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映画日記 2007.4〜5まで  映画批評、映画評論を含む

5月31日
ちょっと気になったので、井筒和幸
「パッチギ!」(2004)を再見する。

朝鮮学校でサッカーの試合の申し込みに行った沢尻との再会シーンなのだが。

まず廊下で不良たちに絡まれる→隠れる→イムジン川が「オフの空間から」聞こえて来る(音の分離)→吸い寄せられるように少年は音源を捜し求める→沢尻との再会、そして運命の切り返し、、、ここで泣けない人類はまさかいるまい。

この「音の分離」の情緒的エモーション、これこそまさに「音源を捜す」という究極の映画的感動であり、
「嵐の孤児」で、リリアン・ギッシュが、生き別れた妹のドロシーの声を聞いて動揺し、捜し求めたD・W・グリフィス的エモーション、そして山中貞雄「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」で、オフ空間から聞こえる喜代三の三味線の音色に吸い寄せられるように矢場へと流れたあの沢村国太郎の姿ではないだろうか。

何度も言うが、この「分離」というものは、逆に言えば「今、ここにはないもの」「失われたもの」への想いであり、だからこそ人は、その「分離」の「元」となった対象を想い、捜し求める。ここに映画的エモーションが隠されてはいる。私は27日の日記で《「映画」というものは、そもそもが「異なる地点」と、その「距離感」の醸し出す葛藤によって作られているのである》と書いたが、そうした点からしてこの「分離」という手法は、映画的に見た時に、ただそれだけで映画を「映画」にしてしまう魔法ではないかと私は思っている。「分離」という手法は、たった一つの構図において「距離感」を一気に醸し出す手法なのだから。

ラストにしてもそうなのだ。少年が、沢尻エリカに言ったセリフ「今度、やらせて下さい」、とかいうあのセリフ、あのセリフは、死んだ友人のギャグなのである。つまりこれもまた「分離」ではないか。そこに「距離」が生まれ、葛藤としての衝突(死んだ少年への想い)が生ずる。

溝口健二
「山椒大夫」で、香川京子の働く作業場で、「安寿〜恋しや〜、厨子王〜恋しや〜」と歌う女工の声が「どこからともなく」聞こえて来る。つまり「声だけが分離して」聞こえて来るのである。仮にこの声の主「音源(女工)」が、フレームの中に入って見えていたとしたらどうだろう。面白くもなんともない。ここはこの歌声が、声だけとして「分離」して聞こえてきたからこそ「郷愁」となってとてつもないエモーションを醸し出すのである。

どちらにせよ、「パッチギ!」は視覚的聴覚的に極めて豊かである。

昨日書いた「切り返し」についてだが、この映画にも「切り返し」は存在する。だが、その会話の「中身」は、殆どが「何の意味もない」。思想ではなく、視覚的運動によって物語が語られている。

5月30日
《「消費化」映画であることが明白な「パイレーツ・オブ」を観るくらいなら、もう一度「パッチギ!LOVE&PEACE」を観る方が、ずっと有意義ではありませんか?(ニガ笑)》。

という、ぐるぐる氏の暖かきお言葉に屈し、本日もう一度井筒和幸「パッチギ!LOVE&PEACE」を見る。

以下にぐるぐるさんの、昨日メールで頂いたご意見を、ご本人の了承の下、掲載させて頂きます(できれば将来的には一連のやりとりをまとめられたらと思っています)

塾長の「思想が強すぎ」という御意見はある意味、分かります。塾長以外にも、このような意見を述べている人をネットで目にしましたし、以前お伝えしたように自分も一回目に観た時はそう感じました。しかし、「一極に閉じ込められてメロメロに敗北している」のは果たして「映画」でしょうか?露骨・あからさまな「思想」的な側面に感性を「閉じ込められてしまった」のは、この映画を「思想的・政治的」と受け取ってしまった観客の方ではありますまいか。別の言い方をするならば、この映画を「思想的・政治的」と受け取ってしまった観客は、知らず知らずの内に(あるいは「外」の情報に触れすぎたためか、前作の印象が強すぎるためか)「観る」ことを忘れ、「読んで」しまったのではないか。

あるいは、、多くの日本人が、「自分達の中の“差別”」というものに対して(自分も含めて)ナイーヴ過ぎる、という面もあると思います。

例えば本作では、前作には一度も登場しなかった「在日」という言葉が何度も出てきます(余談、というか、これも「外」の話ですが、在日韓国朝鮮人の、主に二世の人々が自らを「在日」と言うようになったのは、どうやらこの時代のようです)。この「在日」という言葉に、多くの日本人は「ドキッ」としてしまう。「ドキッ」とし、「硬直」し、「身構えて」しまう。この「ドキッ」っとさせること自体が、井筒監督の日本人に対する「挑発」ではないか。そして、「ドキッ」とさせられた側は、自分の狼狽を隠す為、あるいはそれを正当化したい為に、思わず「井筒さん、これはあまりに『政治的』な作品では?」と言わずにはおれないのだ・・・というのは「深読み」のしすぎでしょうか?

映画の「断片」についていくつか。例えば、この作品のクライマックスの「告白」のシーン。このシーンが感動的なのは、単に「芸能界のタブーを暴いている」からではなければ「隠蔽されてきた差別を告発している」からでもなく、ましてや「(狭い意味での“メッセージ”としての)生きることの大切さを訴えている」からでもない。あのシーンの美しさの根幹は「愛するものの為の勇気」の美しさだと思います。

もうひとつ、その後のシーンで、暴漢の投げたゴミがアンソンの息子チャンスに当たり、それまで自制していたアンソンが爆発して乱闘となる。

つまり、この映画は「愛する者の為に死ぬ」ことは否定してはいるが「愛する者の為に戦う」ことは肯定しているのだ、ということ。ここでの「戦う」とは「抗う」こと、あるいは「生きる」ことと同義でもあり、それを「気高いもの」として無条件で肯定している。それは、良識的映画ファンに嘲笑されることを覚悟の上で言えば「マキノ的美しさ」なのだと思います(余談ですが、同じく「愛する者の為に抗う」シーン、すなわち警察に追い詰められて藤井隆が我が身を投げ出すシーンで唐突に「鶴田浩二」と化すのも、そういうことなのだ、というのは我田引水でしょうか)。

さて、本日、二度目の鑑賞した私の感想は「全然だめ」です。前回よりも評価は下がりました。

まず私の第一声としてはこうなってしまうのですが、僕の論は、実に簡単なことなのです。この映画にどれだけの「切り返し」があるか。確かにヒッチコックの映画にもジョン・フォードにもハワード・ホークスにも小津安二郎にも(溝口健二は殆ど有りませんが)、山中貞雄にも、あらゆる映画に、基本的に「切り返し」はあります。こないだ、ゴダールが「アワー・ミュージック」で、この「切り返し」とハワード・ホークスの「ヒズガールフライデー」との関係についてやっていました。問題は、大きく言えば(あくまで大きく言えばです)、その、「切り返し」の精神なのです。

例えば極端な例ですが、小津の切り返しの台詞はだいたい決まってこんなもんです。

甲「そうかい」→乙「そうだわよ、、」→甲「そうだったかい」→乙「そうに決まってるじゃないさ」→甲「ほう、、そうだったかい、、」→乙「そうそう、、」→甲「そうかい、、そうだったかい、、」→乙「だからそうだって、さっきから言ってんじゃないのさ、、ぶつよ!」、、、

僕のいいたい事は、これ↑で、「映画」になっちゃう、ということを、僕は知っている、ということなのです。もちろんぐるぐるさんも知っている。ですが、これに対して、「パッチギ!LOVE&PEACE」の「切り返し」の中身はどうだったか。私としては、本日二度目の鑑賞においては、開始40分で瞳が麻痺症状に陥り、それが最後まで持続しました。「見るもの」がないからです。

結局のところ「メディア論」へと行き着くのですが、映画とは、現在、直接、視覚的なメディアです。対してこの「パッチギ!LOVE&PEACE」は、過去、間接、言語的ではないかと。

こうして見てみると、僕のこの映画に対する否定の有り方は、一般の映画ファンの否定とは少し違います。僕はあくまで「メディア論」からしてこの映画を否定するのであり、この映画の「メッセージの内容」を否定するものではありません。すると、実は僕とぐるぐるさんとの評価の違いは、映画のメディアとしての特質に対する対立ではなく、それを前提に、「撮られた瞬間の真実」を、「感じたか、感じなかったか」の差異ではないでしょうか。僕は感じなかった。ぐるぐるさんは感じた。と。
例えば僕は、最後の中村ゆりの告白シーンの画面処理は凡庸だと思います。つまり「凡庸」というのは、「撮られた瞬間の真実」ではなく、「撮られた内容の真実」の方へと画面が寄っている、ということです。僕がよく、画面が「外っかわへかかってる」というのは、こういう画面を意味しています。僕の大好きなゴダールの言葉、つまり
私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思わようとしてきた(映画史U254)」。、という、この言葉をあてはめるならば、このシーンの画面処理は、「言われた事柄の真実」が、「言われた瞬間の真実」に勝ってしまっているのです。では、何故「勝って」いるのかと言えば、それを100%証明できればそれは物凄いことだと思いますが、「視点、構図、人物配置、カメラワーク、カット割り、照明、美術、現像、役者の演技」という、あらゆる要素が関わって来るのです。

本日ここまで。今後の展開は、まったくもって展開に任せます。

5月28日
「カビリアンか、、、それとも落語か、、」と、揺れる思いをからだじゅうに感じながら、平山秀行「しゃべれども しゃべれども」(2007)をシネコンで見る。誠実な映画であり、オススメである。、

