エコノミック・エコロジー


 前回の論調から、僕が二酸化炭素の総量規制そのものに反対している、と誤解する方が出てきても困るので、ここではっきりと宣言しておくが、僕は二酸化炭素削減に関する提言そのものには賛成である。ただ、彼らが主張するその理由に納得できないだけである。

 地球温暖化の原因になるか否かはともかく、二酸化炭素が発生するということは、つまり化石燃料を燃やしているということにほかならない、そして、これまでも散々言われてきた通り、化石燃料は有限なのだ。さまざまな試算により、現在のペースで採掘したらあと何年で石油資源が底をつくという「可採年数」が発表されているが、現在、可採年数は2000年を基準として約33年とされている。もっとも、半世紀ほど前の試算だと、21世紀の現在ではすでに世界の石油は枯渇していることになるらしいが^^;

 なぜ可採年数がずるずる伸びているかというと、まず、試算が行われたあとも新しい油田が発見されているからであり、また、既存の油田からの原油の回収率が上がっているからだ。水やガスを油田に注入するなど二次回収技術の実用化で、既存油田の可採量はおよそ1.2倍に向上している。ちなみに、現在の確認埋蔵量、今後発見されると予想される資源量と、既存油田埋蔵量の上方修正値を合計したものを「残存資源量」と呼び、これを年間生産量で割ったものが「枯渇年数」である。こちらは2000年時点で79.1年とされている。この計算方法が正しければ、われわれには可採年数の実に2.4倍にあたる時間が残されている、というわけだ。とはいえ、油田の埋蔵量はやはり有限であり、このままで行けば今世紀中に枯渇する運命に変わりはない。あと70年ちょっとのうちに化石燃料によらないエネルギーに完全移行できない限り、現代文明は確実に破綻するのだ。

 もちろん、全世界の油田がある日いっせいに枯渇する、などということがあるはずもなく、枯渇年数は埋蔵量の多いサウジアラビアで約120年(可採年数60年)イラクでは160年(可採年数80年)を数える一方、生産量の大きなアメリカはせいぜい60年(可採年数わずか11年・・・この数字は2000年現在のものなので、2008年の今はあと3年分の石油しか残っていないことになる!!)と幅があり、枯渇年数の少ない順に生産が停止するものと考えられるので、70年後にいきなり石油の流通がすべて停止するわけではないが、それよりかなり早い時点で現在の生産量が維持できなくなるのは確実であり、世界はじわりじわりと「資源カタストロフ」に襲われるだろう。

 そうした未来の姿は半世紀も前に予測されていたにも関わらず、われわれはほとんど何の対策も練らなかった。もちろん一部の研究者によって、代替エネルギーの地道な研究開発が行われてはいたものの、原子力のように「産業」として成立しそうなもの以外は資本の投下も少なく、理論的には有望とされながら、現在に至るまで大規模な導入がなされていないものが大半である。このような現状に、二酸化炭素削減の方針は初めて具体的なNO!を叩きつけたとも言える。

 どうして悲観的な未来が予言されながら、われわれはその対策をとれないのか、答は簡単、現代が資本主義社会だからである。資本主義社会のもっとも顕著な特徴はなにか、と問われたら、意思決定が損得勘定により行われる、というところだろう。資本の論理に「正しさ」という基準はない。すべての決定はつまるところ「そうしたほうがカネになる」という判断により行われるのだ。市場による選択、という表現はそのことをやや上品に言い換えているに過ぎない。そしてその判断に、「未来」という変数は基本的に導入されない。多少考慮されているように見えるのは、ただ単にその影響が「現在の」株価や資産評価に現れる部分を、あくまでも「現段階の」価値判断で評価しているに過ぎないのだ。そしてそのことは、投資家ひとりひとりの恣意によって決定されることはない。卑近な例では9.11後の株価の暴落が好例であろう。当時誰もが株価の下落を望まなかったし、なかには愛国心の盛り上がりがかえって株価を押し上げるのではないか、と予想した専門家もいた。しかし、現実はあの通りだった。したがって、われわれのこのシステムでは来たるべき資源カタストロフの時代に適応できないことは明白である。

