佐野祭りの歴史

泉佐野の布団太鼓台は、いつの頃から始まったのかは、年代等不詳ですが、同市里井家の

古文書には次のように書かれています。

天保五年、五月十一日、日根郡村々宛 先年 村々部屋住のもの組合、若中と唱、祭礼之節

太鼓台之致世話来候処、近頃諸事致増長、太鼓台丼太鼓台餝物等花実二相成、其上村他江

対し喧嘩等いたし、不能之事モ而巳ニ而村為に相成不申罷在候処此度質素儉約可仕旨被仰出

候間、若中帳面丼太鼓台諸式村方江差出し、向後若中と申儀相止可申候、尤太鼓台之儀は、

如何之訳ニ候哉、祭礼ニ用来候間、後年に至外之見合も有之、太鼓台ハ出候様に相成候共、

百姓代頭百姓江引受、諸事致取扱候筈ニ而、若中組合候儀決而致、間敷候、此度御引取ニ

相成候太鼓台之儀、先々唯之次第入用ニ差出取調候儀ニ付、村方一同之仲間ものに候間

右ニ付少も申分無之候、何れ若中 申儀竪相止可被申候事。

以上の様に書かれている事から、天保年間には、あった物と思われますが、形や姿はどの様な

品物であったかは不詳です。又、明治四十一年七月廿四日、廿五日の両日「太鼓台垣出願」を

佐野警察分署長へ出願し、許可を得ると書かれています。

現在泉佐野には、大人の布団太鼓台が三台あり、子供布団太鼓台も三台あります。

野出町と新町の太鼓台は、明治中期以後、大正初期頃の製作と思われます。春日町の

太鼓台は、江戸時代末期頃(三台共に詳しい年代等は不詳)の製作かと思われます。

この布団太鼓台は、七月海の日の連休(以前は、七月二十三日、二十四日)の両日春日神社の

夏祭り(佐野まつり)に、大漁満足と海上安全を願い、漁師町(新町、春日町、野出町)の浜三町

の町内から担ぎ出されます。春日神社の夏祭り(佐野まつり)は、貝塚の夏祭りや百舌鳥八幡の

月見祭りのように有名ではないが、勇壮さと荒々しさ、心意気は引けをとらないと思います。

又 泉佐野の布団太鼓台の型式や材質は、淡路型や堺、大阪型の黒檀、紫檀が主流に対し

貝塚の太鼓台と同様に欅材が主流で一部分に黒檀、紫檀等が使用されている。型式は、淡路

堺、大阪型ではなく貝塚型に似ている。貝塚の布団太鼓台は、布団の上に結び(トンボ魔羅)が

あり、台柱(足)に土呂幕に彫物があるがそれらは無く又、勾欄部分が違い、布団締めも三本締

ではなく二本締めである。泉佐野の布団太鼓台の布団締めには、金糸、銀糸で、昇り龍、下り龍

戦国武者の豪華な綺麗で美しい刺繍がしてあります。

泉佐野 布団太鼓 逸話

今現在担ぎ出している各町の太鼓台は二代目と思うが先代の太鼓台については何も記録、又

資料も無いので不詳です。現在は浜三町(野出町、春日町、新町)の漁師町から大漁満足、

海上安全を祈願して太鼓台を担ぎ出しまた神輿を担ぎ巡幸するまた明治末期頃から昭和初期

(年代不詳)頃に春日神社夏祭り(佐野祭り)には、四台の太鼓台が担ぎ出されていました。

浜三町の太鼓台と沖仲仕の太鼓台で当時石炭を積んだ船が佐野浜へ着くとその石炭を運んだ

人達が寄り集まって新調(または他所からの購入)をした太鼓台で製作年代、大工棟梁、彫物師

等は不詳です。昭和十年代に戦争が始まり沖仲仕の人達も戦争へ行く人や国に帰る人が出て

来たため太鼓台を担ぎ出すのを中止した。その後昭和二十年代(戦後すぐ)に新町がこの太鼓

台を借りて担いだと聞きました。(戦後間もないので人手が足りなくて若衆達では現代の新町

太鼓台を担ぐのは無理と思い沖仲仕の太鼓台を借りて担ぎ出す)一年か二年担ぎ出すが宮入

の最中に四本柱が折れたので、また現在の太鼓台を担ぎだす。昭和三十年代(詳しくは不詳)に

四本柱を修理して、本町(春日町隣町)が借りて担ぎ出すが一年か二年で中止したと言われます 。

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