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ここ、逆から来ますからね、、はは。、
●これを逆に言うと、リアリズムの危うさなのね。危ない。リアリズムとは「何もしないこと=無神経」へと成り下がる傾向と常に親和している。例えばトリュフォーが「良質の伝統へと堕落した」というならば、もちろん運動論としてのC→B→A→@OR@→A→B→Cという決定的な論証から逃げて有りえないように、ひとつひとつの照明論に関しても、それが「ずれ」ているかいないのか、こういうことを法廷でも通用する証拠でキッチリ出すだけの覚悟が必要なのね。
●ちなみにその、『照明を修正する』ということはどういうことなのかと。『テルマエ・ロマエ』なんだけれども。照明を修正するというのは「ずれ」なのね。例えば真利子哲也の「イエローキッド」というのがあって、その中で居酒屋のシークエンスの切り返しで、黒沢清はその「ずれ」を指摘した。ずれた、という主張。どうしてか。その要因のひとつには紛れもなく「照明の修正」がある、というのが私の立場。後期増村なんていうのは見事にこれ。1ショット1ショット照明を修正しているのがはっきり分かる。それってどういうことかというと、光源が変化しているわけだら当然「ずれる」わけだよね。こんな風に当たるわけないじゃんって。光が。光がずれる。一点であるはずの光源が、ワンショットワンショット「ずれ」るわけだから。当然驚くよね。
●渡辺喜美。このポン助、なんにもわかってない。知ってはいたけれども。
●まぁでも、出てこないね。エースが。インターネットを見ていても、出てくるのはみな均質の王子様。批評をやる、ということの基本的なものが何もない。コワさがない。プロの批評家が全滅なんだから、言わばチャンスなんだけれども、なびいちゃう。自分が「その他」である、という恐怖がない。そんなのに限ってやたらと生意気。笑え。笑ってしまえ。
●そういうわけで、多川俊映「はじめての唯識」を推薦しよう。自分がポン助だと知らないポン助に
●『テルマエ・ロマエ』で、雨が降って階段に座っている阿部寛の奥に上戸彩が縦の構図で入ってきますね。ぼやけていて、パンフォーカスではない。どうするか。ここで上戸彩にピント送りすると映画は死ぬのね。優秀な映画というのはこういう状況で絶対にピント送りしない。ぜったいに。ラックフォーカスしないわけね。どうしてか。それを考え感じなさいと。批評はね。映画史を。こんな簡単な噺が通じないから私は怒るわけだ。シネフィルに。
●ヒッチコックの映画の主人公にどうして公務員が少ないか。これは単純に運動の方向性から来るわけね。
●この映画は日本の批評家には無理だよね。「なか」しかないから。「はしっこ」がない。必ずや日本人批評家はダダをコネルはず。わかりません、という。端っこがないから。笑えるよね。いつもながらのことだけど。映画が「映画」になった瞬間「わかりません」と来る。はは
●「幸せの教室」に泣く。トム・ハンクス。こんな映画が撮れるとは。
5/11
●谷垣っていうのもほんとにつまらん役柄だね。話は変わるけれども。戦後日本集大成の途方もないつまらなさ。
●1ショット1ショット照明を丁寧に修正して撮っている。大雨の後の回廊での阿部寛と上戸彩との会話の切り返し。外側から切り返された上戸彩のクローズアップのしっとりつしたつやつや感は日本製シネコン映画のレベルを遥か超えている。。その直後のシークエンスでこちらに歩いて来る宍戸開の顔に断続的に光が当たってゆく。日本映画でこういう照明を見たのは久しぶり。そして最後、宍戸開が立ち止ったところでピシっと光が当たってくる。画面を見ていないのには通じないけどね。
焚火をしていて上戸彩が消えてゆくシークエンスの上戸のクローズアップもスゴイ。映画序盤は不細工に撮られていた上戸彩が映画的にどんどん美人へと転化して行く。これが映画。まるで中田秀夫の「ラストシーン」だ。
どういうことかというと、逆から来ている、という簡単なハナシだ。
●『テルマエ・ロマエ』に泣く。武内英樹。