 それにしても、いくら資本主義の本質がそうだからといって、みんなこれほど暢気なのはどういうわけだろう。わずか人の一生ほどの未来に破滅が待っているというのに、なぜこんなあからさまな危機に対して、人々はこれほど鈍感でいられるのか、僕なりに考えてみたのだが、どうもそこには古代インドの重要な発見が絡んでいたのではないか、という気がするのだ。それは、0(ゼロ)の発見である。このことにより数学は長足の進化を遂げ、われわれには両手両足の指を使ってもとても数えきれない数の加減乗除が可能になった。もちろん、それはそれで素晴らしいことなのだが、同時に困った傾向も現れてしまう。それは、0(ゼロ)の相対化である。かつて、ゼロ、つまり「ものがない」状態は絶対的であった。今もその思想は乗除に受け継がれている。つまり、ゼロにいくつかけてもゼロはゼロであり、また、ゼロによる除、つまり割り算は許されていない。がしかし、特に経済学や経営学において、ゼロの意味するところはかつてと大きく異なってきている気がするのだ。つまり、ゼロは単にマイナスへの通過点に過ぎなくなっている、ということである。支出が収入を上回っても、足りないぶんは借金をすればいい、という安易な発想が今や当たり前となり、それは個人のみならず、金融機関にとっても自己資本を大幅に上回る貸付を行うことが当然になっている。つまりマイナス部分(「信用」という便利な言葉がそれを代用する)の活用が近代資本主義の最大の特徴なのである。

 しかし、資源の絶対量がゼロになる、ということはそれとは本質的に意味が異なる。石油が無くなったら、天然ガスや原子力で補えばいい、ということではないのだ。石油以外のエネルギー源にしたところで有限なのは同様だし、いずれにしろ、現在のような使い方をこの先も続けていけば、世紀末に現代文明は確実に崩壊してしまうだろう。それを避けるためには、人々にゼロ以上の禍々しい「なにか」を見せつけて、石油の消費を減少させ、代替エネルギーの開発に本腰を入れさせる必要があるのだ。そのために捻りだされたのが、「地球温暖化」の神話である、と僕は睨んでいる。

 人は知っている(と思い込んでいる)事実に対しては鈍感だが、未知の脅威に対しては驚くほど敏感だ。たとえそれが眉唾もののヨタ話であっても、精密なディテールを持った話には容易に騙されて恐怖に襲われる。記憶に新しいところでは、「ノストラダムスの大予言」などまさにそのいい例である。1999年7の月、という妙に具体性を帯びた予言が人々の耳目を捉え、関連図書は大ベストセラーになった。それと同様に、温暖化の巻き起こすであろう(と予言されている)数々の天変地異は、石油枯渇による文明の終焉などという漠然とした予想などより遥かに大きな衝撃を与え、その結果、人々はようやくその対策を真剣に考え始めたように見える。そもそもの始まりがそうだったせいか、少なくとも現在の環境意識の盛り上がりは、理性的というよりパニックに近いものを、僕は感じてしまう。結果だけを見ればたしかになかなか賢い作戦だとは思うが、実はそこには大きな問題が隠されているのだ。

