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学生ノリだ。

あのフィルムもどきに露呈しているのは僕たちは一生懸命がんばりました、という過去形の媚(コビ)だけなんだよ。

それはモーション・ピクチャーとは何の関係もないただのノリだ。

学生ノリだ。

「カメラを止めるな」なんてのはただのノリでしかない。

自分の感動に素直であれ、、というのは国民国家の道徳そのものなんだよ。

ノーバディだのなんだのという映画愛好家もどきのシネフィルに例外なく共通しているのは、あきらめること、、という理性の限界を感じることから始まる精神という出来事を欠くことからくる思い上がりのたゆまないみじめさなんだよ。

批評ってのは、それでもなおかつ俺はモーション・ピクチャを言葉にする、、という精神なんだよ。

モーション・ピクチャーを言葉にできない、、という。

批評という言葉の出来事には必ずや「黙る」という起源が先行する。

それを言葉にするのが批評だろうが。

言葉にならないから。

感動したなら人は黙るんだよ。

それを言葉にするってのはいかがわしいことなわけ。

人を黙らせるんだよ。

感動ってのは「わかりません」ということなんだよ。

そもそも自分が感動した世界を言葉で「まとめる」ことができるとしたならば、それはそもそも感動でもなんでもないわけではないですか。

寄せ集めなんだよ。まとめることはできるわけがない。

決して自分のバックボーンが左右する出来事ではない。

批評ってのは断片的であるしかないわけで。

ああやって少しずつ証拠を連ねていくしかない。

だからやましさんの「寝ても覚めても」論なんてのは俺は好き、、というか、、端的に肯定するよね。

わたしはどこの家に生まれどこの大学でどういう研究会に行き偏差値はいくつでおともだちの何人かがこの映画を褒めあるいはけなし、フォローワーが何人で、、、

感性なんじゃねぇんだよ。

お前たちがこれがすごい、すごくない、というときの契機はすべてバックボーンだろうが。

寝ないよ。俺は。寝れるかってんだ。

「カメラを止めるな」がなぜバカでも撮れるか、、それくらい訓練してお勉強しろよ!

お前らほんとうにくだらない。一片の感動すらない。

イチローが感性だけでやってるかよ。

なにか感性だ。バカ野郎。

自分だけを大切にしやがって。

モーション・ピクチャーを殺し続けやがって。

バカか。

感動をありがとうございました!

ちっとも笑えないんだよ。

お前らいい加減にしろよ。

こんなクズを神格化して感動を共有する。それがあんたらか弱い映画愛好者もどきのいつもの慰めだろうが。

それがお前らの「感性」なんだよ。

「カメラを止めるな」なんてバカでも撮れるシロモノを数の力で正当化する。そうではないとは絶対に言わせない。

彼らはそれを数の力によって正当化するくせから二度と自由になれない環境の中に身を置いているわけね。

それはカンペキなミステイクなんだけど。

例外なく自分の感性とらやを信じている。

そのへんのシネフィルのあまりにも無邪気な映画破壊行為を目にするにつれ俺は孤独。

自分の感性だの個性だのは「すべて」国民国家によって培われたことである、、という恐怖をまったく感じないのが「感動」という出来事であって。

リベラルなんてのは国民国家の賜物であって。

全然違うんだよね。

これ、いかにも国民国家に反逆してるように見えるんだけど。

その、、自分の感性を大切にしましょう、、ってのさ。

国民国家ってさ、、、締め付け、、とか、、


寝る

ディベートの時代じゃないからね。

石破は惨敗するだろうけど。

幸福追求権、、ってやつ。

憲法14条で保障されている立派な人権だよ。

ハクをつけたいんなら行くさ。個人の自由だ。

もし映画をほんとうに訓練したいんならアテネなっていったってなんのことでもない。

見てるわけねぇじゃないの。

見えないんだから。

見えもしないとこへ足しげく通ってるバカに向かって、、あれを見たか?、これを見たか?、、って、、ハスミ調をかましたところで。

そもそも二列目以降はスクリーンが見えないんだからさ、、

アテネフランセってのはそこに通えばその人が映画をわかったことになる、、というある種の念仏であって。

ハスミがアテネフランセで講演したところで何とかの耳になんとやらでさ。

無駄なんだよ。対談とかインタビューとか、、、あんなのはバカのやることであって。講演とかさ。

そもそも日本人なんて人のハナシは絶対に聞かない民族だから。

おしゃべりしないのね。

それがコミュニケーション。

二人のハナシはそれでおわり。

わたし。

だって。

ふ~ん、、そう、、そんなこともあるかもね、、

抱きしめてやろうかと思ったけど、、、

二回見たよ、、って。

そしたら、

ふ~、ん、、そう、、、なんて。わたし。

すると1年くらいたってから、あの映画見たよ、、って。

スナックのママに「スティング」(1973)を贈った時だって絶対に聞かなかったからね。一切その話題はしなかった。

映画を見る見ない、、というのは極めてプライベートなことがらだから、、DVDを贈ったからってその人がすぐに見るはずだと思うのは大きな思い上がりなわけね。

でもその次に会った時に私は決してあの映画どうだった?、、とは聞かないし、彼らもまた聞いては来ない。

まぁ、、事故みたいなもんで。

わたしもたまにひとさまに映画のDVDを贈ったり贈られたりすることもあるんだけどさ、、

だがそれにはタイミングというものがある。

ずっと見直してみたかったんだよね。

今日は「クリスティーン」(1983)の後半を見たあと「ダークマン」だよ。


寝る。

「スターウォーズ」なんてシリーズはすべて説明するために連なっていくわけであんなくだらないものはないんだけど。だからこそ大衆受けするわけね。

どうしても「なぜか?」を説明しないといけないんではないか、、という強迫観念に撮り手は駆られるから。

SFって難しいんだよね。

今日は「クリスティーン」を半分見たんだけど、、

顔を動かさないで目だけ動かすあの感じ。

視線のやり方なんていかにも意識してる。

で、、ローリー・ジマーという女、、、この人、明らかにローレン・バコールだよね。

「駅馬車」だよね、、、これ、、警察(馬車)に立てこもってスネに傷を持つ囚人(ジョン・ウェイン=ナポレオン)が警官(ジョージ・バンクロフト=オースティン・ストーカー)と力を合わせて敵をやっつける、、っていうさ。

「ジョン・カーペンターの 要塞警察」(1976・未公開)ASSAULT ON PRECINCT 13、、なんてもう、ほんと面白いんだよ。おもしろい。

ヒッチコックの論文を書いたあと狂ったように東映のプログラムピクチャーを見まくったああいう感覚。

小津を14~5本見直してからここんとこ、アルドリッチ、フライシャー、ドン・シーゲルと見ていって、、、それからはジョン・カーペンター漬けの日々。

三連休のど真ん中のこの時間にこれを見てる奴ってのは完全なバカか、、それとも、、


寝る

ヘンな焼酎飲んだからだ。

すぐ熱くなるね、、、俺は、、

そう信じたいね。

あれは「緑が見えない」なんてバカの抗議に屈したトンマがロメールの死後に塗ったんだよ。

あれは違う。ロメールではない。

夢を壊された、、、というか、、あそこまではっきりと緑を見せてしまうのがロメールの方法だとは到底受け容れられない。

極めてぼやけた想像としては「見た」んだけど、、それでいいんじゃないかって、、こないだのNHK版はちょっと幻滅、、というか。

「緑の光線」だけどさ、、、俺は緑は見えなかった。初めて見たとき。


寝る

明日は豊田を見に行く。シネコンに。

一日一本ペースがこのまま持続するか、、しないか。

ドン・シーゲル「ボディスナッチャー」を見直した。


はは、、

アリガト。


ほんのチョイ舌で転がしただけで頭くらくらだよ!

やばいよこれ、、

おい!  アルコール分40%??、、いい加減にしろ!

ちょっと今、、、グラスに氷入れて飲んでみたんだけど、、、ウイスキーだよ。まるで、、、

テロかも知れないから、、、確かめないと。

送り主が書いてないんだよ、、、アマゾンとしか、、、怖いよね、、これ。

徳之島原産、、、とか書いてある。

形からしてやな予感はしたんだけど開けたらアラマ、、びっくり、、焼酎だよ。

なんだこれは?、、

で、、そんなときに夜、、クロネコがキンコン鳴らすもんだから出たらアマゾンからの贈呈物、、、とやらをお届けに参りやがってさ、、、

決めたわけ。

強い意志。

それはそのへんのトンマどものつまらない決意とは異次元の意志でもって。

俺は決めたんだ。もう二度と飲まない。

ハナシは変わるんだけど、、、もんのすんっごい二日酔いでさ、、今日、、昨日スナック行った帰りママのNワン(Honda)で送ってもらってそのまま二人で夜中にガスト行ってまたのんじゃったもんだから、、


うまくできてるよな、、実に。

おお、、ついてる、、今日は大安だしひょっとすると、、って、、S660狙って課金しちゃった。

GTRのR35は当たったんだよ、、、カウンタックも、、、別の無課金のくじ引きでさ、、、


なんてか弱い人間なんだ、、俺は、、、

ま、、、俺が子供だったら今頃家族会議だろうな。

人をこバカにしやがって、、

そうじゃない、、俺はS660が欲しいんだ!って、、

いらないもんばっかり当たるわけだよ。。。

で、、お金払って11回のクジ引いたら出てこねぇでやんの、、、、

俺はどうしてもS660が欲しかったんだよ、、、

人間の弱いとこヨワイとこ突いてきやがって。

なにが無料でダウンロードだよ、、

課金しちまった、、スマホのレースゲーム。。。

やっちまった、、、


その一点においてのみ彼女はグローバル化したわけで。

テニス人だよ。

見てればわかるじゃねぇか、、

大坂なおみは何人か、、、


まぁ、、どうでもいいハナシなんだけど。

これが俺流の現代版だ。

驚きを禁じない。

そんなのトランプでもできる二重否定じゃん。

禁じ得ないんじゃない。

比佐芳武の先見の明には驚きを禁じない。


多羅尾伴内じゃねぇか。

これって、、

「大坂で生まれ、日本の国籍を持ち、ハイチに父方のルーツを持ち、北海道に母方のルーツを持ち、子どもの時からアメリカで育ってテニスの腕を磨く。そのどれが欠けても、大坂なおみではない。全部があって彼女なのだから。」

Eri Kurobe2018,09,10、「USオープン優勝! 大坂なおみ選手の「ハーフ」の思い」)



で、、あるとこに出てたこんな記事をみて、、↑


出たよ、、日本人が一番ニガテとする議論だ。これ。

大坂なおみって何人なん?、、、


寝る

そうした感覚、、ってのは教えたところでどうにかなることではないわけで。

こういうしぶとさ、、みたいの、、土井、、みたいな、、それが「寝ても覚めても」にはまるで存在しない。

で、、モーション・ピクチャーにはなってる。

ズームを含めて、、70年代だよね、、なんでもあり。

キャメラも一緒にトラックバックしてはいるんだけどさ、、まぁ、、なんというか、、自由だな、、って。

おどろいたのはさ、、人が立つ→引くというカッティング・イン・アクションじゃなくって、、人が立ったときズームで引いたのがあったよ、、、

映画研究塾、、でなく、、みんなのシネマレビューの時にこれについて感想文書いたかな。

ということで「スパイクス・ギャング」(1974)を見た。


ハスミじゃないや、、蓮實重彦さんだ。全然違うのに。

いい気なもんだ。


やめた。ハスミとまともに付き合うと精神のバランスが崩れる。

具体的に、どこがどうモーション・ピクチャーなのか証明してみろ。

こんな、人間観察力ゼロの映画の一体何を感動と呼ぶんだよ。ふざけるな!