5.10
●シネフィルが映画を守らない。ここが決定的な不信感としてある。
●かと言って映画研究塾の読者なんて言うのはクソだからな。どうすんの。回り回るのかね。面白いけど、それも。
●ひとつの尺度としてある。宮台だの宇野だの東だの大塚だ村上だの、こういうのに対して映画を守ったかどうか。それともゴマをすったかな。あるんだよな。ちゃんと見てるからな。
、
●映画批評家が、たかだか宮台真司ごとき映画音痴を恐れてしまう。それどころか寺脇のように取り入ってゴマをするバカがいる。
●自分が肩書きでメシを食ってる、という、基本的な嘆きがないね。彼には。
●宮台真司の、あれでいいんなら、こっちは人生賭けるひつようはないわけでね、、、羨ましいと思うけれども、、、あんなレヴェルでいいんなら、人生を賭ける必要はないわけでね。つくづく思うよ。あれでいいんならって。それで宮台真司は思想家として満足なのかね。あんなレヴェルで。はは、、、
●やっかいなのは、社会学的に言うと、人間というものは弱い、ということ。ここで逃げる。批評家が。批評家が逃げる。他人様を否定しておきながら、自分だけは「イッコチャン」になる。自分だけは傷つきやすい善人である。その『善人』が、何の努力も訓練もせず映画を批評する。他人様を評価する。それが暴力である、という認識はどうやら彼らはない。彼らにあるのは、ひたすら自分「だけ」が傷つきやすく、涙を流すに値する善人である、という山田洋次的=大林宣彦的、許しがたき自分勝手である。
●そのへんのシネフィルに言いたいのは、あんたなんていうのは何でもない、ということだよ。なんでもない。なんにもわからず、わかろうそせず、ひたすらみずからの学歴にしがみついてるバカだ。そうではないというのなら批評を出せよ。出して見ろ。
●つくづく不思議に思うのは、この程度のレヴェルでもってテメェを納得させることができてしまう日本という国の教育の姿。す・が・た。
●蓮實さんのことだって、、、結局何もわかってなかったでしょう。逃げたのね。ものの見事に。彼らは逃げた。で、生き残ることにしたわけね。そのためにはどうしたらいいか。生き残るわけだから、当然ながら「差異」を求めるわけだよね。それも結果としての差異ではなく、ハナからある差異ね。「結果としての差異」というのは実力の世界だから、こういうのは彼らはやらない。彼らがやるのは、そうではなく、「ハナからある差異」ね。
●自分の目で映画を見ているシネフィルがいない。自分の目ではないのでは、という恐怖がない。ここがね。尊敬できないことなんだけれども。
●昨日は「無謀の瞬間」(1949)、というラングのをね。見ていて初めて「ディープ・エンド」(2001)がこれのリメイクだということに気づく。ポン助だから。私は。
●今日は「戦艦ポチョムキン」(1925)を見直す。何回目か、、、傑作ではないけどね。はは、、、、
●「群像」はソクーロフ。私はまだ見ていない作品について、蓮實さんはほどよくけなしておられた。でもソクーロフって、「太陽」とか「チェチェンへ アレクサンドラの旅」とかで相当やばいんだよね、、、なんかこう、、ヤバい、、。
●和の精神。これって一見聞こえはいいけれども、正確に言うと、和を『乱す』者はゴミのように扱ってよろしい、という、、そこへ行くのね。日本は。
●小沢裁判で控訴があったと。正義漢というのはコワイね。耐える、ということができないから。好き嫌いを即、善悪に直結させちゃう。三浦和義の自殺も同じことだ。
5/9
●チャウ・シンチーの「ミラクル7号」というのをHDDで見て、こんなものが映画であるわけがないだろうと思いながら気づくとエンドロールを迎えて泣いていた。おとっつぁんと女教師とが校門を挟んで言葉を交わし、それぞれ背を向けて去ってゆくあのシーンをぜひ見てほしい。これが映画なんだよ!、こういうことをこの人は知っている。どういうわけか。どうして知っているんだろう。わけがわからない。そういうことなんだろなって。映画って。
