。

“注意!! 以下ネタバレあり”

 また、ナノ・マシーンを兵器として使う、と言う発想そのものは悪くないにしろ、その使用法が結局、細菌兵器から一歩も出るものではなかったのも残念だ。せっかくその種の未来テクノロジーを登場させるなら、もっと斬新な、こちらが思いもつかないような使い方を考え出して欲しかった。それを期待できる、ほとんど唯一のスタッフが作っているアニメなのだから。・・・


3)クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲/原 恵一;2001年劇場公開作品(2.6)

 このシリーズ、このところかなり大人の観客を意識した(のではないかと思われる)作品が続いたが、今回はもうまったく大人向けのお話である。幼児向けのアニメシリーズと高をくくると、足元をさらわれる。まあ、もともと原作は「週刊漫画アクション」という青年誌に連載されていた作品なので、本来の姿に戻っただけなのかも知れないが。

 物語は、舞台となる春日部市にできた20世紀博というテーマパークに大人たちがはまってしまい、限りなくノスタルジックな世界に浸るようになる。やがて世界を懐かしい20世紀の世界に戻そうとする謎の組織「イエスタデイ・ワンスモア」により、大人たちは全員洗脳され、20世紀博へと連れ去られてしまう。残された子供たちは独力でなんとか大人たちを救い出そうとする・・・、といったものだが、冒頭に出てくる万博のセットとか、バックに流れる楽曲とか、三丁目の夕日みたいな町の風情など、かなり精密に70年代あたりを再現していて面白い。残った子供たちを狩り出そうとする組織と、彼らの手を逃れるしんのすけたちの追いかけっこでは、バスを乗っ取った(幼児がだ!!)彼らをなぜかスバル360軍団が追跡する。大量のスバル360が飛んだりはねたり転がったりする演出には、明らかに「ブルース・ブラザース」の影響が見られる。しかし追っ手から逃れるバスは何故か敵の本陣、20世紀博に突入してしまい、どうにか敵の手を逃れたしんのすけ、ひまわり、犬のシロだけが会場の中を逃げ回ることになる。

 物語の後半は、しんのすけたちの活躍により洗脳が解けたひろしとみさえの二人と協力して、組織の陰謀を阻止するという冒険ものになるのだが、このあたりもシリアスなテーマとギャグをうまくブレンドして、なかなか見せてくれる。シリーズには必ず出てくる高所恐怖症的描写も、今回は特に冴えていた。すったもんだのあげくどうにか黒幕を追いつめ、物語は大団円を迎えるのだが、そのあたりの演出も今回は憎いくらいで、ひょっとしたらシリーズ一番の傑作かも知れない、と思った。少なくとも、「メトロポリス」よりは遙かにプロの仕事と言える脚本であった。もちろん厳密に見ていけば、世の中には70年代にノスタルジーを覚えない世代の大人だっているし、大人全員が単にノスタルジーだけで洗脳されてしまうというのはいささか無理がある設定なのだが、何度も書いているようにそれは「見終わって初めて気づく」理屈であって、少なくとも鑑賞中には巧みな演出もあってそのことには気づかない。その猛烈なパワーこそが映画の持つエネルギーなのである。・・・


2)メトロポリス/りんたろう;2001年劇場公開作品(1.31)

 たぶんかなりの予算を費やしたのだろうが、たいして話題にも上らずひっそり公開され、そのまま追憶の彼方に消え去ってしまった作品。このほどビデオ化され、ようやく多くの人の目に触れることになったのだが・・・・。

 まず、良い点をつらつらと挙げてみよう。なにより驚いたのは、今時の日本アニメには珍しいフルアニメだということだ。あの宮崎アニメすらリミテッドに甘んじているのに、このご時世でフルアニメに挑戦するのは冒険を通り越して無謀であろう。もちろんそのために安い海外の労働力を活用してはいるのだが、おかげで作画の質が落ちるようなこともなく、いにしえの手塚キャラがまるでディズニー作品のごとくなめらかに動くさまは、やはりちょっと感動的だ。

 また、背景には3DCGが多用されているのだが、一部違和感のある部分があるにせよ、多くは丁寧な作画にうまく溶け込み、作品に独特のムードを醸し出すことに成功している。ただ、これはたぶん担当したスタジオの違いなのであろうが、場面によって質感表現に多少の食い違いがあったのが、やや気になった。

 かように、技術的にはほぼ満足のいく作品になっていたのだが、問題はやはり脚本であった。ひとことで言ってしまえば、つまらないのだ。登場人物にまったく感情移入が出来ない。キャラクターを動かす動機がいちいち見えないのだ。肝心のヒロイン、ティマのキャラクター自体、全然立っていないので、彼女の正体がなんであろうと観客の興味を引かないし、悲しい最期も涙を誘うなどと言うことはない。大友克洋という人、マンガ家時代から女性キャラが極端に下手だったが、この脚本でもどうやら欠点は直っていないようだ。ヒロインだけではなく、重要な脇役のはずのロックすら、なぜロボットを毛嫌いし、ティマの命を狙うのか本当の動機が見えてこない。レッド公によるクーデター劇に至っては、あまりに定石通りなので、なにか裏設定でもあるのでは、と疑ってしまったほどだ。SF設定もまったく設定のための設定という感じで、説得力がない。塔から発射された電磁波(?)が太陽黒点を増加させ、その結果ロボットが狂ってしまい、それを弾圧の口実にするという前半の見せ場も、ロボット刑事はじめ地下にいた連中が影響を受けないのはなぜなのか、説明がない(太陽の影響なので地下までは浸透しないのかもしれないが、それならそれで説明は必要だ)し、終盤の重要なキーワードである「椅子」がなんなのか、肝心のロックが知らないというのでは(知っていたら絶対に「レッドが座るべきだ」などとは思わないだろう)彼の立場があまりに弱すぎる。だいたいロックがいかなる感情を義父レッドに抱いていたのか、最後まで判らなかった。これでは上映当時、まったく話題にならずひっそりうち切られるのも当然だろう。

