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映画評論
藤談義
日本経済新聞 9月30日付記事「目指せ本格派映画鑑賞術」の「反映画」について 2007.10.1
日本経済新聞、9月30日付記事に「目指せ本格派映画鑑賞術・評論家に学ぶ」という題の記事が載っている。これを読むと、いかに世の中の「映画批評家」と言われる人種が、映画の価値を映画の「外側の権威」によって決めたがっているかが良く判る。
さて、その記事に「映画の批評眼を養うには、、、」という項目で、9つの要件が挙げられている。順に見てゆこう。
@「俳優や俳優情報に精通すると、作品への興味が増す」
A「DVDもいいが、出来たら映画館へ行く。35ミリフィルムの解像度に注目
B名作を上映する個性的な映画館を見つけ、通う
C面白い映画を見たら、原作小説なども読んでみる
D外国映画では、その国の歴史も学ぶ
E出て来る酒や料理、インテリアなど自分の趣味と関連付けて見る
Fセリフの中で、印象に残る言葉を書きとめる
G古い邦画は、自分が外国人になったつもりで鑑賞すると発見がある
H各地の映画祭に行くと、知り合いができ、交流が広がる
こういうことらしい。
これは何も、今に始まったことではないので驚くにも値しない。彼らは批評家として、レベルの低い一般の映画ファンに「わかり易い」指導をしたのだと言うかも知れない。だが、「判りやすい」指導とは「間違った」指導であってならない。
では、順に評論してみよう。
@「俳優や俳優情報に精通すると、作品への興味が増す」
・・・そうとも言えるが、それと「批評眼」とはどういう関係にあるのか今一つ不明だ。まあよい、先へ進もう。
A「DVDもいいが、出来たら映画館へ行く。35ミリフィルムの解像度に注目」
・・・前半部分は確かに正論だろう。ただ、まさか「アナタ」たちは「試写会」なるもので只見しておきながら、他人様には金を払って見に行きなさい、とは、言わないだろう。
余談だが、シロウト同然の批評家たちが「試写会」などにのさばって、愚にも付かない好き嫌いで作品を判断した感想文でもって、我々映画ファンに「間違った情報」を垂れ流していることは、ここに付け加えておきたい。
つぎ「35ミリフィルムの解像度に注目」とはどういうことなのか。ここだけが、他の9個の幼稚な要件と較べて突如としていきなり極端に難しい。
そんな事を言う前にまず、「画面を見ろ」と言えばよろしいのではないだろうか。また、映画のメディアとしての性質論、「テレビ」と「映画」とはどう違うのか、そして現代において「見る事」の困難さとは何処から来るのか、そうしたことを私なら書きたい。「35ミリフィルムの解像度に注目」などいう、気取っていながら、自分でも判っているのか判らないことを書いて、まさか「通じる」とでも思っているのか。「通じない」と知っていて、敢えて批評家ヅラして書くその嫌らしさよ。
今、我々にとって必要なのは「35ミリフィルムの解像度」などというインテリ趣味の道楽根性ではない。まず「見ること」の困難さと真摯に向き合うことなのだ。「35ミリフィルムの解像度」、いったい何を言っているのだ。まさにそれこそ「机上の空論」である。
B「名作を上映する個性的な映画館を見つけ、通う」、、、
・・・「名作」とは何か。まさか「天然コケッコー」ではあるまい。そもそも「名作」なる悠長な言葉を使えてしまうその無神経さこそ断罪されるべきであるが、仮に「名作」なる、二流の批評家が良く使いたがる言葉を敢えて使うとして、そもそもがその「名作かどうか」を判断するために「批評眼」を養うのではないのか。そのために「名作」を見ろとは、どういうことだろう。
「良いものを見なさい」これなら判る。「良いもの」は「良いもの」である。従って「良いものを見なさい」と。ある種のトートロジーだが、しかし「真実」に近い言葉でもあるだろう。だが「良いもの」を「良いもの」と直感的に判断できるのは「才能」であって、教えてどうなるものでもない。だが、少なくとも他人を指導する立場にある批評家たるならば、映画ファンをして、「間違った方向へと向かわせるような言論」は慎まなくてはなるまい。
そこで間違ってもやってはならないのは、キネマ旬報系の雑誌が「指定」しているところの「名作」ではない「駄作」を「名作」と信じ込ませることではないのか。「名作」という言葉がいかに如何わしい意味合いにおいて映画史で使われてきたかは、キネマ旬報を初めとする映画雑誌のベストテンを紐解けばいとも簡単に露呈するだろうが、そうした「間違い」を映画ファンにそれとなく導いてこそ「批評眼を養うこと」への適切な指導ではないのか。
ここで聞きたい。「山田洋次の映画」が何処かの名画座で上映されていたとする。するとこれはこの要件B「名作を上映する個性的な映画館を見つけ、通う」にあてはまるのか。