●昨日は「永遠のガビー」、今日は「笑う相続人」を見る。マックス・オフュルスのタダみたいに安いDVDボックス。。残酷だよね、映画とは。映画を撮れる人ってね決まってるのね。それを覆していくのならば映画を批評的に撮るしかない。だがそれは無理だ。今の日本のシステムでは。
5.6
●そうだ。彦馬さんにホークスを送って欲しい、、
★マリナーズの川崎なんかは、いいように使われて終わっちゃうんだろうね。
★「バトルシップ」、、あのミズーリ号のバカバカしさ、、、、ここから撮ってるよね。バカバカしいからこそ、「ここ」から撮っているわけね。逆から、。リアーナが大砲を撃つ瞬間の、「バイバイ」、だの「ボン!」だの、、、音が消えてクローズアップで。あのバカバカしさ、、、あれは「ジョーズ」なのかね。元は。ロイ・シャイダーが最後、船のマストにつかまってジョーズの口の中の酸素ボンベを撃つ瞬間、音が消えてクローズアップになって「くたばれ!」とかいう。この系統だよね。さらに遡れるのかな。おそらく映画史とは。
★封切館のここんとこのデーターが飛んじゃったんで、ここで概要。凡庸ながら真面目に撮られている「ヘルプ、心がつなぐストーリー」に泣き、「バトルシップ」は痛快無比で二回見て、映画史の「え」の字も知らないポン助が撮ったスコセッシ的同情票であるところの「アーティスト」に吐き気を催し、タランティーノが褒めたらしい「アニマル・キングダム」を嘲笑し、「ジョン・カーター」にそれなりの敬意を払いながら、凡庸ながら楽しませてくれた「ブラック&ホワイト」のバカバカしさに乗せられ、呆れ果てるほど古臭い「タイタンの逆襲」をかろうじて終了間際に出る。封切館、終り。
★映画の話か、、、今日はフリッツ・ラング『М』(1931)を見直した。四回目か。余りにも凡庸なので戸惑ったりして、、、、なんかこう、警察の宣伝ビデオみたい。連続殺人でいうなら例えば「フレンジー」(1972)なんか、バーテンのジョン・フィンチが思い切り運動するでしょう。私的に。そういうのがないのね。
★今はカラオケは卒業したけれども、。たまに行って歌うのはマチャアキの「街の灯り」とか。あと、佐野元の「バルセロナの夜」とか。
★あとは大滝。『恋するカレン』とか『君は天然色』。学生時代はね。
★拓郎ね。下の。イメージの詩。私のカラオケのオハコ。、、、
5.4
★裏切りの、恋の中で、俺はもがいている。初めから騙すつもりだったのかい、僕の恋人よ。
悲しい男と、悲しい女の、いつものひとりごと。それでもいつかは、いつものように、慰め合っている。
5/3
★WOWOWで「アマルフィ 女神の報酬」(2009)をやっていたので中途から見て泣く。脚本家のクレジットがないことがほんとうにそんなに問題なのかね。
★ある一定の細部に関しておそらくこうなっているはずだ、とオーソン・ウェルズ「フェイク」を見直し、そうなっていたことに驚く。
★映画研究塾にゴールデンウィークはあるか。ないよ。そんなの。
★ヤクルトや阪神のアウェイのユニホームもまたなんというか、、、よくあんな便秘色を出せるなと。糞ずまってる。私たち、便秘してます!、という色合い。よくあんなクソ見苦しい色合いを披露できるなと。
5.2
★私のシネフィル不信は決定的にシネフィルがC→B→A→@を感じていないことにあるわけ。蓮實さんのことをちっとも分かっていない。つまり、映画を分かっていない。どうしてかっていうと、自分が可愛いから。尊敬できない。
★ここんところを身体的に感じることのできるシネフィルがいないわけね。
★どうして「難解」かと言えば、鈴木清純が言うように、物語は「あとづけ」だから。あとから来るんだから当然「ギク・シャク」するでしょう。
★だからこそ、こうなるわけね。
「日本におけるハワード・ホークス評価の信じ難い低さは、難解さを通俗性ととり違える錯覚によるものである」(「シネマの記憶装置」31蓮實重彦)。
★ハワード・ホークスはこう言ったよ。『良いシーンが4つあり、観客が退屈しなければそれでいい』って。私この言葉大好きなんだよね、、、みんな同じだから。一流どころの映画作りの在り方って。みんな同じ。
★清純はこういっているわけだよね。
