熱湯よ現象


 表題は、ネットウヨをググってみようと思って打ち込んだところ、最初に変換された言葉である。僕のパソコンはちょっと古いので、「ネットウヨ」という単語はまだ辞書に入っていなかったようだ。面白いのでそのまま使っているが、本論の主題はもちろん熱いお湯ではない(^_^)ゞ

 さて、このところ目立つのが、ネット上で右翼的オピニオンを持つ人たちの増加傾向である。こういう人たちをひと括りにして「ネットウヨ」と便宜上呼ぶようだが、いまのところ確たる定義はないらしい。ごくおおまかな分類としては、反中、反韓的傾向を持ち、既存マスコミに疑いを持つ人たちということだろうか。ここここを読むかぎりは、僕にもそういうレッテルを貼る人がいてもおかしくはない。そうか、僕もれっきとしたネットウヨの一人だったのか^^;

 もちろん僕自身は右翼的傾向はないつもりだし、そもそも現代においてウヨク・サヨクといった分類にさほど意味があるとも思わない(詳しくはこちらを参照)が、ではネットウヨと呼ばれるような集団が存在しないかと問われれば、いないとまでは言い切れないだろう、というのが正直なところだ。試しに争点になりそうなテーマに関連したサイトや掲示板をご覧になるといい。そこには圧倒的多数の「右寄り」発言がみられることだろう。それらの「意見」にはあきらかに一致した特徴が見られ、ひとまとめに「ネットウヨ」と総括することは、たぶん無意味ではないだろう。

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 まず、なにより顕著なのが、反中、反韓など特定アジア諸国に対する反感である。よく考えてみるとこの動きはむしろ、あちら側の反日的な傾向に反発したものとも考えられるが(少なくとも、いまのところネット上の言論に留まっている日本側と違って、あちらでは騒乱事件が起きたり焼身自殺者が出たりと、その激しさは桁違いである)われわれ自身の深層にある差別意識との相乗効果も相まって、解放されると歯止めが効かなくなる可能性も十分にある。Racismによる差別は何の努力も必要ないうえに、相手に言い負かされる可能性も皆無なので(なにしろ「日本人」であるだけで「勝ち」なのだから)非常に安易に過激な状態へと走りやすいのだ。現在のネット上の論調には理性的というよりRacism的な発言もかなり散見され、ちょっとよくない傾向を感じる。

 もうひとつのマスコミに対する懐疑的姿勢だが、これは彼らの言動の中でもかなり顕著で、しばしば揶揄的に「マスゴミ」などと表現したりする。NHKや読売、朝日といったマスコミ主流派に対するイライラが、おそらくはその源泉になっているのだろう。ちょっと左っぽい方が「正義」の匂いがする、というマスコミ的価値基準が気に入らない、ということなのかもしれない。かつて素直にマスコミの論調を信じてきた若者が、ネットで自分が無批判に信じてきたのとは対立する考え方に直面したとき「自分は今まで騙されてきた」と覚醒し(たように錯覚し)てネットウヨに走る、というのはありそうな話である。公の場であるマスコミに対して、ネットはより閉じた、いいかえれば自分たちに近い世界であるだけに、無批判に受け入れやすい。いわば「ホームグランド」である、といった認識があるのだろう。そこで交される発言と、マスコミの言論とを比較してどちらに親近感を覚えるか、結果は明白だ。

 かつて、僕が若いころは、若者のオピニオンといえば例外なく左翼思想であった。以前にも書いたように、僕らの選択肢はせいぜいどのセクトを選択するか、程度しかなかったのだ。そして選択理由はその思想そのものより、人脈に頼るところが遥かに大きかった(たとえば中核と革マルというと、内ゲバの印象からまったく違った思想体系を持っているように思えるが、実はどちらも革命的共産主義者同盟というトロツキスト系過激派が分裂したものに過ぎず、些細な路線の違いから対立に至ったものだ。革マルの理論的指導者、黒田寛一の著作は読んだことがあるが、あまりに難解で、それを理解したうえで革マル派を選択した人などほとんどいなかっただろうと思われる)

