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「アウトレイジ最終章」、、
日本映画に何かを期待することは酷なんだけど。
ここまで説明ゼリフが多いとね。
ただ、、北野と黒沢清が違うのは、、
図々しさなんだよね、、
北野はあまりにもずうずうしい。
モーション・ピクチャーってのは理屈ではないというのを身に染みて知っている。
にくったらしい奴らをダダダダダ、、、ダダダダダ、、、ダダダダダタダダダ
と「セーラー服と機関銃」のラストシーンみたいに撃っちまえば
それだけでモーションが惹き起こされることを知っている。
テロリストはテロリストでありそこにはなんの理由もないわけ。
だからして、、こんな理屈っぽい脚本でも
知らないうちにモーション・ピクチャーになっちゃうわけさ。
65点くらいの映画だけどね。これは。
照明なんかめちゃくちゃだし。
3Dの2D版みたい。
手を抜いてるよね。
最近のイーストウッドみたい。
リアリズムってのは手抜きのことなんだよな。

ま、どうでもいいや。こんなの。それより、、

「九龍猟奇殺人事件」(2015香港・フィリップ・ユン・未公開)、、、

これすごいよね、、、

今の日本人には撮れない。こういうの。

「百年恋歌」の第三話、、みたいなもん。

主人公はバラバラ事件で殺された女の子。回想だよね。
回想なんてのはヒッチコックでもジョン・フォードでももてあます題材なんだけど、
撮られているのは現在なんだよね。
回想を撮るとヒッチコックでもフォードでも「過去」を撮っちゃうわけ。
「九龍猟奇殺人事件」は「現在」、、なんだよね、、
どうすれば回想が現在になるのか。
内部を撮ればいいわけさ。簡単なことで。
ところが往々にして回想ってのは外部=説明になっちゃうわけ。
知っているから。過去を。だから時系列を追いかけて分節化されるわけよ。
ミステリーがくだらないのはここだよね。
ヒッチコックはミステリーでなくサスペンスを撮りたかったわけ。
サスペンス=現在。
映画というのは徹頭徹尾この「現在」を撮るシロモノなんだよ。
今でしょ。今。宮台にも何が起こるかわからない。これがモーション・ピクチャー。
それを知識で解くと途方もない凡庸なテクストもどきが氾濫する。それが「ミヤダイ」。
いまやそれが「キヨシ」になっちまった。

現在と過去、、これはどう違うのか。ここだよね。
具体的な映画の画面においてこの二つはどう違うのか。
これを言えるシネフィルいるかい。
いたら出てこい。

いないんだよね。

これに悩んでいるシネフィルなんてのは見たことも聞いたこともない。

おめでたいもんだ。
そのおめでたいレヴェルでさ、、、上から目線で威張り散らす様ってのは、、

みっともないもんなんだよ。

マキノを浴びるほど見ようがヤマナカを見ようが、トンマが治癒される保証はどこにもない。
シネフィルって人種はそこについての恐怖からまるで不感症に逃げまくってるよね。

世界は動いてるんだよ。
日本はまるで動きのない国なんだから、、、
そんなとこで映画を撮ったり語ったりすることに恐怖を感じないとんまに限って映画を撮ったり語ったりするんだよね。

現在と過去の画面をどうやって見分けるか。
それは俺が論文で痛くなるほと書いてきたからここでは書かない。
かといってお前たちがこれに触発されて俺の論文を読むわけではない、ということもちゃんと知ってる。
だから出さないわけだよ。ここに論文を。
出したって読まれないんだから。

だからしてこうやってチマチマやってるわけじゃないの。

とっくに俺は絶望してるし。

だからっつってアキラメテイルわけでもないんだけど。