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映画用語辞典

ひとまずは、映画研究塾の論文、批評等に頻出する用語から始めました。将来的には、少しずつ増やして行きたいと思っています。
●は「映画研究塾専門用語」つまり、私の作った造語です。赤文字は更新箇所です。

用語 解説
アクションつなぎ(繋ぎ) →カッティング・イン・アクション
アメリカの夜 夜のシーンをフィルターや絞りで昼に撮影すること。擬似夜景。つぶし、とも言う
F値 絞りの開口部の大きさ。F値が高いほど開口部は小さく、キャメラに入る光は少なくなる
●1.6(いってんろく) 現在の日本の平均映画人口は1億6千万人。一人に換算すると、日本人は一年に平均1.6回映画を見に行っていることになる。映画研究塾で使われる「1.6」とは、「一年に1.6回しか映画館へ行かない人へ向けて撮られた映画」、という意味。悪く言うと、「一年に1.6回以上映画館に来ないで下さい」というレベルの映画であるとも言える。私のように年間100本以上自費で映画を見に行くバカに対しても、よろしかったら映画を撮っては頂けませんか、という、へりくだった表現として使われることもたまにある。
一本立て大作主義

それまでの二本立ての興業から、一本立ての大作へと移行したこと。1976年「犬神家の一族」から採用される大型化した製作資金をより早く、確実に回収する必要に迫られたことから、一本立てによる拡大公開に結びつく大都市中心の興行システムであり、大型出資による一発勝負となる。その弊害として論文「西部劇、神話的ガンマンと線の物語」の注B参照

エモーション 「情動」のようなもの。「ヒッチコック・トリュフォー映画術」で語られた伝説的映画言語
オフ(OFF) 画面の外、フレームの外の、我々観客からは見えない空間の総称。例えば「オフから歌声が聞こえて来た」など。
オフオフ 画面の中の人物が、画面の外の複数の人物へと順次視線を移動させること。成瀬目線との違いは、成瀬目線が、画面の外の一人の人物の動きを持続して瞳が追いかけるのに対し、オフオフは、一旦視線を切り、他の人物を改めて捉える点。成瀬巳喜男の50年代の作品に頻出する。→成瀬目線。
拡大公開 全国主要都市一斉公開のことであり、「エクソシスト」「タワーリングインフェルノ」75「ジョーズ」75で確立された洋画の全国一斉公開システム。それが後に邦画へも波及する。短期回収・同時性を趣旨とする。
陰ゼリフ 映画初期のサイレント期に、一時採られた手法。映画に出演した役者が、スクリーンのうしろから(陰から)声を出してセリフを付けること。声色を真似る弁士(声色弁士)が陰ゼリフを付けることもあった。→声色弁士
カッティング・イン・アクション(アクションつなぎ) アクションの最中にカットしてつなぐこと。その趣旨を説明するとなると一筋縄では行かないが、まず大きく言えば、映画とは、撮影フィルムの長さや役者の演技の持続範囲等の限界から、本質的に「カット」という行為を内包しているメディアであるところ、動作(アクション)の間にカットをつなぐと、観客は二つのカットがスムーズにつながっているような錯覚を起こす。これが最大の趣旨ではないだろうか。つまり、「カット」されていることを気付かれないようにするための方策である。そこから映画は進化し、例えばボギーがタバコを口に持って行った瞬間にサッとクローズアップに寄ったり、あるいはガンマンがガンベルトに手をやった瞬間サッと抜かれる銃へとクローズアップで寄ったりという、美学的な方向へと流れて行ったのである。小津安二郎の50年代以降の映画を見てみよう。人物が立ち上がる瞬間はサッとカメラを引き、座る瞬間は寄る、を徹底的に繰り返している。また、マキノ雅弘は、人物が振り向く瞬間、クローズアップに寄ることで劇的効果を実現している。
カットつなぎ 二つのショットをつなぐ場合に、オーバーラップ・フェイドアウトなどのオプチカル処理を施さずに、そのままつなぐ方法。小津安二郎等がこれを採用している。