「河瀬監督、カンヌ映画祭グランプリ!」の見出しがメディアを賑わせている。こういうのをして私は「メディアの居直り戦術」と呼んでいる。カンヌの「グランプリ」とは「銀賞」のことであって、いわゆる最高位の「金賞」のことではない。だが、「グランプリ」を辞書で引くと「最高位の賞」とあるように、我々は「グランプリ」と聞くと「最高位」をイメージしてしまい、それの掲載された記事を読みたくなるものである。この「イメージ」を、日本のマスメディアは、違法でない限り、徹底して利用し、発行部数なり視聴率なりへと導くのだ。何故ならば「グランプリ」という名称は、カンヌの主催者が命名した「事実」であり、日本のマスメディアが勝手に命名したものではない。よって彼らは「事実」を報道したまでだ、と「居直る」のである。これがマスメディアの「居直り戦術」に他ならない。

彼らは、都合の良い時には、自らの批判対象であるところの「権威」に基づく「事実」を「無批判的に」報道しておきながら、都合が悪くなると、亀田やサッカーの試合の開始時間隠蔽のようにして、情報を「隠して」、部数や視聴率を稼ぐのである。
一つ聞きたい事がある。あなたたちは他の国際映画祭で、日本の誰かが「二番目の賞」を受賞した時に、トップの見出しで大きく書くのだろうか。

彼らの「グランプリ報道」の主たる動機は、我々読者の「勘違い目当て」以外の何物でもない。「だってグランプリなのは事実だろう、、、」、、これが連中の民度である。

その「居直り」の根底にあるものが「商魂」という、「情熱」である内は未だ良い。だが、最早こうした「居直り」は、商魂を遥か飛び越え、人間軽視へと繋がっている。彼らにとって、我々「情報の受け手」とは、単に、騙す対象であるところの「バカな奴ら」に過ぎない。

だからこそ私は、今回の受賞では、正確に「銀賞」と見出しに書くか、それとも第一面では記事にしないか、こうしたのメディアがないかと、虚しい努力と知りながら、何気なく探してしまうのであるが、少なくとも私の眼にした夕刊三紙はみな第一面に「グランプリ」であった。こういった些細なことの積み重ねこそが、ボディーブーローのようにして、我々情報の受け手をして不信感を蓄積させるのである。

5月27日
久々に「二番館」を書き上げる。「孤独な場所で」と「暗いところで待ち合わせ」、「ハワイの夜」の三本は、「距離感」というものにおいて共通している。と言うよりも、「映画」というものは、そもそもが「異なる地点」と、その「距離感」の醸し出す葛藤によって作られているのである。

明日はどうしよう。「パイレーツ・オブ・カリビアン〜」に金を出す気にはならず、来週のお笑い芸人コンビ作公開まで我慢するか、、

ちなみに「二番館」で書いた「ミステリー論」だが、仮に「ミステリー小説」なら、そもそも小説というものは「過去性」を帯びた論理的メディアなのだから、「回想」でも「損得勘定」でも、それを書いたところで小説なり読み物なりというメディアそのものと即対立することはないだろう。例えばマルクスの「資本論」が世界中で読まれたのは、その竹を割ったような明快さと、「資本」という「ミステリー」の「謎」を見事に解き明かし、「損得勘定」を合わせて我々に提示してくれたところの痛快さにあるだろう。
だが「映画」とは、徹頭徹尾「現在」の「直接的」「体験的」メディアなのだ。小説なり書物なりの「過去性」を帯びた論理を、そのまま「現在性」を命とするところの「映画」」に持ち込むことが、いかにして「映画」を殺すのか、という「簡単な」事実を、いとも「簡単に」忘れて「映画」を殺したがる輩の何と多いことか。それは「作り手」「読み手」区別ない事実である。

「刑事コロンボ」は「ミステリーなるジャンル」からひたすら自由な「ミステリー」である。「刑事コロンボ」は犯人や殺人の方法すべてを我々に見せてくれる。「刑事コロンボ」は、論理ではなく、ひたすら論理の過程たる運動を見せている。凡庸な作家は、「犯人」が知れた時点で描けることを失うだろう。彼らはただひたすら、「隠し」そして「出す」ことでしか「映画」を語れないからだ。だが、「視覚的に隠すこと」はバカでも出来る。まるでテレビで、ボードに紙を貼って「隠し」、それを一枚一枚剥がして「出す」司会者たちのように。
「刑事コロンボ」は、その提示方法が「テレビ」であれ、その本質は限りなく「映画」である。だが、多くの凡庸な「ミステリー映画」は、例えば「嫌われ松子の一生」のように、ただ「損得勘定」を合わせるしか能がない。それは限りなく「映画」とは別の何かなのだ。

5月25日
キネマ旬報の最新号をチョイと見ながら、「俺は、君のためにのみ死ににゆく」については、どの批評家も、あの素晴しい「黒」にまったく言及していないことに一安心する。

ああ、山根貞男さんは今回はお休みか、、などと呟きながら、だが氏は、「映画評論家」なのだから、と。「映画ライター」ではあるまいし、「まともな映画批評」など、毎号、定期的に書ける訳などないのだから。

さて、ぐるぐるさんからは昨晩、僕の批評は「深読み」ではないザンス、、、との、メールが届く。、、、来るかな、、とは思ったが、、、笑、、
「読み」ではなく「視覚的驚き」ですよね。ごめんなさい。言語的論理活動ではなく、表層的運動を感じ取った結果の感覚。人はどうしてもそれを「言語」によって表さざるを得ない。しかし、だからと言ってその驚きは「言語的」なものから来たわけではない。その通りでした。

「非言語的な驚きを表すのは言語である」という、余りにもバカバカしい無力感に襲われ続けながらも抜けることの出来ない「映画批評」という自己矛盾の病的活動に、また一人の「中毒患者」が生まれた事に対して、孤独感からの解放を感じたりもする。

話は変わるが、私が「心理的ほんとうらしさと映画史」で書いた、あの、「断片への解放」という「無意味な」感じ、、、これは未だみなさんに通じていないのかな、と、そんな感覚を持っている。例えば山田宏一さんなどが、座談会で盛り上がる箇所というのは、ほとんど間違いなくこの「無意味なシーン」なのである。蓮實重彦との座談会などでも、「あのクローズアップ、つなぎじゃないんですよ、、」とか言って、二人でニコニコはしゃいでいる。この感覚、この感覚をいつかを私は、当サイトの友人たちと共有したいのだ。「つなぎじゃない」、それはすなわち、「物語」のワクからハッと自由になって解き放たれる無意味な瞬間なのだ。
例えば黒沢清の「勝手にしやがれシリーズ」で、主役でも、準主役でも何でもない洞口依子が、異様な美しさによって、そして特権的な身分において、「物語」とは何の関係もない無意味さの中において、突如ハッと美しく「振り向く」、、、これが黒沢清の「血すじ」というものなのであり、その瞬間こそ、「グリフィスだ、、、」と呟きながら、映画と乾杯すべき瞬間なのだ。

5月24日
熊井啓
「帝銀事件・死刑囚」を見る。キッチリと、キッチリと、画面を捉えている。

さて、「パッチギ!Love&Piece」についてのぐるぐるさんのレビューも出る。是非、井筒さんに見て頂けたらと思う。

「支持すること」というのは、その抽象性ゆえに「映画的」である。と言うのも、そうした「映画的なもの」というのは、「理由なき美しさ」に満ちているからだ。愛する人を守ることに「理由」は一つ、それは「愛しているから」に過ぎない。こうした禅問答的な感動を、私は、「映画」を通じて初めて学んだ。それはゴダールから学んだ。ハワード・ホークスから学んだ。素晴しい映画と言うものは、決まって単純であり、無防備なまでに、単純で、そして決して「理由」がない。何度も何度も例に出して恐縮だが、
「コラテラル」で、何故、トム・クルーズは人を殺すのか、それは紛れもなく、彼が「殺し屋だから」だ。そして、このバカバカしいまでの禅問答的回答が、実は非常に大切な真実であり、感動である、ということを、我々に教えてくれるメディアは世界にたった一つ、それは「映画」である。

5月23日
「パッチギ!Love&Piece」について、私の井筒キチの友人からメールを頂きました。「愚流愚里庵」支配人のぐるぐるさんです。
少し勝手に掲載させて頂くと、、、

《〜、、実はこれ、前作とは違う意味で観客に対して挑戦的・挑発的で「観客に戦いを強いる」映画ではないでしょうか。ケンカを売ってるのは、実は慎太郎に対してではなく、前作を期待する観客に対してではないか。観てる途中で、「これって前作よりむしろ森崎東に近くない?」って思ったりしました》。

この「深読み」感覚がたまらない、、、笑、、、

だが、私も井筒監督は「名作」なるものを期待されると逆ギレするタイプの人なのだろうか、、」と21日の日記に私も書いたように、よくよく考えてみると、そういう部分は確かにあるのである。
在日韓国人の描き方で、例えば病院の待合室で声をかけてくれた日本人に対して物凄い態度で接しているところを描いたりとか、なにか、つまり、彼らを完全な「善い人」とは描いていない部分も確かにあって、だがしかし、それは何やら「隠しアイテム」的に配置されていて、「極の対立」として描かれてはいない。何だかよく分からないのである。
この井筒さんという人、よく「撮り方」を変える人で、そうした点から言えば、今回の撮り方は「パッチギ!」だとか「ガキ帝国」「岸和田少年愚連隊」の「正統派の撮り方」に近く、「ゲロッパ」「のど自慢」からは遠い。今回井筒さんが、この「正統的な撮り方」をしている点が、私には引っかかるのである。つまり「映画を壊す」という撮り方をしていない。結構まじめに大事そうに撮っている。ここが私の価値判断の多くを占めているのだが、、。