くだらん。

てなもんだ。

なりましたか、、ああそうですか、、なりましたか、、そいつはオメデトウございます。

なりましたか?

こんなバカみたいなねんねの物語がモーション・ピクチャーになりましたかね。

「寝ても覚めても」にしてもさ、、基本はシネコンのイケメン映画じゃないの。

こんな、、シリアもイエメンも知りません、、、みたいなものが成り立つのはどこかの特権的な島国でしかありえないんだよ。

せいぜいが「まぼろしの市街戦」ほどにはひどくはない、、くらいのことであって。

それはそれは大変でしたね、、よく頑張りましたね、、、というモーション・ピクチャーとはなんの関係もない出来事「だけ」が成り立つおハナシだ。

僕たちはがんばって長回しで撮りました、、という「だけ」のフィルムなんだよ。

ただの「ノリ」でしかないからだよ。

「ローラとバイオリン」のような世界レヴェルのそれではまったくない。

こういうのは例えるなら映研の卒業フィルムにしてはよく頑張りました、、と内輪で盛り上がるべき作品であって。

完全な。

褒めるやつがバカなんだよ。

これにしたってさ、、撮った人間がとりたてて悪、というわけじゃない。

「カメラを止めるな!」だ。

走るな!、、、じゃない、、、止めるな!。。。だ。



「歩け走るな!」、、にしてもさ、、、

はは、、

べつに濱口竜介が悪いわけじゃないけど、、

残念ながら映画にワゴンRは存在しないけどね。

「スティングレーです、、」でもない「ワゴンRです、、」と答えたかったわけだ。ご機嫌も斜めだったし。

ここで「S660です、」と答えなかった俺の中にはどこかでこの人間とコミュニケートしたくないという防御線が張られたんだと今になって思うね。

こないだ酒場で「マセラッティが、、、」なんてほざいてる若いのが俺に「なに乗ってます?」って聞いてくるんで「ワゴンRです」って答えたら黙りこくりやがったよ。

軽、、ってのは日本人が日本人のためだけに作った車だけあって白身のサシミに似た日本人的情緒に満ちている。

S660とスティングレー、、それぞれ1万Kチョイ走ってやっと体になじんできた。


いろいろ勉強させてもらってる。

てんぷらだから基本的に白身の魚なんだけど、、なんともいえんね、、白身は。

昨日初めてカワハギの刺身たべた。

たにやん、、って店なんだけど。

私の財布に見合ったお店でね。普通のてんぷらやのイメージとはまったく違って。

てんぷらやといっても場末の気の利いた店主で開店間もないもんだからいつも誰もいなくて独占で楽しめちゃう。

ご機嫌直った。

昨日はあれからいつものてんぷらやからスナックへハシゴしてウリウリだよ、、、


今日は機嫌が悪いんでここまで。寝ないけどな。

いい気なもんだよ。

といったところでハスミの権威にはかなわんけどさ。

「寝ても覚めても」なんてのは決して悪くはない、、それ以上のものでは断じてない。

これがハスミの限界。

だからして、少々レヴェルの低いもんでも、自分が最初に褒められる作品なら他の、それ以上の作品を無視してでもそれを褒め、そして、それを褒めた自分が表舞台に立つ、、これね。

これは生涯つきまとったよね、、典型的なインテリ癖だ。

加えてハスミの悪い癖は、自分が最初に褒めないと気が済まない、というとこ。

世界は広いよ。

ミニシアター族に成り下がっちゃってる。

今の彼にはそういうのはもうまったくないよね。

しらみつぶしに見た中からとんでもない一本を出してくる、、、それがハスミだったんだけど。

そんなのはハスミの出してくる映画を見てしまえば一発でわかるんだけどさ。

今の蓮實重彦って、映画を見てる本数があまりにも少ないよね。

子供なんだよ。濱口竜介が。

言葉がすべて中心だろうがよ。

成瀬に添削させたら真っ赤になって帰ってくるよ、、こんな脚本は。

それも極めて中心へと接近した言葉でもって。

彼はモーションで貫くべきところを「すべて」言葉で逃げてるでしょうが、、、す・べ・て・

濱口竜介をいくら過剰に褒めたたえようが、それによって彼がお子ちゃま映画を撮らなくなる、なんてことはないんだよ。

ま、、それを承知でやってるんだろうけどね。俺は嫌いだ。そういうのは。

しかしとーしろーがそれを見たとき、濱口竜介を鈴木卓爾と同レヴェルの御仁と勘違いしちまうじゃないの。

おそらくハスミは今、日本映画を元気づけることを「最後の使命」とかなんとかで嘘をつきまくってるんだろうけど。

ハスミも人が悪いというか、、変わらないね。この人。

鈴木卓爾の足元にも及ばないお子ちゃまだ。

甘いんだよ。こんなもんでモーション・ピクチャーを撮ったと勘違いしてくれるな。

これが限界だろうな。

これはガキんちょの映画であって、いかにも土人化した日本人発の映画としてはそれなりにふさわしい。

取り立てて素晴らしいロングショットなるものはどこにもないし、それなりに悪くない技術的ショットの連なりに終始している。

興ざめに言えば、、ま、、ぎりぎり70点の、、かろうじてのモーション・ピクチャーである。

「寝ても覚めても」か、、濱口竜介。

日本発モーション・ピクチャーってのは、こんなレヴェルでいいのかね、、って。

ま、、なんというか、、のんきなもんだよな。


寝る

昔の俺みたい。

人間を信用しすぎてる。

子供なんだよね。大谷は。

イチローも松井も絶対にこういうことはしない。

これって、グローバル的にはまったく通用しないノリなんだけど。

味方ベンチのね。

受けを狙っちゃうんだよね、、、、ベンチの。

これって、、日本の野球人が今一つグローバル化できていないところのひとつの徴表なんだけど。

で、、それは小宮山が言ってたように、、3塁打を打った大谷が本人の自覚がどうであれ相手を小ばかにするようなモーションをしたからなんだよね。

陰湿だから、、、メジャーも。どう見てもおかしいんだよね、、あのピッチャーのモーションが。

今、、小宮山も言ってたけどさ、、、大谷のあのホーム突入のプレー、、、狙われてたよね。


モーション・ピクチャーって。

そんなかんじなんだよね、、

じん、、じん、、じん、、、ふら、、ふら、、ふら、、

今、、愛が止まらない、、をパソコンでかけながらこれ書いてんだけど。ウィンクの。

モーション・ピクチャー的興奮、、てのは。

寝れねぇな、、、興奮、、ってのは不思議なもんで、、、

井口だって二時間ごえはちょいつらいんだから、、

上映時間ちょっと長くねぇか、、、アルドリッチみたいな芸当が若造にできるのかよ。

明日、、、といっても始まるのは11時だけど、、

そっちが東大総長ならこっちは早朝出勤だからな。

よくもワーストなんかに入れやがって。

チャールズ・ダーニングを世の中にはっきりと認知させたのは蓮實の軽蔑する「スティング」だからな。

チャールズ・ダーニングが大統領だよ、、、ありえない。

140分を一瞬で駆け抜けさせる力は超絶だった。、、、あんな、、照明もそこそこでお金だってたいしてかかってないだろう、、、としか見えない画面でこんな芸当ができちまう、、、

とにかく、、明日朝一でハマグチを見に行くんだけど、、、寝れないんだよ、、、アルドリッチを見ちまったから、、、

あんな引退した後にしゃあしゃあと復活するような「駿=ロジャー・クレメンス=長州」的じじいを見に行く趣味はない。

アニマルじゃないよ。

明日ははまぐちを見に行くから早く寝ないといけないんだけど、、


そもそも質問の方法が極めて無神経だし無礼だから。

ハスミなら絶対に書かないし俺が監督でも書かない。

でもさ、、「好きな監督欄」とかに「小津安二郎」とか書く奴はバカだよ。



寝る。

気がつくといつもこんな話になってるね。



帝国大学「なのに」映画を撮った、、、これがより真実に接近している。

完全なバカは増村とか大島が帝国大学だから映画を撮ったとするんだけど。

駒場は人を素直にさせないんだよね。

四方田なんてどう見てもわかってない。

それが落語家ならまだバカをバカとわかってやってるんだけど、、

駒場ってのはバカを休み休み言うことを不可能にするパワーを授けてくれるらしい。

フランス文学とかやれば映画を語れる、、、、なんて正真正銘のトンマの集まりじゃない。

トンマがそこでふんぞり返るんだよ。

帝国大学に入った俺がアートをやる、、文学を、、モーション・ピクチャーやる、、、やばいぞ、、、これはやばいぞ、、、と、狼狽するのが「精神」というもののはずなんだけど。

神官、、というか、、つまり官僚だよな。駒場が育てるのは。そもそも帝国大学なんだから。

駒場ってのは人間の弱さからいかにして逃げるかを教えてくれる神殿なんだって。

俺は映画評論なんて、、なんとも言えないもんをこころざして、、まず順番としてはっきりわかったのは人間の弱さだよ。映画ではなく。

そんな簡単なことから逃げ続けるのが駒場バカだ。

駒場に行った程度のことでアートがわかるのならそもそもそれはアートではない。

映画評論家って人種は訓練することの楽しさを知らないよね。

訓練するんだろうが、、イチローとか大谷みたいに。

どうやってするんだよ。

では、どうして同じ回想をしてそれが現在形なのか過去形なのかを判断するのか。

あのばかばかしい「カサブランカ」みたいな説明の奴隷とはまったく化していない。

「市民ケーン」の数々の回想はすべて現在形で撮られている。

これが感受性、、という、決して知性では模倣することのできない「才能」ってやつなんだよね。

小津がすんごいのは、、通常過去形で語られる歴史を現在形で撮っちゃうとこなんだよ。

歴史がないんだよね、、岸恵子と池部良とのあいだに。

「早春」の岸恵子は決して淡島千影と池部良のあいだに入ることはできなかった。

小津にとっての過去とは現在で撮られるべき出来事なんだよ。

あのくだらない「カサブランカ」みたいなまったき過去にさかのぼらない。

ところがその歴史を小津はさ、、現在で撮るんだよね。

小津をずっと見てるとさ、、出てくる人々はみんな歴史を背負っていて、、

言葉の重み、、という。

崩れ去ることをどこかで感じている人の宣言、、ってのがこわいんだよな。

こわさ、、というか。

はかなさ、、みたいなのが、

常に宣言し続けることでしかありえない、、

というか、、、そうではないな、、、境地、、なんていう安定の領域ではないか、、、

いろんな体験があって、そういう境地に行きつくんだろうけど。

党宣言、、ってのは、そうありたいから宣言するわけで。、、

生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言、、っての撮った人がいたね。


寝る

そりゃ相手が悪いわな、、、

すると台風のやつ、逃げていきやがった。

今日は台風の爆音とどろく中、テレビの音量を50に上げて「早春」を見たよ。

ここも重くなってきたんだけど、、、消す気にならないんだよね。


寝る

スマホ始めてさ、、、とある無料レーシングアプリをダウンロードして毎日はげんでるんだけどさ、、、課金、、、てのがひとつの山でね、、、

で、、突然だけど、、、「後払いガチャ」、、


わ・ら・わ・せ・る・な。

こんなクズが安倍をどうだの言ってる。

ただひたすらフォローワーの数をください、、という、、人権ともデュープロセスとも法の支配ともまったく何の関係もない、、ただ人を数でしか扱えない輩のやる典型的なモーションじゃない。