カット率  一定の時間ごとのショットの数
●画面を隠す クローズアップ、浅い被写界深度、速いカット率、めまぐるしい視点転換、動き続けるキャメラなどによって、画面を高速で動かし続けること。画面の「内容」ではなく、画面を「動かすこと」それ自体を目的としている。「動かし続けること」で凡庸な画面を「隠す」ことが可能となる。「ロードオブザリング」「パイレーツオブカリビアン」等のシリーズがその典型。興味のある方は、こちらの映画批評へ
均質性 質が同じであること。近代以降、あらゆる時間空間は、この「均質性」による遠近法によって支配されつつある。「同じであること」とは、「なじみ易いもの」であり、我々の理性の及ぶ範囲のものとして人間が入って行けるものとなる。人間とは、あらゆるものを「均質化」することで、「入って行ける」のである。
そしてこうした現象が、国家や公共的空間のみならず、私的空間、ひいては創作、芸術活動をまで支配する原理となっているのが、まさに「現代」という時代である。「質的に同じものを求める芸術」などというものが、果たして「芸術」と言えるのだろうか。
逆光 →バックライト
グラインドハウス 1960〜70年代において、アメリカの大都市周辺に存在し、低予算B級映画ばかりを2〜3本立てで上映していた劇場のこと。ゾンビ映画や香港カンフー、マカロニ・ウエスタン、スラッシャーなどが上映され、いわゆるサブカルチャー好きを中心にコアな盛り上がりを見せた。20本程度のプリントを国中のグラインドハウスへ回したため、フィルムに傷、飛び、ブレが生じ、リールごと消失して上映されることもあったらしい。ロパート・ロトリゲス「プラネット・テラーinグラインドハウス」(2007)では、映画のあらすじを説明する部分を「一巻消失」のパロディで見事に「B」的にすっ飛ばしていた。
グランドホテル形式 映画「グランドホテル」(1932)で取られた手法がそのまま「グランドホテル形式」として呼ばれるようになったもの。ホテルに滞在する様々な人々の人間模様を、それぞれ独立させて描きながら、時に交わり、時に離れを繰り返す、描写方法である。「デッド・エンド」「ノックは無用」「安城家の舞踏会」「浪人街」「幕末太陽傳」「洲崎パラダイス赤信号」「ゴダールの探偵」「ポセイドンアドベンチャー」「タワーリングインフェルノ」、最近では「ボビー」などがこの形式で撮られている。
画目の中に、暗い部分(黒)を配置して、コントラストを出すこと。「ゴッドファーザー」、最近では「エネミー・オブ・アメリカ」「SAYURI」「夜よ、こんにちは」などが良い「黒」を出している。
形而上学 人間の知覚によって直接的に認識することが不可能であることについての議論。宇宙の本性、神の存在、真実、など。基本的に形而上学的思考とは、西欧的な思考回路と言えるのだが、仮に「真実」を例に取ると、「真実」という形而上学にはそれに対する「うそ」が、「正義」という形而上学には「悪」が、という形での単純な二項対立を作り上げ、対立するものを「虚偽意識」として否定する傾向が強い。「理性人」と「未開人」、「健康」と」不健康」、「意識」と「無意識」など、数え上げれば切りがないが、我々はどうしても、こうした「形而上学的思考」というものから逃れられないように出来ている。
と言っても当サイトはあくまで映画サイトであって哲学サイトではないのだから、当サイトが「形而上学」と書く時には、多くは、そのような形而上学的な固定的観念(画面)が、映画の「運動」というものを阻害し、エモーションを引き起こさないステレオタイプの反映画的なものとして呈示されている、という趣旨においてである。映画は形而上学的二項対立ではなく、善と悪とのあいだを行ったり来たりするような撮り方の方がより「運動(持続)」し易いのである。
コーナー(隅)を取る 撮影時、画面の両隅に襖とかドアとかを取り込むこと。画面に立体感が出る。
声色弁士 役者の声帯模写で声色を真似て解説をする弁士。土屋松濤などが有名。