ちなみに、キャメラの山本英夫さん、照明の小野晃(フラガール、ゆれる等の照明)さん等、良い仕事をされていたと思います。多分コダックですよね。フィルムは。水着水泳大会の帰りの夕陽の駐車場のバストショットなんか、明らかに気合が入っています。ちなみにデジタル、フィルム、ビデオの分別について、「どろろ」に関して以前、まぶぜたろうさんの御指摘を頂いたのですが、これは蓮實重彦が黒沢清の
「ロフト」を「フィルムでしょ?」と聞いて、黒沢清に「いいえ、ビデオです」と言われてしまうくらいのレベルの問題で、少なくとも今の私はその違いを到底掴み切れていません。これは今後の反省材料です。ちなみに、今回の「パッチギ!Love&Piece」の戦争時代の回想シーンですが、これは「フィルム」ですかね、、何となく「デジタル」か、或いは「銀残し」という感じもしなくもないのですが。コントラストがややキツイ感じです。雰囲気としては「硫黄島二部作」に良く似ています。

ぐるぐるさん。レビューの紙面が足りないようでしたら、映画研究塾の方で掲載させて頂きますの、よろしければ、メールで送って下さい。今後は、映画仲間の方々の批評も是非とも映画研究塾に掲載できたら、と思っています。

ちなみに本日は、またも映画を我慢し(禁酒よりキツイ)、読書。昨日はシネモンドで山下敦弘
「松ヶ根乱射事件」を見て、苦笑いする。

5月21日
「パッチギ!Love&Piece」を見る。
エンドロールの「文化庁支援」に思わず苦笑い。、シャレがキムチ的に激辛利いている。

簡単に「映画」としてダメなのだと思う。思想が強すぎ、映画が一極に閉じ込められてメロメロに敗北している。
前作「パッチギ!」は、ゴダール的映画であったが、今回は「反ゴダール的」映画になっている。「転向」したのか。仮に、仮にである、ある特定の「メッセージ」なるものを仮に(まさかとは思うが)伝えたかったとしたならば、この映画の撮り方では逆効果になるのではないか。と言うか、そんな簡単なことを、井筒さんが判らないはずがない。どうもよく分からない。創作活動というやつには、いつも惑わされる。

非常に大切なことだが、「音」の取り方が甘くはないか。音声が小さい。同時に役者の発声自体にも大きな問題を抱えている。ボソボソと籠もって話すこの映画の「声」は映画の声としてまったく失格である。一見元気がよいようで、非常に「歯切れの悪い」映画である。一見運動しているようで、実はまったく「運動」を欠いている。

さて、「あの素晴しい愛をもう一度」は「この曲をもう一度」とは書いてはなかった筈だが。笑、、、
今回の作品で、この「あの素晴しい愛をもう一度」で終った映画としての最高の地位を村上龍原作「ラブ&ポップ」に明け渡した。笑、

映画内映画は「俺は、君のためにのみ死ににゆく」に対する皮肉としか思えず、だから、そんなことやってる場合じゃないだろう、と、、、、、「映画」を忘れて完全に熱くなっている。と言うのか、ハナからそんな意図で撮っているようなフシがなくもない。どちらにしても、「名作」なるものを期待されると逆ギレするタイプの人なのだろうか。実にやっかいなタイプである。私もここまで天邪鬼ではない。殆どのファンが「この展開」を予想していたはずだ。だからだ〜れも驚かない。

ちなみに慎太郎さんとの直接対決は(だからそんなことやってる場合じゃ、、、バカバカしいが、バカついでにお付き合いして判定すると)、慎太郎の勝ちぃ。まだアッチの方が「映画」になっている。

残された見所は、私の井筒キチの親友が、はてさてどうやってこれを褒めるかにかかってきた。おそらく彼のことだ、清清しくこの映画を支持することだろう。「支持すること」とは、「批評」などという自己満足を超えた何かであるのだから。

5月20日
「書き疲れ」というのか、最近筆が進まない。映画研究塾を開催するに当たって「書きたいこと」がほぼ一巡したからだろうか。もちろんこれからが本当の「闘い」なのであって、これまでは序章に過ぎないのではあるが。

結局のところ、私がやりたいのは「タブーの打破」である。映画の「画面」を一度見てしまうと、その「真実」と、社会の映画批評等の「間違ったあり方」との乖離にあまりにも愕然とし、まともな神経の持ち主なら失語症になって当然なのであって、私も一時期そうした経験をし、当然のように人間不信、社会不信に陥り、そしてそこから改めて活動開始、とあいなった訳であるが、おそらく「画面」を見た他のすべての方々も、同じような経験をされていることであろう。映画そのものが「使用価値」から「交換価値」へと移行している現状を実感した時に、怒らない方がおかしいのであって、映画産業はテレビに出て来る批評家や知識人の言うような「楽しい」世界でも何でもなく、すべては因習と、タブーと、「腫れ物に触るな」「寝た子は起こすな」「みんな良い人」という偽善的体質を加速しているに過ぎない。

その中で、私が唯一誇れるものは、「自分で見て、自分の頭で映画を思考していること」、それに尽きる。逆に言えば、それしかない。

いきなりだが、久々に蓮實重彦について語りたい。
蓮實重彦の凄さについて、ここで一言いうなら、彼は、知識人であり、インテリでありながら、彼の凄さは、そうした「外」の経験を、決して映画の「内」へと直輸入しない点に尽きている。これが、蓮實重彦の最大の凄さであることを、誰も言おうとしない。知識人とは「知識をひけらかさずにはいられない人」と読む。あらゆる「知識人」が、この定義に無残なまでに妥当する。だが蓮實重彦は、映画の「内」について、決して「外」の知識をひけらかさない。それは決定的に、彼が、映画をして、自分よりも「上」の位置においているからだ。こうした態度が、何かを「愛する」という人間の態度なのである。私が「知識人」という人種から、「映画」を奪い取りたい、と強く思うのは、蓮實重彦以外の、ありとあらゆる「知識人」たちは、余りにも無神経に、「外」の知識を「内」へと垂れ流してしまう傲慢さと「バカ」の露呈にある。ここで決定的に問題なのは、彼らの映画批評の「内容」どうのではない。彼らが映画を「ナメてかかっている」点なのだ。「外」だけの知識で「内」を語り占めたと思ってしまう傲慢さが、いかに映画を辱めてきたか。何故映画ファンは、あのような連中に映画を語らせておいて怒らないのだろう。

5月19日
「パッチギ」
新作は、来週暇な時にでも行くことにして、本日は鈴木清順(清太郎)「裸女と拳銃」(1957)を見て、このファム・ファタルとアルフレッド・ヒッチコック「めまい」(1958)的変装との関係について思いをめぐらす。まさかヒッチコックがこの「裸女と拳銃」を見て、「めまい」へと流れたのか、、、一度ご覧あれ。冗談では済まない歴史的前後関係に愕然とされるだろう。

昨日はシネモンドで
「あるいは裏切りという名の犬」(2004)を見る。照明は一流、監督は三流である。

5月17日
最近は「あらすじ本」というのが流行っている。名作文学などを短くあらすじ化した本であるらしい。私はこうした本をして、出版社の奇抜な発想と、それによって日本人にもたらされるところの効果の観点から「天才バカボン」と呼んで尊敬しているのだが、いざ、自らの関わる映画と言う分野を想起すると、映画本の場合、その多くがこの「あらすじ本」であることに驚かされる。「あらすじ」というものは、紛れもなく「誘惑」として日々我々の前に立ちふさがる「悪魔の物語」。外面的な行動は、そして運動は、あらすじとして「説明」された瞬間、その瞬間に、可視的なものから不可視の観念へと変化し、固定されてゆくのだ。

昨日はシネコンで
「俺は、君のためにこそ死ににゆく」を見て、その空間設計の見事さに驚き、「若い人であってくれ、、」と祈るような気持ちでキャメラマンを確認するや、何のことはない、一人は「クロサワ組」の上田正治キャメラマンであった。世界のクロサワは違う。若い人にはこの「黒」は無理だとは判ってはいたものの、複雑な気持ちで映画館を後にする。見事な「黒」が出ている。ここ数年来の世界の映画の中でも、最高レベルの「黒」が出ている。
だが「批評家」や「知識人」は、そんなことなどお構いなしに、思想的にこの映画を語りつくすのだろうか。

さて、この映画の中には、「善い人たち」はいる。みんな善い人。すると、一方で「善い人」がいるわけだから、当然他極には「悪い人」がいるはずだ。単純な二元論として。この点が、例えばクリント・イーストウッドの
「許されざる者」のような、善と悪とが混ざり合った映画とは大きく違う。では「悪い人」は誰なのか。軍部なのか、アメリカなのか、整備士なのか、、。ハッキリしない。ハッキリしないのは、ここでは「おかしい」。二元論なのだから、ちゃんと「悪い人」を描くべきだ。例えば「ひめゆりの塔」の場合、香川京子が米軍の爆撃機を見上げて「バカー!」と叫ぶことで、誰が「悪い人」なのかはっきり判るように出来ている。まだ今井正は誠実だ。私がいいたいのは、「ひめゆりの塔」にしても、この「俺は、君のためにこそ死ににゆく」にしても、「東京タワー、オカンとボクと、時々オトン」にしても、あそこまで一方の人間を極端に「善い人たち」として美化して描いてしまうと、対極の「悪人」について、有りもしない悪人をでっちあげるか、或いは悪人を描けなくなってしまうか、この二つに一つしか残らないのではないか、ということである。この「俺は、君のためにこそ死ににゆく」場合はまさに後者のケースであって、石原慎太郎は、「悪い人」を描くことから逃避している。ならば最初から「善い人」など描かなければよいものを、だが「善い人」は描きたい。でも「悪い人」は描かない、これは少しずるくはないか。「悪い人」をボヤかすのも良いだろう。だが、「善い人」をハッキリ「善い人」と描いておきながら、それと「つい」になった「悪い人」だけをボヤかすというのは、チョイとばかり歯切れが悪い。
結局のところ、善悪入り乱れているはずの人間の、一極しか描けていないことで、モーションピクチャーとしての映画の運動が、衝突、発展しようがない、そういう言い方を私はしておきたい。「悪い人」を描かないからダメなのでない。人間の描き方が一面的であるが故に、対する極が窒息し、映画が発展しないのだ。そもそもこの題材自体が、映画的には「映画」になりにくいのではないだろうか。

