朝鮮戦争当時、さかんに作られた国策映画の一本。対地攻撃に向かうF9Fパンサーの活躍を淡々と追う話で、人間関係の描写も少しはあるが、基本的にF9Fの格好いい姿を存分に見せ、リクルート活動に利用しようという意図が見え見えの作品である。しかしながら、血沸き肉踊るような戦いとは間違っても言えない。戦闘機同士の空中戦があるわけでもなく、喪失する機体はすべて高射砲による損害である。ただ敵の上空に侵入し、列車に機銃掃射を加えたり、爆弾やロケット弾攻撃を行うだけのルーティーンワークをえんえんと見せて、はたして軍が期待するようなリクルート効果が本当に得られるのか、はなはだ疑問である。
映画としての出来は、正直言って後のベトナム戦争などを扱ったものより明らかに落ちる。筋立ては単純で、登場人物たちも深く物事を考えたりはしない。一番の関心事が、地上何フィートまで降下できるか、度胸試しをすることだったりする。しかしながら、特撮を一切廃し、すべてを実写で映し出す映像は、なかなかの迫力だ。もちろん、ベイルアウトやハードランディングの瞬間に乗機の機種が替わったりする事はあったし、コクピット内部のパイロットをアップで撮るときはさすがにスクリーン・プロセスを使っているが、それを補ってあまりあるほど実機映像が豊富で、当時の航空母艦の様子がかなりよくわかる。
ところでこの映画、実は小学生時代に劇場で観ているのだが、ストーリィの大筋は覚えていたものの、情に訴える部分、たとえば事故死してしまったパイロットの家族からクリスマスを祝う、今で言うビデオメールのようなもの(トーキーの16ミリフィルム?)が送られてきて、それをパイロットたち全員で見る、というようなシーンはきれいさっぱり忘れていた。昔から僕はこの種の「泣ける」シーンが苦手だったようだ。・・・
まあ何というか、いつもこんなことばかり書いているみたいで恐縮だが、これまた日本映画のまずいところを凝縮したような映画になってしまった。ご贔屓の水野美紀第一回主演作品なので、できればいい評価を与えたかったのだが、この出来ではちょっとそれも不可能だ。
この映画の欠点をあげれば枚挙にいとまがないが、まず最大の欠点はやはり脚本の不味さだろう。とにかく下手糞。主人公が事件に巻き込まれる設定もいいかげんだし、どう考えても不自然な伏線の張り方を臆面もなくやってのける(たとえば「レスキューにはこれが必要でしょ」とかなんとか言って、同僚の婦人自衛官が休暇を取る水野にプラスチック爆薬を渡す場面とか・・・一体どんなレスキューを想定しているのだ!?)「銀座の恋の物語」でも研究して、うまい伏線の張り方を学んで欲しいものだ。
謎の組織「ミドリの猿」も、開幕10分程度で見当がついてしまう。あまりに簡単なので、僕など「スマリオネア」みの・まんたの出す問題を思い浮かべてしまった。「まさかそれはないだろう」と思って観続けていくと、何とその通りの展開になっていく。一応まだ見ていない人のために、ここで種明かしをするのは避けるが、もう観客をバカにしているとしか思えない設定である。自衛隊の全設備を二日間にわたって麻痺させてしまう装置の設定も、その存在をカウンセラーにペラペラしゃべってしまう水野にも呆れたものだが、その装置にわざわざ名前を表示して、正体を明かしてしまう「ミドリの猿」もまた相当のアホだ。一事が万事こんな調子であるから、ラストの数字当てゲームやミサイル撃破のあほらしい展開も(さっさと海上に落下させればいいのだ)おして知るべし。特に数字当てゲームは、あの程度のことで「せっぱ詰まって」おのれの行動をコントロールできなくなるような相手なら、そもそも日本をひっくり返すような大それた事などできないと思うのだが・・・。本当にもうどうしようもない駄作である。
しかしあまりけなしてばかりでは気分が良くないので、少しは買える点も書いておく。水野美紀は、贔屓目を差し引いてもなかなか確かな演技を見せ、途中いかにも不自然に挿入される格闘シーン(まったくこの監督の演出力のなさといったら・・・)でも、水野の動きそのものは実によかった。ラストのミサイル撃破シークエンスも、突然ほとんど英語ばかりの台詞になってしまうところを、少しの澱みもなくいかにもパイロットらしい流暢な発音でこなしていた。水野の頑張りが、この映画で買える唯一の点と言いきってもいいだろう。・・・
製作にTBSが噛んでいて、しかも稲垣吾郎が主演していたために、TVバージョンと勘違いして、レンタルショップの店頭でなかなかテープを発見できなかった。
このところ小さなブームを巻き起こしている感のある、サイコホラーものの一本である。ホラーには大きくわけて、オカルト方向に振ったものと、サイエンス側に振ったものと二通りあり、本編はどちらかといえば後者に属するようだ。しかし、「催眠」と題しながら催眠に関する詳しい説明はほとんど無く、通り一遍の陳腐な解釈がわずかに主人公の口から出るだけで、ほとんどは主演女優、菅野美穂の怪演ぶりを見せつけるだけの映画になってしまった。原作小説を読んでいないので、忠実な映画化か否かはわからないが、いずれにしろ「ミドリの猿」がいかにして大勢の人間たちに死に至る暗示を与え、犯罪を実行していったのか、説明する場面が全然ないのはどういうことなのだろう。この種の作品ではそうしたディテールの説得力こそが作品に力を与え、「面白さ」を生み出していくものだと思うのだが。そういえばこの監督、「パラサイト・イブ」を箸にも棒にもかからない駄作にしてしまった張本人ではないか。とすると、ひょっとしたら原作小説はそこそこ面白いのかも知れない。・・・
ピクサー初の劇場用フルCGアニメ「トイ・ストーリー」の続編である。前作でもかなり丁寧な脚本にうならされたが、今回は前作以上によく練られたお話に出来上がっており、とかく技術面にばかり目がいってしまうこの手の映画の陥りやすい陥穽から、見事に解放されている。もちろん、だからといって技術面がおろそかにされているわけではない。人形たちのリアルな、それでいて適度にデフォルメされた動きは前作に勝るとも劣らぬ出来だったし、それに加えて、前作ではやや不満があった生身の人間たちも、今回はCGならではのデフォルメの効いた、それでいてはっきり人形たちとは違うやり方で表現されていた。また、スターウォーズやジュラシック・パークのパロディや、笑い疲れて真顔になってしまうバービー人形など、今回も本筋以外の見せ場には事欠かない。