相互フォロー以外の方からの質問応答や論争は遠慮させていただきます。 、、なんてのはさ

リベラルだの左翼だのって、、、そもそも自分をそう称するやつらってのは三流だけどさ。

ただ単に主張している言葉の内容が違うだけで形式はおんなじ。

トランプなんだよ。そんなことが言えるのは。

なんて言葉はさ、、、およそ学問を志した人間が決して口にしてはならないそれなんだよ。

相互フォロー以外の方からの質問応答や論争は遠慮させていただきます。 

言葉だよ。ことば。

一般論だけどさ、、、ここからは、、、言っていい言葉と悪いのがある、、って、

こういうクズインテリがのさばるシステムがあるんだよね。国民国家って。

善悪だって、、、バカか。

安倍がのさばっている理由が自分たちにあるという自覚がまったく欠如してる。

クズがリベラルずらしやがって。

こんな下種の言葉を吐けてしまうクズ野郎とは泥を舐めてもごめんだ。

「相互フォロー以外の方からの質問応答や論争は遠慮させていただきます。 」

俺はハートのあるやつとかかわっていたい。

右翼も左翼もリベラルも関係ない。

クズ野郎が。

よくこんな小賢しいのがみずからの意見を述べようとして思い立つよね、、、

まぁ、それにしても、、、「相互フォロー以外の方からの質問応答や論争は遠慮させていただきます。 」だって、、、

それは「キューブリックを70ミリで見た」というだけだよね。自撮りとおなじだ。

キューブリックを70ミリで見て、、、それがいったいなんなんだよ。


怒らせるんじゃありませんよ。人をね。無神経において。

お前には「映」も「泰」も何の関係もないだろうが。

お前みたいなハートのカケラもないトンマが安倍をのさばらせてるんだよ。

だらしなさを生き生きとさらけ出しやがって。

わらわせるな。

相互フォロー以外の方からの質問応答や論争は遠慮させていただきます。 、、、だと。

泰映児だと。わらわせるな。

あんたみたいないやみったらしい左翼が安倍をのさばらせてるんだろうが。すっこんでろ。

酔っ払い運転とツイートとは違うだろうが。バカ左翼が。


自分の言葉を疑うことを知らないシネフィル野郎だ。

バカかお前は。

ハナシにもならない。

「九龍猟奇殺人事件」がつまらなくて鈴木清順が面白い、、なんてやつが典型的な大衆なんだよ。

彼らの行動パターンとは批評の訓練をすることではなく、日々たゆまなく外部的な既成事実を積み重ねていくことだけだ。

大衆ってのはほぼ例外なく、、自分の感動を盾にしてその感動の元となった出来事を殺し続けていくひとたちのことだ。

これが「大衆」。、、という、。非常にやっかいな被害者根性を持った「善人」なわけだ。

こういうのにはひょっとしたらなんの訓練もしていない自分の方が映画を傷つけているのかもしれない、、、という感受性のカケラがない。

これを愛してやまないのが俺のこれなんかをどっかで見ると「許せません、、、傷つきました、、」となるわけだ。

大衆社会ってのはそんなもんだ。

残酷だよね。。。。才能のカケラもないのが世界にはばたく、、ってのは。

モーション・ピクチャーの領域に一歩も踏み込んでいない。

ただ単に才能を欠くだけのはなしだ。

あんま、、言いたくないけど。懸命に撮ってるから。

愛おしいよ。人間。

こんなもんを神格化したがるバカがいるから人間は面白いというのは本音だよね。

カメラを止めるな、、を見に雷雨の中、スティングレーでユナシネへ。


サドゥンリー寝る

カットとカットのあいだを見えにくくするために、、なんてのはハッキリと二流だ。

光って、抵抗でしょ?



だからして、あらゆる瞬間、それに抵抗する、それがモーション・ピクチャー。

モーションってのはさ、、エントロピー増大の法則とおんなじで、ほっておいたら一気に死滅していくことなんだよ。

発展させることができるか。これ。

つながる、、、というのは違うな、、

カットを割る必要にかられたとき、どうやってつなげていけばモーションとモーションがつながるのか、、、、それがカッティング・イン・アクションの「起源」だよ。少なくとも小津安二郎はね。

カッティング・イン・アクションでありアクションつなぎなんだよ。まさに。

「その夜の妻」を見ればはっきりとそれが見れる。

そんなくだらないことを小津が追い求めるわけがない。

というか、、、そうに決まってるじゃん。

少なくとも小津のばあい、二つの画面を自然につなげる効果なんてのはまったく企図していない。

それはあと付けだよ。

カットとカットとのつなぎ目を透明化するためにある、、なんてよく言われてるけどさ、、、

カッティング・イン・アクションってのはさ、、小津の場合、、自然につなげるためにあるんじゃないね。


寝る

小津を見てるとさ、、映画はこんな簡単でよろしい、、、ということに打ちのめされるよね。

細部があまりにも豊かすぎる。

ある程度はね。

小津とウェルズがこれを意図的にやっていることは証明できるよ。

それを直結させる資料もなんにも今はないけどさ、、、

それを27年後にオーソン・ウェルズがやっているわけ。

そしてそのまま歩き去ってください、、と。

進行方向を崩すことなく振り向いてください、、と小津安二郎は伊藤里子に希望しているわけね。

伊藤はふらつきながら精いっぱい振り向いてるから、、、

この振り向き方は「絶対に」小津が伊藤里子に演技指導してる。

右と左は違うけど。

デートリッヒはさ、、、足の角度を進行方向に向けたまま振り向くんだよ。

「黒い罠」(1957)のラストシーンそのもの。

ここでおじぎをするかわりに伊藤里子が「アディオス!」、、つってごらんよ。

で、、、ラストシーンさ、、、岡田時彦の呼びかけに応じて伊藤里子が振り向くよね、、、窓枠の川崎弘子と岡田に向かって。

帽子を脱ぐ、、、とかさ。

人の存在に敬意を払う、、、というモーションを小津はあきれ返るほど反復させている。

なんどもなんどもおじぎをするよね、、、

「淑女と髯」、、三回目を見る。

こういうインテリ根性的パフォーマンスは映画にも批評にもなんの勇気ももたらさない。

サービス。

こういうときに、、弟子にもフィンチャーバカがいて、、、なんて条件が揃ったときに、、ハスミはこういう「うそ」をつくのね。

どこかのバカが「ゾディアック」を間違ったけなし方をする、、

カウンターなんだって。

おたはむれ

わたしはハスミの年度別ベストテンは知らんけど、、お戯れだって。

カス

「ゾディアック」なんてのはカスだから、、、



これを言わない、、というほどどうやら俺は人間が充実していないらしい。

言っちまった。

「ねぇ、、、冷蔵庫の中にグラス入ってなかった?」、、、

テレビを見てるおふくろに

やっちまう。

この家の中には俺とおふくろしかいないんだから、、もうすべてはわかってるはずなんだけど。

絶対にそこにはないと頭ではわかっているあのビールグラスが不現前する瞬間の、、、なんとも書けない無力感。

この喪失感、、、

すると俺様がちゃんと置いたはずのあのビールグラスがない!

この瞬間、、すべてのことが分節化されて俺さまには理解できたんだけど、、、やっぱ、、冷蔵庫のドアを開けちゃうわけ。

「晩春」(1949)のあの壺にも匹敵するようなむき出しの露呈性でもって無意味に置かれている。

ぽつん、、、と置かれてる。

流しの、、つまり、、冷蔵後の外部にさ。

で、、夜になって、、さぁ、、って冷蔵庫開けようかとふと流しの上を見ると、、見なれたビールグラスが置いてあるわけ。

当然俺は次の日、冷蔵庫にビールグラスのお気に入りやつ入れておくわけね。

まず基本はですね、、グラスを冷蔵庫で冷やすこと、、、そして、、、ビールは一気に注がず3回くらいに分けてゆっくりと、、我慢して、、注ぐことです、、、と、、

ハナシはかわるけどさ、、、こないだ行きつけのてんぷら屋さんで、、、最近営業開始したばかりの場末のとこなんだけど、、、そこで、やっぱ店で飲むナマっておいしいよね、、、って、、どうやって注ぐんだろう、、って話になって、、、、

「長い灰色の線」(1954)みたいなの。

こういう人をジョン・フォードが撮ったら途方もないのができる。

彼が知ろうとしなかったのは、自分に対して倫理的な縛りを課す人間はもはや大統領にはなれない、、という時代の流れだよね。

マケインってかっこいいよ。

一色即発でもあるんだろうけど。

ワールドニュースとか見てるとマケイン一色だよね、、、


寝る

トランプなんでのがその大将なんだけど。

媚を売る、、というね。

1万、、とかになるともう、、オハナシにもならないいやらしさをかもしだすようになる。

1000以上の人と未満の人って、、、ぜんぜん人種が違うよね。

まぁ、、なんというか、、わたしってのは、、フォローワーが1000に到達してない人となんかどういうわけか、、気が合うんだよね。。。

ああやって酒飲んでるんだろうな、、、って。

『東京の宿」(1935)の坂本武と突貫小僧の世界を現代に移行する。

ギリギリのとこで生きてる。

1280円だもんね。

すべてオミトオシ、、ってやつだ。

がらげーだもんな、、、未だに。

その点やましんさんなんて、、さすがだよ。

ぜんぜんだめなんだよ!

ヘルプ、、なんて見たところで、、こっちが助けてあげたくなるようなもう、、なんというか、、

100%

はは、、

知りたいことが100%書かれてないんだよ。

パソコンとかにしてもそうなんだけど、、、こうつらどうしてこうまでバカなんだろう、、、って、、

そのへんの攻略本を買ったところでさ、、アンドロイドなんだけど、、、、説明書とか書く理系のバカにはトンマしかいないって、、
忘れてたよ。

助けてくれる人って誰もいないんだよね。

いやぁ、、甘く見てた、、、この世界を、、、

先週。

俺もスマホにしちゃったよ、、、

スマホの時代に映画を撮ることがどれだけのことなのか想像できないけどさ。

石井裕也みたいな、、あらゆる凡人が基本的に身に着けているくだらなさをすべてまとったみじめさからずっと彼は自由だったから。

俺がずっと鈴木卓爾を肯定しているのは、彼にはそうしたくだらない、、あまりにもくだらないインテリ臭さから自由だったから。

姜尚中みたいなおめでたいバカが肩書にすがりついて映画をやったと思っている、、ただ、それだけのことだ。

精神とは、できないところからウジ虫のように立ち上がってくるか、、来ないかのことだから。

思いあがるだけさ。

精神現象学の原文を研究会でいちいち翻訳したところでその精神とやらをおつちかいになられた日本人のインテリは一人もいない。

それはヘーゲルの精神現象学を読んだところで決してつちかわれることではない。

精神とはそういうことなんだよ。

批評精神がなかったわけね。

法廷でも通用する証拠なんて出せるわけがない。そんなことはゴダールがよく知っている。言葉がモーション・ピクチャーの中心を突き刺せることなんてできるわけがない。ゴダールがおこったのは、、その批評家に、そうしたこころがけがなかったことなんだよ。

ゴダールがアメリカのなんというか、、必ずしも出来の良くない批評家に「法廷でも通用する証拠を出せ」と怒ったのはそういうことだよ。

正確には、、、それを証明するようこころがけること、、だ。

それを証明するんだよ。

証明する、、ってのはモーション・ピクチャーとしてどうしてすぐれているかのことだよ。

こころみてない。

ハスミはなんでルビッチがすごいかの証明をしてないから。

というかさ、、、エルンスト・ルビッチをすごい奴だ、、というならそれを証明しないと。

画面の力が全然違う。

仮に小津を一流とするならルビッチは一流の下(げ)だよ。マギレモなく。

ルビッチは一流と指すならそれは一流なんだけどさ、、、

ハスミと言うより蓮實重彦さんなんだけどさ。

当時ハスミとかはさ、、ビデオとかを売るために大嘘をつきまくった時期がたぶんにあったわけ。

「天使」とか「天国は待ってくれる」とかはさ、、俺の感覚からすると過大評価だよ。

でもって、、それだけの労力と作品の価値とが見合ってないような気がし始めたんだよ、、、ある時から。

何度も何度も「エルンスト・ルビッチ、、、エルンスト・ルビッチ、、エルンスト・ルビッチ、、、エルンスト・ルビッチ、、」つって、、暗証したもんね、、、、

そもそもエルンスト・ルビッチって、、名前覚えるだけで大変だったから、、わたし。

騒ぎすぎたんじゃないかって。

批評家たちがさ、、、といってもそれはハスミなんだけど、、

なんかこう、、、人をバカにしてるんだよね、、、ルビッチって、、

「結婚哲学」と「ウィンダミア夫人の扇」くらい、、大好きなのは。

いきなりだけど。、、わたし、、ルビッチって、、あんまり好きじゃない


今週あたり、、カメラを止めて、、、を見に行こうと思ってるんだけど。


寝る

下に行っておふくろと話しこんでた。

当たり前じゃない。世の中が大衆化したんだら。

大衆化した、ということですよ。小津安二郎ですらね。

そりゃあんた、、、数が多けりゃいいってもんでもないだろうに。

どっちがいいか、、って?