この「人間の描き方」という点についての天才が、ジョン・フォードの
「駅馬車」である。この「駅馬車」は一見インディアン対植民者たちの「善と悪」との単純な二元論のようにも見える。だがこの「駅馬車」は、結局のところ「ガンマンはガンマン」であり「娼婦は娼婦」であり、「紳士は紳士」であり、「淑女は淑女」であり、「医者は医者」である、という、ただそれだけのことを描いているに過ぎない。そうした中で、彼らは自らの「性向」と戦い、衝突しながら、それでも矢張り「〜は〜である」という所に、気高さと誇りと忠実さとが、それぞれの「労働」の中に見出されるのだ。「駅馬車」は、画面の中であらゆる「性向」が衝突し続けている。決して「みんな良い人」などに描かれてはいない。何故ジョン・ウェインがクレア・トレヴァーとの幸せをみすみす棄てると判っていながら、「決闘」へと赴いたのか。それは取りも直さず、彼が「ガンマン」だったからであって、それ以上の何物でもない。私に言わせれば、マイケル・マンの映画などはすべてこの「駅馬車」の焼き写しである。「ヒート」で、何故デニーロは、危険を冒してまで、裏切り者をわざわざ始末しに行ったのか。まさにそれは、決闘へと向かったジョン・ウェインとまったく同じではないか。私はこの「ヒート」を見て、これは「駅馬車」のリメイクである、と一発で言える人と一杯飲みたい。デニーロは彼自身の「性向」に従ったに過ぎない。だがそこには自らの「性向」との、そしてそれに基づく「意識」と「環境」との、闘いと発展がある。だからこそ彼らは、気高く、美しいのだ。

「俺は、君のためにのみ死ににいく」では、その「性向」を、「人物」を、描けていない。だから「環境」との間で映画が衝突しない。最後の亡霊たちのように「みんながいっしょに」「みんな笑顔で」「個」を捨てて出て来るのである。「群集」を描いたエイゼンシュタインが、「衝突」を重んじたことは、偶然ではないはずなのである。

と言うわけで、という訳でもないのだが、昨日は飲みすぎて二日酔い、本日は久々に映画を見るのを諦め、読書をし、そしてこれからツタヤで借りて来た
「新世紀エヴァンゲリオン」でも見て寝ようかと思っている。ワクワク、、、

5月15日
私は「忙しい」という言葉が嫌いだ。ここ数年使った事がない。逃げ口上のようなやましさが自分を襲うからだ。
「忙しい」というのは、正確には「ほかにより大切な用事があった」と言うべきで、ただ人は、そう言うと、「より大切でなかった用事なり人なり」に対する罪悪感を感じるが故に、「忙しかった」という逃げ口上で首尾よくやり過ごすのである。

そういった観点から、この三日間の日記の不在を論ずるならば、それは「忙しかった」ではなく、「面倒っち」かった、に過ぎない。

このような、ほとんど何の意味も無いことを敢えて書いたりしつつも、「無意味性」の観点から「映画」というメディアを論ずるに、、、、、

と、新聞の「社説」という奴は、どうしていつもこういう感じなのだ!。、、、何故にあの「社説」という奴は、こうもまどろっこしい、もったいぶった「知識を無理矢理こじつけた前置き」なくして一言たりとも語るまい、という、確固たる意志に満ち満ちているのだ!、、、まさか国会で、青島幸男が決めたとでもいうのか、、、、、

さて、三日間の充電で心機一転、ここ数日はニコラス・レイ
「孤独な場所で」を再見し(2回目)、「持続とハリウッド縦社会」との関係について大いに考え、クリント・イーストウッド「許されざる者」を再見し(4回目)、破廉恥な「東京タワー、オカンとボクと、時々オトン」の作者に、せめてこれを見て「今」について勉強しろと、一人つぶやく。どうしてこんなつまらない連中に「映画」を撮らせているのだ、と。

さて、国技館は、「勝者」対「敗者」の図式から、「加害者」対「被害者」の図式へと移行したらしい。「まわし」なのか「おしめ」なのか、今一つ掴みきれない「チャンピオンレスラー」が、日本のすべての伝統を「ゴジラ」のように破壊しまくる光景は一見の価値に満ち満ちている。
彼を批判することは簡単だし、どしどし批判すべきであるものの、事の本質は、どうやらそうした簡単な現象の中にはなさそうだ。だが「強ければ良い」という「自然状態」の投げやりの論理には、私は警鐘を鳴らしておく。それは、「小説」でもなく、「絵画」でも「音楽」でもなく、何故「映画」なのか、という問いと同じように、何故お相撲さんはわざわざちょんまげを結い、まわしをしめるのか、という簡単な問いに他ならない。

5月11日
我ながら良く、毎日書くことがあるものだと驚いている。

私の場合、性格的に人と話す時には、その相手が本当に私の話を聞く気があると確信できない限り、絶対に自分の話はしない人間であって、もちろん映画の話をこちらから進んですることもないばかりか(映画の話だけは絶対にしたくない)、経験談、説教、一切しない。若い頃はそれこそ「説教魔」であって、友人たちに有無を言わさず説教をして自由が丘軍団を形成したものであったが、いつからかを境に、一切そうしたことはしなくなり、また群れることを嫌うようになった。従って、殆どの場合、現在の私は常に良き「聞き手」であって、少なくとも現実の世界では自分の話はしない。そういう状況の中でこのホームページを開いたものだから、このような「饒舌」を持続できているのかも知れない。これは、ヤフーさんに感謝しなければならないだろう。

本日はミケランジェロ・アントニオーニ
「ある女の存在証明」を見る。カラー作品として俗っぽいが、「視点」の顕在化と、物語の結果的放棄性において、自由を獲得している。

5月10日
映画の「消費化」が顕著だ。
「スパイダーマン3」などまさに「消費映画」以外の何物でもない。フィルムが流れた瞬間、大衆によってフィルムは消費され、そのまま消滅してゆく。それは「CG」がどうのという映画の内容の問題を超え、映画の存在そのものが、フィクションの物語としてひたすら消費されているということである。
「スパイダーマン3」の「存在の物語」とは、ただ「新しい」ということに過ぎず、だがその実体においては古臭い画面と消費型脚本がその「新しさ」を瞬時に否定しながら、過去へ過去へと流れてゆく虚しいフィルムの連なりに過ぎない。長引かせるために映画を撮っている。「スター」の顔も、うっすらと不透明で見通しが利きにくい。

日本においては、コンテンツ産業への政府介入なども、芸術の「消費化」を導いているだろう。

同時に映画は「同情化」され、作家も「同情化」され、最早「同情」なくして成立たないような映画や作家の存在がやたらと目立つ。その典型が「キングコングのピーター・ジャクソン」であると私は思っているのだが、同時にこれは決して「ロードオブザリングのピータージャクソン」ではないところがミソなのだが、それはそれとして、それ以外の一般についても、一流の批評家の言説までもが、「同情」へとなびいている。見ていて、読んでいて「苦しい」。我々は「芸術」を「同情」しなから語る時代へと突入したのか。
「同情」することが「優しいこと」などとは何の関係も無いことは余りにも当然だが、どうやら社会にとっては、そうでもないらしい。そこには最早、「作品論」を超えた、「社会学」が大きく関与していると言わざるを得ない。人はみな淋しいのだろう。だが、それを超えてこそではないのか。

昨日は
シネモンドで「華麗なる恋の舞台で」を見て眠くなり、本日はにっかつロマンポルノ「美少女プロレス失神10秒前」(1984)を見て、ロマンポルノ「消費化」の足音を画面から確認する。

来週からアテネ・フランセで、ルビッチやらフラハティやらの、物凄い特集があるらしいのだが、私は行かない。決して「行けない」とは書かないことで、「行けない」ことの虚しさを宗教的に正当化しているのだが。

5月8日
シネコンでサム・ライミ
「スパイダーマン3」を見て、泣きを見る。この幼児性、頭の悪さはいったいどうしたというのだ、、、
「場所」とか「機能」とか、何にも考えないで映画を撮っている。この映画の撮り方というのは、少なくとも「物語」という観点について言えば、先日の論文の第二部で書いた「断片性」とは逆の書き方、つまり「観念的あらすじ」に従って、順番通りに書いている。例えばスパイダーマンが砂男と初対決した後、ビルの屋上でブーツを脱ぎ、中の砂を出すシーンがある。頭の良い脚本家は、基本的にこういうシーンを作らない。発想が逆である。「ブーツの中から砂を出す」としたら、どういう「場所」で砂を出せば絵になるかと、その「場所」を探すはずなのだ。と言うよりも、「砂を出す場所」を含めた見事な視覚的シーンが頭にまず浮かんで、そこで「クスッ」と笑って、「こんなシーンどうか?」と監督に持って行って「じゃあ砂男を作ろう」となる思考回路である。この「スパイダーマン3」は、あらゆるシーンが言語的で絵にならない。画面で処理が出来ないのだから、「言葉で泣いてもらいます」と、いつもの見苦しい演劇的泣かせのパターンに逃げるしかないのである。このようなものは幼児向けですらない