●「C」 一度止まったら二度とエンジンのかからない車に乗っている感覚を呼び覚ます映画
持続 質的な差異を生み出しながら、絶えず新しく多様な生成が湧き出てくる凝縮した時間。ベルクソン哲学の主要概念の一つ。ベルクソンの影響を強く受けている蓮實重彦は良く使う。
「質的な差異を生み出しながら」とは、映画的な言葉に引き直すならば、『制度的なステレオタイプの運動を脱し、生き生きとした生成と驚きに満ちていて、我々を宙吊りにしてやまない瞬間の連続』という感じになる。
シャロー・フォーカス 被写界深度を浅くして奥行きの浅い焦点面を作り出す撮影法。ディーフ・フォーカスの逆
主観ショット 登場人物の視点から見たショット。アルフレッド・ヒッチコック「裏窓」などがその典型。
シンクロナイズ 画と音に同期性を持たせること
身体論 知識人が作品を読み解いて行く場所は超越的な外部であり、それはデカルト主義的遠近法に基づく身体感覚を欠いた観察に近くなる。封建社会ならば武士は武士であり、農民は農民としてのアイデンティティを外部から与えてもらうことで「自分探し」などということをせずにすんだ。しかし階級が解消され、共同体も崩壊した近代においては、みずからのアイデンティティを与えてくれる外部は存在せず、我々はみずからのアイデンティティをみずからで選択するしかなくなった。そうして我々は、自己言及のパラドックス(私が私を正確に言い当てることができない)に陥りながらも、「私」という身体を含めた「私」を「私」が再帰的に自己観察することで「私は誰か」を選択せざるを得なくなる。「私」が自己観察する「私」とはもちろん「世界」の中の「私」である。
そうした複雑性に支配された近代において知識人は、みずからの身体の観察を欠いたデカルト主義的遠近法によって対象だけをオブジェクトとして観察している。知識人は作品に「揺らされる」ことがない。そうすることで、作品が本来内包しているはずの不可知のうごめきに反応することができず、身体を翻弄されることもない。身体とは世界の出来事に影響されるものであり、風が吹けば吹き飛び、雪崩や津波に巻き込まれる、それが身体である。作品はもちろん「世界」であり、当然ながらそこにおける出来事に、世界内存在としての我々は反応を余儀なくされ、関係をゆさぶられ、時に発見をし、時に宙吊りの目に遭う。それは作品が「世界」だからであり、我々がその「世界」の中に身体と共に同居しているからである。それが「近代と付き合うこと」なのだ。ところが知識人は「世界」から超越してしまう。「世界」の「外部」から、知識という「神」の視線で作品を鳥瞰し、作品を従わせる。彼らは決して作品に揺らされることはない「知識神」なのだ。
●心理的にほんとうらしい映画 映画の中に出て来る人物の行動なり出来事の展開が、それらしい因果関係ないし動機に基づいている映画。運動よりも論理を重視する点で、「映画」から遊離する危険を内包している。詳しくは論文「心理的ほんとうらしさと映画史」
ずり上げ 編集用語。画よりも音を先行させること。例えばAとBとの会話において、Aがしゃべっている姿がまず画面に現れ、次にBの台詞がそこに入り、次にBの姿のショットへと変わるような場合。→ずり下げ
ずり下げ 編集用語。音よりも画を先行させること。例えばAとBとの会話において、Aがしゃべっている姿がまず画面に現れ、次にBの姿のショットへと変わった時、Aの台詞がそのままずり下げられて続くこと。→ずり上げ
スリークッション ハワード・ホークスが、自らの映画のダイアローグ(対話)の間接的な表現を、ビリヤード用語を使って表した言葉。「ここに当たり、あそこに当たり、こちらに来て、意味にぶつかるからです」とホークスは説明している。