ところで、筋立てでやや気になったのは、ウッディたちが売られていく設定になっている日本のオモチャ博物館である。悪玉から人形を買い入れる、いわばもう一つの悪役として設定されている。監督のラセターは、世界的に有名なオモチャコレクター、北原照久氏の博物館を見学して、そこから今回のエピソードの着想を得たというが、それにしてはあまりに無神経な設定ではあるまいか。もちろん、ウッディたちの持ち主アンディに対する愛情と対比させるには必要な悪役だったのだろうが、それにしてもこれでは、オモチャコレクターは結局金にあかせてレアものを漁る俗物にしか見えない。所詮これが平均的アメリカ人のオタク感なのかも知れないが、北原さんこの設定に、内心はどう思っているのだろうか?・・・
ツェッペリンのDVDを観ていたら、ビートルズの方も観たくてたまらなくなり、ビデオテープの山の中からようやくレット・イット・ビーのテープを発掘した。これは、かつて発売されていたLDをコピーしたものではなく、20年くらい前、TBS系列で深夜に放映したノーカットバージョンを録画したものである。まだハイファイVHSの技術もない頃のことで、音声はノーマルしかなく、経年変化でややスピードに乱れが出るものの、画像は大きく乱れることもなく、録画当時の状態をほぼ保っていた。
さて、この作品はかの有名なゲットバック・セッションを淡々と記録した、文字通りの記録映画である。登場するのはビートルズの四人にビリー・プレストン、ヨーコ・オノ。彼らがスタジオにこもり、「レット・イット・ビー」や「アビー・ロード」の曲を紡ぎあげていく様をていねいに追っている。
一見したところ、録音の過程でポールが他のメンバーにあれこれ指示を出しているのが目立つ。これをして、当時のグループの主導権は彼が握っていた、という見方があるが、よく見てみると、彼が指示を出しているのは自分の作った曲のみであり、“Across The Universe”のようなジョンの曲では、ジョン自身が他のメンバーに指示を出しているし、同じことはジョージにも言える。ポールだけが目立ってしまうのは、彼のキャラクターによるところが大きいのではないだろうか。
それから、これは今回観ていて初めて気づいたのだが、“Octopus Garden”を作っている最中、リンゴがジョージにコード進行についてたずねるシーンがある。その時リンゴは何気なくピアノでコードを弾いて見せ、それに答えてジョージもよりよいコード進行をピアノでさらりと弾いてしまう。二人ともギターではなく、ピアノでコードのやりとりをしているのだ。ジョンがピアノを弾けたかどうか、記憶は定かでないのだが、たぶん出来たと思う(その後確認済み)些細なことだが、やはり彼ら、ただ者ではなかった。たくさんあるロックグループの中でも、全員がピアノを弾けるというのは、ちょっと他に思い浮かばない。
この作品の白眉と言えるのは、やはり終盤のアップルビル屋上でのゲリラライブであろう。ここでの彼らはレッドツェッペリンとはまた違う意味で、とてつもなく格好いい。演奏も、卓抜した技術とリラックスした感じが程良くバランスし、非常に心地よい。ライブを目撃した、というより耳にした路上の聴衆の多くが、実に幸せそうな顔をしていたのが印象的だった。
現在この作品は、権利関係が複雑に絡み合い、販売することが難しいそうである。しかし、所詮は金の問題に過ぎないので、案外簡単にクリアされ、新装版が発売される可能性もないわけではない。その暁には、モノラル音源をステレオ化するのはもちろんのこと(ゲットバック・セッションの音源はそれこそ大量に残っているので、不可能ではあるまい)プリントもデジタル処理でリフレッシュして、現在の目で見ても耐えられる程度まで品質を向上させてほしいものだ。まあ、「イエロー・サブマリン」の例もあるので、そのこと自体はそう難しいことではないだろうが。・・・
ボルコ・ロッソの台詞ではないが、まさに「格好いいとはこういうことだ」を地でいく連中である。レッド・ツェッペリンは今世紀最高のバンドではないかも知れないが、間違いなく今世紀最高に格好いいバンドであった。この映画は、'73年に行われたニューヨーク公演の記録であるが、ただのコンサートの記録映画ではなく、途中にさまざまなイメージカットが挿入された、一種幻想的な雰囲気のある作品に仕上がっている。
しかしこの部分が、個人的にはちょっと首をひねらざるを得ない部分でもある。最初に書いたように、レッドツェッペリンは今世紀最高に格好いいバンドだったのだから、下手な小細工をしないでも、十分彼らの映像だけで間が持つのだ。それなのにギャングの抗争やら、中世の騎士とおぼしきキャラクターやら、わけの判らないイメージカットを入れなければならない理由が、どうも僕にはよくわからないのだ。ま、そのへんはサイケデリックな雰囲気がもてはやされた時代だから、ということでおさまるのかも知れないが、一カ所だけどうしてもおさまらないところがある。それは終盤、“Heart Braker”の演奏中に、どういうつもりか売上金盗難事件を知らせるインサートカットが入り、演奏シーンが中断してしまうところである。なぜこんなカットを入れるために、大切な演奏場面を中断する必要があるのだろう。
これさえなければ、ザ・バンドの「ラストワルツ」やビートルズの「レット・イット・ビー」に匹敵する作品になったかも知れないと思うと、非常に残念である。・・・
原題は“October Sky”、つまり十月の空である。一ヶ月違えば高橋三千綱の芥川賞受賞作になってしまうところだった(笑)まあ、冗談は抜きにして、日本版の副題「ロケット・ボーイズ」が、そのまま映画原作の原題で、映画の主人公となったNASAの職員の自伝の映画化が、この作品なのである。
時代は1957年、ちょうどスプートニク・ショックの頃、夜空を横切るスプートニクを見て、突然宇宙への夢に目覚めた主人公が友人たちと共に試行錯誤の末、何とか手製の小型ロケットを飛行させ、奨学金を得て大学に行くまでのエピソードを淡々と描く話だが、ロケットボーイズの他の三人の仲間たち、炭坑夫の父、町の人々、病魔に冒された恩師との関係など、その周辺の描き方が巧みで、なかなかいい作品に仕上がっていた。とくに父親と主人公との関係は、この作品の核心部分とも言え、分かり切った結末(だってNASAの職員が書いた話なのだから、主人公が挫折するはずがないのだ)にもかかわらず、物語を感動的に盛り上げてくれた。
