TOMさんの映画にひとこと'01

このページは日ごろ僕が書きためた、レンタルビデオ鑑賞日記です。

いちおう星取り表になっていますが、そのときの気分で付けたもので、あまり信頼性はありません。

@@警告!!ここから下はネタばらしになってしまうので、観ていない人は読まないこと!!@@

の下の文章は、カーソルで選択し、背景色を反転させれば読めるようになっています。

ただし、警告しているようにネタバレが含まれますので、映画観賞後まではお読みにならないようお願いします。

17.バーティカル・リミット/マーティン・キャンベル;2000年アメリカ映画(’01.11.26)

 冒頭のロッククライミングで遭難するシーンから、これまでの山岳映画ではみられなかった「高さ」の演出が新鮮だった。ここで主人公のピーターは妹アニーと自分を守るため、父と自分を結ぶザイルを切って辛くも助かり、そのことがトラウマとなって登山から遠ざかってしまうのだが、このあたりの設定は「クリフハンガー」とよく似ており、直接比較されるであろう作品と、同様なキャラクターを主人公に持ってくることには、若干の違和感を覚えてしまう。

 三年後、その妹は億万長者エリオット・ボーンたちのパーティに加わりK2にアタックするのだが、天候の急変についての忠告をボーンが無視したために、遭難してしまう。そして主人公ピーターを含む6人が救出に向かうわけだ。物語は22時間というタイムリミット内にいかにして救出作業を成功させるか描くわけだが、例によって雪崩などの自然の脅威が立ちはだかり、また、ボーンたち三人はクレバスに落ちていることが判っているので、それの破壊用にそれぞれがニトログリセリンを携帯しているという(って、つねに雪崩の危険がある場所に爆発物は普通持っていかないと思うが)山岳版「恐怖の報酬」の要素も加わって危機また危機の物語となっている。しかし、いくらパキスタンが途上国だとはいえ、今時液体のニトログリセリンを建築用に使っているとも思えず、この設定はちょっといただけない。意図があまりにミエミエなのである。さすがに007を撮った監督だけのことはある。

 実際にはニュージーランドのクック山脈で撮影したという山岳シーンはなかなかの迫力だったが、部分的に挿入されているスタジオ撮影のフッテージは何となく判ってしまう。特に、ボーンたちが落ちたクレバスの内部は、光源もないのに妙に薄明るかったりして、スタジオ撮影なのがバレバレである。だいたいあれほど寒いはずの場所で、息がまったく白く見えないのは変だろう。しかし、全体的にはけっこう説得力のある絵作りだったと思う。

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 物語は、ボーンの無茶な行動によって妻を失った登山家(スコット・グレンが好演)が登場して、結局彼が冒頭、ピーターがとる行動を再現してみせることで全体を貫くテーマを鈍い観客にも無理やり判らせるという、かなり力業の結末を迎える。こうすれば確かに映画のテーマは判りやすくなるが、おかげでそれぞれのキャラクターが必要以上に単純化され、特にビル・パクストン演じるボーンがただのわがまま野郎になってしまった。私見ではこのキャラクターをどう見せるかが、この映画が単なるガキ映画になってしまうか、山岳映画には珍しい名作として評価されるようになるかの分かれ道だったと思うが、結局は単なる薄っぺらい傲慢な金持ちで終わってしまった。このあたりがこの脚本の限界だったのだろう。

 ところでDVDバージョンには映画のメイキングビデオや、ナショナルジオグラフィック製作によるアメリカ人K2アタック隊のドキュメンタリーなどが収録されており、盛りだくさんの内容である。・・・


16.007ワールド・イズ・ノット・イナフ/マイケル・アプテッド;1999年イギリス・アメリカ合作映画(’01.11.25)

 ピアーズ・ブロスナン主演のボンド映画もこれで三作目、ロジャー・ムーアの時代に比べてやや渋めのボンドもようやく板についてきた感じだ。今回も例によって大がかりなアクション満載だが、前回アクションばかり目について、ドラマの展開があまりにご都合主義だったことへの反省か、今回は幾分ドラマ部分も補強した感じで、強引な展開はさほど目につかなかった。とはいえ、やはり見せ場をつなげるために無理してはめ込んだような設定が、全然気にならなかったと言えばウソになるが。たとえば今回登場するボンドカーはBMW-Z8なのだが、登場させた手前一応その機能を披露する場面はあるものの、実にあっけなく破壊されてしまう。脚本の流れから出番がほとんど無いのを無理してはめ込んだ感じなのだ。せっかく出したのだから、もう少し派手なカーチェイスとか、出番を用意してやったらよかったのに、と思うが、その手のシーンは冒頭のボート・チェイスで十分だと判断したのだろう。

 ご都合主義といえば、ロバート・カーライル演じる敵役レナードの設定が、頭に受けた銃弾のおかげで味覚や痛覚、触覚がない人間になっている、ということだが、これにどんな意味があったのか、結局よく判らなかった。それを強調するために、わざわざ焼けた石を拾って部下に握らせるシーンがあるのだが、その後登場した部下は手に包帯を巻いていたのに、レナードには火傷のあとすらなかった。もちろん痛覚がないからといって火傷をしないということはなく、部下より遙かに長い時間石を握っていたレナードが火傷をしなかったのは、奇妙である。また、ソフィー・マルソー演じるエレクトラとのベッドシーンもあるのだが、触覚がない人間がはたしてまともにセックスできるのかも大きな疑問だ。もっともそのあとレナードはかなりしょげていたので、うまくいかなかったのかも知れないが。