 その後、原作本を手に入れたので比較対照しながら読んでみたのだが、ごくおおざっぱには共通点があったものの、ほとんど別の物語になっていた。やはり映画のつまらなさは脚本家の責任と言えるだろう。もっとも原作も昭和20年代の初期作品なので、いろいろ荒削りな部分も多く、そのままでは映画化は無理だったと思うが(たとえば、太陽黒点の増加によってネズミが巨大化し、なぜかミッキーマウスの顔になって人を襲う場面など)それにしてもメインキャラの設定まで変えて(映画版のティマにあたるミッチィは男女どちらの形態もとれる人造人間という設定)話をつまらなくしてしまう権利は、いくら大友が巨匠であってもないと思うぞ。・・・


1)パール・ハーバー/マイケル・ベイ;2001年アメリカ映画(1.23)

 なにしろ日本が悪玉になっている映画なので、配給会社もどうやって客を呼ぶか、いろいろ苦労したようである。で、結局物語の縦糸をなす男女3人の恋物語を軸に、ロマンチック大作として売り出すという暴挙に出た。戦闘シーンの凄さは、どのみちそっち方面の雑誌などでたくさん取り上げられるだろう、という目論みもあったのだろうが、はたして成功したのか否か・・・。

 前作アルマゲドンでもそうだったが、この監督の作劇法はきわめて漫画的である。という言い方に語弊があれば、日本のコミックに似ている。見た目にいちいち派手で、どんなバカでも判るようなオーバーな表現に満ちている。これは人間の演技だけに限らず、CGによる戦闘機の飛ばし方にまでも及んでいる。戦闘機の画像自体は、すでに本物と見分けがつかないくらいの水準に至っているのだが、画面狭しと乱舞する戦闘機は、まるでアクロ飛行をしているかのごとく常に密集し、へたに射撃しようものなら破片が自機に当たってしまうくらいだ。実際、撃墜した敵機の破片が自機のすぐ脇をかすめる描写も何度かある。空中戦をしながら格納庫の間の通路をすり抜けるシーンでは、動きがどうのというより、大きさ自体が変である。ゼロ戦もP-40も自家用車くらいの大きさに見えるのだ。総じてCGによる飛行シーンは実機のものに比べて動きが機敏すぎ、ウソっぽかった。

 しかし、部分的にはCGによる特殊効果の未来を感じさせてくれるところももちろんある。たとえば、弾薬庫に被弾して派手な誘爆をする戦艦アリゾナは、ほとんどすべてCGで描かれているのだが、その爆発ぶりはたぶん実物もそうだったのではないかと思われるくらいリアルだったし、横転した戦艦オクラホマの甲板にしがみつく水兵たちの描写など、CGなくしてはとてつもない予算を必要とするだろう。また、99艦爆から投下された爆弾が、甲板に着弾するまでのプロセスを克明に追った映像も、CGでなければとても実現不可能である。

 なんだかんだいっても結局この映画の売りは、とてつもないスケールで再現された真珠湾攻撃の修羅場であり、史実の再現だろう。しかし、それにしてはなぜゼロ戦をわざわざ濃緑色で塗ったのか、理解に苦しむ。撮影にかり出された機体が52型だったということはあまり関係ないだろう。明灰白色に塗ったら、アメリカ側のP-40と色が似通ってしまい、見間違えるということもないし、零戦が緑だった理由は結局、監督の好み、ということで落ち着きそうだ。

 そんないい加減さは、ドゥーリトル隊のエピソードにも現れている。史実では、パールハーバーで日本機を迎撃した二機のP-40のパイロットはテーラーとウエルチという名であり、もちろんその後ドゥーリトル隊に加わったということもない。また、B-25ミッチェルは特に改造しなくても、空母からの発進は十分可能であり、機体改造は燃料タンクの追加が主であった。映画では全機編隊を組んで、どこかの軍事目標を爆撃することになっているのだが、実際には全16機がばらばらに攻撃目標へと向かい、中には名古屋や神戸を爆撃した機体もあった。それに、ほとんどの機体は中国大陸にたどり着けず、陸地に着陸、もしくは不時着できたのはわずか2機であったが、そのうちの1機はウラジオストックに着陸、1機は上海付近に不時着したので、映画のようなシチュエーションはあり得ない。

 まったく架空の話ならいざ知らず、史実を下敷きにした話ならば、破ってはならないお約束、といったものがあると僕は思う。もちろん、ある程度の脚色は許されるとは思うが、この作品の場合は限界をやや逸脱している、と言わざるをえない。そうしてまでも描かなければならないほど、素晴らしい物語ならまだしも、三角関係をうまく精算させるためのご都合主義的展開でしかないのだから、頭を抱えてしまうのだ。・・・


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