『先ず豪華絢爛な見世場や、アッっと思わせる仕掛場面を三つほど設定します。決して主役の動きを追って筋立てはいたしません。登場人物の性格やら話の筋はあとまわしです。〜あとは見せ場と見せ場をつなぐ筋立てと登場人物の設定で、多少話のつじつまは合わなくても、見せ場が面白く固唾を呑むよう筋をもってゆけばいい訳です(ユリイカ鈴木清順115
★で、その「簡単なハナシ」を当然シネフィルはわかっているものという前提でやったところの運動がちっとも通じず、未だに通じていないという驚きが、私をして苛立たせてしまうのかも。はは、、、
★うちの読者は5人くらいが適性。有りえない。今、うちを身体的に感じることの出来てしまうシネフィルが100人いるなんて。あるわけがない。3人がいいとこ
★鈍感な連中にはC→B→A→@であるものを@→A→B→Cで評価することがいかにそれを傷つけてしまうかということがわからない。
★蓮實さんがどうして「キネマ旬報」が「ツィゴイネルワイゼン」(1980)をベストワンにした時怒ったかと言えば、C→B→A→@で素晴らしい清純をまったく評価できなかったポン助が清純を@→A→B→Cで評価したからだよね。簡単なハナシなんだよ。
★映画はC→B→A→@から来るわけで、それを語れないのは「批評」ではない。
簡単なハナシなんだけれども、蓮實重彦がどうして「佐藤忠男は溝口健二を殺した」と言ったかといえば、端的に佐藤忠男が溝口を@→A→B→Cで評価したからだよね。簡単なハナシなんだよ。
★やたらと居心地が悪いわけで。
5.1
★こんなこと言ったって同調するシネフィルなんていないよ。勘違いしてはならない。そんな甘い世界ではない。シネフィルというのは財務省と同義だから。はは、、、
★肩書きを笠に着てのさばりやがって。
★批評家が傷つこうが死のうが、屁でもないんだよね。死ねと。お前なんか。
★ひとつ聞きたいんだけれとも、あんたたち、何を期待してうちを見てるの。うちを見たんなら、いい加減、私は映画研究塾を見て傷つきました、、、というのを出せ。批評で。
4/30
★シネコンでピーター・バーグ「バトル・シップ」を見直す。
4.27
★シネモンドで「東京プレイボーイクラブ」というのを見て車で帰宅。それなりに悪くはないけれども子供の映画。
4.26
★ここのところをどうしたらいいのかってずっと考えてはいるけれども、なかなか面白い答えは見いだせない。だからして私は批評を出すしかないわけで。匿名でね。顔も出さずに。
★どうして「批評」が興らないかというと、人間て、生きて行くだけで精いっぱいだからだよね。
★『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ(2010)』というのをWOWOWで見る。痛い目に遇った女が痛い目に遇わせた男たちを痛い目に遇わせるという映画。アメリカ映画は完全に大丈夫、とはこういう映画をして言わせる。やり過ぎ、余りにもやり過ぎていながら、映画にはなっている。勧めない。キツイから。そもそも勧めたためしなんかない。
4.25
★アメリカって実力の世界なのね。だからこういうのが撮れる。日本は違う。全然。日本は肩書社会。
★「ザ・ルームメイト」(2011)、、、監督はクリスチャン・E・クリスチャンセンという人で、1972年生まれらしい。日本では有りえないよね。72年生まれの作家が蓮實重彦の洗礼もなくしてこういう映画を撮ってしまうなんてことは。アメリカは撮れてしまう。このレベルが。最高レベルのことを言っているのではなく映画のことを話しているんだけれども。
★ほんとうだったらヒッチコックのマクガフィンなんてすっ飛ばして論文に入りたいんだけれども、誰もちゃんと書いてないから私が書くしかない。はは、、
★運動の方向性なわけでね。例えば「三十九夜」(1935)のロバート・ドーナットはどうしてイギリス人ではなくカナダからの旅行者なんだろうって。おかしいよね。これ。お・か・し・い。こういうのはすべて運動の方向性から来るのね。ヒッチコックの映画では。