プレストン・スタージェス「七月のクリスマス」の冒頭、貧乏な娘が恋人に「風呂場に暖炉を置いて、あとテーブルを置いて台所にすれば、一部屋で足りて経済的だわ」というと、恋人の男が「じゃあ、君が台所にいる時、僕は暖炉に当たれるのかい?」と聞く。ここでは「君が風呂場にいる時」でなく「台所にいる時」というワンクッションが置かれているのがミソである。そうする事で、娘が「風呂場で裸でいる」という下品な想像が「台所」というワンクッションによって上品に、かつバカバカしく襲って来る。これがギャグというものだ。
制度 →風景
●説明ゼリフ 人物の心の中や行動の動機をすべて「言葉」で説明してしまう映画のこと。映画の本質は「運動」であり、その「運動」によって「物語を語る」ことが映画的才能の見せ所でありながら、それを放棄して、ひたすら「言葉」で簡単に説明してしまおうとする映画であり、最近では「蟲師」「憑神(つきがみ)」などがその典型。何故こういう映画が増えて来たかと言うと、それは映画を「判り易くしたい」からであり、もちろんそれは、そうすることで大衆受けを狙っているのであるが、そうした傾向が最近はさらに助長され、ほとんど「幼児向け」と言うしかない、驚きのカケラもない「バカでも判る」映画が巷で氾濫している。
●線 地平線や水平線、山や丘の稜線など、映画に出て来る「線」の総称。詳しくは論文「西部劇・その神話的ガンマンと線の物語」
全プロ ブロック・ブッキングとも呼ばれ、あらかじめ決められた作品ラインナップを自社の系列館すべてで一定期間上映する日本独自のシステム。観客の入りの多少に関わらず上映するため番組に困ることはないが、不入りでも作品を変更することはできない。
増感現像 現像時間を長くすることによって、フィルムの感度を高くする現像方法。粒子が荒れ、コントラストが強くなるので、高感度フィルムが出現してからは、あまり使われなくなる。
●知識人的映画批評 映画のメディアとしての最大の特性である「現在性」を取り逃がした批評を言う。知識人の映画批評とは、根源的に、自らの持っている「知識」と、映画の「主題」なり「歴史性」なりとの辻褄合わせに過ぎない。だがその「辻褄合わせ」とは、それ自体が既に映画の「過去」についての議論なのだ。知識人は、「知識」と映画との整合を「検査」する「検閲官」に他ならず、画面を「現に」揺さぶる「風」も、「深度」も、「カッティング」も、彼らにとっては「語り」の対象とはならない。彼らが語りの対象として選択するのはひたすら「過去の知識」である。
つなぎ(画面の) ショットからショットへ、唐突で目立つ変化を排除して、連続性を感じさせるようにすること
ディゾルヴ フェイドと並ぶ場面転換の一技法。一つの画面が消えてゆくにつれて、別の画面が徐々に二重写しで現われる。
ティルト・ショット キャメラ本体は移動せず、キャメラの首だけを上(ティルト・アップ)、または下(ティルト・ダウン)に動かして撮ったショット→パン、ロール
デカルト主義的遠近法 主体(見るもの)と客体(見られるもの)を分離し、身体から分離された超越的な視点から客体を見つめること。身体から分離されているので、網膜に映った物の像と、そのものの真の姿を照合し、客観的な真実を見る事ができるとされる。しかしそもそも身体から分離した超越的な神の如き視点なるものが可能かという問題があり、また、身体から分離しているが故に、そこには時間の観念もまたエロスもなく、非人間的であるという批判がある。最近はデカルト主義的遠近法と関係してこの「身体」という問題が良く出てくるが、映画論で言うならば、現代社会はイマージュに満ち溢れ、我々は身体感覚を失ってしまっている。例えば湾岸戦争の映像を見ても、それがスペクタクルとしての「他人事」にしか感じられなくなってしまっている。身体感覚を失うということは「痛み」を感じなくなることであり、常にまたイメージは「よそ」のものとして感じられる傾向が在るからして、他人の痛みに対しても鈍感になる。そういうことに対する懸念として「身体」というものがクローズアップされて来ている。