監督のジョー・ジョンストンは、「ロケッティア」や「ミクロキッズ」など主にファミリー向けのSF系作品が得意な人で、今回の作品もそのラインの延長線上にあるが、これまでのSFXバリバリの活劇とは違い、しっとりとした人間ドラマになっていた。描写が淡々としていて、派手なSFXを期待する向きにはやや物足りなかったかも知れないが、飛行するロケットをあえて地味なローテクSFXを使って描写するあたり、基本に戻った感じがして好感が持てた。・・・
湾岸戦争終結直後のイラクを舞台にした、戦争ブラックコメディ・・・と前半は思わせておいて、終盤に至ると意外にもヒューマンストーリィに展開する。この辺の計算はなかなか確かで、大量の金塊を目前にしながら、難民の救出が第一目的になってしまう物語の流れを、それほど矛盾を感じさせずにすんなり描いてしまえるのはやはり監督の技量であろう。そのほかにも、トロイが自分を拷問にかけた敵兵を、立場が逆転したときどうしても殺せなくなるあたりも、なかなかうまい演出だ。
欠点は、特にどこといってないが、しいてあげれば期待したほどテンポがよくなかったところだろうか。描写は全体にゆったりして、実際の尺よりも長い映画だと感じてしまった。話がやや複雑だったせいもあるのだろうが、単に金塊泥棒に訪れた連中がヒューマニズムに目覚め、難民救出に命をかけてしまう話なので、あまりにも登場人物がものを考えないキャラではまずかったのだろう。
ところで終盤のちょっとしたネタとして使われる、トロイの肺の負傷だが、わざわざ内臓の解剖学的映像まで入れて説明したにもかかわらず、よく判らなかった。おそらく、肺胞が破れて空気が肋膜との間に漏れ、気胸の状態になってしまうので、定期的にそこの空気を抜く必要がある、ということなのだろうが、片肺が残っているのだからあれほど苦しがることはないと思うのだが・・・。・・・
久しぶりに観たデビッド・リンチ最大の失敗作(笑)・・・というのは言いすぎで、確かにふだんのリンチ作品とはかなり趣を異にするものの、少なくとも美術やSFXに関する限り、フランク・ハーバートの原作のイメージを、それほど損なうこともなく描ききっている。ハーバートのあの長大な原作を、わずか2時間程度の映画としてまとめるのはどだい無理な話で、全体の印象がNHK大河ドラマの総集編みたいになってしまうのも仕方のないことなのだろう。その辺をさっ引いてみれば、それほどひどい失敗作とも言えないのかもしれない。
もちろん不満な点は多々ある。基本的にハーバートの原作は、現実世界の石油をめぐる西側国家とアラブ世界との対立を下敷きにして、生態学的な視野から惑星アラキス(原作ではりゅうこつ座主星カノープスの惑星という設定)を描いているのだが、映画では、スパイスが石油をさしているあたりはかろうじてわかるものの、生態学的な視野はすっぽり抜け落ちてしまっている。具体的に、サンドウォームとスパイスの関係がどうなのか、映画ではまったく描かれていない。また、帝国とそれぞれの領主たち、それとギルドの関係なども、あっさり触れられているに過ぎない。後に政略結婚により、ポールの妃になるイルラン姫など、かろうじてナレーターとして登場するだけで、ほとんど台詞らしい台詞すらない。
それにしてもすごいのは美術である。西暦一万年代という、遠未来の設定ではあるが、どこかフューチャーレトロな感覚もあり、登場する領主の邸宅や皇帝の宮殿など、アールデコ風にまとめられ、全体のデザインに統一感がある。また、巨大な宇宙船やサンドウォームと人間との対比とか、後のこの手の映画の教科書的な描写も多い。それから、登場人物の多くが一種のフリークなのもまた、この作品の特徴と言える。少なくともこのムードは、原作ではこれほど顕著ではなかった。これはイレイザーヘッドやエレファント・マンを撮った監督の特質なのかもしれない。・・・
この作品は、第一次大戦当時、イングランドのヨークシャーで実際にあった「コティングリー妖精事件」の映画化である。事件は、当時16歳のエルシー・ライトと、その従妹で10歳のフランシス・グリフィスが撮影した妖精の写真をめぐって、サー・コナン・ドイルなど当時の著名人を巻き込んだ騒動であったが、映画では、主人公の少女たちの年齢をそれぞれ12歳と8歳に引き下げた以外は、人名などもそのままに描かれている。もちろん、ファンタジー映画としての性格上、妖精は最初から実在するものとして設定され、トンボのような翅で飛び回る妖精たちが、デジタルSFXを駆使して描かれている。
まず言っておかなければならないのは、主演の二人の少女たちのうまさだ。エルシーは兄を肺炎で失っており、そのせいでどこか影のある少女として描かれるのだが、演じたフローレンス・ホースはその役を過不足無く演じきっており、対照的に、向日葵のように明るい少女フランシスを演じたエリザベス・アールも、天性と思われる明るさを存分に発揮していた。対する大人たち、コナン・ドイル卿を演じたピーター・オトゥール、魔術師フーディニーを演じたハーベイ・カイテルともに、渋いながら確かな演技で幼い二人を支えていた。
ところで、結局のところあの写真の真贋はどうだったのだろうか。映画でははっきりそれとわかる結論は、表面的には言っていない。しかし、事件を追っていた新聞記者がみつけた写真そっくりの小道具とか、「秘密」について語り合うフーディニーとエルシーの会話などから、ことの真相は伺い知れる仕掛けになっている。作品自体は妖精を肯定する側に立っているのだが、そのまま写真それ自体を肯定していないところがミソである。
それから、ラストシーンでチラッと登場したフランシスの父親だが、「あれ?メル・ギブソン?」と思ったものの、こんなちょい役で出るわけがない、と決めこんでいたところ、今回入手したDVDに収録されていたメイキングで、やはりそうなのだと判明した。そういえば、製作会社のアイコン・プロダクションはかの「ブレイブ・ハート」を作った会社であった。・・・