 今回のボンドガールはソフィー・マルソーとデニース・リチャーズだが、もはや大女優のマルソーは言うまでもなく、リチャーズの方も「スターシップ・トゥルーパーズ」や「ワイルド・シングス」などでヒロインをこなしている新進女優である。これまであまり知られていない新人女優を多く起用してきた本シリーズにしては、ちょっと珍しい配役である。配役と言えば、長年“Q”を演じてきたデスモンド・リューウェリンが撮影後交通事故で亡くなったのだが、今回は、まさかそれを予期したわけでもあるまいが、後任の“R”が紹介されている。この“R”を演じていたのがモンティ・パイソンで有名なジョン・クリースなのだ。たぶん次回作からは彼が“Q”を演じることになるのだろう。シリーズ中でも貴重なコメディ・リリーフだっただけに、まさに適役である。・・・


15.シザーハンズ/ティム・バートン;1990年アメリカ映画(’01.11.24)

 以前から友人たちに「おまえ向きだから観てみろよ」と薦められていた映画だったのだが、今回ようやくDVDバージョンを観ることが出来た。

 いつも通り、異形のものへの迫害が描かれるバートン作品らしい映画であるが、今回はジョニー・デップ扮する人造人間エドワードとウィノナ・ライダー扮するキムとの淡い恋を絡ませた一種のラブ・ファンタジーとして仕上がっていた。キムの母ペグにより、山の上のお城から連れられてきたエドワードは、その怪異な容貌にも関わらず街の人々から優しく迎えられる。この町というのが、パステルカラーの壁にパステルカラーの車と、ものすごく作り物っぽい不思議な街で、60年代風の車やファッションでいかにも昔っぽく作っているかというとそうでもなく、台詞の中にCDプレーヤーも出てくるし、エドワードが登場した番組をみて「録画しておけばよかった」と言う台詞が出てくることから、ビデオもある時代らしい。要するにティム・バートンの頭の中にしかない時代/世界なのだろう。

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 エドワードと街の人々との幸福な関係も長くは続かず、やがてけちな空き巣事件に巻き込まれたエドワードは人々からの信頼を失い、おさだまりの迫害にあうようになる。人々の態度が手のひらを返すように変わるあたりの描写はさすがにバートンで、彼を取り巻くおばさんたちや、義足の爺さんの態度の豹変でうまく表現している。迫害された彼は城へ戻り、そこでキムのボーイフレンド、ジム(この作品に登場する唯一の悪役)とのいさかいの結果、彼を殺してしまう。かくしてキムとの恋は悲恋に終わるわけだが、冒頭、語り手として登場する老婆が実は・・・というのはこの手の話の定石であり、エドワードが今も下界に降りてくる以前と同様に、植木の剪定などしながら暮らしている、というエンディングは、どことなく宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のそれを思わせる。いかにもティム・バートンの作品らしくまとまってはいたが、それほど感動に襲われるということはなかった。自分のスタイルが確立され、ややそれに流されてしまった感がなきにしもあらず、と言ったところだろうか。・・・


14.マーシヤル・ロー/エドワード・ズウィック;1998年アメリカ映画(’01.11.24)

 9月11日以前に観ていれば、なかなか説得力のある映画だな、と思ったかも知れないが、あの同時多発テロのあとではなんとも詰めの甘い作品にしか見えず、映画なんて所詮は絵空事なんだな、という認識しか得られなかった。映画の中のテロでも犠牲者は600人と、けして少なくはないのだが、現実はそれより一桁上の犠牲者を出してしまっている。偶然ながらこの映画の舞台もニューヨークで、何度となく貿易センタービルのツインタワーが写るのがいかにも皮肉に思えてしまった。

 映画の冒頭で米軍に拉致される「族長」は、その設定からしてビンラディンらしく思われるが、この映画が撮られる以前に彼は、貿易センタービル爆破事件やケニア、タンザニアの米大使館爆破事件で起訴されており、その経歴からしてCIAの援助を受けた後見放されたという、映画の設定とまったく同じである。この映画のように事前に彼を拉致しておけば良かった、と、軍関係者はきっと思ったことだろう。いや、殺しておくべきだと思ったかも知れない。

 肝心の映画そのものの出来だが、FBIの捜査官を演じるデンゼル・ワシントンの行動を追っているうちはまあいいが、アネット・ベニング扮するCIAの女スパイがからんできて物語がエスカレートするあたりから怪しくなり、ブルース・ウイリス演じる将軍が登場するあたりになると、そのあまりの無能ぶりに情けなくなってくる。おそらくノース中佐あたりをイメージしたキャラクターなのだろうが、戒厳令が敷かれたあとの彼の行動は馬鹿馬鹿しく説得力に欠け、しようもない展開になってしまう。これもまあ、現実の軍の行動を見ていたからそう思うのかも知れないが、それにしてもこの展開は、もう少し何とかならなかったのだろうか。これほど思い切った人種差別的行為が一介の軍人に可能とは思えず、ホワイトハウスサイドの描写がただ一人の大統領補佐官だけ、というのはいかにも不足しすぎだ。

 派手な自爆テロは話の上では何回か登場するが、実際の爆発シーンは冒頭のバスの爆発のみであり、ややパンチ力不足に思えた。劇場か、FBIビルどちらかの爆破シーンはやっぱり入れるべきだっただろう。アメリカに潜入した最後のテロリストは、大方の予想通りの人物なのだが、もうちょっと意表をつく設定でも良かったのではなかろうか。・・・