ちなみに私なら、スパイダーマンをプールの(海ではない)更衣室に不時着させて、そこにいる大勢の客の見ている前で、ブーツから砂を出させるだろう。

5月7日
本日は、シネコンサービスデーに「クィーン」を見て楽しみ、帰宅後は、岡山の友人から送って頂いたミュージカル「パジャマゲーム」(1957)を大いに楽しむ。同年いよいよ、ゴダールの短編「男の子の名前はみんなパトリックって言うの」が出て来た事を考えると、何と言うか、こうした現象を同時代で体験できた方々というのは、「バベル」と「蟲師」に右往左往している我々に対して反則的に優位に立っているのだぞと、牽制球を投げて、できればぶつけてみたい気持ちに駆られるのだ。何かが間違っている。笑

5月6日
「街の野獣」(1950)を見てから、「二番館」を書き上げる。

最近は、メジャーリーグ中継の近視眼的愚鈍さにつくづく嫌気が差していて、例えば先週一度、松井の打席を、松井の顔の「クローズアップだけ」で処理したものがあって、実はこういうシーンは最近数多く見られるのだが、おそらく彼ら映像を提供しているアメリカ人は(NHKは、まるで自分たちの責任逃れを告知するように、毎回《この映像はアメリカの放送局が作成した》、、と言っているのだが、契約しているのは自分ではないか)、日本人には、わざわざアメリカまで来て「松坂対イチロー」だの、「松坂対松井」だのを、わざわざアメリカまで来て、見に来る(気持ちの悪い)日本人には、こんなものを見せておけば良い、とでも言いたげな、クローズアップであるのであるが、もちろん、現代アメリカのあらゆる映像がこの「近視眼病」に犯されていることは事実だとしても、日本人向け映像を作る彼らの心の中には、なにかこう、モヤモヤとした何かを感じざるを得ないのだ。だがしかし、例えば牽制球一つとってみても、「審判」を「縦の構図」で入れることすら出来ず、それは犯罪的な画面の切り替えの遅さと相まって、まったくもって「ベースボール」というゲームの撮り方を忘れてしまったアメリカ人の垂れ流す凡庸な映像を、毎回《この映像はアメリカの放送局が作成した》、という言語でもってNHKの怠惰を許してよいものなのか、と、いつもながらの個人的苛立ちを募らせるのである。

5月5日
フィリップ・ダン
「秘められた情事」(1958)を録画DVDで見て泣く。ハリウッド最後の仮構力とでも言うのか、良い脚本と、スターと、堅実な職人監督、この三つがあれば、映画は泣けることを証明している。それにしてもこの「ゲーリー・クーパー」という人は、いったい何なのだろう、というくらい、見事な「スター」だ。「過去」を紐解けば、かくも素晴しき「現在性」を秘めたフィルムに日常的に巡り合えることが判っていながら、何故我々は、シネコンの、「ダメと判っている」映画をわざわざ見に行くのだろう。「現在」と戯れるためか、それとも「ファンタスマゴリー」を体験するためか。

映画は「内」問題に最近は拘っている。すると私の生活は、映画の「外」へと流れてゆく。「内」を追求したければ、逆へ逆へと、、「外」へと流れるのが道理なのだと何かが命じているのだ。従って最近の私の生活は、少しずつ「外」へと流れている。どうやら人生と言うものは、一つの極に偏っていたのではダメなのではないか。
「諸君」を見たら「論座」を見る。「宮台真司」を読んだあとは必ず「小林よしのり」を読む。「ニーチェ」のあとは、もちろん「ショーペンハウアー」である。すると何か、脳みそが「右」「左」「右」「左」と体操を始め、思考回路が柔軟になる。「お前は節操がない、」。確かに節操はないのかも知れない。だが、逆を行く、という発想を、私は生涯棄てはしないだろう。それを教えてくれたのはほかならぬ「映画」なのだから。

5月3日
親戚来訪、この二日間は3本しか映画が見られず。映画力が落ちたのでは、と心配になる。もちろん冗談だが、それでいながら、書かれた事は真実である。ジョークと真実とは両立するのだから。

さて、そろそろ映画の「内」「外」論を本格的に書かねばなるまい、と「バベル」を見て強く思いながら、だがしかし、9割の職業批評家が「外」で映画を批評しているという事実を確信している私としては、これは非常にやっかいな仕事と言うしかない。「9割の批評家」の後ろには、当然ながら彼らをして成立たせている「9割の支持者」がいるのだから。
矢張りそのためには、遅かれ早かれ、公的な討論の場を持たざるを得ないことは、判ってはいるのだが、その「時期」について、そしてその「方法」について、中々良い案が出て来ないというのが今のところなのだ。

本日は、今井正「ひめゆりの塔」(1953)を見るわけだが、矢張りこれがダメなのである。素晴しい部分はあるにはあるが、だが「ダメ」なのである。続いて今村昌平「エロ事師より・人類学入門」を見たのだが、これも矢張り、ダメなわけだ。では、いったい何が「ダメ」なのか。結局のところ、その「ダメ」の理由は、どちらも同一の地点へと行き着くのである。
立場をハッキリさせるために、今後もこうした活動を続けて行きたい。「こうした」とはもちろん、「外」によって評価されて来た映画を「内」へと引き戻す活動なのだが、、、

5月1日
永田ラッパのゴールデンウィーク、だからこそ、キッチリと映画ファンとして、DVDで大森一樹「悲しき天使」(2006)を見て泣く。これは泣いた。大森一樹は映画の記憶に満たされている。あの山本未來の振り向き方、、、そして河合美智子が場違いなまでに「謝る」のである、、「ごめんなさい!」、、、、頑なまでに「映画」に拘り、「映画」の中で収束している。詳しくは二番館で徹底的に書く。この映画は書き応えがある。

さて、言い足りないので昨日の「外側」の話の続きだが、スノッブは、自分の経験上知っている知識がいつ出て来るかと、物凄い顔をして映画を検査している。戦争、SEX、エイズ、癌、ホモセクシャル、ニーチェ、テロ、マルクス、何でも良い。そういった自らの教養に迎合するものが出て来ると、例えそれがバカでも撮れる凡庸なショットであろうがお構いなし、まるで釣糸に食いつく魚の如き末期的無邪気さにおいて、映画の「外側だけ」を気持ちよく語り始め、「芸術だ、、」と、自らの威厳を無意識裡に貶めてしまうものだ。
だが逆に、ある一定の映画には、待てど暮らせど、自らの経験に符合するメッセージが出て来ない。そこでスノッブは思う。この映画には「知性がない」、、、笑えるではないか。これは笑うしかないのである。
彼らは知らないのだ。「知性のある映画」とは、決して「外側のメッセージ」なるものを安直に垂れ流しなどしないことを。知性ある人間は、「ワンクュション置く」のである。ハワード・ホークスにおいては「スリークッション」である!、、ではその「クッション」とは何か。それこそまさしく、「映画」という限界のあるメディアにおける、「現実の引き直し」ではないか!、それをして人は「視点」と呼ぶのである。

4月30日。
シネコンで「バベル」を見る。まぁ何と言うか、さもしいというか、下品な映画を撮るものだ。凡庸な画面に、凡庸な光、まるでその凡庸さこそが芸術だ、と言いたげではないか。

「バベル」については、一時間で批評を書きあげたので、もしお暇なら見て頂きたい。→「バベル」映画の「内」と「外」について。

「一時間で」というもの、何かいい加減なように思えなくもないが、折角、永田雅一(らっぱ)が作ってくれたこのゴールデンウィークに、こういった作品に余り長時間関わり合いたくないのと、だがしかし、一言書いてやらねば気が済まないといういつもの気性との発展が、そのような事態へと美しくも収束した。

ブラッド・ピットなど、そう悪くはないのだが、しかし菊池凛子の扱い方には、監督の性格の悪さが露呈している。才能がないのは3分で判るのだから、才能がないならないなりに、それをさらけ出して撮るのが倫理と言うものでありながら、最近の輩は、才能の隠し方を巧妙に心得ている。

ちなみに昨日は鈴木清順8時間の恐怖」を見て、その映画的才能にまちしてもぶったまげる。この人は全然違う!、、あぁ、つくづく私のような凡才が、映画を撮らなくてよかったと、「君、映画、無理」と、鈴木清順は頼みもしないのに痛切に教えてくれる。そう、確かに私には無理だ。私と言う人間は、余りにも「常識的に過ぎる」のだ。

鈴木清順の、「物語を語る」ことにおける先天的畸形性が、非常識性が、犯罪的融和によって「映画」に迎えられ、その一つ一つのシーンが、完璧な運動として「物語」から解き放たれ、生き生きと、嫉妬するほどの瑞々しさにおいて躍動している。

「駅馬車」(脂肪の塊)と、「恐怖の報酬」を露骨に模倣しておきながら、「なに、それ?」と、すっとぼけるに決まっている鈴木清順に対して、私は決して逆らえない。人間と映画の内と外とが、グチャグチャになってうごめいている。

4月28日

モンテ・ヘルマン監督、ジャック・ニコルソン脚本、西部劇「旋風の中に馬を進めろ」(1965)を見る。モンテ・ヘルマン作品を見たのはこれが4本目。私的評価として上から挙げると最高が「銃撃」、そして次にこの「旋風の中に馬を進めろ」、「コックファイター」(アルメンドロス、アメリカ第一作)、そして「断絶」という順番になる。伝説化されている「断絶」を、私はそれほど評価しない。凡庸なクローズアップの数々が映画を停滞させている。自然体のようで自然体でない。「アメリカン・ニューシネマ」のつまらない流儀に接する前の、「銃撃」そしてこの「旋風の中に馬を進めろ」の方が、明らかに「活劇」であり、従って「B」であり、すなわち「ニューシネマ」であって私は好きだ。