「シェーン」や「風と共に去りぬ」はどうか。少なくとも「名作」という言葉を使う以上、それは「世の中の権威と言われている批評家の認めた作品」という響きがプンプン臭ってくる。過去の経験からして「名作」とは紛れもなく、映画を映画の外側の権威によって決めるしか能のない「権威筋」によって決定された「駄作」を言うのである。それを見て「批評眼」を養いなさいと。これぞまさに権威主義の賜物ではないか。
この記事には他に、「人気ベストテンだけから映画を選んでいたのでは受け身過ぎる〜目立たない作品群から、いい映画を見つける努力をして欲しい」などと、キネマ旬報の編集長の談話を入れておきながら、この目に付き易い「9ヶ条」の方には「名作」という危険な言葉を無神経にも入れてしまう、この「多重人格性」は何なのだろう。
C「面白い映画を見たら、原作小説なども読んでみる」
・・・「原作小説との照合」である。以下もまったく同じ趣旨なので、続けて挙げよう。
D「外国映画では、その国の歴史も学ぶ」
E「出て来る酒や料理、インテリアなど自分の趣味と関連付けて見る」
・・・ここまで来ると「狂気の沙汰」というべきだが、このC〜Eまでの要件が語っているのは「映画の批評眼養う」ためには、→「映画の外側へ向かえ」ということに他ならない。「原作」「国の歴史」「酒や料理」、、、、すべて、映画の視覚的部分=「画面」とは逆方向へと向かう運動である。なぜこのような「映画批評家」でなくても言えるようなつまらないことしか言えないのだろう。
これこそ私が常々書いてきたところの、映画を「外」で判断する、ということの紛れもない思考回路ではないか。彼ら批評家は決して、視覚的メディアである映画の「視覚的部分」=「映画の内側」を「見ろ」とは言わない。「映画の内側」には、蓮實重彦の言葉を敢えて借りるまでもなく、「映画」という芸術の素晴しさが詰まっている。映画の批評とは、まず「画面」ではないのか。それを見ないでも良いと、彼らは言う。それでいて、「批評眼を養え」と。
視覚的メディアである映画の視覚的部分から逃避して、「映画批評」なるものが出来ると思っていること自体が厚顔無恥というしかない。だがそうでもしないことには、「映画の外側」でしか映画を語れないシロウト同然の批評家は「生き残れない」のである。ここが問題。ここが「タブー」なのである。
F「セリフの中で、印象に残る言葉を書きとめる」
・・・・視覚的メディアである映画の、反視覚的部分である「セリフを書きとめる」。確かにセリフは重要だが、何故その前に「画面を見なさい」と言わないのか。
G「古い邦画は、自分が外国人になったつもりで鑑賞すると発見がある」
・・・・「古い邦画」と書いてあるが、「古い」とはどういうことだ。まともな映画評論家なら、間違っても使わないこの「古い」という、映画というメディアの現在性を侮辱した破廉恥な言葉を無神経にも晴れがましく使いながら「自分が外国人になったつもりで鑑賞すると発見がある」という。こういうことだろうか。「古い邦画は、古臭いから、まともに見たのでは発見も何もないが、外国人になったつもりで観れば、新鮮に見られ、発見が出来るかも知れない」と、、、
喧嘩を売っているのか。
それはただ「アナタ」の感性が退化しているだけだ。素晴しい映画は決して「古びる」ことなどない。「古い」のは「アナタ」である。何故「アナタ」は、このような、映画を侮辱した言葉を平気で使えるのか。そもそも「発見」という行為の対象として「古い」「新しい」を持ち出すこと自体、批評家として失格である。お話にならない。では聞くが、「新しい邦画」とやらは一般的に「外国人になったつもりにならなくても」「発見」があるのか。
そもそも何故「邦画」なのだ。セリフの聞き取りの問題等、色々とその原因を推測してみたが、すべて妥当しない。つまり「アンタ」は邦画をバカにしているのだ。
H「各地の映画祭に行くと、知り合いができ、交流が広がる」、、、、
・・・「知り合い」と一口に言ったところで、ピンからキリまである。「アナタ」のような知り合いなら私はお断りだ。
怒りを通り越す。
このようなものが堂々と新聞の紙面を飾り、それを見た子供たちがこの「Hヶ条」を実行する、、、想像しただけでも吐き気がする。このようなものの実践など、たかだか「権威主義的批評家」を養成し、映画を破戒するだけだ。
映画という映像分野は極めて遅れている。知識人、インテリといった人々も、こと「見ること」となると、見事に幼児性を曝け出し、且つそれに気付こうとすらしない。
「大衆芸術」という言葉が、悪い意味において使われている。映画を見下している連中が映画の語り部として映画を語っている。仮に映画を素晴しいと思っているのなら、何故映画の「内側=神秘」をその眼で確かめなさいと、批評家として言うことが出来ないのだ。「料理、酒、インテリア」、、、君たちはいったい「誰」を「養成」しようと企んでいるのだ。
映画研究塾2007.10.1©