13.13デイズ/ロジャー・ドナルドソン;2000年アメリカ映画(’01.11.03)

 キューバ危機の頃僕は10歳で、当時の漠然とした不安感は今でもかすかに覚えている。本編はその渦中にいた人々の苦悩と決断を、豊富な資料を駆使して描いた超大作で、プロデューサーもかねるケビン・コスナー以外は本人に似た無名の俳優を多く起用し、ドキュメンタリー然とした迫力を出すことに成功している。特にロバート・ケネディを演じたスティーブン・カルプは、その雰囲気からしてほとんど本人と錯覚するほどよく似ていた。総じて淡々とした中にも重厚さを漂わせる演出で、あの凡作「ダンテズ・ピーク」や「スピーシーズ種の起源」を監督したのと同一人物の手になる作品とは思えない、一級のエンターテインメントとして仕上がっていた。

 当時の記憶では、海上封鎖を断行したケネディの勇気にフルシチョフが折れ、キューバに向かっていた輸送船団をUターンさせたところで危機は去ったと思っていたのだが、実際にはそれ以降の方が事態は深刻化していたのだと、本編を観て初めて判った。あえてアメリカ側からのみ描くことで、当時の手探りぶりを追体験できる構成になっており、旧ソ連のお家の事情に関しては、結局ほとんど触れることなく終わっている。実際にはその後もしばらくフルシチョフの時代は続くのだが、あの一件がタカ派の独走なのか、あるいはケネディ政権の実務能力を試すためにフルシチョフが仕掛けたブラフなのか、いまもってよく判らない。いずれにしろソ連側にとってもきわめて危ない橋だったはずで、いずれロシア側から真相を描いたドキュメンタリーやドラマが出てくるのを期待している。

 ところで、ホワイトハウスの内部で起きていることと連動して、キューバの上空や近海ではさまざまな軍事行動がくりひろげられるのだが、こちらの興味は、それがどの程度60年代初期の雰囲気を再現しているか、というあたりにある。冒頭に登場するU-2CはもちろんCGだが、ひと頃のそれと比べたらまさに雲泥の出来で、実機の記録映像とほとんど見分けがつかない。また、映画中盤に登場するクルセイダーも、素晴らしくよく出来たプロップだと思ったら、なんとフィリピン空軍が保管していた実物を借り受けてリペイントしたものなのだそうだ。偵察機型のRF-8のはずなのに、なぜ機銃が付いているのか疑問だったのだが、実機では仕方がない。もちろん飛行シーンはCG合成ではあるが、これもなかなか良くできていた。

 しかし、キューバ危機が始まった直後、デフコン3が宣言され、空軍機に対空ミサイルを積み込む場面で、その機体がなぜかF-5Aだったのには疑問が残る。もともとF-5Aは海外供与用の機体で、アメリカ空軍はベトナムで試験的に少数を使用しただけである。だいたい、初飛行は1964年なので、キューバ危機の頃はまだ原型機のN-156しか存在していなかった。このシーンはどうも記録フィルムをリフレッシュしたものではなく、新たに撮影したフッテージらしいので、もう少ししっかり考証してくれたら、と惜しまれる。

 それから、ラストのミッシングマン・フォーメーションなどに何度か登場したF-101とおぼしき機体も、あんな使い方が出来たほどメジャーな機体だったとは思えないのだが・・・。・・・


12.ギャラクシー・クエスト/ディーン・パリゾット;1999年アメリカ映画(’01.10.25)

 テレビのヒーローが実在の人物だと誤解され、本物のヒーローとして活躍することになってしまうという設定は、かつて何度も繰り返し作られた、いわば定番ものなのだが、本編はそれをなんと「スター・トレック」とトレッキーたちでやってしまった。もちろん「ギャラクシー・クエスト」という架空のシリーズ名にはなっているものの、誰がどう見てもスター・トレックだということは一目瞭然である。

 凶悪な宇宙の侵略者たちと長年にわたる戦いを繰り広げているタコ型宇宙人たちは、地球からの放送を傍受し、「ギャラクシー・クエスト」を実在の英雄の活躍を記録した歴史ドキュメンタリーだと思いこんでしまう。そして、テレビに登場するのとまったく同じ形の本物の宇宙船を作り、演じる役者たちを招待して敵の宇宙人と戦ってもらおうとする。よく考えれば、テレビで観たものが実物と信じ込んでいるなら、わざわざ宇宙船まで用意しなくてもよさそうなものだが、まあ、そのあたりが映画の「お約束」なのだろう。とにかく命がけの戦いに巻き込まれた俳優たちは、最初こそ逃げ腰だったがそのうちに自らの知力を尽くして戦うようになり、予想通りのエンディングを迎えるわけだ。こう書いてしまうと、よくあるパロディ作品みたいだが、この作品のすごいところはこの設定に大まじめに取り組み、本家スター・トレックに一歩も引けを取らない重厚なSFXで描ききったあたりである。製作はあのドリームワークス、したがってSFXも当然ながらILM、本格的なはずである。もちろんパロディとしての軽さは上滑りしない程度にちゃんとあって、俳優たちと彼らを取り巻くトレッキーの描き方も、皮肉交じりではあるがけっして突き放してはいない。こうした敬意と愛情が、本編を後味のいい一級の娯楽作品に仕上げている。