私は別に「超然」を決め込んでいる訳ではないし、無関心でいる訳でもない。気になる人々に対する関心があり過ぎて、逆に「麻痺」してしまったという方が明らかに的確なのだ。当然だが、余りに当然だが、私の映画評価は「絶対」ではない。自分自身で「絶対」などと確信したら、その時点で当サイトから、と言うよりも、おそらく映画そのものから手を引くだろう。それ以前に、そのような観念的境地に興味はない。ただ私の場合、「断言」することで、逆に自分自身を追い込んで、違った何かと戦わせたい気持ちが強いのである。だからこそ「この映画の評価は人それぞれだろう。私はこう思うけど、おそらく皆さんは違うでしょう。すみませんでした!」、、みたいなことは、口が裂けても言わないと「決めた」のだ。仮に思っていても、絶対に言わないと「決めた」のだ。だがしかし、それはたかだか私が「決めた」だけのことであって、極めて「個人的な」取り決めに過ぎないのである。だからこそ私の言説をそのまま「固定」などしてくれるな。それは私に対する最悪の出来事なのだから。私は間違っても「権威」なるものになりたくは無いのだし、「多数派」になるつもりも毛頭ない。私が成りたいのはただひたすら「マイナー」のバランス地点なのだ。

4月27日
シネコンで「東京タワーオカンとボクと時々オトン」を見る。
私の感覚からするならば、これは「今、一番作ってはならない映画」ということになる。

すべては「善い人」という、テレビの偽善的宣伝に首尾よくそのまま乗っかった映画であって、そもそも「東京(タワー)」という「環境」と、そこに放り込まれた人間の「意識」との葛藤と戯れとが何一つ描かれていない。他人との関係性を完全に無視して内向し、独りよがりの善人趣味で「おじいちゃん、おばあちゃん」に媚びを売っている。このような「善い人」映画の大きな一つの問題は、主人公たちが「自分たちだけ善い人」、として描かれることによって、「他者」という、もう一つの対立する極の描き方に「窒息せざるを得ない」点にある。事実他者は、この映画で通夜に原稿を催促する編集者のように、無理矢理「悪」にでっちあげられてしまう。ここにあるのは「100%の善」と「100%の悪」との対立であって、まるでアメリカ側から見た「アメリカ」対「イラク」である(ちなみに、今になってブッシュ政権にNOを言うアメリカ国民の何たる変わり身の早さよ)。
そんなことは山中貞雄も小津安二郎も、ハワード・ホークス、鈴木清順も、ジャン・ルノワールも、D・W・グリフィスもジョン・フォードも絶対にしない。するのは、松竹大船の「あの人」とか、戦後、社会主義宣伝映画の数々である。

典型的な善悪二項対立であった西部劇ですら、「悪」を「殺す」という、「悪」によって、「正義」を貫くのであって、そこには環境と意識との、或いは理性と本能との、発展的葛藤と運動が存在するのである。

素晴しい「黒」を出していた笠松則道キャメラマン、そして照明、美術等のスタッフ諸氏の仕事については後日ちゃんと書く。反面、オダギリジョーは露骨に株を落としている。あんな演技など私にも出来る。逆に言えば、つまるところ、役者に「ああいう演技をさせてしまう」ところの環境だったのだろう。

こういう映画は「絶対に」撮ってはならない。

4月26日
本日はひたすら読書。
人類の英知に触れなければ、という欲求が、最近特に私を襲い始めていて、そう駆り立てるのは、もちろん、他ならぬ「映画」なのだが、、すべては「映画」のために。
ちなみに今読んでいるのは、歴史ではフランス革命前後、哲学ではカント、映画ではジョン・ハワード・ローソンという、赤狩りでハリウッド・テンに指定された脚本家の書いた「映画芸術論」という書物である。
哲学者の贔屓はニーチェ。どうしてもニーチェに行ってしまう。「映画はニーチェ」を愛する、というのが私の持論である。ニーチェこそ「活劇」なのだ!

4月25日
シネモンドの溝口健二祭で
「山椒大夫」を見る。
そもそも私は、「こういった地方」で開催される「〜祭」というものには基本的に行きたくない。何故ならそれは、ただでさえマナーの悪い客で満ち溢れているシネモンドが、「〜祭」となれば、さらにマナーを知らない人々が多数押しかけて来るからであって、先日の「怪奇と幻想祭」では「菓子袋クシャクシャ」魔、いびき魔(もちろん我慢してしばらく寝かせておいてからおこしたが、再び大イビキ、私は最前列の席を離れ、最悪の席へと移動して鑑賞した。その映画はドライヤーの
「奇跡」であり、従って殺しても正当防衛で無罪であったのだが、私は臆病にも理性が邪魔して躊躇してしまった。ニーチェなら本能的に殺すだろう。ちなみにこれが「フラガール」なら死刑なので考えてから行動すべき)、そしてワイズマンの「臨死」では、何とテープレコーダーのスイッチを入れては映画の内容を声を出して録音していた老人(おそらく医者だろう)がいた。、こんな連中が本当に実在するのである。そしてそんな連中に限って、何故か私のそばに来たがるのだ!、先日のホウ・シャオシエン祭の「百年恋歌」では、堂々と大声でおしゃべりする「老人カップル」が、通路を隔てた最前列で私を威嚇していた。そして本日もまた私の二つ隣りだ。
私は、「老人カップル」以外はすべて注意した。したくもないが、一言いってやらなければ気が済まないのだ。だがそんな状態でまともな鑑賞などできるわけもない。「山椒大夫」は五回目の鑑賞だが、駄作に見えたのは今日が初めてだ。冗談ではなく、本当につまらなかった。「イナカ」とは、こういう場所的空間のことを言う。極めてイナカだ。
特に中高年以上のマナーが極めてよろしくない。ここは金沢。百万石の田舎町、、じゃなく、城下町らしい。

4月24日
シネコンで「ハンニバル・ライジング」を見る。
この映画についての、この、「ロッキー・ザ・ファイナル」同様、この、決して悪くはないものの、悔しいほどの凡庸さを露呈させている細部が、その「悔しいほどの」の意味はもちろん、当サイトの読者ならおわかりだろうが、この、悔しいまでの、「自己規制主義的凡庸さ」についての、例えるなら、この映画の「一見」美しそうに見えるロングショットが、果たして「視点」に依るものなのか、それとも「消費」の産物なのか、といった至極簡単な事柄について、語り合おう、とは言わないまでも、せめて「議論」に乗るくらいの無頓着さがあってもいいものだろうに、といったことに関して、今の私は徹頭徹尾「距離」を置きたいのである。今や「距離を置くこと」でしか、自己を実現できないのであるし、それに関しては、しかし私は、実のところ、それほどまでに悲観をしてはいないのだ。

4月23日
シネコンで、シルベスタ・スタローン
「ロッキー・ザ・ファイナル」を見る。
凡庸だが、照明等はしっかりしているし、最後の花道でのスタローンなんか実にいい顔をしている。だが、それ以上の何かを感傷的に他人様に煽動する趣味もなければ、転嫁する趣味もまたない。責任を持って一言で言え、と尋ねられれば、迷わず「駄作だ」と答えるだろう。こうした部分から安直にも眼を背け、ひたすら感傷的に共同したがる世論という奴が、私は一番嫌いだ。

4月22日
朝、ホウ・シャオシエン「ミレニアム・マンボ」をビデオで見直し、まさかこの映画に感動しない人類はいるまい、と、いきり立ったフリをしながら、午後は午後で雨の中、市議会選挙投票所へと向かい、共産党に一票を投ずる。共産党だけが、少なくとも私の耳にした宣伝カーにおいて、ひたすら「政策」を述べていたからであって、それ以外の候補者はすべてあのおぞましき、「名前連呼」であったからだ。名前連呼だけの候補者など「論外」、「問題外」である。「失格者」といってもよろしい。
まさに「消費選挙」であって、選挙自体が「モノ化」され、候補者が没個性化している。だからこそ我々は、「違うもの」をただその「差異」それだけで、選ばざるを得ないという、虚しい抵抗を繰り広げるしかないのだ。
そういった点からするならば、政治の世界と映画の世界とは、非常に似通っていると言えるだろう。選挙なら候補者、映画なら製作サイドで言うならば、どちらの世界もが「正直者がバカを見る」で見事に統一されているからである。
簡単な話だが、子供は大人が思っているほどバカではないわけで、つまり「正直者がバカを見る社会」というものは、子供たちは敏感にその空気を察し、志さなくなってしまうものなのだ。すると、才能ある子供たちは他分野へと流れてしまう。それがいかに怖ろしいことか、こういった議論を映画関係者がしているのを私は聞いた事が無いのであるが、仮に自分の携わっている分野のレベルが「ん?、なんかへんだ、、低くないか」と感じたら、チマチマと文句を述べる前に、その分野のシステムそれ自体がひょっとして「正直者がバカを見るシステム」なのかどうかを、真剣に検証し、仮にそうだとしたならそれを告発すべきなのだ。

4月21日
朝、ホウ・シャオシエン「恋恋風塵」をビデオで見直し、リー・ピンビンの凄さと、だが、そのリー・ピンビンに惚れられたホウ・シャオシエンも凄い、とか、一人きりで感嘆したあと、夜「エイリアンVSプレデター」を見て居直る。キャメラマンは良い仕事をしているが、監督だけが凡庸である。自分の頭で映画を思考していないのが簡単に判ってしまう。
さて、その後「封切館」を、「日記」をそのまま「盗用」して手堅く仕上げ、「フフッ、」と笑いたくも無いのに笑いながら、こんな事では先が思いやられる、映画研究塾一周年記念日を境に少し書くことを止めて見聞を広めなければ、と反省する。兎に角「一年間は突っ走る」、そう決めたのだが、そろそろ「ネタ」も尽きたか。
と言うわけで、今日は久々に、一杯やりながら、アメグラのサントラでも聞いて、ホウ・シャオシエンを感じるとするか、、、