●それはあたかも川上未映子の小説を読んで「これはニーチェだ!」とか呟けてしまう人種。オメデタイ。
●大塚英志「物語論で読む村上春樹と宮崎駿」でいうと、「構造しかない物語」が問題なのではなくて、「構造しか読めない知識人」が問題なのね。
●「ザ・ルームメイト」(2011)をWOWWOWで見る。あらゆるショットは光によって示されなければならない。そういう教育をこのひとたちはどういうわけか受けている。ホラー映画を撮る、とはそういうことか。クローズアップの撮り方などは、スコセッシが生涯かかってもできなかったものをポン、と提示してくる。クローズアップとは才能なわけだ。歴然とした差が出る。
4.24
●したらどうなのかと思うよ。何の関係もないんだから。
●そもそもどうして大塚英志は蓮實重彦批判をしないのかね。
●大塚英志に言いたいのは、このレヴェルで『映画』を語るのなら、もう少し、すまなそうに語れと。ポン助なんだから。
●「タイタンの逆襲」をシネコンで見る。シネコンでアメリカ映画を見ること、こんな楽しい贅沢はない。ただ彼はほんの少しだけ、クローズアップの入り方を知らない。スコセッシのように。
●宮崎駿が「ゲド戦記」の試写会で、吾朗をして「大人になってない」、というのは端的な映画的運動の話しなのね。これを社会学者なり思想家なりにわかれというのは無理があるけれども。
●大塚英志とかを読んでも、、、ちっとも分かっていないわけでね、。彼が蓮實重彦を引用する、、というのは褒めてあげたいけれども、やっぱり怖いんだね。なんにもわかっていない。運動の方向性、というのは、知識人にとって、「魔」なのね。
4.23
●中畑を監督に据えることそれ自体がスコセッシ的。野球をなめている。500年古い。
4.21
●うちは慎太郎支持。
ヒッチコック
4/19
★武豊も、、干されてるということなのかね。
4/18
★「サボタージュ」(1936)を見直す。四回目。ここに出ている刑事、シルヴィア・シドニーと最後歩き去るあの刑事、ジョン・ロダー。彼、「わが谷は緑なりき」(1941)のドナルド・クリスプの次男なのね。こういうことが日常的に起こっていてたんだと。
4/171
★批評というものがその都度の選択度をその都度更新している。
「ジョン・カーター」の最後もまた故郷へ帰れ、だよね。その故郷とは、選択としてのそれ。「顔のないスパイ」(2011)のように。
ある時あるところに家族を守れなかった男がいた。彼はそれを悔やみ続けた。ところがある時彼はとある洞窟へ行き、ループされて、まったく違う土地に生まれ変わった。生まれ変わった彼は、ひたすらある女を守り続けた。彼は落下する女を幾度もキャッチして守り通し、守れなかった自分を更新し続けた。そこに彼は「故郷」を求めた。
こういうのを「9.11以降の映画」というんだよね。果てしなく拙く、果てしなく凡庸でありながら、人が何かを葛藤として背負っていくと、それが映画になる。という。
★アメリカ映画はこれから未知のところへ走って行く。スゴイよ、ここんところのアメリカ映画は。ポランスキーだのスコセッシだのマリックだのの凡庸さを嘲笑えるだけのC→B→A→@で突っ走る力を備えている。「ジョン・カーター」なんて、こんな凡庸で「お前、バカ」と叫びたくなるようなシロモノがここまで面白くなっちゃう。それは50年代にあり得なかったことでしょう。
★「ジョン・カーター」。。。これ、四速しかない。そう思って見ていると、映画になっちゃうのね、、、
4/16
★ドラゴンズのユニホームって、あれ『私便秘しました』という色合いだよね。よくあの色彩感覚をファンが許したと思うけれども。
★撮れないのは日本、韓国、中国。@→A→B→Cと来るお国ね。
★アメリカ映画は完全に大丈夫。もう何の心配もない。アメリカ映画は優れた批評家がいようがいまいが完璧に映画が撮れる。
★五速しかないんだよね。「バトルシップ」は、、、1〜4速はなくてブレーキが効かない。そんな感じ。
★「バトルシップ」!、、なんじゃーこりゃぁー!、、、面白すぎる。バカと天才のラインを無意味に渡りつづけることのできるこの性向とは何だ!