 それにしてもびっくりなのは、紅一点のマディソン中尉(を演じる女優グエン・デマーコ)を演じるシガニー・ウィーバーの若々しさである。あの「エイリアン」からすでに20年以上過ぎているのに、当時とほとんど変わらない。もちろん映画の中でも18年も前にうち切られたシリーズに出ていたうば桜という設定なのだが(「ギヤラクシー・クエスト」が架空の物語だ、ということを宇宙人に判らせるために言った台詞が、「13日の金曜日」のような、と字幕には書いてあるのだが、原語で言っていたのはGilligan's Island=邦題「ギリガン君SOS」という60年代のテレビシリーズで、あきらかに年齢を強調していた)とてもそうは見えない。う〜〜む、女優というのはやはり恐ろしい。

 あ、それからスタトレではスポックに相当するドクター・ラザルス(を演じるアレックス・ダーン)を演じたアラン・リックマンも、さりげなくシェークスピア俳優だったという実際の経歴を告白していたりして、いい味を出していた。・・・


11.カウボーイ・ビバップ/渡辺 信一郎;1998年テレビアニメ作品(’01.10.19)

 僕はよく知らなかったのだが、1998年頃、ひっそり放映されたアニメシリーズらしい。かねてからいろいろな方に勧められていたので、今回ようやくDVDバージョンを観せていただいた。製作はあのサンライズだが(バンダイビジュアルと共同製作)よくある巨大ロボットものではなく、いわば宇宙のバウンティー・ハンターの物語である。全体の雰囲気はSF版ルパン三世といった感じで、それぞれのエピソードの乾いたユーモア感覚は、いろいろな意味でルパン的だ。そういえば、オープニングタイトルもルパンシリーズを強く連想させるもので、これはもう確信犯だろう。

 製作にバンダイビジュアルが噛んでいることからも判るように、これは単にTV放映のためだけに製作された作品ではなく、むしろ後にソフトとして発売することに重きを置いて製作された作品である。おかげで製作費はテレビアニメとしては異例なほど潤沢であったと思われる。絵の密度、動画枚数、ふんだんに使われる3DCG背景などからもそのことはうかがえる。アニメ関係には疎いので、製作に関わった方々の過去の代表作などについてはよく知らないのだが、たぶんヒット作を連発していて、高額の制作費を投入してもペイするという確信がプロデュースする側にもあったのだろう。幸福な製作環境である。・・・


10.ジェニーの肖像/ウィリアム・ディターレ;1948年アメリカ映画(’01.8.17)

 ロバート・ネイサンのファンタジー小説「ジェニーの肖像」の完全映画化作品。当時脂の乗りきっていた「第三の男」ジョセフ・コットン主演の、不思議なムードを持ったラブ・ファンタジーである。もはや、古典的名作と言ってもいいだろう。

 物語はだいたいこんな感じだ。その日の暮らしすらままならない貧乏画家が、ある日不思議な少女と出会い、その魅力の虜になるが、少女はなぜか会うごとに成長し、初めて出会った頃はほんの女学生だったはずなのに、わずか数ヶ月の間に女子大を卒業する年齢になってしまう。しかも彼女はどうやらその画家にしか見えない存在らしいのだ。画家は彼女の残した新聞紙を手がかりに、その存在を確かめようとする。その結果、彼女は二人が巡り会う遙か以前に、海難事故で死んでいたことが判明する・・・。こう書くとよくある心霊ミステリーみたいだが、もちろんこの話はそんな方向には向かわず、ひたすら純粋で美しいラブ・ファンタジーとして展開していく。

 ヒロイン、ジェニーを演じるジェニファー・ジョーンズは製作者デビッド・O・セルズニックの妻で、この映画は彼女のために製作された、かなりプライベートな色彩の濃い作品だったらしい。そのせいか、彼女が登場するシーンはどれもきわめて注意深く、完璧に計算されて撮られており、彼女の美しさを余さずスクリーンに再現している。また、よく考えるとかなり不合理なストーリィも、コットンの演技力と、映画のためにさらに幻想的に編曲されたドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」や「亜麻色の髪の乙女」の醸し出す雰囲気によって、少なくとも観ている間はまったく気にならずにラストまで引っ張られてしまう。映画の醍醐味はまさにこれで、薄っぺらい理屈など押し流してしまうパワーこそ、他の芸術ジャンルのどれよりも映画が勝っている点だと思う。

 本編はほぼモノクロで撮られているが、ラスト近く、嵐のケープ・コッドの場面から画面が緑やアンバー系に調色され、ラストシーンで女学生たちが見つめるジェニーの肖像画のみがテクニカラーで撮影されている。このあたりも、モノクロ作品とカラー作品が混在していた当時ならではのテクニックである。・・・


9.スペース・カウボーイ/クリント・イーストウッド;2000年アメリカ映画(’01.8.16)

 この種の話をあまり大上段に振りかぶらず、しかも十分感動的に描くには、監督に並々ならぬ技量が必要だと思われるが、すでに職人監督としてキャリアを積んだイーストウッドらしく、そのあたりは実にそつなく仕上げている。物語は前半の、とうにNASAをリタイアしたロートルたちが、はたしてきびしい審査をパスして宇宙へ行けるかどうか、というドラマと、後半の、肝心の宇宙作業そのものを描くシークエンスが打ち上げを挟んで完全に分離してしまっているが、どちらかに重点が置かれているということはなく、両者を貫く伏線もいくつか用意されているおかげで、さほど不自然な感もなくつながっている。