 それは、ひとことで言ってしまえば「メッキが剥げる」可能性である。確かに現在温暖化は進んでいるように見える。しかし、それがこの先も右肩上がりで続くとは誰にも断言できない。前回見てきたように、地球の平均気温の大きな流れは、少なくとも過去1.000年間の傾向を見るかぎり、二酸化炭素の増減などよりも太陽活動に支配されていると考えられる。そしてそれは、明らかな周期性を見せている。現在はすでにかなり長期間にわたって温暖な状態が続いており、そろそろ寒冷期に突入しても何の不思議もないのだ。もしこれから数年後、11年周期で増加するはずの太陽黒点が増えないまま寒冷化が始まったとしたら、われわれはどうしたらいいのだろう。以前にも書いたが、寒冷化の及ぼす影響は温暖化の比ではない。1991年のピナトゥボ火山噴火の時、大量に噴出したエアロゾルの影響で寒冷化が起き、米の不作で僕たちはまずいタイ米など食わされたものだが、あの時、北半球の平均気温はわずか0.5度程度下っただけだったのである。しかるに、先の小氷河期(マウンダー極小期)における平均気温の低下は約1度C、それが70年にもわたって続いたのだ。もし世界がそんな状態になったら、われわれには何ができるのだろう。温暖化に期待を寄せて、逆に二酸化炭素の排出を奨励するのか?しかし、もしそんなことをしたら、もともと有限である資源はますます浪費され、資源カタストロフは予測より早めに訪れることになってしまう。

 たとえ地球が温暖化しようが寒冷化しようが、それとは直接関わりなく人類は化石燃料を消費し続け、いずれ資源は枯渇する。それを少しでも先延ばしにし、化石燃料に代わる新たな資源を開発するための時間を稼ぐ手段としては、二酸化炭素の総量規制は意味のあることだと思う。問題は、それをまったく馴染まない資本主義経済のシステムに組み込んでしまったことだ。おそらくこれにはメジャーなどエネルギー産業自身の思惑や、国家的規模の主導権争いも絡んでいるのだろうが、それにしても排出権を市場で売買しようという発想には、前述の資本主義特有の危険性が付いてまわる。資本の論理は往々にして独り歩きし、時に呆れるほどのムダを生みだす。みなさんも豊作で出来すぎたキャベツなどを、市場価格を保つというただそれだけの目的で、収穫せずにトラクターで踏み潰してしまう光景をご覧になったことがあるだろう。あれこそが資本主義の特徴的な映像である。環境という、およそ資本主義的発想とは馴染まないものを資本の論理で取り引きしようとするとき、おそらくあれに酷似した光景をわれわれは目にするのではないだろうか。

 そこで、「メッキが剥げた」状態、つまり、もし温暖化が止まってしまうような事態になったら世界はどうなるのか、考えてみるといい。それほど明瞭な変化が見られなくても、その兆しでも見えようものなら、排出権取り引きに関わる金融商品は軒並み下落し、現在のサブプライムローン問題など霞んでしまうような金融パニックが起こることは必定である。なにしろ、決して下落することがない「固い」商品と思われていたものの基礎が失われるのだ。あるいはそのことが、二酸化炭素削減の努力が報われた結果だ、と好意的に判断する向きも出るかも知れないが、その後の投資に意味がなくなる、という点において結果は同じことである。大金を注ぎ込んで購入した二酸化炭素排出権が、ある日突然紙切れ同然になるのだ。それはちょうど、バブル末期の土地神話崩壊にも似たショックを全世界的規模で巻き起こすことになろう。また、そうした問題の核心から人々の目をそらすべく、さまざまな工夫を凝らした理論も登場するだろう。

 現に、「カーボン・オフセット」などという、一見合理的に見えながら、その実化石燃料の消費削減にはまったく結びつかないペテンがすでに横行し始めている。問題は見掛け上の二酸化炭素排出を減らすことではなく、化石燃料の消費そのものを減らすことなのに、植林や二酸化炭素固定化技術の開発などという、ほとんど意味のない行為で代替しようとしている(重要なのはなによりも二酸化炭素の削減なのだ、という、すでに宗教的といっていい目的意識がそこには感じられる)植林というと人はただちに自然のイメージを抱くが、人工林と自然林とは生態学的意味からいったらまったくの別物である。植林などに費やすお金があるなら、一刻も早くアマゾンの焼畑や東南アジアの森林伐採をやめさせるために使うべきだし、二酸化炭素固定化技術にしろ、そんな技術に投資するくらいなら、むしろ代替エネルギー開発にこそ資金を導入すべきなのだ。まさに本末転倒の発想というしかない。('08.07.05 記)

 

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