4.13
★わかるかな。これが肩書きなのね。映画を撮ることと映画の批評をすることの能力とは何の関係もない。ヒッチコックとかジョン・フォードとか小津とかハワード・ホークスとかの批評を読めばわかるでしょう。滅茶苦茶だよね。メチャクチャ。
★簡単なことを言うけれども、映画を撮ることと、批評をすることの能力とは何の関係もない。ここのところの誤解が仕事を生むのね。ゴダールだってトリュフォーだって訓練してるわけだから、批評の。そのへんの、何の訓練もしていない『ただ映画を撮っただけ』のポン助の批評が基本的に間違うのは不思議ではないわけね。タブーなんだけど。これって。
★「アニマル・キングダム」というタランティーノが年間ベストスリーに選んだとされるものを見てくる。
映画評論家の第一の使命としてハッタリと本物を見分ける技量がある。「アーティスト」みたいなバカでも撮れる画面をみて「これはハッタリです」と申告することね。はは、、、で、この『タランティーノが褒めてみんなも褒めた「アニマル・キングダム」』はハッタリです、、と報告するのも批評家のお仕事ね。はは、、、
★こう書くとヒット数が減る。ものの見事に。思い当たるフシがあるんだろうかね。
私の最大の欠点は大衆に溶け込めないところにある。
そんなこと言ってたひとがいたけど。
4/12
★内部から逃げたポン助が外部の肩書きでのさばったところで通用しないんだよ。近代はな。
★駒場の四方田がそれを統率するのなら、それなりのものを出せと。内部でな。
★そのへんのシネフィルのレヴェルなんて言うのは肩書なんだよ。それをわかれと。今「映画」を撮ってるのはみんな立教でしょう。肩書で食えない奴らだ。河原乞食なんだよ。
★ここは素直な批評家志望に開かれている。
★素直になれ。なるしかないんだよ批評なんて。
★善良さを装ってな。
★黙らないんだよ。生きて行かないとならないから。生きて行くために映画を利用する訳ね。
★お前ら少し黙れと。
★大林宣彦ライン。映画を善良に語ることでみずからの能力の不足を転嫁しようというね。オハナシにならない恥知らず。
★あれがとうございました!、というアレね。暴力の塊。
★そういう人種というのは既成事実を積み重ねることで生きてゆく。東電パターン。
★自分が間違ったのか、、という恐怖がない。
★「アーティスト」なんていう、バカでも撮れる画面に感動しちゃう。日頃から小さな細部をちゃんと見てないから。
★ポン助の習性って何かと言うと、被害者意識を装って既成事実を積み重ねていくことなんだよね。『感動しました!ありがとうございました!』とかね。傷つきたくないから。自分が。
4/11
★川上未映子って、あの若さにして『許されざる者』を撮ってる。『PLAY MISTY FOR ME』みたいのを撮っちまったらポン助の中産階級的道徳論で非難されるに決まってるから、いきなり「ツィゴイネルワイゼン」(1980)を撮っちゃった。同じこと。ポン助には若松孝二と吉田喜重と今村昌平と新藤兼人の区別がつかない。
★昨日は「アーティスト」というのを見て、お前バカかと、帰宅して「ジャズ・シンガー」(1927)を見直し、ダンサーの脚の太さを確認、落ち着く。1927年でダンサーの脚があんなに細いわけがない。
怒ったので飲みに行き、カラオケまで突入。ダンサーの脚以前のはなし。
5分でダメ。「現在」がどこにもない。スコセッシと同じで、思い出したように映画愛を捧げている。あんなモノクロを許せてしまう感性が既に山田洋次的。まるであの汚らしい「家族」(1970)だ。恥を知らない。
ヒッチコックで女優やダンサーの脚が細くなるのは1932年。「リッチ・アンド・ストレンジ」(1932)以降。それ以降女の脚が細くなる。1932というと、山中が出た年だよね。蓮實重彦は凄いんだよね。
自分の目で見ること。
4/10