以前この欄で紹介したことのある、諸星大二郎の「暗黒神話」をアニメ化した際の監督が、本編の監督でもある安濃高志だった。「暗黒神話」は、低予算のOVAには珍しくかなり力の入った作品で、原作の持ち味を壊さずうまく脚色しており、そういった点からも本編には期待が持てたが、そういう部分に関する限りは、まず裏切られることはなかった。ここでも絵コンテを切った安濃は、原作の持ち味を最大限引き出すべく、印象的なシーンの構図を極力そのまま持ち込み、コマ割りの独特なリズムも繊細な演出で再現している。キャラクターデザインも原作のイメージから離れないよう気を使っており、全体的に、マンガ版のファンならまず大きな違和感を感じることなく見られる作品に上がっている。(欲を言えば、アルファ役の椎名へきるは、「いかにも声優」という感じの手慣れた演技だが、それが逆にアルファさんの持つほんわりした感じを、ややスポイルしてしまっているような気がする。ここはもっと無名でいいから、声のトーンの低い声優を起用すべきだったのではないか)
しかし問題は、ファン以外の人たち、「ヨコハマ買い出し紀行」の世界にこのアニメーションで初めて触れる人たちに対する配慮だ。一話目はまああれでもいいが、二話目も結局似たトーンで流れてしまっており、二本続けて観た場合(DVDではそうやって観ることになる)ちょっとだれる。散漫なようでいて実はけっこう深い原作の持つ世界観を、これだけの長さしかない(一話30分)アニメたった二本で伝えることは、確かに不可能に近いが、それにしてもエピソードの選択にはもう少し幅が欲しかった。あるいはそれは今後製作される第三話、四話のためにとってあるのだろうか。・・・
70年代から80年代にかけてのアップル社とマイクロソフト社の確執を、スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの両者にスポットを当てて描く実録風セミドキュメンタリードラマである。見た感じでは劇場用映画ではなく、TVムービーとして製作された作品のようだ。
もともとのタイトルは「シリコンバレーの海賊たち」というような意味で、なるほど、ジョブズもゲイツもやり手のビジネスマンというよりは、一発当てることを夢みてシリコンバレーにやって来た山師のように描かれている。フラワーチルドレンのなれの果てであるジョブズの方は、それでもまだ、かなりアクは強いながらもそこそこにビジネスマンとしてまたイノベーターとして描かれているが、ギャンブル好きなコンピュータおたくビル・ゲイツの方は、ここではまるっきりの山師そのものである。とにかく、全くの手ぶらで架空のOSをIBM社に売りつけたり、Macintoshの試作機を手に入れ、それを分析してWindowsを作り、ジョブズに難詰されると「お前達のOSだって、元はゼロックスのを盗んだものじゃないか」と開き直る始末。これではいくら何でもアップル社寄りの内容だと批判されても仕方あるまい。
実際には、アップル社の内情はともかく、マイクロソフトの方はあれほどむちゃくちゃな会社ではなかっただろう。少なくとも、Macintoshが世に出たころ、MS-DOSはすでにMac以外のパソコン(PC)の標準OSとなっていたし、ゲイツもゼロックス社のGUIについてはその存在も原理も知っていたはずである。もちろん、WindowsがMacOSを参考に作られたのは周知の事実であるが、なぜかいまだにドラッグ&ドロップという、GUIの核心部分を完全には模倣できていない。ところで、ゼロックス社の面々が頭の固い上役に自分たちの仕事を理解されず、やむなくアップルの連中に自らの技術を公表する場面は、この作品の中でもっとも興味深い部分であった。また、Macintoshの試作品を見せられたゲイツが、提携をもちかけ、その交換条件にアップル社側が弱みとする表計算ソフトを提供しようと持ちかける場面が出てくるが、これは実行され、その結果開発されたのがExelなのである。
さて、物語はともかく、映画としての出来だが、これにははっきり言って見るべきものはあまりなかった。さすがに当時の風俗や音楽、自動車など、70年代から80年代の雰囲気はうまく出していたが、演出は総じて凡庸で、TVムービーの域を出るものではなかった。ジョブズとゲイツの人物像はいずれも平板で、残念ながら将来何か大きなことをしそうな人物には見えない。特にゲイツは、彼なりの哲学をどこかでもっと披瀝する場面がないと、とても現在のゲイツにつながる人物には思えないのだ。・・・
なるほど、こういう設定では、たしかに巻頭のブルース・ウィリスの「ちょっとした秘密」は守らなくてはいけない。従って、このコーナーでも最大限まだ見ていない方のことを考え、ネタばらしにならないよう気を使いながら書くことにする。
この作品、アメリカ映画としてはどこか異色で、肌合いが違うと思ったら、監督はインド系の人だった。もちろん肌の色が違うからといって、すなわち作風の違いということにはならないだろうが、背負う民族性の違いは、やはりおのずとにじみ出てくるものだろう。「シックス・センス」つまり日本風にいえば霊能力をもつ主人公、コールの描き方は、「ゴースト」みたいな生粋のアメリカ映画とは違い、やはり東洋的な雰囲気が強い。登場する霊たちも、アメリカのホラー映画によく出てくるタイプとは明らかに違い、日本の「地縛霊」に近い存在と言えるだろう。一応教会は出てくるが、キリスト教に関する描写もアメリカ映画とは思えないほど少ない。全体に非常に静かな感じのする映画で、いわゆる「恐怖映画」というジャンルとはちょっと違う。しいていえば、「ベルリン天使の詩」あたりに近い雰囲気と言えようか。まあ、この作品の持つ静謐な感じは、「ちょっとした秘密」のおかげによるところも大きいのだが、わりとよくある設定の割りには、最後のネタばらしまで不自然でなく引っ張ってこられた監督の演出力を、ここでは誉めてやりたい。・・・
以前から業界関係者の間では評判の作品だったのだが、ようやく観ることが出来た。さすがに、話題になるだけのことはある傑作だったと思う。キャラクターはふつうのフルアニメで、アイアン・ジャイアントをはじめとするメカ関係は、3Dアニメーションで描かれているのだが、それぞれの違和感を最小限に押さえ、 3DCG世界の中に切り紙細工のような2Dキャラクターがはめ込まれた「青の6号」などとはえらい違いである。なにより2Dと3Dの整合感は、作品全体の雰囲気を統合するものとして不可欠だと思う。そういう意味では、これまでのところ普通のアニメに3DCGをもっとも巧みに組み込んだ作品として、本編は長く記憶されることになるだろう。私見ではあるが、日本のロボットアニメもそろそろこうした新テクノロジーの導入を、真剣に考えた方がいい時期にさしかかっているのではなかろうか。∀ガンダムも、そのシナリオとは別に肝心のロボットの動きが20年以上前の作品と大差なく、作画によってはかなりお粗末な印象があった。昔と違って今のアニメのロボットは、可動部分の設定などかなり現実のものに近づいているので、データ化して3Dで動かしてもそう無理は出ないと思うのだが。