デクパージュ 映画の画面構成、ショットの配列を示すフランス語。「古典的デクパージュ」とは、昔のハリウッド映画のスタイルで、マスターショットを基本に切返しとカッティングインアクションによる軽快な編集リズムとクローズアップによって心理的に(物語的に)つないでゆく映画のこと。映画研究塾において「古典的デクパージュ」とは、良い意味で使われる時と、そうでない意味で使われる時との二通りある。
デュープ・ネガ 複製したネガのこと
投資ファンド(映画ファンド) 「フラガール」のシネカノン・ファンドを例にとると、その特徴として
@著作権信託 これにより製作会社が倒産しても著作権を第三者に差し押さえられる危険がない(倒産隔離)
A二重課税が生じない。Bポートフォリオ型(1本の作品に対してではなく、シネカノンで2年間に製作、配給される20本の作品全体について45億円の投資をする。これによって、リスクを分散できる。
ト書 脚本で、会話(ダイアローグ)以外の俳優の動き、出入り、照明、音楽等について書かれた部分。小説では地の文という
トラック・アップ キャメラを持続した時間空間の中で被写体に近づけてゆくこと→トラック・バック
トラック・バック キャメラを持続した時間空間の中で被写体から遠ざけること→トラック・アップ
ドリー 台に車輪を取り付け、上にキャメラとオペレーターを乗せて動く撮影用の移動車。プロレスラーのドリー・ファンクとは何の関係もないので注意。間違っても「ドリーがだめならテリーがいる」などと言ってはならない。
とんだ 露出オーヴァーのため、画面の細部が白くつぶれて見えなくなってしまうこと。→露出
長回し

カットせずに長い間カメラを回し続ける技法。ウィキペディア(Wikipedia)』には「一般的には分単位で連続していれば長回しと言い得るであろう。カットせずにカメラを回し続ける事により、役者の緊張感を持続出来たり、臨場感を維持し続ける事が出来るという効果がある」と書かれている。
これ自体間違いではないが、しかし長回しの意義は「持続の驚き」にあり決して「長いことそれ自体」には無いのだから、ただ「長い」ことに意義を見出す「分単位」という条件は、無意味ではないだろうか。

中ヌキ キャメラや照明やセットの位置を動かさずに、撮れるカットばかりをまとめて撮る方法。例えばAとBの会話を、構図、逆構図の切り返しで分断して撮る時、まずBの会話の部分だけをまとめて撮り、次にAの部分だけを撮り、編集の段階で、会話をしているようにA→B→A→Bと順番に繋げること。山中貞雄、マキノ雅弘等が使っていた。
成瀬目線 画面の中の人物が、その瞳の動きによって、画面の外の一人の人物の動きを持続して捉える事。「浮雲」「妻」「鰯雲」「驟雨」等、成瀬巳喜男の得意の手法である。但し、この手法を発見したのが成瀬巳喜男かどうかは今後の研究課題。→オフオフ
ナメる カメラの手前に小道具などを置いて撮影すること
●20分の19 現代シネコンで公開される映画は、20本中19本は、バカでも撮れる凡庸なものばかりであることから、映画研究塾の造語として「本日もまた、20分の19に当たってしまい、」などと使われている。
ネガ 撮影された光景の明暗関係が逆に記録されたフィルム。陰画。→ポジ
ハイキイ 画面に暗部の少ない、全体的に明るい照明方法。→ハイキイ
バックライト 逆光。画面奥から手前に向けられた光。人物をバックから浮き上がらせる効果を持つ
ハリウッドテン 赤狩りで証言を拒否した10人のアメリカ人。監督エドワード・ドミトリク、ハーバート・J・ビバーマン、脚本家レスター・コール、リング・ラードナー・ジュニア、ジョン・ハワード・ローソン、アルバート・モルツ、サミュエル・オーニッツ、エイドリアン・スコット(製作者)、ダルトン・トランボ、アルヴァー・ベッシー
ハレーション 撮影する際に、極めて明るい光源がレンズに向けて当てられている時、光がフィルム内部で反射し、本来光が当たっていない部分までも明るくしてしまうこと。画面の一部又は全体が、白いモヤのようになってしまう。
パン キャメラ本体は移動せず、キャメラの首を左右に水平方向に動かす撮影。→ティルト、ロール