 しかし、彼ら「新左翼」は、左翼とはいっても日共や社会党左派(協会派)など既成左翼はスターリニストとして否定していたし(もちろん社会党右派はフェビアン主義者=プチブルとして即座に否定^^;)中共(当時は一般的な名称だった)や北朝鮮といった国々も、一部のセクト(毛沢東主義者)を除いてはやはりスターリニスト国家として否定していた。すぐ暴力に頼りたがる傾向(内ゲバなど本当に日常茶飯事だった)も既成左翼よりは右翼的傾向を持った人たちに近く、レッテル以上にその実態は行動右翼に近かったように思う。いずれにしろ、70年代に隆盛を誇った彼らも80年代には没落の一途をたどり、たまに起きる襲撃事件などでその存在をアピールしてはいるものの、もはや絶滅危惧種的存在であることは誰の目にも明らかだろう。

 では現在、マスコミや社会に疑問を抱く若者たちはどこへ行けばいいのだろう。どこに矛先を向けて「反逆」を叫べばいいのだろう。結局のところ、現在の「ネットウヨ」というポジションは、「新左翼」という受け皿を失った怒れる若者たちの新たな落ち着き先、といえないこともないような気がする。もちろん、昔の若者は現実否定、すなわち「革命」を望んでいたのに比べ、現在の若者はむしろ現状の継続を望んでいる、という違いはある。しかし、その実態をよくみれば、新左翼のスローガンたる「世界同時革命」など所詮は実現不可能な夢に過ぎず、ある意味想像上のユートピア、言い換えれば絵に描いた餅に等しい。しかし、より現実的な「一国革命」はスターリン思想的として否定され、革命ではなく社会の改良により社会主義を到来させようという考え方もプチブル的と否定していた。なんのことはない、極端に過激な方向に突っ走るか、現状を追認して生きていくかの二者択一しかないのだ。もちろん、ひと握りの活動家以外の大半の若者は日和って社会に適応し、やがて到来するバブル経済ではその中核を担って大活躍することになる。

 ちなみに、現在のサヨクに相当する方たちは当時も既成左翼の下部組織、協力組織である民青や社青同などに加入して地道に活動していた。ネットウヨに比較して現在のネットサヨは遥かに小規模な存在だが、数の上では当時の新左翼と既成左翼関連組織との比率も似たようなものだったかも知れない。

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 ナショナリズムとRacismとの違いはここをお読みいただくと参考になるかと思うが、現実的な線引きは難しい。同じように見える行為でも、その意図によって意味は違ってくるし、相手側がどう解釈するかによってもその影響は違ってくる。ナショナリズムと誤解、あるいは曲解は付き物のようなものだからだ。誤解にしろ曲解にしろ、意図した側より善意に解釈されるということはまずなく、たいていの場合は想定したより悪い結果が帰ってくる。お互いに何度かそれを繰り返せば、もはや国民感情は戦争一歩前、というような状況に至ることも珍しくはない。それを避けるために必要なのは、まず第一に相手の言い分をきちんと聞くことなのだが、ことナショナリズムが絡んだ話になると人は感情的になりやすく、一度塞いだ耳を開かせるのは至難の業となる。

 これは数年前、あるブログにアップされた「エイプリルフール」ネタに関するコメントを集めたアーカイブだが、大量の賛意が寄せられているのに驚く。もちろん、ここにカキコした人すべてがネットウヨである、と断定するわけではないが、やはり冷静な反応とはほど遠いコメントを寄せた人が大半であり、少なくともネットという環境では、こうしたRacismに近い雰囲気が蔓延していることが判る。ネットにアクセスする世代を考えてみると、現在世の中を動かしている中堅からその下の世代、つまり、これからの日本を背負っていく世代である。それらの中にこうしたオピニオンが主流派として広がっている現状には、やはり一抹の危惧を感じざるを得ない。もちろん大多数の人たちは実際に戦争が始まることを望んではいないだろうが、心の隅では「それもありかな」と思っているのではなかろうか。少なくとも、「悪い冗談」として否定的意見をカキコした人は、ここでははっきり(洒落の判らない無粋な人間として、ではあると思うが)疎外されている。すでに「気分はもう戦争」というところか^^;

 別のブログでは、昨今の政治家の不祥事について、2.26事件などで決起した青年将校の気持ちが判る、などという意見が述べられていた。こうした心理状態はすでに、アルカイダを支持する多くの物言わぬイスラム教徒に近しいのではないか、と僕は思うのだ。カキコした方は自分をあんなテロリストを支持する連中と同列にするな、と怒るかも知れないが、テロを支持する、という視点からはまさに同列としか言いようがない。ほとんどのイスラム教徒は本来、平和を愛する穏健な人々であるにもかかわらず、ビンラディンは彼らの支持を取り付けることに成功し、いまなおアメリカの追及から逃れ続けている。どんな人でもマス・ヒステリー状態に陥ると極端な行動をとるヒーローを熱望し、熱狂するようになるということだ。現在のネットウヨ諸氏がビンラディン待望症候群に囚われている、とまではいわないが、そうした方向に突っ走る危険性はけして低くないと見るべきだろう。