 前半部分の年寄りたちの再訓練過程や、老眼や入れ歯などの年寄りネタの挟み方も巧みでキャラクターをよく出しており、説教の下手くそな神父役のジェームス・ガーナーの出番がやや少な目かな、と思う程度。NASAの全面協力によると思われる訓練設備の描写は、ハリウッドの底力を見せつけてくれる。

 一行が宇宙へ行ってからの展開は、ロシア人将校が重要な事実を隠しており、修理にいった通信衛星が実は・・・という予想通りのお話になるのだが、よく考えてみるとこの辺の筋立ては、僕が大昔に描いた「オーバーキル」という短編に似ていなくもない。特に、スペースシャトルで問題の起きた静止衛星に向かい、思わぬ形で問題を解決するあたりが・・・。あの作品を描いたのが10年以上も昔で本当によかった。

 しかし、宇宙空間なのにやたらと派手な爆発音や推進音が響き渡るのは、明らかな間違いなので何とかして欲しいところだ。「フロム・ジ・アース」にしろ「アポロ13」にしろ、お話自体はきわめてリアルなのに、なぜかお約束のように真空の宇宙空間に轟くロケット噴射音のおかげで、それまでの科学考証がすべて色あせて見えてしまう。このあたりの描写も、2001年はすごかった。・・・


8.Kino/佐藤 雅彦;1998年オリジナルビデオ作品(’01.7.24)

 いかにも佐藤雅彦らしい、ショートショート風の味わいのある短編集である。ヨーロッパということはわかるが、具体的に「どの国」とはわからないような、漠然としたヨーロッパを描いていて(実際に撮影したのはルーマニアなのだそうだ)話に普遍性を持たそうという工夫が見られる。

 映画は、おばさんたちが映画のポスターを刷っているシーンから始まり、出来上がった大きなポスターがポスター貼り職人たちによって町中に貼られ、それがアップになってそのままタイトルになる、というしゃれたオープニングだ。そこから五編のショートストーリィが次々に語られるわけだが、よくわかるものもあれば、イマイチ落ちが判別できないものもあった。総じて、ほのぼのとしてはいるが、鋭さのない、いってみればダルな落ちの話が多かったと思う。たとえば「オセロ」の話は、絶対もうひとり来るべきだったろう。

 映画の出来とは直接関係ないが、「おばあさんの天気予報」のラストに登場するバスは、この辺を走っているものよりさらに近代的というか、未来的ですらあった。話の雰囲気からすれば、ここに登場すべきなのはやはりボンネットバスだろう。ルーマニアには、もうその手の古い車両は残っていないのだろうか。

 それからちょっと気になったのは、映画の中盤にでてくるPointというショートストーリィで、ここだけがすべてCGアニメーションで作られており、前後の雰囲気とまったくつながっておらず、なんのためにこんなものを挿入したのか、その意図が判らなかった。・・・


7.ダイナソー/エリック・レイフトン&ラルフ・ゾンタッグ;2000年アメリカ映画(’01.7.6)

 ハワイやオーストラリア、カリフォルニアにデスバレーとさまざまな場所でとられた背景に、フルCGで描かれた恐竜を完璧に合成した画像はまさにお見事の一言。また、ふさふさした毛の一本一本がそよ風になびくキツネザルたちのCG描写もまた、恐竜に輪をかけて驚異的である。もちろん、主人公アラダーとサルたちが放浪の旅に出る契機となる、巨大隕石の落下シーンもまた、これまで観てきたどの映画に描写されたものよりリアルかつ大迫力であった。

 しかし問題は、やはり脚本であった。一言でいってあまりに一本調子で、予定調和的に話が進みすぎるのだ。これから観る人のためにあまりはっきりとは言えないが、とにかく、観客が思う方向へ話を進ませ過ぎる、つまりご都合主義が見えすぎる。わずか80分程度の話なので、それほど込み入った脚本は難しいのかも知れないが、同程度の長さにも関わらず、「トイ・ストーリィ」シリーズなどはるかに独創的な物語を紡ぎあげているわけだし、話の長さに面白さは直接関係ないとも思える。せっかくの題材なのだから、もう少しがんばって欲しかったというのが正直なところだ。・・・


6.アンドリューNDR114/クリス・コロンバス;1999年アメリカ映画(’01.6.11)

 「ホーム・アローン」や「ミセス・ダウト」など傑作コメディで名をはせたクリス・コロンバスと、怪優ロビン・ウィリアムズの組み合わせと来ればおおかたはお馴染みのコメディ作品を期待するだろうが、さにあらず、本編は渋い正統派SF映画であった。コメディ味はほとんどなく全体に淡々とした描写が続き、ロビン・ウィリアムズがかぶりものを脱ぎ捨てて素顔を表すのは、物語が中盤を過ぎてからである。見た目が人間になってからもロビンはいつもの怪演を押さえ、彼の作品としては異例なほど渋い演技を見せてくれる。

 観終わるまで気づかなかったのだが(なぜなら、原題は本編が終わってから出てくるのだ)この作品はアイザック・アシモフの短編「バイセンテニアル・マン」の映画化なのであった。そういえば一番最初に有名な「ロボット三原則」が、ワシントン・ポストのメロディに乗って華々しく登場していた。これはロボットテーマの巨匠、アシモフへのオマージュかと思ったが、ご当人の作品の映画化なのだから、出てきて当然なのであった。