「長屋紳士録」の場合、、見つめているのは吉川満子一人だけだったけど。

ただ、、結婚式の写真撮影をみんなが廊下まではみ出しながら見つめているシーンはすごいよね、、、

コメディが非常に大衆的なわけなんだね、、怖さがない。

岡田茉莉子のすし屋に行くシーンなんてのが面白すぎるんだよね、、、物語の起伏が豊かに過ぎる。

「秋日和」なんか見てるとさ、、、小津は年を取ったな、、と、、

平たんな流れの中で過剰な出来事なしに笑わせてくれるのがすごいんだよ。

コメディの芯を小津組はしっているとしか見えない。

「お早よう」(1959)にしてもさ、、しゃべらくなった子供たちにお隣の杉村春子が挨拶するくだりなんてのはもう大爆笑だよね、、、

それにしても、、小津はコメディの神だよね。

岡田茉莉子もすごくいいけど、、

「秋日和」はさ、、「彼岸花」からすると少しずつ劣るんだけど。

この山本富士子を見るたびに永田雅一をぶっ殺したくなるんだけど。

小津はね、、、すごいよ、、、こいつは。

とめどもなく流れ出すなみだ、、とは決定的に反物語的な出来事なんだよね。

映画史とは、、

「コクリコ坂から」で母親から「似てる?あの人と」と言われたうみの涙もまったくこの種のことであって。

これだけでこの二人は絶対に死ぬまで別れない、、、というシーンを撮っちまうわけさ、、オヅは。

それを見ている佐田啓二は「いいんだ、、それでいいんだよ」と肯定するわけ。

これはね、、ずっと中に秘めてきた思いがふと、自分すらコントロールできないかんじで出てきてしまったときに流れて来るなみだなんだよね、、

しみじみと、、

「いいじゃないか、、それで」って、、佐田啓二に肯定されて。

ここで泣くんだよ。有馬稲子が、、、

すっごいコワい顔して「わかれない!」

この「わかれない」の声のトーンがぜんぜん違う。

あたし、、、別れない!

そこで有馬稲子は「そんなこと、、、」と戸惑った瞬間、、、

そこで佐田啓二が「君はどうするんだ」と有馬稲子に聞くよね。

「彼岸花」のさ、、有馬稲子が父親の佐分利信に恋人の佐田啓二とのことで咎められて家を出て佐田のアパートへ行く。

だからして、、量的には平凡な名前でも、質的にはその人しかいない、、という出来事が日常的に発生してくる。

数でなく質なんだよね。

これはなんとも言葉で分節化されにくいことのさいたることなんだけど。

ツイッターであれ人間の名前であれ命名には多くの場合、想い、、という出来事が付着している。

名前っていとおしいよね。

小津を十日連続で見る、、という悪さをやっちまった俺からするならば、当然ながらひろさんとはあのひろさんしかいるはずもなく、イワシさんとはあのイワシさん以外のなにごとでもない。

ひろさん、、つったら、、あなたしかいないでしょうが、、、、


飲みに行くか、、、

映画をバカにしているからデーターを取ろうとしないわけね。

そんなもんなんだよ。日本人の映画愛なんてのは。

お前たちの情熱はこんな程度かと、、

allcinemaのデータなんてクズの極みだよね。ハナシにならない。

インターネットならそれができるだろうが。

本のページをめくって横並びに表を書いてもダメ。縦並びで一目で全体が見渡せる表が必要なんだよ。

どうしてかってと、そういう単純作業をした結果何が出てくるかわからない、、それを嫌がるんだよ。クズインテリは。

そういうのがまったくないよね、、、文系の批評家崩れさんたちには。

データーを表にして、、サラっと眺めて見ると、それまでみえなかったことが見えてくる、、なんてのは批評家精神の常識のハナシじゃない。

しない。とことんデーターを大切にしない民族だよね。日本人って。

日本人って、、データー大事にしないよね。

ああして書くと一目で作品と作品の関係が見られるんだよ。

ああいうのがどこ探してもないんで自分で書くしかないんだけど、、

ほら、、ヒッチコックとか成瀬の論文で書いたあの作品ごとのデータを上から下へ書き続けていくやつ。

何か気づいたらさ、今日、、、表を書き始めてるんだよ。、、わたしが。

小津を中心に生活パターンが再構築されていく現象をただひたすら指をくわえて見ているだけ。

みたらいけない!、、って、、わかってんのにさ、、、また見ちゃった。

また見ちゃったよ、、小津、、、


聞かねぇな、、

濱田か、、、、

飲み行こ。


なんだよ、、、その目は。

映画史上最高に美しいロングショットはボリス・バルネットのそれに決まってるだろうが!

見に行かねぇからな。

バケモノじゃないんだよ!、、俺は

そんなもんで俺さまが懐柔(かいじゅう)されるとでも思ってんのかよ。

なんだよ、、

「ここには、二十一世紀の世界映画史の中でもっとも美しいロングショットさえ含まれている」、、??

なに?、、

ヤだよ俺は。絶対に見に行かねぇからな。

気に入らねぇ。

俺になんの断りもなしに全国ロードショーか!

全国でか!

9月1日に封切だぁ?、、

気に入らねぇ。

俺よりも先にそいつを見にいきやがって。

なんだよ。それを見に行け、、とでもいいたげな口ぶりじゃねぇか。ハスミ。

ここまで価値観が多様化しちまえば無理もねぇハナシだが。

聞いたこともねぇ。

知らねぇなぁ。

濱田ぁ?、、、、

日本人のドイツが撮ったんだ。

何?、、ドイツ人じゃねぇ?、、日本人だと?

聞いてもしょうがねぇけど、どこのドイツが撮ったんだ。

悪うござんした、と。

庶民の俺たちには見ることのできねぇシロモノらしい。

どうせ試写会で見たんだろう。

聞かねぇな。

、、、

寝ても覚めても?、、、、、

ひろさんとこ見てたら、、、ハスミがまた動員を企んでやがる、、、、


寝る。いきなり

雑誌、、というか、病院なんだけど。

あるよね。。人が見てない映画を見たことに価値を見出そうとする雑誌って。

それは批評精神とは何の関係もないという事実から死ぬまで目を背ける。

インテリは試写会に通い続け、封切に並んで映画を見る。

インテリは日々「誰も見ていない映画」を探し続けている。

インテリ根性とは基本的にこれだ。

そうして人は、目の前にある現前した出来事の価値を見誤ることになる。

失われたことを探し求めることを生とした時、生涯それを探し求めることの神経症から自由になれない。

より精密には物事の順番を間違っている。

そんなことは映画研究家の仕事であって批評家の仕事ではない。

「愛に甦る日」だの「チャンバラ夫婦」だのを求める心性はまったくもって批評精神とは結びつかないことを知るべきだ。

そのへんの批評家は、金にならないこと、には一切なんの興味も示さない。

映画史とは何かが足りないことの反復なんだけど、それを掘り出そうとするとき、批評家はその足りないことを捉え間違えないことだ。

キートンのトーキーと30年代の短編を見ることはおそらく、小津の「懺悔の刃」を見ることに等しい。

キートンはそれができず30年代再び短編映画の世界に戻っていった、、、感動だよね。すごいことだ。

キートンを物語のオブラートに包むことがいかに困難か。

ところがヒッチコックの場合遭遇したモーション・ピクチャーがあまりにもつかみどころのないことだったがゆえに生涯それを掴み取ることに苦心し続けた。

成瀬は「めし」でそれを掴みヒッチコックは「三十九夜」(1935)でそれらしきものと遭遇した。

それを書かないとならない、、という、、なんというか、、、

ヒッチコックの論文はまだまた続きがあってさ、、小津については少しだけ書いたけど、あそこで書いた「法則」が小津にもあてはまるはずだ、、という確信はずっと抱いてた。

何がやばいって、、、書きたくなっちゃうんだって。

小津はヤバイぞって、、、ちゃんと知ってたはずなんだけど。

4日続けて映画見たなんて何年ぶりだろう、、、って。

小津。

4日続けてみちゃったよ。

はは、、

静かだ、、、あまりにも静かすぎる、、、


寝る

というパワーが俺をして、今一つ批評から足を洗うことを遠ざけているひとつのなにかも、

自分の弱さから逃げ続けたクズの成れの果てだ。

イタイ。

ツライ。

こんなバカが神格化されてるの見るのはツライんだよね、、

困っちゃ~う~ワ!、、と。

でも、、時として荒井晴彦みたいな、、トンマに担ぎ上げられた批評精神とはなんの関係もないバカがクソ生意気ヅラして間違ってしかいない甘ったれた映画論もどきをのたまわいにおなりになられているのかとを見るとさ、、

感動を言葉にする必然性なんてどこにもない。

でも、、これが映画なんだよね。それを言葉にして批評を書く必要なんてどこにもない。

そのへんのさ、、ツイッターでフォローワーが数百くらいの人たちってさ、、、「ブレッソンを見た、、、よかった」とかで終わっちゃうんだよね。

今、、、俺に決定的にあるのは、、批評を書く必要があるのか、、という。

8月は清順見たり、、やばいとは頭ではわかってるんだけど。

凄まじい細部の関係だよね、、、信じられない。

わかってはいたんだけど、、、

カードの練習しながら見てたんだけど、、、気づいたらもうカードなんか忘れて見てる。

半分ほど見てから飲みに行こうと思ってたのに、、、というか、、、全部見ちゃったよ。

小津見ちゃったよ、、「東京の宿」、、、やばい、、、つうのに、

はは、、、おせっかいバカ。

フォローワーが1000超えた時が正念場よ。

よかったね。友人から良い報せが有って。


ごめん。おふくろと話しこんじゃって。寝る。

批評家がまずすべきことは見たことがモーション・ピクチャーかそうでないかを読者に知らしめること。

フィルムイズフォーエバー

それがモーション・ピクチャーである限り必ずや時を超える。

Yes

2016年にこんなおめでたいのを撮ってもいいのか、、と。

そこには当然ながらある種の時代錯誤というものがつきまとってくる。

キューカーの伝記物なんかを相手にしちゃうとすべてにおいて少しずつ少しずつ物足りないんだけど。

脚本家アリソン・シュローダー、、、聞いたことないな、、そんな名前は。

だめなショットもあるんだけどそれが決して心理的に流れていかない。

実に簡単なショットの連なりで撮られてはいるんだけど、、、これを撮るには才能だけでは無理な相談だ。

ジョン・フォードとかジョージ・キューカーとかの映画史を知っている者たちのみが集結して撮った物語映画のモーション・ピクチャーそのもの。

チョークをコスナーが手渡す時のチョークのクローズアップなんてのはまさにアメリカが撮る伝記モノの正統的伝統そのもの。エモーショナルだよね。

キャメラを引く種なんてのはとっくに滅びたはずなんだけど。

キャメラがす~っと空間から離れていく。

久しぶりに見たよ、、キャメラを寄るんじゃなくて引いて撮る映画って。

「ドリーム」(2016・セオドア・メルフィ)、、、アメリカ人はこういうの撮るのうまいね。


寝る

「脈絡の不在」という点では決して『たこさんウインナー』に負けてないと思うんだよ。

映画研究塾やめて。

俺もなんか、、『平成ジャングルジム』とかに変えてみようかって。思い切って。

そういうのすんごくうらやましくってサ、、、。名前を変れるって。、、変えてもいいんだ、、って、、

で!、、彼はさ、、彼女かもしれないし、、その中間かもしれないけれども、、、どちらにせよ、、アカウント名を『たこさんウインナー』に変えたくなってきた、、とか書いてて、、、


、、、、、、!

