イルカと牛と白鳥と


 今年、2010年のアカデミー賞ドキュメンタリー映画賞は、ルイ・シホヨス監督の「ザ・コーヴ」という作品が受賞した。この作品は、日本の和歌山県太地町において今も伝統的に行われているイルカ漁について取材したものである。作品そのものの出来についてはなにぶん未見なもので、いま論評することはできないが、少なくとも監督がイルカ漁を告発する意図をもって撮った作品であることは確かなようだ。

 以前どこかで書いたことがあると思うが、僕はある主張をもってドキュメンタリー作品を撮ることには賛成である。いやむしろ、作者が何を言いたいのか、どんなことを訴えたいのか判らないようではドキュメンタリーとして失敗であるとさえ思っている。しかしそのことと、映画そのものの主張が正しいか否かはまったく関係がない。

 今から約三年半前の2006年11月、捕獲した118頭のハンドウイルカの中から胸びれ、背びれ、尾びれとは別の第四のヒレを持つイルカが発見された、というニュースが流れたが、それが発見された場所がかの和歌山県太地町であった。ニュースそのものの内容より気になったのは、異常なヒレを持っていたおかげで水族館送りとなった1頭を除く117頭のイルカたちの運命である。ニュースでは触れられていなかったが、やはり現地の人たちによって「消費」されたのであろう。かつて日本でも、伝統漁法としてクジラやイルカの漁が行われていたことは知識として知っていたが、現在もこれほどの規模で行われていたとは、ちょっとした驚きであった。おそらく監督のシホヨス氏も驚いて、このような映画を撮るに至ったのであろう。

 欧米の人たちのクジラ類への偏愛は今に始まったことではないので、彼らがこのような映画を撮ったり、それにアカデミー賞が与えられたりしても、別に驚くには当たらない。驚くべきなのは、そうした彼らがそれではみな菜食主義者なのかというと、どうもそうではないらしいことだ。さすがにシホヨス監督は「僕は動物の肉は食べない」と言っているようだが、鶏肉や魚がどうなのかまではわからない^^;

 かつて日本では動物食が忌避されていて、猪を「山鯨」などと称して食べていた。海にいるクジラは、当時の知識では「魚類」だったのだ(^_^)そうした詭弁の匂いが、どうも彼らの主張には感じられてならない。アメリカの代表的なファストフード、マクドナルドは1時間あたり5000頭分の牛肉をパテとして消費し、同社の製品「フィレオフィッシュ」用に深海魚「ホキ」を年間700万キロも捕獲している。まさにシステマティックな大虐殺であり、資源の乱獲そのものである。そうした問題には目を瞑り、それに比べれば遥かに小規模なイルカ漁を、いかにも凶悪な犯罪的行為のように取り上げるのはどこかおかしいような気がするのだ。百歩譲って、イルカもまた多くのクジラ類同様、乱獲のため絶滅に瀕している、というのならそれなりに説得力もあるが、ハンドウイルカは今のところレッドデータブックにも載っておらず、減少しつつある、という話もごく一部の海域に限られるようだ。

 それでもイルカを食べるために捕獲してはいけない理由として、彼らはイルカが「知的生命」だからだと説明する。確かに、イルカは人類に次いで脳化指数(体重に対する脳の重さの比率)が高いとされている。一見もっともな説に思えるが、実のところ肝心の神経細胞密度は人間より遥かに低く、その大半はグリア細胞、いわばつなぎの細胞である。それでもイルカにある程度の知性があることは確かだが、では彼らより知性が劣るとされる牛や豚は、それゆえ食べてもいいのか、という疑問も発生する。僕が子供のころ、母方の実家では大きな牛を飼っており、農作業の担い手としてよく働いていた。いわば家族の一員だったのである。また、最近ミニブタのペットとしての需要が高まりつつあり、犬のようにリードを付けて街中を散歩する姿も珍しくなくなってきた。こうした牛や豚の飼い主にとって、家族同様の動物たちを食べることなど論外であろう。しかし、同じ彼らもレストランに行けば牛肉のソテーを食べたり、ラーメン屋でチャーシュー麺を食べたりはするのである。

 そんな彼らも、牛や豚が屠殺される場面をこれでもかと見せつけられれば、少なくとも不快の念くらいは抱くだろう。イルカたちの虐殺シーンをこれでもかとばかりに撮影したシホヨス監督の意図もそのあたりにあったのでは、と僕は思う。つまり、論理ではなく徹頭徹尾感情に訴えかける作戦である。少なくとも欧米ではそれは功を奏し、アカデミー賞受賞という栄誉を得ることができた。しかし、彼が「啓蒙」しようとした日本ではどうかといえば、僕の見る限りではまったくの逆効果であった。ほとんどの日本人は太地町側にシンパシーを抱き、映画製作者をシーシェパードのような環境テロリストと同列に見なしている始末^^;

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 実は、理由のよく判らない保護(あるいは忌避)を行っているのは彼ら欧米人だけではない。僕ら日本人だって、似たようなことはやっている。それが、表題に挙げた白鳥である。江戸時代にはまれに食用にした事例もあるようだが、記紀に登場した例を見ると、やはり基本的に神聖な動物と見られていたらしい(斃れた倭建命が白鳥に姿を変え、飛び去るエピソードなど)その優雅な姿でごまかされてしまうが、白鳥はカモの仲間であり、食べた方の話によるとその肉はなかなか美味なのだそうだ。日本に飛来する数は年々増えており、はっきりした統計はないものの、数万〜数十万羽が日本で冬を越しているものと推定される。数だけからみれば保護する必要はなく、狩猟鳥獣に指定されてもおかしくはない。もちろん、現在29種ある狩猟鳥に白鳥(オオハクチョウ、コハクチョウ、コブハクチョウ=厳密には野生動物ではないが、ペットが野生化したノイヌ、ノネコが狩猟動物として認められている例もある)は含まれておらず、指定する動きも今のところない。白鳥が飛来すれば、地方自治体は率先して餌付けを行って「飛来地」の確保を目指し(昨今の鳥インフルエンザ騒動でやや水を差されたが)あわよくば観光資源として活用することまで考える。しかし、なぜみんなそんなに白鳥を大切にするのだろう。