 なにしろこのテーマに関しては、ほぼ一生を捧げて取り組んできた人の作品だけに、ロボットものの映画としては、その内容的な深みは類似作品を遙かに凌ぐ。もちろん映画のように、ロボットという機械が自我に目覚めたりすることが、現実にあり得るかどうかはわからない。アンドリューはスイッチを入れられた瞬間からかなり人間的で、機械のようには見えない。このあたりの展開は、映画だから仕方がないのかも知れないが、ややテンポが速すぎる。少なくともはじめのうちはもう少し機械らしく振る舞った方が、その後との対比も面白いと思うのだが。ロボットはC3-PO同様人間が中に入って演技するタイプであるが、ロビン・ウィリアムズの体型のおかげでやや太めになってしまっている。意識的にやったことなのだろうが、やっぱり中に人が入って演技しているようにしか見えないのはマイナスポイントだ。現代の技術なら、もっとずっと細身でエレガントなロボットも表現可能なのだから。細身のロボットにだんだん肉が付いて人間的になっていく方が、いかにも「かぶりものをとりました」的な本編のやり方よりリアルに見えたと思う。ところで、映画の設定では彼が起動したのは2005年ということになっている。今からわずか4年後である。たった4年の間にAIBOやASIMOがあんな自律行動をとれるようになるとはとても思えないが、これはおそらく原作の設定を尊重してのことだろう。

 もちろんこの映画の中に、さまざまなメタファーを読みとることはたやすい。たとえば、単なる人工労働力としてみられていたロボットがやがて自由を得、最終的に「人間」として認められるという流れは、ロボットをそのまま解放以前の黒人と解釈することもできる。しかし、職人監督コロンバスはさすがに、ともすれば説教くさくなる話を感動的な娯楽作品として仕上げた。それはたぶん、テーマを「人間とは何か」という一点に絞って最後まで貫いたおかげかも知れない。・・・


5.レッド・プラネット/アンソニー・ホフマン;2000年オーストラリア・アメリカ合作映画(’01.6.3)

 TVスポットなどを見ると、いかにも「新感覚SFムービー」といった感じだったが、実際に観てみると、正統派も正統派、これ以上ないほど「普通」なSF映画として仕上がっていた。この種の「宇宙開発映画」に往々にして見られるけれん味の不足は、キャリー・アン・モスやバル・キルマー(そして誰よりテレンス・スタンブ!!)といった達者な役者を起用したにもかかわらず、本編でもやや感じたが(特に巻頭でボーマン船長=キャリー・アン・モスの口を通して語られるそれぞれのキャラクター性が、結局それほど生かされずに終わってしまったのは残念)シチュエーションがあまりに難しすぎるために、それぞれのキャラクターは問題解決に精一杯で、人間味を発揮するゆとりもなかったようだ。

 もちろん正統派SF映画とはいっても、ミスがなかったわけではない。特に気になったのは、生物学者がDNAの四つの塩基を「AGTP」と呼ぶところだが、もちろんこれは「AGTC」が正しい。また、物語の後半で生存者たちを嵐が襲うシーンだが、嵐の正確なデータをボーマン船長が軌道上から把握できてしまうのはおかしいし(それなら軌道上から呼吸可能な酸素が存在することもわかったはずだ)その嵐の気圧が820ミリバール(字幕では「ヘクトパスカル」となっていたが、原語でははっきり「ミリバール」と言っていた)もあるのは、どう考えても変だ。もともとの火星の気圧は地球の1パーセント程度、テラフォーミングが進んだ当時においても、呼吸できることに驚いたキャラクターが「高山の上にいるようだが、何とか呼吸できる」と言っているくらいだから、低気圧が820ミリバールもあるはずがないのだ。

 SF映画には付き物のSFメカに関しては、なかなか見るべきもののある映画だった。まず登場人物たちを火星に運ぶマース1号は、これまでのこの種の映画には例がないほど洗練された、なかなか美しいデザインに仕上がっていた。あまり話題にはならなかったが、映画に登場した太陽系内を航行する宇宙船としては、十分ベスト10に入る資格があると思う。また、物語で重要なキーを握る「エイミー」も、ちょっとCGくさすぎたり、そもそもこうした軍用ロボットをなぜ学術探査に使ったのかという根本的な疑問は残るものの、まあよくできたメカ設定ではあったと思う。しかし、個人的に一番気に入ったのは、巻物のような携帯用ディスプレイ装置だ。見るときには筒状の物体からディスプレイ部分を引っぱり出して見るのだが、こういう超薄型ディスプレイは有機ディスプレイなど最新技術で実際研究途上にあり、この映画の設定した時代には、実現している可能性が高い。

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 結局火星には、人類が送り込んだ藻類よりも遙かに効率的にテラフォーミングを行える生物が存在していたという、かなりご都合主義的なエンディングになるのだが、一人生き残ったバル・キルマーがロシアの無人探査船に乗り込んで脱出するあたりは、いくら何でも無理があった。ロシア語のわからないはずのキルマーがどうして「バッテリー」という言葉を解したり、必要な燃料の分量を正確に計れたのかも謎だし、何とか軌道上にあがれたとしても、軌道の変更もなくマース1号とランデブーできる可能性はほぼゼロに近いはずだ。それにだいたい無人探査機なのに、一体誰が操作するために本体にCRT付きの操作盤がついていたのだろう。このあたり、何かもっと説得力のある設定を用意すべきだったと思う。・・・