物語について詳しく書くことは、これから見る人のためにならないのでやめておくが、少なくとも観ている間は話の矛盾点なども気にならず、上手に感動させてくれる、よくできた脚本だった。しかし、あとになって詳しく考えてみると、いろいろおかしな点もある。まず第一に、メインキャラにしてメインメカでもあるアイアン・ジャイアントの存在だ。明らかに宮崎アニメから影響を受けたと思われるその造形とともに、設定自体も「火の七日間」をもたらした巨神兵同様破壊を旨とし、惑星を侵略し、破壊し尽くすために地球に送り込まれた戦略兵器と考えるのが妥当であろう。しかし、作品世界に於いては、その点にはほとんど触れられておらず、ただ自衛のためにのみ発砲するごとく語られている。ラスト近くで戦闘体型に変形したあとは、本来の性能を発揮し、破壊力の片鱗を見せるのだが、主人公の少年のおかげであまりに早く正気に戻ってしまい、やや突っ込み不足の感は免れない。側頭部の変形が任務を忘れさせていた、という設定だったと思われるが、それが治り戦闘体型に変形したのであるから、あのあたりもう少しねちっこく演出すべきだったのではなかろうか。
対する地球側、というよりアメリカ軍側の設定も、戦闘機をF-86とするなどなかなか凝ってはいるのだが、いくらなんでも当時はまだSLBMなど存在しなかったはずだ。それまでかなり1957年当時のテクノロジーを忠実に描いていただけに、ちょっと残念だった。
子供向けアニメーションを強く意識しすぎたためか、登場するキャラクター、特にマンズリー氏がややカリカチュアライズされすぎてしまったのにも不満が残る。ああいう単純な悪役ではなく、それなりの厚みを持ったキャラクターにも出来ただけに、惜しまれる。それから、特に個人的な感想だが、当初きっかけ作りに使われていたリスはどうなってしまったのだろう。うまく使えば物語の潤滑剤として、生かせたと思うのだが・・・。・・・
冒頭の10分以上に及ぶ長回しから、デ・パルマ節炸裂の映画である。この映画、とにかくどこを切ってもデ・バルマ作品らしさに溢れている。徹底的にステディ・カムを活用した流れるようなカメラワーク、ムード重視のために、あえて不自然な描写もいとわぬ演出姿勢、前作「ミッション・インポッシブル」ではやや影を潜めていたデ・バルマ臭さが、一気に爆発した感じだ。
ゲイリー・シニーズ演じるダン中佐が犯人であることは、ほとんど開幕直後に割れてしまう。ああいういかにも犯人ではなさそうなキャラクターが実は・・・という設定は、もはや古典的である。個人的には犯人の設定にはもう一捻り欲しかったところだが、デ・バルマにとってはそんなことはどうでもよかったのかもしれない。だいたいシニーズみたいな一癖ある俳優をキャスティングした段階で、バレバレなのはデ・バルマとて計算ずくであろう。しかし、たとえば任務途中で面が割れてしまった部下を射殺してしまうシーンなど、一体どういう演出意図があるのかよくわからなかった。ダンの薄情さを描こうとしたのか、殺しの責任を誰かになすりつけようとした、という設定だったのか・・・。
物語の決着の付け方も、やはりデ・バルマらしくおざなりであった。秘密を握る女がかくまわれていた場所のすぐ外に、偶然にもテレビクルーが嵐の取材に来ていて、これまた偶然にもそこに警察車両がやってくる。そんななかにサイレンサーをつけた銃を握ったままダン中佐が出てきてしまい、結局彼は破滅してしまうのだが、そこには一片の必然性もなければ、もちろん主人公の機転が発揮された結果でもない。まったく偶然のみによる勝利である。まあ、典型的な悪徳警官であったニコラス・ケージ演じる主人公がだんだん正義に目覚め、最後は身をもって女を守るという、変化のプロセスが見所と言えば言えなくもないが、それとてデ・バルマ印のカメラワークの前では影が薄い。
ところで、この映画で一番気になったのは、物語そのものよりエンド・クレジットのあとに出てくるルビーらしき宝石のアップである。あれには一体どういう意味があったのか、結局わからなかった。あんなもの、本編の中に出てきたっけ?・・・
権力者が市民に関する情報を一手に握ってしまうことについての恐怖を、エンターテインメントという形でさらっと描いて見せた快作である。トニー・スコットという監督は、少し昔で言えばピーター・イェーツ、もっとあとではジョン・バダムみたいなタイプの職人監督になってきたと思う。脚本がダメだと凡作しか撮れないが、ひとたびいい脚本に恵まれると、そこそこのクォリティの作品を撮ってくれる。タランティーノが脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」はこれまで彼が撮ったものの中でも屈指の傑作だったし、本編もそれに勝るとも劣らぬ面白い映画になった。
物語は、ひょんなことからNSA内部の陰謀の証拠を握ってしまった弁護士=ウィル・スミスが、訳の分からぬうちに追い回されたあげく、元NSA局員の謎の男=ジーン・ハックマンと出会い、ついに黒幕の副長官=ジョン・ボイトを倒すまでの話だが、さまざまな小道具の使い方がうまく、キビキビした演出で観客を飽きさせない。
冒頭でマフィア相手に弁護士本来の業務をしている場面がけっこう長く続き、たぶん何らかの伏線ではないかとは思ったが、後にどうやって決着をつけるのかまでは思い至らなかった。二転三転する物語の語り口にすっかり乗せられ、ほとんど忘れかけていたとき鮮やかに再登場させるテクニックは、なかなかのものだ。キーワードはビデオテープだが、ああいうつなげ方を考えていたとは、この脚本家、ただものではない。
ところで、今気づいたのだがこの決着の付け方もまた「トゥルー・ロマンス」そっくりである。・・・