パンフォーカス(ディープ・フォーカス) 「焦点距離の短い広角レンズを絞り込んで被写界深度を大きくし、近景から遠景までの対象を鮮明にとらえようとする手法である」と、アンドレ・バザンの名著「ジャン・ルノワール」24ページに書かれているが、しかし黒澤明「用心棒」などのように、望遠レンズを絞り込んでパンフォーカスにする場合もある。さらにパンフォーカスの定義として私は、「意図的に手前と奥とに事物なり人物なりを配置し、かつ手前の物体はクローズアップ以上の近景である必要があり、近景、遠景とも鮮明に映し出されていること」を条件にあげたい。そうしないと、映画初期のD・W・グリフィスなりリュミエールの映画のほとんどが「パンフォーカス」となってしまいかねないが、パンフォーカスとは歴史上、より意図的で畸形的な縦の構図として議論されてきた歴史があり、「被写界深度」の深い画面と「パンフォーカス」とは区別すべき、というのが私の意見だからである。
B級映画 B級映画とは、ハリウッドでは、正式にはB撮影所で撮られた早撮り、低予算、80分前後で二本立ての添え物的作品を言う。「B」と言うのは撮影所の地域の名称であって決して作品のレベルの区分けではない。1928年、ウィリアム・フォックス社がB撮影所を創設、その後ビッグ5も「A級映画」ユニットと「B級映画」ユニットを設け、それぞれに担当プロデューサーを置く。そのB地点の撮影所が実際に存在したのは1932年から1947年頃までである。
●映画研究塾では
、短い上映時間の中で、ひたすら「運動」という映画の本質に徹することを志向するこの「B」をして、鈍調で説明的な「A級映画」と対比して、肯定的な意味で使っている。例えば、『これは見事な「B」である』と言う時。
光の帯 スモークを張った空間に光を集中して当てる事。光の道筋が束のようになって現われる。専門用語では「ビーム」と言うが、映画研究塾では美学的に「光の帯」と呼んでみたい。
ビーム →光の帯
被写界深度 キャメラの焦点を合わせた場合、被写体が充分鮮明に見える撮影範囲。絞りを開ければ深度は浅くなり、絞るほど深くなる。同じ絞りなら、広角レンズは深度が深く、望遠レンズは浅くなる
標準レンズ 肉眼による知覚にもっとも近い視野とパースペクティブを持つレンズ。40ミリ、50ミリのレンズが映画撮影では標準とされる。
ピント送り →ラック・フォーカス
風景 人間によって思考された不可視の理性的なイメージがそのまま視覚化されたような光景。人間は目の前にあるよそよそしく凶暴な自然を理性的に整頓し、判り易い輪郭を施し、遠近法によって見易くすることで初めて自然を人間のものとして「見つめる」ことが可能となる。しかしこの「風景」は、現前する生々しい過剰から「目を背ける」という点で、大きな危険を伴っている。こうして我々は「見ること」を放棄する「制度」の中へと組み込まれ、慣れ親しんだ「優しい」光景を望むようになり、逆によそよそしい反理性的な光景を「見ること」を拒絶するようになる。「見ること」から疎外される。同時に批評行為もまた「風景化」へと埋没し、生々しく無意味の「過剰」的露呈を「過剰そのもの」として受け容れる事が出来なくなり、ありもしない「心理」なり「意味」なりという不可視の「深さ」を求めるようになり、「意味のない映画は知性がない」と権威主義化するようになる。そのような批評家は、視覚的に露呈してもいない「主題」なる「深さ」でもって映画の優劣(知性の有無)を付けたがる。そうすることで芸術そのものが「驚き」ではなく「納得」という「風景」の中へと貶められ、当然ながら「凡庸さ」というものが芸術と批評を支配するようになる。「表層的批評」とは、「心理」や「意味」という、ありもしない「深さ」ではなく、「表層」に露呈した「過剰」をまず、「過剰そのもの」として見て、驚き、やおら書くことの宣言である。
フラッシュバック@ ごく短いショットをつなぐ編集技法のひとつ。