4.マルコヴィッチの穴/スパイク・ジョーンズ;1999年アメリカ映画(’01.3.30)

 冒頭の操り人形の踊りのシーンからまず魅了されてしまう。魂のない人形とは思えない動きは、もし現実にいたならばおそらくいっこく堂並みの話題を呼ぶと思われるが、飛び込み前転など、どう考えても糸で操っているとは思えず、おそらく部分的にCGIも使っているのだろう(ところが、あとで知った話によるとこの部分はさる高名な人形師が担当しており、飛び込み前転などの部分もすべて実写なのだそうだ。信じられない話だが、もし本当ならぜひ一度、実物をこの目で見てみたいものだ)

 物語は、その穴をくぐれば誰でも15分間ジョン・マルコヴィッチになれる、という奇妙な穴をめぐるコメディともファンタジーともつかないストーリィなのだが、設定の奇妙さとは裏腹に、意外にもきちんとしたストーリィ運びの、いかにもハリウッドらしいわかりやすい映画だった。まったく売れない人形師シュワルツが、とあるビルの71/2階に存在する奇妙な会社に就職し、ひょんなことから「マルコヴィッチの穴」を発見することから物語は始まるのだが、彼をめぐるキャラクターの描写がなかなか秀逸で、一筋縄ではいかない展開が楽しい。その妻ロッテ役のキャメロン・ディアスは、中盤までほとんどアップがなく、顔のよく見えない髪型も相まってなかなか誰だかわからない。一方のヒロイン、マキシンがかなりクローズアップの多い儲け役なのに比べ、ちょっと気の毒だった。儲け役と言えば、マルコヴィッチの友人役で登場するチャーリー・シーンがなかなかお茶目で笑わせてくれる。ラストシーンで七年後のチャーリーを演じるのだが、ここでなんと彼は禿げヅラをかぶって老け役を演じているのだ。いくら何でもたった七年であそこまで禿げるとは思えないのだが、一体誰があんなキャラ設定を考えたのだろう。

 結局穴の存在は偶然ではなく、いかにもファンタジーといった設定が用意されているのだが、このあたりに作者の並々ならぬ才気を感じることができる。蛇足ながら、エンドクレジットのバックに流れる音楽は「ローズマリーの赤ちゃん」を思わせる不気味な曲なのだが、考えてみるとこの物語の設定そのものが「ローズマリーの赤ちゃん」に似ていないと言えないこともなく、あるいは一種のオマージュなのかも知れない。・・・


3.U−571/ジョナサン・モストー;2000年アメリカ映画(’01.3.8)

 一言で言ってしまえば、凡庸な戦争映画だった。もちろん現代の作品であるから、たとえば潜水艦同士の戦闘の描写など、デジタル処理を駆使して可能な限りリアルに描写してはいるのだが、その緊張感の描写も、ペーターゼンの「Uボート」には遠く及ばないし、何より設定の不自然さがすべてをぶち壊している。エニグマをめぐるUボートと連合軍特殊部隊の戦いが、現実に何度か起こっていることはエンドロールでも触れられている。しかし、この話はそれらとは関係なく、まったくのフィクションである。しかし、たとえフィクションだとしても、もう少し説得力のある設定を考えられなかったものか。

 作戦そのものは、漂流中の敵Uボートから暗号解読器エニグマを秘密裏に奪取するという、それなりにあり得る話なのだが、何故だかそれを特殊部隊ではなく、副長始め現役の潜水艦乗組員に任せるあたりがすでにムチャクチャだ。どう考えてもこれはプロでなければこなせない任務であり、なぜわざわざそんな任務に素人同然の潜水艦乗組員を就かせたのか、説得力のある説明はなかった。言うまでもなくこれは、その後乗ってきた潜水艦が撃沈され、乗っ取ったUボートを使って任務を続行するためとしか思えないのだが(いくら何でも特殊部隊の隊員にUボートは動かせない)ということはつまり、この人選は最初から「アメリカ兵がエニグマをUボートごと乗っ取って来る」ことを想定していたことになってしまう。もちろんよほどの理由がない限りそんな無茶はしないから、単にこの部分は脚本の不備と考えるしかない。僕なら、任務はちゃんとした特殊部隊のメンバーに任せて、彼らが制圧したUボートの乗組員を使って繰艦させる物語にするか(話としては、そっちの方がずっと面白くなりそうだ)せめて、沈没しかけた自分の艦から脱出した乗組員達が、命からがらやっとUボートにたどり着き、そこから話を続けるかすると思う。

 物語の縦糸はそんなところだが、さすがにそれだけでは間が持たないと思ったのか、主人公タイラー副長の指揮官としての成長が横糸として語られる。しかしこれはいかにも取って付けたようなサブテーマで、奪取したUボートで艦長として指揮を執るようになってから物語の終わりまでわずか一時間足らずでは、彼の成長は単に部下を見殺しに出来るようになっただけ、としか観客に理解されなくてもやむを得まい。・・・


2.スリーピー・ホロウ/ティム・バートン;1999年アメリカ映画(’01.2.4)

 ティム・バートンの作品を見るのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。いずれにしろ、今回もまた、ティム・バートン節爆発の映画であった。