するとちょうどいい頃合いのトム・クルーズになるんだよ。

そこにチョイ津川雅彦くらいで味付けをしてやって、、7くらいで割ってあげる。

キムタクが全部で1000とすると、、やはり950くらいはチャニング・テイタムで引く必要がある。

引かないと。

で、、結論から言うと、足しているうちはいつまでたってもトム・クルーズにはならない。

私こういうハナシが大好きなタイプなんで。

たかやさん、、、ていう方なんだけど。

しばらく回っていると、、、キムタクに何を足せばトム・クルーズになれるか、、ってのがあって。

みらさんとこからツイッターサーフィンしてて




それが誠実さ、、というもんだ。

決して自分のできないことはするな。

満足したら素直になっててめぇのできることだけしろ。

これで満足か?

斎藤環
はクズ野郎だ。

もういっかいいってやろう。

なぁ、、、たいがいにしろよ。

お前ら、、、がっかりさせるなよな。

斎藤環ごときのポン助の中のポン助に惑わされてどうしてモーション・ピクチャーを言葉にできるんだよ。

お前らいいかげんにしろ。

お前らシネフィル。まさかこんなバカに影響されてるんじゃまさかねぇよな。

クズ野郎だ。

もう一回言ってやろうか。

クズ野郎が。

バカを誇示しやがってさ。

まぁ、、、それにしても、、、こんなバカが先生呼ばわりされてのさばっている。そんなもんだよね。

そんなクズを相手にしている時間はないだろうが。

クズの中のクズなんだよ。

クズ野郎。

ハートのかけらもないクズなんだよ。

クズ野郎なんだよ。

人間のクズなんだよ。斎藤環なんてクズは。

こいつらはクズなんだから。

やましんさんに一言言いたいのはね、、、こんなクズにいちいち利用されて傷つく人生を修正しなさいと。

東浩紀に利用されたただのクズポン助なんだから。

こいつは正真正銘のクズなんだから。

こんなクズ相手にいちいち傷ついてはならない。

クズ。

斎藤環
なんてのはクズなんだから。


人とつきあう、、、とはそういうことだ。

これがコミュニケーションなんだよ。

だからして、、高畑が死のうがどうしようが鈴木のうなされは死ぬまで続く。

背後が死のうが生きようが現前としてあるテクストと素直に接することなんだよ。

誠実さとは何か。

つやつやした顔でもってさ。

実に晴れやかにね。

残念ながらそのへんの批評家・思想家崩れのクズどもは「背後」がいなくなるとわれ先にと「~論」を書き始めるわけ。

これがコミュニケーションなんだよ。やましんさん。

だからして、高畑という「背後=人間」が滅びても未だに「タカハタ=テクスト」にうなされ続けるわけ。

決して鈴木は高畑というテクストから逃げなかった。

それを鈴木敏夫はモロに受けて返し続けたわけ。

戦いなんだよ。もうカッコしないけど、、コミュニケーションってのは。

ナントカ研究塾みたいにね。

これを生きてる人間同士でやると、、、というか、、俺の場合は俺しかやらないから片側通行なんだけど、、、これをやるとほぼ間違いなく嫌われるか干されるか無視されるわけ。

そのへんのバカ哲学者同士の往復書簡だののか弱い慰めとはまったく異質のこわーい次元。それが「コミュニケーション」

コミュニケーションって「コミュニケーション」のことだよ。わかってんの?

生きている人間同士がコミュニケーションすると、こんな感じになるわけね。

鈴木敏夫と高畑勲とはコミュニケーションをしていた。これは非常に稀有な出来事だけど。

鈴木敏夫のインタビューか、、、コミュニケーションってのはこんなもんだよな。

思い上がり以外のなにものでもないけどな。こんなもんは。

はは、、、

笑わせる。

Hondaがカンボジアの実質監督だって、、、


寝る

ああ、、ヤマナカじゃん、、、つって、、、まさかヤマナカなんて見てないだろ、、と否定する自分がいる。

いきなり小津だな、、、思わず笑う。

というわけで、今、「恐怖分子」を見てる。

理屈しかない。

「スパイクス・ギャング」(1974)のカケラでもない。こんなもんは。

ベルイマンだよね。みんな画面の中心にいる。

そんなハスミの糞尻馬に乗ってこれをバカ有り難がったバカがどれだけいたか、、、涙ぐましい映画史だ。

そうじゃなきゃこんなくだらんもんを褒めるわけがない。

そのへんのもっとくだらないもんに比べれば決して悪くはないんだという、教育的まなざし。

どうしてハスミがこれを褒めたか、、ってのが手に取るようにわかるよな。

クローズアップの撮り方を知らないわけね。この人は。

こんなもんを神格化させた罪は極めて重いよね。

こんなくだらないもんを褒めなくてはならない、、ということがハスミのインテリなんだよ。

クローズアップの撮り方自体ぜんぜんなってないし。これが限界なんだよ。ベントンなんて。

ハナシは変わるけどさ、、、、ベントンの「夕陽の群盗」なんて全然だめだよね。

山根なんかよりもおっとろしい世界だ。

子供たちよ黙りなさい。これが高校野球だ。

大人がガキを利用して楽しみ続ける吐き気をもよおす世界が高校野球だ。

完全に土人の巣窟と化している。

おそらく日本人の人権侵害男女差別の最後の牙城は相撲でも電通でもボクシングでもレスリングでもヤクザでもなく高校野球だよ。

山根貞男じゃないよ、、明、、、小林旭じゃなくって、、その「明問題」を批判しておきながら高校野球を賛美するという、、、、神経を疑う国だよね、、、ニッポンって。

日本の村社会ってのは少しずつすこしず~つ解体されているわけじゃない。

先輩後輩で批評家レヴェルに差が生じることは「絶対に」ない。

マキノを浴びるほど見た先輩が映画研究会でクソ威張り散らそうがそいつはほぼ100%ただのトンマである。下級生の君たちは決してそんなくだらないポジションでのさばってはならない。

グリフィスの短編を浴びるほど見たところでそいつに批評精神が芽生える保証はどこにもないし、俺の知っている限りそういうやつは一人もいない。

ま、、どうでもいいハナシだ。

というか、、もういないよな、、、そんなんでここを見に来る奴なんて。

そういう人はさ、、町山とか寺脇とか四方田とか、、輪をかけたバカのとこに行ってくれれば癒してもらえるはずなんで。

筋金入りのバカ、、、っていうやつで、、それはそれで見上げたもんなんだろうけどさ。

ちなみに、、こういうハナシをするとさ、、「厚化粧したっていいじゃないか!、、自由だろ」とかいう本物のバカがすぐに顔を出すんたけど。

ここが面白いとこだよね。

グリフィスの後継者はジョン・フォードただ一人しかいない。

ジョン・フォードかホークスと違って賞をたくさんもらえた、、、というのはここだよね。

発狂という、常習性を逸脱することなくしてこの短編が泣けることはないんだよね、、おそらく。

ただ、、ホークスであれば一瞬たりとも緩めてはならない常習性のラインをグリフィスは緩和する方法をすでに行っていた。

決して初犯のメロドラマではなく、あくまでも「常習犯」で映画は終わる、、、という鉄則。

というか、、、道徳に近いものがあったのかもしれない。

どちらにしても、彼女はレディを取り戻すわけ。これがグリフィスの倫理なんだよ。

いや、、ただ失神しただけかもしれない。

発狂した彼女はレディとして死んだわけね。

「厚化粧したレディ」のラストシーン見て。彼女は鏡で自分の厚化粧した顔を見て驚愕して死んだわけ。

ただし!、グリフィス=ジョン・フォード的「前科四犯」はあくまで「前科四犯」であってメロドラマ=初犯ではない。

わかる?、、ホークス的常習犯では大衆は絶対に泣けないわけ。

そうすることでホークス的常習犯の持つ非人間性=動物性を見えないようにして大衆に「泣くこと」を与えたわけ。

グリフィスはホークス的常習性を緩和させ、一時停止させ、発狂、という極めて人間的な状態をモーション・ピクチャーに取り入れた。俺はそれを論文では「前科四犯」と名付けて書いたんだけどさ。

これがジョン・フォードなんだよ。ジョン・フォードはこの線を引き継いだわけね。

それをグリフィスの彼女は発狂したのであり、厚化粧をしたのであり、だからこの短編は泣ける、、というわけだ。

厚化粧なんかするわけがないしそもそも彼女が発狂するなんてことはありえないわけ。

なぜなら彼女は「レディ」という身に染みついた運動をする「常習犯」だから。

ホークスなら絶対にこういうシーンは撮らない。最後まで厚化粧をしないで映画は終わる、、それがホークス=マイケル・マン的鉄則なわけ。

彼女が厚化粧をしたのはここの時点なんだよね。発狂したあと、なわけ。

彼と初めて逢い、また逢引きをした思い出の場所(すべて同じ構図)へ何度も行ってはいもしない彼との時間を楽しむ、、周囲はそんな彼女をあざ笑い狂人扱いする。

彼女は少しずつおかしくなって、とうとう発狂してしまうわけね。

あらすじ書こうか、、、レディの娘は薄化粧でパーティでも目立たない。ほかの女たちが厚化粧をして男の子たちにチヤホヤされているのを見ても彼女はレディとして決して厚化粧などしようとしない(常習犯)。ところがある日、詐欺師が現れ彼女を誘惑し、彼女が舞い上がってい隙を見て覆面をして彼女の家に侵入しコロドロをはたらく、、、ところがその場を彼女に見つけられ、、彼だと知らない彼女に撃ち殺されてしまう、、、彼女は彼の覆面をはがして驚き、、、驚愕し、、、そして、、、

レディのたしなみとして厚化粧なんてできるはずがない。ホークスなら最初から最後までこの線で貫くはず。

撮れない、、のかな。

これはね、、ホークスはこういうのは撮らない。

今も「厚化粧したレディ」見ながら涙が止まらなくなる、、、なんだこれは!、、

俺も海外のレーザーディスクとかオークションで競り落として浴び見したよね、、グリフィスの短編。

グリフィスの短編なんてのは宝石の山山々、、、だから、、見て当たり前ではあるんだけど。

イワシさんのツイッター見てたらさ、、

「厚化粧したレディ」、、、こんなの見てるバカがまだいるんだね、、


ユー

オンリー。

映画を殺しつづてけているてめぇから逃げまくってるオンリーだ。

もう寝るけどさ、、、ほんと、、どのツイッターもくだらねぇ、


寝る

バカきらい。

日本のプロ野球のあの韓国の実業団みたいなユニホームになんの批判もできないのには無理な話だ。

はは、、、

わかんねぇだろうなぁ。

わかるか?