タイトルは宇宙物理学用語で「事象の地平線」、つまりブラックホールからの脱出速度が光速度となる境界面を示す言葉である。このタイトルからすると、かなりハードな本格SFを期待させてくれるのだが、ものの見事に裏切られてしまった。この映画で科学的な部分は、はっきり言ってこのタイトルのみと断言して差し支えない。
なぜタイトルにブラックホール関連のネーミングが使われているのかと言えば、物語の舞台となる「イベント・ホライゾン」という名の宇宙船が、超光速航行するためのギミックとしてマイクロブラックホールを使っているからだろう。判りやすくいえばワープ航法なのだが、映画ではなぜかそのネーミングを使っていない。とにかく、その超光速航法によって別の宇宙に出てしまったイベント・ホライゾン号は、そこで何か「邪悪なもの」にとり憑かれ、再び元の宇宙に戻ってくる。そう、基本的にこの映画は、近未来SFの皮をかぶった幽霊船もののホラー映画なのだ。
設定からしてこの調子であるから、物語の展開はものの見事にご都合主義。宇宙船のデザインは、機関部とブリッジ部が長い通路でつながれ、何とその通路には、機関部を放棄するときのために爆薬まで仕掛けられているのだが、「邪悪なもの」はその爆薬を利用して、救助船を破壊したりしているのに、最後の最後で救助船の船長がそれを爆破して、ブリッジ部の乗組員たちを助けてしまうことを阻止できない。船から放り出された人間すら引き戻せる力を持っているのにである。
ラストの、助かったと思ったら救助に来た人間が「邪悪なもの」にとり憑かれたサム・ニールで、悲鳴を上げたらそれは夢だったというお約束のエンディングは、デ・パルマの「キャリー」以来ひさびさに見る古典的結末であった。・・・
動物ものついでに、ずっと以前、たまたま中古屋で見かけて購入したままになっていたLD版「かもめのジョナサン」を観た。全編を通して登場する人間は、わずかに冒頭で撒き餌をする漁師たちのみといった、徹底したカモメ映画である。五木寛之による翻訳本は今も新潮社から入手可能だが、あれはいわゆる「創作翻訳」で、リチャード・バックの原作とはかなり違ったものらしい。そんなわけで、この映画がどれくらい原作に忠実なのか、確かなことは判らない。
とにかく上映時間ほぼ100分の全編にわたって、カモメが飛ぶ姿が延々と続く、カモメ好きにはたまらない映画なのだろうが、われわれのような普通の人間には、退屈この上ない作品である。ただ、撮影それ自体は当時としてはそれなりに見事な空撮であり、雲海の上、かなりの高度を単独飛行するジョナサンの映像など、一幅の名画のようであった。時代的に「ベイブ」みたいに演出をCGIにたよるわけにもいかないから、調教師の出番はかなり多かっただろう。もちろんループやロールのような、本物のカモメには不可能な飛行は、ラジコンのグライダーを使って撮影しているのだろうが、この出来が非常に良く、滑空している本物のカモメの映像と、なかなか見分けがつかない。
お話それ自体はかなり寓意的なものであり、リアリティはほとんど無い。しかし、動物がどんな場合にもすべて本能のみに頼って生きている、という思いこみもまた、正しくはないのだ。ジョナサンのような求道者ではないだろうが、かつてあるTV番組で、飛行中突然片翼をたたみ、猛烈なスピンに入って地上すれすれでリカバリーする、という動作を繰り返している鳩を紹介していた。最初は翼に何か異常があるのかと思ったのだが、スピンに入る高度も脱出する高度も毎回ほぼ同じであり、どうやら完全にコントロールされた行為のようなのだ。どうも単にそれが面白くてやっているらしい。動機は全然違うのだろうが、このあたり、ひたすら最高速を更新することを狙って、急降下を繰り返すジョナサンの行動につながるものがあるような気がする。・・・
言わずと知れた人気作品の続編だが、あまりの不人気ぶりに、経営トップの人事問題にまで発展してしまったという、曰く付きの映画である。CNNの映画評では、ファミリー向きの映画としては余りに暗い内容だと言っていたが、画像はともかく(何しろ物語がほとんど夜間に展開するので、画面の印象は確かに暗い)お話自体は特に暗さを感じさせるものではなかった。しかし、残念ながらとても傑作という評価をしかねるのも事実だ。
問題は、脚本と言うよりはそれ以前の企画にあると思う。はっきり言ってしまえば、ある才能を持った主人公が、努力のあげく成功する物語が前作だとすれば、今回は、経済的苦境に陥った飼い主をなんとか助けるべく、主人公ががんばる話になるはずだった。しかし、話はそうは進まず、徹頭徹尾行き当たりばったりに展開し、呆れるほどご都合主義的な結末に至るのである。こんな設定をもらっては、いかに才能溢れる脚本家でも面白い話は書けまい。まだ未見の方が読まれると困るので、ここではっきりとは書けないが、とにかく「なにそれ?」と思いっきり突っ込みを入れたくなるようなオチなのだ。
技術的には今回もかなりのことをやってのけている。登場する動物アクターは、前作の数倍にも達し、それぞれがCGIやアニマトロニクスの力を借りて、人間でもかくや、と思われる名演技を見せてくれる。特にチンパンジーの芸人ファミリーや、正装をしたオランウータン、最初狂ったようにベイブを追いかけ回し、命を救われた後は一の家来となるブルテリア、彼に思いを寄せるようになるピンク色のプードルなど、名優は枚挙にいとまがない。しかし、残念ながらあのラストでは、せっかくの名演技も空回りに終わっていると断じざるを得ない。せっかくジョージ・ミラーに演出を任せたのだから、もう少し彼の力を発揮した作品に仕上げて欲しかった。・・・
観ている間中、頭の中にあったのは手塚治虫先生の一連の作品群であった。具体的にどこがというわけではないのだが、全体的な雰囲気は、手塚先生の諸作品が持つものと共通点がかなりあったような気がする。たとえば登場するキャラクターの、映画的というよりあまりに漫画的な設定とか、展開のスピーディーさなどにもそれは言えている。見せ場はもちろん大量のCGIによるSFXだが、場面によってはストーリィ上の必然性というより、SFXを見せたいがためのシーンも散見されたように思える。少なくとも、「レイダース失われた聖棺」におけるような、SFXとストーリィが渾然一体になったような雰囲気はあまり感じられなかった。このことは手塚先生の作品とは直接関係ないが、見せ場見せ場の連続で物語を形づくっていこうとするような傾向も、また映画的というより漫画的な印象を与える一因かも知れない。