 誤解なきように願いたいが、僕はけして中韓、いわゆる特定アジア諸国に対してへりくだれ、といっているわけではない。むしろ、言うべきことはきちんと発言し、その党派的な目論見を許してはならないと思っている。たとえば中国共産党の近年の対日策謀はまちがいなく政権延命を狙ったものだし、韓国ノムヒョン政権の「太陽」政策などまさに亡国政策、愚の骨頂の見本だろう。北朝鮮に関しては言うまでもない。もはや崩壊していただく以外に救う道はないと僕は思っている。しかし、それらはあくまで政治の問題であり、その責任を民族それ自体に帰してはならないと思うのだ。前述したように、Racismによる差別がいちどおおっぴらに広まってしまうと、その収拾は容易ではなく、果ては殺人までが正当化されてしまうことは、歴史が教えている通りである。

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 ネットウヨな方々がマスコミに対してよく使う言い方の一つに、「印象操作」というのがある。もともとはサヨクな方々が好んで使った「情報操作」という言葉の誤用、あるいはパロディと思われるが、彼らの主張をよくみてみると、別にふざけているわけではなく本当にそう信じているようだ。基本的にマスコミは政府との距離を強調しようとするあまり、やや反政府的な表現ともとれる主張をする。たとえば基地問題などでも、基地そのものの現状や、反対するデモ隊の主張などはとりあげられても、基地の存在によって生活が成り立っている人たちの声などはほとんど取り上げられない。とりわけ防衛問題などに熱心な方々にとってはこういう姿勢が「印象操作」と映るわけだ。

 いかにマスコミが中立とは言っても、全方位に等距離で存在することはあり得ない。彼らは彼ら自身が中立と考えるポジションをとるだけだ。その位置取りはNHKと民放では当然異るだろうし、朝日新聞と産経新聞でも異るだろう。しかし、前述の基地問題などではどのマスコミもさほど違いの見られる報道はしていない。なぜかといえば、反対派に比べて受け入れ派の声があまりに小さいからだ。騒音や事故の可能性など、大半の人にとって基地は迷惑な存在に過ぎず、歓迎する声が小さいのは当たり前の話である。それが必要である、と判っていてもやはり有難くないのは、たとえば税金を例にあげれば判りやすいだろう。国や地方自治体を運営するのに欠かせないのはよく判っていても、どんどん税金を取ってくれ、という奇特な方が滅多にいないのと同じことである。もし受け入れ派が反対派同様に歓迎デモ^^;でもやれば、マスコミもあるいは取り上げるかもしれないが、紙面や放送時間の関係もあるから、すべての声を取り上げることはできない。結局のところ局や新聞社の判断で取捨選択することになる。ネットウヨな方々にとってはこの「取捨選択の姿勢」が問題なのだろうが、それはもう個々のマスコミの主体性に任せるよりない。また、記事の内容とは微妙に異る表題を付けることによって「印象操作」している、という主張もある。これは主観の問題であり、記事の要点と思える部分は人によって受け取り方が異るので、特に微妙な問題に絡む記事の場合、あらゆる人間が納得できる表題というのはありえない。記者は自分の主観で「最大公約数」と思える表題を付けるしかないのだ。

 はっきり言ってしまえばネットウヨな方たちの言う「印象操作」など、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいなものだ。右側に立ってものを見れば、真ん中にあるものも左側に見えてしまう、といったらいいだろうか。「操作」というからには自然発生的なものではなく、はっきりそれをコントロールする勢力が存在する、ということなのだろうが、NHKをはじめとしたわが日本のマスコミにそのような隠然たる勢力が存在する、と考えるにはあまりに無理があり、ほとんど妄想に近い発想であると言うしかない。もちろん、全学連当時の活動家が現在はマスコミの管理職ポジションを得て、当時の意趣返しを今頃になってやっている、という考え方はそれなりに面白くはあるが、そもそも大企業たる新聞社や放送局に入社した時点ですでに日和っており(当時の学生にとっては「朝日ジャーナル」以外のマスコミは=週刊朝日ですら^^;=すべてゴミだった)少なくとも「隠然たる勢力」などといえる存在ではあり得ない。