このコニャンコの中に一匹でもコ仲代とかコリリー・フランキーみたいなのがいてごらんなさいよ。「よどみ」だらけになるとこを、ちゃんとそうじゃないコニャンコをスカウトしてる。これはなかなかできることではありませんよ、、

よどみがないんだよね、、、

いちばん左手前の小ニャンコが最後に飛び出して行くんだよね、、、旅立っていくわけさ、、。泣くしかない、、、周到に計算されつくされた脚本であることは間違いない。

結局のところこのモグラたたき、、的なるものってのはさ、、ミヤダイ的に評するなら、、母ニャンコによるコニャンコの外部的誘惑への防衛と、、それでもなおかつ、、という小ニャンコによる巣立ちへの甘酸っぱい肯定、、、とでもいうことになるんだろうか、、

特にその、、いちばん右手前の小ニャンコの二回目の出現と消失なんてのは哀愁以外のなにものでもない。

↓、、この笑える画像集8のさ、、、1分20秒頃の小ニャンコ叩き、、、最高だよな、、これ、、

https://www.youtube.com/watch?v=ia6qA49gn0w


寝る

やくざとの付き合い方ひとつとっても山根は人間のクズだよな。

ま、、あんたたちもいろいろと言い分はあるだろうけどさ。

こんなバカと付き合うやくざも二流。

島田とか山根なんてのは典型的なこれ。

中途半端にやくざとつきあってやくざでもないのにやくざの顔をしてやくざの名前を出してクソ威張り散らしているようなやつらをほんとに嫌ってたよね。

かたぎの遊び人ほどたちのわるいもんはない。俺たちはそういうやつらを「しめて」まわってるんだ。って。

たちが悪いのはかたぎの遊び人だって。

そんとき、口を酸っぱくして言われたのはさ、

男一匹ガキ大将のモデルになった人に可愛がってもらってさ。

当時は住吉連合、、つってたけど。

俺は東京時代、、自由が丘のころ、、やくざとずっと付き合ってたけどさ。

すげぇーよ、、、勝ったペアのオねーちゃんたち、、顔がまったく原始的だよ。

中国の客の目が肥えてるよね。

女子バドの決勝面白いよ!

トム・クルーズが未だにスターなのはそういうことだ。

顔が読める、、ってのはモーション・ピクチャーの敗北なわけ。

目鼻立ちがはっきりすることってのは間違ってもモーション・ピクチャー的な要請ではない。

演歌歌手なんてのは例外なく年を取ると分節化されちまうわけ。

スターってのは絶対に顔が分節化されてはならないわけ。

昨日見た菊川怜なんてのはもう顔が分節チャンピオンなわけ。

網走番外地の大原麗子なんてさ、、北海編とか、、、顔が分節化されてないんだよね。

あんな華奢なさ、、、

世界のバドミントンを変えたよね。

ものすごいスマッシュを打って勝つというリミットを超えてしまった。

桃田はひとつのリミットを超えたよね。

バドミントン部の俺が。

俺がこんな隠居しちまいやがったもんだから。

というか、、、昔はいろいろあったんだけど。

はは、、、

あっちはこっちの名前出さないからさ、、、でも多分見てるはずだ、、と決めつけて挑発するとちゃんと乗ってくるんだよね。

こないだの上馬場さんもそうだけどさ、、、見てやがんだよね、、、

はは、、

その確認作業なんだけど。

どうでもいいんだよね、、2で割るも3で÷も。ただ、、見ててくれてるかも知れないって。

桃田やったね、、すごいやつ。


ハナから自分を100%肯定する空間にしか行かなんだろうが。お前らは。

批評精神のカケラもない。

白も黒もわからないバカ支持者の歓心を買ってるだけだ。

お前らがやってることはトランプそのものじゃないの。

糞インテリズラしやがって。

お前らはゴダールのカケラでもないんだよ。

お前らいい加減すっこんでろ。

青山とか黒沢が映画についてのたまうたびに俺は吐き気がするんだよ。

寝る

いなくてよろしい。

死ね。

ハスミに甘えやがって。

青山真治みたいなバカに鈴木清順がわかるわけがないだろうが。ケンカ売ってんのかよ。お前は。

清順が、、、、、わ・ら・わ・せ・る・な。

モーション・ピクチャーを無視しやがって。バカが。

フォローワーの数と批評眼とは反比例するんじゃねぇのか。

「万引き家族」みたいなバカでも撮れるもんをありがたりやがって。バカが。

お前らいい加減しろ。この野郎。

山根はこれをベストテンにいれてんのかよ。こんなくだらねぇ雑誌買ってないんでしらねぇけどな。俺は。

寺脇レヴェルのぐすみたいのがモーション・ピクチャーを汚し続けているんだよ。わかってんのかよ。バカが。

バカはお前なんだよ。

お前たち、、こういうのをバカにしてるんだろ。

これが映画、なんだよ。

これがモーション・ピクチャーなんだよ。

「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳)はただの歌謡映画じゃないんだよ


バカは寝る。ごめん

鬼瓦さんに。

そこを聞きたい。

佐藤慶と戸浦六宏を足して3で割ったら何になるんだよ。


寝る

ナマナカの雪が寒さだとでも?

そういった、、人間の存在そのものに関する怖さを伊藤洋司はまったくわかってない。

寒くするなら鈴木を山田にしなくちゃいけない。

鈴木清順の雪を寒くしてくれ、、つったってそれは無理な相談なわけ。

対してハスミは難解さとはモーション・ピクチャーのサガであって決してコントロールすることはできずまたすべきでもないと確信している。この差が、、あまりにも大きな隔たりが、、あらゆる「蓮實重彦インタビュー」なるものをグロテスクにしている。

伊藤は難解さをコントロールできると思っている。

伊藤洋司の議論と蓮實重彦のそれとがまったく噛み合わないのはさ、「難解」が出現する回路がオイル&ウォーターだからだよ。

説話論的にな。

難解なのは腐るほどあるよ。日本にだって。だがそのほぼ100%はバカ作家が意図的に難解にしているわけ。

でもね、、もしそうだとするとそれはモーション・ピクチャーにはならないんだよ。

あれは清順が意図的に難解にしているんだって。

それは清順から来ている、、と答えるしかないし事実彼らはそう評しているわけ。

清順は難解だ、、、つってるやつらはさ、、その難解はいったいどこから来るんだって、、、

「難解な清順美学」論のくだらなさはここにあるんじゃない?

一神教の。

それができれば神の領域に入ることになる。

おそらくね。

わけではない。

ただ鈴木清順は、説話論的持続から画面を解き放てばそれがモーション・ピクチャーになる、、ということを知っていたので意図的に説話論的持続からズレた画面を撮るように心がけていた、、、

鈴木清順は難解です、、、でも、実はそうではなく普通の映画なんです、、なんていうくだらない会話に耐えられるはずもなく、、

難解、、なんていうのはモーション・ピクチヤ基本的特性なわけだから。

クズの話をするのもこのくらいにしておいて、、名前を出しただけでもありがたく思え、、ということで、「東京流れ者」(1966)の話でもするか、、

「ララランド」のめちゃめちゃはモーション・ピクチャーとは何の関係もない。

「東京流れ者」(1966)のメチャクチャとはあくまでもモーション・ピクチャー的ハチャメチャなんだけどさ。

俺は今、映画館を10分ほどで出た後のを録画で見てるんだけどさ。

もう一回いうけど、、この映画に感動した奴は批評家だけにはなるなよ。いいな。

大抵のトンマはこの脈略でみずからの「才能」を誤診するわけ。

これが説話論的持続の怖さ、、なんだよね、、

ま、、こんなバカでも撮れるもんに「うちの読者」が「感動」するなんてことはまさかないだろうってことくらいは「確信」してるんだけどさ。。

才能のカケラがない。

バカが、、

今「ララランド」をちょい流してるんだけど、、、二谷英明の緑のジャンパー真似してるよ、、、

はは、、

「ララランド」を撮ったバカがこれに影響を受けたと蓮實重彦のインタビューで出てるけど、、、

おいおい、、ヒッチコック論文を書いて以来、見直す、、ということはまったくしてこなかった私がここにきて見直し連ちゃんにはまっている、、、やばいぞ、、、これは、

鈴木清順「東京流れ者」(1966)を見直す。14年ぶり二度目。


平祐奈のイヤホンのはずし方、、、あれはだめだよ。兼重淳。

追伸。

寝る

並木の道すがら菅田将暉に「それのなにがいけないの?」と詰問された忽那汐里が無言で歩き去るシーン、、、これ、映画史に残るよね。

体が動き出す。

声、、という曲をGReeeeNが、というか、、この映画のためのオリジナルなのか、、ライブで歌い始めた時の忽那汐里の反応、、なんてのは、おれがヒッチコックの論文で書いた「リオ・ブラボー」(1959)のジョン・ウェインの映画史そのものだよね。

大変だ、、、こんなこと始めたら。俺は。

アルメンドロスじゃないのかね、、こういうことをやり始めたのは、、、

平祐奈のあれはさ、、彼女の右のおでこのほんの一辺にあの光が当たっていなければ失敗、なわけ。このショットは。

こういう、、人間のひたいの1点に光を当てればそれでよい、、という照明は、ハリウッド全盛にはありえないよね。

ま、、60年代のハリウッドはボロボロの照明だとして。

というか、、こういう照明ってのは70年代以降かも知れないよね、、

ぜんぜん見てないだろ?、、

すべてではないけど。

映画史とは紛れもなく、、ああいう部位にああいう光を当てることで「YES!」という意味なき肯定をし続けた歴史なんだよね。

というかハスミなんだけど。

こういう光の感覚ってのはアルメンドロスとかから教わったんだけどさ。

そして彼女は聖母になる、、わけなんだけど。

平祐奈にしてもさ、、最初の病院の廊下の長椅子で手の絵を描いている彼女の右のおでこにちゃんと光が当たっているよね。

忽那汐里がほんとに素晴らしいんだよね、、、「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳)

光は映画のすべてだけど決してモーション・ピクチャーのすべてではない。

真利子哲也にもう一度言うけどさ、、どんなに照明が素晴らしくても決して勝てないことがある、、ということね。

だからしてバカは映画に撮るとモーション・ピクチャーなんだけど、しゃべり始めると「ミヤダイ」になっちまうわけ。

バカの言説が再帰的、、なんじゃないよ。バカの存在が再帰的なのね。

再帰的だから。

バカとかトンマってのはダイナミックなんだよ。

ダイナミックではある。

こんなバカに教わるトンマがいる、、というのが資本主義的国民国家における「バカの再帰的無限排出」という現象なんだけれども。

伊藤洋司のバカは物語がきちんと語られてますよね、、、と、、それがいいんですよねって、、バカかお前は。

「普通の映画」なんていう言葉を発せてしまう空間自体くだらない。

孤独だったと思うけど。

すごいよね。鈴木清順、、、

これは間違っても物語の持続によってもたらされるエモーションではない。モーション・ピクチャー的感動である。

雨の軒先で和泉雅子に接近した山内賢が傘を閉じたあとのカッティングインアクションですでに何かが起こる、、という予兆は十分すぎるんだけど、、赤い部屋の話をした後、、俺は船乗りの息子で神戸で育ち、、歌うたい、、毎日が別れの日々だった、、みたいなあたりから、、私の涙がとまらなくなるんだけど。