 その理由についていろいろと考えてみたのだが、結局「白く大きい」ことくらいしか思いつかなかった。日本人は、ことさら「白い」ことについて意味を見出そうとする。たとえばアオダイショウの突然変異である白蛇は神様(弁財天)の使いとして珍重されるし、カラスのアルビノはしばしばニュースで取り上げられたりする。北朝鮮では白いタヌキが将軍様の誕生日に現れた、という話もあったくらいなので、こういう感覚はアジア人共通のものかもしれない。ただ白いだけでもこの有り様なのだから、それにあの雄大さ、優雅さが加われば、じゅうぶんに特別な存在たりうるのだろう。

 ちなみに白鳥はヨーロッパでも、かつては王侯貴族の食べ物とされていた時期もあるようだが、現在では手厚く保護されている。しかし、彼らが繁殖する北部/東ヨーロッパでは現在でも食用とされているようで、イギリスではリトアニアやポーランド人移民が密漁したおかげで激減してしまったという^^;

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 こういう話に比べれば、少なくとも欧米人のクジラ保護に対する姿勢はまだ理解できる。現実に、クジラ類はかつての乱獲で受けた打撃からまだ完全には回復しておらず、少なくとも商業捕鯨を永続的に行えるほどの余裕はない。彼らが調査捕鯨に異常なまでに神経をとがらせるのは、やはりそれが商業捕鯨の再開を目指した布石だと感じているからなのだろう。日本側から見ると、シーシェパードなどの環境テロリストのおかげで反捕鯨の側は分が悪いが、実は彼らの言い分にもそれなりの意味はある。日本の調査捕鯨はさまざまな国際条約のグレーゾーンに深く踏み込んだ脱法行為である、という批判に、なぜか日本のマスコミは完全無視を決め込んでいる。そこにはなにか、調査捕鯨という行為自体が日本国民の総意によって行われているかのごとき錯覚があるようだが、その実態が国民に知らされることはほとんどない。そもそも調査捕鯨という、他の高等生物を対象にしたときには見られない捕獲/解体、つまり標本個体を解剖してしまうような研究方法には疑問を禁じえない。日本捕鯨協会のHPを読んだ限りでは、わざわざ解剖しなければ解明しえない事実は、せいぜいその内臓や脂皮にどの程度汚染物質が蓄積しているか、といった程度のことでしかないように思えるのだ。他の、たとえば生態系における役割の解明とか、環境変動が与える影響などについては、クジラ以外の生物の研究においては解剖の必要性など認められていない。

 もちろん僕は、かの国の人たちのように調査捕鯨絶対反対と主張するわけではない。しかし、冷静になって考えると、クジラ肉が日本捕鯨協会の主張するような「日本人の生活に不可欠な栄養源」であるのかどうかについては議論の余地があるように思う。一部の沿岸地域を別にすれば、クジラ肉が一般人の食卓に上るようになったのは近代、つまり組織的な捕鯨が始まる明治以降の話である。当時、クジラ肉を代替できる安くて栄養豊富な肉類はなかったのだ。しかし、戦後の高度成長期を経て食料需給は国際化・自由化され、安い牛肉などが流通するようになってクジラ肉の地位は相対的に下落する。時を同じくして欧米では反捕鯨の機運が盛り上がり、クジラ肉が食卓から姿を消してすでに久しい。最近ではその流れに逆らって、将来的な飼料需給の逼迫に対する不安を煽り、その影響を受けないクジラ肉の確保こそ重要である、と主張する人も登場してきている。一見するともっともな議論のようだが、日本人全体の必須栄養摂取量に相当するほどのクジラ肉を確保しようとすれば、A.C.クラークの「海底牧場」のごとき牧畜ならぬ牧鯨でも始めないかぎり、あっという間に資源が枯渇してしまうだろうことは目に見えている。もちろんいま現在、クラークの描いたようなテクノロジーは存在しないし、今のクジラ類に対する欧米人の感情からして、今後も開発されることはないだろう。クジラのような大型哺乳類は成長に時間がかかり、ヒゲクジラでは完全に成熟するまでに25年ほどの年月を要する。また、個体数もほとんどの種類がせいぜい万のオーダーで、現在の調査捕鯨程度の規模ではさほどの打撃にならないものの、本格的な商業捕鯨にはとうてい耐えられない。つまり、クジラ肉で将来の食料不足に備えることはほとんど無意味というか、不可能なのだ。それでも調査捕鯨をやめない日本が国際的にどういう立場をとりえるのか、もう少し冷静に議論する場があってもいいのではないかと思う。

 最初に書いた「ザ・コーブ」という映画の話と反調査捕鯨、そしてシーシェパードなど環境テロリストの動きとは、もちろん根っこの部分に共通するものがあるのは事実だが、それぞれ別物であることもちゃんと認識しなければならない。簡単にいえば感情論と科学的事実認識との差である。何事においても、感情的になったところで問題が解決したりすることはない。むしろ事態はこじれにこじれ、パレスチナの宗教紛争のように数千年も続く人類の課題にすらなりかねない。唯一の解決策はやはり理性的になること、これしかないと思うのだが、人間もまた感情の動物、一朝一夕の解決は難しいだろうな、というのが実感である。・・・(2010.04.14 記)

 

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