 むしろ、本当に怖いのは「情報操作」の方である。つい先日のNHKの従軍慰安婦報道問題でも判る通り、電波法の許認可権を持つ国家=政府はマスコミに対して強い立場にある。いまのところ事件はNHK上層部が「勝手にやったこと」になっているが、もともと腹芸の得意な日本の政治家が、検察当局に尻尾を握られるへまなどするはずがなく、その気になれば、いっさいの証拠を残さずマスコミを牛耳ることも不可能ではない。そうなったとき、実はもう「自由なマスコミ」など存在しないのだが、それを僕たち一般の人間たちが知ることはまずない。一般人が気付くような下手な操作では操作としての意味がなくなるからだ。いつも「炭坑のカナリア」がいてくれるとは限らないことを、忘れてはならない。今回もし現場のディレクターが声をあげなければ、そもそもそうした事実それ自体の存在を、われわれが知ることはなかったのだ。ネットウヨの本当の危険性は、政府によるこうした動きを礼賛するような雰囲気を醸成することである。実際、反政府的傾向のある記事は批判しても、現政権寄りの記事が批判されることは滅多にない。こうした傾向は小泉内閣当時から顕著になったものだが、彼らの新保守主義的傾向がネットウヨの嗜好とシンクロしていた、ということは言えるかもしれない。

 もうひとつ、彼らのマスコミに対する姿勢で気になることがある。ある事件をマスコミが報道した場合、その報道姿勢についてネットウヨな方々が云々するのは自由であり、特に問題はない。しかし、事件それ自体を報道するか否か、という部分にまで突っ込んで批判するとなると話は別だ。報道するか否かの権限はあくまで局や新聞社にあり、特別な場合を除きそれに横槍を入れることは許されない(ちなみに特別な場合とは、明らかな誤報である場合と、報道されたことによって特定の個人の名誉が著しく傷つけられたり、人命が危険に曝されたり、外交上の機密など国益を損なう場合に限られる)それが報道されることによって現政権の不利になったり、国論が反政府的な方向に傾くからというだけでは、報道は止められないのだ。なにしろ、報道・出版の自由は憲法で認められた権利なのである。どうもこのところの動きを見ていると、報道内容と報道することそれ自体との決定的な差に関して、ほとんど無頓着なウヨ論客が増えているように思われる。

 たびたび書いているように、僕がこの世で最も苦手な生き物は蜘蛛である。蜘蛛などいない世界があったらどんなにいいかとも思うが、実際に蜘蛛のいない世界を考えてみると、それは生態系のバランスが極度に狂った異常な世界である。蜘蛛が獲物としていた昆虫類は天敵がいなくなって大発生し、餌となる植物を食い尽くし、その植物に依存していた別の生物をも脅かす。こうしてドミノ現象的に影響は自然界全体に波及し、バランスが復旧するまでには厖大な時間を要することだろう。

 同様なことはマスコミにもいえる。さまざまな主張があるからこそマスコミは存在している意味がある。保守派の方々は、現状を続けたければ、みずからと対立する組織やマスコミを温存しなければならない、という逆説を理解しなければならない。それこそが民主主義の本質である。右にしろ左にしろ、ある勢力が自分とは別の意見を封殺してしまったら、そこにもう自由なマスコミ、つまり正常なマスコミはない。このことは、おもに左の方々の得意技である「言葉狩り」をみればお判りだろう。狩られるのが言葉ではなく報道そのものであったなら、最後に残るのは政府公報、あるいは党機関紙と化した御用新聞のみである。右でも左でも暴走すれば結果は同じ、抑圧的国家の成立である。国家社会主義国家=ナチスがいいか、スターリン主義個人崇拝国家がいいか、まさに究極の選択だ。現在のネットウヨ諸君も、まさか日本がナチス化することまでは望んでいまい^^;

 たとえ自分とは意見を異にするマスコミであっても、その存在はかけがえのない宝である、ということを「マスゴミ」などという天に唾するがごとき妄言を弄する輩には、身にしみて判ってもらいたいものだ。あなたに情報を与えてくれるのは、どうあがいてもその「ゴミ」以外にないのですよ(^_^)/・・・('07.02.19 記)

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