それから、これもちょっと気になっていたのだが、この作品には典型的な悪役が登場しない。スピルバーグやルーカスの映画にはよく登場する、生きていても仕方がない、黴菌みたいな悪役がいないのだ。ミイラ男イムホテップがそれに当てはまりそうなものだが、彼の動機はあくまで愛する王女の復活であり、世界に対する恨みとか、全世界を支配しようとする野心などはあまり表に立って出てはこない。ことあるごとに主人公を裏切り、最後には肉食スカラベの餌食になってしまうベニーも、こすっからい性格ではあるが、裏切りの理由は彼の弱さから出たものであり、また、スリのジョナサンにしたところで、ベニーに負けず劣らずこすっからいのだが、ヒロイン、イブリンの兄というだけで主人公たちの味方として設定されてしまっている。このあたりのキャラクターは、手塚先生がよく使うスターシステムに照らし合わせたら、アセチレン・ランプやハムエッグ、スカンク草井あたりの役どころだろう。
全体的に見て、この作品は古き良き時代のハリウッド作品を現代的なテンポで復活させた、一種のローラーコースター・ムービーと言えないこともない。いうまでもなく、人生の指針になったり、深い感動を与えてくれたりするものではないが、一時であれせちがらい世間の風を忘れさせてくれる、本来の映画の機能をきちんと果たしてくれている作品と言えるだろう。・・・
どうもこの映画については、あんまり芳しい話を聞かない。見たという人の中で絶賛する人はほとんどおらず、まあまあ、という評価を下す人も少ない。中には、生粋のスターウォーズフリークと自認している人が「全然面白くなかった」と漏らす例まである。これはどうしたことだろう。事前の期待が大きすぎたためだとか、ふんだんに使われていたデジタルエフェクトが、かえって現実感をなくし、全体を絵空事っぽく見せてしまったとか、いろいろ原因は考えられるが、結局この種の映画を見るのに一番必要な「乗り」が、今の日本人に欠けていたのが最大の原因かも知れない。
ところで僕はといえば、この映画をけっこう高く評価している。少なくとも、袋小路に入ってしまった感のあった「ジェダイ」よりは面白く見られた。ところで、この映画にはすでに公然となってしまった秘密がある。このことは、ただ本編を見ただけでは気づかないのだが、映画館で売られているパンフレットにヒントがある。パンフレットの25ページ目、配役紹介のところを見ると、パルパティーン元老院議員を演じたイアン・マクダーミドの紹介の欄に、「ジェダイの復讐」で「銀河皇帝を演じた」と記されているのだ。あれから20年近くを経たとはいっても、同じ俳優をわざわざ別の配役につけることなど考えにくいので、今回もマクダーミドは未来の銀河皇帝として配役されていると見ていい。ところで、冒頭から登場するシスのマスターだが、ルックスからして彼がいずれ銀河皇帝となることは間違いない。ということは、シスのマスターこそがパルパテイーンその人ということになる。つまり、今回の物語全体が、彼が一介の元老院議員から議長となり、元老院の実権を握るまでのプロセスだと考えられるのだ。そういえば、なぜシスが通商連合のような、はっきり言ってさほど重要ではない連中の後押しをしているのか、最初はよく判らないが、議会でナブーの女王アミダラに窮状を証言させ、彼らとつながりのある議長に責任をとらせて失脚させ、同情票を得て新しい議長に当選する、というのがパルパティーンの戦略だったのだろう。つまり、女王の一行がナブーから命からがら逃げ出すところから、彼らが通商連合の戦艦を破壊し、ナブーに平和が訪れるまで、すべてはパルパティーンのシナリオ通りというわけだ。作品にどこか予定調和の匂いがあったのは、たぶんそういうわけだと思う。この種の予定調和は、たとえばエピソードIVにおいて、わざとミレニアム・ファルコン号を逃がし、跡をつけて惑星ヤヴィンの所在地を突き止めようとする帝国軍の動きなどにも見られる、ルーカス脚本の特徴だろう。
もちろん以上のようなことは、いわば裏設定で、映画の本筋は後のダース・ヴェーダー、アナキン・スカイウォーカーの少年時代を描くことにこそある。このあたりは、さまざまな名画、たとえばベン・ハーなどからいろんな場面をパクって、迫力ある場面を作り上げている。こういういわば「借景」はSFの定石で、前三部作やインディ・ジョーンズ・シリーズでもこのテクニックは繰り返し使っていた。この種の技術にかけては、ハリウッドでもジョージ・ルーカスの右に出るものは、そうはいないのではなかろうか。
ところで、劇場でE.T.を見つけられなかった人も、今回はさすがに見つけられたと思う。劇場版のシネマスコープ画面では、左下の方に小さく映っていただけだったが、ビデオ版ではトリミングされて、画面中央近くにけっこう大きく映っていたからだ。・・・
文句なくよくできた娯楽映画だった。普通あれだけ関連情報が垂れ流されると、本編を見る頃には新鮮さを失って、だれてしまいそうなものだが、この映画に関してはまったくそんなことはなく、斬新さとわかりやすさとを見事に調和させた作品として、最後まで楽しませてくれた。基本的にはかつてウィリアム・ギブソンが確立したサイバーパンクに属する設定だが、そこからのイメージを踏襲しながらも、どこかで見たような感を見事に払拭し、完全にオリジナルの映像として成立させているあたりに、監督の手腕を感じさせる。
ウォシャウスキー兄弟といえば、前作の「バウンド」では、一筋縄ではいかない犯罪者たちの騙し合いを描いて、何より脚本家としての手腕を見せてくれたが、今回見事だったのは、サイバーパンクの、ともすれば難解になりかねない設定をわかりやすく描いた脚本もさることながら、やはりタイトな演出力が一番にあげられるだろう。数々の日本製アニメを参考にしたと思われる(攻殻機動隊や機動戦士ガンダムと、驚くほど似たシーンがある)アクションは、ワイヤーを使った香港製カンフー映画からそのテクニックを移植し、見事に使いこなしているし、数々のCGIによる特殊効果も見事で、本編のサイバーパンク作品としての魅力を倍加している。ラストのやや甘いかな、と思われる展開も、決して甘すぎることなくさらなる見せ場として効果的だったし、まったくほとんど言うことのない作品だった。