ずれまくっている。

ぜんぜん普通じゃないよ。こんなの、、、

蓮實重彦はこれを普通の映画ですが、、、みたいなことをぬかしているんだけど、、

「悪太郎」(1963・鈴木清順)。、、これね、、

小松菜奈が監禁されるあたりからモーション・ピクチャーは終息を迎えるわけ。

「リアル」に撮ればとるほど喜ぶのはそのへんのクズ批評家で決して「ハスミ」でも「ゴダール」でもない。

真利子哲也もそういう落とし穴にはまってる。

どこかで見て読んで知っている光景だからさ。

物語が怖いだけでフィルム的連動の恐ろしさは皆無。だからか弱い批評家が食いつけるというわけだ。

「冷たい熱帯魚」系統のそれはおしなべてモーション・ピクチャーから逸脱することでバカ批評家にやすらぎの時間を提供している。

モーション・ピクチャーにおける暴力とはあくまでもモーション・ピクチャーの内部で完結して初めてそれは「暴力」として焼き付けられるわけ。

暴力性がモーション・ピクチャーを逸脱することで初めてバカ批評家は反応できるわけ。

キアロスタミが日本で撮ったやつで加瀬亮がしでかしたバカとおんなじ。

特に菅田将暉なんだけど、、彼の過剰な暴力性が内部から逸脱しバカ批評家にやすらぎをあたえたわけね。

考える隙を与えてしまったわけ。バカ批評家に。

バカ右翼でも同じことだけど。

モーション・ピクチャーであったものがバカ左翼が喜ぶものへと豹変していったわけだ。

といういい方もありだな。

内部で完結することができなかったから、バカ批評家に評価されたわけ。

少しずつ少しずつモーション・ピクチャーから外部へとながれていく。

ニュース映像が入ったあたりから失速するわけ。

「ディストラクション・ベイビーズ」(2016)は中途まで完璧なモーション・ピクチャーなんだけどさ。

バカみたいな比較法からすると、「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳) の完勝だね。

まず真利子哲也から行こうか。

そして一日に2本の映画を見たのも久々。もう一本は真利子哲也の「ディストラクションベービーズ」なんだけどさ。

で、データーを調べて見るとちゃんとそこんところは取ってあって、前に見たのが2005.5.13。だから13年ぶりの二回目。

蓮實重彦のインタビューに触発されて鈴木清順「悪太郎」を見返す。


寝る。ごめん。

素直になって自分の弱さと向き合うしかない。

瑞穂バカだ。

こういう弱虫バカがいるからリベラルはいつまでたってもバカにされるんだよ。

特に吐き気をもよおすのはデュープロセスから逃げたバカが「不当判決」とか決めつけたカードをバカ面さらして裁判所で提示する時だ。

そんな奴らの人権ツイートほど吐き気をもよおすものはない。

そのへんのクソツイッターでおめでたく人権ズラしてるバカどもがまつりになると押し黙るわけだ。

例外なくおよびごしで常に自分のポジションを気にしているる

ほんとうにつまらんやつらしかいない。

村社会だから。

現実に起こっている現象に対する反応がまるでない。

日本人社会って、つまらないんだよね、、

俺もヒッチコックの論文を出して何の反応もなかったときわかっていながら死のうかと思ったよね。今だから書けるけど。

絶望してるわけだよね。

絶望を感じる人の気持ちって、、俺はよくわかるんだよね、、特に日本社会での。

なんとなく、、折れないような感じもするけど。

でも、、ま、、

夢とか、、希望とか。

俺はそれをジョン・フォードがら教わったけど。

でもさ、、だれかがそれを受け継ぐんだよね。

お母様はもう、、折れてしまっているかもしれない。当然だろうけど。

もっともっと、これは長いスパンの長期戦になりそうだ、、ということだ。

はっきりいえるのは、まつりを忘れない人たちがいて、そしてその後、なにかが変わるかは誰にもわからない。

くそデブ野郎。善人ズラしやがって。

東浩紀みたいな他人様(たにんさま)の人生を利用しててめぇがメシを食うクズばかりだ。

今の日本人にそんな哲学者は一人もいないけど。

どうして人はアンネ、と口にできても、まつり、とはできないのか。それを自分に問うのが哲学だよね。

アンネフランクが幸せだったかどうかは誰にもわからない。

けがれだから。

みんなびくびく震えて、、高橋まつり、、という言葉を口にすることができない。

あの8000を見て、恐怖を感じない、、というのが日本人社会だから。

日本人はスゴイ、、、という、、ここだよね。

日本社会のこうした闇が日本の美徳として伝えられる世界だから。竹田みたいなバカ皇族くずれによって。

根は深いよね。

麻原を死刑にしたところでなんにも終わらなかったように。

それはひとつの事件のハナシで上司が不起訴になったところで「まつり」が終わるけでも何でもない。

上司が不起訴だからってだからべつになんでもない。

判決なんてどうでもいいんで。

捨てたもんじゃないんだよ。この8000は。

でもさ、、実はこの8000という数字はさ、、すごいことなんだよね。

俺はヒーローじゃないから。

悲しみをそんな近づけはしないんだけどさ。

もし俺がヒーローだったらさ。

絶対に終わってなんかないんだから。

何度でもいうけどさ、、、こっちはフォローワーが1か2の乞食だけどさ、、どうかそんな悲しまないでほしいよね。

でもさ。

東浩紀みたいなクズが18万だよ。

さみしいと思うよ。たったの8000しかないなんてね。

振り回されているんだよね。

もしもこういう人間のクズレヴェルのクソガキが「まつり」にかんしてなんかぬかしたら殺してもいい。

それどころかさ、、、区切りのところで「キタァ~!」とかリアルタイムでツイートしているわけ。

こういったたぐいのバカはさ、、フォローワーが増える、ということに関する恐怖をまったく感じていない。

東浩紀みたいなさ、、悩みも何にもないバカ知識人が18万だよ。

もう一度言うけどさ、、フォローワーが「たったの」8000しかない。これが日本社会の途方もない怖さなんだよね。

はじまったばかりなんだって。

終わってないんだって。全然終わっていない。

媚売って10万超えるバカ知識人とは何の関係もない出来事だけど。

勇気ある人たちだけがフォローしている。

ゼロがふたつ足りない。

これが日本という国なんだけど。

それは高橋さんのツイッターのフォローワーが8000人台、、という、、途方もなく少ないことと無関係ではない。

まつりという言葉をなかなか口に出せなくて悶々としている人はたくさんいるよね。

海を越えたんだよ。

フランスドゥでも特集でやってたよ。

俺の体の中に入って消えないんだよ。まつりという言葉は。

これからだよ。まつりは。

まつりは終わってないだろう。


寝る

あんたに映画は向いてない。

田舎へ帰って家業でも継げ、、伊藤洋司。

これを「みじめ」つうのね。

ハスミに守ってもらえている。

でもこいつは「感激屋」という被害者根性に逃げ続けているから決してハスミを怒らせない。

このバカは映画を読んでいながらハスミと対談するわけ。

清順に関する伊藤の「デタラメサ」とはすべてが説話論的持続の観点からのそれなわけ。

長回しのショットも充実していました、、なんてさ、、、ダメなんだよ、、、こんな言葉を使っては。

さすがにハスミもこういったインテリバカに付き合いなれているから実に上手にかわしつづけているんだけど、、

お前、、、こんなレヴェルでいいのかよ、、って。

昨日初めて映画を見て今日ハスミと対談シマショ、、って感じのおねーちゃんとなんら遜色ない。

言葉を知らない。

ガキなんだよね、、、がき。

もし俺がこのインタービューを受けてたら間違いなく殴ってるね、、、

はは、、、

それともこれは、ハスミの言説を引き出すためにわざと完全なバカを演じて見せたということか?、、

雪の寒さが感じられない、、、とかあるところで伊藤のバカは言ってたりして、、、もう、、完全なバカなんだけど。

無理だけど。

せめてコミュニケーションが成立していない、、くらいの感性は持つべきだよな。

伊藤の清順論なんてのはオハナシにもならないただの感激屋の感想文に過ぎないんだけど。

最後まで伊藤にはそれがわからない。

ハスミがなんとかしょうがないから、、うまくハナシを合わせてあげて伊藤に恥をかかせまいとしているんだけど、、

まぁいつものことなんだけど、、噛み合ってないんだよね、、、ハナシが。

ちょっとインターネットで鈴木清順追悼、、伊藤洋司が蓮實重彦に聞く、、というのを読んでたんだけど、、、


なんかこれ好きなんだよね、、、よくできたなと、、こんなことが、、

藤村隆史インタビュー


コワイね。善意と笑顔。

誰も見てなければ棒叩きの刑とかにしたいんだろうなって。

出家は第二の隔離だよね。

隔離→感染症、、というモーション・ピクチャー的恐怖の流れ。

感染症→隔離、、という説話論的持続の流れではない。

親になど決して会わせてなるものか、、という極めて強い意志が存在している。

感染症の恐れから隔離、、、って聞いたとき、ああ、、始まったな、、、と

善意ってのはコワいね。ほんと。

授賞式なんかで審査員とかがトロフィーを渡すとき、受賞者が受け取ろうとしてもなかなかはなさないでしょ。トロフィーを、、受賞者と取り合い、みたいな形になる。

善意ってのはコワいね。

彼らは死ぬまで引きずり回される。

救出されて「ありがとうございました!、では、失礼します」。、というわけにはいかないんだよね、、

タイの洞窟少年たちが出家だって、、、


笑わせるんじゃねぇよ。

撮らねぇよ。こんなくだらないもんは。

ろくにキャッチボールの仕方も探求しない宮台みたいなバカが東浩紀にバトンを渡して、それをジョン・フォードが撮るかよ。

そうして倒れたらまた次のやつがそれを受け継ぐんだよ。

まずはみんなでキャッチボールするんだろうが。

そんな時代に名を残そう、なんていうやつらにどんだけの時間を割いてるんだよ。

映画評論なんてのは未だにキャッチボールの仕方すら定かではない。

アメリカのフロンティアを開拓した農民の名前をお前たち何人言えるんだよ。

それがフロンティア精神というやつなんだよ。

そうして少しずつ、キャッチボールに相当することは何かを探求するんだ。

その道が創世記にあるとき、人は「副業」で生きていくしかないんだよ。

蓮實重彦のパフォーマティブなんてのは面白くもなんともないわけだ。

生きていくためなんだよ。バカ弟子をバカと言えないこと一つ取ったところで彼は映画に害悪を及ぼし続けている。

すべては今、生き残るだめだ。

蓮實重彦も例外でもなんでもない。彼も相当やばい妥協を繰り返している。

映画の魂を売ったもん勝ちの世界になっている。

映画の批評家界ってのはいかにして善人ずらして映画を売るかの競い合いになっている。

自分の愛していることを裏切らなければ生きていけない世界があるとすればそこから逃げるのもひとつの勇気。

誠実さとはこれだ。

こういうのをカッチョい~!、、つうのね。

彼のカード・マジックは弁護士の肩書に一切負っていない。

彼の副業はマジシャン。そして超一流だ。

ガイ・ホリングワースというイングランドの弁護士がいる。

こんな輩の批評もどきはよくツイッターでも目にするが例外なくカスである。

こういう連中は正業の肩書を利用して書いている弱虫野郎どもだ。

勘違いするなよ。よくいるよな。弁護士が書いた映画論、、、とか。これは副業じゃないぞ。

それが「正業」という病気だ。

批評という世界に日々生起するグロテスクはものさしを探求する誠実さを抹殺するシステムが存在することに尽きている。

そんな世界を「正業」にしたらいったい何が起こるかだ。

訓練するための教科書が存在しないんだから。

不平等だと告発する確信を生む土壌すらまったく存在していない。

批評家にはそんなシステムはないんだよ。

BBCの女性たちが不平等感を抱いたのは私たちは男たちに劣った仕事はしていないという確信があるからだ。

正業ってのはそれが確立するなりの歴史となによりもやっただけ上に行けるという指標があって初めて不平等感をなくして賃金が成立するわけじゃない。完璧には無理だとしても。