 物語の舞台は18世紀末、ニューヨークにほど近いスリーピー・ホロウという名のちいさな村。そこで起こった連続首狩り殺人事件の調査に赴いた、イカボット・クレーンという奇妙な名の男が主人公である。イカボットはそれまで自白中心であった犯罪捜査に、科学的な見地からの証拠主義を持ち込もうとした理性的な男なのだが(その理由というのが、けっこうすごい)その彼が持ち前の分析能力で殺人のトリックを次々と暴き、真犯人を見つける話かというと、さにあらず、首のない騎士は実在し(クリストファー・ウォーケンが怪演)イカボットはほとんど彼から逃げ回るだけである。もちろん遺産相続をめぐる陰謀は存在し、それなりに動機のある犯人も登場するのだが、なにしろ首なし騎士の印象が強すぎるために、結局はいかにもティム・バートン流のホラー作品として出来上がってしまった。

 もちろん、ホラー作品としてはそこそこの出来だし、首なし騎士を不自然でなく登場させるために必要なデジタル合成技術も、現在ではほぼ完成の域にあるために、映像の迫真度はピカイチであった。なにより舞台美術が素晴らしく、くすんだ色彩設計といい、家の中の調度品といい、見事の一言だった。

 これには原作が存在し、僕も学生時代に読んでいたのだが(アービングの「スケッチブック」という短編集)あまりに昔の話だったためほとんど失念していた。そういえば、同じ原作をディズニーもアニメ化し、たしかグーフィーが主役を演じていたはずだが、こちらもかなり昔の記憶ゆえ、ディテールまでは語ることができない。しかし、ディズニーのアニメのなかでもかなり怖い作品だったのは確かなようだ。

 ところで、映画の巻頭であっさり殺されてしまうギャレット家の当主、ピーター・ヴァン・ギャレットだが、誰がどう見てもマーチン・ランドーである。同じように冒頭、イカボットをスリーピー・ホロウへ飛ばす市長の役でほんのちょっと登場していたクリストファー・リーはちゃんとクレジットされているのに、どういうわけでマーチンはどこにも名前が載っていないのだろう。「エド・ウッド」つながりによる友情出演といったところなのだろうか。・・・


1.グラディエーター/リドリー・スコット;2000年アメリカ映画(’01.1.28)

 今年一本目のビデオは、リドリー・スコットの「グラディエーター」。とは言ってもイギリスの古い複葉機ではなく、ローマ帝国の闘士のことである。そう、この映画は、ハリウッドが久方ぶりに作ったローマ史劇なのだ。ローマ史劇といえば、かつては「ベン・ハー」や「クレオパトラ」など、超大作が綺羅星のごとくに作られたものだが、ここ何十年か、すっかり省みられなくなってしまったジャンルであった。言うまでもなく、セットに膨大な予算がかかり、それでなくても高い大スターのギャラに予算が食われる昨今、この種の映画を作ろうという試み自体、なかなか日の目を見ない時代になってしまったのだろう。

 そういったいわゆる「エピック」が、なぜ今になって作られたかといえば、やはりCG合成技術の劇的な進化により、かつてほどの予算をかけずとも壮大なスケールの仮想セットが組めるようになったのと、メル・ギブソンの「ブレイブハート」がオスカーを獲得したように、スケールの大きな史劇がふたたび脚光を浴びるようになってきている、という時代の流れも関係しているのだろう。

 で、本編だが、さすがに才人リドリー・スコットの手になるだけに、まずは大きな破綻のない作品に仕上がっている。主人公マクシマスを演じたラッセル・クロウは、小柄な体躯なのだがそれをあまり感じさせないスケールの大きな演技で、このエピックを十分に支えているし、敵役の皇帝コモデウスを演じたホアキン・フェニックスも、コモデウスの神経質でひ弱な面と、酷薄な面とを巧みに表現していた。皇帝の姉ルシーラを演じたコニー・ニールセンは、ほとんどなじみのない女優さんだが、いかにもスコットのお眼鏡にかないそうな凛とした美女であった。

 映画としての全体の作りは、すでに巨匠の領域に入ったスコットの作品らしく、まったく無駄がなくかつ何よりわかりやすい演出で、どんな人が観てもちゃんとお話が理解できるように作られている。また、映像派としてのこだわりも健在で、ところどころ挿入されるイメージショット(マクシマスの手が麦畑の穂先をなでるショット)など実に効果的に使われている。コロシアムを始め、CG映像もさりげなくではあるがふんだんに使われており、このあたりはいかにも現代の作品だ。

 不満な点は、ほとんど無いが皆無というわけではない。まず筆頭にあげられるのは、本物の虎を使ったデジタル合成がいまいちしっくり行っていなかったあたりだ。ほかの部分はCGと実写とがしっくりなじんでいたのに、なぜかここだけはなんとなく不自然で、カット割りにも違和感があってなじめなかった。この部分だけならもっとましな動物映画はいくらでも思いつく。

 もう一つは、やはり最後のクライマックス、皇帝コモデウスとの決闘シーンであろう。皇帝としては、自分より人気があり、また格闘能力も勝っているマクシマスに勝つ手段はただ一つ、公衆の面前で正々堂々(と見えるように)戦って倒す以外にないと悟ったからこそああした賭けに出たのだろう。それはそれでわかるのだが、やはり迫力という面では、冒頭の合戦シーンには遙かに及ばず、なんだか竜頭蛇尾の見本のような終わり方になってしまった。同じ格闘シーンでも、あそこはもう少し何か工夫をして、観客をぐいぐい引き込むだけの迫力を見せて欲しかった。そんなわけで、今回の評価は・・・


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