4月20日
昨日見た「善き人のためのソナタ」もまた、監視の映画であったが、「監視」というものには大きく二通りあって、一つは、ミッシェル・フーコーが監獄論で書いたような「見られていることを知っている被監視者」であり、もうひとつは私の主題であるところの「見られていないことを知らない被監視者」であって、前者の場合、「見られていることを知っている」受刑者(被監視者)は、視線の対象である体制側(システム)へと従順に取り入られてゆくのに対し、後者の場合、見られていることを知らない被監視者ではなく、「見られていることを知らない被監視者を監視している監視者」の方が、「被監視者」に打ちのめされてゆくという、反対の傾向を有している。何故ならば「見られていることを知らない被監視者」は、誰に媚びることもなく、生き生きと生を堪能しているからだ。私はこれを「裸の表情」と名づけて、以前、成瀬巳喜男「妻の心」の批評で書いたと記憶するが、今度の論文で私が書きたいのは、大まかに言えば、こういったことなのだ。
映画においては、「見られていることを知らない被監視者」を「監視者」が監視する、という後者のほうが、明らかに感動的なのである。何故ならそれは、それまで気付かなかった「美」に我々(監視者)が初めて直面し、打ちのめされる、という、「芸術」活動の本質と、見事に一致しているからだ。「デジャヴ」にしても「善き人のためのソナタ」にしても、「監視者」が、「泣く」のである。そしてもちろん、ヒッチコックが「裏窓」でやったこともまた、本質的にはこれではないか。そして何よりもこの「視線論」を書きたくなった動機としては、この視覚的テーマこそ、現代社会を主題論的に美しく突き刺しているからである。

4月19日
シネコンで
「善き人のためのソナタ」(2006)を見る。悪くない。「黒」が出ていて、キャメラマンもしっかりしている。この映画はオススメして良いかも知れない。常識的だが、常識的なりに良く撮っている。そして多分、泣くだろう。

ちなみに、遅れに遅れている
「デジャヴ」の批評だが、本日この「善き人のためのソナタ」を見てしまったことで方向転換、もう少し大きく「論文」にして、6月の創設一周年記念辺りに出したいと思う。あくまで「予定」だが。多分無理だろう。

最近は、命からがら本を読んで、教養の無さを何とかしたいと躍起になっている。
「映画本」だけを読んでいても、総合芸術たる映画がどうなる訳でもなく、却って映画から離れることで、ある種のバランスを保たなければと、判ってはいるのだが、どうしても真っ先に、まず映画を見てしまう。それが善い事なのか、悪い事なのか、おそらく「悪い事」だと確信しながら、日々は残酷にも過ぎてゆくのだ。

本日は「二番館」を書き上げたものの、その歯切れの悪さと言うのか、つまらなさに苛立っている。おんなじことばかり書いている。そして、決め付けようとしている。まるで週刊誌だ。

4月18日
昨日はシネモンドでホウ・シャオシエン
「坊やの人形」を見た後、ゴダールを一本見直す。

本日はホラーが見たくなり、ツタヤで
「蝋人形の館」(2005)を借りて見る。これが見事な「活劇」になっていて、またキャメラマンが素晴しく、画面全体に素晴しい「黒」が出ていて、照明もしっかりしている。見終わった後、すぐにキャメラマンの名前を調べると、去年ベストテンに入れた「ワイルド・スピード3」のキャメラマン、スティーヴン・F・ウィンドンであることが判明、納得する。この人は今後要チェック。

世界的規模で、キャメラマンのレベルの著しい低下が見られる中で、結局のところ、キャメラマンの光に対する創意工夫は、明らかに「ホラー映画」において優れている。

4月16日
シネモンドでホウ・シャオシエン
「百年恋歌」(2005)「川の流れに草は青々」(1982)を続けて見て、どちらも完全に泣く。「百年恋歌」は、実は先週の土曜日に一度見ていて、本日は二回目。それにしても「百年恋歌」、これはもう「ムルナウ」のレベルに達しているのではないだろうか。第一話で完全に泣き、第二話は放心状態、そして第三話で現実に引き戻される。

例えば第三話で、レズビアンのルームメイトが遺書らしきものをコンピューターに残して行くシーンがある。家に戻った女は、部屋の中を見回し、そのルームメイトを探す。あちこちと見て回るのだが、決してキャメラは、室内の「状況」を捉えないのだ。探す女の「顔」しかフレームの中に入っていない、つまり、ルームメイトの死体があるのかないのか、まったく描写されていないのである。これはどういうことかと言えば、ルームメイトが生きているか、死んでいるかは「物語」ではない、ということではないのか。少なくとも、ホウ・シャオシエンの描きたかった「物語」は、最早そのような、サスペンスめいた良質の「物語」ではないのだ。1911年には「辛亥革命」という「大きな物語」が存在した。1966年にも、ひたすら男が恋した娘を追いかける、という「物語」があった。だが、少しずつ「物語」は小さくなって行く。現代の「物語」とは何か。ほとんど何もないではないか。だが私には、一番大きな愛をもってホウ・シャオシエンが描いたのは、現代編の、あの若者たちであったような気がしてならない。

4月15日
書きたくもないが、まったくもって、慎重さを要する仕事に、能率の向上は必要としても、その時間的短縮を過度に要求することが、どういう結果になるか、そもそも選挙をイベントとしてその開票の迅速性を要求しているのはテレビだけであって、我々ではない。税金節約と言うが、物事の順序からして節約すべきは他にあり、仮に節約がテーマならテレビも0時で放映終了してエネルギー節約すべき。テレビ中心に我々の規則が決められて行く世の中につくづく嫌気が差す。「報道と真実」であった筈のメディアが、貨幣と消費に魂を売り渡している。もちろんそのような事実の萌芽は19世紀後半から既に始まった現象だとしても、視聴率中心の言論の統制と自主規制、そしてタブーというものが、倫理的なあらゆるものを後退させている。
小林よしのりが出て来たからと言って何ら驚く事はない。嫌韓流の本が売れたとしてもそれは特異なことでも何でもない。逆に「健全」と言える。彼らは「アンバランスの歪」から湧き出て来た必然の産物なのだから。そのような「個人」に対する反論はメディア向けの禅問答的パフォーマンスでしかない。攻撃さるべきはその背景であり、システムなのだ。だが人は、そうした「大きなもの」は批判せず、手っ取り早く「小さなもの」を批判してその場を凌ごうとしている。映画もまた然り。システムに乗っかっている批評家など「問題外」なのだ。そうしたシステムに対する批判なくして、「映画を守る」など或る訳がない。一本一本の映画に対して、個人に対して、ダダを捏ねていても始まる話ではないのだ。

こうしたアンバランス地獄の中で私は何を見るか。「山中貞雄」を見てダダを捏ねる決まっている。本日は山中貞雄
「人情紙風船」(1937)を久方ぶりに再見する。
だが断片の運動に糸口さえ?めず瞬く間に映画は終わってしまい、茫然自失、私の性格からして引き下がれるはずもなく、即座にまたまた
「人情紙風船」へと再度突入する。しかし本日二度目もまた放心状態でため息しか出ない。本当に「ため息」しか出ない。それにしても、山岸しづえの路地の背中。あの撮り方を教えて頂きたい。
例えば照明の光源を考えただけで訳が判らなくなる。フィルムの感光のさせ方にしても、門の鉄の造作とか、とんでもない部分の反射を利用している。そして最後の「傘」。加東大介に渡したあの「傘」。私はここで、山中貞雄はD・W・グリフィスと近しい関係にある作家だと断言するフリをする。

「心理的ほんとうらしさ」」のカケラもない。
同軸線上の引きのカットの数々。だが小津安二郎のそれとは明らかに違う。もっと早い。
「厚化粧したレディ」(1912)の、D・W・グリフィス的な同じ構図の数々。だが、すべてが同じではない。
冒頭の路地も、時刻によって影の落ち方が違う。当然なのだが、しかし「当然」とは何か。
ちなみに雨の縁日の第一ショット、神社の門柱をまるで「ワイドスクリーン」のように切り取って撮っている。多分何の関係もないと思うが、私はホウ・シャオシエン
「風櫃の少年」の、映画館があると騙され登ったビルの壁の「ワイドスクリーン」であって欲しいと密かに願う。

明日はおそらくホウ・シャオシエンを見に行くだろう。だがひょっとすると山中貞雄を見てしまうかも知れない。

4月13日(金曜日)
昨日は、キアロスタミの
「クローズ・アップ」に泣く。
本日は、見るべきではなかったTBSの、「選挙の開票時間が短縮されました」とかいう、愚にもつかない馬鹿馬鹿しい特集を見てしまい、では、何が「愚にもつかない」かと言えば、選挙とは「イベント」であり、いい加減な人間と言うものは、「イベント」向けのパフォーマンスしか出来ないのを常とすることは、人類普遍の歴史が露呈しているにも関わらず、問題なのは、人様にも、誰様にも、見てもらえない、日常生活における些細な誠実さを露呈させる困難さにおいての戦いではなく、「選挙」などという、バカでも注目されるイベントにおける「頑張り」などという、くだらないものを、相も変わらず、まるで「子供ドミノ倒し大会」と同じような無神経さにおいて賞賛できる、TBSという営利団体の「体質」なのである。つくづく軽蔑する。