訓練の方法が明記されていればなおいい。

数字が出ればなおいい。

メシを食う=「正業」ってのは、システムが実力を反映していてなんぼなんだよ。

「副業」でもいいや。こうやらないとわからん奴だらけだから。

ずっとそんな思いが私にある。

批評は副業であるべき。

なにかをほかにやりながらの片手間に批評が書けること。

理想はさ、、弁護士でも歯医者でも日雇いでもなんでもいい。


寝る

撮るべきでもなければ語るべきでもない。

存在に敬意を払えないやつはモーション・ピクチャーを撮ることも語ることもできない。

何回言ったらわかるんだよ。君は。

「百年恋歌」の第三話、なんてのは典型的にこれ。

これがモーション・ピクチャーなんだよ。

意味がなくても君はそこにいてくれるだけでいい。

その瞬間、時間(物語)の中でしかなかった存在がそこにあらわれてくる。

時間がとまる。

持続していた時間が破られ、時間の中に埋もれていた存在があらわになる。

その持続にふとした瞬間に亀裂が生じる。

物語がなければ存在を肯定できない。

連なり=物語のなかで存在を読む。

今そこにある存在を連なりの中でしか評価できない極めて大衆的、国民国家的なまなざし、それが説話論的持続なんだよ。

説話論的持続は存在をおろそかにする。

細部を訓練する、、という、その道の情熱がある人間なら絶対にやっているべきことをまったくやってない。

「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳) のひとつひとつのショットが独立している、、という、コミュニケーションが始まる基本的な領域が批評家にはまったくできていない。

ところが君たちは訓練をしないことが美徳だというバカインテリの怠惰にそまっているから、、私としてはコミュニケーションの取りようがない。

照明の修正なんての無限の細部のひとつの徴表に過ぎない。

俺にしてみればそれにしたって離れていると感じられるんだけどさ、、ヤマナカなんて。

ハスミがヤマナカをして物語映画、、つうのはさ、、端的に言えばショットとショットとのあいだがキートンほど離れていないことを評しているわけ。

わかる?

あまりにもショットとショットのあいだが独立しているがゆえに干されたわけ。

その神みたいのがスズキだよ。

「キセキ -あの日のソビト-」であれ「嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(1991)であれ「九龍猟奇殺人事件」(2015香港・フィリップ・ユン・未公開)であれ、、、、ショットが独立しているわけ。物語との関係において。

独立したショットの連なり、、、それがモーション・ピクチャーなんだよ。

それを積み重ねることでショットとは連なりでなく独立である、、ということが見えてくるはずだ。

逃げないことだ。

モーション・ピクチャーを訓練するにおいてこういう類の観察は決定的に重要だからな。

ワイズマンを見て、、果たしてカメラは何台なのか。ショットと音声の関係はどうか。これを感じることだ。

ここで君がすべきことはワイズマンが撮った内容の感想ではない。

ワイズマンなんてのは批評家予備軍の君にとって唯一無二の教材だ。

マルチカメラ、、、批評家予備軍の君はこれに関して意見を持つべきだ。

ハスミがある種のクロサワなりキューブリックを擁護したのはハスミのインテリ根性のなせる技で決してまともに擁護したわけではない。

どちらもモーション・ピクチャーを撮っていたはずがふとした瞬間にその撮り方を忘れる。

クロサワとキューブリックはよく似ている。

それが彼の限界なんだよ。

クロサワはジョン・フォードの三本の指を普遍化しちまったのね。

映画ってのは一台のカメラで撮ることなんだよ。

クロサワはそれを勘違いしたわけ。

マルチカメラっていうのは基本的にお金がかかって二度と撮り直しの効かないとこで使われるわけね。

まるで宮崎哲弥だ。

訓練をしないことが美徳なんだろう?

君たち、、なんの訓練もしてないモンな。

わかんねぇだろうなぁ、、

わかる?

モーション・ピクチャーってのは基本的に持続しない産物なんだよ。

わかる?

ショットは持続するんだけどひとつひとつのショットの連なりが持続していないわけ。

ショット分析なんていう映画とは何の関係もないハナシではないわけ。これ。

君さ、、、この映画が一つ一つのショットの照明を修正しながら撮ってる、、てのわかる?

「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳)


みじめなもんだよな、、、あれが映画だと信じて死んでいく人生ってのも。

仲代達矢なんてのは環境がトンマなもんだから顔もトンマ丸出しになっちゃう。

松坂桃李とか菅田将暉
とか、、環境がモーション・ピクチャーならいい顔をするんだよね。役者ってのは。

才能のカケラもないところには才能のカケラもない奴らが集まるから当然と言えばそうだけど。

心配だよね、、、石井裕也みたいな才能のカケラもないのが褒められてこんなのが無視される。

こういう才能の塊を無視し続けるバカどもに死ね、という権利くらいは俺にもある。

あんなクズどもに何の期待もしないけれども。

日本人の批評家もどきにこれを評価するのは無理な話だけど。

いや~、、まさかこんなのが出てくるとは思ってもなかった。

「キセキ -あの日のソビト-」、、

「万引き家族」なんてくだらないのも当然ながら中途で出たし。、

久方ぶりに今の日本映画を最後まで見たよ。

いやぁ~おどろいた。まさか最後までこのレヴェルが続くとはね、

もう日本人が誰も撮れなくなったモーション・ピクチャーを最後まで完璧に撮ってる。

兼重淳、、初めて聞いた名前だ。是枝とかの助監督をやっていた人物らしいんだけど。

無駄なショットがスローモーションの2、3ショット以外まったく存在しない。

日本人の撮った本物のモーション・ピクチャーを久しぶりに見たよ。

「キセキ -あの日のソビト-(2017日本・兼重淳) 松坂桃李・菅田将暉

HDDの容量が減ってきたのでWOWOWの映画を消していくか、、と最初に見たのが、、



おい!誰か仲代に映画を教えてやれよ!



これは喜捨だからな。

いかにも軽そうなHonda、、、じゃない、、本だ。

そういえば今日、、得体のしれない屋台、、みたいな一冊の本が届いた。


、、セプテンバーだったか?、、、な、、

、、、

車の中には竹内まりやのシングル・アゲインが流れていた。

別れ際が近かった俺は彼の前に出て思い切り窓から右手を振って左折した。

炎天下で二台ともオープンでなかったってのは残念だったけど。

初めてだよね、、金沢でこうした人間的なコミュニケーションが起こった瞬間、、、ってのは、、S660関係で。

ふと目が合うと、サングラスかけた若い男の子でさ、、その瞬間こっちに会釈するもんだから、、

こないだS660で山側環状流してたらさ、、左斜め前方に黒のエスロクがいてさ、、、私がちょっと流れに乗って右車線から追い越してしばらくすると、そのエスロクが左後方から接近してきてさ、、横並びになって、、


「暗黒街」(2015・伊・仏・ステファノ・ソッリマ) 

「エリザのために」(2016・ルーマニア・フランス、ベルギー・クリスティアン・ムンジウ

静寂の森の凍えた姉妹」(2016アイスランド・未公開・アントン・シーグルドソン)

「緑はよみがえる」(2014・伊・エルマンノ・オルミ) 

「パイロマニアック ~炎の中の獣~(2016・未公開・ノルウェー・) エーリク・ショルビャルグ。




映画批評

「私は猫ストーカー」(2009)鈴木卓爾 うそとほんとうのあいだで2009.10.13


映画批評
 映画の寓意シリーズその①

①「コクーン」(1985)ロン・ハワード 映画的寓意の真髄 2006年6月19日



2017
モーション・ピクチャー

「或る終焉」(2016・メキシコ、フランス・ミシェル・フランコ)

「ライト/オフ」(2016米・デヴィッド・F・サンドバーグ )

2016モーション・ピクチャー

「アスファルト」(2015仏・サムュエル・ベンシェトリ)

「ジャック・リーチャー NEVER GO BACK(2016米・エドワード・ズヴィック)

「特捜部Q キジ殺し」(2014デンマーク、独、スウェーデン・ミケル・ノルゴート)

「生きうつしのプリマ」(2015ドイツ・マルガレーテ・フォン・トロッタ)

「ブラック・スキャンダル」(20015米。スコット・クーパー) 

「ソムニア -悪夢の少年-<>(2016米・マイク・フラナガン)

「イーグル・ジャンプ」(2016米・未公開・デクスター・フレッチャー

2015モーション・ピクチャー

「九龍猟奇殺人事件」(2015香港・フィリップ・ユン・未公開)

「ぼくらの家路」(2013)・エドワード・ベルガー 

「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014)フレデリック・ワイズマン

「夏をゆく人々」(2014) アリーチェ・ロルヴァケル

「ザ・トライブ」(2014・ウクライナ) ミロスラヴ・スラボシュピツキー

「フレンチアルプスで起きたこと」(2014) リューベン・オストルンド

「パリ3区の遺産相続人」(2014・米・英。仏・)イスラエル・ホロヴィッツ

「マシューランド」(2014・スペイン) アルベルト・ロドリゲス

「ひつじ村の兄弟」(2015アイルラドほかリームル・ハゥコーナルソン)

「ラブストーリーズ」(2013)ネッド・ベンソン

「あの日のように抱きしめて」(2014独・クリスティアン・ペッツォルト)

「薄氷の殺人」(2014中国、香港) ディアオ・イーナン

「セッション」(2014) 82-85 デイミアン・チャゼル

「ボーイ・ソプラノ」(2014)フランソワ・ジラール

「白い沈黙」(2014・カナダ・アトム・エゴヤン)

「オキュラス・/怨霊鏡」(2013米・マイク・フラナガン)

「おみおくりの作法」(2013・イギリス・イタリア ウベルト・パゾリーニ

「アンリミテッド」(2015・米)ダニエル・ベンマヨール

「最後まで行く」(2014韓国) キム・ソンフン

2014モーション・ピクチャー

「クライムヒート」(2014米・未公開 ミヒャエル・R・ロスカム

「ロスト・イン・マンハッタン 人生をもう一度<>(2014)オーレン・ムーヴァーマン、

「ローマの教室で ~我らの佳き日々~」(2012・伊ジュゼッペ・ピッチョーニ )

「リーガル・マインド ~裏切りの法廷~」(2013米・カレン・モンクリーフ)

「黒の魂」(2014伊・仏・未公開) フランチェスコ・ムンズィ

「シークレット・ロード」(2014米・未公開・ディート・モンティエル)

「ゴッド・タウン」(2014・米・未公開・ジョン・スラッテリー)

2013モーション・ピクチャー

「ボーグマン」(2013・オランダほか・未公開・アレックス・ファン・ヴァーメルダム)

「少女は自転車に乗って」(2012・サウジ・ドイツ・ハイファ・アル=マンスール

「ネイキッド・ボディ」(2013未公開)・アリシア・シェルソン

2012モーション・ピクチャー

「セカンドハウス」(2012・アルゼンチンほか・未公開・エルナン・ベロン)

2011モーション・ピクチャー

「イリュージョン」(2011・フランス・ポーランド、イギリス・未公開)  パヴェウ・パヴリコフスキ

「UNIT 7 ユニット7/麻薬取締第七班<>(2011・スペイン)・アルベルト・ロドリゲス、

ラストシーン 裁判に掛けられた刑事たちは全員無罪になるがみなちりぢりに。

はぐれ刑事たちの淡々とした日常。凄い光の感覚。