しかし、冒頭に登場するカタカナの1バイト文字が全部裏返しなのは、何か意味でもあるのだろうか。単にスタッフがカタカナを読めなかっただけなのか?・・・
ヴィム・ヴェンダース監督の名画「ベルリン天使の詩」のハリウッド版リメイクだが、主演にメグ・ライアンとニコラス・ケージを持ってきたことで、原作とはかなり違った雰囲気の作品になった。とは言ってもやはり基本的には「ベルリン天使の詩」なので、人間の女性に恋した天使が人間になってしまうという展開自体は同じである。面白いのは、「ベルリン天使の詩」で元天使の中年親父を演じたのは、刑事コロンボで有名なピーター・フォークだったが(コロンボ役者のピーター・フォーク本人として出演していた)、本編ではその役を、やはり刑事ドラマ「NYPDブルー」に主演していたデニス・フランツが演じているあたりだ。
主演の二人はともに達者な役者さんなので、ファンタジックな物語を無理なく演じて見せてくれる。正直言って、僕はこれまでニコラス・ケージという俳優をそれほど買っていなかったのだが(トム・クランシーの小説中で高く評価されているのを読んだりすると、妙な気がしたものだ)彼の目の力を今回ははっきり思い知った。一方のメグ・ライアンに関しては、もう何も言うことはない。「トップガン」の頃から活躍していたのだから、どう考えてもそう若くはないはずだが、相変わらずの可憐さである。
ヴェンダース版では天使の視点で描かれている場面はモノクロで、後半の、人間になった元天使の視点で描かれたカラーシーンと鮮やかな対比を見せていたが、今回のリメイク版ではその種の効果は使われていなかった。ラスト近くで人間になった天使セスが、色鮮やかな人間世界に感動するシーンなど、おかげでもう一つ説得力に欠けていたような気がする。モノクロにしろとまでは言わないが、もう少し色彩設計に気を使ってもよかったのではなかろうか。
ところで、原作を観たのがもうかなり昔なので、物語の結末をしっかり覚えていないのだが、こんなに悲劇的な終わり方だったのだろうか。あれではせっかく人間に生まれ変わったセスがあまりにかわいそうである。まあ、主演しているのがメグ・ライアンなのでよけいにそう思うのかも知れないが。・・・
本当はCAVのレーザーディスクで欲しかったのだが、なかなか日本では入手困難らしく、結局CLVの輸入盤を買ってしまった。こころなしか画面が暗めで、色乗りも前作よりやや悪いような気がする。これは劇場でも思ったことなので、使用したフィルムの癖なのかも知れない。恐竜の大活躍する場面はさすがに力が入っているが、家庭用のシステムで観ているせいか、たとえばステゴサウルスの登場シーンなどのように、合成がやや浮いて同一空間内にあるようには見えない場面がいくつかあった。劇場で観たときは全然気にならなかったので、あるいは昨今の家庭用システムのレンジの広さが災いしているのかも知れない。劇場で観るときは、暗い場内に目をなじませて観るために、画面のあらがベタに沈んで気にならないが、家庭の明るい画面で観ると、てきめんに目立ってしまう。たとえばスターウォーズなど、劇場で観たときには気づかなかったのだが、家庭用システムだとマスクの境目がはっきり見えてしまってかなり気になった。当時から比べれば、合成技術は比較にならないくらい進んだが、それでもまだ「現実と見分けがつかない」というほどの水準には至っていないようだ。
物語は前作「ジュラシックパーク」の続編で、実は、前作の舞台とは別の島に恐竜工場とでもいうべき施設があり、現在は廃墟となって、野生化した恐竜が跋扈する世界となっていて、そこに送り込まれた主人公たちが織りなす冒険が核になっている。話の展開はまあお約束だが、原作にはなかったサンディエゴ市内のシークエンスが笑えて面白かった。やっぱり恐竜映画はこうでなくてはいけない。実際のティラノの大きさでは、ああ軽々と自動車を蹴散らしたりは出来ないと思うが、これも映画のお約束だろう。ラストの、前作のテーマを真っ向から覆すような終わり方もいささか気になったが、前作の小説版のように、軍隊を送り込んで皆殺しにするというエンディングでは、映画でやったらブーイングの嵐になるのは目に見えているので、仕方がないのだろう。それにしても、あんなに小さな島では生態学的にとても恐竜を養いきれないと思うのだが。
ところで、桟橋につっこんできた船の乗組員たちは、いったい誰にやられたのだろう。やっぱりティラノがドアから口をつっこんで、乗組員たちを貪り食べてしまったのだろうか。・・・
TVシリーズからのスピンアウトというのは、Xファイルや最近のスタートレックなどもそうだが、なぜかスケール感に乏しい映画が多い。本編の欠点もまさにそこで、かなりの予算をかけた超大作らしいのだが、どうしてもTV映画っぽい軽さ、というか、有り体に言ってしまえば安っぽさが気になる。ゲイリー・オールドマンのドクター・スミスは置くとして、他のキャラクターに関しては特に異存はないのだが、設定自体に問題があるのかもしれない。まず第一に、なぜジュピター2号で出発するのが家族でなければならないのか、よく判らない。みんな行く気満々ならまだしも、次女などはっきり嫌がっており、彼女の意志を曲げてまでどうして連れていかねばならぬのか、いまいち説得力がなかった。何か家族でなければならない理由を、どこかで述べるべきだったろう。それから、ラストの部分でドームの中に核燃料をとりに行くのだが、タイムマシン云々の設定に押されておざなりになってしまった。ロビンソン博士の決断力を見せるための設定なのだろうが、ちょっと無理やりではなかっただろうか。
それにしてもこのところのCGによるSFXの発展はすさまじく、本編でもミニチュアを使った「特撮」はごくわずかだと思われる。しかし、それだけに逆にデザイナーのセンスが問われる部分も、以前に比べてぐっと比重を増したようだ。たとえば、映画の途中からファミリーに加わる猿のような動物だが、明らかにCGで描かれたと判るそれの造形は、まさにアメリカの古いカートゥーンそのままで、そこだけまるで「ロジャー・ラビット」でも観ているような気分にさせられてしまった。
それから、これは余談だが、いかに今回のCGがSGI製のパソコンで作られたからといって、冒頭に堂々とシリコングラフィックスの社名が出てくるのには呆れた。・・・