●分離 主たる物体(主として人間)の身体から離れて分離した物体、声、現象等の総称。例えばオフから人間の声だけが聞こえて来た時、その声は、人間から「分離している」。詳しくは論文「D・W・グリフィスフレームと分離の法則」
編集権 日本では監督。アメリカではプロデューサーが編集権を持つことが多く、かつ編集者の地位もアメリカの方が高い。
望遠レンズ 焦点距離の長いレンズ。遠くの物を間近に撮ったり、クローズアップを撮るのに用いられる。被写界深度が浅いために背景がぼける。奥行きの近くは平坦になる
ポジ ネガから反転したもの。陽画。これが編集作業に使われる。→ネガ
マクガフィン ストーリーを進めるきっかけとなるもの。エモーションを引き起こすためのきっかけ。それ自体に意味はない。「意味がない」ことに意味がある。詳しくは「ヒッチコック・トリュフォー映画術」参照
マスターショット シーン全体を、ロングショットの長回しで撮影したショット。ハリウッドで多用される。ここに別に撮られたクローズアップや細部のショットを編集によってつなげてゆく。
マジックアワー 日没後、あるいは日の出前の、ごく短い薄明時間。「天国の門」でネストール・アルメンドロスが見事に撮っている。
マット処理 個々の二つのセット、あるいは実景をフィルム上に組み合わせて、一つの画面を構成する合成技術
●モナカ(最中) 論文「心理的ほんとうらしさと映画史」において使用。行動の心理的部分である最初と最後の部分をカットし、「最中」だけを画面に収める黒沢清の方法をして、行動の「最中」をもじって「モナカ」と名づける。
ラック・フォーカス 手前の人物から奥の人物へ(またはその逆)、意図的にフォーカスを送る技法。ピント送りのこと。映画研究塾は、基本的にこの手法が嫌いである。小津のキャメラマンの厚田雄春は「野暮だからやらない」と言っていたが、特に「奥の人物がしゃべったら奥へ、手前の人物がしゃべった手前へ」、というピント送りだけはどうにも耐えられない。端的に美しくないのだ。
ラッシュ 撮影結果がすぐに見られるように、撮影が終わってすぐ作られる速成のプリント。
リミッター内臓映画 映画を作る側の方で、その映画があるレベル以上の作品にならないように、無意識的に制限をしながら作ってしまっているような作品を指す。どんなに才能のある人間たちが集まって作っても、60点以上の映画には決してならないような、システム上の限界を先天的に内包しているような作品である。多くのアメリカ大作映画のほか、最近では「アイ・アム・レジェンド」(2007)など。「才能を発揮しようのない映画」であり、ただの「駄作」よりもある意味でタチが悪い。
レフ版 主に屋外撮影のとき、太陽光を反射させ、影の部分を補うための、銀紙を貼った板
ローキイ 明るい部分が少なく、全体的に暗い部分の多い画調。→ハイキイ
  ●路地負け 家屋の形態が、路地の形態に負けている映画。「トウキョウソナタ」(2008)、「森川書店の人々」(2010)などにおいて見受けられる。映画研究塾では肯定的な意味で使われる。
露出 乳剤面に適切な露光量が当たるように絞りとシャッター速度を設定して、フィルムを感光させること。露光量が多すぎた場合を露出オーヴァー、少な過ぎた場合を露出アンダーという。→とんだ
ロール キャメラ本体は移動させず、キャメラの首を左または右に傾けること。→ティルト、パン

「映画の教科書」ジェイムズ・モナコ
「マスターズオブライト」
「キャメラを持った男」ネストール・アルメンドロス
「ジャン・ルノワール」アンドレ・バザン
「映画編集とは何か・浦岡敬一の技法」

「映画の言語」ロッド・ホイッタカー
「宮川一夫の世界・映像を彫る」渡辺浩
「映画渡世・地の巻」マキノ雅弘
「ヒッチコック・トリュフォー映画術」
「ハリウッド映画史講義」蓮實重彦
「日本映画発達史@」田中純一郎
「監督ハワード・ホークス映画を語る」
「フラガールを支えた映画ファンドのスゴい仕組み
「照明技師 熊谷秀夫・降る影・待つ光」熊谷秀夫、長谷川隆
「視覚論」ハル・フォスター編

映画研究塾 20076月24日©