4月12日
シネモンドで
「ニキフォル」と「夢十夜」を見た後、泣きそうな顔で家路に着く。
ちなみにこの「泣きそうな顔」というのは「泣きはらした顔」ではなく「泣くに泣けない」という顔。「泣きを見た」でもよい。笑、、

余りにも貧しい。「夢十夜」の場合、「現実」であれ「夢」であれ、映画は映画である、という簡単なことが、判っていない。すぐにテーマに流され「意味なき意味」につられてしまう。

そもそも「夢」を映画にするなどという危険な仕事は、仮に私なら、そうそう簡単には引き受けはしないだろう。馬脚を現す危険に満ちているからだ。下手なものを出したならば、一発で才能のないことがバレてしまう。
「夢」というものは、それだけ危険なテーマである、というのが私の認識である。。

「裏窓」を撮れる人間は人類史上たった一人しかいない。アルフレッド・ヒッチコックという巨人だけだ。そもそもまともな神経を持ち合わせた人間ならば、決して「裏窓」などというテーマには手を出さないだろう。何故ならば、あんなものが「映画」になる訳がないからである。どこをどうすれば、ただ覗くだけの映画が「映画」になるというのだ。撮れる訳がない。それを「映画」にしてしまったヒッチコックの狂気の天才についてはここではひとまず置くとして、しかし、それと同じような意味合いにおいて、「夢を撮れ」と言われた時に、彼らは、これがほんとうに「映画になる」と思ったのだろうか。そうした点に、私としては興味がある。繰り返すが、私なら、この仕事を引き受ける「勇気」はない。

4月11日
コンピューター疲れに襲われ、しばらく日記を休む。
さて、シネコンは、黒沢清の、縦から見ても、横から見ても、斜めから見ても、思い切ってハスに構えて見ても、どう見たところで「傑作」以外の何物でもない「叫」を早々に打ち切ってその体験を我々に独り占めさせてくれたかと思えば、映画にもなんにもならない「ブラッド・ダイヤモンド」だの、ワーストテンに入れることすら馬鹿馬鹿しくなる「ホリデイ」だの、眼を閉じても物語が「聞こえて」しまう「蟲師」だのと言った作品に力を注ぎ、いよいよ「シネコンらしく」なって来ている。
ラジー賞総なめの「氷の微笑2」の方が、よっぽど「映画」になっていることに、いとも簡単に気付き勝ち誇るメディアは存在しないのか。

そんな中で先週末から本日に掛けて、10本以上の映画をたっぷりと見てニコニコの私だが、その中でも泣いたのは、やっと手に入れたジャン・ルノワール「自由への闘い」(1944)であり、物凄かったのは、見逃していたことを心から恥ずべきと猛省しているホウ・シャオシエン「憂鬱な楽園」である。心から反省している。笑いたくなるほどの傑作である。
aiicinemaの解説には「肩の力を抜いた作品」とか書かれているが、この映画の照明の、光の、いったい何処が「肩の力を抜いて」いるのだろうか。全ての画面に「光の命」が賭けてあるではないか!、、と怒ったフリをしながら、だかしかし、命を賭けたものを「肩の力が抜けた」ように見せてしまうホウ・シャオシエンは凄いのだと、誇らしく思ったりもする。今度、シネモンドで「ホウ・シャオシエン祭」がある。「百年恋歌」を始めとして、思い切り楽しめるだろう。

ちなみに本日は「二番館」を書き上げる。

最近、私の友人たちの多くは、「映画を語る」行為から遠く離れた地点で、忍耐と幸福との弁証法に誠実に身を任せているが、私としては、書いて欲しい。

4月6日
昨日の補足だが、松本俊夫は映画作家であり、批評家である。何故氏の書いたものが面白いかと言えば、それは取りも直さず、氏が、映画というメディアそのものの内側から映画を思考しているからに他ならない。そうした思考は当然ながら、「映画を守る」という態度からのみ導かれるものであって、つまりこれもまた、私が「心理的ほんとうらしさと映画史」で書いた態度と同じである。そして当然ながら氏は、孤立するわけだ。

夜、シネフィル・イマジカ直輸入ベストワン、ミヒャエル・ハネケ「コード・アンノウン」(2000)を見るが、相変わらずの下品さにまたしても苦笑い。アホか、、と私的に呟きながら、このままでは眠れないと、即座に増村保造「刺青」(1966)を見て、それなりに落ち着きを取り戻す。

4月5日
シネモンドで塚本晋也「悪夢探偵」(2006)を見る。この人は、あと30年位しないと「一見ステレオタイプの美」は撮らんだろう。我慢比べだ。

先日入手した松本俊夫の「表現の世界」の復刻版を読み終える。所謂「蓮實重彦以前」の批評家であるが、現在でも通用する、どころか、新しくすらある。お勧めである。逆に言うなら、一部のまっとうな批評家を除いて、批評界全体は「退化」している。映画ファンでも、この本に書いてあることの趣旨くらいは平然と言ってのけるくらいでなければだめではないのか。もうテレビだの映画雑誌だの週刊誌だののお抱え批評家は「全部ダメ」と言い切ってしまって良いのだから、あとは我々が自分の目で見て、自分で批評家を探す時代なのだ。

4月4日
日活ロマンポルノ、田中登
「色情めす市場」(1974)を見る。一部の照明の問題(露出アンダー、ハレーション等)あるものの、それを生のパワーですっ飛ばしている。芹明香は最初から最後まで同じワンピースただ一着を、まるで「勝負服」というのか、「制服」のような厳粛さにおいてひたすら着続けている。今の、鼻から抜け声女優のつまらなさがひたすら際立ってしまうこの「大阪女」の、韻文と散文との見事な戯れである。今月の「衛星劇場」で放映中なので、絶対見逃さないように。ちなみに本日はアンドレ・バザンが良く例に出していたルネ・クレマンの「しのび逢い」がBSで放映されたが、みなさんは録画されただろうか。もっと早く言っておくべきだったが、、、と言うわけで、今月WOWWOWのサミュエル・フラー三本は絶対に録画すべし。
衛星劇場では「愛妻物語」、「0課の女」など、あと「GONIN」もオススメ。勿論成瀬巳喜男のサイレントや「金色夜叉」も。

4月2日
シネモンドでノア・バームバック
「イカとクジラ」(2005)を見る。この監督さんについては本日始めて知ったと言う不勉強さを告白しながら、その軽快な才能を存分に楽しめた。「傑作」なるものではないが、「出来ないことをしない」という映画感覚が実に嬉しく、散文的に出来事を羅列したような感覚が、極めて倫理的で「知っている、、」という感じだ。この「左翼系インテリ夫婦」の人物描写が実に面白い。物凄い「黒」が出ていて、、とかいう凄い画面などでは全然ないが、照明にしても実は悪くはなく、切返しが多い割には画面は停滞を免れていて、気持ちよく進んでくれる。おそらく「構図」が良いのだと思う。「視点」が的確、というのか。何となくフランス風の感じがあって、序盤、ある画面処理を見て「うっ、トリュフォーだ」と思ったのだが、その直後に「野生の少年」という言葉が出て来て、「ほらぁ〜」とばかりに周囲を見回したが誰もいなかった。ここは田舎であることを忘れていた。、、、、(多少の脚色が入っていることは大目に見て頂けるだろう)

映画研究塾創設当時に比べて、どうも最近は「怒ること」から遠ざかりつつある自分がいて怖ろしい。最近の「日記」を見直して、全然迫力がないことを大いに自省する。矢張りそれではダメなので、兎に角この「日記」の中だけは、これからも怒って行きたいのであしからず。何かあったら「日記だから、、、」で逃げる予定。「他人の日記を読む方が悪い」とか言って。

4月1日
わたしは「エイプリルフール」なるものは嫌いなので、「真実」と思しきものを今日もまた書き綴る。
昨日の続きだが、重要点なので私はしつこく書いて行くが、結局のところ宮崎駿は、@シナリオではなく絵
(断片)から入るA大人は論理的に読もうとするが、子供は論理で読むのではなく、ちゃんと見ているB辻褄の合った判り易い映画ほどつまらないものはない。だから私は論理を無理矢理ぶち壊すようにしている。大きく要約すると、だいたいこのような三点になる。

つまりこれは、私が「心理的ほんとうらしさと映画史」で書いたことと同じである。あの論文は私の生命線なので、是非一度読んで欲しい。逆に言うならば、あの論文に何も感じない方は、当サイトを見ても何の意味もないので、お引取り願いたい。

「サイトの趣旨」でも書いたが、作り手が「敢えて」やっていることを、見ているものがそれに気付かず「失敗している」と判断することほどつまらないものはない。「関係」を築けない批評ほど、無意味なものはないのである。もちろんそれは、私自身にも日常的に起こり得る過ちなので、常に努力しそれを理解できるような「眼」を我々は見につけなければならないのであるが、しかしつくづく馬鹿馬鹿しいと感じるのは、例えば宮崎駿の場合、画面を見ていれば、明らかに、宮崎駿が、意図的に、「論理」を求めていないことが判る筈でありながら、宮崎駿の、特に最近の映画が「論理的でない」という理由で否定されるケースが非常に多いという点である。

先日、シネモンドで「ロバと王女」を見ていた時、幼い子供に一生懸命字幕を読んで聞かせている母親がいた。「映画館で声を出して字幕を読む」ことが他人様の騒音につながるという、バカでも判る簡単なことが判らないその母親の幼児性より以上に問題なのは、せっかく子供が映画を「見よう、見よう」としているところへ、親たちが必死になって「読ませよう、読ませよう」と邪魔をしている点にある。ここにこそ、この母親の行為の異常性が見出されるのである。さらに言うならば、この母の行為が「異常」であると直感し得ない我々の映像文化こそが、「異常」なのである。